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2024年5月13日月曜日

復活の最終目的(序)


昨日は、ミンヘンママのお別れ会の席で、五女にあたるスーシーさんが挨拶された言葉を「母の日」にちなんで、ご紹介させていただきました。その中のポイントの一つは、主イエス様によって天国へと召された愛するお母様にご自分もまた天国で再会できるという主イエス様に対する感謝の表明だったのではないでしょうか。この確信を持つようにしてくださったのが、イエス様の十字架の死による私たちの罪の贖いと復活です。それゆえに、誰でもイエス様を素直に信ずる人はその場で直ちに、間違いなしに天国に行けるのです。それ以外の何の条件もいらないのです。

以前、と言っても8年前のことですが、ミンヘンさんの夫であるベックさんがその年の8月23日に召されるのも知らないで、私はその時、せっせとフランシス・リドレー・ハヴァガルの『霊想』を翻訳しながら、一方でそのお姉さんの「マライア・ハヴァガルの伝記」も併せて翻訳しては、このブログに載せていました。それは8月を遡ること、二ヶ月前の6月のことでした。私にとってその翻訳をとおしてキリスト者の死がいかに希望に満ちたものであるかを教えられた思いでした。そしてそれは私にとって、ベックさんの死に備える心の準備でもあったのです。ご参考のためにそのうちの一部6月15日の文章を紹介しておきます。お読みくだされば幸いです。

https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2016/06/blog-post_15.html

さて、しばらく、中断していた「キリストの復活」というメリル・C・テニーの著作の最終章「復活の最終目的」を引き続いて転写させていただきます。

すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする」(黙示21:5)

 ヨハネの黙示録は、絶えず、多くのキリスト者にとって、神秘的なものとされてきた。それをめぐって、ばかげているとしか思えないような多くの本も著された。しかし一つの点で、すべてのキリスト者は一致している。それは、最後の二章に描かれている神の都こそは、キリスト者の最後の状態だということである。その信仰は、ヘブル人への手紙では、「この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです」と表現されている(13:14)。そこに私たちは、アブラハムが求めた「堅い基礎の上に建てられた都」、またイエスが語られた「父の家」を見いだすことができるのである。

 神の都が、信者の最後に行き着く所であるとすると、それには必然的に、二つの結論が伴う。第一に、それが私たちの期待の目標であり、救いの冠である祝福を意味するものであるならば、それこそは、キリスト者の生涯の偉大な希望、また、動機を鼓舞するものでなければならない、ということである。ペテロは、私たちは「信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです」と言っている(第一ペテロ1:5)。そこは、私たちの市民権が登録されている真の母国であり、私たちはそれを今、外国にとらわれの身をかこつ者のように、仰ぎ望むのである。この地上の旅路を進めば進むほど、私たちは、この永遠の都の影を、熱心に捜す。神はこの国を、その贖罪の目的が完成される所として準備された。私たちはそこに行き着くまでは、完全にはならない。

 第二の必然的結論は、ここに言われている国にはいるには、復活を通して以外に道がない、ということである。文脈を注意深く見るならば、この事実が明らかになる。19章から21章8節までは、一連の不断の幻の進展をしるすものである。まず、神が大淫婦をさばき、小羊の婚姻の時をきたらせたもうという宣言がなされている。大淫婦によって特徴づけられる不敬けんな社会は除去され、ここに小羊の花嫁として表されている敬けんな者の社会が、キリストによって公に承認されるのである。

 征服者なるキリストが、次には、地をさばくために進み行かれる。地上の悪魔の使者たちは、そのとき火の池に送られ、悪魔自身は、「底知れぬ所」(黙示20:1、3)に閉じ込められる。キリストの支配の次には、サタンが解放され、断罪される。それからいよいよ、死せる者の大審判である。大いなる者も小さき者も、御座の前に立ち、開かれた書物にしたがってさばかれる。このさばきの恐ろしさは、「地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった」(黙示20:11)と言われているほどである。この審判に続くものが、新天新地の創始と神の都の下降である。

 この神の都が、祝福のうちに死んだ人々が現在いる所でないということは、次の二点から明らかであろう。第一は、それが大きな白い御座の前での審判の後のものであるということ、第二は、その前に復活が起こらなければならないということである。

 黙示録21章9節から22章5節までにある都の叙述が、全体の明確な一部を構成するものであることは、事実である。文学的構造も、その事を物語っている。この個所は、「最後の七つの・・・」という句で始まっており、思想においても、「また、七つの・・・」で始まっている17章1節と平行性を示している。この二つの部分は、構造において、また内容において(それはある程度までであるが、と言うのは、一方では大淫婦のさばきが語られ、他方では小羊の妻の顕現が述べられているから)、平行関係を持っているようであるが、本文の言葉は、ここでも時間的要素を考えるとすれば、後者(小羊の妻の顕現)が時間的には前者(大淫婦のさばき)のあとに来ることを、明りょうに示している。更に、21章1〜6節の言葉は、新しいエルサレムの到来が、最後の審判のあとであることを指摘している。したがって、21章9節から22章5節までは、この事を更に確認するものである。論理的には、それは17章1節から21章8節までと平行的であり、時間的には、それに続くものである。そうであるとすれば、新しいエルサレムは、祝福のうちに死んだ者たちの現存する場所の描写ではなく、まさにこれこそ、神の地上におけるあがないの働きの完成後における最終状態の描写なのである。

 更に、この最終状態は、復活に続くものでなければならない。20章4〜6節には、キリストのために苦難をなめた者たちの「第一の復活」が言及されている。彼らは、キリストの千年の支配のはじまりにあたってよみがえる。残りの死者は、この支配の終わりと大きい白い御座での審判の時までよみがえらない。とにかく、神の都は、よみがえりを経た人々の住居であり、復活した人だけがそこへの門をくぐることを許されるのである。もし復活が、霊的、肉体的新生、すなわち、罪人の神のかたちへの復元を意味するものであるならば、復活こそは、神の人間に対する最終目的へ向かっての入り口でなければならない。神はこの世を打ち砕き、それを、愛する者たちのために、再生したもうのである。

 したがって、復活は、あらゆる永遠的な決着の実現へのかぎである。それは手段であって、終わりではない。現在のように弱く罪深い血肉が望むことのできない、神の完全な啓示を、受けることができるように、私たちを備えてくれる一つの方法なのである。

2024年1月27日土曜日

地の極の開拓者(承)

蝋梅と 名付く先人 豊けきか 
 睦月も早や数日になってしまった。この月、毎年、線路道に決まって蝋梅が花を咲かせてくれる。ありがたいことだ。蝋梅について、このブログではすでに七篇書かせていただいているが、私にとっては、その最たるものはやはり義母との思い出を述べたものである(※1)。それはともかく、「ろうばい」という呼び名、またその漢字は「蝋梅」と書く。名は体を表すと言うが、私はその妙味を痛切に感じる。

 一方、棘(いばら)にその思いを捉えられた人がいる。その人が「ツィンツェンドルフ伯爵」である。「棘の冠」と題する、前回の「夜番の唄」に連続する文章を転写する。

 モラヴィアからの落人たちが若いツィンツェンドルフ伯爵の領地にやって来たと言うことは、少なくとも伯爵にとって一つの運命の決定とも言うべきであろう。最初の行きがかりは主の御名(聖なる名)のために故郷を追い出された人々に対する寛容さ以外ではなかったのであるが。

 A.T.ピアソンが「モラヴィアンの使徒」と名付けたツィンツェンドルフ伯爵は、敬虔派の学校の校長であるフィリップ・スペンサーとその高弟フランケとにその霊的系図を受けているのである。彼の祖父はオーストリアの貴族であったが、キリストのために一切を投げ出した人であり、その感化によって祖母も伯母もこのような霊的訓練を重んじた。だから、このような環境の中で成長した彼は、わずか四歳で、その愛する救い主との契約を立てたということである。そして未だ見えない救い主と交わろうとして、神の臨在の前を歩む真からのキリスト者であった祖母が、常に近くにおられる主と物語っている姿にならって、子供らしい単純さから救い主イエスにひとくさりの手紙をしたため、主は必ず受け取って読んでくださると確信して居城の窓から投げたという、いじらしい物語が伝えられているほどである。

 十歳の時、ハレにあるフランケの学校の生徒であった頃、彼は「芥子だねの一粒」団と名乗る小さな祈祷グループを組織した。このような精神が、後日大いなる実を結ぶに至ったのである。

 また、その青年時代に、当時の慣習に従い家庭教師を伴ってヨーロッパ遍歴の旅に赴いた途中、いのちの力である生ける救い主ご自身に一切を捧げる厳粛な神の召命の経験をさせられた。

 それはデュッセルドルフのある美術館でのことであった。棘の冠を戴き給う受難の救い主の前に立ち止まって見入る彼の心に、天来の声が響いて来た。そして絵の前を立ち去る若き伯爵は変わって新しき人となった。その絵の傍に記された文字は次のように読まれた。
『我れ汝がためにこの凡てのことを為したり、汝我がために何を為ししや』(※2)
若き敬虔な貴公子はここにイエス・キリストの熱心なるしもべとなったのである。

 彼はその敬虔さを行為に表すべきであった。贖い主を知ったという衷(うち)なる喜悦(よろこび)は信仰の究極ではなくして、彼をして、主のために何事かを成さねばやまない源泉となさせしめたのである。

 この少数の落人たちが伯爵の領地に入り込んで来たということは、その後引き続いて逃れて来る人々にとって平和な場所であったばかりでなく、ツィンツェンドルフ伯爵にとってもまた、天与の機会であったのである。彼らが新しい村を建設しようとするその企てに彼が興味を持ったばかりでなく、やがて彼らの指導者またその真の首領となり、この小さい群れのみならず、神なくキリストなき、異邦人の広大なる世界を思い、彼らの魂の救いについて隠れた大役を受け持つに至ったのである。

※1 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/02/blog-post.html

※2 私はこの言葉が聖書のどこかにあるはずだと、一生懸命、文語訳聖書を探すのだが見つからなかった。駄目元という思いで就寝前、家内に何か思い当たることはないかと尋ねた。普段記憶の衰えている彼女は、その言わんとすることを汲み取り、一つの讃美歌を歌い出した。讃美歌332番(日々の歌113番)であったhttps://www.youtube.com/watch?v=N5GiKx6Eu6M。その歌の終わりは「われ何をなして 主にむくいし」であった。途端に、私は、2016年一年かかって訳出し、毎日せっせとブログに掲載していたハヴァガルに関する一つのエピソードを思い出した。そして大塚野百合さんの著書を引っ張り出して再読して、驚いた。ハヴァガルもまさしく同じ経験をしていたのだ。彼女もまた、同じ美術館で、しかも同じ絵を見て、棘(いばら)にその魂を震撼させられた人であった。そこには、ツィンツェンドルフ伯爵が18世紀に、ハヴァガルが19世紀とほぼ100年という時代の隔たりの違いはあったにせよ。そのところを『讃美歌・聖歌ものがたり』236頁より、引用して確かめてみる。

 (ハヴァガルは)ドイツのデュッセルドルフの美術館にシュタンバーグという画家の「エッケ・ホモ」(「この人を見よ」という意味のラテン語)という絵があり、その実物か、または複製を見て感動し、それを想起してこの歌を書いたという説があります。これは十字架にかかっているイエスの絵で、その周りにラテン語で「私はあなたのために命を捨てた。あなたは、私のためになにをしたか」と記してあるそうです。彼女は、この町に留学していましたから、その絵を見たでしょうが、手記には、何もそれらしきことは記していません。彼女は、祈りの時、イエスが彼女に「私は、あなたのために命を捨てたが、あなたは、何を私のために捨てたのか?」と語りかけられるのを聞いて、この歌を書いたのでしょう。十字架にかかって命を捨てたもうたのが、まさに自分のためであったと信じて、その恵みに圧倒されていたのです。

 この歌を無価値のものと思った彼女は、これを暖炉にくべたのですが、たまたま風でそれが焼けずに戻って来たので、そのまましまっていました。それを読んだ彼女の父が、良い歌だと言ってくれたので、彼女はそれを保存する気になったそうです。彼女の魂に語りかけられたことを書きしるした歌を、世間に発表することは、彼女にとって、気恥ずかしいことでした。この歌を見ると、彼女の幸福の秘密は、イエスが命を捨てるほどに自分を愛しておられることを彼女が信じたことにあるようです。

 この讃美歌には、アメリカの19世紀の優れた讃美歌作曲者フィリップ・ブリスの曲が付されています。ブリスは、ハヴァガルのように、神に完全に献身した人間であり、そのことに最高の喜びを感じていた音楽家、また伝道者であったので、この歌の言葉に感激しながら曲を作ったはずです。

https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/03/gospel-in-song_18.html

https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2016/12/blog-post_27.html

神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(新約聖書 2コリント5章21節)

2020年7月16日木曜日

招き

はまゆう by Kazuko.Y

わたしのところに来なさい。(マタイ11:28)

 このことばは何とやさしい心地よいことばでしょう。イエスさまがあなたにそうおっしゃっているのよ。

 「どのようにしてそれがわかるの?」と言うのね。いいですか、弱りきってたいへん苦しんでいるすべての人にこう言われているのよ。あなたは時々弱りはてる覚えがない? たぶん良い子になろうとしてがんばりつづけ、もっと良い子になろうとして、とうとうへたり込むこともあるでしょう。そうよ、イエスさまが「来なさい」とおっしゃるのは、そういうあなたに向かってなのよ。

 もしあなたがまだイエスさまのところに来ていないなら、たとえあなたがそう感じなくても、たいへん苦しいのよ。だって、もしイエスさまがあなたからその重荷を取り除いてくださらなければ、いつまでも苦しまなければならないのよ。だからイエスさまが「来なさい」とおっしゃったのはあなたに対してなのよ。

 それはイエスさまがおとなにだけ向かってそうおっしゃったのではないのよ。イエスさまは「子どもたちを私のところに来させなさい。とめてはいけません。」(マルコ10:14)と、おっしゃったのです。あなたはこどもですか? それならここでイエスさまが「来なさい」とおっしゃっているのは、あなたにですよ。

 でもあなたは「もし主がここにおられたなら、そして主を見ることができたら、私は主のところに行くのだが」と言うのね。主はあなたが願っているようにほんとうにここにおられるのよ。たとえば、お母さんとあなたが暗い部屋に一緒にいて、お母さんが「おいで」と言ったとしたら、「お母さんが見えたら行ってもいいんだけど」と言ってじっとしてはいないでしょう。「お母さん!今行きます」と言って、すぐにさっさと歩いて行き、お母さんのそばに座って安心するでしょう。だからたとえお母さんが見えなくってもだいじょうぶでしょう、それと同じよ。

 イエスさまはあなたを呼んでいらっしゃいます。イエスさまはここにおられます。この部屋のうちにいらっしゃいます。さあ、「主イエスさま、参ります」と言わない? そして主が御手をのばして行く道を助け、みそば近く引き寄せてくださるのを願わない?

 そうです。あなたを愛し、あなたのためにご自身の命まで与えてくださった愛する主イエスさまのところへ、行くのです。主はあなたが来るのを熱心に待っておられ、あなたがやってきて小さな羊となって腕に抱きかかえられ、祝福されるのを願って、お呼びになっておられるのですよ。今、来ませんか。

(Little Pillows by F.R.Havergal を参考に、ブログ子がアレンジして作成しているものです) 

2020年7月15日水曜日

第三日 ささえ

珊瑚花 by Kazuko.Y

私をささえてください。そうすれば私は救われます(詩篇119:117)

 道をあるくのは容易じゃないね。もし、よく注意しないなら、つまずくかもしれないデコボコ石のところもあれば、全く平らなところもある。でも平らな道もデコボコ石よりはもっと危ないことがある。よく滑るからね。また、花々の下には隠れた小さい穴がある。足をとられて悪くすると穴に落ち込むかもしれないね。すべった上、悲しいことに濡れて汚くしてしまうかも知れぬ、ぬかるんだ溝もあるよね。

 こんな道を安全に歩くのにどうすればいいと思う。強くって親切な手の支えがいつもあればいいよね。スコットランドの老婦人が「私がキリストを握るのでなく、キリストが私を握ってくださる」と言ったように、そういう手の支えが必要なんだ。そう、キリストのやさしい手は「あなたが落ち込まないように守ることができるのだ。」安心して自分の手をイエスさまの手にまかせるだけでいいんだよ。そうすれば道は安心して歩けるし、足がつまずくことなんてないよ。

 でもね、今朝の鐘のチャイムを半分だけ鳴らして、だめにしないでね。「私をささえてください」と言うだけでそこで終わったり、あるいは逆に「でも、やっぱりつまずいてしまう」なんて言わないでね。神様ご自身の音楽、神様が口の端に上せてくださった輝く信仰のことば「私をささえてください。そうすれば私は救われます」ということばを最後まで味わってね。イエスさまに信頼しないのでなく、神様はあなたの願う通りにしてくださるとまったく信頼し、神様にささえていただくなら、そうなるのよ。

 聖書には、これにマッチして、約束のない祈りを見つけるのはむつかしいものよ。そう、ダビデは「みことばのとおりに私をささえてください」(詩篇119:116)と言っているよ。

 神様はそのことについて何と言われたのだろうか。この記事よりももっとたくさんあるんだ。「あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握る」(イザヤ41:13)「わたしはあなたを守る」(イザヤ41:10)「主はあなたの足をよろけさせず」(詩篇121:3)「あなたが歩むとき、その歩みは妨げられず」(箴言4:12)「主には、彼を立たせることができる」(ローマ14:4)「主があなたの足がわなにかからないように、守ってくださる」(箴言3:26)「主は聖徒たちの足を守られます」(1サムエル2:9)

 あなたのひとつの小ちゃな祈りに何と七つの答えの約束があるんだ!

「恐るな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ41:10)
あなたがしっかりと立つようにと、あなたは召され、選ばれているのよ。

(Morning Bells by F.R.Havergalの私訳です。)

2020年7月14日火曜日

第二日 私たちの偉大な模範

檜扇水仙 by Kiyoko.Y


キリストも、ご自分を喜ばせようとはなさいませんでした。(ローマ15:3 リビング・バイブル訳)

 君は聖なる御子イエスさまの足跡にしたがいたいとほんとうに思っているの。神様にもっとイエスさまのようにしてくださいと求めたことがあるの。今日始めてみるつもりはある? それなら、ここに今日の標語、「キリストも、ご自分を喜ばせようとはなさいませんでした」があるよ。そのことばどおりイエスさまのまねをしてみない?

 標語どおり行なって、他の人たちにだけでなく、君の好きな救い主イエスさまに、君が言ったり祈ったりして、しようと思っていることがはっきりする機会が君にはきっとたくさんあると思うよ。

 多分、君にとって、この「モーニング・ベル」はチャイムでなく、むしろとむらいの鐘となって憂鬱になるかもしれない。でも、もし君がほんとうにキリストのようになりたいと願うなら、この「モーニング・ベル」はどんなものにも劣らない快い音楽であり、静かなチャイムが繰り返し繰り返しすばらしい心良さと力をもって君を訪れ、あらゆる困難なことから君を助け、すべての罪や思い煩いから助けてくれることがすぐにわかるよ。

 君は自分で真剣に努力してみない限り、少女が実際にどんなに幸せを感じることができるかは話せないと思うよ。少女は自分自身が好んでいたものをイエスさまのために元気よくあきらめたのよ、そしたら幸せになったと言う。少年もまた自分自身の自由な意志で神の恵みによって選び取ったことがどんなに幸せになることができただろうか。少年は自分自身を喜ばせる代わりに主イエスさまを喜ばせたいと良心が命ずることを選んだのだよ。そうしたら幸せになったんだ。

 もしまだそんなことを試みたことがないというなら、今日始めてみない? 君はまったく新しい幸せを見つけられるよ。

 ああ、もしキリストがご自身をよろこばせるだけで私たちを救うために降りてこないでご自身の栄光ある天の家にとどまっておられたら、私たちはいったいどうなったでしょうね。君がイエスさまに喜んでいただく代わりに、自分を喜ばせたいと誘惑されるような時になったらそのことを考えてごらん。そして、イエスさまは君をたいそう愛されたから、ご自身をよろこばせなさらなかったということを思い出すんだよ。それは君がイエスさまをよろこばせ、イエスさまのために他の人たちをよろこばせる手助けにきっとなるよ。

 もしイエスさまの血潮で洗ったら、
 その時、イエスさまの似姿も身につけよう
 そして前に進む時には
 「イエスさまは何をなさりたいのか」と尋ねてみよう

 完全に自由な手を差し出してごらん
 神様は君に自由に与えてくださるから
 それぞれわがままな思いをやめて
 「イエスさまは何をなさりたいのか」と問おう

(昨日に引き続いて、F.R.Havergalの「Morning Bells」 の試訳、私訳です。ハヴァガルは私の尊敬するイギリスのキリスト者です。彼女も決して長生きはしませんでしたが、その考えることはいつも主の御栄光でした。そのため、このように子どもたちのために朝のみことばを30日間一組で書き表しています。夜は夜で「Little Pillows」として書き表しています。この邦訳「小さな枕」は大正4年に白井さんの手によりなされています。残念ながら表現が今のこどもには理解できないところがあります。しかし、すばらしい白井さんの作品だと私は今でも思っています。「Morning Bells」はそれ以上に残念なことは邦訳がありません。それで恥も外聞も顧みず、試訳・意訳をしております。また、この機会に、2016年その伝記を一部中断していましたものを折を見て載せさせていただきます。ご愛読、ご感想を切にお願いします。写真は7月初めに友人からいただいた絵葉書を使わせていただきました。)

2020年7月13日月曜日

第一日 キリストの少年時代

古利根川堤の花畑の一角


聖なる神の子イエス(使徒4:30)

 もしわたしが今いくつとたずねたら、あなたはきちんと答えてくれるだろうね。「8歳半」「ちょうど10歳すぎたところだよ」「来月で11歳だよ」など。ところで神様の「聖い御子であるイエスさま」のこどものころのことや、12歳で宮におられたことは考えたことはあるだろう。でも、ちょうどあなたと同じ年頃であり、今まさに今日の自分のようなことを経験されたと考えたことはある? イエスさまは8歳、9歳、10歳であることがどういうことなのか、またあなたの経験することはどんなことでも知っておられる。神のことばである聖書は今日までこの一つのこと「イエスは聖なる子」だったとしか語り伝えていないのだよ。

 では「聖」とは何だろう? それは傷が何もない、完全に美しく、善で、愛されるすべてのものを意味しているのだよ。これがまさにイエスさまがあなたの年頃そうだったことなのだ。イエスさまはやさしく勇気があり、考え深く、利己的でなく、気高く、誠実で、従順で、愛があり、親切で、赦しを身につけておられた。あなたがかつて他のもののうちに称賛したり愛したりしたものとして考えることのできるものは全部イエスさまのうちに見つけられたのだ。外側だけでなく内側もそうなのだ。だってイエスさまは「聖」だからなのだよ。

 じゃあ、イエスさまは、なぜあなたのために来て死ぬ時まで、天にとどまらず地上でこんなふうに聖い少年時代を過ごしたのだろうか。一つの理由はイエスさまはあなたがイエスさまのようになりたいと聖霊なる神様にイエスさまに似る者としてくださいと祈れるように美しい模範を残すことだったのだよ。

 けれどももう一つのことはもっと恵み深くすばらしいことなのだ。それは「私たちが、この方にあって、神の義となるため(2コリント5:21)」だったのだよ。すなわちそれは今やすべてのこの善いことや聖いことがあなたのものだとみなされるのだよ。なぜなら、あなたは自分自身のうちに汚い以外のいかなるものも持っていないのだが、神様はイエスさまのゆえにまるであなたが全く従順で、誠実で、利己的でなく、善良であったかのように微笑んでくださり、あなたにイエスさまのご褒美をくださるんだよ。それはあなたが受けるにはふさわしくないものだが、イエスさまがあなたのために受けてくださったものだ。

 イエスさまはあなたの罪と引き換えにイエスさまの正しさをくださるのだ。イエスさまはあなたの懲らしめと引き換えにイエスさまのご褒美をくださるのだ。もしあなたがこの交換を受けさえすれば、必ず変えられるのだ。

嬉しい、嬉しい
私のたたえる救い主イエスさま!
イエスさまにあるこどもは
どんなに純粋で聖いものかを示そうと
私のようにこどもになってくださったのですね。

それだけでなく
もし私がイエスさまの跡をついていきたいと願うなら
決して私を忘れられないのですね。
だって、イエスさまは私をそんなにまで愛してくださるのだもの。

2017年1月9日月曜日

神様 キリスト あなた

蝋梅を 指し示す手に 望み継ぐ

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。(ヘブル4:15)

 あなたが今通らされている事態だけでなく、その思いにもすぐに同情を寄せてくださるイエス様のことを思いなさい。「同情してくださる」そのことばはどれほど深きものを私たちにもたらすことでしょうか。イエス様だけがわかってくださる痛み、ことばで表現できない弱さのうちにいて、主の方を向く時、全く異なった感覚で主に取り扱っていただかねばならないことを知ります。それは、私たちが他の誰かに関わっていただかねばならないと思うことと、どれほど異なっていることでしょうか。私たちはイエス様なしにはできなかったし、イエス様なしには決してしてはいけないということを神様に感謝するものです。 

 ですから、私たちは万事につけ、主に対してだけ責任があるのです。主人の心次第で私が立つか、それとも倒れるかです。そして、その後者が代わりうるか、使徒が付け加えているように、ただちに「このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです(ローマ14:4)。」すなわち彼は主人のしもべだからです。 もし主から命令されるなら、私たちは主に対して弁明しなければなりません。

 私たちは主イエス様と直接関わらねばなりません。それは非常に直接的なのでまずその直接性を把握することがむつかしいです。もし私たちがその直接性を持つだけなら、たましいとイエス様の間には絶対何もありません。私たちはイエス様御自身を神様と私たちの仲介者としていただいています。そして仲介者の性格というものはまさしくヨブが「私たちふたりの上に手を置く仲裁者(ヨブ9:33)」というものです。そのようにイエス様の御手、「神の右の座にいる人の子である」イエス様御自身の御手は私たちの上に何の仲介もへだたりもなく置かれるのです。私たちとイエス様御自身との間では私たちはいかなる人間の声はもちろんのことどんな文書も必要としないのです。

 あなたに、親愛なる救い主に、私のたましいは憩いを求めて向かいます。その転換は 私たちがかつて主イエス・キリストと直接に個人的にかかわることがどういうことであるかを学んだ時の直感的であり即時的なものであります。その時、いのちは影があろうと日向であろうと見知らぬ人がおせっかいをしなかろうと私たちの喜びと全く異なるものです。おそらく自ら告白もしクリスチャンと自称する人々の間に奇妙に違いを感じさせるのはまさしくこれでしょう。

「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう(出エジプト記33:14)
不安な胸の内をやわらげてくれる 甘くもやさしい約束
イエス様は 孤独なたましいを ご存知です 
そして 隠された悲しみのすべてを
地上のどんな友も理解してくれない 疲れ果てし心の切なる思いを
イエス様は 全部 ご存知です
あなたは ひとりじゃないと ともにいまし 囲みのうちに入れられ
あなたは 主の王座の影の下で ゆっくりと 憩うことができます

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-9-god-christ-you/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97173です。ハヴァガルの訳業も一年間、苦しみながらやっと今日で一巡りしました。ほとんど逐語訳に近い訳となりましたが、自分の中でハヴァガルの信仰が少しずつつかめてきたことは感謝でした。ハヴァガルが小さい時から聖書を暗唱していたということは驚きでありましたが、そのお陰で遠く異国の地である日本人キリスト者である私にもその一端が伝わって来たのは不思議な思いでいます。なぜなら、わからない英文ばかりですが、ハヴァガルが聖書を覚えおり、自由自在に自分の文章に挿入するからです。ただし、その文章はかっこ付きで示されていますので、私の仕事は一体どこの聖書のことばなのかそれを調べるのが中心でした。YouVersionのアプリを利用してその箇所がつかめると他の箇所の理解がより一段と進んだ感じがしました。こうして日々翻訳を続けて参りました。慣れない下手な訳文にもかかわらず背後で応援し祈ってくださった皆さんに心から感謝します。

※Godhold Beck(140)

『聖書とは何か』第六部 [1]

 今まで、私たちは聖書が神のみことばであることを見てきました。そして預言者たち、使徒たちによって宣べ伝えられ、また書かれたみことばが、神によって受け取られたみことばであることをも見てまいりました。すなわち、これは語られ、書かれたみことばと受け取られたみことばとが等しいことを意味しています。また、私たちは今までに神が預言者たちをとおして、使徒たちをとおしてお語りになったということを確認して参りました。したがって、書かれたみことばと受け取ったみことばとは等しいということが明らかになったわけです。

 今までのことをここでわかりやすくまとめてみましょう。先ず第一に言えることは神のお語りになったみことばと人間、すなわち預言者たちや使徒たちが受け取ったみことばとは等しい、同じものであるということです。第二に預言者たちや使徒たちが書き記し、宣べ伝えたみことばは彼らの神から受け取ったみことばと等しい、同じものであるということです。したがって、その結果として第三に言えることは主なる神のお語りになったみことばは預言者たちや使徒たちの宣べ伝え、書き記したみことばと等しいということです。この結論は否定することができません。

 もう一度、以上のことをまとめてみますと、次のようになります。神によって語られたみことばは変わることなく、また完全な形で預言者たちや使徒たちによって語られ、書き記されてみことばの中に表現されているということです。そしてまた、神によって語られたみことばは、人間たちによって受け取られたみことばに等しく、そしてまた同じように人間たちによって宣べ伝え、書き記されたみことばに等しいということです。すなわち、聖書は神のみことばです。

 もう一つの点について考えてみたいと思います。すなわち、神のみことばに対する信仰あるいは聖書に対する私たちの立場について、これからご一緒に見てみたいと思います。聖書が自らについて証しする事柄、言わば聖書の自己紹介は何かと言いますと、それは神のみことばであるということです。もう少しくわしくご説明致しますと、聖霊によって与えられ預言者たちや使徒たちによってみこころにかなって書かれたものです。聖書の要求は極めて明瞭です。すなわち、聖書はすべての部分において、一つ一つのことばにおいて、まことの神のみことばであることを主張しているのです。

 それでは今、私たちはこの聖書の要求に対してどのような態度や行動を取りたいと思っているのでしょうか。私たちは自由に決断すべきです。すなわち、私たちはこの聖書の要求を拒むか、あるいは素直に受け入れるかのどちらかです。聖書の要求を受け入れる人は、それによって聖書全体を獲得します。しかし、この要求を拒む人は、聖書全体を失う者です。事実上、次の一つの事は不可能です。すなわち、聖書の要求を全部、あるいは一部否定して、しかしながら聖書の他の箇所を信じたいと思うことは全く不可能なのです。聖書の言っているすべてが正しいか、あるいは聖書の言っている何一つ信頼できないかのどちらかです。人間は誰でも聖書に関して根本的な決断をしなければなりません。つまり、誰でも聖書に対して立場を取らなければならないのです。しかし、みことばに対する私たちの立場は一人の人格に対する立場なのです。私たちは見たように、聖書をとおして神はお語りになっています。主なる神は聖書を「我がことば」と呼んでおられます。主なる神はまた御子を通してお語りになったのです。そして主イエス様は新約聖書について「我がことば」と言っておられます。

 したがって私たちは一つの人格すなわち私たちにお語りくださる主なる神ご自身に対して直面しているのです。ヘブル書4章12節13節お読み致します。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

と。「神の前で隠れおおせるものは何一つなく」「私たちはこの神に対して弁明をするのです」。したがって、神のみことばである聖書に対する決断とは私たちにお語りくださる人格者、すなわち主なる神に対する決断であり、みことばに耳を貸さないということはみことばをお語りになられる主なる神を無視することになるのです。

引用者註:これほど徹底的な聖書に対する信頼・確信はありません。ベック兄の全生涯を支えた、微動だにしない信仰の強さを思うことができます。あなたは全聖書を受け取りますか。それならあなたは全聖書の祝福を受け取ることができます。もし受け取らないなら、祝福を失いますと明言しておられるからです。引用者の乏しい経験でも全聖書はまさに「わたしは彼らを幸福にする」とおっしゃる神のみことばであると確信する者であります。)

2017年1月8日日曜日

Why Service Is Reasonable

私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子(ガラテヤ2:20)

 「私のために」ということがわかりますと、それから実質的に「あなたのために」というふうに発展するものです。もし前者が生きる根源であるとするなら、後者は生きることの成果となることでしょう。「あなたのために」これは強制されたものとか形式的なもの、それゆえに無理な奉仕と道理にあった奉仕との間に違いが生じます。その奉仕は信者が主の御顔を覚える完全な奉仕の始まりであります。

 これが奴隷の働きと自由人との区別をもたらすのです。あなたのために、私の贖い主のために、すなわち私の心に語りかけて下さった方のために、私のために愛しいのちを捨ててくださった方のために、どうすればいいのでしょうか。めいめいが立ち止まって 主が私たちのためになしてくださった偉大な数々の事柄でその空白を満たしていただきましょう。私のすべてであるあなたのために何をしたらよいでしょうか。主の御前でそのことも満たしていただきましょう。私の救い主であるイエス様、私の主であり私の神である方のために。

私たちが あなたの 今現在の笑みを 求め
「もうちょっと(ヨハネ16:16)」ということばの
あなたの 約束された 祝福を 求め
労するのを やさしく 見守ってください

あなたにとってのみことばは 弱さのうちに語られた
あなたは 地上で 受け入れ ご自分のものとされ
あなたは 栄光のうちに 告白されるでしょう
その時 私たちは 王座に お着きになったあなたを 見るのです 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-8-why-service-is-reasonable/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97172です。よく理解し切れない文章のまま、想像して意訳してしまいましたので原文をお確かめください。

※Godhold Beck(139)

『聖書とは何か』第五部[完]
 続いて第五番目の点、すなわち新約聖書に関する使徒たちの証しについて考えてみたいと思います。私たちは旧約聖書における神のみことばが絶対的権威を要求するのと同じように、新約聖書における神のみことばも同じ絶対的権威を要求することを見ることができます。ですから、新約聖書もまたみことばの一つ一つが実際に神のみことばであるという要求をすることは当然のことです。
 ペテロは旧約聖書と新約聖書の啓示を解き離すことのできない一つのものだと強調し、旧約聖書のことばと同じように、新約聖書のみことばも同じ神の力のあらわれであり、永遠に続くものであると言っています。ペテロ第一の手紙1章23節から25節までお読み致します。
あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。
 パウロもまた自分の宣べ伝えた福音が神から源を発しているみことばであると強調しています。コリント第一2章12節 
ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。
と。そしてパウロはキリストから受けなかったものは宣べ伝えないように注意していると断言しています。ロマ書15章18節を見るとわかります。
 聖書の最後を飾る黙示録を見ると高く引き上げられたイエス様はもう一度聖書全体が霊感によって書かれたものであることを明確にしておられます。そしてまた一つ一つのことばが大切であるということを強調しておられたのです。黙示録22章18節19節です。
私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。
と、あります。

2017年1月7日土曜日

宝物はすでに鋳造されています

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(2コリント8:9)

 そうです。主の貧しさによって、キリストの考えられない富があなたのものとされているのです。七重の富が数えられます。そしてこれらは鋳造されない宝物とか封印された積立金では全然なく、すでに私たちが使えるようにと鋳造され、ご自身の似姿と上書きとで証印を捺され、信仰を持つ手の中にふんだんに注がれるのです。

 目録を見るだけでも素晴らしいです。「豊かな慈愛(ローマ2:4)」「忍耐と寛容」「知恵と知識の富(ローマ11:33)」「あわれみの富(ローマ9:23)」「すぐれて豊かな御恵み(エペソ2:7)」「栄光の富(コロサイ1:27)」その上、主ご自身のおことばがおっしゃいます。「すべてあなたがたのものです(1コリント3:22)」と。

 信仰によって一瞥し、最強の想像の範囲にまさり、とこしえに延々と流れ込むことを思い、栄光ある主の富のすべてや主の栄光の富があなたのために今もあり将来もあることを悟りなさい。それでもあなたは錆びで崩れるこの世の物を自分のために取って置きたいのでしょうか。 (In view of this, shall we care to reserve anything that rust doth corrupt for ourselves?)
 
おお 何という輝きを 神様は 主の宝物の啓示に 与えてくださったことか
恵みと栄光の貴重なもの 天と地の貴重なもの
聖霊は 今や あなたの力ある黄金の鍵で それらを 開けられる
御国の すばらしい宝石を 今や ほれぼれと 見させてくださる 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-7-treasures-already-coined/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97171です。最後の英文がうまく訳せていません。ちょっと意味不明の日本語ですね。と、書きましたところ、早速M氏から適切な訳をいただきましたので、そのように直しました。

※Godhold Beck(138)

『聖書とは何か』第五部[7]

 これから、ちょっとヘブル書の著者について考えてみましょう。ヘブル書は使徒たちが旧約聖書の完全な神の霊感を認めたことを証明するものです。旧約聖書の一つ一つのみことばは主なる神から与えられたものであり、永遠の息を持ち、ヘブル書におけるみことばの土台となっています。ちょっと二三ヵ所お読み致します。ヘブル書1章5節から
神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」また御使いについては、「神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。」と言われましたが、

8節
御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。

13節
神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」

と。2章8節
万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。

3章7節
ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。

4章2節
福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。

6章13節
神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」

7章1節
このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。

17節
この方については、こうあかしされています。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」

と。8章8節から
しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」

10章5節
ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。

12章26節
あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」

と、あります。旧約聖書の引用ばっかりです。

 実際、神は預言者たちをとおしてお語りになりました。私たちはしっかりとした預言のみことばを持っています。ヘブル書は旧約聖書の一つ一つのみことばに対して一つ一つ肯定している書として際立っています。聖書、すなわち旧約聖書の完全な霊感を否定してヘブル書を信頼できる神のみことばとして確信することはできません。それは論理的にも道徳的にも不可能なことです。万が一そんなことが可能だとするならば、私たちは長い間、偽りとしてきたものを真理というようなおかしなことをすることになるでしょう。ヘブル書の著者は旧約聖書に基づいて多くの叙述をしているのであり、その一つ一つのみことばは巌のように確かな土台となっているのです。 

 ヘブル書11章は旧約聖書の歴史的な出来事が神の霊感によるものであることを私たちに告げています。旧約聖書と新約聖書の統一的な証しは神がお語りになったということです。

引用者註: 今日の箇所もまた無限とも思われる旧約聖書の引用がなされています。思わずベック兄も『旧約聖書の引用ばっかりです』と苦笑いとも取れる笑い声をふくむ音声が録音されています。それだけでなく、随所で録音がストップし、そのたびにドアの開け閉めの音が微かですが、聞こえて来ます。ベック兄の懐かしい書斎の姿が思い浮かべられます。) 

2017年1月6日金曜日

反射か拒絶か

今日しも  恋の鞘当て 鴨数羽

主は、救いをもって貧しい者を飾られる。(詩篇149:4) 
その美しさのために、あなたの名は諸国の民の間に広まった。それは、わたしがあなたにまとわせたわたしの飾り物が完全であったからだ。――神である主の御告げ。――(エゼキエル16:14)

 草の葉先に弱々しげに吊り下がっている、可哀想な小さな無色の水滴をごらんなさい。それは全然美しくありません。なぜあなたはそれを見るのをやめるのですか。太陽が昇り、すっかり新しくなるまで待っていなさい。水滴はダイヤモンドのようにキラキラ輝きます。そして、もしもあなたが別の側から眺めるなら、それはルビーのように光を放ち、エメラルドのように今しもキラリと光るでしょう。こうしてあわれな小さな水滴は今まであなたが見たものの中でもっとも輝ける愛らしいものの一つとなりました。

 けれどもそれは水滴自身の輝き、美しさでしょうか。とんでもありません。もし水滴が一旦地面に落ちて日の光のらち外に出ようものなら、もはやあわれな汚い水滴に過ぎないからです。そのようにもし義の太陽であるお方、栄光あふれ愛する救い主があなたを照らされるなら、主ご自身の輝きと麗しさの小さな光線があなたの上に見られるのです。

 時々私たちは太陽なるお方がそこに射し込んでいるのを人の顔にあらわれた幸福な光によって見ることができます。しかし、もし太陽なるお方が本当に照らし出されているなら、聖潔、愛、喜び、平和、親切、善意、信仰、謙遜、すなわち生活を、あなたの生活でさえも大変愛らしく彩る美しい光線の何本かがあるのは確かなことであります。
 
イエス様 主様 私は あなたのところに 参ります
あなたは かつて そうしなさいと おっしゃってくださいましたね
私に 私の生活がどんなものであったらよいか 話してください
私の罪を 取り去ってください

イエス様 主様 私は あなたを あなたの神々しい みことばのうちに
学びます そこに あらゆる お約束が あります
その約束は 私のものと 呼んで いいのですね
 
Jesus, Lord, I come to Thee, Thou hast said I may;
Tell me what my life should be, take my sins away.
Jesus, Lord, I learn of Thee, in Thy Word divine;
Every promise there I see, may I call it mine!

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-6-reflecting-or-rejecting/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97170です。

※Godhold Bck(137)

『聖書とは何か』第五部[6]

 もしも旧約聖書の霊感を否定するなら、パウロの書いたロマ書はいっぺんに崩れてしまうのです。なぜならば、ロマ書の半分は旧約聖書からの引用だからです。ちょっとロマ書から何ヵ所かお読みしたいと思います。1章2節
この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、 御子に関することです。

3章2節に
それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。

9節
では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。

3章21節
しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

4章3節
聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。

4章17節
このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。

9章13節
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。

9章17節
聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。

10章11節
聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

 また、パウロは他の手紙においても同じように旧約聖書のみことばを用いて書いています。コリント第一の手紙1章18節19節です。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」

また、コリント第一の手紙2章9節です。
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

と、書いてあります。3章19節には
なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。「神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕える。」また、次のようにも書いてあります。「主は、知者の論議を無益だと知っておられる。」

14章の21節
律法にこう書いてあります。「『わたしは、異なった舌により、異国の人のくちびるによってこの民に語るが、彼らはなおわたしの言うことを聞き入れない。』と主は言われる。」

15章45節
聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。

54節
しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。

と、あります。またコリント第二の手紙6章2節
神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

16節から18節まで
神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」

と、あります。また9章の9節です。
「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。

テモテ第一の手紙5章18節に
聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」また、「働き手が報酬を受けることは当然である。」と言われているからです。

と。ガラテヤ書3章8節
聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。

と、あります。そして16節
ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。

と、書いてあります。それからガラテヤ書4章の22節
そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。

27節
すなわち、こう書いてあります。「喜べ。子を産まない不妊の女よ。声をあげて呼ばわれ。産みの苦しみを知らない女よ。夫に捨てられた女の産む子どもは、夫のある女の産む子どもよりも多い。」

と、あります。

引用者註:みことばの引用が余りにも多く読者の中には辟易される方もおられるでしょうが、これらがいずれも旧約聖書の引用であることを注意していただきたいと思います。)

2017年1月5日木曜日

捨てるか用いるか

あなたの手にあるそれは何か。(出エジプト記4:2)

 それが主が神の栄光のために用いることができるものであるかないかどうかを正直に調べてみましょう。もしそうでないならそれを捨てることをすぐに躊躇しないでいましょう。それは私たちが手放したくないものであるかも知れません。しかし「主はそれよりも多くのものをあなたに与えることがおできになります(2歴代誌25:9)。」 そして、キリスト・イエスすなわち私たちの主を知るすぐれた知識を先ず一瞥すれば、私たちにとって得であったものを損とみなすことができるでしょう。

 けれども、もしそれが主が用いることのできるものであるなら、主は以前よりもはるかに私たちにそれを用いさせなさるでしょう。モーセは主が自分の手にある杖を用いさせようとなさっていることを少しも考えていませんでした。彼が杖を役立てなければならなかった最初の事柄はそれを地に投げ出し、それが驚くべき変化を経る様を見ることでした。

 この後、モーセはそれを取り上げるように命令されましたが、すでにそうすることは難しく恐ろしいことでした。しかし、それが再び彼の手の中で杖になった時、それはもはや以前の砂漠の羊飼いとしてあちらこちらを彷徨った単なる杖ではなくなっていました。その時以来、その杖は 「手にある神の杖(出エジプト記4:20)」となり、しるしとなり、神ご自身はそれによって奇しいことを行われるようになりました(詩篇78:12)。

主は命令された 「何か食べる物を上げなさい(マタイ14:16)」
五つのパンと二匹の小さな魚 飢えた群衆を養うそれがすべての 貯えでした
主は弟子たちが それ以上何も持っていないことを ご存知でした
そして 主は 彼らを 何もない退避所に 集められました
弟子たちは 主が 一切れ一切れ 与えられるたびに それを 与えました  
そこには 緑の草の上に 大きい者も 小さい者も
誰も彼もが 満たされるまで
弟子たちのものは 全然何もありませんでした
あるのは 主のもの 次々増し加わる栄光のみでした

主よ 私には あなたに十分お仕えする 力はありません
私ができるのは全部で 「半日の働き」です
けれども あなたが その増やされる力で 触れてくださり
私でさえも 不思議に 新しくしてください
五つのことばで 五千人を養わせ
あなたの力を 弱い一時間に帰す いのちにまで 及ぼしてください


※Godhold Beck(136)

『聖書とは何か』第五部[5]

 使徒行伝に書かれた福音は何と力強いものでありましょうか。このことは全世界に短期間のうちにイエス・キリストの福音として広まりました。彼らの語った福音の力はいかなるものだったのでしょう。五旬節におけるペテロの説教は3000人の魂を主に導いたのですが、このことを学んで見て分かることは、語られたみことばの半分は旧約聖書からの引用であったということです。

 ペテロの奉仕の土台は旧約聖書でした。使徒行伝3章21節に
このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。

と、あります。そして、ペテロの書いた手紙を見ると旧約聖書におけるみことばの絶対的な確実さが彼の語った一つ一つの土台になっていることがわかります。ペテロ第一の手紙1章12節
彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。

16節
それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。

2章6節
なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」

3章10節から12節まで
「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」

と、あります。それからペテロ第二の手紙1章21節に
なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

と、あります。

 使徒たちの働いた実、すなわち効果を自分も持ちたいと思う者は、使徒たちの伝えた福音を伝えなければならないのです。初代教会全体の証しもまた同様に旧約聖書の完全な霊感を認めるものです。使徒行伝4章25節に
あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。

と、あります。

 今まで、私たちはマタイとヨハネ、そしてペテロについて考えて参りましたが、次にパウロについてちょっと考えてみたいと思います。パウロは旧約聖書の霊感を文字どおり信じたのでしょうか。パウロは旧約聖書に精通した学者であり、旧約聖書のもっとも深い事情を洞察した人でもありました。私たちは透徹した理性と徹底的な論理を持った人に、すなわちパウロに対して、彼が旧約聖書からのみことばをもって深く考えずに福音を宣べ伝えたというようなことを言うことができるでしょうか。決してそうではありません。パウロにとっては旧約聖書のどのみことばもほんとうに神のみことばでした。旧約聖書はパウロの福音の土台でした。使徒行伝24章の14節に
しかし、私は、彼らが異端と呼んでいるこの道に従って、私たちの先祖の神に仕えていることを、閣下の前で承認いたします。私は、律法にかなうことと、預言者たちが書いていることとを全部信じています。

28章23節
そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。

と、あります。

引用者註:使徒たちがいかに旧約聖書を土台として福音を語ったか、私たちはこれらのベック兄のメッセージをとおして知らされます。私はかつて聖書の中に『聖書』が登場して来るのに面食らった覚えがあります。しかしその『聖書』とは『旧約聖書』のことでした。余りにも自明なことで、自らの不明を恥じますが、知らされて感謝なことです。)

2017年1月4日水曜日

主はなさる

強くあれ。われわれの民のため、われわれの神の町々のために全力を尽くそう。主はみこころにかなうことをされる。(歴代誌19:13) 

 ここでヨアブは「彼の前とうしろに戦いの前面に(19:10)」二つの軍隊があるのを知ります。彼は考えられる限りのもっとも賢い取り組みをし、兄弟を元気づけ、次のように言います。「主はみこころにかなうことをされる(19:13)」そして主がなさったことは彼に驚くべき勝利をお与えになることでした。彼が戦ったり蒙らなければならなかった損害は少しもないようにみえます。アラム人もアモン人も彼の前から逃走するばかりでした(15節16節)

 「 アモン人はアラムが逃げるのを見て、彼らもまた、ヨアブの兄弟アブシャイの前から逃げて、町にはいり込んだ。そこでヨアブはエルサレムに帰った。アラムは、自分たちがイスラエルに打ち負かされたのを見て、使いを送り、川向こうのアラムを連れ出した(19:15〜16)。」こういうことは私たちの見本にするために彼らに起こったのでなかったでしょうか。もし型やベールの薄明であったいにしえの日々にあったヨアブがイスラエルの神様をそれほどまでに信頼していたのなら、イエス・キリストの御顔にある神様の栄光の知識の光を得ている私たちがどうして同じく従順な確信の表明をするのに躊躇していていいでしょうか。

あなたが なさりたいことを なさってください
そうです ただあなたが良いと思われることを なさってください
あなたは まことに愛なるお方です 知恵に富み 真理なるお方です
私にとって そのことは 最善です
あなたの なさりたいことを 寄越してください 
打ちつける大雨 やさしい露 それとも 輝くばかりの日射し
静けき時にあっても 嵐の時にあっても 同様に
私の主であるあなたのご意志は なされます 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-4-let-the-lord-do/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97168です。

※Godhold Beck(135)

『聖書とは何か』第五部[4]

 マタイの福音書の中では旧約聖書の27回以上のものからみことばが引用されています。しかし、マタイだけではなくヨハネもまたマタイと全く同じ態度を取ったことがわかります。すなわち、ヨハネもまた旧約聖書全体が神の権威によって書かれたものであり、霊感によるものであることをはっきりと証しています。イエス様と同じように、ヨハネもまた聖書をよく調べなさいと言いました。

ヨハネ伝5章39節に
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

と、イエス様ははっきり言われたのです。そして、モーセによって書かれたものは神の権威によって書かれたものであると言っています。同じくヨハネ伝5章46節47節に
もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。

と、あります。ヨハネは証明する時に議論などは一切しないで、「聖書にそう書かれています」という一言で片付けています。そしてヨハネは主イエス様が聖書すなわち旧約聖書をお教えになったと私たちに語っています。特にイエス様の受難の歴史においては旧約聖書が成就したことをはっきりとヨハネは私たちに示しています。ヨハネ12章14節です。
イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」

と、ありますし、38節に次のように書いています。
それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。

そしてヨハネ伝19章24節に
そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。

と、ありますし、28節
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。

36、37節に
この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない。」という聖書のことばが成就するためであった。また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る。」と言われているからである。

と、書いてあります。そしてまたヨハネは証しを回顧しつつまとめ、旧約聖書とイエス様のお語りになったこととが全く対等に権威ある信仰の土台であると言っています。ヨハネ伝2章22節です。
それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。

弟子たちは「聖書とすなわち旧約聖書とイエスが言われたことばとを信じた」とあります。福音書を書いた人たちがみな旧約聖書に関するこういう証しにおいて一致しています。そして旧約聖書の一つ一つのみことばは彼らにとって重味のあるものであり、純金とみなされ用いられます。

引用者註:この1970年代ころだと思われるベック兄のメッセージをお聞きすると、何と多くのことばが今日本語から消えて行っているような気がしてなりません。たとえば、「たいとうに」とか「じゅんきん」です。まがいもので満足している生活の中で、貴金属業者はそうではないでしょうが、日頃「じゅんきん」の価値は果たして今も存在しているのでしょうか、ふっとそんなことを考えさせられました。) 

2017年1月3日火曜日

あなたの心はどちらに向いていますか

かまぼこの飾り切り 中々むつかしい

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。(コロサイ3:23)

 2歴代誌31:21で、私たちはヒゼキヤが始めたすべてのわざにおいて彼が心を尽くし目的をはたしたことを読みます。万事輝き活気があるのは単にはるかに楽しいことであるだけでなく、実際に主ご自身のみことばに書かれている神の命令の一つであります。私はこれは人によってより容易であることを知っています。恐らくあなたにとっては心からすべてのことをなすのは自然にできるでしょう。しかし、そのことすら十分ではないのです。他に何が必要なのでしょうか。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい(コロサイ3:23)。」とある通りです。 

 主はあなたが主を喜ばすことを求めているのか、それともすっかり主が忘れられていて、他の人々の賞賛だけを考えているかどうかをご存知であります。けれども、恐らくあなたが心からそのことをなすのは難しいでしょう。

 時間をかけ、それゆえぐずぐずして、だらだらしたやり方で、特にやりたくないことをなすのをより好むのです。これは正しいでしょうか。あなたがなすことはどんなことでも、心をこめてやりなさい。他のどんな命令を破るよりも神様に従わないのは正しくないですか。主の御前でやましくないですか。多分あなたはこんなふうには決して思わなかったでしょうが、みことばはそうは言っていないので、あなたも私もそれらを変えることはできません。願わくは、この主のおことばに従えるように力をいただきましょう。その時にヒゼキヤに関する最後のことばは私たちにも真実になりましょう。すなわち、私たちは「目的を果たす」のです。

イエス様 主よ 
あなたは お用いになられるのですか
何よりも あなたのものである 人を

あなたが してくださいますように
私は 選びたくありません

ただ 私に あなたの声を 聞かせてください

イエス様 いつも
あなたに お仕えして
喜んで 自由でいられるように してください 


(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-3-is-your-heart-in-it/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97167です。今日の詩の訳も好い加減である。読者の指導をお願いしたい。

※Godhold Beck(134)

『聖書とは何か』第五部[3]

 そして、第三番目はイエス様は旧約聖書においてお語りになられたお方でした。主イエスご自身は初めからあったことばそのものでした。ヨハネ伝1章1節に
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

と、書いてあります。預言者たちの中で語られた霊は主イエス様の霊だったのです。ペテロ第一の手紙1章10節に
この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。

と、あります。また、ヘブル書2章11節からお読み致します。
聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。

 主イエスは旧約聖書全体は神の霊感によって書かれた神のみことばそのものであることを証明しておられたのです。

 今まで私たちは三つの点について考えて参りました。すなわち第一番目は人間となった神のみことばとしてのイエス・キリスト、第二番目は文字となった神のみことばとしての聖書、そして第三番目は旧約聖書についてのイエス・キリストの証しだったのであります。

 今から第四番目の点、すなわち旧約聖書に関する使徒たちの証しについて考えてみたいと思います。主に、マタイ、ヨハネ、ペテロ、パウロとヘブル書の著者について考えてみたいと思います。使徒たちは自分たちの主に忠実に従いました。主イエスが高められたお方として、使徒たちに遣わしてくださった聖霊は使徒たちにすべてのことを教え、またすべてのことを思い起こさせました。聖霊の導きのもとに使徒たちは聖書を学び、聖霊の権威に基づいて聖書を用いて引用しました。私たちは聖霊が主イエス様と全く同じように教えて下さることを見ることができます。すなわち、イエス様の宣べ伝えた福音の真理は同時にすべての使徒たちが宣べ伝えた福音の真理でもありました。一言で言いますと、主イエス様と全く同じように使徒たちも旧約聖書の霊感を信じ確信しました。

 先ず、マタイについて考えてみたいと思いますが、マタイは旧約聖書を引用し、用いる名人です。かつて取税人だったマタイは何とよく旧約聖書に精通し、そしてまた何と適当なみことばをふさわしい時に引用し、用いることを知っていることでしょうか。マタイは再三再四、旧約聖書と新約聖書の密接な関係を示し、そのみことばの一つ一つはいかにしてイエス・キリストにおいて成就されたかを私たちに証明しています。マタイの福音書の中には「書かれたことが成就されるために」という表現が何度も出てきます。マタイ伝1章22節に
このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

と、あります。生まれた時から死に至るまで、そして復活に至るまで、イエス様のことをマタイは証明しています。みことばが成就するためにこれらのことは起こらなければならなかったのです。

 ドイツの神学によるとイザヤ書の作者は一人ではなく二人だったと言うのですが、マタイはそれをはっきりと否定することを語っており、イザヤ書42章についてもはっきりと証言する意味を持つことばを語っています。すなわち、イザヤ書42章はドイツの神学によると、1章から40章までがイザヤの書いたもの、そして41章から66章までは別の人が書いたことになるのですが、そうだとしますとこの42章はイザヤではない、別の人が書いたことになってしまいます。しかし、マタイの書いたものによるとイザヤ書42章はイザヤ自身が書いたことになります。マタイ伝12章17節18節に
これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。

と、あります。

引用者註: 鴎外に『かのように』という短編がある。これは主人公がベルリンに留学してドイツ新神学の影響を受けて帰ってくるという筋立てのように私は読んだ記憶がある。留学前も留学後も小説全篇には暗い雰囲気が満ちている。創作とは言え、鴎外のドイツ留学の一つの結果かもしれない。今日のベック兄によるドイツ神学批判はマタイの福音書の記述を通して具体的である。いのちはこうして信ずる者に満ち満ちて行く。ドイツ人であるベック兄をとおして福音の土台のしっかりした聖書読みが教えられる私たちは幸せである。そこには「暗さ」から解放された生きる希望があるからである。) 

2017年1月2日月曜日

目的のある苦難

あなたの手が私の上に激しく下って来ました。(詩篇38:2)

 あなたはかつて弦楽器の弦が技倆ある調律師のすぐれて繊細な手で、しかも固く押しつけられている様を見たことがないですか。調律師は音叉を決して変えないで、絶対的な和音をふるわせて、弦に完全に正しい音符を生み出すでしょう。実際的な手は鋭敏な耳と一体であり、その押えは抵抗に対してもっとも微妙な調整に耐えられるようにもたらされるのです。緊張が過度には決してなされず、決して弦は切られません。しかし、彼は何度も何度も音色が正しくなり、耳が満足し、筋肉がゆるみ押えがなくなるまで根気強く響きを確かめます。弦は非常に小さな音を生み出す小さな弱々しいものであるかもしれません。ところが、深い響きを一杯生み出すことのできる大きな低音のものとちょうど同じようにその場では求められているのです。

 調律師はちょうどそれと同じ苦労をし、弦自身の独自の音色を維持し絶対音に合わせ響く時満足します。その弦は自分で音を調整することはできませんでした。それをやりとげるどんな機械も今まで発明されませんでした。調律師の生きた手による確かで繊細な押えが音色をものにすることができるのです。あなたはあなたの調律師であるお方を信頼し、どんな圧迫があろうとも賛美の音色を始めたくはないですか。

おお 救い主様 痛みを押えてくださるのは 
あなたのやさしい手 とこしえに 釘あとに耐えられる手
そして 今やその影の下に あなたによって 隠されており
その苦難だけが 私に語りかけるのです
あなたは 私を 愛してくださると
 
'Tis Thy dear hand, O Savior, that presseth sore,
The hand that bears the nail-prints for evermore.
And now beneath its shadow, hidden by Thee,
The pressure only tells me, Thou lovest me!

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-2-a-purposeful-pressure/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97166です。

※Godhold Beck(133)

『聖書とは何か』第五部[2]

 主イエス様が弟子たちに旧約聖書を解き明かされた時、弟子たちの心は燃えたと記されていますが、これは何というすばらしいことだったでしょう。イエス様は復活のあと弟子たちに出会われた時、彼らのためにたった一つの福音だけをお伝えになりました。すなわち、すべてのことは成就されなければならない、ということでした。ルカ伝24章44節と47節までをお読み致します。
さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。

と、あります。

 主イエス様は弟子たちに彼らの信仰の比類なき土台、すなわちモーセ、預言者、詩篇をお残しになりました。主イエス様は旧約聖書の完全な霊感を信じておられなかったでしょうか。イエス様が旧約聖書の一語一語また一字一字をほんとうに神のことばとみなしておられたことは疑いの余地はありません。それはイエス様にとって揺るがざる確信でした。ヨハネ伝10章35節に
もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、

と、あります。
 それですから、私たちは旧約聖書に対するイエス様の位置づけを主ご自身の証によってまとめることができます。マタイ伝5章18節に
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。 

と。これこそイエス様の確信であり、主のみことばに私たちは全き信頼を置くことができます。マタイ伝24章35節に
この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

と、イエス様は言われたのです。

 旧約聖書に対する主イエスの証しは何であったかをもう一度振り返って見ましょう。三つのことが言えます。第一番目は旧約聖書全体は神の霊感によって書かれたものであるとイエス様は証しておられます。もう一回読んでみましょうか。マタイ伝5章18節
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

ヨハネ伝10章35節
もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、

と、あります。

 第二番目はイエス様はご自分こそ、旧約聖書の預言の成就であるとおっしゃいました。みことばはイエス様にとって、霊の糧でした。旧約聖書はご自分の生活と死と復活について預言しているだけではなく、預言通りになるということをイエス様はご存知であり確信したのであります。イエス様は預言通りナザレに住んでおられました。マタイ伝2章23節に
そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる。」と言われた事が成就するためであった。

と、あります。そして、イエス様はみことばをもってサタンと戦ったと、マタイ伝4章1節から10節に書き記されています。イエス様はご自分こそまことの救い主であることを証明するために、みことばを引用しました。マタイ伝11章の2節から5節までお読み致します。
さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。

と。そして、ルカ伝4章の17節から21節までお読み致します。
すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

と。ご自分の苦しみについて主イエスはみことばが成就されるためであることを確信しておられました。 マタイ伝26章54節に
だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。

と、あります。十字架上で主イエスの言われたことばは、主は詩篇のことばで祈られたことを私たちに示しています。たとえば、詩篇22篇1節
わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。

16節
犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。

と、ありますし、詩篇31篇5節
私のたましいを御手にゆだねます。

と、あります。

引用者註:イエス様が聖書、旧約聖書に忠実であられたことは、私たちがもっともっと聖書全体に耳を傾ける必要を語っているのではないでしょうか。古い契約があっての、新しい契約があるのですが、古い契約を知らずして、どうして新しい契約のすばらしさが理解できるというのでしょうか。) 

2017年1月1日日曜日

あなたが信頼できる導き手

K氏宅のご家庭をお借りしての新年第一日の礼拝

あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。(ヨシュア3:4)

 私たちはこの道を通ったことがないが、主イエス様は通られた。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません(ヘブル4:15)。」その道は私たちにとってはすべて踏み慣れない、また知らない地であっても、主はその道をことごとく個人的な経験によって知っておられる。私たちの息をとめる急勾配の部分、足を大層痛めさす石だらけの部分、疲れを感じさせる、私たちが通過せねばならない早瀬、私たちの羊飼いなるお方は、私たちより前にそれを全部経験なさったのだ。

 いくつかでなく、全部多くの水は主を越えて行ったが、それらは主の愛を消すことはなかった。「あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました(詩篇42:7)。」「大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません(雅歌8:7)。」主は苦しまれたことによって完全な導き手となられた。「彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされ・・・完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となった(ヘブル2:10、5:9)

 なぜなら、今や主はそのことについて全部知っておられ、私たちが耐えられ得る程度にしたがってやさしく導いてくださる。 「というのは、主は、私たちの成り立ちを知っておられる(詩篇103:14)」そして、主は絶えず思慮が足りないという身に覚えのあるその手の知識をご存知であるだけでなく私たちがちりだということを覚えておられる。「神は、彼らが肉にすぎないことを心に留めてくださった(詩篇78:39)。」

 主の導きのやさしさに疑問を持つように誘われるときそのことを考えなさい。主はすべての時を心に留めておられる。そして主はあなたの足が耐えられることを越えて一歩たりとも歩ませられないのだ。将来あるように見える歩みができないと考えるのなら、心配するな 。主はできるように強められるか、突然の停止を求められるので、あなたはその道を歩まなくてすむだろう。


主であるわたしは あなたと ともにある 恐れてはならない
わたしは あなたを 助け 強める 落胆してはならない
まことに わたしは あなたを 右の手で 支える
あなたは わたしの目の前で 立つように 召され 選ばれている
昼の子どもたちよ 前進せよ 恐れてはいけない
主のことばは 決して 決して 過ぎ去るものではないから  
前年の間 どんな豊かさが 供給されていることか
貧困者のためには 生計が 支えられる
悲しめる者 罪深き者には 主の恵みが 豊かになる
弱くされた者には 完全な強さが 見出される

For the year before us, oh, what rich supplies!
For the poor and needy living streams shall rise;
For the sad and sinful shall His grace abound;
For the faint and feeble perfect strength be found.

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-1-a-leader-you-can-trust/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97165です。 新年早々時間足らずでいい加減な訳だ。のちに再点検することにする。この程度の訳でもハヴァガルが一年の始めに何を考えようとしていたかはおぼろげながらわかる。

※Godhold Beck(132)

『聖書とは何か』第五部[1]

 この間始まったテーマ、「旧約聖書についてのイエス・キリストの証し」とはいったいどういうものでしょうか、という点について、もう少し考えてみたいと思います。聖書が聖書にふくまれている一つ一つのみことばがほんとうに神のみことばであることを要求しているのでありましょうか。そして、また聖書の一つ一つの文字が神の権威を持ち、それゆえに永遠に続くものであるということを要求しているのでありましょうか。

 私たちはこのことについて、イエス・キリストご自身よりも偉大な人に訊ねることができません。主イエスこそ最高の権威なのです。主イエス様は神の権威を持って旧約聖書全体を「神のみことば」と言っておられます。神のみことばは誰一人改善したり補ったり変更したりすることの出来ない永遠なるみことばです。イエス様は旧約聖書を百%信じていました。

 主イエス様を信ずることは旧約聖書に対して同じように信頼を置くことを意味します。イエスは一つ一つのみことばが聖書に書いてあることを何度も保証してくださり、旧約聖書全体が真理そのものであることをはっきりとおっしゃいました。ですから、私たちは聖書のことばがどれもみな神のことばであることを他の方法で証明する必要はありません。真理そのものであるイエス様が聖書の霊感を百%信じておられますから、私たちもまた、聖書の霊感を信じることができます。

 主のことばはあらゆる人間のことばや人間の理解力にまさるものです。聖書の霊感に対する決定的に大切なものは主イエスのお取りになられた態度でした。聖書はイエス様にとって力の源でした。イエス様が旧約聖書のみことばを引用する時、その確信は巌のように堅固なものでした。神のみことばは真理そのものであると、イエス様は信じて疑わなかったのです。もちろん、イエス様は旧約聖書の歴史的な出来事をも百%信じておられました。イエス様は創造の報告の完全な霊感をも信じており、イエス様はノアの洪水の報告も信じておられ、ノアの歴史的な人格をも信じておられたのです。またイエスは預言者ヨナについて書かれていることも文字どおり信じておられましたし、イエス様は十字架上で死の時を迎え、聖書のみことばがどれもみな神のみことばであることをはっきりと証なさいました。イエス様は詩篇の一つ一つのことばをお取りになり、それがご自身の死の瞬間に成就されたことをご存知でした。

 よみがえりのあと、すなわちイエス様がもはやしもべの形ではなく、再び神の栄光を全きお持ちになられた時、旧約聖書のみことばは主にとって再び主の宣べ伝えた土台と内容になりました。旧約聖書全体を完全に洞察なさったイエス様はよみがえられた時、エマオの途上で弟子たちに出会ってくださり、ご自身の確信しておられることをお伝えになられました。ルカ伝24章27節ですが
それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

と、書いてあります。

引用者註:「真理そのものであるイエス様が聖書の霊感を百%信じておられますから、私たちもまた、聖書の霊感を信じることができます。」というこの論法は、ベックさんの全生活の土台でもあった。)

2016年12月31日土曜日

静けき親密感

大落古利根川の土手

主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。(ゼパニヤ書3:17)
 
 通りがかりの人とか儀礼的に知り合った人とは、あなたは話をしなければならない義務を感じ、社交儀礼としてあなたは彼らを楽しませようと努力をするでしょう。その結果、疲れ果てるかも知れませんが、そんなことにはお構いなく一生懸命であらねばならないと思うことでしょう。

 ところが、あなたのそばに非常に親しい親密な友がいる時、その種のことは思いもしません。 なるほど、あなたはお互いに思いや共感を交わして、和らげられたり新たにせられたりして、ありとあらゆる親密性を注ぎ出して話すことができます。しかし、もしあなたが大変疲れてでもするなら、一言も話す必要がないことも分かっています。あなたは完全に理解されていて、そのことをあなたも知っています。あなたは友がいるということだけで楽しくなり、会話以上にそのことがもっといいことだと知っています。そのように一緒にいて気が合うので、どんなことばを交わすよりもあなたをくつろがせるのです。そして、あなたの友人はそのことを友情と親密な間柄であることの最高の証拠だと受け取り、おそらくこういう静かな時ほど生き生きと愛する時は決してないことを知っているでしょう。

 それでも、私たちは主の前で静かにしているほうが良いのです。なぜなら、主が私たちを愛し、しかも徹底的に理解してくださることを知っているからであります。 肉体的にか精神的にか、あるいはどちらも非常に弱くされている時、主を楽しませようと、言わば、発することばや整えた思いを何らか義務的に果たすように努めて、自らを鼓舞させる必要はないのです。

 主が私たちにとって一晩滞在するために立ち寄る徒歩旅行をする人だけであって、私たちとともに住み、つねにそこにいるために来られた愛される親切なお方でなかったとしたら、鼓舞させる必要があるかも知れません。もし、これが主と私たちとの間柄であるなら、普段たくさんの交わりについて心配はいりません。しかし、私たちが「大層疲れている」今は、主に話しかける代わりに、主の前で静かにしているほうが良いでしょう。

愛は 祝福の頂点にある 
愛が 白く 揺らぐことがなく 
恐れを消滅させる 輝きに 届く時
そして
愛が知るとおりに 知られることを 知るのは
心強いことばも また なだめる口吻も 必要ない
愛は 静けき親密感以外に 切望しない
言わば 憩うがごとく 音もなく 動きもない
聞かれずして 感じられる愛 長々と静かに
時が 永遠の大海原の上の 雪片を 溶かすまで

この静かな時は あなたの過ぎ去りし日に 星ちりばめたか
記憶を 栄光の出入りする所としたか
知力がたどることのできるあらゆる喜びを 教えたか 

影以外のさらに偉大な光の帯が投げかけられて
主なるあなたの神は あなたを 喜ばれるでしょう
さすれば あなたは 主の愛に 憩い
まことに 静けさを 体験するでしょう 

By greater light 'tie but a shadow cast—
So shall the Lord thy God rejoice o'er thee,
And in His love will rest, and silent be.

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-31-silent-nearness/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97530です。一年の終わりです。ハヴァガルはいったい何を伝えようとしたのでしょう。むつかしい英文の連続でしたので、大分意訳を試みました。ひょっとしてハヴァガルの文意を取り違えているかも知れません。今年の1月10日からおぼつかない足取りでしたが、拙い私訳を毎日掲載し続けました。読者、家人の背後の暖かいお祈りなくしてなし得ませんでした。ここに感謝の意を表させていただきます。新年度も最初の9日間は引き続いて訳業を続けさせていただきます。それで全訳となり私の試みも終了します。もちろん、多くの誤訳があると思います。新年度は思いも新たにハヴァガル訳の再点検の年とすると同時に何か別のものに挑戦したい思いもあります。引き続きお祈りをお願いします。

※Godhold Beck(131)

『聖書とは何か』第四部[完]

 みことばに頼らない者は悪魔の餌食になってしまうのです。イエス様は旧約聖書の歴史や出来事も100%信じていました。マタイ伝22章31節32節をお読み致します。
それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。

29節
しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。

と。「あなたがたは読まなかったのですか」これはパリサイ人に対する驚いた主イエスの問いでした。そしてまたイエス様は創造主の報告の完全な霊感を信じておられました。マタイ伝19章の4節、5節をお読み致します。
イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。

と。そしてまたイエス様はノアの洪水の報告をも信じておられ、ノアの歴史的な報告をも信じておられたのです。そして主イエスは創世記がイエス様のことについて報告していることを文字どおり信じて理解しておられたのです。ルカ伝17章26節27節に
人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。

と、あります。それゆえ、主イエス様はモーセがほんとうにご自分について書き記したことを私たちに証明しておられます。ヨハネ伝5章46節、47節に
もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。

モーセを信じない者は、主イエスを偽り者にします。またイエス様は詩篇の二ヵ所を引用して、ダビデがご自身について書き記していることを私たちに証しておられます。マタイ伝22章43節、44節で
イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、
『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。

と。またイエス様は預言者ヨナについて書かれていることを文字通りに、信じておられました。マタイ伝12章40節
ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。

と、あります。ヨナが三日間大魚の腹の中にいたのと、全く同じように確実に主イエス様は三日間墓の中におられました。もしも人がどちらか一方を疑うならば、もう一つの方も疑わしいものにならざるを得ません。主イエス様は十字架上で死の時を迎え、聖書のみことばがどれもみな神のみことばであることをはっきりと証なさいました。主イエスは詩篇の一つ一つのみことばをお取りになり、それがご自身の死の瞬間に成就されることをご存知でした。それはヨハネ伝19章の28節です。
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。

よみがえりの後、主がもはやしもべの形ではなく、再び神の全き栄光をお持ちになられた時、旧約聖書のみことばは主にとって再び主の宣べ伝えた土台と内容になりました。

引用者註:最後に述べられている短いベック兄のことばですが、ルカの福音書24章25節以下のことを指すように思われます。このあとに聖歌532番「ひとびとはイエスのおしえを古しとて、見向かず、『あたらしきことをのべよ』とあざけり顔に言う。古びはせじ、とうときはイエスのおしえぞ、よし世はいかにあざけるとも、動かぬはげにこのおしえぞ。」と歌わしめておられます。)
 

2016年12月30日金曜日

無限の愛の導水

白子鳩 群れ広がりて さんざめく

なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5:5)

 聖霊はキリストの愛を啓示し、私たちの心のうちに神の愛を注ぎます。この(生来の)愛は、まるで新しいお方を見つけるかのように新しい愛の原理に導かれるのです。そのお方のうちに見るすべてのものが、この愛に新しい深みと新しい神の性質を与えるのです。この愛は聖さ、美しさ、栄光を見るにつれ、自らのうちにある罪深さ、無価値を深く覚えさせられます。また知識を越える愛を一瞥さえし、驚きと感謝の思いにとらわれます。
 
 そして、血で贖われた赦しにより、もっとも深い必要へと近く引き寄せるその愛を知る時、この愛は強められ掻き立てられるのです。もはやこれ以上に主の愛を推し量る時はありません。私たちを愛するために刺し貫かれた(十字架のイエス様の)足もとで、私たちは涙を流してこの生来の愛のうちにあるすべてを注ぎ出すにちがいありません。

 次に何があったでしょうか。その愛の流れは次第次第にゆっくりとなり、浅くなって行ったのでしょうか。私たちの主は「私の兄弟たちは川のように裏切った。流れている川筋の流れのように(ヨブ6:15)。」と言う理由があったでしょうか。「あなたの年ごろは恋をする時期になっていた(エゼキエル16:8)。」その時に私たちは恋をしていて、主を愛し続けられなかったことを知るとは何と恥ずかしいことでしょうか。私たちにはできなかったことが明らかになったのです。このことを主はできるということを証明する踏み石とだけしましょう。

愛する方 あなたはイエス様のために 輝いていますか
あなたは 心を イエス様に あずけたことがありますか
しかし その光は 心のうちにあって 強いですか
それとも 薄く 消え入るばかりですか
誰もが 見ることが できますか
イエス様が あなたにとって すべてであることを
あなたのイエス様に対する愛は 燃えていますか
輝ける暖かさと 真実をもって
額には 印が ありますか  
そうであるなら あなたは 知られているに違いありません
あなたは 「イエス様のためのすべて」で あると
あなたの心は 全部 イエス様の ものであると 
 

※Godhold Beck(130)

『聖書とは何か』第四部[6]

 今まで私たちは二つのことについて考えて参りました。第一番目は人間となった神のみことばとしての主イエス様。そして、第二番目は文字となった神のみことばとしての聖書でした。続いて第三番目で、すなわち旧約聖書についてのイエス・キリストの証し、という点について考えてみたいと思います。聖書のことばはどれもみな本当に神のことばなのでしょうか。私たちはまだこの問いに答えるためにただ一つの道を持っています。すなわち私たちは聖書自身に訊ねなければなりません。

 聖書が、聖書にふくまれている一つ一つのことばが本当に神のことばであることを要求しているのでしょうか。そしてまた聖書の一つ一つの文字が神の権威を持ち、それゆえに永遠に続くものであるということを要求しているのでありましょうか。私たちはこのことについてイエス様御自身よりも偉大な人に訊ねることができません。主イエス様こそ最高の権威なのです。パウロはコロサイ書の中でイエス様について次のように書き記したのです。コロサイ書2章9節
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。

3節
このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。

と、あります。この主イエスは神の権威を持って旧約聖書全体を神のみことばと言っておられます。しかし、神のみことばは、誰一人改善したり、補ったり、変更したりすることのできない最高のみことばです。主イエス様は旧約聖書を100%信じておられました。そして旧約聖書の一つ一つのみことばはイエス様にとって手をつけてはならない神聖な神のみことばでした。主イエス様を信ずることは旧約聖書に対して同じように信頼を置くことを意味します。イエス様は一つ一つのみことばが聖書に書いてあることを何でも保障して下さり、旧約聖書全体が真理そのものであることをはっきりおっしゃいました。

 ですから、私たちは聖書のことばがどれもみな神のことばであることを、他の方法で証明する必要はありません。真理そのものである主イエス様が、聖書の霊感を100%信じておられますから、私たちもまた聖書の霊感を信ずることができます。世の光であるイエス様はいろいろな疑いの影をすべて追い払わなければなりません。主のみことばはあらゆる人間のことばや理解力にまさるものです。聖書の理解に対する決定的に大切なものは、イエス様のお取りになられた態度でした。

 聖書は、イエス様にとって、力の源でした。イエス様が旧約聖書のみことばを引用する時、その確信は巌のように堅固なものでした。神のみことばは真理そのものであると、信じて疑わなかったお方です。主イエス様が聖霊による荒野に導かれた時、悪魔と言う恐ろしい敵に立ち向かうただ一つの武器は、みことばの力だけでした。マタイ伝4章1節から10節までお読み致します。
さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」

と、あります。もしもイエス様がみことばに対してほんの少しでも疑いを持っていたならば、すべては崩れ去り、敗北者となっていたことでしょう。みことばこそイエス様が勝利を治めることのできた武器となったのです。

引用者註:イエス様が旧約聖書を全面的に信頼しておられた。これほど確かな旧約聖書の「霊感」を説明する根拠はありません。 ) 

2016年12月29日木曜日

忠誠を誓いなさい

あなたがたは、かねてから、ダビデを自分たちの王とすることを願っていたが、今、それをしなさい。(2サムエル3:17〜18)
 
 他の何らかの王の束縛は日々ますます激しかったので、当然であろう。私たちの忠誠を待っていたまことの王の恵みと威光を私たちがまさにおぼろげながらも垣間見るのも当然だ。私たちは先ず不安気にまた漠然と何かを(それが何かほとんど知らなかったが)求めていたに過ぎない。次に単なるあらゆる民の願いだけでなく、私たち自身の願いであったある方を求めていた。

 しかし、私たちはその地点にまで到達していなかった。私たちは主による絶対的な支配の心備えがなかった。と言うのは、私たちは以前の暴君の意志を愛し行っていたからである。私たちは偉大な「今」に直面していた。「 今、それをしなさい。」主は忠誠を強制なさらない。主はじっと待たれるだけだ。

 私たち自身の個別の愛や忠誠の冠は私たち自身の手によって差し出されねばならぬ。私たちがそうせねばならないのだ。いつか? おお、今だ。今先ず神聖な心を明け渡し、次に開かれた誤りなき生活を告白し、自分自身を私たちの主権者、統治者としての主に明け渡そう。これがなされる時、私たちの前にはどんな勝利と平和の栄光ある生活が開かれることか。これは将来も過去と同じようになってしまうのではないかという私たちの恐れ不安をなんと(みごとに)解消してくれることか。( What a silencing of our fears lest the time to come should nevertheless be as the time past!)

神様の「今」は あなたの耳に鳴り響いています
おお 心に届かせましょう
あなたに 分かつように 命令されるのは 
罪深さだけでなく あなたの義も そうです 
汚いボロ着は 全部捨てられねばならないのと 同じように
そして ただ罪なきイエス様の 尊い死だけが
あなたの弁護と ならねばなりません   

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-29-pledge-allegiance/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97528です。サムエル記の微妙なところを引用しながら、ハヴァガルははるかに私たちの主イエス様への忠誠を重ね合わせているようです。訳出は困難を極めました。特に最後のフレーズはそうでした。ために英文を併記しました。引き続き読者のご指導をお願いします。12/31追記 下記の訳がコメント欄にある通り、投稿されましたので、拙訳をそのとおり訂正しました。

※Godhold Beck(129)

『聖書とは何か』第四部[5]

 聖書の中に書かれている一つ一つのことばは本当に神のことばなのでしょうか。それとも一部分は神のことばで、他の部分は人間のことばというふうに混ざり合っているのでしょうか。残念ながら今日の大部分の神学校で教えられている事柄がそういうものです。すなわち、ちょうど混合物の中にふくまれている金のように、神のみことばも人間のことばの混合物の中にふくまれているという考え方です。

 しかし、もしもそうだとするならば、どれが神のことばで、どれが人間のことばなのかを判断するのは一体誰なのでしょうか、という疑問が起こって来ます。両者を区別する権威はどこにあるのでしょうか。神のことばと人間のことばを正確に区別することはもっとも大切なことになるでしょう。少しでも間違った判断をするならばそれは悲劇的なことになるでしょう。すなわち、神が語られたことを人間が語ったと言ったり、その逆に人間のことばを神のことばだと言ったりすることはまことに悲劇的と言わざるを得ません。まちがった判断によって人間が永遠の滅びに行くこともあることを考えると、それはとんでもないことであると言わざるを得ません。

 一言で言いますと被造物であるちっぽけな人間はこれほど重大なことを判断する能力を持っていないということです。確かに聖書の中には神のことばがふくまれていると多くの人は言いますが、そのようなことは確固たる土台とはなり得ません。そういう人々は結局はっきりとした確信を持てなくなってしまいます。そういう人々は聖書を信じているかも知れませんが、みことばの何たるかを知らないのです。これこそ現代人の絶望のもとです。また、これは多くの牧師の問題でもあります。

 彼らはどれが神のことばで、どれが人間のことばであるかを区別できないために、人を導くことができないのです。医者が患者に薬を間違えて死なせるよりも、はるかに恐ろしい悲劇は神のことばと人間のことばを間違えて判断し教えることです。多くの教会で牧師は確かに福音を語り、ただイエス様によってのみ救いが成就されると言われるのですが、聖書のことばがまことに神のみことばであり、信頼するに足るものであることを伝えることができなければ、語られた福音も十分な効力を発揮することができません。聖書全体を神のみことばとして受け取る者だけが確信と安らぎと支えを持つことができるのです。

 人は聖書を全部神のみことばとして持つか、さもなければ全然持たないかのどちらかです。すなわち人は聖書を神のことばとして完全に認識し、信仰と人生の土台を見出すか、さもなければ、聖書の要求を現代人はとても信じられないこととして退け、聖書全体を失うかのどちらかです。

 わかりやすい一例を挙げてこのことを説明してみましょう。列車で橋を渡れば、すぐ目的地にたどり着くことがわかっているとします。もしもその橋が頑丈な橋であれば、乗客はみな安心して乗りますが、その橋が危ないところもあるということが分かれば、誰もその列車に乗ってその橋を渡ろうとはしないでしょう。聖書の場合も同じようなことが言えるのではないでしょうか。つまり、聖書のある部分は確かで、別の部分は不確かであるとするならば、結果的には聖書全体が不確かなものとなります。

引用者註:憂国の情ということばがありますが、ベック兄の今日のくだりは聞き書きではうまく伝わらない激情があります。それは聖書を全面的に神のみことばとして認めないところに、現代人の絶望の根拠があるという診断であり、あらゆる牧師たちの足もとを襲っている不信の罪の指摘です。)

2016年12月28日水曜日

満たされし心 ゆるがされない心 

寒風に 裸木凛なり 妹と仰ぐ

その人は主に信頼して、その心はゆるがない。(詩篇112:7)

 誰の心ですか。天使の心ですか。栄光ある聖徒の心ですか。いいえ。ただ主を恐れ、主のご命令を大いに喜んでいる人の心です。だから、神様がそうであって欲しいと思われるあなたの心であり私の心であります。まさしく神様を恐れる心の平常心であり、功績とは縁遠い極めて絶望的で何もない心です。

 「信頼してゆるぎがない」ここにゆるがない方法があります。それは信頼です。主は私たちの内に信頼を働かせられます。それは聖霊が私たちの信頼は絶対的に無限に価値あるものとして、キリストにある神様を啓示するために遣わされることによってです。私たちが聖霊の働きによる信仰によって「イエス様を見る」時、私たちは主を信頼せざるを得ません。

 私たちは以前よりも自分の心をさらに正しくも信頼せず、私たちは主だけを信頼しますので、主を絶対的に信頼します。なぜなら、主に対する信頼にゆだねて、主がゆだねるものを支えることがお出来になると知っているからです。それが主ご自身が私たちの心を主ご自身のために勝ち取りゆるがせになさらない方法です。

むなしい骨折りはやむことがない  
私たちが人生の暗い惑わしのうちに
痛んだわがままな歩みを導いて
主ご自身が 道であり いのちであり 平和であることを
気づかせてくださるお方に お会いするまでは
主にあって 長期にわたる不安は 和らげられ 沈静化されます
私たちの心は 満ち足りるのです

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-28-hearts-filled-and-fixed/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97527です。

※Godhold Beck(128)

『聖書とは何か』第四部[4]

 音楽が、ある時は竪琴、ある時はオルガン、ある時はバイオリン、ある時はラッパによって自分の中にあるものをあらわそうと試みるように、主なる神は語りたいと思う時、全能なる力をもって、ある時は王、ある時は羊飼い、ある時は祭司、ある時は医者、ある時は神学者、ある時は漁師、ある時は取税人を選び、言い表わしたいことを表現致しました。

 神の御霊は選ばれた一人一人の個性を用いて書かせました。神の霊は人間に臨み支配しお用いになります。私たちは聖書を書いた人々の言うことを聞くことができ、彼らの人間的な個性を見ることができます。彼らは、みことばをそれぞれの個性に応じて宣べ伝えました。それは、確かに人間のかたちによるものではありますが、完全なみことばなのです。

 私たちは、いろいろな書物の作者の個性によって聖書の中に、言い表わすことの出来ないほどの豊かさを見出すことができます。旧約聖書において、モーセは教養の高い指導者であり、生まれながら民の指導者であり、レビの家系を持つ情熱的な男でしたが、もっとも柔和な人間となりました。イザヤは王の家系を持つ預言者であり、すでに千年王国の約束された平和の国を見た者でした。そして支配者の洞察力を持って、自分の時代を見透しました。エレミヤは感受性の強い詩人の性質を持ち、イスラエルの民の苦しみと悩みを深く同情し、ともに耐え忍び、イスラエルの民に対してする神の悲しみを理解することが出来ました。アモスは羊飼いであり、羊飼いの経験する事柄を通して、主のみことばを宣べ伝えたのです。ダニエルは賢い政治家であり、バビロン帝国の大臣であり、将来の世界史を主によって見させることができました。エゼキエルは祭司であり、宮の中の状態と将来の宮に対する目を開かれました。

 新約聖書において、マタイは取税人であり、天の御国に対する幻を持つことができました。ルカは医者であり、罪人の救い主を見、この方の癒す能力を確認しました。ヨハネは神秘主義者であり、神の御子の本質、ならびに主との交わりの本質を見ました。ペテロは行ないの人であり、彼の色々な思い出はマルコ伝に再現されており、彼の手紙の中では主の将来が描かれています。パウロは考える人であり、聖書の真理をもっとも簡潔に言い表わす人となりました。ヤコブは実践的な信仰の代表者です。

 これらの人たちはみな聖霊のご支配を受け、啓示を受け、駆り立てられました。彼らは覚めた状態で神のみことばを受け取り、開かれた魂と明晰な理解力をもって覚めた状態でみことばを書き記しました。彼らは神のみことばを宣べ伝える器に過ぎなかったのです。しかし、大切なことは聖書がつねに神のみことばであること、しかも完全で間違いのない人間のことばのかたちを取っているということです。

 神のみことばでありながら、人間のことば、そしてまた人間のことばでありながら、神のみことば。一体そんなことがどうしてあり得るのでしょうか。聖書は神の奇跡を私たちに説明してくれませんが、証しをしてくれます。主イエスの処女降誕はどうして可能なのでしょうか、人間は年老いてからどうして生まれ変わることができるのでしょうとか、このような私たちの問い、すなわち、「どうして」という問いに対して、聖書はいつも「聖霊によって」「聖霊の力によって」という答えだけを与えています。

 みことばの霊感はどうして可能なのでしょうか。ペテロ第二の手紙1章21節に
聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語った

と、書いてあります。人間の口をお造りになった方が、この口を自分の思い通りに使うことができないのでしょうか。出エジプト記4章11節と12節をお読み致します。
主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」

と、あります。私たちが召されたのは神の奇跡を説明するためではなく、宣べ伝えるためです。聖書のことばはどれもみな神のことばです。

引用者註:この最後のベック兄のことばは当然と言えば当然し過ぎることばだが果たしてそうだろうか。「説明する」のでなく「宣べ伝える」とは何と意味深なことばであろうか。ここには「宣べ伝える」者とは、何よりも神様の前にへりくだりを求めれている者にちがいないからだ。)

2016年12月27日火曜日

ささげることに関して

桐見上げ 妻と歩めり 冬空を

あなたの神、主が賜わった祝福に応じて、それぞれ自分のささげ物を持って出なければならない。(申命記16:17)

 私たちが「全部」と言っているだけで、もし私たちが過去に「いくらか」と言ったに過ぎず、きわめて限定的に言ったのなら、実際にはより不十分である危険性がつねにあります。神様はこのことを十分お知りになるので、それに反して多くの部分にわけて用意されるのです。たとえば、私たちの時が神様にとって「すべて」であっても、神様は厳格に神様にとって特別な一日を分離されるのです。

 神様より良く知っていると思い、毎日が日曜日だと告白する人々は、自分たちが書かれていることにまさりそれほどまでに自らを賢いとすることによって、どんな誘惑を思う存分開いているかほとんど知らないのです。

 神様は最善をご存知で、そのことはあらゆる誠実な心にとって全く十分であるはずであります。そのように、お金に関して、たとえ私たちが主の処理に全部をおまかせし、主のために直接的にせよ間接的にせよ使うことを喜んでいても、主に直接お仕えするために収入や収益の決まった部分を取りのけておくことは、大きな助けであり、予防措置であり、さらには主のご命令の精神に対して単純な従順の根拠であると私は確信します。

わたしは あなたに わたしのいのちを与えました
わたしの尊い血を流したのは あなたが贖われ 
死からよみがえるためです
わたしは あなたのために わたしのいのちを与えました
あなたは わたしのために 何をささげましたか
 
I gave My life for thee, My precious blood I shed, from
That thou might'st ransomed be, and quickened from the dead.
I gave My life for thee; what hest thou given for Me?

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-27-on-giving/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97526です。一年間ハヴァガルを訳し続けてここまで辿り着きましたが、今日の箇所は特に感慨深いものがあります。なぜなら詩の英文を読むうちに彼女の若い時の作品だと、私は思い至ったからです。まさしくそうでした。手許の大野野百合著『賛美歌・聖歌ものがたり』を見ますと21歳の時だということが分かります。しかも散文の文章部分を読むと、いかに彼女が実際的に主に身をささげる意味を把握して信仰生活を送っていたかがわかるというものです。このようなハヴァガルを苦しみながらも一年間訳し続けられたことを感謝したい思いです。ベック兄が数年前にこの邦訳書[最初の100日分、ただし詩は訳されていない]をご婦人方になぜプレゼントされたかがわかるような気がします。

※Godhold Beck(127)

『聖書とは何か』第四部[3]

 神の霊による霊感とは、まず神の語られたこと、それから人間をとおして受け取られたことだけではなく、みことばの伝播もそうなのです。したがって、みことばの伝播もまた神のみこころと導きによるものです。

 主なる神はご自身の啓示、すなわちみことばを全人類に伝えるために書物という手段を選びました。文字による継承、すなわち受け継がれることは、口によるものより確かであり、すなわち広がることの出来る領域に、空間的に制限されません。そしてまた時間的にも制限されず、いつの時代にも通用します。

 主なる神が、歴史上アブラハムを通して救いのご計画を実行し始めたとき、文字は既に発明されていました。モーセはエジプトのあらゆる知恵の中で教育されましたので、その中には当然文字もふくまれていました。使徒行伝7章22節に
モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました。

と、書いてあります。神ご自身がお書きになりましたし、出エジプト記31章18節に
こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。

と、書いてありますし、32章の16節に
板はそれ自体神の作であった。その字は神の字であって、その板に刻まれていた。

と、書いてあります。また、モーセは神のことばを書き記すように命令されたのであります。出エジプト記17章14節に
主はモーセに仰せられた。「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。

と、ありますし、24章の4節に
それで、モーセは主のことばを、ことごとく書きしるした。

と、書いていますし、34章の27節に
主はモーセに仰せられた。「これらのことばを書きしるせ。わたしはこれらのことばによって、あなたと、またイスラエルと契約を結んだのである。」

と、あります。 また民数記33章の2節に
モーセは主の命により、彼らの旅程の出発地点を書きしるした。

と、あります。また申命記28章58節に
もし、あなたが、この光栄ある恐るべき御名、あなたの神、主を恐れて、この書物に書かれてあるこのみおしえのすべてのことばを守り行なわないなら、主は、あなたへの災害、あなたの子孫への災害を下される。

と、あります。サムエルも書いたと聖書は言っています。サムエル上10章25節に、
サムエルは民に王の責任を告げ、それを文書にしるして主の前に納めた。

と、あります。エレミヤという預言者は、みことばを書くように要求されています。36章の2節
「あなたは巻き物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書きしるせ。

と、ありますし、6節
だから、あなたが行って、主の宮で、断食の日に、あなたが私の口述によって巻き物に書きしるした主のことばを、民の耳に読み聞かせ、また町々から来るユダ全体の耳にもそれを読み聞かせよ。

と、ありますし、17節
彼らはバルクに尋ねて言った。「さあ、どのようにして、あなたはこれらのことばをみな、彼の口から書きとったのか、私たちに教えてくれ。」バルクは彼らに言った。「エレミヤがこれらすべてのことばを私に口述し、私が墨でこの巻き物に書きしるしました。」

と、書いてあります。 23節
エフディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては、暖炉の火に投げ入れ、ついに、暖炉の火で巻き物全部を焼き尽くした。

と、ありますし、28節
「あなたは再びもう一つの巻き物を取り、ユダの王エホヤキムが焼いた先の巻き物にあった先のことばを残らず、それに書きしるせ。

と、書いてあります。 また51章の60節
エレミヤはバビロンに下るわざわいのすべてを一つの巻き物にしるした。すなわち、バビロンについてこのすべてのことばが書いてあった。

と、あります。ダニエルも「書き留めた」と聖書は言っています。ダニエル7章1節に
バビロンの王ベルシャツァルの元年に、ダニエルは寝床で、一つの夢、頭に浮かんだ幻を見て、その夢を書きしるし、そのあらましを語った。

と、あります。

引用者註:ベック兄はここで、「でんぱ」と言っておられます。「でんぱ」と言えば、普通の日本人は「電波」しか想像しないでしょう。しかし「伝播」です。こんなむつかしい日本語の用法を駆使されるとは何とも頭が下がります。そしてこの「でんぱ」こそ神様が私たち罪人にご自身を伝えようとなさる意味を集約していることばはありません。)