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2025年5月8日木曜日

ゴールデン・ウィーク(下)


 「ゴールデン・ウィーク」とはサラリーマンにとっては、大変な息抜きの期間であろう。それがあればこそ、日常の精魂尽き果てる仕事も耐えられるというものだ。そこへ行くと、年金生活者は毎日が日曜日だから、一年365日、身の回りのちょっとした風景にも魂が癒される瞬間を味わう恵まれた身分であり、現役の皆さんには申し訳ない思いがする。しかし、そうとも言い切れない。いかなる形を取ろうとも後述するように、ゴールデン・ウイークは魂の真の安息があって初めて味わえる境涯ではなかろうか?と思うからである。

 さて、木内昇さんは『北越雪譜』を基礎資料とし、30近い文献をもとに『雪夢往来』(※1)という小説を書き上げられた。最初この本の題名は漠として意味が通じなかったが、二度読みだけでなく、じっくり考えてみると、良く考えられた作品名だと思う。第一、「往来」という言葉に万感の思いが込められている気がする。それは北方丈雪の越後の人である鈴木牧之が東南寸雪の暖地の人々と「往来」することによって、自らの経験を、すなわち「雪国」の生活を伝えたいという「夢」が如何にして実現したのかを丁寧に追っている作品だからである。

 そもそもこの夢は江戸へ縮の行商に行ったことが端になっている。その辺の事情が次のように鈴木牧之の本名である「儀三治(ぎぞうじ)」(※2)として作中で語られている。

 江戸とは絶えず繋がっておらねばならぬーーそれが、二十歳を過ぎた頃から儀三治にまとわりついて離れずにいる思量なのだった。縮は江戸にも卸すゆえ往き来を絶やさぬよう目配りをしておきたいという商売上の理由もあったが、かつて行商で江戸を訪れた折、人々が越後国についてあまりに無知であったことに落胆してからというもの、己の故郷をあまねく知らしめられぬかと、そんな希求が湧いて鎮まらぬのだ。雪深いこの塩沢を特段誇りに思うわけでもなかったが、始終空っ風が吹いて、少し表を歩くだけで髷から着物の中まで砂まみれになるあの江戸に住む者たちから、「越後・・・・ああ、山越えて裏っ側にある国だろう」と軽んじられるのもまた癪だった(※3)。(『雪夢往来』17頁)

 商いの傍、書画に打ち込む儀三治については

 話がまとまらぬまま会は夜半にお開きとなり、儀三治はひとり、自室に据えた文机に向かう。家中はとうに寝静まっている。燭台の小さな灯りを机脇に置き、誰にも邪魔されず書や絵を描く刻を、彼はなにより愛おしんでいた。不思議なことに、そうしていると本来の己に立ち戻れるようで、気持ちは凪いでいくのに総身の血道が躍るような昂揚を覚えるのである。(同書14頁)

 著者木内昇さんが描く小説の出だし部分のほんの一端を写してみたのだが、抑制された文章はこのあと394頁ばかり続く。そして「本来の己」に立ち戻るための書画が、鈴木儀三治(鈴木牧之)の『北越雪譜』であったことが証されていく。寛政年間から天保年間に至る中央文壇の戯作者のそれぞれの生き方が、鈴木牧之の悲願と言ってもいい、『北越雪譜』の板行に至るまでのおよそ40年近い歳月の流れの中で語られて行く。

 山東京伝(1761〜1816)、滝沢馬琴(1767〜1848)(※4)、十返舎一九(1765〜1831)など、この錚々たる中央の戯作者の伝(つて)を頼りに、版本刷りを手掛けてくれる版元の引き受けで『北越雪譜』は天保12年(1841年)にやっと陽の目を見る。しかもそのことが可能になったのは、山東京伝の弟である山東京山の助けがあってのことである。

 本小説の最終頁(394頁)で、鈴木牧之が身罷(みまか)ったのちも安政5年90歳になるまで生を存えた山東京山(相四郎)の臨終の場面を作者は設定し、次のように語っている。

「わしは戯作に出会って、幸せだったのかのう?」
誰に言うでもなく、闇に向かって独りごちる。その様を見詰めていた猫は、相四郎に添うように床の上に横になると、やがて甘えた鳴き声をあげてから目を閉じた。猫に誘われたわけでもなかろうが、ひどい眠気が襲ってくる。相四郎は、ようやっとすべての枷が解かれた軽い身体で、深い眠りへと落ちていく。

 これぞ、まさに「ゴールデン・ウィーク」の落とし所かも知れぬ。相四郎の眠りがそれを象徴するように思う。作家稼業は決して楽ではない。しかし「己」を取り戻すための作業であるとしたら、200年前の苦渋を極めた先人たちの歩みも間近に思えるのでなかろうか。著者がこの小説はあくまでも「フィクション」ですと帯で断っておられるように絶えざる問いかけがこの作品の良さであるように思う。「蔦重」がテレビ大河ドラマで話題になっているのを知っている。その蔦重は戯作者の思いが世間に伝えられるように道備えをする大切な役割を果たすこともこの作品を通して考えさせられた。

※1 『雪夢往来』の表紙絵は鈴木牧之の描ける「塚山嶺雪吹図」である。『北越雪譜』に示されている鈴木牧之の文意もさることながら、絵筆の巧みさを思わずにはいられない。その辺を『雪夢往来』はすでに表紙絵で表している。
 
※2 儀三治は俳句を嗜み、句会を催していた。父恒右衛門の俳号が「牧水」でそれを継いで「牧之(ぼくし)」と名乗っていた。

※3 関西人である私が初めて栃木県の足利に降り立った際に経験したのもこの空っ風と砂まみれになる生活であった。これは大いなるカルチャーショックで湿気のある温和な風土である近江の地を懐かしんだものである。儀三治さんの話される雪国の生活とは『北越雪譜』を知るまではついぞ知りえなかった。それこそ川端康成の創作『雪国』の都会人が見た雪国の姿でしかなかった。

※4 滝沢馬琴については山東京伝に比して、どちらかというと悪し様に描かれているように見えるが、同書326頁に渡辺崋山が馬琴の長男の宗伯が亡くなった時、弔問に訪れたことが書いてあった。にわかに、この小説が身近になった。私がその足利で下宿させていただいた『巌崋園(がんかえん)』はその崋山が逗留したお家であったからである。もっともその史実を確かめたわけではないが・・・

 最後に昨日の伝道者の書の続きの部分を聖句として紹介しておく。

知恵ある者のことばは突き棒のようなもの、編集されたものはよく打ちつけられた釘のようなものである。これらはひとりの羊飼いによって与えられた。わが子よ。これ以外のことにも注意せよ。多くの本を作ることには、限りがない。多くのものに熱中すると、からだが疲れる。結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。(旧約聖書 伝道者の書12章11〜13節)

2025年5月7日水曜日

ゴールデン・ウィーク(上)

 草むらの ムラサキツメクサ 優雅に
 今年のゴールデンウィークはあっと言う間に終わった。第一、いつから始まったか、その自覚もないまま、気がついた時には、もうそのウィークを抜け出てしまっていたのだ。なして、そのような羽目に陥ったかと言うと、一冊の本に夢中になったからである。

 その本とは『雪夢往来』(木内昇著新潮社)である。2月初めにこの本のことが東京新聞に出ていた。早速図書館にリクエスト。ところがすでに私の前に六人ほどのリクエスト者がいて、私のところには当分回って来ないことがわかった。私だけでなく、「木内昇」ファンがいるのだと改めて思わされた。それから4月下旬になってやっと私の番が回ってきた。待望の本だが、今や興味は薄れていたので、すぐ読まずに放置してしまった。

 2月当時北陸・東北・北海道など大変な豪雪だった。その時、私は『北越雪譜』を思わずにいられなかった(https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/search?q=%E5%8C%97%E8%B6%8A%E9%9B%AA%E8%AD%9C )。そのような折、東京新聞の「推し時代小説」の案内文に接した。私の好きな作家である木内昇さんが、『北越雪譜』の著者である鈴木牧之(すずき・ぼくし)について書いているということだった。だから是非読みたかった。

 ところが、その冬も過ぎ、春の陽気とともに、いつの間にか興味が薄れてしまっていた。だから二週間の貸与期間も、他の私自身が3/16以来日夜取り組んでいる本(『聖パウロの生涯とその書翰』デーヴィッド・スミス著日高善一訳)の存在があり、打っちゃっておいた。ところが返済期限が間近に迫るにつれ、読まずに返すのも癪だという思いが沸々と湧いてきた。最後4日間がちょうどゴールデンウィークとぶつかったという訳だ。

 しかも『雪夢往来』というこの本は結局、二度読みする羽目に陥った。人々が物価高の今日、様々な工夫をしながら、ゴールデン・ウィークを外に出かけて行く姿をTVを通して横目で見ながら、木内昇さんの筆にしたがってほぼ200年ほど前の鈴木牧之(1770〜1842)の越後での生き様を辿ることになった。あとで気づいたのだが、ほぼ一年前も木内昇さんの『かたばみ』という小説を読んでいた(https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/06/blog-post_14.html)。

伝道者は知恵ある者であったが、そのうえ、知識を民に教えた。彼は思索し、探究し、多くの箴言をまとめた。伝道者は適切なことばを見いだそうとし、真理のことばを正しく書き残した。(旧約聖書 伝道者の書12章9〜10節)

2024年11月7日木曜日

ルーテルの恃み(8)

河岸を 餌求め歩く 白鷺(※)
 なかんずく1520年にはルーテルは三つのえらい著述を為した。これは三大宗教改革論文といわれ 、今日においても実に貴きものである。しかもかかる立派な著述を八月の初めから十月の初めまで、僅々二ヶ月の間に引き続いて発表したのである。その一つは有名なる『キリスト者の自由』であった。次は『教会のバビロン俘囚』であった、もう一つは『ドイツの貴族に与うる書』であった。いずれも聖書の重んずべきことを主張したる論文である。

 例えば『キリスト者の自由』においてはこんなことを言うている、「霊魂に自由を与えるものは外側の事物ではない。僧の衣を纏(まと)いローマの本山に住んでも霊魂には何の益にもならない。霊魂はただ神の言すなわち福音さえあれば足りるのである。福音によりて初めて真の自由が得られるのである」と。あるいはまたいう、「今日豪然として法王様とか監督様とかいっておる者を聖書には何というておるか、曰く役者(つかえびと)、僕(しもべ)、家宰(いえつかさ)と呼んでいるのである。彼らは信者という点においては少しも一般のキリスト者と違わない。ただ違うところは彼らは信仰上のことをもって他の人々に仕える僕であるのみ」と。

 『教会のバビロン俘囚』の中にはこんなことをいうておる、「すべてのこと皆ただ聖書によってのみ判断すべし」と、すなわち聖書以外に判断の根拠は何処にもないというのである。而して彼は聖書に照らしてローマ教会の聖礼典制度(サクラメント)を鋭く批評した。洗礼と主の晩餐以外のサクラメントは皆聖書に基づかない人間の伝説または命令によるものだからこれを廃止すべしというている。

 また『ドイツの貴族に与うる書』には、ローマ教会が法王のほか何人にも自分で聖書を解釈することを許さないことを手厳しく非難していうている、曰く「聖書を解釈し得るものが法王のみであるというならば、しかしそれがほんとうなら聖書の必要がそもそも何処にあるか。むしろ聖書をやいてしまってローマにいるあの無学無信仰の坊主たちで満足するがいい。現に彼奴(きゃつ)等が悪魔の手先であるということを知ったのも、私が自分で聖書を解釈したからではないか」と。

 一にも聖書、二にも聖書、三にも聖書、聖書聖書聖書である。そしてその論鋒の鋭いこと、実に聖書によらなければ到底できないところである。ルーテルには敵の本営を突き崩さねばやまぬような鋭い力があったが、それは彼の性格によるというよりもむしろ彼の用いた聖書の力であった。聖書そのものが両刃の剣よりも鋭いのである。これはいわゆる「たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通す」(新約聖書 ヘブル4章12節)。これを武器として用いて、鋭からざるを得ないのである。

 そのうちに遂に法王はルーテル破門の令書を発布した。ルーテルは法王より狐、野猪、猛獣などという名を被(かぶ)せられ、いよいよ最後の処分に処せられたのである。この当時において恐るべきものは地震でもなく雷でもなく、実に法王よりの破門であった。幾百万の忠良なる国民と精鋭なる軍隊とを背後に有する皇帝すらも、この処分には敵(かな)わなかったのである。しかるに見よ一巻の聖書の他何の頼るところなき寒僧ルーテル、彼は同僚と学生とを招きウイッテンベルヒの門外に火を炊いて法王の令書を焼いてしまったのである。一人の坊主が法王の令書を焼いたと、これを聞いてドイツ全国否欧州全体の心臓がひっくりかえるほど驚いた。今日の我々にはとてもその驚きを想像することができない。しかしながら聖書によってキリストと神とに恃める一人のルーテルは強かった。皇帝を頤使(いし)するローマ法王といえども、彼一人をどうすることもできなかったのである。

 遂に1521年の有名なウオルムスの議会が来た。正にルーテル三十有八歳の春である。この議会は皇帝チャールズ五世の即位以来初めての議会であったがため、その議題に上るべき事件は色々あったが、なかんずく最も重要なる問題はドイツ国とローマ法王庁との関係であって、而してその中にはもちろんルーテルの破門に関する帝国の処置如何ということも含まれておった。法王はこの議会へ使者を遣わして皇帝宛の親書を送り、ルーテルに対する破門処分を執行せんことを要求した。皇帝は政治上の理由よりこの際法王と握手せんことを欲していた。しかしながら一応の審問もしないで法王の要求のままに自分の臣下を処分するが如きは威厳にも関するというわけで、ルーテルを召喚し議会へ出頭させることにした。

 途中ルーテルの一身に関しどんな椿事(ちんじ)が持ち上がるかも知れぬ虞(おそれ)があるので、皇帝からその安全を保証するための保身券が下付せられた。ルーテルはこの皇帝よりの召喚の命令に応じて、1521年4月2日遠くウオルムスに向かい、ウイッテンベルヒを出発した。彼の前途は雨か霞か、黒い雲が一面に地平線の上を蔽うているが如くに見えた。死の影が前に漂うているが如くであった。いずれにしろ唯ですむはずがなかった。ルーテルはもちろんそのことを自覚しておった。しかしながら彼には恃むところがあった。まさに出発せんとするに臨みその友リンクに手紙をやって言うた、「私は知っているかつ信じている、主イエス・キリストが今なお生きて我らを護って下さることを。私はただこれに頼るのである。ゆえに一万の法王といえども恐くはない。何となれば私と一緒におる者はローマにおる者よりも遥かに偉大であるからである」と。

 ウオルスムスといえばライン川の上流に位し、ウイッテンベルヒからは二週間の長い旅路である。この間ルーテルは到るところで聖書について説教をした、ことにあのエルフルトの修道院に泊まった時には如何に思い出多く感じたことであろう。そこにおいて彼はキリストの復活についてえらい説教をなした。かかる場合にありながら、彼の心中を占めておった問題がどんな種類のものであったかがわかる。旅行の最後の駅オッペンハイムへ着いた時、自分の殿様のフレデリック選挙侯の秘書官から一通の手紙を受け取った。それには危険だからしてウオルムスへ来ることを見合わせよと書いてあった。そしてジョン・フスも皇帝の保身券がありながら焼き殺されたではないかと書いてあった。ルーテルは直ちに返事を認めた、曰く「フスは焼かれた、しかし真理は彼と一緒に焼かれない。私はウオルムスへ行く。たとえ屋根の瓦の数ほどの悪魔が待っているとも私は行く」と。

 ウオルムスでは朝早く物見の塔に出ておった見張り人がラッパを吹き鳴らしてルーテルが見えたと知らせた。町の人々は朝餉(あさげ)をやめて外へ駆け出で、僧服を着て妙な旅行帽をかぶっているルーテルを見た。街は群衆で押し合いひし合いし、辛うじて通り抜けることができた。翌日午後四時頃議会に呼び出された。議場へ入って見ると正面の玉座に皇帝た座っている、その下には六人の選挙候が並んでいる、満堂には諸侯貴族僧侶自由都市の代表者外国の使臣などが綺羅星の如くに着席している。すべてで五千人以上の人が堂の内外に集っておったという。

 皇帝の前には卓があって、その上に本が山の如く積み重ねてあった。みなルーテルの本である。皇帝の代表者が出て来てその本の表題を一々読み上げ、「これらは皆ルーテルが書いたものであるかどうか」と尋ねた。「その通り、私の書いたものに相違ありません」。しからば今なおこれを固執するかあるいはその一部または全部を取り消すかと。ルーテルにとっては軽々しく即答のできない質問であった。何となれば彼は決してつまらぬ意地を張って自分の書いたものを何処までも固執しようという気はない、彼の恃むところは自分ではない、ただ聖書である、かつて自分の書いたものにいやしくも聖書に背くような節が一点でもあるならばそれを取り消さないわけにはいかない。ここにおいて彼は自分の著述の全部にわたり一応調べ直して見なければならなかった。彼は一日の猶予を乞うた。而して翌日また召喚せられることになった。

※ 今、古利根川は白鷺、青鷺が川の上を飛行しては、餌になる魚を求めては歩き回っています。しかし白鷺の「白」は美しいもので、何か私には訴えるものがあります。造物主はこうして私に無限の慰みをくださいます。

 さて、アメリカ大統領選は結果が判明しました。トランプ氏の圧勝でした。実は私は、結果が判明する前に、いったん次のようにコメントを書きましたが、削除しました。その文章とは次のものです。
 トランプ支持者のうちには福音に立つ人々が中核を占めていると言われています。一方ハリス氏はどうなのか、数ヶ月前に彼女の著書『私たちの真実』を読みましたが、その中で彼女は次のように述べていました。「私は寝る前にはいつも、短く祈りを捧げた。『神よ、どうか私に正しいことを行なう力をお貸しください』。自分の選ぶ道が正しく、最後までやり遂げられる勇気がもてますようにと祈った。とりわけ、私を頼りにしている多くの家族が安全に不安なく過ごせますようにと。彼らの生活がどれだけ危機に瀕しているかをよく知っていたからだ。」(同書123頁より引用)
 こう書きながらも、私はハリス氏の信仰とは如何なるものか、もう一つ確信が持てず、判断しあぐねていたところがありました。彼女はこの本の中で信仰に関し三箇所ほど書いていましたが、この箇所は彼女の信仰のあり方を示すにふさわしいのではないかと思って引用させていただいたのですが、ルーテルの信仰が上述のように、全面的に主に依存するものであるのに対し、ハリス氏の場合は全面的でないのではないか、「お貸しください」という祈りがいみじくも示すように、それはご利益主義と異ならないものになるのではないかと少し思ったからです。祈りの次の文章が示しますように、ハリス氏の善意は分かりますし、彼女が落選したあと、今後どのようにその思いを達成していくのか期待したいと思います。 

2024年8月22日木曜日

「蝉探訪」いつまで続けられるか

 画面は日曜日夕方の古利根川の川辺の様子です。青鷺一羽が川縁にその勇姿を潜(ひそ)めておりました。しかし、青鷺は敏捷で、橋の上からiPhoneを向けては、覗き込んでいる私に、気が付かないはずはありません。次の瞬間には翼を広げ、口惜しがる私を尻目に、悠々と飛び去って行きました。

 月曜日、火曜日と連日雨風に晒されましたが、当地は新聞TVで報道されるような被害はありませんでした。したがって特筆すべきこともなく、昨日水曜日は午後六時を過ぎていましたが、ゆっくり土手を散歩しました。ところが、驚くなかれ、このところ日課としている、「蝉探訪」は、台風一過の昨日、これまでの最高値を記録しました。何と蝉十三匹を見つけました。右岸で六匹、左岸で七匹でした。まさかこんなに見つけられるとは思ってもいませんでした。

 それも、何かと集中力をなくしている家内が見つけるのですから、私にとっては二重の喜びになりました。一本、(蝉探しに)お目当てにしている桜の木が右岸にあるのですが、私は必ずその樹幹を覗くことにしています。だから、毎回、その木に必ず目をつけ、一匹以上は発見し、そのあとプラス何匹と、その日の収穫(発見個数)を数え上げ、三十分あまりの散歩に満足するのが私たちの定番のスタイルでしたが、この日ばかりはプラスアルファがあまりにも多く、すなわち五本の指で足りず、かと言って、家内に確かめることもできず、自分の記憶で我慢するしかありませんでしたが、十三匹でした。

 あとでなぜこんなに多く発見したのか、つらつら考えてみると、それまでの「蝉探訪」が昼間で、今回は夕方であった違いにあるのではないかと、思い当たりました。そのうちの一匹に、まだ抜け殻から出てきて、十分羽が成熟していない蝉がいたからです。それだけでなく、少年時代、地面にしゃがみ込み、穴に小さな木切状の棒を差し込んでは、幼虫を引き揚げたり、脱皮している様を観察する「蝉観察」こそ、草野球と並行した夏休みの風物詩だったことを懐かしく思い出しました。

 蝉の成虫は羽化してからおよそ二、三週間だとのことです。https://www.kodomonokuni.org/nature/summer/summer_semi.html
一方、有名な芭蕉の句、「閑けさや 岩に染み入る 蝉の声」の蝉はいったいどの蝉が、「閑けさ」にふさわしいか、蝉の種類をめぐって、斎藤茂吉と小宮豊隆との間で論争があったそうです。風流さを解しない当方の句は「蝉数う 秋の到来 待つ日々」の凡句です。

 この間、『神と人と言葉と 評伝・立花隆』(武田徹著)を読みました。「雲の上の”知の巨人”」の姿に接し、私より三つ年上の立花のたどりし人生もまさに時代を反映した歩みだったのだと過去を懐かしく振りかえさせられました。それにしても、クリスチャンの両親のもとに育った立花隆の生涯が、もし、評伝作者の言われる通りであったとすれば、私流に勝手に表現すると、どうして「私はあなたを信じたいのですが、どうしてもあなたを信じられません」という呻きになるのか、私には不思議でなりませんでした。それだけでなく悲しみさえ覚えさせられました。

知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。(新約聖書 1コリント8章1節)

2024年6月23日日曜日

『九人の子ども』より(下)

梅雨入りへ 九羽の鴨 飛沫上ぐ
いよいよ関東は梅雨入りですね。昨日、朝見た時にはいなかった鴨の子どもたちが気になって、用事(兄弟たちとの祈り会)を済ませて、もう一度例の田んぼに出かけたところ、何と親鴨が一羽ポツンといるではありませんか。「どうしたの、一人でいて」と声をかけ、ふっと我が足元(側溝脇)を見ると何と子鴨がうじゃうじゃいるではありませんか。慌てて自転車を道端の側溝上に止め、カバンからiPhoneを取り出し、これはシャッターチャンスとばかりバシャバシャと撮ったつもりでいました。

そのうち、バシャンと大きな音を立てて、我が自転車が、前カゴに乗せていたカバンもろともざんぶとばかり田んぼに倒れ込んでしまいました。その音に驚いて子鴨たちは一斉に右の方(親鴨の方)に逃げて行きました。こちらはもはや、鴨どころでなく、田んぼに放り出された自転車とカバンを引き上げるのに精一杯でした。そしてその後始末たるや大変でした。おかげでカバンに入れていた聖書、聖歌集、ノート、iPadなど大切なものが大なり小なり水浸しになったからです。

ハンドルはもちろんのこと自転車全体がどろんこになって、帰るに帰れず、携帯で家内を呼び、協力を得、何とか収めることができました。辛うじてこの写真が最後の一枚として残りました。私としては損害は大きかったですが、子鴨は十羽の鴨だったのに一羽足りず、九羽の子鴨になっていましたが、子鴨の成長をこの目で確かめ得たのだから大満足であります。まるで『九人の子ども』に合わせるかのように『九羽の子鴨』の出現の出来事ではありませんか。

さて、今日の『九人の子ども』のお話の題名は「ある朝」です(同書99〜103頁より引用)。長い文章でお読みなさるには忍耐がいるとは思いますが、九人の子どもを持つ母親が、忙しさの中で忘れていた、主イエスさまのくださる平安・愛をいかにして取り戻したのか、私たちも味わいたいものだと思わされます。

 お母さんが靴のひもをぐっと引っぱると、ひもは切れてしまいました。そのとき、お母さんは急に何もかもいやになってしまいました。このはき古したベキーの靴、階段の上のゴミのかたまり、果てしない皿洗い、毎日毎日の洗たく物、どうしていいかわからない気持ちです。みんなが一度にだれかを待っているのです。
 「あんまりだわ。」お母さんの目に、思わず怒りの涙がこみ上げてきました。「よその子は、こんな古い茶色の靴じゃなくて、きれいな色の新しい流行の靴をはいて日曜学校に行くのに。ベキーにもあんな靴をはかせてやりたいわ。」
 「それに、よその家は、いつももっときれいにしているのに。お昼を食べに行ったり、会合に出たり、買物に行ったり・・・。」お母さんは、自分の家の毎日毎日の生活を思い浮かべながら、胸の中でこんなことを考えていました。
 それからあわてて朝食のしたくにかかりました。そしていつものように適当に料理をして、ガス台と食器戸だなと流しの間をグルグル歩き回って、台所とテーブルとの間を行ったり来たりしました。
 お母さんはこのとき、目の見えないロバの話を思い出しました。そのロバは、毎日毎日グルグルと行ったり来たりして、大きな寺院を造る石を運んでいたのです。時がたって、人々はその堂々とした大きな建物に驚嘆しましたが、その石をひとつずつ運んで積み上げていったロバのことを覚えてくれた人は一人もありませんでした。
 しかし、この話は、お母さんを少しも慰めてくれませんでした。「私はロバになりたくないわ」と、元気なくお母さんはつぶやきました。「たった一度でいいから、一日中、散らからない日がほしいわ。」
 テーブルの準備ができました。じゃがいもが湯気をたてています。パンも焼けて、うるさい連中を待っています。コーヒーもできたようです。お母さんは、子供たちを呼びました。
 「日曜学校で教えたり、一つのグループを指導したり、何かそんなことをしてみたい。」そんなことを考えていると、アイロンをかけなければならないワイシャツのことを思い出しました。それから「修理品」の札のついたボール箱のことも、思い出しました。その箱の中身は、多くなっても、決して少なくなることはありません。あっちにもこっちにも、しなければならない仕事が山のようにあるのです。
 「どんな人でも『荒野の体験』をするのだわ」と言いながら、お母さんはモーセのことを思いました。「いつか、あなたは自由になりますよ・・・・きっと自由すぎるくらい自由に。」「それはそうでしょうけれど・・・」とお母さんは、ますますいらいらしています。「だけど、年がら年中、砂漠の中にばかりいたら、いやになってしまいます。」
 「きれいなワイシャツあるかい?」お父さんが呼んでいます。
 「目の前にあるじゃないの。ほら、いすの背中にかかってるわ。」
 男の人って、どうしてこう捜すのがへたなんだろうと思いながら、お母さんが答えました。
 それから下に駆けおりて行って、九枚のお皿にじゃがいもを分けました。ミルクのびんが温まったので、ジェーンが、泣きわめいているタディーのところに持って行きました。
 「ほかの女の人は、毎日曜日にバイブルクラスに出られるのに・・・・」と、お母さんは思いました。「ほらジョン、もっとよく靴ずみをつけて磨きなさい。ジョーはどこへ行ったの? どうしてジョーは靴を磨かないの? べキー、アネットとそこにいたらじゃまよ、どいてちょうだい。お母さんは忙しいのよ。」
 お母さんは、柔らかな髪のタディーが、小さな頭をすり寄せてくるところや、四人のチビさんのお風呂に入った時のかわいらしかったことなど、頭の中から押しのけようとしました。
 「確かに、あの子たちはかわいいわ。それはわかります。でも、この疲れや、いつも追いかけられるような気持ちはいやだわ。」
 それからみんな朝食の席に着きました。お父さんは、聖書を開いて、マリヤがキリストを愛するあまり、高価な香油を惜しげもなく主に注いだ所(ヨハネ12:3)を読みました。香油は、マリヤの持っているいちばんたいせつな宝だったのです。けれどもマリヤは主に感謝し、心から主を愛していました。
 お母さんの心にこもっていた怒りの気持ちは、いつのまにか消えてしまいました。疲れも無くなってしまいました。主は私を愛してくださるのだ、主は私を理解してくださるのだ、という思いが心の中にわいてきて、耐えられないほどに迫ってきました。お母さんは、「どうしたの?」と子供たちに聞かれるのを恐れて、目をつぶってあふれそうになる涙を押さえました。
 「主の愛のために・・・主の愛のために・・・」と、心の中でくり返しました。すると、ロバは栄光に輝き、砂漠は甘いにおいの花畑になったような気がしてきました。

マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。(新約聖書 ヨハネの福音書12章3節)

以下は「我田引水」的な変な説明で恐縮ですが、私は一枚の写真を撮るために、自転車、カバンもろともに田んぼに投げ出され、少なからざる損失を受けました。しかし全損失ではありませんでした。代用品があるからです。それよりもかえって一枚の写真を撮れた喜びに満たされています。

一方、上掲のマリヤはイエスさまを愛するあまり、自ら持てる宝もの、香油を全部無駄にしたのです。明かに全損失です。代用品はありません。しかし彼女の、全損失を顧みないで自発的にささげる心はますますイエスさまを愛する思いで満たされたのではないでしょうか。

何よりも『九人の子ども』を抱え悪戦苦闘をしていた著者ドリス・オルドリッチの心に、上掲のマリヤの思いはストンと落ちたのではないでしょうか。このような話に満ちている、子どもを見る目、また己を見る目には、もっともっとたくさん教えられるところがありますが、今回は五十六話のうちのわずか三話だけの紹介となりました。また機会があればご紹介したいです。

2024年6月22日土曜日

『九人の子ども』より(中)


今日の写真は、悠々とヨット風カヌー(?)に乗って川下りを楽しんでいる三隻をキャッチしました(一隻は画面の左上、橋の下にその黄緑の帆が辛うじて写っているのですが・・・)。江戸期には、さぞかし米や酒などを満載した船が上り降りしていたのでしょうね。しかし今や水運は衰え、川を跨ぐ橋の上を走る道路を利用したトラック輸送が幅を利かせています。そんな時代への一プロテストとしてでしょうか。余暇を楽しむお三方のようです。

さて、とっくに巣立ったと思っていた鴨親子は昨日雨天のもと、田んぼを尋ねてみたらいました。さぞかし、今日は綺麗な姿でその成長ぶりを見られると思い、期待して近寄りましたが、またしてもお留守でした。一体どこに行っているのでしょうか。参考までに昨日、雨中で撮影した写真を左に載せました。興味のある方は、拡大してご覧になってください。十羽は確認できませんでしたが、四、五羽は健在のようです。子育てとはまことに難しいものなんですね。

さて、こちら十羽ならぬ、『九人の子ども』の著者は果たしてどんな人でしょうか。ドリス・オルドリッチというのがその名前で、訳者の紹介によると、以前やはりこのブログでも紹介したことのあるイゾベル・クーン(※)のために、その当時高校生であった彼女が、他の二人の仲間と一緒にとりなしの祈りをささげていたということです。(※https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/02/blog-post_18.html )

原題名は『Life out of the Mixing Bowl』で、直訳するなら、『混ぜ鉢からなるいのち』とも『こね鉢からなる生活』とでも訳せるでしょうが、家事に育児に忙しかった著者の様子がそのまま伝わってくる題名です。しかし、訳者は直裁に『九人の子ども』として邦訳版を出されたようです。賢明なわかりやすい題名ですね。

五十六の話を通してお子さんがどんなお子さんだったか、想像しながら楽しく読むことができますし、何しろ子どもの心をもって、「こね鉢」とも「混ぜ鉢」とも称される家庭の大変さの中で、どのようにしてイエスさまが子どもたちの経験となって行ったのかを知ることのできる貴重な証です。本日のテーマは「門をたたく」です(同書96〜98頁から引用、文中登場しますのはアネット、バージニア、ティミーという三歳前後の女の子(?)とべキーという名前の子です)。

 ふたごとアネットが、小さなテーブルの上にのって、熱心に天国のことについて話していました。お母さんは、お父さんのワイシャツにアイロンをかけながら、この子たちが何を言うのか聞いていました。
 「そしてね、天国って、ここよりもきれいなのよ」とバージニアは、腕をふり回して、部屋のちらかった所を指さしながら言いました。
 お母さんは、これからたたんでしまわなければならない衣類の山や、ベタベタした汚れのついたベキーのいすや、テーブルの上に残っている朝食のお皿などをながめて、「そうだといいわ」とつぶやきました。
 アネットは、大きな茶色のひとみを丸くして、三歳の子らしい、いきいきとした表情で言いました。「そして、天国に行ったら、ご門をたたくのよ。そしたらイエスさまが『こんにちは、どなたですか』って言って、ご門をあけてくれるのよ。それから『お名まえは?』って聞いて、『さあ、お入りなさい』って言うわ。それでみんな入って、きれいなものをいっぱい見るのよ。」
 ティミーとバージニアは、頭をふって賛成の意を表しました。そのようにして、子供たちは話し続けています。けれども、お母さんは、ちょっと手を止めて考えました。いいえ、私たちが、門をたたくのではありません。なぜなら、主は次のようにおっしゃったからです。
 「見よ、わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(黙示録3:20)。主が私たちの心の扉をたたいていらっしゃるのです。そして、今、自分の心の戸をあけて主をお受けした人のために、主は、天国の門を広くあけてくださるのです。
 そして主は、「こんにちは、どなたですか」とはおっしゃらないでしょう。なぜなら、キリストを救い主として受け入れた人はだれでも、天国で閉ざされた門の前に立つことはないからです。
 また「お名まえは?」ともおっしゃらないでしょう、なぜなら、「主はご自分に属する者を知っておられる」(2テモテ2:19)と書いてありますし、また、その人たちの名まえは「いのちの書」に書かれてあるからです(黙示録13:8)。
 天のお父さまのみもとに行く道であり、救いと天国に至る門であられる主ご自身が、私たちのために備えてくださった場所に立って、一人一人をやさしく迎えてくださるでしょう。

「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。(新約聖書 マルコの福音書10章15〜16節)

2024年6月21日金曜日

『九人の子ども』より(上)


『九人の子ども』という本を知ったのは、もう随分昔のことです。家の本棚にありましたが、(家内は読んだのでしょうが・・・)私が読まないうちにいつの間にか姿を消してしまいました。その後、今から10年ほど前に、古本で見つけ、再度購入しました。ところが相変わらず、私にはその本に手を伸ばそうとする気が起こりませんでした。その私に食指が動いたのは、実に今回の「十羽の子鴨」の存在でした。十羽の子鴨が母鴨によって大事に育てられていく過程を見るにつけ、その神秘さに目が開かれると同時に、「あっ、そうだ! 『九人の子ども』という題名の本があったっけ、人間はどのようにして一人の母親が九人もの子どもを育て上げられたのだろうか?」と考えたからです。

そしてこの本を今週初めてひもときました。読んでみて、今の私にぴったりの本でした。そしてこの本に接する前に、木内昇さんの『かたばみ』を読んだこともタイムリーでした。薄々感じていたこの本の素晴らしさに目が開かれつつあります。今回の東京都知事選には五十六名の方の届出があったそうですが、この本には全部で五十六の話が載せてあります。以下の文章は「聞かれない祈り」と題する話です(同書67〜69頁より引用。文中出てきます、ジェーンは長女で、ジョンとジョーは二人の弟で、この話の中には登場していませんが他に四人いるはずです。したがってこの時はまだ全部で子どもは七人です。)

 一日じゅう雨が降り続いたその日も終わろうとするとき、お母さんは疲れてしまったので、ジェーンのベッドに腰を降ろしていました。青いすじのある壁、白いひだのカーテン(これもそろそろ洗わなければなりません)が、ゴタゴタした台所から出て来たお母さんには、心地よい変化でした。下にある洗たく物は、これからたたんで片付けなければなりません。それから、家の中を整理して、ジェーンとジョンの通学服を、そろえておいてやらなければなりません。でも、今、ほんの少しの間だけ、ここに座って、いちばん上の子と話すのは、休みになります。ほかの六人はみな眠っていました。
 七歳の子は、どの子もそうですが、ジェーンは何でも聞きたがります。
 「どうして、イエスさまは、私たちのお祈りを聞いてくださらないの?」ジェーンは少し怒ったように言いました。
 「どうして? 聞いてくださるわよ。」
 「ううん、いつでもは聞いてくださらないわ。ジョーなんかさ、何かなくすたびにお祈りしているけど(全くジョーはよく物をなくします)、出て来ないわよ。それから、こないだ、すごい風の吹いたとき、ジョンといっしょに学校から帰って来るの、とてもこわかったのよ。それで、二人で溝の中へ降りて、イエスさまに、どうぞ風を止めてくださいってお祈りしたけど、止めてくださらなかったわ。だから、ビュービュー吹く風の中を帰って来なけりゃならなかったのよ。」
 「だけど、あなたたちは、安全に家に帰れたのでしょう。イエスさまはね、ある時は、私たちから苦しいいやなことを除いてくださるけれど、ある時は、その中を通らせようとなさるのよ。でも、いつもいっしょにその中を歩いてくださるわ。それは、苦しい、いやなことを通して、イエスさまのことを、もっとよく知ることができるようになるためなの。」
 「そう?・・・・・」ジェーンは答えましたが、まだよくわからないという顔をしていました。けれども、大きくなるにしたがって、いろいろなことを学んで、次のように心から賛美することができるようになるでしょう。

  旅をしている毎日を 感謝します。
  かわいた砂漠の中で
  私は熱心に求めます。
  でも 私を満たしてくださるのは
  ただ、あなたの愛だけです。

昨日も子鴨を求めて、田んぼに出向きましたが、親鴨が別の田んぼに最初一羽いたのを見つけました。しばらくして、私が近寄ろうとするのを警戒してでしょうか、後ろの方からもう一羽が飛来してきました。どちらが雄か雌だったのかは遠目でわかりませんでしたが、肝心の子鴨はいませんでした。それで昨日は橋の上から見た、二、三日前に子鴨らしき鴨数羽が泳いでいたところを撮影しました。あいにく昨日は風が強く、波が出ており、鴨は見当たりませんでしたが・・・

前回、「川守稲荷大明神」の写真を載せ、「悲願込め 川守稲荷 明神」と書きましたが、このような五七五は単なる語呂合わせに過ぎず、愚作中の愚作で申し訳ない思いがしております。ただ、これを機会に「稲荷」「お稲荷さん」について少し考えることができました。特に前掲の「聞かれない祈り」の要旨と「川守稲荷大明神」の霊験とを比較してみるとその違いが分かるのではないでしょうか。以下のイザヤ書のみことばはその日私が通読の時、読んだみことばです。このことも素晴らしい主のご配慮ではないでしょうか。

わたしは盲人に、彼らの知らない道を歩ませ、彼らの知らない通り道を行かせる。彼らの前でやみを光に、でこぼこの地を平らにする。これらのことをわたしがして、彼らを見捨てない。彫像に拠り頼み、鋳像に、「あなたがたこそ、私たちの神々。」と言う者は、退けられて、恥を見る。(旧約聖書 イザヤ書42章16〜17節)

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。(新約聖書 1ペテロの手紙1章8節)

2024年6月19日水曜日

わが心を満たすもの

悲願込め 川守稲荷 明神(※)
 昨日は雨で一日閉じ込められました。さすがに、古利根川縁の散策はやめにしました。それにしても、気になるのは、鴨家族のその後です。夕方、少し雨があがったので、お目当ての田んぼへと出かけましたが、いつものところにはいませんでした。

 今日は、昨日とは打って変わって、雲一つない晴天になりました。早速、田んぼに直行しましたが、親鴨が一羽いるだけで 、子鴨は一匹もいませんでした。その代わりに古利根川の右岸に四羽ほどの小さな鴨が泳いでいるのが、対岸である左岸から遠目に肉眼で確認できました。果たして十羽の子鴨の片割れなのかどうかはわかりません。それにしても田んぼから古利根川までは直線距離で50メートルほどのところです。どのようにしてたどり着けるのかと気にはなります。

 今日の写真は画面の左側(上流)から右側(下流)へと流れる古利根川の右岸にある「川守稲荷大明神」の全景です。田んぼはこの大明神の敷地の手前側に位置しています。それに対して小さな鴨が泳いでいたのは、まさしく、大明神の向こう側の土手を上がった川縁にあたるところです。本来なら右岸からキャッチできるのですが、川縁には鬱蒼とヨシ原が茂っており、対岸にあたる左岸からしかその様子は見えないのです。

 私にとって、十羽の子鴨を従える母鴨の姿に出会ったことは今も驚きで、私の脳裏のうちにいつまでも刻まれております。そのような中で過日は小説『かたばみ』を読むことができました。そこには人間家族の悲喜交々の姿が作者の優しい目で表現されていました。

 しかし、私は一方で、もう一つの世界があることをうすうす感じていたのです。それは『九人の子ども』と題する不思議な本の存在です。この本は1946年にアメリカで出版され、1961年に邦訳として出版されたものです。『かたばみ』が500頁を優に超える大作であるに対し、この本は200頁足らずの本です。

 私はその本を何回も今、音読しながら読んでいます。滋味あふれる喜びがその本を通して私の心のうちに流れ込んでくるからです。明日から少しその本について書かせてください。

※この大明神について昨年は次のように触れました。その写真は今日の写真とは反対で土手から大明神、田んぼ(3月の)を見ることができます。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/03/blog-post.html

私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって、楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。(旧約聖書 エレミヤ書15章16節)

2024年6月16日日曜日

小説『かたばみ』の素晴らしさ(下)

 このユニークな表紙絵は、裏表紙と表裏一体となってこの物語の全て(結末)を語ろうとしています。すなわち表紙絵は主人公悌子の「息子」清太の父とのキャッチボールを前にした姿であります。裏表紙は無精髭から父権蔵の姿に違いありませんが、清太の投げる球を受け取るべく待機しているのでしょう。以下はこの小説の最終頁の叙述です(『かたばみ(※1)』株式会社KADOKAWA発行 同書554頁〜556頁)。

 清太は勢いよくボールを投げた。パシッと権蔵のグラブが派手な音を立てる。
「痛ぇつ。よくこんな球投げられるな」
「きっと父さんももっと練習すれば、このくらい速い球が投げられるようになるよ。僕から受け継いでるんならさ」
 清太は冗談めかして言って、ケラケラと甲高い笑い声を立てた。そう言われて権蔵は、ムキになったのだろう。やたら大きく振りかぶって投げ返す。フォームが整っていないから、力がボールにうまく伝わらず、叩き付けるようなワンバウンドになった。
ーー明日はきっと、ひどい筋肉痛になるだろうな。
 悌子は夫の形相を見詰めながら、笑みを漏らす。でも、少々おかしなフォームでも、きれいな軌道を描かなくても、球はちゃんと清太のもとに届いているのだ、そうして清太は、しっかり球を受け止めている。それで十分だという気が、悌子にはしていた。
ーーこれが、うちの家族なんだから。
「清太、足の調子はどうだ!」
 権蔵が呼びかける。
「痛くないよ。変な感じも、もうない」
 清太が元気に答える。
「もう大丈夫そうね。球筋もぶれてないし、フォームも怪我の前と変わらないから」
 悌子は太鼓判を捺した。
「そしたら、今日の昼からの練習、行ってもいい?」
「うん、でも軽い調整くらいにしとくのよ」
「わかってる」
「よかったな、また野球ができて」
 権蔵が言うと、清太は勢いよくうなずき、
「あの日負けて、よけいに野球が好きになった気がする」
 晴れ晴れとした顔で言った。
「じゃあ、そろそろ戻って支度する?」
 悌子の声に、清太はかぶりを振った。
「もうちょっと、父さんとキャッチボールしたい。少し速い球投げるよ」
 権蔵は一瞬ギョッとして体を引いたが、
「お・・・・おう、ドンと来いだ」
 と、胸を張った。
 清太は笑って、ほんの少し球威を増した球を投げた。権蔵はへっぴり腰ながらも両手で受け取る。バシンという心地いい音が濃い緑の中に響き渡る。
 悌子は、もう怖いものが飛んでくることのない、青く抜ける夏空を見上げた。はるか彼方に、入道雲がむくむくと湧きはじめている。

 以上がこの小説の最後の文章です。「もう怖いものが飛んでくることのない、青く抜ける夏空」とは、かつて昭和19年、B29の来襲で引率中の教え子を亡くした主人公悌子の述懐でしょう。それは作者自身の静かな反戦の意思表示でもあります(※2)。もちろん、それだけでなく、実子でないことを知った清太と自分たちの間の関係が揺るぎないものになったことの確信でしょう。かくしてこの小説は幕を閉じます。思えば、キャッチボールとは親子の間だけでなく、夫婦の間でも、いや家族を越えて人間同士が取り結ぶ愛の絆の実践の場の象徴ではないでしょうか。鴨の姿に血を分けた親子の素晴らしさを、過去眺めてきましたが、人間界にはそれを越える愛の交わりがあることを教えられました。

 ただ「事実は小説よりも奇なり」の言葉どおり、いかな木内昇さんも描き切れない実人生が私たちの周りには転がっており、人々が今も苦しんでおられるのも現実です。しかし、このような良質の小説を読ませていただくと人間愛も捨てたものじゃないと思わされるのです。触れられませんでしたが、清太とはいとことして育てられる木村惣菜店の智栄、茂生という姉弟との密度の濃い人間関係、戦時の通信機運搬の仕事から戦後はNHKの街頭録音に関わり、徐々に生きがいを見出す中津川権蔵。権蔵の母富枝の練られた品性など、いつまでも私の脳裏に刻まれることでしょう。

※1 「かたばみ」は戦中、食材も十分見当たらぬとき、使われたということと、その花言葉「母の優しさ」が作中に出てきたように記憶しています。なお、2023年11月18日の東京新聞のリアル読書会の席で作者である木内さんが次のように語っていることを知りました。
「書き始めてからある日、自宅の庭を見たら、かたばみがはびこっていて、葉が3枚なんですね。3人の家族にぴったりだなと。家族って永遠の命題で、いい面も悪い面もひきずって生きていかないといけない。」この話を紹介しながら、「かたばみってどんな花?」と散歩中にしつこく尋ねていた私に、家内が家に帰るなり、庭にある「かたばみ」を見つけ、「高宮(私の田舎)の中庭にはいっぱい生えているよ」と教えてくれました。ちなみに私の高宮の家族は3人でした。3人で互いに苦労したものです。このような「かたばみ」が持つ意味を父母の生前に知っていたらなあーと思いました。

※2 以前、木内昇さんはきわめて真っ当なことを表明されていました。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2013/09/blog-post.html

 今朝の礼拝の席で読まれた聖書のことばを写しておきます。このみことばには、家族だけでなく、すべてをつつむ主のお住まいがテーマになっています。

万軍の主、あなたのお住まいは
なんと、慕わしいことでしょう。
私のたましいは、主の大庭を恋い慕って
絶え入るばかりです。
私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。
雀さえも、住みかを見つけました。
つばめも、ひなを入れる巣、
あなたの祭壇を見つけました。
万軍の主。私の王、私の神よ。
なんと幸いなことでしょう。
あなたの家に住む人たちは。
彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。

なんと幸いなことでしょう。
その力が、あなたにあり、
その心の中にシオンへの大路のある人は。
彼らは涙の谷を過ぎるときも、
そこを泉のわく所とします。
初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。
彼らは、力から力へと進み、
シオンにおいて、神の御前に現われます。
(旧約聖書 詩篇84篇1〜7節)

2024年6月15日土曜日

小説『かたばみ』の素晴らしさ(中)


 今朝も鴨親子の姿を水田で確認できました。それにしても子育てとは何と忍耐のいる働きなのでしょうか。母鴨は子鴨をじっと眺めて居り、いざという時に備えているようですし、何もしていないかのお父さん鴨は母子から距離を置きながらも、決して離れることのない姿を見せてくれました。(実は、お父さん鴨はこの画面の左隅の上あたりにいるのですが、残念ながら、この画面には写せていません。「影」の人物です。)

 このような鴨家族に比べて、もちろん人間家族はそれ以上に愛の絆で結ばれた家族であるに違いありません。小説『かたばみ』には時代に翻弄されながらも誠実に生き続けようとするその家族の実相を描いている作品です。

 自らが行く末は結婚をと夢見ていた幼友達が、長ずるに及んで別の女の人と結婚してしまう。それだけでも、その目にあった当の女性にとってはとても耐えられないことでしょう。それだけでなく、事もあろうか、その好きな人は敢えなくも遺児を残して戦死してしまう。その遺児を引き取って育ててほしいとは、親しかった幼友達の相手の家からの立っての申し出であったとは・・・。でも、これほど矛盾したことはないのではないでしょうか。

 大事な人を結婚で失う。それだけでなく戦争で失う。大事な人が自分にとってかけがえのない人であるだけに余計にその悲しさは募るものです。そして、その愛が本物であるかどうかを試すかのように、その遺児を我が子として育てて行かねばならないのです。しかも、自らが選んだ結婚は、別人との成り行きの結婚であり、果たして夫婦としてうまくやっていけるか全く自信の持てない結婚生活なのです。読者にとっても、読んでいてきわめて危なっかなしい結婚に見えるのです。しかし、作者の描くこの両者の結婚は第二章の題名が「似合い似合いの釜の蓋」とあるように、まさに天与の賜物である愛が働いて、妻だけでなく、夫も妻が好きだった人の遺児を、共に喜んで受け入れ、我が子どもとして育てるのです。

 その子育てがいかに波乱を含みながらも順調に育って行ったか、そのことを描いたのが第三章の「瓜の蔓に茄子」という題名そのものの展開が描く子育ての数々の場面です。しかもこの章はその息子「清太」の立場から見た家庭の様子を語らせるのです。複眼思考という言葉がありますが、物事を一面からだけ見るのでなく、多方面から見て行くのです。

 この作品自体に登場する家族は岐阜にいる山岡悌子の家族、同じく岐阜の悌子の幼友だちの神代清一の家族、悌子が結婚に導かれる東京浅草の中津川権蔵の家族、権蔵の妹で東京小金井で惣菜店を営む木村朝子の家族(ご主人は後に復員してくる茂樹)など実に数家族にすぎませんが、それぞれの家族がいろんな重荷を担って、歩むうちにそれぞれ個々人としての人格形成がなされていきますが、作者はそれを一面的に描こうとはしていません。一番感心したのは、木村惣菜店の姑ケイが何となく意地汚く描かれているが、最後の方に行くと彼女がそうせざるを得なかった事情が明らかにされるにつれ、愛される姑像へと私のうちで変わって行った点です。

 その作者の精神、人を差別なしに受け入れて行こう。喜びも悲しみも共にして行こうという精神に満ちています。私にとってこの点が、作品を読みながら、言外に最も学ばされた点です。だから昨日の写真にはカラスを載せました。

 さて、母である悌子は体格に恵まれ、かつては槍投げ選手でもありましたが、父親である中津川権蔵は文弱でキャッチボールでさえままならぬ、運動苦手の人です。ところが二人が養育した「清太」という子どもは父権蔵と違って大変な野球の名投手として大活躍し、中学の都の大会で決勝戦まで進む逸材として育つのです。これはまさに「瓜の蔓に茄子」であります(それもそのはず、戦死した彼の産みの父は岐阜きっての名投手で甲子園でも六大学でも活躍する名投手神代清一だったのです。)

 ところが、その小説の終局場面でその清太自身が、自分のお父さんお母さんは生みの親でないと勘付くことから、この家庭は大きな試練に直面するのです。清太自身の煩悶はまさに思春期の青年が必ず経験することではありますが、このことはひた隠しに隠して、産みの子としての養育に懸命になっていた権蔵・悌子夫妻を一挙にどん底に突き落としてしまう出来事です。もちろんその前にその事実を知った「清太」がどん底に突き落とされ、それまで熱心に続けていた野球部を退部すると決断するに至るほど、少年の苦しみも深かったのです。

 私が涙を流すことが二度三度あったと前回書きましたが、このようなどん底から中津川一家がものの見事、立ち直る場面でした。それはどのようなことなのか、それは読者ご自身がこの本を手に取られ、是非お読み願いたいところだと思っています。意外と言えば意外ですが、十分志向できる落とし所です。こうなきゃ小説は成り立たないと思わせる幕切れでした。

 私の今日の聖書通読個所の一つは士師記14章、15章でしたが、私にとってやはり『かたばみ』に劣ることのない、いや遥かにまさるのが聖書だと改めて実感させていただくみことばの数々でした。最後、その一部分を写させていただきます。

サムソンはティムナに下って行ったとき、ペリシテ人の娘でティムナにいるひとりの女を見た。彼は帰ったとき、父と母に告げて言った。「私はティムナで、ある女を見ました。ペリシテ人の娘です。今、あの女をめとって、私の妻にしてください。」すると、父と母は彼に言った。「あなたの身内の娘たちのうちに、または、私の民全体のうちに、女がひとりもいないというのか。割礼を受けていないペリシテ人のうちから、妻を迎えるとは。」サムソンは父に言った。「あの女を私にもらってください。あの女が私の気に入ったのですから。」彼の父と母は、それが主によることだとは知らなかった。主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである。そのころはペリシテ人がイスラエルを支配していた。(旧約聖書 士師記14章1〜4節)

隠されていることは、私たちの神、主のものである。(旧約聖書 申命記29章29節)

2024年6月14日金曜日

小説『かたばみ』の素晴らしさ(上)


 なぜか、今日はこの写真を選びました。「カラス」と言うと 、いつの間にか悪印象しか持たない己が思いを自戒するためにです。それは『かたばみ』という作品を通して自分が作者から語りかけられてきた成果かも知れません。

 昨日三日がかりで大急ぎで読了した木内昇さんの作品は私の期待を裏切らないものでした。この『かたばみ』は一昨年から昨年にかけてでしょうか、東京新聞の朝刊に連載されたものが単行本として出版されたものです。毎朝読むことのできる新聞小説は作者の文章と同時に挿絵が載せられます。その中で作中人物の「山岡悌子」という類まれな体格と性格を持つ人物の存在だけはその当時大変興味関心をそそのかされた記憶があります。

 しかし、その彼女の生きた時代が戦中のこともあり、じっくり後で読んでみようと思い、取り敢えず、切り抜きだけは続けようと丹念に続けました。しかし、この作品に取り組んだのは今回が初めてになりました。私はこの作品を読んで、少なくとも二、三回は傍目も憚らず涙を流さざるを得ませんでした。その涙は私の魂を浄化させるものでした。その意味でこの作品はエンターテインメント(娯楽作品)としての資格を十分備えていると思います。

 驚くべきことは、作者が1967年(昭和42年)生まれだということです。私が大学を卒業して教員として実人生のとば口に立ったばかりの年です。その年に生まれた作者が、何とそれを去ること24年前、つまり私が生まれた1943年(昭和18年)から作品を紡いでいるという驚きでした。そして作者の語り口を通して私は一つ一つ、もう一度我が人生を振り返らざるを得ませんでした。

 そして物語の設定は、私が経験した実母の人生とある意味で共通したものでありました。母は戦死で愛する夫を亡くしました。その戦死がなければ私という人間は誕生していないからです。と同時に不思議なことに、1967年(昭和42年)に教壇に立った私がその後三十数年近く経験した教育現場での葛藤は、ある意味で小説の主人公「山岡悌子」が経験することと共通していたからです。いや、坊ちゃんの「赤シャツ」以来、すなわち明治以来、教育現場での非喜劇は今日も続いていると言って良いんじゃないかと思わされました。

 それにしても作者の力量は改めて大変なものだと思わされました。一年間という日々、朝刊の連載小説は一日一日が勝負であります。かつ全体として描きたい点が明確でなければなりません。私は今回読みながら、ある時は落語を聞かされているように精神がリラックスできる場面がふんだんにあることに気づかされました。作者としての構想がしっかりしているからこそ、この遊びもできるのだと感心しております。

 さて、前口上が長くなりました。明日はその梗概について述べてみたいと思います。昨日、聖書通読個所の一つに士師記10章、11章がありました。そこに登場する「エフタ」はこれまた大変な悲劇の只中にあった人物です。しかし、主はそのようにして彼を用いられるのです。

さて、ギルアデ人エフタは勇士であったが、彼は遊女の子であった。・・・エフタは再びアモン人の王に使者たちを送って、彼に、エフタはこう言うと言わせた。「・・・私はあなたに罪を犯してはいないのに、あなたは私に戦いをいどんで、私に害を加えようとしている。審判者である主が、きょう、イスラエル人とアモン人との間をさばいてくださるように。」アモン人の王はエフタが彼に送ったことばを聞き入れなかった。(旧約聖書 士師記11章1節、14〜15節、27〜28節)

2024年5月10日金曜日

『隆明だもの』(ハルノ宵子著 晶文社刊)

 ゴールデンウィークもあっという間に日が過ぎました。私自身は、いつも通り、日課としている古利根川散策に励むのみで、どこにも出かけることなく、過ごした日々でした。この間にそれまで、その勇姿を見せてくれていた川中の雁も5月2日を最後に、完全にいなくなり、散策の張り合いをなくしていました(※1)。

 そんなおり、土手を歩き続ける私たちの側を、走り抜けて行った一組の父娘の方が印象に残りました。オレンジ色のTシャツを着たお嬢さんと、並走するのはお父さんでしょうか、大変身長のある外国人らしき方のお姿でした。気がついた時には、ずっと遠方に駆け抜けて行ってしまわれ、かろうじてその後ろ姿をこの写真のようにキャッチさせていただくのが精一杯でした。が、この父娘の後ろ姿を見ながら、TVなどで知る行楽地の賑わいぶりと違って、地元でのこんな素晴らしい過ごし方もあるもんだわいと感心させられたからです。

 もちろん、それだけでなく、私はその時、吉本隆明さんの長女であるハルノ宵子さんの著作である『隆明だもの』を読んでおり、その読後感をどのように自分の内側に内面化し消化していったらよいか思いあぐね、かつ願ってもない濃密な父娘関係についても考えさせられていたからです。

 お嬢さんの方では、(多分)高名な父親の呪縛から何とか逃れたいという思いもあったでしょうが、父親の開放的な〈来る者拒まずという〉人柄もあって、吉本家には実にたくさんの有名、無名の方々が隆明氏との交流を求めて次々訪れられ、その現場〈嘘偽りのない人間関係〉の中でお嬢さんは人間心理の裏表を知りながら成長されて行ったようです。

 そこに表現者として、一筋縄では決して行かない人間心理を熟知した吉本父娘の苦闘・研鑽があるのではないかと思わされました。隆明氏についての一連の文章はいずれも、吉本隆明全集の月報に編集者に請われてハルノ宵子さんが書かれた30篇の転載です(※2)。その最後は「読む掟・書く掟」という題名ですが、私にとって感銘を受けた文章でした。それは彼女がまだ無名の漫画作家であるときに、吉本隆明氏の長女であることを、知っている編集者が宣伝文句にしたかったのでしょうか、お父さんに何か一文を寄せてもらったらと言われて、思わず乗ってしまったことの顛末を記した文章です。(同書172頁より引用)

父の文章には、「はたして私は、この世界で娘と出会うことができるだろうか」ーーとあった。氷水をぶっかけられたように目が覚めた。大甘だった。私はこの世界では、まだ無名の一新人にすぎなかったのを忘れていた。ましてや、私が(編集者代わりに)仲介となって、父に文章を依頼するなど、掟破りもはなはだしい。思えば、父からあの言葉をくらったからこそ、私は(かろうじて)この世界で生きていられる。今は感謝しか無い。表現者として生きていく以上、この世界においては、誰に頼ることもできない。1人荒野を歩いて行く、それは途方もなく孤独な旅路なのだ。

 極めて、ストイックな人間の在り方に触れた一文ではないでしょうか。昔、森有正が『バビロンの流れのほとりにて』という作品の中で、自己を問い詰め、問い詰める、思索の中で、突然「娘が自分を余り愛し過ぎないように気をつける」 という意味のことを語っていたのを思い出します。

 考えてみると、冒頭の写真の父娘は肩を並べて、両雄相い並び立つ有様でゴールに向かって走っているかのようです。吉本父娘の間もそうだったのでしょう。そこに表現者としてのゴールを目指して生き抜こうとする姿勢があったことを思います。なお、この本にはもう一人のお嬢さん、吉本バナナ氏と姉のハルノ宵子氏の対談による父親の思い出が丁々発止よろしく、次々語られるものが、ハルノ宵子氏に対する編集者のインタビューと合わせて載せられていました。そして、このお二人の姉妹関係が微笑ましく、吉本夫妻は良きお子さん方を、しかも夫妻自身が奥様は句集を出しておられた俳人だったのですから、表現者としての十分なDNAが今も受け継がれているのだと思わされました。

 私にもちょうどこの姉妹と同じように年恰好の違う娘が二人いますので、吉本姉妹の父親母親を見る目から、普段何気なく接している親子関係をも振り返る良い機会となりました。こんなふうに書いてはいますが、実はこの本も図書館で数多(あまた)の予約者の順番を経て手にした本でした。図書館のおかげでこうして様々な本を読ませていただく恵みを感謝するものです。なお同書にはハルノ宵子氏の本職である挿画イラストが随所に載せてありますので、それも十分見応えがあります。私のように図書館に予約してお読みになってみられればいかがでしょうか。

※1 すっかりいなくなったと書きました雁(鴨)ですが、昨日(5/9)散歩していて、一羽見ました。まだいるんですね、少し嬉しくなりました。「ひとりでどうしたんだ!」「はぐれたの?」私たちの会話でした。

※2 三十本の月報記事は、言うまでもなく、その全集が30巻から成り立っているということです。ちなみに、30篇の月報の題名(下線部は別のものからの転載)を以下書き写しておきます。内容が何となくお分かり願えるんではないでしょうか。

じやあな! 父の手 eyes 混合比率 ノラかっ 党派ぎらい 蓮と骨 あの頃 小さく稼ぐ めら星の地より お気持ち ヘールポップ彗星の日々 ギフト 空の座 花見と海と忘年会 '96夏・狂騒曲 幻の機械 魂の値段 境界を越える ボケるんです! 非道な娘 片棒 銀河飛行船の夜 蜃気楼の地 Tの悲劇 孤独のリング 科学の子 形而上の形見 一片の追悼 手放す人 悪いとこしか似ていない 読む掟・書く掟

詳しくはhttp://www.yoshimototakaaki.com/

見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。(旧約聖書 エゼキエル書18章4節)

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(新約聖書 ピリピ人への手紙3章13節〜14節)

2024年4月29日月曜日

『母の最終講義』(最相葉月著)

 世の中、ゴールデンウイークということで、各地の行楽地は賑わっているようですね。こちらは愚直に普段どおり、いつもの古利根川散策を敢行しました。その土手に上がる上り口に鎮座ましましていたのが、ご存知この「キショウブ」というアヤメでした。珍しく同行者の家内が、「この花、撮ったら」というので撮りました。(いわゆるアヤメは紫色のものを言うそうですが・・・)

 昨日、最相葉月(さいしょう・はづき)さんの書かれた『母の最終講義』を図書館からお借りしました。最相葉月さんを初めて知ったのは、昨年末、彦根に帰ったときに、本屋さんで『証し 日本のキリスト者』というとても大部な本の存在に出会ったことがきっかけでした。総頁数1000余に達する本は新刊書の中でも圧巻でした。著者がどのような観点からこの日本のキリスト者を訪ねて、このような本を出版されたか大変興味を覚えていました。

 ところが東京新聞の4月7日の朝刊の「家族のこと話そう」というコーナーにこの方のお母様が認知症を患われ、その介護の状態が手短に語られていました。そして、『証』という本を表わすために費やした6年にわたる取材経験が、お母さんの介護の力の源になった旨書かれていました。

 それで今日一気に読み上げました。短いエッセーの集まりですから、大変読みやすいですし、それ以上に、しばし立ち止まって考えさせられることが数多くありました。最相さんは1963年生まれ、私は1943年生まれですから、ちょうど20歳ちがいですが、私より地についた「終活」の備えをしながら、文筆活動を続けておられる様子を窺い知ることができました。それだけでなく、同氏がたいへん謙虚な方であり、ご家族のこともご主人をふくめて必要最小限包み隠すことなく語られていることに、たいへん好感を覚えさせられました。

 私は1981年に父の認知症発症と死を経験しました。その時は、今のように認知症に関する知識のなかった時代で、無我夢中の毎日でしたが、それこそ毎日「聖書と祈り」の生活をとおして大変な危機を乗り越えさせていただきました。もちろん、父に対する愛が果たして十分であったかというと、申し訳ない思いがあります。(最相さんの思いは、それこそ私の思いの代弁でもありました)あれから40数年、すっかり世の中は変わり、コロナ禍も経験し、認知症に関する理解はより一層進んできているようです。しかし、果たしてどうなのでしょうか。

 最相さんがふと漏らしている次のような気づきは貴重だと思いました。同書129頁より

最後に、先の青年に教えてもらった「静穏の祈り」を紹介したい。アメリカの神学者、ラインホルト・ニーバーの言葉だ。「神よ、変えることのできないものを受け入れる心の静けさと、変えられるものを変える勇気と、そして、変えられないものと変えるべきものを見分ける知恵を与えてください」

 認知症対策は家族間の大きな問題です。親子の間、夫婦の間、親しければ親しいほど、そのギャップに泣きたくなることは請け合いです。しかし、考えてみると、主なる神様はニーバーの言葉を借りるまでもなく、日々私たちにみことばを通して語りかけてくださっているのですね。

何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(新約聖書 ピリピ人への手紙4章6〜7節)

知恵であるわたしは分別を住みかとする。そこには知識と思慮とがある。(旧約聖書 箴言8章12節)

2024年4月17日水曜日

復活の効力(序)

往く春や 白さも白し 花ありて
今年のイースターから日を数えてみると、今日は十七日目になる。イースターの日に青春18切符で、東海道線の鈍行に乗り、西下した。その際(長い乗車)時間潰しのために、一冊の薄い本『キリストの復活』(1962年初版)を携行した。少しずつ読んでいったが、中々難解であった(※)。しかし、こうして読み進めていってみると、著者はいったい何を言わんとしているのか、最後まで読み通したいと思うように変えられていった。二章「復活の予測」は後回しにし、先ず四章「復活の自由」を読み、その後一章「復活の事実」、三章「復活の信仰」と読み進めてきたが、今日から五章「復活の効力」という題名の個所を読んでみることにする。

考えてみると、イエス様は使徒の働きの以下の記述

イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。(使徒1:3)

によると、復活後四十日間、姿を現されたことがわかる。その伝にしたがい、今の時間に当てはめると、まだまだ主はご健在なのだ。なぜなら今日は十七日目だから。まだ復活後の生活は二十三日間続き、生きておられることになる。いよいよ、主の復活の意味をメリル・C・テニー氏の記述に従って考えていきたい。以下は五章「復活の効力」の序文である。

 私たちのほとんどは、復活を、今ここに存在する現実とはおよそ無縁なある事、と考えている。それは、時の功で今では、美しいが現実的ではない、ほとんど伝説的になった遠い昔の一事件、または、現世という地平線のはるかかなたに想像することさえ容易に許さない、未来をひたすらに望ませる、一個の信仰箇条といった程度のものとされている。しかしほんとうは、キリストが、歴史の一点で、死人の中から復活されたということは、神が私たちの中で今日に至るまで及ぼし続けておられる力についての、人間に対する最もめざましい例証にほかならない。それは、形式においては、私たちの現在の経験を越えたものである。しかし、質においては、異なるものではない。客観的に表現するとすれば、私たちはそれを、次のようなものであると信じている。すなわち、それは、キリストの人格において立証された時間とともに変化することを特徴とするもので、キリストにあって死んだ者がよみがえるいつの日にか、再び現わされるものである。しかし、主観的に言えば、その力は、今ここで、ありふれた生活条件の中で、いくらでも手に入れることのできるものである。

※この本は私が1970年、洗礼を受ける前に、買い求めたもので、自分がどの程度理解したのか覚えていない。いや、理解できていなかった。それから程なくして結婚に導かれている。結婚相手は何よりも私の洗礼を願っていた。私の洗礼は、結婚条件を満たすための滑り込みセーフの洗礼であった。そういう意味では、このわずか91頁の小冊子(定価100円)は、当時の私がキリスト信仰について右も左もわからないまま、とにかく「真理」を飲み込んだ本である。ただし、この本は当時のキリスト者が信仰良書選のトップバッターとして出版したくらいだから、かなり信頼のおける本ではなかったかと思う。

神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて・・・。(新約聖書 エペソ人への手紙 1章19〜20節) 

2024年3月12日火曜日

古利根川にナイル川

雲浮かべ 流れる河川 春の音 (2024.3.7)
 今朝は朝から空がどんよりしている。昨日は快晴であった。三、四日前には雪が降った。暖冬気味だった二月もいつの間にか終わり、三月に入ったが、一転して寒くなった。その上、天気は定まらず、一進一退を繰り返しているが、それでも確実に春へと向かっていることを感ずる。庭先の山茶花の花びらをヒヨドリがやってきては喰っていく。それも、私の姿が見えるや、すぐさま飛び去っていく、その身の処しかたは見事である。私の友である鳥諸君のこのような慌ただしい動きが何よりもそれを物語っている。

 ほぼ、一月テレビを見なかった。二月八日に誕生した赤ちゃんが我が家に先週の土曜日(三月九日)まで滞在していたからである。ともすると新聞でさえ読む気にならなかった。それだけ家族が赤ちゃんの一挙手一投足に全神経を奪われていたのであろう。この間の母親の労苦は実に大変なものだと思った。オッパイをあげること、オムツの手当て、洗濯と一日中休む間もない。一、二時間ごとに泣く赤ちゃんのお世話は並大抵ではない。しかし、その愛を受けて赤ちゃんはスクスク育っていく。我が家を出る時、体重が3.6キロになっていた。生まれた時は、3キロ前後だった。

 この間、私はテレビ・新聞からは遠ざかってしまったが、その代わり旧約聖書の出エジプト記の1章から3章までを繰り返し、繰り返し読んだ。それは言うまでもなく次の記述などに惹かれたからである。

 レビの家のひとりの人がレビ人の娘をめとった。女はみごもって、男の子を産んだが、そのかわいいのを見て、三ヶ月の間その子を隠しておいた。(旧約聖書 出エジプト記2:2)

 これは当時このイスラエル人であるレビ人夫妻が住んでいた地、それはエジプト王国であったが、その第19王朝のラメセス二世が、在留異国人であるイスラエル人が多産で強かったので、その対策に苦慮して、人減らし政策を実施した。その最後の方法がイスラエル人の赤ちゃんが男の子であったら、ナイル川に投げ込め、要するに「殺せ」という命令であった。その結果、多くのイスラエル人の家族が犠牲になった。

 ところが、レビ人夫妻はこの非人道的な命令に従わず、隠した。少なくとも三ヶ月は隠したということだった。さて、我が家に赤ちゃんは誕生して三、四日後にやってきたが、覚悟していたとは言え、「赤ちゃんとは『泣く者』と見たり」であった。四六時中泣いている。これでは周りの人に勘付かれないようにしても、とても無理だなと思った。出エジプト記の文章は続く。

 さて、しかしもう隠しきれなくなったので、パピルス製のかごを手に入れ、それに瀝青と樹脂とを塗って、その子を中に入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に置いた。(出エジプト記2:3)

 結局、この赤ちゃんは、ナイル川に水浴びに来た、王女に、かごの中の泣き声を知られ、惻隠の情を覚えた彼女によってナイル川から引き上げられる。彼女はこの赤ちゃんに、モーセと名づける。それは「水の中から、私がこの子を引き出したのです」という自負の念に満ちた命名であった。しかし、その背後には歴史を動かす神のご配慮、ご計画があったことを私たちは知らねばなるまい。

 果たせるかな、不思議な流れで、産みの母親である女は、王女から乳母として雇われる。どのくらいの年数になったのだろうか、大きくなった時、女は王女に子どもを返す。これ以後子どもは王室の中で暮らす。愛するわが子と別れねばならなくなった女はどんな思いでいたのだろうか。泣いては乳を求める赤ちゃんに、乳房を差し出しては、口にふくませ、平安のうちに静かになる我が家の授乳の姿を見るにつけ、この子どもの母親の気持ちはどんなであったろうかと考えざるを得なかった。いや、我が家だけでなく、すべての人がその母から同じ愛を抱いていることに気づき、敬虔な思いにさせられることしばしであった。

 そんなおり、タイミングよく、20年ほど前に購入していて、これまで読んでいなかった酒枝義旗さんの本をひっぱり出し、紐解いたら次のような文章があった。煩を厭わず、写してみる。

 葦のしげみの中から拾い上げられた赤ん坊は、パロの娘の子として、生みの母親に預けられることになりました。母親は、もはやエジプト人の探索の眼をおそれてびくびくしなくてもよいのです。彼女は赤ん坊に乳をふくませるごとに、あどけないその顔を見入りながら、この子が救われて今こうして乳を飲んでいることの不思議さを心深く思い返したことでしょう。そうした不思議さの奥に、生ける神様の計り知れぬ顧みの働いていることを思うて、こみ上げる感謝とともに身のひきしまる感に打たれたことと想像されます。それはそのはずです。自分の子供は奇しくも助かったのですが、同じようにヘブル人の家庭に生まれた他の赤ん坊たちは、ナイル川の濁流の中にのまれていったのです。そのことを思うと、自分の赤ん坊の助かったことの喜びと感謝とともに、いたましく死んで行った子供たちとその母親たちへの同情が、切々として胸を覆うたことでしょう。いな、単なる同情ではなく、この赤ん坊だけが助かっていることを、ただ喜んでいるのでは申し訳ない、どうか、この赤ん坊が育って大人になった後は、同胞イスラエルのために、何かしら意義深い奉仕のできる者となるようにとの切なる願いと祈りがささげられたことと思われます。赤ん坊が、母親の乳房から吸う母乳の中には、そうした切々たる思いと祈りがこめられていたのです。

 母親や姉の愛護のもとに、幼な子は健やかに育ってゆきました。パロの娘との間に定められた日が、一日一日と近づいて来ます。しがないヘブル人の家庭から、きらびやかなパロの娘の子として育てられることは、たしかに幼な子の将来にとって幸福を意味するにちがいありません。しかし、それは同胞イスラエルを酷使するばかりか、鬼畜のような非道な命令によって、生くるに甲斐なき奴隷の民としているエジプト王の宮廷であります。やむを得なかった事情によるとはいえ、いやしくもレビの家の血筋をひくこの子供が、イスラエルの民の敵であるエジプトの宮廷の人となるのです。幼な子の母の胸は、このことに思い至るごとに、刃をもって切り割かれるような痛みを覚えずにはいられなかったことでしょう。それは、折角わが乳を吸わせて育てたわが子を手離してしまう母親としての悲しみを超えて、彼女の心をしめつけたにちがいありません。

”幼な子よ。お前の生涯は、おまえのものであってはならないぞよ。遠き先祖たちを導きたまいし神よ、今日からパロの宮廷で育てられるこの幼な子の生涯を、イスラエルをかえりみたもう聖なる御旨のあかし人の生涯として導きたまえ”

との祈りこそ、幼な子の母親の心の底からの祈りではなかったでしょうか。「その子が大きくなったとき、女はその子をパロの娘のもとに連れて行った。」(出エジプト2:10)という簡単な文字の奥に、モーセの母のこうした切々たる思いと祈りを読みとるのは、聖句の勝手な読み過ぎでしょうか。(『酒枝義旗著作集4 出エジプト記講義』111頁以下より引用)

 酒枝さんは、お会いしたこともないが、知人が親しく教えを受けた方であり、ベック兄とも大変深い交流のあった方だと存じ上げていたが、全13巻もある、この著作集も私の書架に眠ったままであった。私が生意気にも、購入しておきながら、紐解かなかったのは私の一方的な偏見によるものであった。この酒枝さんの文章には以前別の単行本『今に至るこそ』所載の「念仏と福音」で読んだことのある酒枝さんのお母さんに対する大変な尊敬の思いが、同時に表れているのではないかと思って読んだ。

 モーセが実際どのように歩んで行くか、今後はそのことを聖書から教えられたいと思っている。また、映画『十戒』は一度映画館で観たことがある気がするが、信仰を持つはるか以前、多分、高校時代かに、観たものであり、その内容も覚えていないが、酒枝さんのこの講義ではその点も配慮しながら、しかも実際のエジプト史を背景にし、信仰者としての見識を示され、また時の問題(早稲田における学園紛争、いわゆる全共闘運動)に「教授」として対峙されたであろう所感のようなものが出エジプトの記載を追いながら述べておられるので、大変読み応えがある本である。出エジプト記自体が40章にも達するので、ご著書を読み終わるまでには、まだまだ数日かかると思うが読み終わりたい。

 今回、娘夫妻が赤ちゃんを連れて帰ってくるには、正直言って多くの不安があった。恐らく娘夫妻にも不安があったと思う。しかし、今回の挑戦は始まった。始まってみれば、すべて杞憂であり、子どもたちの支援もあり、背後で祈ってくださった方々の祈りがあり、無事に乗り越えられた。何よりも主の顧みがあってのことだと思う。

 顧みれば、人生、この先にはどんなことが待ち受けているかはわからない。しかし、決して無駄なことはない。何度も繰り返し、このブログで紹介してきたように、55年前のこの日に交通事故(むち打ち症)に遭ったことは私にとって決定的な福音を受け入れる大きな主のご計画の一つだったと思っている(※)。最後に、忘れないために、二つの聖句(みことば)を書かせていただく。

※ https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2019/03/1969312.html

子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる。(旧約聖書 箴言23:13〜14)

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(新約聖書 ローマ8:28)

2024年2月25日日曜日

『涙の谷を過ぎるとも』(下)

北海道・駒ヶ岳(1131m)※1
 今回、『涙の谷を過ぎるとも』を再読して、気づかされたことは多くある。もともと著者坂本幸四郎さんは旧制函館中学生のとき、アメリカ人宣教師の主宰する小さな集会に出席していたが、ある時、集会は閉鎖され、宣教師も帰国した。それは日米の間に戦争が始まったからである。それに呼応するかのように、著者坂本さんは教会を離れた。

 そして戦後まもなく、卒業後選んだ国鉄職員の道(青函連絡船通信士)の中で労働運動に邁進し、共産党の党員となるも、党の実態は戦前の日本社会が抱えていた病理そのものである家父長制でしかないことに失望、脱党し一線から退く。キリスト教への接近から、唯物思想への接近と、振り子は大いに揺れたが、そこにも安住する場はなかったのだ。果たして戦後自分はいかに生きていくべきか考えていた時期、その問いに真正面に取り組んでいたのが、全16巻からなる『戦後思想大系』であった。

 そして端なくも見出したのが、自分の住んでいる函館で起こった戦前の「小山宗祐牧師補の自殺」という衝撃的な事件であった。しかし、その事実は同じ教派であるホーリネス教会でもしっかりととらえられておらず、徒手空拳とも言うべき、しかも未信者である坂本さんが一切を知るべく奔走したことにより事態が徐々に明らかになっていくという構成であった(※2)。その主舞台は函館であった。そしてふと気づくと、小山宗祐さんは大正5年(1916年)1月生まれだった。

昭和7年6月27日 柏野 北海道号来る
 同じ大正5年1月生まれの人物に母の先夫吉田文次郎がいる。しかも、吉田文次郎は、森から旧制函館商業に汽車で通っており生活圏の一角を占めていた(※3)。小山宗祐さんと吉田文次郎は全く一面識もない別人だが、函館生まれの坂本さんが関西から牧師補として函館にやってきた小山宗祐さんの行動を一々紹介された文章を読むたびに、私の心の中では、いつしかこの両者は自然に重ね合わされていった。そうして小山宗祐さんは私にとってより身近な人ともなった。こんな本の読み方もできるんだなと思った(今までそんな読み方をしたことはなかった)。

 戸籍によると吉田文次郎は昭和13年(1938年)10月11日午後零時五分中華民国江西省瑞昌県瑞昌野戦病院に於いて死亡。小山宗祐は昭和17年(1942年)3月26日午前5時40分函館市新川町28番地に於いて死亡。片や吉田文次郎は22歳で野戦病院で死亡、片や小山宗祐は26歳で新川拘置所内で死亡している。

 小山宗祐が函館に来たのは、昭和16年(1941年)ごろであり、その時には吉田文次郎はすでに戦病死している。もし「戦争」がなかったら、ひょっとして両者は函館で会うことになっていたかも知れない。私の母は先夫を大変尊敬しており、その戦病死さえ、「文次郎さんは〔思想〕でやられた」とも私に言ったことがある。それは私の中学生時代に耳にした言葉で、それは「アカ」を指していたのではないか(と、思う)。本当のことはわからない。

 私の母美壽枝は北海道森町の吉田文次郎のもとに、滋賀から昭和11年(1936年)に嫁いでおり、二人の間にはまだ子どももいなかったが、「戦争」がなかったら、未亡人になることもなく、森町に住み続け、跡継ぎも与えられ、家族で函館や札幌に出かけ、一年に一度は留守宅である滋賀の地に帰ったのでないかと思う。一方、小山さんには将来を約束していた方がいたようなので、こちらは結婚し、良き助け手とともに、牧師として集会を持ち続けたのでないかと想像される。

 けれども「戦争」は昭和13年(文次郎死亡の年)、昭和17年(宗祐死亡の年)を足蹴にするかのように大突進をし、最後は大雪崩のすえ、昭和20年の敗戦となった。ために母美壽枝は昭和15年(1940年)には内地に引き上げ、昭和17年(1942年)には家を絶やさないためと、父膽吹清を婿養子として迎え、その間に私が誕生した。私は吉田家の一人息子として生を受け、吉田文次郎の後を継ぐ者となった(※4)。

 方や、小山宗祐氏は跡取りも残さず、この地上の生を終えた。遺されたものが彼遺愛の聖書であり、その聖書は坂本さんの手に渡ったのは、前回触れた通りである。その坂本さんもネット情報によると、1999年(平成11年)に亡くなっている。果たして今その聖書はどこにあるのだろうか。いやそれより、坂本さんのキリスト教への接近は果たして最後どうなったのだろうか。

 坂本さんは、イエス・キリストの教えには心惹かれるものがあっても、聖書の非科学的なところが受け入れられず、また現実のキリスト者のありかたにも飽き足らず、かと言って社会改革の道を歩む運動体にも希望が持てず、一人のキリスト者の死の道を辿ることを通して、求道の道を続けられたのであろうか。その成果がこの一冊の『涙の谷を過ぎるとも』(1985年刊行)の本であった。その書物が出版されるころ、すなわち1984年(昭和59年)、職場の同僚とともに、函館の地を歩いたときは、私は胸底に吉田文次郎・美壽枝夫妻の故地を訪ねる思いを秘めており、思いは森に集中しており、函館遊歩の時は残念ながら上(うわ)の空であった。

 81年の歩みを許され、こうして様々な人々の歩みを知るにつけ、いついかなる時も懸命に生きるべきことを教えられた。函館は生涯一度しか訪ねたことがない。その函館を通してこんなにも多くのことを考えさせられるとは。「あだや人生無駄に過ごすべからず」である。それが私のこの本を読んでの率直な感想である。

※1 母のアルバムにあった写真であるが、亡夫吉田文次郎の撮影によるものと思われる。今まで何となく、この写真を見ていたが、今回、よく撮られている写真だと思った。私の撮った写真(『涙の谷を過ぎるとも』上、所載)は駒ヶ岳を背後にして駅頭から湾に向かってのものだった。以前、この森町にOMFが初めて入ったことを記した。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2020/05/blog-post_22.html
この湾奥から森町に彼らは上陸したことを追体験し、これまた感慨を新たにさせられた。

※2 この事実は一人のキリスト者であり、同志社で教鞭を取られていた和田洋一氏たちによって初めて明らかにされた。

※3 今回、吉田文次郎の遺したアルバムを点検してこの写真に注目せざるを得なかった。
キャプションは吉田文次郎の筆跡であり、昭和7年は彼が15、6歳のころである。このような小型飛行機は国民の拠金として軍に献上されたものである。彼はこの勇姿を収めている。この時、彼は、アカどころか、一端(いっぱし)の軍国少年であった!

※4 この辺の事情については本ブログに既に投稿してあった。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2011/08/blog-post_15.html

 唐突だが、今朝の春日部の福音集会で話された方が引用されたみことばを記して置く。私にとってこの本を二度まで読んだ(いや、二十数年前をふくめると、三度と言うべき?)感想と無関係ではない、聖書のみことば、イエス様のおっしゃったことばであった。

もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。(新約聖書 マタイの福音書17章20節)

「からし種」と「山」、何と対照的なものをさして、イエス様は私たちの迷蒙を打ち砕いてくださるのだろうか。所詮、私たちの信仰はもとより、私たちの存在は、からし種に過ぎない。それが「不動」にして「大いなる」山を動かすことができるとおっしゃっている。そんな馬鹿なことが、と誰しも思う。極めて良心的で真摯であった坂本さんが「聖書の非科学的なところが受け入れられず」と言われたのは、このようなイエス様のことばもふくんでいるのではないかと思う。しかし、神の上に人がいるのでなく、人が創造主である神の前に頭を下げなければ、信仰は生まれない。恐らく、その一点が坂本さんをして、福音から遠ざからしめたのではないかと思う。

2024年2月24日土曜日

『涙の谷を過ぎるとも』(中)

 『涙の谷を過ぎるとも』という本は、小山宗祐(そうすけ)という牧師補が、昭和17年(1942年)1月に、治安維持法違反の疑いで逮捕され、3月の公判中に拘置所内で自殺する事件(※1)について考察されている本である。

 私はこの本を二十数年前には手にしていたが、2003年に蔵書を大量に処分した際、処分してしまった本である。そのような本をなぜ再び、今度は図書館から借り出してまで読む気になったか、と言うと、それはひとえに一月(いちがつ)以来ずっと追跡していた「山崎鷲夫」氏の存在にかかわることである。

 私は山崎さんが書かれた『宣教物語 地の極の開拓者』の叙述に痛く感動した(※2)。その際、この著者はどのような時代・環境の下でこの本を書き、これだけの叙述ができるかその理由が知りたくなり色々調べた。その結果、彼には『ホーリネスバンドの軌跡』(1983年刊行)の編著者としての総頁数800頁弱にも達する大部の本があり、この本は先ほどの『涙の谷を過ぎるとも』とは異なり、処分せず、私の書棚に残っていることに気づいた。ただし紐解いたことはなかった。

 今回概略眺めてみたが、その時、改めて小山宗祐牧師補の一件をどのように山崎さんは受けとめているのかが、戦前の著作の好印象もあり、気になった。それもあり、この坂本幸四郎さんの書かれた『涙の谷を過ぎるとも』を思い出し、是非とも再読しなければと思い立った。今週市外の図書館を経由して借り入れることができた。幸い、二回読むことができた。そしてこの本の魅力が何なのか改めて考えた。

 それはそのままでは歴史の中に埋もれてしまいかねない小山宗祐氏をその死後、28年経っているのに、その真実を調べ上げていった根気強さとその愛の尊さを随所に感じさせられるものだった。

 そもそも、一人の人間の生と死は必ず戸籍に記録されるが、その戸籍を知ることが、場合によっては、いかに困難になるかを知って驚かされた。特に、自らの信仰のゆえに国策である戦争に異議を唱えざるを得なかった小山宗祐さんの場合、非国民として罰せられたので、周りにいる者のすべてが(家族やキリスト者をふくめて)事件には決して触れて欲しくない思いを戦後数十年経っても持ち続けていたので調査は困難であった。

 著者の坂本幸四郎さんが最初調査に取り掛かったのは1969年(昭和44年)とあった。その時、彼は自らの戦争体験を振り返りつつ、次のような確信を持っていたのがわかる(※3)。

「生身の人間にとって歴史とはなんだろう。歴史の書にあらわれてくる人名は著名な人で、指導者である。そのほかはひとりの人間として無視され抜け落ちている。このひとたちに歴史がないのだろうか。そうではない。書かれないだけだと痛く感じた。
 軍隊生活を思いだした。ここは極端な員数社会である。ひとりの人間の人格、自由が抹殺されている。・・・
 書かれない歴史のなかにうごめく無数のひとがいる。新聞の束の裏から何千、何万という目がこちらを見ている気がした。その中に小山宗祐青年の目がある。わたしによって書かれた歴史にしなければならないと思った。」(同書43〜44頁より)

 結局、彼の試みは成功したのでないだろうか。小山宗祐氏の両親も兄弟姉妹も亡くなったのに、1985年の墓参にまで京都へと出かけるようになったほど残された遺族から信頼されていたからである。そして、そのあと、一冊の小山氏の遺品である聖書が坂本幸四郎さんに託される。著者はその聖書を手にした感想を次のように書き留めていた。

「しずかに頁をめくると、いたる章句に青や朱の傍線が引いてあり熟読したことがわかる。各書の冒頭に、詳細な書き込みのある手製の頁がある。・・・さすがイラストの名手だけあって、楷書で細字をびっしり書きこんである。どれほど魂を注ぎこんで読みこんだかひしひしとつたわってきた。
 この聖書はおそらく憲兵も特高も見た。しかし乱暴に扱われず損傷することなくもどされたのは、この聖書の傍線と書き込みに気圧されたからに違いない。彼らは宗祐の肉体を拘引したが、宗祐の魂の書は拘引できなかった。
 聖書はいま小山宗祐牧師補の化身となってわたしのところにある。(※4)」(同書228頁より)

※1 自殺かそれとも拷問死か真偽を調べようと奔走された。これは簡単に結論が出る問題でないが、著者は可能な限り客観的文書の存在にあたろうとするが、当時の国家体制では結局無理ではなかったのではなかろうか。現在のロシアにおけるナワリヌイ氏の処遇を見てもわかる。

※2 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/01/blog-post_25.html
そして、意外や意外、その山崎氏が坂本氏のもとを訪ねていることが次のように述べられていた。「1982年(昭和57年)の夏、ホーリネス教団の東京聖書学院教授、山崎鷲夫氏が函館の拙宅にこられた」(同書202頁)山崎鷲夫氏の略歴をこうして間接的に知ることもできて、私の疑問も解けた。一方、この「鷲夫」という名前は、『荒野の泉』の訳者である父亭治氏の命名でないかと勝手に想像している。すなわち、旧約聖書イザヤ書40章31節「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」

※3 1969年の1年間、坂本氏は事件の真相をつかむために東奔西走するが、そのきっかけになったのは筑摩書房刊行の『戦後思想大系』の中の一巻であり、その本を通して「戦前が何であったか、さらに戦後の意味を考えることになった」(同書31頁)と述懐している。私が信仰の問題を抱えて、生死をかけて苦闘していた時は、まさしくそういう時代でもあったことを彼の行動に照らし合わせ、改めて深く考えさせられた。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2019/03/1969312.html

※4 この感動的な文章に誰しも満腔(まんこう)の敬意を表明するのではないだろうか。しかし、それだけに私には坂本氏が小山宗祐氏の真奥の霊の姿も見ていただきかったという思いを禁じ得ない。それは彼が小山宗祐氏の生涯を振り返って、あとがきに次のように書いていることにも関連することである。

「小山宗祐牧師補が自殺し、遺品となった彼の聖書の手製頁の書きこみの中に、詩篇84篇6の『涙の谷を過ぐるとも』があった。どうしたのかここだけインクのシミが涙のようについている。涙の谷、それは権力に圧殺された民が、原始から今に続いて流した血涙が埋めたものである。
 この民らを救うものが宗教であるのか社会の変革にあるのかわからない。涙の谷が、はるかな未来につづき、果ては人類滅亡の日をむかえるのではないかと恐れがある。」(同書231頁)

 坂本氏が本の題名として引用した聖書84篇6節全文を下記に引用したい。

彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。

 坂本氏は聖書のみことばの前半部に注目され、またご自身の探究の結果をすでにご紹介したようにまとめられた。そのことに異論はあろうはずはないのだが、私は今ひとつ付け加えたいことがある。それはみことばの後半部である。「そこを泉のわく所とします」。これはまさしくキリスト者の抱いている「いのち」の喜びに、つながる大切なみことばであると思うからだ。だから、坂本氏には「宗祐の魂の書は拘引できなかった」と書くだけでなく、「宗祐の霊は拘引できなかった」と書いて欲しかった。私たちを霊的に指導してくださったベック兄は「歌うもの、踊る者、皆言わん。わがもろもろの泉は、汝のうちにあり」(詩篇87篇7節)といかなる時もイエス様に信頼するようにと、この文語訳の聖書の言葉を口癖のように言っておられたことを思い出す。これも同じ心であろう。さすれば、小山宗祐牧師補は若年ながら主にあって殉教されたのではないだろうか。

2024年2月23日金曜日

『涙の谷を過ぎるとも』(上)


 1984年(昭和59年)3月 、職場の同僚11人で函館に旅したことがある。こんな写真があることを思い出したのは、最近『涙の谷を過ぎるとも』(坂本幸四郎著、河出書房新社、1985年刊行)をこれまた数十年ぶりに手にとっての読書中のことであった。

 同書の冒頭近くにこれとほぼ同じ建物(教会建築群)の写真があったからである。私たちの旅は八人のクラス担任と副担任三人からなる、解散旅行であった。当時私は学年主任の立場にあったが、主任とは名ばかりで、実際はそれぞれの先生方が個性あふれるクラス経営をなさっていて、私も主任であると同時に担任でもあったので教られることばかりであった。この函館行きも副主任である先生のリーダーシップよろしく、三学年を卒業させたあと学校側からも暖かい支援をいただいて旅立ったものであった。

 ところが、肝心の私は当初それほど乗り気ではなかった。他の先生方の熱意に押されての旅路であった。しかし、その実、私には一つの隠された目的があった。それは亡母が戦前1936年(昭和11年)に函館とは目と鼻の間とも言っていい、森町に嫁いで夫が亡くなるまでそこで過ごし、滋賀の家の出先の地であったことが常に念頭にあり、一度是非この目で森町の旧跡を訪れたいと思っていたからである。それは若くして逝ってしまった母の思い出の地をどうしても追体験したかったからである。

 函館に着いてもその思いが強く、一行の皆さんとは単独で別行動を取った。そして念願の森駅、旧跡を駆け足ながら、見歩くことができた。三月とは言え、北海道は寒く、森駅から太平洋(実は湾であったが)を望見し、その余りにも寂しい姿に亡母の思い(20代そこそこでここで過ごし、戦争で夫を亡くした)を重ね合わせ、私の思いは複雑で泣きたい思いであった。それは再び他の皆さんと合流しても消え去らぬ思いであった。しかし、自分はこうして亡母の地、先祖が生活をした現地をこの身で体験したという確かな思いが残った。

 そういう意味で、1984年の学年解散旅行は私にとって忘れられない旅路ではあったが、その後、ブログで時々その亡母のことを触れることはあってもそれ以上出ることはなかった(※)。ところが今回、『涙の谷を過ぎるとも』というほぼ同時期に出版された本の再読をきっかけにさらに深いことを考えさせられたのである。

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている・・(旧約聖書 エレミヤ書29章11節)

2024年2月5日月曜日

父子の絆(『荒野の泉』と『宣教物語』)


 今日の写真は、『荒野の泉』と『宣教物語ーー地の極の開拓者』という二冊の本の表紙を並べさせていただいた(※1)。それは他ならぬ、今回「ツィンツェンドルフ伯爵」のことを詳しく知ろうとして、思わず知らされることになった様々なことに、今一つ加えるべき事情があったからである。

 『荒野の泉』の訳者は山崎亭治さんであるが、その訳者あとがきは次のように記されている。

『荒野の泉』を読み出したのは大正の末期、原書の出版早々であったと思う。当時は仙台教会の牧師をしていたが、所属教団内部にも教会にも情勢の変化が生じ、私は内的に非常に大きな苦悩を感じていたが、本書によってこの霊性の危機から救い出されることができた。それが動機で本書の翻訳を始めその一部を戦前の雑誌「聖潮」に掲載した。また出版の許可については著者ミセス・カウマンが最後に日本に来られた時すでに与えられたのであったが、当時の社会情勢では出版することは不可能であった。しかもその当時の原稿は幸か不幸か戦災にあって消失してしまった。しかし戦後私はまたもやこれが翻訳を志し、教務の余暇を利用して訳業を進めた。巡回の時なども時を見出して訳した(※2)。さて訳了はしたものの、明治育ちの私の文章は現代の人たちに興味を持たせることは無理であった。いろいろな工夫をして見たがうまくいかないので、長男鷲夫夫妻に仮名遣いと文章の修正の一切を託した。・・・

                 昭和39年(1964年)12月

 ここまで読むと、山崎亭治さんが『荒野の泉』(カウマン夫人著)を翻訳された動機と、その翻訳版が出版されるまでに、一時は原稿が焼失するなど紆余曲折があり、最後、令息の鷲夫夫妻の手を借りて日本語版が完成したことがわかる。英語版は1925年だということだから、すでに40年近い日月が経過していたことになる。

 ところで、写真の右側にお載せした『宣教物語ーー地の極の開拓者』の著者は山崎鷲夫さんである。私がツィンツェンドルフ伯爵について朧げながら初めて知ったのはこの本が最初であった。ところがこの本は家の中に埋もれてしまって見つからなかった。その挙句去月中旬頃出てきた。私はその本の叙述を読みながら、著者は全然経験もしないことをどうして書けるんだろうか?原本があり、それを翻訳しているのでないかとさえ思った。ただ本には前書きも後書きもないから、私の勝手な推測に過ぎない。それとは別に一番後ろに刊行月日が昭和16年(1941年)1月1日と記されていることが私には最も印象深かった。なぜなら翌年(1942年)の6月26日、この父子は治安維持法違反の容疑で他の多くの人々と共に逮捕されたからである(実際は戦後の10月に免訴になったのだが)。

 そして、改めて我が蔵書を調べてみると、『祈祷の目的』(E,M.バウンズ著山崎亭治訳)もあることに気づいた。しかも山崎鷲夫さんの編集された800頁弱の大冊の存在があることも知るようになった(※3)。私は、今、この亭治さん、鷲夫さん父子の歩まれた時代を追い始めた。これが悲しくも「日本の宣教物語」の一つなのだろうか、という思いで。

※1 右側の写真を拡大して、西インド諸島の人が「両手を挙げて福音を待ち焦がれている姿」がイラストとして描かれているのを確認されたし。これがツィンツェンドルフ伯爵に引き入れられたヘルンフートの人々が最初に国外からの招きに応えて渡っていったことを記念するイラストである。他の四つのイラストもそれぞれの宣教地となった地をあらわしている。一番北にはエスキモーの人々の住むラプランドが示されている。

※2 山崎亭治氏は牧師、聖書学院の教師などを歴任され、1970年版の新改訳聖書の翻訳にも携われたが、新約聖書のヨハネの手紙の翻訳は山崎亭治さんの労作のようである。

※3 この本も40年ほど以前に購入して以来、今日まで全く開いたことがなかった。自分には無関係だと決めつけていたからである。だとしたら、なぜ購入したのかと問われるかも知れない。人生とは案外そういう面を持っているのでないだろうか。

愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(新約聖書 1ヨハネ4章8節〜10節) 

2024年2月2日金曜日

B. McCall Barbour 書店の証

B. McCall Barbour 書店(エジンバラ 2010.10.5)
 『荒野の泉』というキリスト者の間で読み継がれているベストセラーがある。それは365日、それぞれの日毎に聖句を載せ、それに関する、過去のキリスト者の霊想が並行して載せられている書物である。私はこの本を、書架に並べているが、いまだにキチンと読んだことがなかった。それに比べると、家内は長年愛読しており、何人もの方々に贈り物として数年前まで使わせていただいていた本である。そういう意味では、私にとっても馴染みのある本である。

 ところが、今年の年頭に、主にある親しい友である方から、いただいた風景入りのカード(※1)の中にツィンツェンドルフ伯爵の言葉が載せてあった。最初、この伯爵の言葉の文字が小さくて読み取れなかった。もっと知りたい、いったいどこに載せてあるのだろうかという思いであった。そして、ひょっとしてこの『荒野の泉』に掲載している人物の中にあるものではないだろうか、というのが私のちょっとした勘だった。ところが、どうしても見つからなかった(※2)。その代わりに、1月14日に登場する「J・ダンソン・スミス」という人名が妙に気になった。

 そして、過去のブログ記事(※3)を繰って見て、まさに私の脳裏にくっきりと刻み込まれていた「J・ダンソン・スミス」氏、まさしくその人だった。2010年、結婚40周年を記念して、海外旅行を子どもたちがプレゼントしてくれた。その時、選んだ最初の訪問地はスコットランドのエジンバラであった。そのエジンバラで偶然にもJ・ダンソン・スミスさんの御子息(お嬢さんと息子さん)の経営する書店に入り、しばし御交わりをさせていただいたことがあったからである。もとより、異国人同士である私たちは、その時が初対面であり、お互いに未知であり、それゆえに私たちはお名前も、またその方がどんな方かも知らなかった。

 ところが、その一連のブログを読んでいただくとわかるが、お嬢さんである方が「今度は天国でお会いしましょう」とそのお店を辞去する時に言われたほど、フレンドリーなお交わりをいただいた。そのお父様のJ・ダンソン・スミスさんの霊想が『荒野の泉』に載っているというのは、嬉しい驚きだった。早速、読んでみた。そこには次のような文章が綴られていた。

 彼さきにゆきたもう これは私の慰めである
 彼さきにゆきたもう 私の心はその上に安住する
 彼さきにゆきたもう これは救いを保証する
 彼さきにゆきたもう それゆえにすべてはよい。
              ーー J・ダンソン・スミス

 これまた何と尊い導きの言葉、美しい詩であろうか。彼とはもちろん、主イエス・キリストである。これが、あのパンフレットがダンソン氏を紹介するにあたって述べている「writing beautiful poems」のあらわれの一端なのだろうかと嬉しくなった。

 そして、一月に紹介してきたツィンツェンドルフ伯爵の新生が、十字架上の受難の主を体験することであり、そのことではハヴァガルもまた同様な経験のもとでその人生の画期としていることを確かめた(※4)。ところで、McCall Barbour氏が"He failth not"(「主は不正を行わない」ゼパニヤ3:5)と言い、かつ"All have sinned, but the Lord Jesus can save!"とその仕事の後継者であるJ・ダンソン・スミス氏たちをして言わしめていることを、昨日、一昨日のブログで確かめた通りである。

 この時代を異にする四者に共通することは、結局、人間にはできないが、主にはできる。それは人間が罪人だからであり、その罪を贖ってくださったお方はただ一人神の子、主イエス様だけであるという聖書が一貫して私たちに伝えている「福音」ではないかと思った。

 時到り、岸田首相は裏金疑惑を謝罪した。トヨタ会長豊田氏は相次ぐ車両検査の不正を謝罪した。翌朝、TBSの森本毅郎スタンバイで、政界、財界の両トップである人が謝罪を表明せざるを得ず、しかもその謝罪も本当の改革・改善への道備へとなるか大いに疑問だと言っていた。まさに憂慮の日本である。"He failth not"(「主は不正を行わない」ゼパニヤ3:5)と言いたい。

 果たせるかな、私たちの日曜の福音集会のメッセージは「私たちにはできないが、神様にはできる」であった。洋の東西を問わず、時代の先後を問わず、主の示される道を歩み続けたいものだ。

 末尾にJ・ダンソン・スミス氏の霊想を掲載している『荒野の泉』の1月14日の引用聖句を掲げておく。

※1 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/01/blog-post.html
※2 あとでその方に確認させていただいて知ったことだが、私の推測どおりツィンツェンドルフ伯爵の言葉は『荒野の泉』所載だった。ただ、まさか元旦の日とは思わず、見落としてしまった。

 知らざる道に 神はわれらを導きたもう
 歩みは遅くとも上に導きたもう
 幾度か気落ちして立ちどまるとも
 よし暴風と暗さは日を隠すとも
   やがて雲の去りゆく時 
   神のわれらを進ませたまいしを知る

 事多き年月を越えて神はわれらを導きたもう
 夢の如き希望、疑いと恐れをうちすてて
 たどり難き迷路のただ中を導きたもう
 損失と 悲哀と 雲とざす路のただ中を
   われらは知る 御旨のなされしを
   かくてなお彼はわれらを導きたもう

※3 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/10/blog-post_15.html
※4 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/01/blog-post_27.html

彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。(新約聖書 ヨハネの福音書10章4節)