2024年2月23日金曜日

『涙の谷を過ぎるとも』(上)


 1984年(昭和59年)3月 、職場の同僚11人で函館に旅したことがある。こんな写真があることを思い出したのは、最近『涙の谷を過ぎるとも』(坂本幸四郎著、河出書房新社、1985年刊行)をこれまた数十年ぶりに手にとっての読書中のことであった。

 同書の冒頭近くにこれとほぼ同じ建物(教会建築群)の写真があったからである。私たちの旅は八人のクラス担任と副担任三人からなる、解散旅行であった。当時私は学年主任の立場にあったが、主任とは名ばかりで、実際はそれぞれの先生方が個性あふれるクラス経営をなさっていて、私も主任であると同時に担任でもあったので教られることばかりであった。この函館行きも副主任である先生のリーダーシップよろしく、三学年を卒業させたあと学校側からも暖かい支援をいただいて旅立ったものであった。

 ところが、肝心の私は当初それほど乗り気ではなかった。他の先生方の熱意に押されての旅路であった。しかし、その実、私には一つの隠された目的があった。それは亡母が戦前1936年(昭和11年)に函館とは目と鼻の間とも言っていい、森町に嫁いで夫が亡くなるまでそこで過ごし、滋賀の家の出先の地であったことが常に念頭にあり、一度是非この目で森町の旧跡を訪れたいと思っていたからである。それは若くして逝ってしまった母の思い出の地をどうしても追体験したかったからである。

 函館に着いてもその思いが強く、一行の皆さんとは単独で別行動を取った。そして念願の森駅、旧跡を駆け足ながら、見歩くことができた。三月とは言え、北海道は寒く、森駅から太平洋(実は湾であったが)を望見し、その余りにも寂しい姿に亡母の思い(20代そこそこでここで過ごし、戦争で夫を亡くした)を重ね合わせ、私の思いは複雑で泣きたい思いであった。それは再び他の皆さんと合流しても消え去らぬ思いであった。しかし、自分はこうして亡母の地、先祖が生活をした現地をこの身で体験したという確かな思いが残った。

 そういう意味で、1984年の学年解散旅行は私にとって忘れられない旅路ではあったが、その後、ブログで時々その亡母のことを触れることはあってもそれ以上出ることはなかった(※)。ところが今回、『涙の谷を過ぎるとも』というほぼ同時期に出版された本の再読をきっかけにさらに深いことを考えさせられたのである。

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている・・(旧約聖書 エレミヤ書29章11節)

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