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2025年9月7日日曜日

知る価値のあること


 私たちの人生には思わぬことが起こります。そのような時に私たちはどのような態度を取るのでしょうか。次にご紹介するのはA.ドーフラーさんの「知る価値のあること」と題する文章です。お読み下さいますように。(『重荷も軽く』28頁より引用)

 わたしたちの前に横たわっている将来のことは、わたしたちの視野からは隠されています。明日がどういう日か、明日になったら何が起こるか、わたしたちにはわかりません。しかし主は「神を愛する者たちには、万事が相働いて益となる」と約束なさいました。これは知っておく価値のあることです。

 万事と言うのですから、私を骨の髄まで驚かすような人生の大事についても、言っているのです。一見すると、こういう大事がわたしたちを押しつぶすのではないかと思われます。しかし、神が益となるようにしてくださることができないような恐ろしい不幸などはないのです。

 神は単に大事ばかりではなく、つまらない小事でも、わたしたちの益となるようにしてくださいます。人生には、つまらない事でいらいらしたり、悩まされたりすることが、よくあるものです。そういうつまらない小事が山ほど重なって、人生におけるせっかくの祝福がすべて奪い取られることも、しばしばあります。

 神が万事をわたしたちの益となるようにしてくださるというお約束を、真実と心得ておくならば、どんなことがあっても失望の底に突き落とされるようなことはなく、じっと耐えて主を待ち望むことができるでしょう。

 大事も、小事も、万事、現在だけを見るのでなく、永遠という見地から見れば、共に働いてわたしたちの益となるのです。神が万事を益となるようにしてくださる時、わたしたちの肉体的な平安と慰めをも考慮してくださっていますが、その上、特に私たちの魂の救いについて心にかけていてくださいます。ですから神は、時々、わたしたちが最もほしいと思うものを取り去られます。わたしたちが、神を愛する以上にそれらを愛し始めたことをごらんになるからです。わたしたちは自動車、パーティー、夜会、ゴルフ、商売その他のもののために神を忘れてしまうことがあります。そういう時に神は、わたしたちを窮地に追いやり、「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」ということを悟るようにといましめるのです。

 試練を受けつつ、人生を歩んで行かなければならない時、神は神を愛する者たちと共にいて、万事が相働いて益となるようにしてくださいます。この神のお約束に固くすがりついてまいりましょう。そうすれば希望に満ち、確信にみちて、明るく暮らしてゆけるでしょう。

 祈り

 恵み深い父よ、わたしの助けはあなたの所からまいります。あなたが、わたしの手を取ってお導きくださらなければ、わたしは一日も安全に過ごすことはできません。わたしの足もとはぐらつき、わたしの視界はかすんでいます。あなたが義の道へ安全に導き、永遠の生命をお与えくださることを信じて、わたしはあなたに従って歩んでまいります。主よ、わたしには理解できないことがたくさんあります。しかし、あなたがわたしを愛してくださっていることだけは、よく存じております。なぜならば、神は、わたしが永遠に生きることができるよう、あなたのみ子イエス・キリストを、死に送られたことを知っているからです。わたしの心からすべての疑いを取り去ってください。またあなたのお約束が、常に真実であると信じることができる信仰をお与えください。主よ、あなたの道はわたしの道とは異なります。しかし、あなたの道はあなたを愛する者にとって、あわれみと恵みの道であることをわたしは知っています。

 主よ、わたしたちがいらだち、あなたにいろいろ不平を言う時がありましたら、いつもイエスのゆえにこれをゆるし、あなたのもとにもっと親しくお導きください。これらのことを、イエスのみ名によってお祈り申し上げます。                  
                            アーメン

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださることを、わたしたちは知っている。(新約聖書 ローマ人への手紙8章28節 口語訳)

2025年3月1日土曜日

輝かしい希望


 今日から、弥生三月に入りました。庭の山茱萸(サンシュユ)の花が咲きほころびました。毎年のことですが、このように時至って花を咲かせてくれる木に心からなる感謝を申し上げたい思いです。でも、すべては主なる神様のご配慮なのですね。

 毎日毎晩、岩手県三陸大船渡市の山林火災に胸を締めつけられる思いがします。一日も早い鎮火をと祈ります。さて、今日は下記の文章を載せさせていただきました。『重荷も軽く』(A.ドーフラー著)の「輝かしい希望」と題する文章の引用文です。愛する友が重篤で入院中です。その方に読んでいただきたいと決心してお送りしたものです。皆様もお読みくだされば感謝です。

もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。(新約聖書 コリントへの手紙第一15章19節)

 希望は人生の源泉です。私たちの生活から希望を取り去ってしまったならば、私たちは平安を保つことができなくなり、絶望へと追いやられてしまいます。

 神を無視する者でも、この世に希望を託しております。彼らは生計を立ててゆくことを望み、より良いことに会うことを望み、健康でありたいと願います。

 しかし、イエス・キリストの復活ほど、私たちを大きな希望で満たしてくれるものはありません。イエスの復活は、イエスが神であることを示し、神のみことばとお約束が常に真実であることを物語っています。イエスはいつも私たちと共に居てくださることを約束してくださいました。イエスは私たちに慰めを与えてくださることを約束してくださいました。神は私たちに、イエスが生きていらっしゃるように、私たちも生きると確信させてくださいます。

 人生においてさまざまな苦労に出会っている時や、苦痛と病気のために閉じ込められている時ほど、この神のお約束は必要なのです。これらの約束は、私たちが決してひとりではないことを確信させてくれます。私たちは主イエス・キリストの永遠のご臨在をいただいているのです。

 その上私たちは、イエスの復活によって、もう一つの希望を持たせていただきました。イエスの復活は、イエスが私たちの救い主であることを語っています。キリストを死から復活させることによって、父なる神はイエスの犠牲が十分に完全に、私たちの罪の代価を支払ったことをお述べになりました。

 イエスは悪魔の象徴であるヘビの頭を砕きました。イエスは悪魔に対して勝利を得られたのです。それゆえ、キリストを身の隠れ家としている限り、何物も私たちを損なうことができないことを知り、希望に満ちて将来を望み見ることができるのです。

 キリストが死から復活なさったのですから、私たちの、苦痛を受け病気をしがちなからだも、ついには朽ちない状態によみがえり、主イエス・キリストの栄光のからだに似たものとしていただけるのです。私たちはこの世において、いろいろと多くの試みを受けます。私たちキリスト者も、神を無視し、キリストを否定する人々と同様に苦痛を受け、痛手をこうむります。もし現世にのみ希望を託するならば、私たちはすべての人々のうち最も哀れむべき存在となります。しかし死のかなたにおいて、この苦しみを受けているからだが完全な状態においてよみがえるというところに、私たちの希望が存在しています。そこにおいて私たちの目から涙がすべてぬぐい去られます。そこにはもう、この世の苦痛はありません。もはや死ということも無いのです。主の御前は、永遠に喜びに満ち満ちているのみです。それゆえ私たちの希望は、この世の生活を超越した果てしない永遠にあるのです。これらすべてのことは、イエスの復活によって絶対確実なものとなります。

 それですから復活祭は、私たちに世界で最も幸いに満ちた喜び、最も希望に満ちた神よりのことばをもたらしてくれるのです。パウロがローマ人への手紙8章18節で言ったとおり、私たちも「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」と心から言うことができます。そして十分自信に満ちて「 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(新約聖書 コリント人への第二の手紙。4章17〜18節)と付言することができるのです。

 祈り

 永遠に生きていらっしゃる救い主イエス様。あなたは罪と死に打ち勝ち、栄光ある復活をなさいました。それによって罪の赦しと平安が私たちに保証されました。私は心からあなたを讃美いたします。今日もまたあなたの慈(いつく)しみを私にお示しくださり、私のすべての罪をぬぐい去ってください。悩みと痛みと苦しみとを受けている私を、罪のくびきや苦難から永遠に解放してくださるというあなたのお約束によって、私は希望に満ちてあなたを仰ぐことができます。どうか御恵みによって、常に私の近くにいてくださり、一日のすべての時を、輝かしい栄光の福音によって慰め、揺るがぬ信仰をお与えください。

 あなたのみことば、および、あなたに対する信仰から、私たちすべてが最後まで離れることなく、神の国民を待ち望む栄光に連れて行っていただけますように。イエスの御名によってこの祈りをおささげいたします。 アーメン 

2019年12月12日木曜日

本の中の本

客間に 御子の御姿 赤子なり 2019.12.10

私は、あなたのことばを心にたくわえました。(詩篇119:11)

 世界じゅうで最も偉大な宝は何かと言えば、それは聖書です。聖書は本の中で最も古い本ではありますが、また現代のわたしたちすべての人間の心や生活に最もふさわしい本ですから、ごく最近の本であるとも言えます。この本ほど世界の人々の思想を左右し、人類に大きな影響を与えた本は、ほかにありません。

 神は、聖書は神ご自身のものであり、霊感によってわたしたち人間に与えられたものであるとおっしゃっています。すなわち、霊感ということばによって、神はご自分が直接に息を吹き込む特別な方法で、聖書を人類にお与えになったのであるということを、お告げになろうとしているのです。この霊感を受けうるのはある特定の人々、すなわち、旧約の預言者と、新約の使徒たちに限られていました。これらの著者たちが、聖霊によって霊感を受けて書いたのが、聖書なのです。

 「預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(2ペテロ1:21)ダビデも「主の霊は、私を通して語り、そのことばは、私の舌の上にある。」(2サムエル23:2)と言っております。

 この聖書はすべて一字一句に至るまで、神ご自身のものであると、神はおっしゃっています。したがって聖書の著者は、自分の考えを全然その中にさしはさんでおりませんし、聖書を記述したにもかかわらず、自分が聖書を書いたのだと誇るようなこともしていません。聖書は神のみことばを含む本なのではなく、神のみことばそのものなのです。

 神はまた、宗教に関することで、これ以上権威のある本はないとおっしゃっています。神はすべてのことを、みことばを通して啓示なさいました。それゆえ聖書は完全なものなのです。これよりもっと新しい啓示があるかもしれないなどと思うべきではありません。わたしたちが知る必要のあることは、すべてこの聖書に書いてあるのです。

 神のみことばは、決定的なものです。したがって聖書にのべられていることは、すべて不変で、絶対的に正しいことです。神は聖書に書かれてある以上には、おっしゃることはないのです。つまり、聖書は権威をもって教義や道徳のあらゆる問題を教えているわけです。この聖書はあなたの本です。ーー「私は、あなたのことばを心にたくわえました。」(詩篇119:11)ーーこの宝典に書かれてあることが、あなたの家庭にも、生活にも、心にも宿らなければなりません。聖書は試金石として役に立つのです。聖書によって何がまことで、何がまことでないか。何をしなければならないか、何をしてはならないか。また何を信じればよいかがわかるようになります。

 聖書はあなたの導きてになります。命にいたる細い道に導き、罪のおとし穴に落ち込まないように、あなたを守ります。

 それは足もとを照らすともしびであり、航路を示す灯台の光であり、あなたが失望や失敗にあったとき、あなたを元気づけてくれるのです。

 聖書はまた、よい道づれとして、あなたの役に立ちます。聖書は、主があなたのよい羊飼いであり、イエスがあなたの救い主であるという確信を与え、悲しみにあるあなたをよい友として慰め、あなたの涙をかわかし、あなたを希望で満たします。聖書はあなたが人生のいかなる状態にある時でも、それに適切なことばを持っております。

 それだからこそ聖書は、すべての時代を通じての宝典なのであり、神のみがわたしたちにこれをお与えになることができたのです。どうかこの聖書を常に身近におき、たいせつにしてください。そして聖書を読み、信じ、愛してください。あなたに対する神のみことばとして、聖書に強くたよってください。

  祈り

 いつくしみ深い父、主なる神よ。聖書によってご自分をわたしにあらわし、完全な救いをもたらすこの輝かしい福音によって、救いに至る知恵をわたしにお与えくださいましたことを感謝いたします。神のみことばである聖書を愛し、日々これを読むことにより、力と、慰めと、助けとが得られますように。わたしにとって必要なこの一つのもの、すなわち聖書にまさって親しみを感じるものが、この世に何もありませんように。神の霊感によるみことばの真実性を疑ったりすることなく、神のみことばの一言一句を、幼子のような信仰によって信じることができるようお導きください。

 このみことばが、地の果てまで達し、わたしの心に平安と希望をもたらしましたように、万人の心にも平安をお与えください。すべての罪をゆるし、神の救いの恵みの中に、わたしや、わたしの身内の者すべてを保ってください。神のみことばを学ぶことが、わたしたちの日々の喜びとなりますように。天から与えられた、生きたみことばである、わが主キリスト・イエスのみ名によって、心からお祈りいたします。     アーメン。

(『重荷も軽く』A・ドーフラー著1〜4頁より引用。)

2019年11月9日土曜日

天国の人名簿

長野県御代田町(2019.11.2)

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。・・・(マタイ5:3〜12)

 山上の垂訓は、わたしたちの主イエス・キリストの、記録された最も長い説教である。(略)山上の垂訓の最初の言葉に、キリストの人名録がある。この名簿に登録を許される資格は、この世の標準で判断されれば、奇妙で独特なものである。(略)

 まず最初に、イエスは心の貧しい者、みずからの霊的な絶望と要求とを感じる者の名をしるしておられる。これは、人は罪深くきよくない者であるから、功績によっては、救われないことを示すものである。彼らは、救いは恩恵によってのみ自分のものになることを知っている。こうした者に天国は約束されている。

 次にイエスは、悲しむ者を名ざしておられる。彼らは自分の罪に泣き、イエス・キリストの血がすべての罪から彼らをきよめて下さるという福音によって、慰められる者である。

 次に来るのは、たといわたしたちが高貴な身分であっても、自らの救いについて誇りうる者はだれひとりもいないということを知っている、柔和な謙遜な人である。神の恩恵は、わたしたちを神の国に招き、神の福音はわたしたちを信仰にみちびいてくれる。これは高価なものであるーーそれが神のものであるにもかかわらず、特権として受けて自分のものとなるのである。

 名簿の中には、次に義に飢えかわく者が続いている。彼らはキリストにおける神の愛を十分感知して、神に喜ばれることを行おうと切望し、努めている。彼らは満足し、神に報いる奉仕によって、最大の喜びを見いだすであろう。

 次に登録されているのは、あわれみ深い人である。彼らは親切であり、忍耐強く、思慮深い。彼らは苦しむ者とともに苦しむ。彼らはその新生した心の善良さから、善を行なう。彼らは親切をもって報い、あわれみが彼らに現われている。

 この名簿は、心の清い人がいなくては完全ではありえない。彼らの中には、わるがしこさも策略も見られない。口だけの礼拝は、このような人々には無関心である。彼らは神を見るであろう。

 記録はさらに、平和をつくり出す人たちをも含んでいる。わたしたちは、彼らを必要とする。彼らは生活をなめらかにし、摩擦をしずめる。神は彼らを、神の特別な子らと呼びたもう。彼らは家庭においても、教会においても、また国家にあっても、ものごとを円滑におさめるので、神に特に愛される者である。

 最後に、多くの迫害されてきた人たちが、キリストの名簿にしるされている。なぜなら、この世は、彼らをののしり、またきらったが、彼らはキリストを救い主また主として、告白した神の民だからである。あらゆる種類の虚偽と非難とが、彼らに計画的に投げつけられた。生活はきびしく、にがく、危険であった。しかし、彼らはどんなことにも屈せず、かえって喜んだのである。なぜなら彼らの名は生命の書に書かれているからだ。

祈り

 恵み深き主よ、あなたの恵みのうちに日々わたしを支えて下さい。罪をゆるし、正しい道にわたしをみちびいて下さい。生命の書にわたしの名が書きしるされている確かさをもって、慰めて下さい。わたしはわが主、わが救い主であるイエス・キリストによって、あなたから選ばれた者です。アァメン

(『聖書の黙想 第一巻マタイの福音書』アルフレッド・ドーフラー著矢野英武訳55〜59頁より抜粋引用。余談だが、そもそもこの本はその名も「復活書店」という知る人ぞ知る、名にしおう書店で数年前に100円で求めたものである。店主の方が今病に伏しておられることを2、3日前に知り、祈りの友の間でこの方のために祈り始めた。)

2019年8月29日木曜日

やみの中を歩いても

ドイツ・フュッセン近郊の湖(?) 2005.10.21

なぜならば、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。(コリント人への第二の手紙4:17)

 パウロの生涯の大部分は、重く患難がのしかかっていましたけれども、彼は歌っています。だれもパウロのたたえの歌の中に、悲嘆をみつけることはできません。パウロの讃美の歌には不協和な音はありません。苦難にあっても、パウロは喜んで言っています。「なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして希望は失望に終わることはない。なぜなら、わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。

 聖書は、わたしたちが人生においてぶつかる患難について、いろいろと言っています。一つには、苦難はわたしたちを正しくするものであると教えています。「主は愛する者を訓練し」、すなわち、神はわたしたちの人生の歩みにおいて、わたしたちを鍛錬なさるのです。

 聖書はまた、患難は、キリストに従ってわたしたちが負う十字架のようなものであると言っています。すべての苦難が十字架ではありません。なぜなら、病気や不幸や苦しみは、キリストを信じない者にもわざわいだからです。しかし、わたしたちが負う十字架は、わたしたちの主のために耐えて負うものです。幼な子のような信仰をもってキリスト者が苦難を忍ぶとき、それは、救いの主に従って喜びと希望と忍耐をもって負う十字架となります。

 これらの患難は、多くの場合悲痛です。パウロも「肉体の一つのとげ」と言っているように、彼のからだをさいなむ、痛いものです。このような苦しみは、よくわたしたちを恐れさせます。そしてわたしたちは神が不公平だと思い、しばしばいらだったり、不満になります。わたしたちはこれまでにどれほど神の恵みをいただいたかを忘れ、またこれから先の栄光を見失ってしまうのです。

 患難は悲痛なものですけれども、パウロはこれを「軽い」と言っています。というわけは、この苦しみは今だけのことであり、物的なこの世の中だけのことであるからです。この苦しみや困難は、わたしたちから福音の与える祝福も希望も奪いとることはできません。また天国の栄光も永遠の命の恵みも、わたしから奪うことはできないのです。ですからパウロは「このしばらくの」ということを強く言っているのです。

 確かにこのような苦難が一生続くこともしばしばありますが、永遠の時に比べれば、人の一生は「このしばらくの」時でしかありません。けれども苦しみの時はとても長く思われれます。むすこの事故の詳しい知らせを待つ母親には、数分間が数日のように思われます。しかし、むすこがピクニックなどに行って楽しく過ごしていると、一日などはまたたくままにたってしまうのです。未来に待つ永遠の栄光を待ち望むならば、パウロが言うように、患難も軽く、またしばらくの間のことです。

 ですからわたしたちは、この世から目をあげて永遠を見つめるべきです。まだ見ぬ輝かしい約束にわたしたちは目を向けなくてはなりません。そうすればわたしたちはどんなものにも比較できないほどの永遠のたまものに囲まれていることに気づくでしょう。この世の今ぶつかっている苦労や困難も、永遠の宝と比べればとるにたりないほど軽いものなのです。

 しかし、もしわたしたちが未来に待つ栄光に目を向けるならば、当然神のみことばの中に表わされている神の約束に注意をはらうでしょう。人生のどんな困難にも試練にも耐え、喜んで忍ぶことができるのは、キリストを信じる者たちだけです。なぜならば、わたしたちの主、イエス・キリストに表わされた神の愛を、何者も奪うことができないということを知っているからです。人生のすべての苦しみや悩みにかこまれても、キリスト者は救世主のうちに力と希望とを見いだします。ですからパウロは「わたしに力を与えるイエス・キリストを通してわたしはすべてのことができるのである」と言っているのです。

 わたしは「いさおなきわれを」(讃美歌271番)というあの美しい讃美歌を書いたシャーロット・エリオットがもしも病気でなかったならば、けっしてあの歌を書けなかったであろうと信じています。病人用の車の付いたいすから立ちあがれないからだであっても、心にイエス・キリストをいだくならば、人生は暗やみではないことを学んだのでした。身動きもできない彼女は、こう書いています。

  苦しみと疑いのあらしに、うちとそとの戦いとおそれに、
  わたしはうちたたかれ、おののく。
  おお、神の小羊よ、いさおなきわれは、みもとに行く。

    祈り 

 おお主よ、この世の労苦と試練の戦いに疲れはて、わたしは力を失い、失意にうなだれています。どうぞあわれみ深い主よ、わたしの心をゆるがぬ信仰と大いなる満足と、大きな希望でみたしてください。どうぞわたしに日々あなたがじゅうぶんな力を与えてくださることを信じさせてください。そして神の子らには限りない栄光が与えられている真実を、わたしの心に覚えさせてください。信じる心で、「みこころのままに」と言うことができる者とさせてください。

 天の父よ、わたしは鏡の前に立ってもはっきりと見ることができず、なぜこれらの苦しみがわたしに与えられるのか、理解することができません。けれども、わたしはあなたを信頼し、あなたの約束を疑わず、わたしとわたしの家族にその約束が実現されることを確信いたします。静かな、休養の日をお与えください。わたしの罪をゆるして、わたしの信仰を強めてください。わたしを救うために十字架の苦しみを耐えて負ってくださった、わが主、わが救い主、イエス・キリストによってこれらのことを祈ります。 アーメン


(『いこいのみぎわ』A.ドーフラー著松尾紀子訳65〜70頁より引用。)

2019年1月24日木曜日

キリストの中に隠れて(下)

美濃ミッション聖書学校授業風景

今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。(2テモテ4・8)

 この使徒は、死を越えて天国を待ち望むことができるのです。そこでは、義の冠を彼はいただきます。さばきの座にある神のみ前に立つパウロは、まったくイエス・キリストの義によって、公平な神から冠を授けられます。罪は除かれたのですから、何者も彼を神から分かつこともなく、天国を拒むこともありません。

 この冠はたまものです。ゴルゴタの丘に主イエス・キリストが聖なる血潮を流されたことによって与えられた義の冠です。それは「神からの賜物です。(決して)行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです(エペソ2・8〜9)」とパウロはこのことについて述べています。

 イエス・キリストにおおい隠された生活は、なんと喜びに満ちているのでしょう。病床にあってからだも弱り、苦しみや問題や困難が多いこの人生は、けわしく感じられますけれども、わたしたちが信仰に堅ければ、心に平安を与えられ、良心と希望と永遠の命の確かさをしっかりと持つことができます。このような信仰があれば、どんなことに出あっても希望を失わず、忍耐し、喜びを持ってしのぶことができます。

祈り

 慈悲深い主よ、この世の問題と疑いと恐れ、罪と誘惑にわたしが戦いをいどんでいます時、どうぞ信仰を強めてください。わたしの魂の敵を征服できるあなたのみことばと約束に、わたしがしっかりとささえられることができる恵みをお与えください。わたしは疲れはて、試みと不安におののいて、あなたのみ座にまいりました。わたしは幾度も失望し、心をうち砕かれました。人生の旅は果てしなく思われます。サタンは、あなたが、もはやわたしの願いも求めもお聞きにならないと耳うちします。どうぞ、わたしが心まどわされることなく、あなたのみことばと約束を堅く信じることができますよう、信仰を強めてください。あなたが常にわたしとともにおられ、わたしの力であり助けであられるという確かな約束を、不信と疑いによって奪われることのないようお守りください。

 いつくしみの父よ、わたしのあやまちを、どうぞおゆるしください。そして、イエス・キリストの尊い血によってわたしを清めてくださいますように。わたしは心の底からたえずあなたを愛しませんでしたことを告白いたします。また、わたしは日々の生活であなたを最もたいせつなかたといたしませんでした。おお主よ、おゆるしください。罪と誘惑を征服することができる力の源なるあなたのみことばを、この家族のひとりびとりが求めますように心を開いてください。いずこにありましてもわたしたちを祝福し、お守りください。あなたの教会(集会)がサタンと罪に対する戦いを続け、たゆむことなくあなたの救いの信仰をのべ伝えることができますように。主イエス・キリストにより、平安と愛をわたしのうちに満たしてください。 アーメン

(『いこいのみぎわ』A・ドーフラー著松尾紀子訳141〜143頁より引用。今日は写真として山中為三氏の若き日の写真を掲載した。興味ある方はhttps://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2018/12/blog-post_12.htmlの記事を参照されたし。)

2019年1月23日水曜日

キリストの中に隠れて(上)

暮れなずむ 裸木美わし 冬景色

私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。(2テモテ4・7)


 三人のイタリア登山家たちがアルプス山脈を登りましたが、その冒険的な登山の途中ですべってしまいました。そして五時間も断崖絶壁にロープにささえられて下がっていました。そのロープがぷっつりと切れたが最後、死の谷深く落ちて行くことを知っていた彼らは、その五時間に、いったい何を考えたでしょう。

 しかし、わたしたちはこの人たちと少しも変わらず、毎日を死と直面しながら生きているのです。考えてみればわたしたちのうち、だれも次の二十四時間を生きているかどうか知りません。このような考えにふと気がついたならば、わたしたちはどうするでしょうか。パウロは彼のキリスト者としての生活を通して、イエス・キリストの中に隠されているかぎり、少しも恐れることはないと信じていました。静かに過去をふりかえり、また、将来を見つめながら、「私は勇敢に戦い、信仰を守り通しました」と言っています。

 パウロはよく戦いました。彼は自分という者と戦いに戦いました。幾度も幾度も自分の中にある古いアダムを十字架にはりつけました。そして、彼は自分の信じてやまない主イエス・キリストから与えられた力によって、勝利を与えられたのです。

 パウロは、不信と、どん欲と、利己主義の世界と激しく戦いました。ダマスコへの道で回心した時以来、パウロはキリストのためにこの罪と不信との戦いを戦いとおしました。そして、神の恵みによって彼はどの戦いにも勝利を与えられました。

 ことに、パウロは信仰を守りとおしたと、はっきり言いはなっています。ただ一つの信仰を信じたというだけではなく、信仰を守りとおしたと強調しています。神のみことばにもとづく、確固とした信仰をさして言っています。わたしたちの主、イエス・キリストについての事実の記録と、真理のもとを信じたのです。すなわち、イエスがこの世におくだりになったこと、律法を全うされ、十字架上におなくなりになり、死からよみがえられた主イエスを信じました。ある人々は、熱心に信じるのであれば何を信じてもかまわないといいます。しかし、パウロはけっしてそうは言っていません。神と神のことばから、パウロは次のようにガラテヤ人への手紙で言っています。「私たちであろうと、天の御使であろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです」。人はイエスの福音を信じることによってのみ救われます。神の聖なるみことばのうちに神によって示された真理を堅く守らなければなりません。ローマの土の獄の中にすわっていても、神の恵みによって、「私は信仰を守り通しました」とパウロは言い、彼に示された真理に忠実であったと言うことができたのです。

 「私は走るべき道のりを走り終え」と言ったパウロは、彼の人生を神の栄光を表わすために用いました。彼の一生は忙しい一生でした。使徒行伝を読んだ人はだれでも、この使徒が成就した仕事を知って驚くでしょう。人間の目から見ると、パウロの一生はきびしい一生でした。コリント人にあてた手紙の中でパウロは「ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました」と語っています。それにもかかわらず、パウロの内的平安と満足から見るならば、パウロの一生はまことの満足にみちていました。心の底からしあわせであったこの人には、不満はありませんでした。彼は神の栄光のために生き抜いたのです。そして、その仕事を全うしました。彼はキリストについてのべ伝え、たゆむことなく、イエスの救いの福音を説きつづけました。

(『いこいのみぎわ』A・ドーフラー著松尾紀子訳138〜141頁より引用)

2018年12月23日日曜日

わが心の王 A・ドーフラー

寒空に 真紅輝く 薔薇の花 造り主をぞ ほめあげまつる
天は喜び、地は楽しみ、海とその中に満ちるものとは鳴りどよめき、田畑とその中のすべての物は大いに喜べ。そのとき、林のもろもろの木も主のみ前に喜び歌うであろう。主は来られる、地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる。(詩篇96・11〜13)

「主は来られる」ということは、旧約聖書の中を流れる喜びのしらせです。「きょうダビデの町に、あなたがたの救い主がお生まれになった。このかたこそ主なるイエス・キリストである」という喜びのしらせが、世界の果てまでのべ伝えられる日を、神の民たちはどんなに待ちのぞんだことでしょう。この主は、おとめマリヤより生まれたイエスとして現われたのです。このかたこそは「その翼には、いやしの力を備えて」救いのためにこの世においでになったのですから、すべての人々は喜ぶべきです。

 すべての造られたものたちは喜び歌って、「地は楽しみ、海とその中に満ちるものとは鳴りどよめき、田畑とその中のすべての物は大いに喜べ」と叫ぶのです。すべての造られたものは、喜びに歌わなければなりません。なぜなら、彼らの王がこの世の救い主として地にくだり、ヘビのかしらをふみにじって、サタンの力を砕かれたからです。

 主を信じる者たちに、イエスは真理をもって来られます。「わたしの父から聞いたことをみなあなたがたに知らせた」。わたしたちはイエス・キリストのうちに、神の完全な、また最後の啓示を見ることができます。わたしたちはもうこれ以上に、神からの霊的な新しい真理を待ち望むことはありません。生けることばであるイエス・キリストによって、聖書の中にことばとして完全な真理を与えられています。魂の救いにわたしたちをかしこく目ざめさせるすべての必要なことが、はつきりとわたしたちに知らされているのですから、わたしたちは心から喜ばなければなりません。

 一方、イエスはまた、この世をさばくために来られたのです。この世の中は不義と不正にあふれています。国々も王国も、正義を行なっていません。不道徳がますます栄え、ついには罪が勝ち誇るのでしょうか。いいえ、イエスが王なのです。イエスが正義と力によって、この世をすべられるのです。イエスが国々の境を定め、この世の王たちや、為政者を導かれ、この世の民を導かれるのです。ですから、たとえ戦争の危険がせまっても、四方に悪が横行しても、恐れおののくことはありません。キリストは王であり、キリストを信じる者たちを、お守りになるのです。地獄のとびらは、キリストの教会に逆らうことはできません。また、なにものといえども、信じる者から福音を奪うことはできません。

祈り

 いつくしみの救い主、イエスよ。わたしはあなたを、わが主、わが神、この世の王、あなたの教会の祭司長とあがめまつります。人類の唯一の救い主、天と地の唯一の王として、あなたをおそれ敬います。わたしたちの心の中におはいりになり、あなたの愛とあわれみをもって治めてください。わたしのあやまちをおゆるしください。そしてどんな苦しいときにも、わたしをささえてくださるあなたに、忍耐づよくお仕えできるようお教えください。

 あなたがおえらびになった者たちとともにみ座に近く生きて、み名をたたえ、いけにえとなった小羊なる神の子の栄光をたたえることができますよう、また終わりの時まで忠実な者となることができますよう恵みをお与えください。 アーメン 主をたたえます。 アーメン

(『いこいのみぎわ』A・ドーフラー著松尾紀子訳97〜99頁より引用)

2018年12月20日木曜日

神の限りない恵み(下)


わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。・・・わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者になる。(エゼキエル34・16、22)

 病気に苦しむとき、わたしたちは、神がわたしたちのことをお忘れになったのではないか、わたしがどんなに絶望していても、かえりみてくださらないのではないかというような気がいたします。痛みと苦しみに耐えて幾日も幾日も横たわっていると、心も暗くなり、傷ついたようになります。そしてこのときサタンが来て、神はもうあなたを愛してはおられないぞとささやき、そそのかしはじめます。このように、悪魔がわたしたちの心の中に汚らわしい思いをささやくときにこそ、神がわたしたちひとりひとり、信じる者におっしゃった、「すべての人を救う神の恵みが現われた」ということばを思い出しましょう。そして信じる心で「わたしもこのすべての人のひとりであり、神は限りない愛でわたしをいとしんでくださる」と言いましょう。

祈り

 おお主よ、あなたはきょう、わたしがどんなに弱りきって、力ないかを知っておられます。わたしはこの苦しみのために、暗い思いに沈んでいます。重荷が絶えまなくのしかかり、この人生の歩みはむずかしくてなりません。けれども主なる神よ、あなたは、あなたの牧場にあるすべての羊を愛してくださると約束なさいました。それゆえに、わたしはみ手にすべてをゆだねます。すべての困難にうちかつ力をお与えください。あなたの限りない愛がわたしとともにあり、福音を通じて救いがすべての人々に与えられることを思い起こさせてください。

 わたしが心のまどいと罪によって、あなたに逆らいましたことを、どうぞおゆるしください。あなたの愛が限りなく、日々新しくわたしのうちに豊かに注がれることをお教えください。わたしのからだが病気の床にあるときにも、あなたの恵みが豊かにあることを、わたしの目を開いてお教えください。あなたはわたしの心に平安と、希望と、永遠の命をお与えくださいました。イエス・キリストによってわたしの救いを確かにしてくださった神よ、日ごとにあなたとともに歩む恵みをお与えくださいますように。

 わたしと、この家族が、心さわがすことなくあなたとあなたの約束とを信じて、救いの信仰のうちに堅く生きることができますよう祝福してください。あなたの愛を示されたわが主イエス・キリストによって、これらのことをお祈りいたします。 アーメン

(『いこいのみぎわ』94〜95頁より引用)

2018年12月19日水曜日

神の限りない恵み(上)

すべての人を救う神の恵みが現われた(テトス2・11)

 よく命を二足三文にあつかうことがあります。エジプト人たちの間では、どれいたちはハエのように死んでいきました。ピラミッドに積み上げるための巨大な石を、十万というどれいたちがむちを持つ監督のもとに働かせられました。そして何千もの命が、疲労と暑さと酷使のために死にましたが、だれも気にかける者さえいませんでした。

 わたしたちの主なる神は、けっして人の命を、こんなふうに軽々とお考えにはなりません。神の目には、ひとりびとりがたいせつなものであり、一つ一つの魂は尊いものなのです。人間が罪を犯して、神の聖なるみこころに逆らうことがあっても、それでもなお神は、恵みと愛とを、忍耐つよくお示しになるのです。たとえ神が人間のあやまちを正すために、きびしくなさることがあっても、悔い改める余地を残しておかれます。アダムとエバとを楽園から追放するとき、彼らを助け出す救い主をお約束になりましたし、ノアの時代にさえも、百二十年という恵みの歳をこの世にお与えになっています。神が人間のする悪いことを、じっと忍耐づよくこらえてくださるのは、一つ一つの魂をたいせつにお考えになり、いつくしみ深い神がすべての人間を悔い改めに導きたいと願っておられるからです。このように救いに導く神の恵みは、すべての人に現われたのです。

 神の恵みは、すべての人に与えられます。この世に生まれて来た人には、ひとりとして例外なく、この恵みは与えられるものです。楽園から落ちたアダムにも、ウリヤを殺してその妻を取るという二重の罪を犯したダビデにも、自分のことばかり考え、どん欲で人のものをかすめ取ったザアカイにも、また主を否定したペテロにも、悪いことをして報いを受けて死にかけていた盗人にも、神の恵みは与えられるのです。

 神のこの限りない恵みは、失われた者たちにも与えられています。神はその恵みから、ひとりものけ者にはなさいません。神の愛は、弟アベルを殺したカインを救おうとしましたし、長子の特権を売ってしまったエサウを助けようと、心をくだかれました。また幾度も神に従わなかったサウル王を救うことを拒まれませんでした。「主はひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(2ペテロ3・9)。このように、神の愛は限りないのです。

 神の恵みが救いをもたらすのです。この救いは、イエス・キリストによってわたしたちにもたらされました。神はイエスを通して愛を表わされたのです。神は、わたしたちがひとりでも滅びるのを望まれませんでした。それで、み子をこの世におくだしになり、わたしたちの犯した罪の報いをみ子イエスがわたしたちにかわってつぐない、神の法の前に立つようにおはかりになったのです。みどり子のときから死にいたるまで、イエスは思いと、行ないと、ことばにおいて、父なる神のみこころに従われました。主はわたしたちの罪に傷つき、わたしたちのあやまちがゆるされるようにと、血を流して、神の求められるさばきをわたしたちにかわってお受けになったのです。そしてこのつぐないは、主なる神を満足させることができました。なぜならば、神はイエスを死から天に引き上げられたからです。イエスの死と復活によって、わたしたちの救いは確かなものとされたのです。

 この救いは、すべての人々にのべ伝えられるべき福音を通してもたらされます。救いをもたらす神のこの恵みは、またゆるしと永遠の命とを与えます。このことを、はじめにかかげた聖句が強調しているのです。

(『いこいのみぎわ』A・ドーフラー著松尾紀子訳92〜94頁より引用。前回の記事で監察医の方のご本を紹介したが、今日のこの文章をとおして「監察医制度」は主の例外なき愛にその原点を求めるべきでないかと思った。)

2018年3月1日木曜日

天国(下)

 天国では、どのようにして住むのでしょうか。家や町があるのでしょうか。聖書はそれについて語っていません。しかし、聖書は天国は住みかであり、たくさんの住まいがある神の都、新しいエルサレムというように述べています。けれども、それは重要なことではなく、天国にはいることだけが最もたいせつなのです。ほかのことは、いつくしみと善意の主におまかせすることができます。

 信じる者たちがつどう天国で、わたしたちは全き祝福と喜びの中に生きるのです。ヨハネの黙示録7章17節には、「また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとってくださるであろう」「彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽の炎暑も彼らを侵すことはない」とあるように、天国には、もう苦しみがありません。「もはや悲しみもなく」(ヨハネの黙示録21章4節)、背信も、罪に落ちることもないのです。「勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱にしよう。彼らはけっして二度と外へ出ることはない」(ヨハネの黙示録3章12節)、「また、彼らをわたしの手から奪い去る者はいない」(ヨハネによる福音書10章28節)としるされています。

 この天国は、たまものです。主イエス・キリストが、尊い、聖なる血潮によって求めてくださった恵みなのです。「これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、み国をつぐ者となるためである」(テトスへの手紙3章7節)。「しかし、神のたまものは、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」(ローマ人への手紙6章23節)と聖書は述べています。

 イエスは信じる者たちを迎えるために、この天国におのぼりになりました。そこではキリストが王の中の王、主の中の主として、永遠におおさめになるのです。この涙の谷にあっても、いつの日か永遠に滅びることのないみ国の世継ぎとして、天に迎えられることを信じて、この世の苦しみにくじけることなく生きましょう。

祈り

 主イエス、尊い救い主よ、あなたが天国の栄光をお示しになり、わたしを永遠の栄光の世継ぎとさせるために、あなたの血潮であがなってくださいましたことを感謝いたします。終わりの時まで、どうぞ信仰堅く生きることができますようにお守りください。天国に迎えられるという言い表わしようもない恵みにくらべます時、この時、この世の苦しみはとるにたりないものであることを、思い起こさせてください。この家族の者が、ともにあなたの栄光を仰ぐ恵みをいただけますよう、また不信と疑惑と罪とによって、この祝福されたいのちを失うことがありませんよう、日々あなたに従う者となしてください。

 この世の思い煩いをしりぞけて、永遠の尊さを思い、日々を過ごすことができますように。この世には永遠の都はなく、わたしはこの世では巡礼であることを思い起こさせてください。この輝かしい真理によって、この世の煩いや不安のすべてを忍耐し、喜びをもって忍ぶことができますように、また、ついにはあなたの王座近く、あなたととこしえに生きることができますようにお導きください。わが救い主、王なるあなたをたたえます。

(『いこいのみぎわ』A.ドーフラー著 松尾紀子訳より引用。)

2018年2月28日水曜日

天国(上)

 昨日は一人の友を、皆さんと一緒に病院にお訪ねした。月曜日、緩和ケアの病室に入られたばかりであった。昨夏以来、数ヶ月ぶりにお会いした。病のために痩せられたが、私たちを前にしてご自身の日記を読み上げられた。2月7日のものは、「私は天国へ行きます」という内容の心を打つ文章であった。過去自分は不真実なところがあったが、それにもかかわらず、主イエス様はよくしてくださったというものであった。その後、ウェスレーのお好きなメッセージも読んでくださった。そのあと、皆さんで讃美し、ともにお祈りして帰って来た。

 今日は家庭集会であった。メッセージは「永遠のいのち」に至る道そのものであるイエス様の紹介を十分してくださった。証は先年召されたご主人がどのようにして主に導かれて「天国」へと旅立たれたかの話であった。

 そこで、今日と明日二回に分けてA.ドーフラーという方が書かれた「天国」についての文章を引用することにする。

「キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。」(ヘブル人への手紙9章24節)

 聖書の中で天(heaven)ということばは、二つの意味に用いられています。一つは、わたしたちの目で見ることができる天をさしています。創世記1章8節には、「神はその大空を天と名づけられた」と書いてあります。ペテロの第二の手紙3章10節に、「しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消えさり」とあるように、この天は過ぎ去るものです。

 聖書に用いられているもう一つの意味は、キリストが、信じる者をすべてお連れになる神の永遠の住まいをさしています。「わたしの父の家には、たくさんのすまいがある。・・・そして行って場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」とヨハネによる福音書14章23節に述べられています。

 この永遠の天国は、過ぎ去ったり、消えたりするものではありません。テサロニケ人への第一の手紙4章17節には、「こうして、いつも主と共にいるであろう」としるされています。この永遠の天国をじゅうぶんに説明することは、人のことばではできません。それについて、コリント人への第二の手紙の12章2、4節には、「わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた・・・。この人がパラダイスに引き上げられ、そして口に言い表せない、人間が語ってはならないことばを聞いたのをわたしは知っている」としるされています。

 それにもかかわらず、天国について多くのことが言われています。わたしたちが患難に会い、病気で苦しんでいる時は、ことに天国への関心が強まります。この時こそ、わたしたちは信じる者すべてに約束された永遠の住みかについて、喜んで学ぼうとします。

 天国はどこにあるのでしょうか。聖書ははっきり言っておりません。しかし、ヨハネによる福音書にしるされた、「わたしは行って、あなたがたのために場所を用意する」というイエスのことばによって、天国があることは確かです。

 どうすれば天国に行くことができるのでしょうか。聖書は、イエス・キリストという唯一の道を通してのみ可能であると教えています。ヨハネによる福音書14章6節には、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」としるされています。天国に行くことができる人たちは、イエスが流された血によって自分たちの罪が洗われ、清められたことを信じる人たちです。ヨハネの黙示録5章9節には、「あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない」としるしています。イエス・キリストこそ自分を罪から救ってくださる救い主であると信じる者すべてに、天国は約束されています。「それは、み子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」とヨハネによる福音書3章16節にしるされています。