2018年12月13日木曜日

山中氏を尋ねて(3)

人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊です。(マタイ10・19〜20)

 なお、この『神社参拝拒否事件記録 復刻版』には、美濃ミッションの関係者として、虚偽の情報で、警察につかまり、取り調べを受けたときの山中氏の陳述書(?)も載っていた。文章全体はもっと長いのだが、最後の要点だけを転写する。


  一、余は旧新約聖書に基づくキリスト教を信ずる者なり
 二、余は神社を宗教なりと認む
 三、余はキリスト教の立場より神社に参拝せず

 1933年(昭和8年)8月22日 
    京都市上京区下立売日暮東入浮田町603番地 山中為三

 極めてリアルな陳述書である。我が身に照らし合わせて、私にこれほどはっきりとした陳述ができるのか、と思わされた。私たちは一地点に居を構え、一地点で主なる神を拝する者でそれ以外の何者でもあり得ない。

 この山中為三氏について『世界平和人物大事典』なる本がある。この本も国会図書館に備えてあった。そこからの書き写しを以下に紹介する。

1905〜?(明治38〜?)
キリスト者。京都生まれ。同志社大学在学中に無教会主義のプリマス・ブレズレンの伝道師に学び受洗。同志社大学神学部に進んだが中退し、ホーリネス教会の聖書学院に学んで伝道師となり、日本聖書学校の講師を経て美濃ミッションの聖書学校校長となった。1938年校長を辞任し40年まで渡米。帰国後東京でプリマス・ブレズレンの伝道を行ない、神社崇拝や宮城遥拝を偶像崇拝として拒否したため42年に検挙、獄中で病を得て出所した。戦後も伝道師として活動を続けた。著訳書『神の黙示たる聖書』(編、1931)、ウィリアム・エバンズ『聖書の重要教理』(共訳、1955)

 この短い評伝は山中氏の戦前の姿、40歳までの姿を描いて余りある。ただしこの叙述には1933年の美濃ミッションの神社参拝拒否事件で当事者として強く関わったことは省略されている。彼は美濃ミッションの設立認可のために文部省にまで足を運んでいるのに。その彼が1938年美濃ミッションの聖書学校校長を辞任し渡米、1940年帰国する。渡米の目的は何であったのだろうか。その上、帰国後、大垣でなく、東京で活動し、治安維持法違反で検束されているのだ。

 しかし、それに比べると、戦後いったい何年生きられたか、どこでどのように活動して、いつ召されたのか、これ以上知る由はない。何名か、交際のあった方々は今もご存命であろうと思う。その方々にお話をお聞きしたい思いもなくはない。しかし、それを知って何になろう。キリスト者として最後まで全うされたことは間違いない。その戦後の姿を再び「死と死後の問題」という座談会に参加して発言されているものの記録(雑誌「いのちのことば」1962年3月号所収)がある。明日はそのことを紹介しよう。

2 件のコメント:

  1. 山中は各地で「キリスト信徒の集会」を戦後直後から開き、今も集会があります。85年にサンフランシスコで逝去。

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  2. 山中兄のことを教えてくださり、ありがとうございました。もしよろしかったら、さらにお教えください。

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