水田の江州路 画面奥に安土セミナリヨ(6月1日) |
主よ、お助けください。(詩篇12:1)※
この祈りはすばらしい。それは短いが適切であり、寸鉄人を殺すの味を持ち、かつ暗示的であるからである。ダビデは忠実な部下が少ないのを嘆き、願いのうちに心を天に向けた。被造物が頼みがいのないのを見て、彼は造り主のもとに走った。彼は明らかに自らの弱きをおぼえた。しかし同時に、真理のために心から自分の力を尽くさんとした。なぜなら自ら何もせずに助けを求むることはあり得ないからである。この短い祈りは単刀直入であり、極めて明確である。ある信者たちの長々しい祈りにはるかにまさる。詩篇記者は熟考せる祈りを携えて一途に神のみもとに行った。彼は何を求め、またどこに求むべきかを知っていた。
主よ、同じように祝された方法をもって祈ることを教えたまえ。この祈りの用いられる場合は極めて多い。摂理により苦難をうけ、疲れし信者が他のすべての助け手に裏切られた時の祈りとして、これは最も適当である。教理の困難に会う学生は、偉大な教師である聖霊に「主よ、お助けください」と叫んでしばしば助けを得ることがある。内なる戦いにある信仰の戦士が御座に向かって助けを求めるのに、この祈りは模範となる。主のわざに従う働き人は、この祈りにより機に適う恵みを得る。疑いつつ驚きつつ神を探求する罪人も、この力ある願いをなすことができる。事実この祈りは、すべての場合とすべての時、またすべての場所において、貧しい魂の転換点となり得る。私たちが生ける間も死の時にも、苦しみの時また働く時にも、この祈りは私たちに適う。私たちの助けは主の中に見いだされる。それゆえ主に向かって、叫ぶことを怠らないようにしようではないか。
祈りがイエスを通して誠実に捧げられるならば、必ず応答がある。主の御人格を見るとき、私たちは決してその民を見捨てられないことを確信する。父また夫としての主と私たちの関係は、確実な彼の助けを私たちに保証する。イエスを私たちに与えられたことは、すべてのよき賜物を私たちに与えるとの誓いのしるしである。「恐れてはならない。わたしはあなたを助ける」(イザヤ41:13)との確実な御約束は変わらぬ。
※昨年、私はこの日の朝、孤独であった。目的地に向かう車中でも不安と恐れに襲われていた。そのとき、英文サイトの「朝ごとに」のアプリを開いた。”Help, Lord.”Psalm 12:1というアルファベット文字が飛び込んできた。まさに絶体絶命のピンチに立たされた私にとりまさにうってつけの御言葉であった。ポケット聖書を取り出して詩篇12篇全節を確かめた。ひとつひとつの御言葉は天啓の感さえあった。この日の車中での出来事は忘れられない。(本日の引用は『朝ごとに』1959年版いのちのことば社編集部訳 6月17日からである。)
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