2025年7月14日月曜日

ハンゲショウの花

妻発す ハンゲショウ 我れ口ずさむ 2025.6.29
 面白い草花の名前である。まわり一面、葦が生い茂っている一角に、この草花が白く点々と広がっていた。ダメ元と思い、思わず、何の花?と妻に問うたら、「ハンゲショウ」という草花名が即座に帰って来た。記憶のままならぬ妻が時折、本人も無意識のうちに発する名辞の一つだった。その名前の由来は「半化粧」にあると教えてくれた。嬉しくなり、我が口の端にも思わず「ハンゲショウ」と上せてみた。

 今も咲いている。ある時、そのあたりを再度見てみたら、その折には気づかなかった、木標が立てかけてあり、はっきり「ハンゲショウ」と墨字で記されていた。その時、思い出した。そうだ、この湿地の植生をくわしく観察しながら、その生態を明らかにしていた職場の同僚がいた、と。彼は生物の先生であった。五十年前のことである。その頃から彼はすでに生態系の変化に注意しながら観察を続けていたのであろう。

 昨今の温暖化のもたらす気候の変動、果ては住宅地まで山から降りてくる熊の出没が連日のように報道される現在、古利根川の川縁がいつまでも健在でいてくれと願わずにいられない。そう言えば、昨日の写真には載せなかったが、下の二枚も今夏覚えたカルガモの姿の一つである。

目を凝らし 鴨の車列 見る幸よ 2025.7.7
 六、七羽の鴨がまるで貨物列車の連結車両よろしく、あるいはボートに群がる人々の姿のように、川中を全速力で駆け抜けて行った。残念ながら土手からは大分離れているのでその詳細はうかがうことはできなかったが、この一団を見ることができたのは幸いであった。

相見互う カルガモ二羽 何語らう 2025.6.24
 実はこの水田にはもう一羽がいた。画面右奥にその姿が映っている。その一羽はさぞ寂しかろうと同情する。以後、この水田には二羽の鴨が時折姿を見せる。昨日のカルガモの姿は二羽のうち、その水田から画面手前の側溝に上がっていた二羽のうちの一羽を辛うじてとらえたものだが、姿からして画面左側のカルガモだと思われる。

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。(新約聖書 ローマ8:22〜25)

2025年7月13日日曜日

運のいい「チェーン錠」

二年越しのカルガモ君 2025.7.7(※)
 このところ、ブログからすっかり遠ざかってしまった。この間、何も思わなかった訳ではない。ただブログ作成は所詮己が存在の誇示に過ぎないのではないかと思うと、嫌になった。「世の動き」を見ていると、あれやこれや言いたくなるが、それも億劫でしょうがなくなってしまっていた。

 そんな私が筆を取ったのは、他でもない、「運のいい」チェーン錠に再び出会うことになったからである。6月11日に「妻の失くした『チェーン』に寄せて」という題で投稿したばかりだが、またしても、妻がチェーン錠を失くした。どこでどうなったか覚えがないと言う(これも短期記憶ができない彼女にとってはやむを得ないことなのだが)。前回とほぼ同じシチュエーションだった。礼拝を終えて二人で自転車で帰って来たが、玄関についても中々家の中に入って来ない。どうしたのかと思ったら「チェーン(錠)」がないと悄(しょ)げているのだ。

 またかと思いながら、やむを得ず、今回は私一人で帰り道をたどりながら探した。元々、帰り道は私の用事に妻までも付き合わせた負い目も私にはあった。しかもインクカートリッジを求めて、文房具店二軒(駅の東口のペンヤというお店と地下道を潜り抜けての駅西口の光文堂というディスカウントストア)を訪ねたが、どちらの店も日曜日ゆえに開いていず、結局足を棒に振るばかりで、ついていないことこの上もなかった。その上での「チェーン(錠)」紛失である。

 チェーン錠は図書館の駐車場で外して、家まで乗って来たのだから、その間のどこかにあるはずだ。妻は前回もそうだったが、「誰かが外して、それだから無いのではないか」と言う。もとより、そんなはずはない。どこでどうなったかわからないのだから、どうせ見つからないだろう。その場合は100円ショップで買い求めてやろうと、覚悟を決め、暑い盛りではあったが、図書館まで戻り駐車したあたりを念入りに探したが、果たして、「チェーン(錠)」はなかった。やはり無理だわいという思いに支配されていた。

 ところが、何と図書館から次の訪問先であるペンヤさん(あいにく休みのお店だったが)に向かったところ、お店の前の道路の真ん中に堂々と「チェーン(錠)」が「寝っ転がって」いた。まさか、こんな風にして見つかるとは我ながら不思議な思いがした。もはやわざわざ線路を踏み越えて西口の100円ショップまで行かなくっていいし、その上、最近開店したばかりのCOOPのお店が近くにあるので買い物も出来るしで、途端に心が軽く、陽気になった。その時、二度も持ち主に落とされてしまった「チェーン(錠)」が、またしても私に見つけられたことを思わずにはいられなかった。

 ああ、これぞ「運のいい」チェーン錠そのものだなあーと思い至った(持ち主の妻の不注意により落とされたのだが)。先ごろの鶴保氏の無責任な発言「運のいいことに能登地震があった」は、あまりにも当を得ていず、瞬間彼が何を言おうとしたのか理解できなかったが、こういう失くなったチェーン錠に二度まで出会えた私の経験こそ「運のいい」と言うのだと思い、改めて鶴保氏の失言の重さを噛みしめざるを得なかった。それにしても政治家がいつの間に、こんなふうに劣化してしまったのか悲しい。他者の痛みに対する想像力がまったく欠けている政治家があまりにも多いのではないだろうか。

 もっとも、主なる神様は、たとえその時は自分にとっては運が悪く思えても、そうとは限らないともおっしゃっている。運・不運に関する人間の価値観を越えた、主なる神様の深い愛(人のわがままな罪を赦すために、その身代わりとしてご自身を十字架に架け、父なる神様の命に従って、罰せられたイエス様の愛)が存在するからである。その愛を鶴保氏自身にも知っていただきたい思いがする。今回の彼の心ならぬ言葉であっても、同氏が「悔い改め」の心さえお持ちになるなら、新しく生きられる、それこそ「運のいい」希望の道は用意されていると思うからである。

 さて、件のチェーン錠は、夜のお惣菜の買い物をしてから帰ったので、都合一時間は経ったであろうか、家に帰るや、びっくりさせてやろうと思い、お惣菜の買い物袋の下に密かに忍ばせていたが、今や妻はチェーン錠のことはすっかり忘れていた。やむを得ず、件のチェーン錠の発見の委細を説明せざるを得なかった。妻は「奇跡だね」と喜んだ。二度までも路上に置き去りにされたチェーン錠ではあったが、路上で取り上げる際に感じた、「運のいい」チエーン錠だなという思いは、今度こそこちらの不注意で失くしませんようにという思いに変えられた。妻の同伴者である夫としても今後は十分注意していきたいものだ。

※今年も散歩のたびにカルガモ君の動向に注意しているが、昨年の今頃は水田を利用して子育てをしている様をゆっくり観察したが、今年は水田に三羽のカルガモを時たま見かけただけで、このように水田から上がって側溝を歩いているカルガモ二羽を身近に見るのは久しぶりなので撮影したが、こちらの行動に危険を感じたのであろう、一羽はあらぬ方向に直ぐ飛んでいってしまい、見失ってしまった。一時、橋の下が子育ての場所かと思ったが、そうでもなさそうだ。

主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。ーー主の御告げ。ーー天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(旧約聖書 イザヤ書55:6〜9)