月曜日の夜、iPhoneが急に使えなくなった(※)。そのため、昨日木曜日の昼過ぎまでの都合二日間ではあったが、iPhoneなしの生活を余儀なくされた。言うまでもなく、日々の生活でいかに自分がiPhoneあっての生活を送っているか示された。
原因は今もって分からないのだが、何しろ電源に繋いでも、うんともすんとも反応しなくなったのだ。ネットで対処法を調べ、それでも解決せず、いつも相談する三男に助けを呼び求めたが、解決できず、週末に直に見てみようとの返事をもらった。
しかし、この先、三男が来るまで、まだ金、土と二日間も我慢しなければならないのか。それに復旧が保証されているわけではない。回復しない場合の修理費用は62,545円だとメーカー側のホームページで知り、それを思っては前途暗澹たる思いであった。
不便なのは一切iPhoneを通しての携帯電話の送受信ができなくなったことだった。また普段の生活では手首にApple Watchを装着していて、一切の通信は電話、メールなど即時に受けて行動している。朝起きてから寝るまでの、時とすると睡眠中もiPhoneとApple Watchのお世話になっている。その肝心のApple WatchもiPhoneがダメになれば、一切機能しなくなる。これには参った。
もちろん、逆にそのようなネット環境に左右されず、静謐な自分の時間を持てる。日頃の自分がいかに様々なネット情報の洪水にさらされながら生きているかを実感させられた。
私は決して新しもの好きではないが、振り返ってみると、これまで様々な情報機器の最先端の成果を享受して来たことに気づかされる。高校時代にはソニーのオープンリールの録音機を使っていたし、社会人になってからはやはりソニーのハンディーな録音機、ポケットに忍ばせることの可能な小型の録音機(カセットレコーダー、当時「宇宙船アポロが搭載した?」とか言っていた)、2003年に定年退職してからは、「iPhone」を駆使するようになった。
2010年だったか、ドイツ旅行で親しくなった方の経堂(きょうどう)にあったご自宅を訪問するため、iPhoneのGPS機能を利用して、その方の自宅まで一切どなたの説明も聞かないでiPhoneを使って電撃(?)訪問して、一人悦にいっていたこともあった。
ましてやその頃電車内では「ガラ携」こそ行き渡っていたが、iPhoneを操作している乗客は車両内で、私をふくめて二、三名いるかいないかの状態であった。電車内で様々な情報を選択し、ある時などは、スポルジョンの『M&E』という英文アプリを開き、窮地に陥っていた私に上よりの多大なる励まし「"Help, Lord." Psalm12:1」をいただいたこともある。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2019/06/help-lord.html
そのように私の生活にはiPhoneは欠かせない機器である。今回困ったことの一つには毎日通読を続けているyou versionというアプリの1日の聖書個所が一切判らなくなったことだった。外へ出たは出たで、やっと田んぼに水が張られて、田植えが始まろうとしている景色をキャッチしたくもiPhoneなしでは、写真が撮れないことだ。
第一、このブログそのものの文頭を飾る写真は、iPhoneを通しての賜物である。長距離の電車を乗り継いで行くのも、iPhoneあっての物種であることも思い出す。今回の変事は私にとって様々なことを省みる良い機会となった。
ただ、不思議なことに、昨日の木曜日長女が庭木の剪定に来ることになっていたが、朝の食事の祈りの時に私は長女が無事にこちらに来れるようにと祈ると同時に、iPhoneの復旧についても短く祈っていたことを今もって思い出す。
主よ。お救いください。(旧約聖書 詩篇12篇1節)
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