以下の記事は、昨日紹介した飯守恪太郎さんが、ゴットホルド・ベックさんのお嬢さんリンデの葬儀の時の挨拶で述べられたものである。(『実を結ぶ命』59頁より)
私とベック一家との交わりは、家が近所ということもあって、早くも十年になろうとしています。しかし、親しく交わりを持つようになったのは、私と妻が主イエスを救い主として意識的に受け入れ、吉祥寺キリスト集会に集うようになってからです。そして、今度のリンデの召天のことは、ただ同じ集会の一員として以上に、二人の娘たちの心からの親しい友人の死であったため、感動的なできごとでした。私たちがどのようにリンデの状況を知り、私たちも祝福の中に導かれたか、たどってみたいと思います。七月十日朝八時、私たちが朝食をとろうとしていると、電話がなりました。『もしもし、恪さん、ゴットホルドです。おはようございます。実はリンデが病気なのです・・・・』ドイツは真夜中ごろです。ベック兄からの電話はシュトゥットガルト近郊にある彼の自宅からか、病院からか分かりませんでした。それは、ちょうど自動車による人身事故を知らされた時のショックと不安に似ていました。『きょうは、そちらは木曜日ですね。いつもの祈り会で祈っていただきたいのです。まだくわしくは分からないけれど、来週大きな手術をすることになりました。みんなで祈ってください』『はい、わかりました。きょうの祈り会で祈ります』『たぶん、がんではないかもしれないけれど・・・この十日間多くの検査をしたのですがよく分からないのです。二十四日に腹部を開いてみることになりました』三分間くらいの会話でした。
次の週の木曜日には、手術の結果を知らせる電話がありました。こちらは夕方の五時頃でした。『もしもし・・・がんでした。全体に広がっていて手の施しようがなかったので、そのまま閉じました。手遅れで医学的にはまったく絶望だということです。意識ははっきりしています。皆さんに続けて祈ってくださるように、くれぐれもお願いしてください』。
その日の夕食の時、妻や娘たちの目がうるんでいました。
私たちは、八月上旬から九月上旬まで、ドイツ各地の人々やキリスト集会の人々に会うためのキャラバン伝道旅行に参加する予定でした。そして、町田市の星淑子姉、白木みどり姉、それに私たち家族(息子一人、娘二人)は、八月十二日、成田からその目的をはたすべく予定通り出発しました。
三十三時間の飛行の後、フランクフルトに着くと、ベック夫妻と娘さんたちが、私たちを迎えて下さいました。リンデの病状の容易ならぬにもかかわらず、ご家族と私たちの気持ちは不思議なくらい静かでした。お宅までの二時間のドライブの車中でも、神への圧倒的な感謝と平安が支配していたようでした。召しを待つ彼女を見て思ったことは、私たちの目的は主イエスであり、イエス様は私たちの感じているよりも近くにおられ、礼拝せざるを得ないということでした。
彼女は、子供のような信頼と従順によって静かにベッドの上で目を開き、熱のためピンク色の頬に微笑を浮かべて、一人一人に挨拶をしました。私は思わずこう言ったのです。『日本にいるみんなのために祈って下さい。私たちはあなたを心から愛しています』と。彼女は大きく何度もうなずいてくれました。彼女の態度には、よく病人に見受けられがちな同情やあわれみをさそうようなものは、何もありませんでした。彼女の瞳は全身で神の御顔を見続けていて人間の同情など入る余地がなかったのでしょう。
帰国後、私の二人の娘たちは、来るべき日に、天国で彼女との永遠の再会を待ちつつ、日常生活でも以前とは違った張りとリズムを持って過ごしているようです。私たち夫婦も言葉ではうまく表現できないのですが、目ざす目的地が身近に感じられ、今日明日という一日一日がそのための準備であると思うようになったのです。愛するお方の前で恐れかしこむしもべでありたいものです。私は、黙示録の『さあ、花嫁はその用意ができたのだから』という一節が好きです。花婿なるイエスは花嫁である私たちをご自分の血潮によって受け入れて下さるという確信と平安の上にたって、日々生活をしています。
以上が、リンデの葬儀の時(1980年)に述べられた挨拶である。40余年前とは言え、私は、ここに主をひたすら愛する、純潔な魂の痕跡を見る。そして、そこには私たちの罪の身代わりに十字架にかかって血を流された主イエス様への感謝の思いが語られている。もちろん、生死を超越した生き方を保証する復活された主を知るがゆえに天国の確信がその挨拶の基調となっている。主を愛すれば愛するほど、人を愛する思いも増し加えられるのでないだろうか。
たまたまイスラエル人の歴史家ユヴァル・ノア・ハラリ氏のインタビュー(報道ステーション徳永有美アナウンサーによる)をユーチューブの配信で見たが、イスラエルとハマス、そこには双方における憎しみが勝利している現状が述べられていた。「憎しみ」に立ち勝るのは「愛」であると思わざるを得ない。
私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊(主イエス)の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。(新約聖書 黙示録19章7節)
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(新約聖書 1ヨハネ4章19節)
私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの父なる神に感謝しています。それは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いたからです。(新約聖書 コロサイ1章3〜4節)
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