今年も鴨家族の姿を観察できるのだと思うと嬉しくなった。ちなみに昨年のブログはどうだったのかと検索してみたら、次のようであった。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/06/blog-post.html
昨年は私にとって初めての体験であったから、興奮気味の文章を綴っているのが、何となく伝わってきた。あれから一年経つのだと思うのはやはり何となく寂しいし、辛い。自分はどこに座標軸を置いて生きているのだろうかと、改めて時の迫るのを覚えさせられるからである。
けれども昨日はもう一つ嬉しいことがあった。それはKご婦人のオカリナ演奏のCDをYさんを介していただいたからである。昼間の礼拝の後にいただいたのだが、私はあまり関心を示さず、うっちゃっておいた。これも私のどうしようもない生まれながらの性質ではある。しかし、その後、Yさんから、なぜKさんがこのようなCDを私たちにくださったのかを、メールで知らされ、襟を正され、妻と二人で聞いた。
全部で67曲のオカリナによる演奏であった。聖歌、讃美歌、日々の歌、童謡、ショパンの別れの曲などが入り混じって次々と演奏されていた。Kさんは左親指が不自由だそうだ。そんなこととは想像もできない。試練の中でオカリナ演奏は、主イエス様への問いかけ、祈りの時ではなかったかとYさんは書き寄越して来てくださっていた。まさにその通りだと思わずにおれなかった。
その上、妻がこのオカリナ演奏を喜び、それぞれの曲目に私以上に歌詞を、全部ではないが、すらすらつけて歌っていることにびっくりさせられた。このまま回復するのじゃないかと錯覚させられるほどだった。「音楽」と「美術」は彼女の昔取った趣味の杵柄(きねづか)だのに、絵はここ数年とんと描かなくなった。しかし、歌は今も歌うが、このKさんのオカリナ演奏を通して伝わって来る息遣いは、私たち夫婦の魂を揺さぶるのに十分だった。
こうして、昨日は、私も遅ればせながら、そういう生き方、Kご婦人のような生き方ができればと思わされる、「水無月」の始まりの日となった。
神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(旧約聖書 創世記2章7節)
<読者の皆さんへのお勧め>
返信削除必ず写真の力作が添えられています。そのまま見過ごしていませんか?
ぜひクリックして元の大きさにしてみましょう。例えば、今日の写真、水無月に相応しく、波紋の美しさ、バックの植えられたばかりの稲田の様子、1枚の写真からいろいろの情報が得られます。芸術的とも言えます。
今の携帯のカメラ、恐るべしです。
(という私、写真はカメラで派、携帯はほぼ連絡手段のみです)
一枚の写真は見る人によって随分と世界が広がるんですね。当てずっぽうに撮ったに過ぎない写真にこのようなコメントをいただくとは大変恐縮しております。今頃、二羽のつがいの鴨も、どこかで知って晴れがましく思っていることでしょう。
返信削除いえ、この写真のみの感想を書いたものではありません。
削除写真→本文 と行きがちですが、写真をクリックすると随分印象が変わります。添え物?に過ぎない1枚の写真が、大きくして見ることにより、作者の言わんとすることが伝わってくるように思うのです。なんでしたら、遡って以前の写真を大きくして見ること、をお勧めします。
なるほど、ですね。彦根城の写真、大きくして見てみました。画面右側の「いろは松」とおりは画面左側に位置する私の高校への通学道路でもありました。我ながら懐かしく振り返りました。なお、右鍵の手になっている一角は、それこそ井伊直弼の「埋木舎」のあるところで、十四男として捨て扶持として生涯を終えるところでした。6月3日の「夜ふけの川辺に」はヤコブの経験をベースに歌い上げている、生ける神様の前に罪人でしかない私に身近な歌ですが、ヤコブは一晩中神様と闘い格闘したその場所を「ぺヌエル(私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた)」と呼びました。一方直弼は不遇時代過ごしたその舎を「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けました。私としてはそのことを意識して載せた写真です。
削除このコメントは投稿者によって削除されました。
返信削除