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2026年1月7日水曜日

一枚の年賀状の示す真実

by k.yoshioka
 年賀状は今や流行(はや)らない。しかし、年賀状はやはり捨てがたい。一年に一回、その人の存在に触れることができるし、ある場合にはその人が今考えていることに直(じか)に触れることができる。だから、この形のやり取りは今後も続けることになるだろう。

 さて、昨年末、2025年の古利根川の散歩納めを記念する思いで、土手を歩いていた。その歩き慣れている土手で、二、三回つまずき、ヒヤッとした記憶がある。次にはつまずくまいと思いながらも、忘れた頃にはまたつまずいている。そして大体、つまずくところはほぼ同じ場所である。だから、歩き納めの場所としてその場所を特に念入りに眺めながら歩いてみた。すると、小石が想像する以上にたくさんあることに気づいた。その中にとんがった石があり、それを避けきれずにつまずいているのである。目の前に見える道は凹凸のある歩きにくい道である。それは連綿として続く私たちの実人生の姿を象徴していると思わずにはいられなかった。

 そして、心のうちに、昨年末、示されていたみことばを想起していた。そのみことばは以下のものであった。

主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、そむく者はこれにつまずく。(旧約聖書 ホセア14:9)

 そうか、私にとって凹凸に見える道は、主いませば平らなのだ。問題は私自身が主にそむいた結果つまずくんだ。そうだ、これからはそむかないで主から我が人生を受け止め歩んでいきたいと思って、年を越した。それゆえ、新年、特に年頭にあたり示されるみことばを強いて求めなかった。

 そんな折り、一枚の年賀状に私の心の琴線がギュッと掴み取られた。今日の絵は、その年賀状に描かれていた作品であるが、次のみことばの前半部が同時に並記されてあった。

私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。 それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。(黙示録19:11)

 黙示録は新約聖書の最後、したがって旧約聖書をふくむ66巻からなる全聖書の最後に位置する書である。その書には次のみことばがある。

この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。(黙示録1:3)

まさにこの通りである。2016年に召されたベック兄はこの白い馬に乗られたお方がイエス様であると言い、次のように言っておられる(※)。

最初に地上に来られた時、イエス様は、人の姿をとってへりくだって来られました。しかし、再び来られる時には、栄光につつまれて来られます。かつてはみどりごとして来られましたが、再び来られる時には、馬に乗って来られます。かつては貧しい人の姿で来られましたが、富と栄光に満ちた方として来られます。また、かつては罪をになう犠牲の小羊として来られましたが、罪のさばき主として、獅子のように来られます。かつてはほふり場に引かれて行く小羊として来られましたが、再び来られるときには、勝利者として、また権威あるお方として来られます。(『すぐに起こるはずのこと』第4巻145頁)

 今年も幕開けから、大変な事態(無法、地震)が次から次へと起こっている。目の前の事象に振り回されず、素直に白い馬に乗り再臨されるお方に従う一日一日でありたいと思う。今日読んだみことばに次の聖句があった。つまずかない秘訣は白い馬に乗られる方に従うか従わないかにあると友の年賀状を通して思い定めた。

※https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2016/08/blog-post_23.html

私は、口のあやまちをしまいと心がけました。人としての行ないについては、あなたのくちびるのことばによりました。私は無法な者の道を避けました。私の歩みは、あなたの道を堅く守り、私の足はよろけませんでした。(旧約聖書 詩篇17篇3〜4節)

2025年9月23日火曜日

I was born

 昨日は思い切って外出しました。ずっと家に引きこもりがちだった者にも(散歩を除いては)、秋風が、誘い水になりました。昔、「若者よ、書を捨て、町に出よう」と確か寺山修司だったかな、言ったという記憶があります。久しく親交のあった関西の友人が、関東へ引っ越して来て、いつでも会えると思っていたのに、10月には再び関西に戻ると風の便りに聞き、出かけました。

 その序でに妻も同道して、浦和の孫の家を訪問、午後は妻はそのまま次女の家にとどまり、私は友人と会いにバス・電車を乗り継いでスタコラ、スタコラと川越まで行って来ました。前日、1〜2時間のお交わりと約束した時は1時間が精一杯だと思っていたところ、話が弾んで二人とも時の経つのを忘れ、あっと言う間に2時間が経ち、妻のことが気がかりなので、渋々私は話を切り上げざるを得ず、再び浦和に戻り、そして春日部の家に二人して帰って来ました。

 友人は五年間関東に過ごしていましたが、私は彼が関東、しかも埼玉県内に来たとき非常に嬉しくなり、地続きの県内なのでいつでも会えると思っていたので、再び関西に帰ると聞いた時は泡を食ってしまいました。しかも、この間コロナ禍もあり、あっと言う間に、5年が過ぎてしまったのです。昨日の再会は、もちろん二人の間では時空の隔たりはなく、お互いに直ぐ胸襟を開いて話し合うことができました。いい秋のプレゼントをいただいた思いです。お土産に吉野弘の「I was born」「いのちは」「動詞・ぶつかる」などたくさんのお手製の作品をいただいて帰ってきました。

 「I was born」はもう一人の友人が今度京都で個展(※)を開くが、そのDMに共通する思想だと思いました。個展を開く友人は

「70年あまり自分の足で歩いてきたと思っていたけれど Be Carried いつも運んでもらっていた。生まれたときも I was born 受け身であった。 
”あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうして来たのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。”(イザヤ書46章4節)

と書きました。
※谷口幸三郎展 えをかくせいかつ Be Carried- 2025.10.3~15 CAFE GALLERY フク和ウチ 京都市東山区新門前通り大和大路東入切り通し上る西之町211番地2電話 075ー757ー7828

 私は昨日会った友人に、個展を開く友人のDMを紹介していました(もっとも、その友人も既にそのDMはもらっていたのですが・・・)。吉野弘はその「I was born」の作品の中で、彼のお父さんが、友人から蜉蝣(かげろう)の短い命とそれにもかかわらず、卵を抱える蜉蝣の雌の話を聞いて「そんなことがあってから間もなくのことだったんだよお母さんがお前を産み落としてすぐに死なれたのは。」と書いていました。

 産み落とす母の境涯も去ることながら、産み落とされたこどものその後も如何なる苦しみ悩みが訪れることでしょうか。しかし吉野弘は「I was born」と題したのです。そこには人知を越えた神様の愛があったのではないでしょうか。

 冒頭の写真は孫の家に並んでいた靴の数々でした。一人娘として小さい今からいかに愛されているかがわかると言うものです。一人っ子の私も82年前にこのような両親の愛を受けていたのだと思わざるを得ませんでした。顧みれば、主なるイエス・キリストは父なる神のひとり子でした。にもかかわらず、次のみことばどおり、私たちを愛するために敢えて私たちの罪の身代わりに十字架にかかられたのです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(新約聖書 ヨハネ3章16節)

2024年10月23日水曜日

兄弟愛の発露(下)

鷺二羽 喧嘩するなよ 魚求め 
 井波さんの葬儀に列席できるとは私は夢にも思っていませんでした。私と家内は教会の裏切り者であるし、私たちが出ることによって多大な苦労を教会の方々は経験され、あまつさえ井波兄姉にとっては私たち家族のことを思うと、心中穏やかならざる感情に支配されておられたのではないかと思います。

 しかし、神様は一人の仲介者を用意してくださったのです。それは二人をよく知っているSさんでした。前回も少し触れましたが、今から7年前、2017年の2月、突然Sさんが家のリフォームを記念して交わりを持つから、出席しないかとお誘いいただきました。その席に井波兄姉も招待されておられたのです。総計15名の出席でしたが、お互いに近況を報告し合いました。3時間弱のお交わりでした。その後、一度寿司チェーン店の駐車場ですれ違ったことがあります。後でお聞きするとその頃はご夫妻は栃木県の小山のご両親の介護に専念され、久しぶりに春日部に帰って来られた時だったようです。

 それから三年経ち、再びS兄から井波さんがご病気で入院しておられるから祈ってほしいという要請があり、私もびっくりしました。それこそ頑健そのものの兄ですから、にわかに信ずることができませんでした。その後、病状は深刻で自宅に帰られ、今は皆さんとお別れの時を静かに持っておられ、自分も行くのだと、S兄から聞かされました。それはちょうど佐久間邦雄兄を送った召天式の席でのことでした。その後、彼からお見舞いされた状況が詳しく私宛にメールで届きました。

 主にあって愛する友がまた新たに召されて行くという寂しさでした。それで、これが最後の便りになるかも知れないと思い、勇気を出してお手紙を認めました。すると手紙を受け取られた兄姉からすぐ電話がありました。「是非会いに来て欲しい」という願ってもないお返事でした。私たちは兄姉に受け入れられているという喜びのもと、10月8日(火)お見舞いに出かけることができたのです。

 お見舞いは多くを語る必要はありませんでした。兄はベッド上で笑顔と握手で迎えてくださり、「来し方を振り返りつつあり、また今天国への階段を一歩一歩踏みしめているんだ」という意味のことを言われたように思います。隣の部屋で井波姉と私たち夫婦で兄弟が葬儀で歌って欲しいと言われた新聖歌471番「われ聞けり かなたには」(※)を讃美しました。それで長居は禁物と思い、辞去しようとした時、井波姉から、「祈ってください」と乞われました。ああ、それは何という「和解」の証の言葉だったでしょうか。私は心を込めて祈りましたが、夢中でどんなことを祈ったか思い出せません。

 このお見舞いの件をリフレッシュ集会の場で報告したら、これまた参加していたS兄が端的に「これで、吉田さんと井波さんは和解できたんだ」と言われましたが、まさしくそうでした。だから私にとってその後、兄弟が10月14日(月)に召されたと、ご長男からその旨電話があった時、寂しさを禁じ得ませんでしたが、「お母さんを大切にね」という言葉が自然に口の端に上ってきた程でした。(上)の写真が示すように、私の長男は彬訓兄に抱かれていました。今、その息子と同い年で竹馬の友であったご長男から電話をいただいたのです。

 「兄弟愛の発露」と思わず、題名をつけさせていただきましたが、多くの人々の祈りと、具体的なS兄の仲介の労をとおして、彬訓兄の最晩年に互いに肝胆相照らす言葉を交わすことが出来たのです。人間の仲介により、敵味方と別れていた人同士が和解できる時があります。しかし、神様は私たち罪人の身代わりに御子イエス・キリストの命を十字架におかけになって私たちに永遠のいのちを提供してくださるのです。これこそ「和解」の大きな手立てではないでしょうか。

※1 われ聞けり「かなたには 麗しき都あり」
   輝ける彼の岸に われはまもなく着かん
   「ハレルヤ」と歌いつつ 歌いつつ 進み行かん
   わが足は弱けれど 導き給え 主よ

 2 われ聞けり「かしこには 争いも煩いも
   明日の憂いもなし」と われはまもなく着かん
   「ハレルヤ」と歌いなば 悲しみも幸とならん
   われは はや さ迷わじ 神 共にいませば

 3 われ聞けり「御冠と真白き衣をつけ 主を
   ほむる民あり」と われも共に歌わん
   「ハレルヤ」と叫びつつ 御声 聞きて喜び
   御国へと昇り行かん わが旅路 終わらば
           詩篇46:4  ヘブル11:13ー16
           黙示録22:1ー5

神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。(新約聖書 1テモテ2章5〜6節)

神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。( 新約聖書 2コリント5章19節)

2024年10月22日火曜日

兄弟愛の発露(中)

 前回述べました友人S兄の井波さんと私に対する評は当たっているのかも知れません。と言うのは、私が教会から集会に出て来た直後、Yさんという極めてガタイの大きな方で目つきの鋭い方が、同じく教会から集会に移り、喜んでおられた時ですが、私を指して「吉田さんは、教会の閻魔大王様のようだった」と笑いながら言われました。この方の井波さん評は聞きそびれましたが、これらの言こそ私が教会から集会に導かれる要因の一つでした(※1)。

 さて、34年前に、ここでは明らかにできない、よんどころのない事情によって教会を出て、集会に移ってしまった私たち夫婦にとって、今回、井波兄の葬儀に出席することは想像もできないことでした。ただ、この34年の間、今から7年前、一度だけ数名の方々と一緒に、兄姉とお交わりする機会がありましたが、それは個人的に肝胆相照らすという、交わりとまでは行きませんでした。しかも、その時以外はまったく没交渉でした。だから、「兄弟愛の発露」と題して前回お載せしました写真の物語る真実からは、井波兄姉と私たちとの関係は、いつしか遠く離れたものになっていました。それは同じく主イエス様の救いを内に体験する者にとって、どこに所属しようと関係のないことですから、私たちにとっては悲しい現実でした。それだけ、私たちが教会を出てしまった事実は、教会の人々にとっては面白くない事実であり、心のわだかまりの原因となっていたのだと思います。

 それはさておき、井波さんが今から50年前、1974年に牧師に代わりメッセージされた内容を私は良く覚えているのです。その中心テーマはピリピ書をもとにした「絶えず喜びなさい」であったと思います。兄は「救世軍」で主イエス様の救いにあずかられ、私たちより少しあと1971年に「救世軍」から教会に移って来られました。もともと行動力のある方で、極めて実践力に富むキリスト者でした。彼は、キリスト者が喜んでいなければ、いくら我はキリスト者なりと言っても通用しませんよという意味のことをよく言っていました。この彼の信仰はおそらく生涯変わらなかったと私は推測しています(※2)。

 そして、冒頭のにこやかなこの人物こそ、先週土曜日に開かれた葬儀式場で掲示されていた元気な時の彼の姿です。私たちは教会の主催される井波兄の葬儀に誰はばかることなく列席させていただくことができました。そして多くの懐かしい教会員の方々と再会できたのです。その背後には、全く没交渉であった34年にピリオドを打つべく、その最晩年に井波兄姉と共に主をあがめることができた事実があったのです。次回はそのことを中心に書かせていただきたいと思います。

※1 教会によって様々だと思いますが、私の所属していた教会は、教会員の奉仕がそれぞれたくさんありました。そのうちの一つに「受付」もあります。私は入門クラスというのを担当していましたので、よく教会の受付にもいることが多かったのですが、このYさんはいつもお子さんを日曜学校に連れて来られるので、終わりまで待っておられるのですが、玄関の扉を境として、外にYさん、内に私がいることが多かったのですが、そのYさんの目には私は「閻魔大王」に見えていたのです。要するに、この人は教会に入るにふさわしい人か、そうでないかと見張ってチェックしている人間だった、ということです。自分ではいつもYさんの救いのために祈り、柔和な表情で接しているつもりでいたのに、Yさんにはそう見えていたのだと知りショックでしたが、先頃また同じようなことを友であるS兄から言われたので、自分にはそういう面がある。ましてや神様の目にはそう見えているのだと自戒せざるを得ませんでした。でも究極的には私の体質の中に万人祭司でなく、牧師制度の頂点近くにいた人間として、主イエス様の救いを妨げていた罪があったのです。それは教会を出て初めて知った真実でした。
 私たちは「教会」を無視しているわけではありません。ただ「教会」が教える会になって人間の教え・支配が中心となってはならないとの信仰告白のもと、あえて「集会」(エクレシア)、主イエス様によって呼び集められた者の集まりという意味を込めて「集会」と言っているに過ぎないだけであって、実態は「教会」と何ら変わるところはないのですが・・・

※2 私は教会時代この「喜びなさい」というのが大の苦手でした。どちらかと言えば、「我いかに悩める者かな」と慨嘆するのが性に合っていました。しかし下記のみことばが示すようにそのことは「主にあって」「キリスト・イエスにあって」初めて可能だったと悟るようになりました。このことについて今一度井波兄と「教会」と「集会」の垣根を越えての交わりをさせていただきたいと長年思っておりました。

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(新約聖書 ピリピ4章4節)
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(新約聖書 1テサロニケ5章16〜18節)

2024年10月21日月曜日

兄弟愛の発露(上)


  往年の写真を引っ張り出してきました。私にとって忘れられない写真です。一人の男性の方の膝の上で抱っこされ、こちらを向いているのは私の長男です(※1)。私はと言えば、真ん中で腕を組んで笑いながら、じっとその所作を見ています。さらに奥には家内が生まれたばかりの赤児(次男)をこれまたにこやかに笑いながら、やはりその男性と子どもの方を見ています。1973年になったばかりの写真のように思います。

 私がこの時、持った感情は、「兄弟愛」の素晴らしさを初めて実感した時の何とも言えない感情だったと思います。人が自分の肉親を愛するのは当然ですが、他人の子どもを我が子のように愛するとしたら、それまでの私にはそれだけで考えられない世界だったのですが、それが目の前の男性のその所作に現れていたからです。一方で本来私が負わねばならない息子を、その男性にゆだねる、明け渡すということも私にとっては訓練だと思わされていました。こうして私はこの時、「兄弟愛」の実践という「学校」の入り口に立っていたのです。

 それから半世紀経ちました。その男性は去る10月14日(月)翻然と天の御国に凱旋して行かれたのです。享年83歳と2ヶ月でした。その男性とは34年前、ある事情で袂を分かたざるを得ませんでした。それはこの写真の示す真実からはまったく予期せぬ事態の出現でした。1990年5月それまで所属していた教会を私が離れ、吉祥寺キリスト集会に集うようになったからです。

 その男性とは井波彬訓兄です。彼は私より一学年上の先輩に当たり、すべての点でまさに兄と言うのにふさわしい方でした。この写真の私たち二人の服装から判断すると、二人ともネクタイを締めピシッとしていますから、日曜日の礼拝を終えて、教会内で何人かの方々と談笑している時の姿だと思います。この時、私たち家族は住まいである足利市から教会のある春日部にまで、バス・電車を乗り継いで一時間半ばかりかけて毎日曜日通っていました。

 その私は、日曜日の教会の奉仕が忙しく、夜中の零時を越えることがよくあり、足利まで帰るのに一苦労していました。その時、井波兄姉宅に泊めていただいたこともあり、その後5月にはとうとう彼らの住まいである同じ団地に引っ越して来て、ますますお互いの交流は深くなり、土曜日にはともに「武里こども会」を開き、こどもたちに福音を伝えたのでした。

 1978年には教会から牧師とともに井波兄と私の二人は派遣されて、東南アジアの宣教地視察(※2)に出かけたほどで、互いに教会と苦楽をともにして来た間柄でした。井波兄の召天を聞き、私たちをよく知っている友であるS兄は、「二人は教会内で対極に位置していた人物で、吉田さんはバリバリの教師で、言うならばパリサイ人で、井波さんはデーンとしていて、細かいことにこだわらない頼りがいのある人だった」と述懐してくれました。

※1 彼には長男と同学年の息子さんがおられたのです。その彼が息子さんがいないかのように。我が息子を抱いてくださっているのです。

※2 当時、日本福音自由教会ではシンガポールに横内宣教師、インドネシアに小川宣教師、栗原宣教師、安海宣教師たちを派遣していたのでその宣教地を実際にこの目で見て、共に現地の方と交わり祈ろうという趣旨で、ほぼ一週間かそこらの旅行だったと記憶しています。考えてみれば、この時、八潮高校の三学年の担任、学年主任でしたから、どのように公私にわたるこの激務がこなされていったか、今から振り返ると家内をはじめとする家族に様々な犠牲があったことを思います。それを決定づけるかのように1981年には私たち家族にとって忘れられないこと(田舎にいた父の痴呆症発症)が起こりましたが、その時も、陰で支えてくださったのは井波兄姉を始め教会の皆様の祈りとご奉仕でした。

見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れて、その衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。(旧約聖書 詩篇133篇)

2024年9月30日月曜日

主にあって愛する友の召天(下)


 今月も、今日で終わりです。苦しめられた長い夏の期間もやっと終わり、これが本来の秋の季節なのかと思いながらも、今度は今度でまた寒い冬に向かうのかと新たな警戒心で身構えている愚かな私です。結局、9月の投稿は近来になくわずか六通に留まりました。原因は、この9月の異常な暑さと、その中で鈍行列車による二度の故郷への往復、叔母の法事参加、友の召天などがあり、様々なことを考えさせられ、日常茶飯事の出来事を筆にするのがおっくうになったことにあります(一方で、世間を見ると、正月地震に遭い、再び度重なる豪雨の災害の中で「神も仏もない」と慨嘆された方の声の哀れさに胸が締め付けられます)。

 さて、今日の写真は8年前の2016年の2月26日(金)に撮影したものです。この時、私はALSを発症し、闘病されている山崎裕介さんをお見舞いし、お交わりするために、何回か私の友人をお誘いしては、お訪ねしておりましたが、そのうちの一枚に当たります。その時お連れした方が、今回召された方であり、にこやかに微笑んでおられる右側の佐久間邦雄兄です。

 私はこの写真の存在はもちろん覚えていました。ただ、今回佐久間さんの在りし日を記念するためのパネル作成の際に、この写真はご家族もご存知ないので、果たして採用されるだろうかと思いながら、作成の労を買って出られた方々に、恐る恐る提供したものでした。ところがこの写真は堂々とパネルに収められていました。その後、佐久間さんの奥様にお聞きしますと、この写真はご存知ないどころか、「主人が最も大切にしていた写真で、いつも飾っていたものですよ」と言われました。

 一方、私は別の用件で、「メフィボシェテ」という聖書中の気になる人物について過去にこのブログに何回か投稿した作品があるので確かめてみたいという思いに駆り立てられ、検索したところ、数編の記事の中に2016年2月28日(日)「満ち足りて」という題名で投稿している記事があることに気がつきました。そのカット写真には忘れもしない懐かしい紅梅が写っており、私の下手な俳句もどきも添えてありました。しかもそれには※がついており、事細かにその事情が述べてあったのです。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2016/02/blog-post_28.html

 当時、ALSを患っておられた山崎裕介さんが、町田の地から、新たな療養のため埼玉県の三郷の某施設に入所されたので、春日部在住の私は2015年の3月を手始めとしてほぼ1年数ヶ月の間何人かの友人を誘っては足繁く山崎さんを訪問していました。武蔵野線の三郷駅から、タクシーで行ったり、バスで行ったり、徒歩で行ったりしていましたが、1年後の2016年の2月26日に佐久間さんと一緒に行った時は、彼の健脚に信頼して徒歩で行ったのはよかったのですが、すっかり熟知しているはずの道先案内人である私が道を間違えてしまいました。三つ年上になる先輩の佐久間さんに余分な労を煩わせて、申し訳なく思ったことを思い出します。

 しかし、訪れた山崎裕介さんとの間でいただいたお交わりは恐らく佐久間さんにとっても忘れられないものだったのではないでしょうか。山崎さんの病室には確か「私たちの国籍は天にあります」と美しい字体で書かれた書が額に納められて飾られているだけでなく、町田集会の方々の集合写真が飾ってありました。見舞客である私は訪れるたびにALSの病魔に冒されて身体の自由を失っている山崎さんの言に励まされる一方でした。その日のことは上述のブログ記事に書いてある通りです。

 その後、山崎さんは2017年10月に召されました。そして7年後の2024年9月18日に佐久間さんが召されたのです。恐らく山崎さんは初対面の佐久間さんのことは十分ご存知ないまま召されたのではないかと思います。ましてや、その後今から2年半前、食道癌に端を発し、喉の切開に踏み切られ、発語できず意思の疎通を奪われ、孤独のうちにも奥様、お嬢様に励まされ、主にある友の祈りに支えられ、天に召されていかれた日々の労苦と主に守られなさった祝福は知る由もなかったでしょう(「召天の集い」の翌々日、奥様に2016年2月28日のブログ記事をお読みしてあげたら、主人の病床にある毎日もこの山崎さんと同じような性質のものであったと述懐されていました。)。しかし、今やお二人は居を天の御国に移して主イエス様とともにたくさんの先に召された友とともに交わっておられるのではないでしょうか。

 佐久間さんの「召天の集い」が25日の午前中に終わり、午後の火葬の間の待ち時間の間に私は佐久間さんの妹さんやその甥御さんたちと親しい御交わりをいただきました。その時、妹さんの話っぷりが、邦雄兄とよく似ておられ、改めて兄妹間の愛情の深さを覚えさせられました。その時、日野から足を運ばれた今63歳になる甥御さんは「おじさんには可愛がってもらった、何しろ私は5歳でしたからね」と新潟・新発田時代の佐久間さんの人となりを懐かしんで涙ぐんでおられました。お聞きするところによりますと、兄の故郷である新潟でのイエス様をご紹介する集いには、ご親族が何度か足を運ばれたそうです。ご家族、親族にはこれに限らず、尽きせぬ思い出がたくさんあることでしょう。

 また、この他、ここでは記せなかったご近所の方や、職場の方とも親しい交わりを持たれたことでしょう。一時期仕事のためタイに赴任され、現地の方との会話も不自由の中にもその生活が守られ、無事帰国し余生を過ごされました。今回の稀に見る闘病の生活も、ご家族の献身的な看病やお医者様など医療に従事される方の愛に支えられました(※)。その根底には、佐久間邦雄兄に不治の病に立ち向かう勇気を与えられた主イエス様の愛があったのではないでしょうか。多くの主にある兄弟姉妹の祈りに支えられた佐久間邦雄兄が天の御国に凱旋されたことを、主にある友として感謝をもってここにご報告せていただきます。とともに残されたご遺族のために、引き続きお祈りをよろしくお願いします。

※作家の大崎善生さんは佐久間邦雄兄とほぼ同時期に発病され、一足早く8月に亡くなられました。大崎さんは藤井聡太さんの王位就任に対して祝辞挨拶を奥様の代読でされました。その文章が東京新聞の昨年末に掲載されました。私はこの記事を読みながら佐久間邦雄兄の闘病、またご家族のご苦労が如何ばかりであるかを思うておりました。参考までにそのサイトを以下に示します。https://www.tokyo-np.co.jp/article/288793/1 この挨拶中で語られた「Mastery for service」という関西学院の建学精神は、まさにキリストに端を発するものだと確信しております。

そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る。(旧約聖書 イザヤ書35章8〜10節)

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分をお与えになりました。これが時至ってなされた証(イエス様の十字架上での死と三日後の復活・よみがえり)なのです。(新約聖書 1テモテ2章4、6節)

2024年9月26日木曜日

主にあって愛する友の召天(中)


 久方ぶりに、白鷺の群れを見つけました。依然としてセミの声がかすかに聞こえてきます。暑かった今年の夏はまだ決して終わらないよ、と言わんばかりに。けれどもこの白鷺を見ていると、やはり秋は訪れて来たのかな、と思わされております。

 昨日は敬愛する友の召天の集いが持たれました。ご親族の方、ご近所の方、かつての職場の方、キリスト集会の方それぞれが集まられました。集いの中で次々と登壇(?)される方が、友のありし日のわざを通して励まされてきた次第を語られました。私はそれを聞きながら、何と友は皆さんに愛されたお方であったのかと思わされました。

 私もそのうちの一人として話させていただきましたが、私にとって最大の思い出は静かに召されていった友を交えて祈り、賛美し、みことばを拝読したその時の雰囲気でした。そこには少なくとも「泣き叫び」はありませんでした。「涙」はあったと思いますし、これからじわじわとその「悲しみ」は遺族である奥様とお嬢さんに襲ってくることだと思いますが、一方で天の御国でいずれ再会できるのだという望みがあることを確信しております。

 私は臨終の場で様々なみことばを友に良かれと思って朗読しましたが、前回も書きましたが、どうしてピリピ3章20〜21節を読んで差し上げなかったのか、友が召された夕方家に帰ってから己が不明を自らに責めていました。ところが、その夕の輪読個所の、ルカの福音書8章を読み進めるうちに、主イエス様の絶大な力と愛を改めて知って大いに慰められたのです。

 それはこういう次第です。この8章にはいろんなことが書いていますが、最終場面に書かれている一つの出来事があります。会堂管理者ヤイロの一人娘が死に瀕(ひん)してる時、ヤイロはイエス・キリストに救い(癒し)を求めてやってきて、主の前にひざまずきます。主はこのヤイロの願いに直ちに答えられ、ヤイロの家にと急行されます。しかし、その途中に別の婦人の病の癒しの求めがあり、それに応えられていたため、娘の死が間近に迫っていて、いっときも早く行って欲しいというヤイロの願いがむなしくも邪魔されます。そのうちに、家の方から連絡が入り、娘さんは死んだ、もうイエス様に来てもらう必要がないと伝わります。

 その報に接し、恐らく顔色を失ったであろうヤイロに主イエス様ははっきりと「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」と言われたのです。そしてイエス様とヤイロが家に直行すると、案の定、家には娘が亡くなっていたのです。その後がどのように書かれているのか、ルカの福音書の記事を丸写ししてみます。52節から55節にかけてのところです。

 人々はみな娘のために泣き悲しんでいた。しかしイエスは言われた。「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑っていた。しかしイエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。「子どもよ。起きなさい。」すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。・・・

 私はこのくだりを読んで大変慰められたのです。それは死者は主のことばによって生き返らされるという信じられない奇蹟です。そして、主にあっては、人の神様に応答する「霊」(いのち)こそすべてであり、イエス様は霊に呼びかけられるという事実です。生きている時に、どうしてピリピ3章20〜21節を友に読んであげなかったかという私の悔いは無意味であると思ったからです。

 友が息をしている間に私も有名な詩篇23篇はもちろんのこと、イエス様のおことばであるヨハネの福音書14章1〜3節をはじめとして様々なみことばを読ませていただきました。ただ迂闊にも落としたのがピリピ3章20〜21節だったのですが、私は知らず知らず人間の目で判断した、生と死に分けてしまっていて、主にとっては「死んだのではない。眠っているのです。」というご自身の復活を通して死に勝利された方の「死」に対する見方から離れてしまっていたことが分かったからです。

 その上、主のことばは様々ですが、どれ一つとっても無駄な言葉はなく、それぞれが主に応答する時の人間の喜び・力となるということを思ったからです。確かに、友の体は、昨日すぐに火葬に付されお骨に変えられましたが、主を信ずる者にとって、それが終わりでなく、主イエス・キリストが再び来られ、霊の眠りの状態から目覚めさせてくださる時が来るのです。

 藤本正高さんはその著書(『藤本正高著作集第二巻』162頁より)の中で次のように言っておられます。「主イエスには、人の死は皆寝た姿に見えるのです。キリスト再臨のときに目覚めるまで、寝ているに過ぎません。このことがわからない時に私どもは泣くのです。ほんとの意味の死は、人間が神から離れることであって、霊が肉から離れることではありません。」

 友の場合、生きている時、主の御声を聞き、主に信頼していました。それが友の信仰生活でした。友は息を引き取りました。その時、友の霊は肉体を離れ、主イエス様の身元に行ったのです。もはや肉体という姿で友と会うことはできません。しかし、霊はまさに主が再び来られる時、主の呼び声で一挙にヤイロの娘のようによみがえるのです。ヤイロの娘のよみがえりは再臨の時、私たち主を信ずる者が経験することをあらかじめ示す一つの予表ではないでしょうか。それがどのようにしてかはわかりませんが、友が召された日、自分の自宅に帰って私が強く示されたことです。

 最後にそのことを語っている聖書のことばを写しておきます。

聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。(新約聖書 1コリント15章51〜54節)

2024年9月21日土曜日

主にあって愛する友の召天(上)


 今日は愛する友の誕生日でした。しかし、三日前の18日(水)、友は天に召されました。84歳を迎える直前でした。この写真の風景は、その友が元気な時、いや病を得てもその旺盛な精神力で半年前までは歩き続けたであろう古利根川べりの土手付近の光景です。

 友は持病の糖尿病や高血圧対策もあって、以前から一日一万歩もの距離を物ともせずに、古利根川沿いを歩きに歩き続けておられました。その友の話を聞いて、私もそれに比べると小距離でしたが、古利根川散策を実行するようになりました。言ってみれば、私にとって、古利根川散策の生みの親と言っていい方です。召された日の翌日、その友のことを思いながら妻と散策し、しばし友の元気なおりの姿を偲びました。

 友が、食道がんを患い、手術したのはほぼ2年半ほど前でした。病の進行とともに喉を切開し、それ以来、お話は一切できず、私たちとの交わりも筆談を通してするしかありませんでした。時折、お訪ねする折も、友は健気にもホワイトボードを持ち出し、文字を書き、私たちはその字を追うという手間のかかるものでしたが、しかし貴重なお交わりのひとときとなりました。

 さて、友は私たちより一足先に天国に召されて行ったのです。その日の午後、奥様から、「主人が何も食べなくなった。息を引き取るのが真近に迫っている。兄をはじめ親族がいるが、なにぶんそれぞれ遠方で高齢で病を得ている。来ていただけませんか」と電話がありました。前日に彦根で叔母の法事を終えて帰ってきたばかりでした。まったくこれは無駄のない主のご計画だと思わされました。一週間ほど前に病院にお見舞いに行った時も不思議と面会が許され、事態が深刻なことを理解していましたので、帰省中に召されることがあってはならぬという焦燥感を抱いていたからです。

 16日(月)私は叔母の法事に彦根で参加していました。同じ頃、友は、春日部の病院を出て、在宅看護を受けるべく自宅に戻られました。看護師さんの話によると、体は衰弱し切っていたが、お顔は晴々となさっていたそうです。しかし、家に戻って、まだ一、二日も経たないうちに、このように、臨終の時が迫ってきたのです。友は、急を聞いて駆けつけた私たちに笑顔で応じてくださいました。もちろん体はお痩せになり、頬がげっそりと落ちて、一目で闘病の激しさが窺われました。

 その間、奥様と私たち夫婦で、聖書のみことばを朗読したり、讃美したり、お祈りしながら時が経って行きました。友は、その私たちと声を合わせるかのように、しきりと口を動かしておられました(奥様のその後のお話によると、実際は呼吸を整える必要があってのものだったようですが)。静かなひとときが続きました。そのうちに奥さんはベッドに横たわり、身動きのできないご主人の耳元に口を寄せ、しきりと語り続けておられました。何分かするうちに、ご主人が反応を示されなくなる時が来ました。付き添っておられた看護師さんが、急いで瞳孔を確認され、聴診器で確認されると、もはや息をしておられない状態でした。友の霊はこの時、静かに天の御国へと移されて行ったのです。

 それからずいぶん時間が経ってから、お医者さんが来てくださり、死亡確認をしてくださいました。私たちは静かに、目の前でその後の処置をしてくださる看護師さんたちにおゆだねしながら、さらに時を過ごさせていただきました。その間であったでしょうか、室内に掲示しておられる何点かの絵があることに気づきました。そのうちの一点にジョルジュ・ルオーの『郊外のキリスト』という作品がありました(※)。

 私には、私たちがすべてを主イエス様におゆだねしているその姿に、ふさわしい絵と映りました。私は奥さんに箴言6章22節をプレゼントし、今後の歩みもふくめ、主のお約束を一緒に聖書をとおして確認させていただきました。別の病を得て入院中の一人娘のお嬢さんも、この時お父さんのために祈っておられたと思いますが、一方、春日部キリスト集会ではこの間、別会場で並行して集会が持たれており、その席で、友の8年前、2016年6月21日になさった証を聞いて、友のために祈って下さっていたそうです。それを終えて、馳せ参じて下さった方に最後、感謝のお祈りをしていただきました。その冒頭でピリピ3章21〜22節のみことばがその方の口をついて出てきました。私はそのみことばを耳にしながら、これこそ今の友に最もふさわしいみことばだなーと思わされました。

私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(新約聖書 ピリピ3章20〜21節)

 今まで臨終の席に立ち合わせていただいたのは、当然ですが、ほんの少しです。高校3年の卒業直後の1961年の母の死の時、1994年の6月の継母の召天の時とわずか二回です。(1981年に毛呂山の病院に入院中の父が亡くなった時は、ちょうど私は春日部の教会で礼拝をささげていたので、その死を知りませんでした。何も知らず、いつもの調子で電車を乗り継いで、父の大好物の品々をあつらえて、やっとたどり着いた先に、待ち構えていたのは変わり果てた父の姿でした・・・・)

 私は1970年に主イエス様を信じました。それよりも10年前の1961年に病院で息を引き取った母の死は救い主イエス様を知らず、信じていなかったので、悲しみ以外の何物も感ぜられませんでした。ところが1981年の父の突然の死は臨終にこそ立ち会えませんでしたが、敬愛する主にある兄姉の祈りに支えられ、父の死を主からの祝福と受け止めることができました(ローマ8章28節)。そして、1994年の、主を信ずるように変えられた継母の召天は家族にとり、最大の出来事でありましたが、その召天を真心から主に感謝するひとときとなりました。

 それに比べ、今回の友の召天のひとときは、静かなうちにも、死から生へ、死からの復活が何か見えるような思いにさせられました。そして、主が罪と死に苦しまざるを得ない私たちに、その愛がどんなに、私たちの分を超えた愛か、罪人を天国に導いてくださる出来事であるかをしみじみと味わせてくださる時であったように思います。もちろんご家族にとって愛するご主人、またお父さんを地上で失くす喪失感は増しこそすれ、その悲しみは尽きないと思います。しかし、主なる神様はきっと残されたご遺族を豊かに導いてくださると確信する者であります。・

※私が友人の家で見たものは、奥様が1988年に読売新聞に載ったものを見つけ、切り抜き貼り出して額に納めておかれたものでした。したがって白黒版でした。それにもかかわらす、上記のいきさつで惹かれてしまったのです。ルオーについてまったく何も知らない私にとり、下記のブログは、ルオーの作品の原色版であり、その解説を読み、大変な慰めを受けました。どういうどなたのブログかわからないのですが、以下にそのサイトを載せておきます。http://suesue201.blog64.fc2.com/blog-entry-320.html

2024年2月2日金曜日

B. McCall Barbour 書店の証

B. McCall Barbour 書店(エジンバラ 2010.10.5)
 『荒野の泉』というキリスト者の間で読み継がれているベストセラーがある。それは365日、それぞれの日毎に聖句を載せ、それに関する、過去のキリスト者の霊想が並行して載せられている書物である。私はこの本を、書架に並べているが、いまだにキチンと読んだことがなかった。それに比べると、家内は長年愛読しており、何人もの方々に贈り物として数年前まで使わせていただいていた本である。そういう意味では、私にとっても馴染みのある本である。

 ところが、今年の年頭に、主にある親しい友である方から、いただいた風景入りのカード(※1)の中にツィンツェンドルフ伯爵の言葉が載せてあった。最初、この伯爵の言葉の文字が小さくて読み取れなかった。もっと知りたい、いったいどこに載せてあるのだろうかという思いであった。そして、ひょっとしてこの『荒野の泉』に掲載している人物の中にあるものではないだろうか、というのが私のちょっとした勘だった。ところが、どうしても見つからなかった(※2)。その代わりに、1月14日に登場する「J・ダンソン・スミス」という人名が妙に気になった。

 そして、過去のブログ記事(※3)を繰って見て、まさに私の脳裏にくっきりと刻み込まれていた「J・ダンソン・スミス」氏、まさしくその人だった。2010年、結婚40周年を記念して、海外旅行を子どもたちがプレゼントしてくれた。その時、選んだ最初の訪問地はスコットランドのエジンバラであった。そのエジンバラで偶然にもJ・ダンソン・スミスさんの御子息(お嬢さんと息子さん)の経営する書店に入り、しばし御交わりをさせていただいたことがあったからである。もとより、異国人同士である私たちは、その時が初対面であり、お互いに未知であり、それゆえに私たちはお名前も、またその方がどんな方かも知らなかった。

 ところが、その一連のブログを読んでいただくとわかるが、お嬢さんである方が「今度は天国でお会いしましょう」とそのお店を辞去する時に言われたほど、フレンドリーなお交わりをいただいた。そのお父様のJ・ダンソン・スミスさんの霊想が『荒野の泉』に載っているというのは、嬉しい驚きだった。早速、読んでみた。そこには次のような文章が綴られていた。

 彼さきにゆきたもう これは私の慰めである
 彼さきにゆきたもう 私の心はその上に安住する
 彼さきにゆきたもう これは救いを保証する
 彼さきにゆきたもう それゆえにすべてはよい。
              ーー J・ダンソン・スミス

 これまた何と尊い導きの言葉、美しい詩であろうか。彼とはもちろん、主イエス・キリストである。これが、あのパンフレットがダンソン氏を紹介するにあたって述べている「writing beautiful poems」のあらわれの一端なのだろうかと嬉しくなった。

 そして、一月に紹介してきたツィンツェンドルフ伯爵の新生が、十字架上の受難の主を体験することであり、そのことではハヴァガルもまた同様な経験のもとでその人生の画期としていることを確かめた(※4)。ところで、McCall Barbour氏が"He failth not"(「主は不正を行わない」ゼパニヤ3:5)と言い、かつ"All have sinned, but the Lord Jesus can save!"とその仕事の後継者であるJ・ダンソン・スミス氏たちをして言わしめていることを、昨日、一昨日のブログで確かめた通りである。

 この時代を異にする四者に共通することは、結局、人間にはできないが、主にはできる。それは人間が罪人だからであり、その罪を贖ってくださったお方はただ一人神の子、主イエス様だけであるという聖書が一貫して私たちに伝えている「福音」ではないかと思った。

 時到り、岸田首相は裏金疑惑を謝罪した。トヨタ会長豊田氏は相次ぐ車両検査の不正を謝罪した。翌朝、TBSの森本毅郎スタンバイで、政界、財界の両トップである人が謝罪を表明せざるを得ず、しかもその謝罪も本当の改革・改善への道備へとなるか大いに疑問だと言っていた。まさに憂慮の日本である。"He failth not"(「主は不正を行わない」ゼパニヤ3:5)と言いたい。

 果たせるかな、私たちの日曜の福音集会のメッセージは「私たちにはできないが、神様にはできる」であった。洋の東西を問わず、時代の先後を問わず、主の示される道を歩み続けたいものだ。

 末尾にJ・ダンソン・スミス氏の霊想を掲載している『荒野の泉』の1月14日の引用聖句を掲げておく。

※1 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/01/blog-post.html
※2 あとでその方に確認させていただいて知ったことだが、私の推測どおりツィンツェンドルフ伯爵の言葉は『荒野の泉』所載だった。ただ、まさか元旦の日とは思わず、見落としてしまった。

 知らざる道に 神はわれらを導きたもう
 歩みは遅くとも上に導きたもう
 幾度か気落ちして立ちどまるとも
 よし暴風と暗さは日を隠すとも
   やがて雲の去りゆく時 
   神のわれらを進ませたまいしを知る

 事多き年月を越えて神はわれらを導きたもう
 夢の如き希望、疑いと恐れをうちすてて
 たどり難き迷路のただ中を導きたもう
 損失と 悲哀と 雲とざす路のただ中を
   われらは知る 御旨のなされしを
   かくてなお彼はわれらを導きたもう

※3 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/10/blog-post_15.html
※4 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/01/blog-post_27.html

彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。(新約聖書 ヨハネの福音書10章4節) 

2024年1月31日水曜日

McCall Barbour氏の生涯

 14年前にスコットランド・エジンバラの書店で一組のパンフレットを手渡された(※1)。必要あって今回翻訳してみた。タイムリーな文章であると思う。詳細は、のちに説明する。とりあえずそのパンフレットを今日と明日に分けて掲載する。先ずは前半部分の書店主McCall Barbour氏について述べた文章である。(原文はhttps://mccallbarbour.co.uk/about/ を参照されたし)

人となり

 ベンジャミン・マッコール・バーバーは1865年エジンバラの貧しい家庭に生まれた。今日、若い頃の彼の生活はほとんど知られていない。けれども1890年までにエジンバラの目抜通りの一つに、成功せる高級な文房具店を経営していた。

 その当時は電話はなかった。だからコミュニケーションは主に手紙や電報であった。仕事の上でも人々は急を要する答えが欲しかったので、何百人もの電報配達夫が雇われていた。彼らは街中を自転車で配達しまわった。当時は1日に六回郵便配達があった。それでコミュニケーションは取れ、十分だった。非常に熱心なクリスチャンだったマッコール・バーバーは電報配達夫である少年たちに大変な重荷を覚えていて、彼らが仕事の空いた時間にやって来ては、ゲームで遊ぶことが出来るように、地下に遊技場兼ミッションホールを開いた。彼は遊戯や遊びの外では直裁な福音メッセージを話した。それでたくさんの若者たちが主に導かれた。彼の宣教活動は電報配達夫に限られていなかった。彼はすぐに若者たちのすぐれた指導者となった。彼の信仰に満ちた説教は常に最も有効であった。

 その頃、宣教活動にとって、中国における主の働きにとっての恐ろしい事柄が起こり始めていた(※2)。そうした時、マッコール・バーバー氏はこの件についての一組のスライドを獲得して、礼拝の行われるいろんなところで語り始め、人々が神の召しを受けて宣教地に出て行くように祈ることを促すようになった。1895年主は彼に仰った。「あなたが行きなさい」それで彼は仕事を手放し、ささげたお金でもって献身し、七名の青年とともに訓練を受けにアメリカにある聖書カレッジに出かけた。半年経って、マッコール・バーバーに行くように召された主はエジンバラに戻るように話された。彼は答えた。「主よ、今私には仕事がありません、お金もありません」しかし、主は彼に先のことは主に信頼しなさいと話された。彼は従った。そして、残りの48年間の生涯、目に見える支援は受けなかったが、主が彼の必要を満たしてくださった。七人の青年は、アメリカに留まり、訓練を終え、福音という栄光あるメッセージを表すために世界の各地へと出て行った。

 マッコール・バーバー氏はエジンバラ市の中心にホールを確保し、その48年間、福音を伝え、みことばを教えた。約四百人の青年、数人の子女たちが彼の集会からフルタイムで主に仕えるために世界各地へと出て行った。彼が書簡として用いていたどの手紙の上部にも、彼の生涯の経験となった、ゼパニヤ書の三つの単語があった。

He faileth not.(※3)

そのメッセージ

 1900年、マッコール・バーバー氏は最初の小冊子を書き、出版した。その小冊子は彼が大変な重荷を抱いていた青少年向きにデザインされていた。その小さな始めから、その文書伝道は成長し、今日では大変広範囲に広がっている。

 この偉大な神の人の生活指針は箴言3章5〜6節であった。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」彼は歳をとった人にも若い人にも、どんなすぐれた忠告を与えることが出来たのだろうか。彼のメッセージは生き生きしており、救われる必要こそ重要であった。救いは罪の悔い改めとキリストの尊い血潮による洗いを求めることを通してのみであった。そして一度救われたら、神の子は日々死ぬことを学ぶ必要があった。自己に死に、古き性質に死ぬことが勝利の道であったし、常にそうである。この教えが彼の力強い宣教の要素となっており、ガラテヤ書2章20節の素晴らしいみことばを喜んだ。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」主イエス・キリストが生活の中に生きており、その生活を完全に支配している時、どんな祝福が続くのだろうか。勝利あるキリスト者は、主の働きを喜び、豊かにされることを学ぶのだ。パウロが1コリント15章58節で言っている通りだ。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。」

 彼のメッセージのもう一つの幸せな面はテトス書2章13節に見出される。「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むように」そう、マッコール・バーバー氏は救い主が再び来られるというニュースをしっかり握りしめていた。彼は長年にわたって一月に一回Prophetic Rallyを開催していた。第一次大戦中、彼は「今日かも知れない(Perhaps Today)」のタイトルで小さなカレンダーを発行し始めた。そして毎月違うメッセージを持つこのカレンダーは今も毎年発行されている。

 主イエス・キリストのそのしもべたちに対する最後の命令は「行きなさい」であった。そして長年にわたって毎月、マッコール・バーバー氏はMissiponary Rallyを開催した。たくさんの人や数人の子女が神の召しに従って、失われた人々を捜し求め、その人たちに救い主を指し示すために出て行った。母国における福音伝道と海外に対する宣教の働きが「イエス様が救い主だ!(Jesus Saves)」という栄光あるメッセージを運んでいるのだ。

 マッコール・バーバー氏は天国へ召される前の最後の数時間の間に、彼のそばにいた人々に言ったのは次の言葉だ。「福音を獲得せよ」それこそ確かなメッセージだ。そしてそれは依然として今日も真のメッセージなのだ。すべての人は罪人である。しかし、主イエス様は救うことができる!(※4)

※1 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/10/blog-post_15.html
※2 義和団事件に象徴されるように中国社会の反キリスト教の動きを指しているのでないかと想像する。
※3 ゼパニヤ書と言えば、「救いの勇士だ」が有名で、それに当たるかと思ったが、英文聖書で言葉を探したところ、欽定訳聖書のゼパニヤ書3章5節にあった。日本語訳で「主は不正を行わない。」がそれに該当する。そう、思って読み進めると、マッコール・バーバー氏の確信ある信仰がわかる気がする。

※4 この言葉が、昨日赤字で示した英語を翻訳したものである。

すべての人は罪人である。しかし、主イエス様は救うことができる!
All have sinned, but the Lord Jesus can save!

2024年1月11日木曜日

幸三郎さんの作品の鑑賞

冬寒に 人の暖(談)見つ 兄弟
 東京はやはりすごいところだ。漱石の「三四郎」の中に、三四郎が熊本の母からの便りに辟易しながらもありがたがっているふうなのだが、夜遅くまで返事を書いている場面がある。その終わりに「東京はあまりおもしろい所ではない」と書いた、とあった。作品中の中頃の場面だから、その後三四郎がどう思ったかわからない。

 このように書いてみたのは、昨日谷口幸三郎氏の「家族の風景」と題する個展(※)に出かけたことによる。同氏の作品はそのアトリエを知っているし、自転車で走れば、10数分のところにある。だからいとも簡単にその作品に接することができる。ところが、「個展」となると別だ。東京に限る。何しろ東京は人が集まる。だから、個展は個展でも同時に人が集まり互いに交わる世界を提供してくれるやはり不思議な空間なのである。それは東京ならでは得られない。だから、悔しいが東京はすごい。※https://sukiwa.net/

 この個展で私はいとこの義妹夫妻と一緒に鑑賞した。展覧会というのは中々楽しいものだ。作品もさることながら、鑑賞者お一人お一人の気持ちが、その展覧会場の空気を支配するからである。私が行った時は、3、4組の方がお見えになっており、どなたも作品を鑑賞する喜びに満たされておられたように見えた。作者である幸三郎さんも、夫人である晶子さんと一緒に接待に応じておられた。思わず、「三四郎」の中で丹青会の展覧会に原口の作品を美禰子に誘われて三四郎が出かけて行く展覧会場での場面を想起した。互いに見知らぬ者同士が作者を知って(慕って)集まってくる独特の空間を漱石ならではの筆致で描写している(同書294頁以下)。

 初めて幸三郎さんの個展に接したのは、もうかれこれ30年ほど前にはなろうか。お茶の水画廊が最初だった。その頃初めて幸三郎さんとは主にある兄弟(主イエス様を信ずる信仰を通して神の子どうしである兄弟)として知り合いにになったばかりであった。いとこや職場の同僚を誘って行ったこともある。その画廊が閉じられ、この近年は西荻の「数寄和」が中心である。ところが、西荻はいとこや我が長男も住まい、知人も何人か住んでおられるところだ。これは私にとって東京ではあるが不思議な特別なところである。

 冒頭掲げたのは会場の絵では唯一写実的なデッサン絵と言っていいのだろうか、ジャンルを知らないが、私が最も気に入った作品である。鉛筆というべきか、細かい線描に幸三郎さんの繊細な神経がうかがわれ嬉しくなった。いや羨ましくなった。モデルは二人の息子さん、幸平さん、遼平さんである。確か1999年と表示があったから、四半世紀前の作品である。


 何年か前から幸三郎さんは絵以外に陶器の作品に手を伸ばされるようになった。それは立教女学院短大の先生や附属天使園のお仕事をなさった頃と並行しているのだろうか。絵とはまた肌合いの違った暖かい感触を持った作品の数々である。ライフラインを寸断され、水、電気に事欠き生命の危機にさらされている能登半島の震災被災者の方々が一日も早く平常の生活に復帰でき、能登半島の様々な文化遺産を維持され、このような空間をゆとりを持って味わわれる日が来るようにと祈らざるを得ない。

「深見さんの水彩は普通の水彩のつもりで見ちゃいけませんよ。どこまでも深見さんの水彩なんだから、実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、なかなかおもしろいところが出てきます」と注意して、原口は野々宮と出て行った。美禰子は礼を行ってその後影を見送った。(『三四郎』303頁、「野々宮」は確か寺田寅彦がモデルだったと記憶しているが・・・)
 我が漱石は中々の絵画愛好家でなかったのでなかろうか。さしずめ、私は作者の気韻を下記のみことばだと思った。読者はいかが読み取られるだろうか?

安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。(新約聖書 ヘブル人への手紙4章9〜10節)

2023年10月21日土曜日

愛ありてこそ(下)

以下の記事は、昨日紹介した飯守恪太郎さんが、ゴットホルド・ベックさんのお嬢さんリンデの葬儀の時の挨拶で述べられたものである。(『実を結ぶ命』59頁より)

 私とベック一家との交わりは、家が近所ということもあって、早くも十年になろうとしています。しかし、親しく交わりを持つようになったのは、私と妻が主イエスを救い主として意識的に受け入れ、吉祥寺キリスト集会に集うようになってからです。そして、今度のリンデの召天のことは、ただ同じ集会の一員として以上に、二人の娘たちの心からの親しい友人の死であったため、感動的なできごとでした。私たちがどのようにリンデの状況を知り、私たちも祝福の中に導かれたか、たどってみたいと思います。

 七月十日朝八時、私たちが朝食をとろうとしていると、電話がなりました。『もしもし、恪さん、ゴットホルドです。おはようございます。実はリンデが病気なのです・・・・』ドイツは真夜中ごろです。ベック兄からの電話はシュトゥットガルト近郊にある彼の自宅からか、病院からか分かりませんでした。それは、ちょうど自動車による人身事故を知らされた時のショックと不安に似ていました。『きょうは、そちらは木曜日ですね。いつもの祈り会で祈っていただきたいのです。まだくわしくは分からないけれど、来週大きな手術をすることになりました。みんなで祈ってください』『はい、わかりました。きょうの祈り会で祈ります』『たぶん、がんではないかもしれないけれど・・・この十日間多くの検査をしたのですがよく分からないのです。二十四日に腹部を開いてみることになりました』三分間くらいの会話でした。

 次の週の木曜日には、手術の結果を知らせる電話がありました。こちらは夕方の五時頃でした。『もしもし・・・がんでした。全体に広がっていて手の施しようがなかったので、そのまま閉じました。手遅れで医学的にはまったく絶望だということです。意識ははっきりしています。皆さんに続けて祈ってくださるように、くれぐれもお願いしてください』。

 その日の夕食の時、妻や娘たちの目がうるんでいました。

 私たちは、八月上旬から九月上旬まで、ドイツ各地の人々やキリスト集会の人々に会うためのキャラバン伝道旅行に参加する予定でした。そして、町田市の星淑子姉、白木みどり姉、それに私たち家族(息子一人、娘二人)は、八月十二日、成田からその目的をはたすべく予定通り出発しました。

 三十三時間の飛行の後、フランクフルトに着くと、ベック夫妻と娘さんたちが、私たちを迎えて下さいました。リンデの病状の容易ならぬにもかかわらず、ご家族と私たちの気持ちは不思議なくらい静かでした。お宅までの二時間のドライブの車中でも、神への圧倒的な感謝と平安が支配していたようでした。召しを待つ彼女を見て思ったことは、私たちの目的は主イエスであり、イエス様は私たちの感じているよりも近くにおられ、礼拝せざるを得ないということでした。

 彼女は、子供のような信頼と従順によって静かにベッドの上で目を開き、熱のためピンク色の頬に微笑を浮かべて、一人一人に挨拶をしました。私は思わずこう言ったのです。『日本にいるみんなのために祈って下さい。私たちはあなたを心から愛しています』と。彼女は大きく何度もうなずいてくれました。彼女の態度には、よく病人に見受けられがちな同情やあわれみをさそうようなものは、何もありませんでした。彼女の瞳は全身で神の御顔を見続けていて人間の同情など入る余地がなかったのでしょう。

 帰国後、私の二人の娘たちは、来るべき日に、天国で彼女との永遠の再会を待ちつつ、日常生活でも以前とは違った張りとリズムを持って過ごしているようです。私たち夫婦も言葉ではうまく表現できないのですが、目ざす目的地が身近に感じられ、今日明日という一日一日がそのための準備であると思うようになったのです。愛するお方の前で恐れかしこむしもべでありたいものです。私は、黙示録の『さあ、花嫁はその用意ができたのだから』という一節が好きです。花婿なるイエスは花嫁である私たちをご自分の血潮によって受け入れて下さるという確信と平安の上にたって、日々生活をしています。

以上が、リンデの葬儀の時(1980年)に述べられた挨拶である。40余年前とは言え、私は、ここに主をひたすら愛する、純潔な魂の痕跡を見る。そして、そこには私たちの罪の身代わりに十字架にかかって血を流された主イエス様への感謝の思いが語られている。もちろん、生死を超越した生き方を保証する復活された主を知るがゆえに天国の確信がその挨拶の基調となっている。主を愛すれば愛するほど、人を愛する思いも増し加えられるのでないだろうか。

たまたまイスラエル人の歴史家ユヴァル・ノア・ハラリ氏のインタビュー(報道ステーション徳永有美アナウンサーによる)をユーチューブの配信で見たが、イスラエルとハマス、そこには双方における憎しみが勝利している現状が述べられていた。「憎しみ」に立ち勝るのは「愛」であると思わざるを得ない。

私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊(主イエス)の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。(新約聖書 黙示録19章7節)

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(新約聖書 1ヨハネ4章19節)

私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの父なる神に感謝しています。それは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いたからです。(新約聖書 コロサイ1章3〜4節)

2023年10月20日金曜日

愛ありてこそ(上)

鶏頭の 堂々たるは 愛のゆえ
 10日ほど前、古利根川を散歩中にこの鶏頭を目にした。そのあたりには草花が少なく、えらくしっかりと立っている姿に思わず敬意を表したくなって、しゃがんでカメラに収めた。すると、通りすがりの方が、うしろの方から「その花は主人が水やりを続けているのよ」と声をかけて来られた。ふっと見上げると、何とその方はいつも一緒に礼拝をしている方ではないか。

 一人生えとばかり思っていたが、そうか、そんな愛の支えがあっての鶏頭だったのか、と思わされた。一方、そのお世話をなさった方が、身近な人だったとは驚いた。途端にその鶏頭は二重に親しい草花となった。

 そう言えば、かつては現役時代、電車の中で毎日見かける方は、声を掛け合うわけではないが、私にとっては結構「仲間」だった。今や、それは散歩道で行き交う人たちに変わっている。何らかの形で定年退職した人々が健康のために歩いているのだろう。たまたま声をかけて来た方は知人であったが、そうでない方が圧倒的に多い。二度とお会いしない散歩道かもしれない。行き交う人の健康と幸せを祈る者でありたい。「袖擦り合うのも多生の縁」と言うではないか。

 かと思えば、このようなこともあった。バス車内でのことである。1994年10月、初めてドイツに一週間余の予定で、みなさん(200名)と共に聖書を中心とする「喜びの集い」に出かけたことがある。その旅行は空路東京からミュンヘンを目指すものだった。飛行も無事に終わり、いよいよ西南ドイツの現地(ミヘルスブルク)へと高速バスに乗り、アウトバーンを中継都市になるシュツットガルトを目指して走った。ノンストップだった。

 ところが、途中で私はにわかに便意を催した。私があまりにも苦しそうなので一緒に行った家内も大変心配した。ところが、どうしてか知らないが、私の座席の前方にいた方が、そのことを知られたのであろう、バケツに新聞紙のようなものを用意して、動くバス内で私の座席に近づいて来て「兄弟! この中にしなさい」「私がかこってあげるから」「匂いも大丈夫だから」と言ってくださった。

 そのあまりにもとんでもないアドバイスを聞くや、度肝を抜かれた私は途端に便意を感じなくなり、無事シュツットガルトまでの長時間のバス乗車に耐えることができた。思わず命拾いした思いだった。30年余り前のことを思い出したのは、他でもない、最近『嬉遊曲鳴りやまず』(中丸美繪著新潮社1996年刊行)という斎藤秀雄の生涯を描いた作品を読んでいたら、次のようなことが書いてあったことによる。

 斎藤が練習に打ち込んでいるときには、たった一言ですら言葉を差しはさめない雰囲気があった。小用を申し出ることができなかったために、練習場でお漏らしをしてしまった、後には日本を代表するヴァイオリニストになる小学生もいた。その時、指揮の飯守泰次郎がワイシャツを貸した。それは大人用のシャツだから裾は膝まできていた。(同書267頁)

 文中の飯守泰次郎さんは今年の8月15日に召されたが、斎藤秀雄(先生)の最後のお弟子さんと言ってもいい方だったが、音楽を愛しいのちをささげた斎藤秀雄の鬼気迫る「子供のための音楽教室」中のエピソードに違いない。私はこの話を知って、兄弟とは良く似る者だなあーと思わされた。それと言うのも、先ほどの、便意を催し七転八倒していた私を助けてくださった方は、その泰次郎さんのお兄さんの飯守恪太郎さんであったからである。

 困っている人を助けるためには何でもやるという気概、そこに類(たぐい)稀なるユーモアの世界が同時に用意されているのを、お二人の態度から教えられる。

 今日、国際紛争はウクライナ地方に、イスラエル・パレスチナ地方にと頻発し、全世界が固唾を飲んで見守るばかりである。弱者に多大なる犠牲を強いている戦争を、誰も止められない。窮地に陥って、互いに角突き合わせているばかりである。

 鶏頭は一人で立っていたのではない。水を注ぐ人がいたのだ。その水ももともと天から与えられたものである。私にとって堂々と見えた鶏頭も、主なる神の愛のしからしめる鶏頭であった。万物を統べ治めておられる主なる神の前に頭を下げる者が集えば争いはないはずだ。

島々よ。わたしの前で静まれ。(旧約聖書 イザヤ書41章1節)
あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。(新約聖書 ローマ人への手紙14章4節)
立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(新約聖書 1コリント10章12節)

2023年8月15日火曜日

冷たい水のようだ

友人からいただいたハガキ

 もう呆れ却ってものも言えない。ひさしく家を留守にして、滋賀の生家で日を過ごしたが、冷房の設備も一間だけで、こどもや孫たちと一緒に滞在するには、昔ながらの旧宅ではこの暑さはやりきれなかった(以前なら、たとえそうであっても十分涼しく過ごせたはずなのに)。そして、家に戻って手にしたのが、この暑中見舞い状であった。文面はさらに次のように記されてあった。

 「昨日の夜は突然のドシャブリの雨がふりました。夜に雨戸を閉める時、ミンミン蝉が家に入りました。油蝉はよくみかけますが、ミンミンはその美声をきくのみで姿はみた事はありませんでした。はじめて身近でみました。美しい蝉ですが、よくかけませんでした。堂々とした姿でした。今外にはなしました。空高くとんでいきました。匝瑳(そうさ)にて」

 いっぺんに、涼しさが戻ってきた。そして、同じ頃、私は滋賀の忍術屋敷(甲賀市)でたまたま見かけたトンボを追いかけるのに夢中であったことを思い出した。

 蝉と言い、トンボと言い、実に見事な羽根ぶりだなと思わずにはおれない。そしてその胴体のすばらしさ。「何をくよくよ川端柳」と不平を鳴らす愚か者よ、と主の叱責を身に覚える思いだった。そう言えば、彦根城を孫たち一行と散策中に城山高くトンビが獲物をみつけて交差するかのように飛び交っていた。いち早くそれに気づいた都会育ちの10歳の孫娘は嬉々として飛び跳ねるかのようだった。

 今は辛うじて生態系が秩序を保っている最後かも知れぬ。何とか、脱「沸騰化」の道はないものだろうか。

遠い国からの良い消息は、疲れた人への冷たい水のようだ。(旧約聖書 箴言25章25節)

2023年5月29日月曜日

麦秋、いざ伊勢崎へ

麦秋 主を賛美す 桜桃
 昨日は伊勢崎まで出かけ、主にある兄弟姉妹と主を賛美する礼拝にあずかった。総勢、私をふくめ15名の参加者であった。男性5人、女性10人であった。先ほど、NHKのカルチャーラジオ「米沢富美子(物理学者)」さんの放送をお聞きしたが、女性は「直感と忍耐」に富んでいて、このことが自分の研究者生活に役立ってきたのではないかという趣旨のことをおっしゃっていたが、まさに主を賛美・礼拝に集う女性陣が多いことを思うと宜(むべ)なるかなと思わされる。https://www.nhk.or.jp/radio/player/ondemand.html?p=1890_01_3863113

 主の救いは個人に始まり、自ずと家族に及ぶ。だから妻である女性だけでなく、当然夫である男性にも主の救いは及ぶが、中々男性陣が主の救いを受け入れない。科学者に男女差があろうはずがないとは永年物理学の研究に打ち込まれてきた米沢さんの信念だが、当然の如く、イエス様が指し示してくださった福音もまた男女差がない。けれども米沢さんのお話をお聞きしていて、他分野のことではあるが、男性にはこの「直感と忍耐」が乏しいゆえに、なかなか男性が、折角の主の救いを拒んでいる原因となっているのではないだろうか、とさえ思わされた。

 昨日の今日であるが、全くふさわしい話を聞くことができた。しかも同氏の第一回目は、「二人で紡ぐ人生」という題名の文化講演会の中で、同氏のご主人との最後の別れを語っておられたが、まさに過去考えさせていただいた三回にわたる「不思議な『遺稿集』との出会い」と題する投稿拙文と通底するものを覚えた。http://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/05/blog-post_24.html


 ところで、この伊勢崎の人々は9家族が集っておられるので、数字が示すほどの男女差はない。きわめて健全な恵まれた集いではないだろうか。

 しかも、この集いを提供されている建物は、歯科医院として本来建てられたものである。上の写真の左窓越しに見える看板がそのことを示している。

 提供されているご主人夫妻家族は別のところで医院を開いておられる。このご夫妻家族がどうして主イエス様の救いに預かられたかは、それだけで大変なドラマを構成している。この場で簡単に紹介はできないが、稀有な出会いのうちに、主イエス様が働かれた栄光の証がある。(左の表紙絵はその様子を漫画化して自費出版なさったものである。)

 人に歴史あり、こうして私がはるばる伊勢崎まで出かけるのが、義務ではなく喜んで出かけていく理由がわかっていただけるだろう。途中二時間ほど電車の旅だが、その間には大利根川を通過するし、水田風景を堪能しながら、ところにより白鷺が田んぼ一つに一羽のなわばりを保つところや、一方麦秋盛んなる田園地帯を次々通過する。そして、かつて住んでいた足利を横目にしながら10数名の方々との三ヶ月に一度の再会を期して、車内でメッセージの用意をさせていただくのである。

 ちなみに、私のこの日のメッセージ題名は『羊飼いであるお方の祈り』であり、引用聖句は下記のものであった。

シモン、シモン、見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、たち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(新約聖書 ルカの福音書22章31〜32節)

2023年5月24日水曜日

不思議な「遺稿集」との出会い(下)

児玉煕子さんと金子暁子さん ロサンゼルス喜びの集い参加 1993年6月
 昨日も野村ミサヲさんの遺稿集をご紹介させていただいたが、肝心なことをご説明していなかったことにその後、気づいた。それは、どうしてこのような遺稿集を出版できるようになったかの経緯を、この本の後書きで、ご主人である野村弘さんが語っておられたことだ。

 妻であるミサヲさんは皮膚がんだったが、その癌は転移が進み、口内の舌にまで及び、そのため一切話ができず、筆談に頼らざるを得なかった。そのことがこのような遺稿の集積となった旨語っておられたのだ。「塞翁が馬」とは中国由来の日本語の言い回しだが、まことにミサヲさんのお気持ちが後塵を拝する私たちに過不足なしに伝えられることになったのは、このような激烈な病との戦いの中でもたらされた恵みだったのだ。このことは聖書の成り立ちにも関係することだ。

 新約聖書の中にはパウロの手紙がたくさんあるが、彼が獄に捕らえられ、行動の自由を奪われた結果、やむを得ず、各地の集会に手紙を出した。ある場合には口述筆記の形態を取った時もあったが、そのようにして2000年近く、今も私たちが自由に、しかも完全に主なる神様の御心を知ることができる聖書となっている事実だ。

 さて、5月17日(水)に持たれた金子暁子(としこ)さんの記念会についても、この機会に触れておく。なぜなら、野村ミサヲさんはご主人の弘さんに、絶筆とも言うべきご主人への遺書では最後に「ありがとう」という言葉を連呼されたからである。「ありがとう」と五回繰り返し、しかも最後は無限に続くように「・・・・」で書き遺されたたことは昨日述べた通りである。

 しかし、実は私はこの病妻が看病してくださった夫に謝意を表される姿が、金子暁子さんの場合にもあったことを知らされていた。夫である光男さんの記念会でのご挨拶のうち「ご臨終」について述べられた言葉を引かせていただく。(なお、初めの方で「暁子はベックさんから、『理由を問うのはやめなさい、神様からのことばを素直に受け入れなさい』ということばに接して救われたんだというお話が(今)ありました。それを聞いて深くうなずくことがございました。ああーそうだったか」と、おっしゃり、三年間の闘病生活の中でも、祈りが中心であり、癌病室のまわりの人々が苦しみを訴える中で、そういうこともなく、平安に過ごした。それは今に至るまでも最大の慰めであり、「こういうこともあるんだということで感謝しております」と語られもした。しかし癌性の腫瘍のため、徐々に体力は低下していき、食事もおかゆから、重湯、ついには水しかうけつけなくなったことに触れられ、最後、次のように語られた。)

 二月に入り、二月二十五日臨終の時になりますが、病院から電話がございまして、「血圧が落ちてきた。早目にお越しください」ということで、取るものも取りあえず、車で病院に駆けつけたわけでございます。最初は私の方を見ておりましたけれども、段々呼吸が荒くなって、今まで見たこともない呼吸をするわけですね。「苦しいのか」と言うと、頷いて、六時五分でしたか、変だなと思いながらジッと見ておりましたら、「あ」「あ」と言うんですね。口を大きく開けて。その声が大きな「あ」だったのか、小さな「あ」だったのか、今となってはよくわかりません。とにかく口を開けて「あ」と言っているわけです。

 で、「何だ、何が言いたいんだ」。それでまた荒い呼吸に戻るんです。二回目にまた「あ」と言うんです。「何だ、『ありがとう』と言いたいのか」と言ったんですね。そしたらまた荒い呼吸になって・・・。今思うと、あれは「あ」だ、「ありがとう」に違いないと思っております。「う」だとちょっと気味が悪いですね。「うらむぞ」となるわけですから。そう言われてもしょうがない亭主でしたから。家族をほっぽり出して、大学の仕事を、中学・高校の校長をやったりなんかして、そっちのほうが大事だったんですかね、あるいは出世したかったと言う浅ましい根性があったのかも知れませんけど、とにかく家庭はほっぽり出して。だから「う」と言われてもしょうがない。でも「う」と「あ」では口の形が違いますから、あれはきっと「あ」に違いない。そのことを持地さんに伺いましたら、それは「あ」でいいんだと言われ、ホッとしました。

 その時、思いました。人に与えられる最大のものは何であろうか。最後は結局はことばなんだ。そういう意味で、人間はこれをやる、あれをやる、そういうのはないわけであり、そうすると、心の中にこもっている思いを、自分の相手にキチンと伝える。そして、それに感謝のことばがあれば、受け取っている人間に、これによって「ああ、赦されたんだ」そのことを深く受けとめ、そして私は深く慰められた。良かった。「最後はことばなんだなあー」ということをつくづく知った次第であります。

 このようにご遺族のご挨拶の中で述べておられた。まさに、絶筆ならぬ絶語である。光男さんは先頃の春の叙勲で瑞宝賞中序賞の栄典に浴された。永年の教育者としての働きが認められたのだ。そのうちには奥様の暁子さんの内助の功、祈りがあったことは言うまでもないが、今回のご挨拶はまさにそれに対する感謝のご挨拶ではないだろうか。

 私は10月27日に暁子さんのお見舞いに、わずか一度しか行かなかったが、その時、暁子さんが晴々と「主人は変わりました」と言われたことばとその明るさがなぜか印象に残った。そして記念会のメッセージを準備している時、暁子さんに関する一つの夢を見させられた。その内容は省略するが、光男さんのこの「ことば」と「赦し」の二語に一致していることに今新たな感動を覚えている。

 だから、野村さんの遺稿集が今週の日曜日に私の手元に舞い込んできて、身近にある人の死を(母の死をふくめて)改めて思わされ、天の御国を益々実感させられたのは決して偶然ではないと思う。

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(新約聖書 1ヨハネの手紙 1章9節)

われらの神、主。あなたは、彼らに答えられた。あなたは、彼らにとって赦しの神であられた。われらの神、主をあがめよ。われらの神、主は聖である。(旧約聖書 詩篇99篇8節〜9節)

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(新約聖書 ヨハネの福音書1章1節)

私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。(新約聖書 ピリピ人への手紙3章20節) 

2023年5月23日火曜日

不思議な「遺稿集」との出会い(中)

私のおかあさん 小4 吉田浩
 懐かしい絵を、今日は引っ張り出してきた。これは全国小学生図画作文集(講談社発行昭和27年)に掲載されている私の絵だ。今も大切に保管している。昭和27年というと、1952年、今から71年前になる。私はこの絵を描いた。「描かされた」と言ったほうがいいかも知れない。今だから言えるが、この絵を先生と一緒になって包装し出品する前に、先生が手にして、さっとエプロン姿の袖に赤を入れた。絵はその瞬間見違えるように明るくなったことを覚えている。

 母は熱心だった。小学校に入る前から、この先生のところに通わせた。何とか私のために「情操教育」をと考えたのであろう。一方この先生も熱心でその指導には県下で定評があった。学校に行っても放課後になると、この先生が好きでその図画工作の部屋に行っては絵を描いては、疲れると寝っ転がっていたりし、この先生に言い寄って来る男の先生などとの会話を耳にしたりして、私にとっては結構、家庭だけでは知ることのできない男女の機微などを知る場でもあった。私はこの先生と母のおかげで4年生まで絵を描いては、県下だけでなく全国の絵画展で何度か賞をいただいた。アンデルセンの童話や牛小屋の乳搾りの姿などをせっせと描いては、雑誌に絵が掲載された。

 さて、この本には「この全国小学生図画作文集『私のおかあさん』は、母の日運動の趣旨を小学生児童に理解させる目的から、昨年同様本年春、主催森永母を讃える会 協賛母の日中央協議会 後援文部省・厚生省 で募集した『図画作文』の入選作品で、図画19点、作文63を収録してあります。」とあり、絵には伊原宇三郎さんの選評が載っている。

 その選評を見ると、私の絵が応募数5万数千点の中から、19点の中に入り、文部大臣賞、厚生大臣賞、森永賞に次ぐ金賞として選ばれたのかが書いてあった。そして絵の題材が審査委員の方の目を引いたのでないかと思った。私にとっては、大根をせっせと洗っている母を何度も描いた記憶があるので、この絵は井戸端の母の姿をいくつか描いた作品の中の一つだった。ばけつの上、下の文字は今思うと矛盾だが、なぜと言えば、上用(かみよう)と下用(しもよう)に分けているのだが、なぜ、下用のばけつが絵の中で上の棚に置かれているのかだ。何か恥ずかしい思いがする。今もこの場所は残っている。そして何よりも、私にとってこの「母」は健在である。

 そんな母は44歳の若さで死んだ。今振り返ってみると、それは私にとって、もちろん大きな出来事であった。母は胃がんを患っていたのだ。今もその闘病を記した手帳を大切に保管している。その中に走り書きした次の文章がある。

私が宿命的な病気、分けても最も恐るべき胃癌であった(手術によって一層確認された)事実が受験期の高校生にどんなショックを与えただろうか。でもそこから何かを学びとり(プラスになるものを得)人生に対する覚悟というか、心持ちをしっかりと身につけてくれたことと思う。自分の方向にまっしぐらに進む勇気が出来たとしたら何十万のお金で購えない尊い報酬(と言わねばならない)となろう。今度の私の病気によって浩が何を体得してくれたか、涙を拭い拭い、時々こんな甘いことを考えて見るこの頃である(尊い何かを体得してくれたろうと)

 今までも私はこの母のことばを何度となく見ては反芻している。母にとってイエスさまはどういう存在であったのだろうか、と考えるからである。今となってはわからない。正式な日記として「婦人之友社」発行の主婦日記を使っていた。そこには主管者である羽仁もとこ氏を通してであるが、福音の片鱗は覗いていたのではなかろうか、と我が身を慰めている。北海道森町にいた頃どうだったのか、以前書いたことがある。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2020/05/blog-post_22.html

 さて、前置きが長くなってしまったが、本題である。同じ44歳で野村ミサヲさんは召された。その遺された「愛する我が子へ」と題する文章は昨日も少し紹介したように、そこにはキリスト者としての行き届いた母としての助言がある。以下は昨日の続きの部分である。

 また、これからは異性の友だちもできるでしょう。この世の人たちはどんなことをやっていても、神さまは結婚前に性的な行ないをすることを禁じています。それは結婚後に祝福がいくためです。どんな誘惑があっても、そのような性的なものを求めている人なら特別な交際をしないほうがいいです。相手と自分との間にいつも神さまを見ながら清い交際をするなら、相手にも自分にもよい思い出が残ります。
 さらにその人が主のみこころなら、結婚まで導かれるでしょう。その時こそハッピーな二人になり、神さまと二人と三よりの糸となって、長い人生に信頼し合える夫婦になります。性的行為ほど汚くもなり、美しくもなる差の大きいものはありません。結婚を抜きに、神さまを無視した性関係は恐ろしい泥沼です。拭おうとしても、拭えないことでしょう。しかし、主に祝福され結婚しての性行為には、二人が一体となるために神さまがくださった恵みがあり、とても美しく、生命を共に受け継ぐ喜びがあります。あなたたちに信仰の素晴らしい子孫の与えられることを祈ってやみません。

 この文章のあとにも、隣人を愛するためにどうあったらいいのか、キリスト者の仲間だけでなく、すべての人を愛することの素晴らしさ、また家族同士のあり方などを書き留められている。同じ44歳とは言え、私の母の走り書きのものと異なり、ここには懇切丁寧な地についた母親としての生活を通しての助言が事細かく書かれている。私は今までこの手の本を何度か手にしたことがあるが、このような助言が、困難な病の中でミサヲさんによって書き遺されていたことを大いに主に感謝する。ちなみに三人のお子様の名前は睦代さん、良也さん、知一さんである。それぞれ聖書のみことばから取られていることも明記されていた。

 その聖書の個所をご紹介する。
 
見よ、兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。(詩篇133篇1節) 睦代さん

強くあれ。雄々しくあれ。(ヨシュア記1章6節) 良也さん

主を恐れることは知識の初めである。(箴言1章7節) 知一さん

 この本の序文で渡辺信男さんは次のように書いておられた。

 野村姉は危篤状態において、ご主人に遺書を書き残しました。その最後には、「本当にありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう・・・・」と記しています。これは野村さんご夫妻が、いかに深い愛の絆で結ばれていたかを教えてくれると共に、奥様の長い苦しい闘病生活中に、どれほどまで野村兄が、奥様を励まし、力になったかを物語っています。この遺稿集『天を夢みる枯れない葉』を通して、本当の意味での家庭、夫婦、子供の教育のあり方等について、深く学ぶことができます。
 経済的には、豊かになった今日の日本、しかし、家庭の崩壊、子供たちの非行、病に苦しむ人たち、孤独に生きる老人、自殺する若者等、様々な問題を抱えています。どんな試練の時にも、聖書を読み、祈り、キリストと共に歩み続けた野村姉。その生き方は、これらの多くの問題に対して、解決の糸口を与えてくれるばかりでなく、光となり、私たちの日々の生活に、ますます勇気と希望を与えてくれるものと確信します。

 私たちは30年ほど前に認(したた)められたこれらの文章を読む時、時代が確実に悪くなっていることを思わされる。まして井戸のつるべで汲み上げては炊事、部屋の掃除に勤しんでいた我が母の時代からは70年が経過している。この間人心は少しでも進歩してきたであろうか。全く逆である。改めて次のみことばを覚えたい。

愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ愛は律法を全うします。あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。(新約聖書 ローマ人への手紙13章10節〜14節)

2023年5月22日月曜日

不思議な「遺稿集」との出会い(上)


  昨日、礼拝のあと、知人から家内が一冊の本を託された。上掲の『天を夢みる枯れない葉』がそれである。今日午後初めてその知人にお電話して知ったことではあるが、その知人は私の家の近くで咽頭がんのために苦しい闘病生活を強いられている友にその本を是非渡してほしいと託されたのであった。

 私はそのことを知らされないまま、なぜか、今朝吸い寄せられるようにして、そのお預かりしている本をパラパラとめくっていた。私の良く存じ上げている牧師さんのお名前が三名ほどその本の中にはあった。その内容は野村ミサヲという方が悪性黒色腫という皮膚がんのために、三年余りの闘病生活の末、1987年3月26日に四十四歳の若さで天に召されたことを記録した「遺稿集」であった。

 何はともあれ、一体どういうご病気であったのか、またその方が、またご家族がどのような思いで病気に直面し、過ごされたのかを知りたくなり、ミサヲさんの書き遺された文章「涙の谷を過ぎる時も」を読ませていただいた。ところが、読んでみて、驚かされたのは大変な自らの病の記録よりも、病室に入って出会ったお一人お一人の方々と苦しみを共にし、かつその救いを心から願い、密かに祈っておられた姿であった。

 それもそのはず、彼女は入院する際に、ご主人と祈りをともにした時、ヨハネの福音書20章21〜22節を通して、死から三日後によみがえられたイエス様が弟子たちに『平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします』のみことばが与えられ、「私は病院へ遣わされて行くのだと信じて家を出た」と書いておられたのだ。

 病室では創価学会の方、またエホバの証人の方、実業界の方、教育界の方と、実に様々な方々との出会いがあり、それぞれの方に福音を伝えることが許され、永遠の「いのち」の確信までもっていただけたという喜びの話だった。

 私は、ちょうど5/17(水)に開かれた一人のご婦人の召天記念会のために聖書よりのメッセージを自ら買って出ていた。しかし、そのために、ゴールデンウイーク以来、どのようにその場でお話ししたらいいのか日夜思案し、苦しまされた。その懸念していた記念会も無事に終わり、ホッとしていた矢先、このような、この方の病を忘れさせるほどの様々な証の言葉に接して、ここに生きた証があったと思った。そして、もし、このことを事前に知っていたら、私の記念会のメッセージも随分変わっただろうなあーと思わずにはいられなかった。

 そうこうするうちに、つまり様々な方の追悼文やお写真を見るうちに、私はこの野村夫妻を以前から存じ上げていた方であったことを、薄紙をはがすように徐々に思い出したのであった。特にご主人の野村弘さんには何度か「ノア」に乗せてもらって、埼玉県内を行き来したことを思い出した。そして本の序文を書いておられる方とは、お互いにその存在を知っており、その方が中学校の責任者として私の勤務校にお見えになった時にはご挨拶を交わしたことまで思い出した。

 それにしても1991年8月20日発行の本が30年以上も経って、なぜ今、私の手元に渡ってきたのか、不思議でたまらなかった。その上、この遺稿集にはこのミサヲさんの記念会で語られた内田和彦牧師の爽やかなメッセージも載せられていた。内田牧師は様々な本を書いておられる方だが、私たちが信仰を持った当時、神学生であった方だ。懐かしくなり、野村さんにお電話したが、何しろ30年以上前の住所・電話で、通じなかった。

 そして「愛する我が子へ」と題した三人のお子さんに対して書き遺されたミサヲさんの20頁ほどの文章は特に感銘を受けた。その内の文章を一部抜粋しよう。

 あなたたちには信仰があり、聖書があり、祈ることができます。それこそ最善です。何か困ったことがあったら心を合わせて聖書を読み、祈り合ってください。神さまは必ず答えてくださいます。内輪もめほど、損なことはありません。兄弟仲よくしてください。それがお母さんの切なる願いです。友だちのまねをしたくなったら、それがいいことかどうか、聖書と照らし合わせてください。

このあと、さらに大切な勧めがなされている。その引用は明日にするが、これらには行き届いた母ならではの愛が満ちている。そして、長女の睦代さん(当時、高一)の記された「母の召天日」は、それゆえに、切々と迫って来る臨終の様子が記録されていて、涙せずには読めなかった。

 思えば、私も今から62年前の今日、1961年5月22日に母を四十四歳で失くした。この日に合わせるかのように、この「遺稿集」は何も知らない知人の手を通して私の前に現れた。まことに不思議なことだ。

涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。(旧約聖書 詩篇84篇6節)

2023年4月10日月曜日

日々イエスさまの御顔を仰ぎ見よう

イースター 友の語りし 喜びよ  
 昨日はイースター、主のよみがえりを記念する日だった。

 教会に出席していた頃は、「受難の七日間」を覚えて、その一週間前の日々、早天祈祷会が持たれていた。牧師がイエスさまの受難の七日間に応じたメッセージをしてくださった。出席は自由参加であったが、私はほぼ二十年間皆出席だったのでないかと思う。普段とは違い、朝早く起き、出勤前に会堂にまで出かけ、イエスさまの私たち罪人のための犠牲である十字架を思い、祈りをささげ、身を慎んだ。それは同時に我が身にとっては克己の一週間でもあった。

 その一週間もイースター(復活祭)の朝を迎えると、一気に喜びに変わり、爆発する喜びをあらわすべくありとあらゆる方法を用いて市民のみなさんのところへ福音を携えては出て行った。イースターの一日は教会員総出で野外に出て様々なイベントを行なった。「主はよみがえられた」と大きなアドバルーンを打ち上げたのを始めとして、野外に集まったたくさんの人々と礼拝をともにし、風船を飛ばした。それが終わると、「受難劇」を演じたり、模擬店を何店か出し、教会前は通行止めにしていただいた。夜は夜で映画会を野外で催し、一日お祭り騒ぎだった。

 一番気掛かりだったのは、天候であった。折角前日まで用意していても、当日朝になってみたら、雨が降ってたでは、すべての事前計画はだめになってしまう。しかし、その二十年間のイースターの日々、雨で中止した記憶はない。むしろ目まぐるしく動く雲や雨にさらされながらもその時は太陽が顔を出しイースター礼拝を予定通り送れた記憶があるほどである。クリスマスにくらべるとイースターは日本人には馴染みがない。ましてやイースターは日曜日だが、固定していない。年によってちがう。「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」と決まっているようで、今年は四月九日であった。

 その私が教会を出て、すでに三十三年経ってしまった。その日々は毎日がクリスマスであり、イースターであり、特別この日がイースターだと言って「克己」と身構えることはなくなっている。私自身、教会を退会して以後、信仰を捨てたわけでなく、むしろ主イエスさまの恵みをより一層体験する日々である。その私ではあるが、昨日は三ヶ月に一回の市川での礼拝に出かけた。当日は礼拝の後、福音のメッセージをするように依頼されていた。そのこともあって、先週はイエスさまの「受難の七日間」を覚えて、日を過ごした(つもりである)。

 そのために『受難の七日間』という、その名もずばりの、デンマーク人のA・フィビガーという方が書いた本を引っ張り出して読んだ。随所に線が引かれていて、何年か前に読んだようだが、すっかり忘れてしまっている。つかみ読みをしていたようで全編初めから終わりまで読み通した記憶はない。その本を改めて読み進めるうちに、聖書の奥深い叙述に改めて目を開かされた。閉じていた霊の眼が開かれたと言った方が正確だ。それをもとにイースターのメッセージを準備するには全く時間オーバーであり、土曜日の深夜まで何を語るべきか答えは一向に出ずじまいであった。とても市川にお邪魔するわけにはいかない、と心の葛藤は続いた。

 でも、出かけた。教会には牧師がおられる。ところが私の出席している集会は素人集団である。誰が何を語ろうが、語る人に全て任されている。これほど乱暴なことはない。しかし、それぞれが、主と聖書のことばをとおして日夜教えられている。だから、語る人、聞く人の垣根はすでに取っ払われている。教会では牧師さんが語られる聖書の解き明かしを、信者は口を開けて待っていれば良かった。考えてみれば、教会を出てすでに三十三年間、私は今度はその素人集団の一人として人前で聖書から話をさせていただいてきた。その私にとり、ここ数年聖書からお話をすることができなくなっている。それは聖書の真理を全く知らないという発見である。今回経験した心の葛藤もそのひとつだ。

 ところが、昨日は昨日で主の豊かな導きがあった。私の話の司会に久しぶりにお会いした方にお願いしたところ、その方が、ご自身の過去一年間の闘病のありさまを率直に話してくださった。一年間に三つの病(胸膜肺炎、胃がん、ヘルニア)を抱え、死を覚悟したこと、毎朝、目を覚ましてみると、生きていることを確かめる、その度に生きようとする力に満たされた。死にたくない、死ぬわけには行かない。私にはまだし残したことがらがあると語られた。苦しみをとおして与えられる喜びを味わったとも話してくださった。

 私はお聞きしながら、私も聖書の真理を理解するまでは死にきれないという思いがあるので、その方がおっしゃった「死にきれない」という思いに共感できた。それは「死にきれない」と思っても、「死がやってくれば素直に従おう、しかし、その時までやるべきことをやっておかなければならない」という決意の表明でもあった。もう今日のお話はやめにしようと思ったが、予定していた話「神の和解を身に帯びて」という題名でつたない話をさせていただいた。

 記念にその方の話をお聞きして感じた私の印象のみことばと、私自身がお話でお伝えしようとしたみことばをそれぞれ順に書かせていただく。

私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。(旧約聖書 詩篇17編15節)

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。見よ、古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。(新約聖書 2コリント5章17節〜18節)

2023年3月25日土曜日

桜花爛漫傍の「小会議」

窓越しに 桜見えたる 会議室
 今日は生憎の雨混じりの曇り空である。市民文化会館の三階の小会議室の窓枠いっぱいに桜が広がっていた。出席者は9名(内、ZOOM参加者が3名)。「会議は踊る、されど進まず」とは1814年9月ウイーン会議の進捗状況を嘆いた、フランス全権タレーランのことばだと言われている。

 さてこの「小会議」はどうであったか。この「小会議」には駆け引きは一切ない。お互いに胸襟(きょうきん)を開いての会議である。この「小会議」はコロナ禍をきっかけに始まった。始まって2、3年になる。この「小会議」は開くたびに互いが成長し合う。だからこの「小会議」の出席者は「会議は生命線だ」と思って参加している。

 ともに、さまざまの方々の病状や現状を心配して集まっている。しかし、そのうちの一人の方の病状は少し改善されつつあると報告され、元気づけられた。と言って、決して油断はできないとも皆思っている。だから「小会議」は続く。最後、なかなか結論が出せないように思える懸案もあった。けれども「会議は踊らなかった。進んだ。」

いったいだれが、主の会議に連なり、主のことばを見聞きしたか。だれが、耳を傾けて主のことばを聞いたか。もし彼らがわたしの会議に連なったのなら、彼らはわたしの民にわたしのことばを聞かせ、民をその悪の道から、その悪い行ないから立ち返らせたであろうに。(旧約聖書 エレミヤ書23章18節、22節)