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2025年4月23日水曜日

二三人我が名により集まる所、我も在り


 毎週月曜日は長男と私たち夫婦とで祈り会を持っている。もちろん長男は現役の働き人である。様々な用事がある中で、時間を工面するのは中々大変だと思う。案の定、今週は会社の会食があり、昨日22日(火曜日)に延期してくれと、21日(月曜日)に連絡があった。

 ところが昨日九時過ぎに待機していたが、電話はかかって来なかった。多分疲れて眠ってしまったのだろうと思っていた。ところが二、三十分経って携帯でなく、家の電話にかけてきた。どうしたのだと聞くと、いつも通り携帯に電話するが通じなかったのだと言う。

 このような携帯電話を通して三人で祈り会を持つのはいつからか覚えていないが、10年くらいは続いているのじゃないだろうか。その中で通じないという経験は今回初めてだった。原因は私のiphone設定にあることがわかった。

 普段、子どもたちから、5年前に『金婚記念』にといただいたApple Watchに励まされて散歩を欠かさず行っているが、1日の終わりにはその充電量が残り10%を切り、毎日困っていた。それを改善すべく操作をしたが、その際、外部からかかって来る電話が繋がらないようにしてしまった(ようだ)。『集中モード』と言うシステムだ。

 結局昨日はこのためあたふたとし、祈り会は行なえなかった。予定通りであれば、昨日は『ローマ人への手紙』2章の輪読と互いの祈りで終わるはずだった。何となく、泡の抜けたビールのような感じがしないでもなかったが、そのまま二人とも休んだ(普段、ビールは全然飲まないので、この表現は間違っているかもしれないが・・・)。

 さて、2000年前のキリスト者の書翰を通しての交わりについて、今せっせとパソコンに打ち込むという書写に勤しんでいる。『聖パウロの生涯とその書翰』がその本の題名だが、その本に次のような記載があった。以下にコピペする。

書翰の提携者テモテ
 当時にあって書翰の送達は容易の業ではなかった。ペルシヤのangariaを見本としてローマ皇帝が創設した帝国郵便があったけれども、それは国家の施設で、個人の急信は個人の使者が運搬した。普通に富豪は飛脚の人数を具えていたが、それほど余裕のない者は臨時に使者を雇傭した。さらに貧困なるものは友人かまたはその方へ向かう旅人に託した。これがこの使徒の手紙の送られた方法であった。今日の例をもって見ればテモテが逓送夫となった訳である。これは重大な職分であった。蓋しパウロの逓送夫は単純な郵便夫でなかったからである。彼らは人間による音信の書状として信頼せられたのみならず、記された書信を布衍(ふえん)し、また補助する責任を負うていた(ローマ15:12、エペソ6:21〜22)。

 この文章は1926年に日高善一さんが1907年イギリスのスコットランドの片田舎で牧会していたDavid Smithが表題の作品を物すべく13年かかって発表したものを日本人向けに翻訳して総ページ700ページを越える大冊にまとめ出版にこぎつけられたもので、私は今、無謀にもその大冊を書写している。「ちりも積もれば山となる」のたとえ通り、やっと今日の個所はその187ページにあたるところにまで到達した。テサロニケのキリスト者に宛てた第一の書翰について述べている個所である。2000年後、100年後、iphoneを通して家族・友人の救いのために祈る私たちの祈り会は敢えなくも中止された。しかし、そこには彼我の通信手段(2000年前の書翰とiphone)、また日本語表現の違いはある(100年前の日高氏の漢字表現の豊かさ!)ものの、2000年、100年をものともしない主なる神様の御憐れみ、ご支配があることを思わずにはおれない。

 それにしても引用文の最後の文章は中々味わい深い文章である。著者・訳者の真意を表わすための聖句は何だろうと考え喘いで、思い至った聖句を今日の聖句として記しておく。

私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心にしるされていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。(新約聖書 2コリント3章2〜3節)

2025年3月1日土曜日

輝かしい希望


 今日から、弥生三月に入りました。庭の山茱萸(サンシュユ)の花が咲きほころびました。毎年のことですが、このように時至って花を咲かせてくれる木に心からなる感謝を申し上げたい思いです。でも、すべては主なる神様のご配慮なのですね。

 毎日毎晩、岩手県三陸大船渡市の山林火災に胸を締めつけられる思いがします。一日も早い鎮火をと祈ります。さて、今日は下記の文章を載せさせていただきました。『重荷も軽く』(A.ドーフラー著)の「輝かしい希望」と題する文章の引用文です。愛する友が重篤で入院中です。その方に読んでいただきたいと決心してお送りしたものです。皆様もお読みくだされば感謝です。

もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。(新約聖書 コリントへの手紙第一15章19節)

 希望は人生の源泉です。私たちの生活から希望を取り去ってしまったならば、私たちは平安を保つことができなくなり、絶望へと追いやられてしまいます。

 神を無視する者でも、この世に希望を託しております。彼らは生計を立ててゆくことを望み、より良いことに会うことを望み、健康でありたいと願います。

 しかし、イエス・キリストの復活ほど、私たちを大きな希望で満たしてくれるものはありません。イエスの復活は、イエスが神であることを示し、神のみことばとお約束が常に真実であることを物語っています。イエスはいつも私たちと共に居てくださることを約束してくださいました。イエスは私たちに慰めを与えてくださることを約束してくださいました。神は私たちに、イエスが生きていらっしゃるように、私たちも生きると確信させてくださいます。

 人生においてさまざまな苦労に出会っている時や、苦痛と病気のために閉じ込められている時ほど、この神のお約束は必要なのです。これらの約束は、私たちが決してひとりではないことを確信させてくれます。私たちは主イエス・キリストの永遠のご臨在をいただいているのです。

 その上私たちは、イエスの復活によって、もう一つの希望を持たせていただきました。イエスの復活は、イエスが私たちの救い主であることを語っています。キリストを死から復活させることによって、父なる神はイエスの犠牲が十分に完全に、私たちの罪の代価を支払ったことをお述べになりました。

 イエスは悪魔の象徴であるヘビの頭を砕きました。イエスは悪魔に対して勝利を得られたのです。それゆえ、キリストを身の隠れ家としている限り、何物も私たちを損なうことができないことを知り、希望に満ちて将来を望み見ることができるのです。

 キリストが死から復活なさったのですから、私たちの、苦痛を受け病気をしがちなからだも、ついには朽ちない状態によみがえり、主イエス・キリストの栄光のからだに似たものとしていただけるのです。私たちはこの世において、いろいろと多くの試みを受けます。私たちキリスト者も、神を無視し、キリストを否定する人々と同様に苦痛を受け、痛手をこうむります。もし現世にのみ希望を託するならば、私たちはすべての人々のうち最も哀れむべき存在となります。しかし死のかなたにおいて、この苦しみを受けているからだが完全な状態においてよみがえるというところに、私たちの希望が存在しています。そこにおいて私たちの目から涙がすべてぬぐい去られます。そこにはもう、この世の苦痛はありません。もはや死ということも無いのです。主の御前は、永遠に喜びに満ち満ちているのみです。それゆえ私たちの希望は、この世の生活を超越した果てしない永遠にあるのです。これらすべてのことは、イエスの復活によって絶対確実なものとなります。

 それですから復活祭は、私たちに世界で最も幸いに満ちた喜び、最も希望に満ちた神よりのことばをもたらしてくれるのです。パウロがローマ人への手紙8章18節で言ったとおり、私たちも「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」と心から言うことができます。そして十分自信に満ちて「 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(新約聖書 コリント人への第二の手紙。4章17〜18節)と付言することができるのです。

 祈り

 永遠に生きていらっしゃる救い主イエス様。あなたは罪と死に打ち勝ち、栄光ある復活をなさいました。それによって罪の赦しと平安が私たちに保証されました。私は心からあなたを讃美いたします。今日もまたあなたの慈(いつく)しみを私にお示しくださり、私のすべての罪をぬぐい去ってください。悩みと痛みと苦しみとを受けている私を、罪のくびきや苦難から永遠に解放してくださるというあなたのお約束によって、私は希望に満ちてあなたを仰ぐことができます。どうか御恵みによって、常に私の近くにいてくださり、一日のすべての時を、輝かしい栄光の福音によって慰め、揺るがぬ信仰をお与えください。

 あなたのみことば、および、あなたに対する信仰から、私たちすべてが最後まで離れることなく、神の国民を待ち望む栄光に連れて行っていただけますように。イエスの御名によってこの祈りをおささげいたします。 アーメン 

2024年11月15日金曜日

「あなたは私の助け、私を助け出す方」

君や知る 我が蹉跌(さてつ)時 神語る
 今日は、日々、聖書に養われて歩ませていただいている者として、どんな経験をしているかについて、その一端をお話させていただきます。私にとって、新聞は毎朝欠かせない読み物ですが、一方朝夕の食事の前に決まって朗読することにしている『日々の光』(※)は新聞では得られない心の宝物です。たとえば、昨日(11月14日)の朝には次の御言葉が記されていました。

あなたは私の助け、私を助け出す方。わが神よ、遅れないでください。(旧約聖書 詩篇40篇17節)

 随分と短いセンテンスで、一読了解の文章です。ところで、私にとって 、詩篇40篇全篇(わずか17節しかありませんが)は懐かしい思い出が込められた詩篇なのです。その最後の節がこの御言葉でした。私はこの節を朗読しながら、新たな感慨にとらわれたのです。そのことは最後に触れるとして、詩篇40篇に関して、少しばかり過去の記憶をたどらせていただきます。

 想えば、1990年教会を出て、出たはいいけれども、頼るべき何物も持ち合わせず、不安のどん底に落とされていた時に、主が私の心の内側に向かって静かに語りかけてくださった御言葉がこの詩篇40篇だったのです。

 その当時も今と同じように家内と一節ずつ交互に輪読する習慣を持っていました。ところが、ある日の朝、私は一節ずつ読み上げるごとに、己が罪が示される思いがしてならなかったのです。もう逃げも隠れもできない、私の主に対する不信仰の思い・罪(主を信じていると言いながら、そのくせ心の底では信じ切っていない罪)が、白日のもとに全部曝け出された思いがしたからです。しかし、読み進めて行くうちに、そんなどうしようもない私を主なる神様は赦してくださっていたのだという、まったく思いもかけない主の愛に満たされて、私のうちにとめどもない「悔い改め」と「感謝」の涙となって溢れ出て来たのです。一緒に輪読していた家内にはどう映ったかわかりませんが、私は恥も外聞もなく、ただ泣き伏すばかりで、声にもならず、この詩篇40篇を何とか最後まで輪読し終えることで精一杯だったのです。その中でも中心にあった御言葉は次のものでした。

あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえもお求めになりませんでした。(詩篇40篇6節)

 今から振り返ってみると、当時、私の問題点は、クリスチャンらしく歩まねばならないという思いに囚われていて、主なる神様であるイエス様が私たちの罪滅ぼしのために十字架上で流された血潮の価値について考えることも、もちろん感謝することも少なかったように思います。その私に主なる神様はこの6節の御言葉を通して、「あなたのいけにえは必要なし、わたしがあなたの罪のいけにえになっているのだよ」、と語りかけてくださったのです。

 全く有難いことでした。それだけでなく、さらに12節の御言葉を通して自らの罪をはっきりと自覚したのです。

数えきれないほどのわざわいが私を取り囲み、私の咎が私に追いついたので、私は見ることさえできません。それは私の髪の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました。(詩篇40篇12節)

最初、私が自覚した罪・咎は一つか二つほどでした。しかし詩篇の作者は、「私の髪の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました。」と言っているではありませんか、私のいい加減な悔い改めでなく、作者は全面的な悔い改めの告白をしているんです。そして、もうここまでくれば、主なる神様の前に、私は「全面降伏」をせざるを得ませんでした。さらに御言葉は次のように語っていたのです。

あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「主をあがめよう。」と、いつも言いますように。(詩篇40篇16節)

「これだ!」、と思いました。教会生活に別れを告げ、行き先も知らず出てしまった私に対して、この御言葉ほど慰めに満ちた御言葉はありませんでした。ここでは「慕い求める」人、「救いを愛する」人がいるのです。これからは私も心を入れ替えて、自己中心の自分でなく、主を中心とした集まりを、持たせていただきたい、その群れを主は喜んでくださるのだという確信でした。

これぞ、教会生活に別れを告げた私に対する主の餞(はなむけ)の言葉でした。

 そうして、集会生活34年は、とっくの昔に教会生活20年を凌駕する年月を経てしまいました。そして集会生活において、再び、教会生活では想像もし得ない問題、異なる問題に今度は悩まされるようになりました。そうした挙句、私たち集会の原点は何であったのかという熱心な問いが今週の水曜日(13日)のリフレッシュ集会でも出されました。私も当事者として発言を求められましたが、そこでは必ずしも適切に答えられたわけではありませんでした。

 その翌朝、14日の朝にたまたま開かされた聖句が『日々の光』が提供する冒頭の短い御言葉でした。私は34年前に味わった詩篇40篇が、どうして最後このような「あなたは私の助け、私を助け出す方。わが神よ、遅れないでください。」という嘆願で終わっているのか長年疑問を持ったままで、それ以上考えようとはしませんでしたが、34年目にしてこの御言葉に対して初めて真正面に向かえるような気がしたのです。この嘆願こそ、やはり詩篇40篇が必要としていた人の思いが集約されていると受け止められたからです。34年目にして初めて知る発見でした。

 このように、聖書は慣れ親しんで、その挙句、古びて滅び去るものではありません。慣れ親しめば、慣れ親しむだけ味が出てくるものです。そして必ず、「悔い改め」と「いのち」に連なるより一層の「喜び」を保証する「神の言葉」です。これからもこの聖書といういのちの糧をいただきながら歩みたいと念じております。それだけでなく、一人でも多くの方が聖書に親しまれ、今生かされている主のいのちの恵みを体感されんことを切に祈っております。

※かつて、私は『日々の光』の原書にあたる英語版『DAILY LIGHT』を古本屋の捨て本の中に見つけ、百円で購入したことがあり、その表紙扉に1794年と記してありました。230年前のその年号がその本の出発点でないかと睨(にら)んでおりましたが、不思議なことに、昨日『日々の光』の日本語版でご尽力いただいたK氏とそのことをふくめてお電話でお話しする機会を得ましたが、まさにその通りでした。K氏によると日本では大正14年ごろに文語訳聖書を基にする版が邦訳されていたのではないかということでした。このように、今や私たち、日本のキリスト者にも、お馴染みの本になっていますが、元をただせば、イギリス・ロンドンのSAMUEL BAGSTER AND SONS LIMITED社が1794年に編集し発行したものであります。だから、全聖書からのバランスの取れた適切な引用に満ちている、この手軽な本は、サムエル・バーガー父子の大変な祈りによる犠牲があったものと推察し、その存在をK氏とともに主に感謝したことでした。

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。(新約聖書 2テモテ3章16節)

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。(旧約聖書 詩篇119篇105節)

2024年5月19日日曜日

復活の予測(下)


今日は聖霊降臨日でした。イエス様が復活されたことを記念したのは3月31日(日)のことでした。そして、今日5月19日(日)は、そのイースターの日から数えてちょうど50日目になります。聖書の示すところにしたがえば、イエス様は復活して「四十日間」人々に姿を現わされ、そののち昇天されたとあります。その上、昇天の前には、「わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」と言われました。昇天されてから、10日間、人々はじっとこの約束を待ちました。そして、この日曜日についに聖霊が約束どおり降ったのです。今日の礼拝は、そのことを味わわせていただく礼拝でした。

礼拝を終えて、外に出たところ、一羽のカラスが案内板を伝い歩きをしているのがなぜか目に留まりました。案内板の文字とちがい、そこに命のあるものが(現実には烏なんですが)私に手招きしているように思え、烏のあとに一緒について行きたいな、と一瞬思わされました。

それにしても一般にカラスは印象がよくないようですね。しかし聖書には12個所の引用がありました。中には「その頭は純金です。髪の毛はなつめやしの枝で、烏(カラス)のように黒く」(雅歌5:11)とイエス様の姿の美しさをたとえるのに用いられたりしていました。もちろん、「烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、烏よりも、はるかにすぐれたものです」(ルカ12:24)という有名なイエス様のお話があります。

イースターの日から、この五十日間はほぼ、「復活」に集中してメリル・C・テニーの『キリストの復活』を転写してきました。実際は34日、それに割くに留まりました。転写しながら、復活されて四十日間という期間はいかにも長い間なのだということを身をもって実感し、この揺るぎない証拠のうちに宣教は続けられてきたことを思いました。その転載も、今日で終わりです。最後に全内容を振り返るため、章立ての題名を掲げておきます。

第1章 復活の事実
第2章 復活の予測
第3章 復活の信仰
第4章 復活の自由
第5章 復活の効力
第6章 復活の熱情
第7章 復活の不屈の精神
第8章 復活の最終目的

長い間お付き合いくださりありがとうございました。

もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。(新約聖書 1コリント15章19〜20節)

以下は「復活の予測(下)」です。

 復活の思想が強く含意されているのは、イザヤ書のしもべの預言である。これらの預言をメシヤ預言とすることは、それらを直接キリストに当てはめる新約聖書で、豊富に確認されている。主イエスは、ナザレの会堂で最初の公開説教をしたとき、イザヤ書61章を引用され(ルカ4:16〜19)、ピリポは宦官に、イザヤ書53章を説明して、「イエスのことを宣べ伝えた」(使徒8:26〜35)のである。イザヤ書53章の、しもべの死の叙述の中には、次のような言葉がある。

彼の墓は悪者どもとともに設けられ、
彼は富む者とともに葬られた。
彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。
しかし、彼を砕いて、痛めることは
主のみこころであった。
もし彼が、自分のいのちを
罪過のためのいけにえとするなら、
彼は末長く、子孫を見ることができ、
主のみこころは彼によって成し遂げられる。

 この聖句によると、彼の墓はしつらえられてあり、彼は死に、葬られる。しかも、彼は「末長く、子孫を見ることができ」るのである。この逆説は、どうすればほぐされうるであろうか。答えは、復活だけに見いだされるであろう。それは、預言の成就である。墓は、悪者どもとともに設けられた。と言うのは、アリマタヤのヨセフが埋葬のために自分の墓を提供したので、「富む者とともに葬られた」と言いうるのであるが、そうでなかったら、イエスのからだは、疑いもなく、陶器師の畑に捨てられたと思われるからである。復活において、彼は再び生命に復帰した。そして彼は、子孫を見、彼の命を長くすることもおできになった。しかも、主のよろこびたもうことが、彼の手によって盛んにされたのである。

 ヨナの例は、主イエスご自身によって、ご自分の復活の表象として引用されている。この預言者が、三日三晩大魚の腹の中にとどまっていたように、主ご自身も、死にのまれるが、ついには再起すると言われるのである。イエスはこの聖句を、直接的預言としてよりも、一つのしるし、または例証として引用しておられる。しかし、それにもかかわらず、これは、イエスが死のあごから解放されることを、鮮明に描いて見せてくれるものである。

 最後の預言は、ある点では、すべてのうちで最も劇的なものである。ゼカリヤ書12章10節で、預言者は、未来の主の日についてしるしているのであるが、そこで彼は、エホバの言葉を次のように表現している。

わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。

 この聖句は、ヨハネによる福音書19章37節に、直接、イエスの十字架と死とを預言している言葉として引用されている。しかし、エホバなる神は、これを、最後の勝利の日におけるご自身に適用されるものであるとしておられる。そのうえで、イスラエルは、栄光の中に現われたもうかたを刺した者として悲しむ、と主張されているのである。カルバリの十字架において死に、ヨセフの庭園に埋葬されたかたが、再び栄光の中に現われたもうということは、両者の間に復活が介在するのでなければ、どうして可能とされるであろうか。この結論は、推論の域を出るものではないが、現存する聖書の光に照らして考えるとき、その復活は妥当とみなされうると思われる。

 このようにして、律法と詩篇と預言書とに見られる預言の声は、十数世紀にわたり、あらゆる異なった環境の中で語られたものであるにもかかわらず、次の点ーーよみがえりのあがない主が、人類にのしかかっている死ののろいを退けられる、このよみがえりの初穂が、神の子たちのより偉大な収穫の前兆であられる、このよみがえりの聖者が、永遠のいのちに対する私たちの切望をかなえて下さる、このよみがえりのしもべが、私たちの罪責の全きあがないを成し遂げ、神の目的を成就される、そして、よみがえりの主なるエホバが、仰天し悔悟したイスラエルにご自身を啓示される、という点ーーでは、一致したあかしをするのである。

きたれ なんじら忠信なる者
奏でよ そのよき調べ
勝利の喜びの歌を。
悲しみより喜びに入らしめ
神 イスラエルを導きたまえり
パロのくびきより
ヤコブの子らを解き放ち
その足を ぬらさずして
紅海を 行かしめたまえり

キリスト その獄(ひとや)を破りて
死の眠り三日にして
日のごとく立ちたまいぬ。
こは きょう迎えし心の春
長く暗きわが冬の日は
すべて 御光の前を過ぎ去り
われら たたえの歌を
とこしえにささげん。
        (ダマスコのヨハネ)

2024年5月18日土曜日

復活の予測(中)

水田に カルガモ夫婦 見つけたり

昨夕は泥田に首を突っ込んで、脇目も振らず、一心に獲物を探索している二匹の鴨を、古利根川の下の水田で見かけました。一口に「かも」と言っても、渡り鳥の雁もいれば、留鳥であるカルガモもいるんですね。鴨群の生態、識別も知らず、一喜一憂しすぎておりました。

さて、今日5月18日は私どもにとっては忘れられない日です。11年前、次男の妻が日本への帰国の際、武蔵小金井駅で倒れ、人事不省のまま多摩総合医療センターに救急入院し一命を取り留めることができた日です。研究者として将来を嘱望されていた彼女にとり、今もその病との戦いは続いていますが、幸い主イエス様にあって守られているようです。

カルガモ夫婦の進む泥田を見ながら、私は11年前に襲った次男夫婦の悲哀、またその折り信州の平原付近の車窓から撮った水田を思い出しました。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2013/05/blog-post_25.html 「復活」の日を待ち望んで、今も孤独な研究を続けている彼女のために、祈っていてくださる僚友に感謝します。

さて、本日の本命である『キリストの復活』の「復活の予測」は昨日に引き続いてお送りする(中)篇です。最初の数行の出だしこそ意味がよくわからない文章ですが、それ以外はよく意味が通る文章で、旧約聖書において、「復活」がどのように預言されているかを、新約聖書と関連付けして丁寧に教えてくれます。

 このような先験的な推理は、必ずしも常に正しいとは言えない。経験は、理論的には正しくなければならない多くの事が、実際においては正しくない、ということを教えているからである。他方で私たちは、イエスがその生前に、復活の必要を説いておられたことを知っている。サドカイ人が、律法の推論的解釈を根拠に、復活の教えに反対したとき、イエスは、「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです」と言われた(新約聖書 マタイ22:29)。今、彼が聖書に基づいて復活を教えておられたとすれば、その教えは、みことばの中に含まれていなければならない。したがって、私たちは、その預言を、新約聖書のそれに対応する教えに照らして捜し出すとしても、不当な事をしているとは言えないのである。

 それでは、この個所とは、どのようなものであろうか。

 記録によると、最初のメシヤ預言は、創世記3章15節の原始福音である。

わたしは、おまえと女との間に
また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
敵意を置く。
彼は、おまえの頭を踏み砕き、
おまえは、彼のかかとにかみつく。

 ここに描写されている人物は、一庭師である。彼は有毒のヘビを行く手に見て、その頭を砕いた。しかし、そのかかとに、毒牙を受けてしまったのである。この本文には、いくらか復活に関連性のある内容が含まれている。

 第一に、この約束は、罪を犯して死に定められた者にとって利益となることに言及している。アダムは、「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」と言われていた。しかし、ヘビの頭が砕かれたのなら、救いは約束されたのである。そして、救いの手が伸ばされるためには、あがない主は、死を克服することのできるかたでなければならない。

 第二に、その人物は、へびの毒牙にかかった。しかも生き延びて、それを押さえてしまったのである。キリストは、へびの一撃を受けてどのようにして、なお生き続けることがおできになったのであろうか。復活は、その回答である。

 創世記22章に見られる、モリヤの山でのイサクとアブラハムの例話も、世継ぎの子(すえ)の死とそれに次ぐ生還を描いたものである。もちろんイサクは、実際には死んでいない。死ぬ者と見なされたにすぎない。それにもかかわらず、彼がメシヤ、すなわち選びのすえを代表する者であって、ヘブル人への手紙の記者によれば、神が彼を「死者の中からよみがえらせる・・・イサクを取り戻した」(ヘブル11:19)と言われているのは、注目に値することである。この個所は、このように、非常に明白な平行関係があるにもかかわらず、新約聖書の記者のだれによっても、特にキリストに適用されるべきものとされてはいない。

 メシヤ預言の流れの中で、次に、明白な言明にぶつかるのは、モーセの五書の終わりのほうに記録されている、ユダヤの儀式の象徴においてである。レビ記23章には、「主の定めの祭(例祭)」として、三つの祭がしるされている。第一の過越の祭は、身代わりの犠牲と罪からの分離とについて語っている。第三の揺祭(ようさい)、パンをささげる祭は、五旬節すなわちペンテコステの祭である。この二つの間に、初穂の祭がある。この祭は、過越の祭から数えて三日目にとり行われる。それは五旬節から数えると、五十日前になる。この穀物の収穫の初穂は、種を埋めたあとで、生命が帰って来たことを示す最初のしるしとしてささげられたもので、祭りにおいては、犠牲の燔祭もささげられた(レビ23:9〜14)。

 この記録を、復活と比較していただきたい。復活は、過越の犠牲が死に渡されてから三日目のできごとである。また、五十日後には五旬節が待っていた。それこそ、死の中から出て来る新生命の先ぶれ、また象徴であった。主イエスは、この光景をご自分に当てはめて言われた。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(ヨハネ12:24)。パウロも、「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」と宣言したとき、同じたとえを用いていた(第一コリント15:20)。おそらくこの象徴は、彼が、旧約聖書のこの個所に対するイエスの解釈を知っていて、使用したものであろう。自然界の収穫が、土壌の水気や特性をもってしてはついには押さえきれない不屈の生命力を物語っているように、キリストの復活は、あらゆる墓の拘束力を打破しうる、神の生命の力を実証したものなのである。メシヤは、そのメシヤ性を証拠だてるために、そのような力を示威することを必要とされたのである。

 神政政治の時代が過ぎて、王国の創設を見るようになると、預言は、イスラエルの生活において、いっそう重要性を増してきた。そして、その先見者たちのうちで、最初の人々のひとりと目された預言者は、ダビデ王であった。詩篇16篇は、このダビデの霊的な渇仰を記録したものである。彼は「ゆずりの地」と「好む所」を慕うが、それにもまして、来世に生き続けることを願っている。そしてその言葉は、彼が大胆に次のように主張するとき、その渇仰を素通りして、先に進むのである。

まことに、あなたは、私のたましいを
よみに捨ておかず、
あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
あなたは私に、いのちの道を
知らせてくださいます。
あなたの御前には喜びが満ち、
あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。
              (詩篇16篇10〜11節)

 ユダヤ人は「よみ(隠府)」を、第一義的に刑罰の場所と言うよりは、善悪を問わず、単なる死者の霊のいこう場所と考えていた。たとえば、ヤコブは、自分のことを、「よみ」に行く者と考えている(創世記37:35)ユダヤ人が、「よみ」とはすべての魂が等しく行くべく定められた所と考えていたことからすると、この預言は、驚くべき響きをかなでているものとなる。それは、死からの救いと、死後の高揚とを歌っているからである。魂を、暗い陰の国にとどめておかなくてもよいばかりか、肉体を墓の腐敗のままにする必要もないのである。

 しかしながら、新約聖書は、この詩篇16篇の言葉を、キリストの復活だけに限定している。ペテロもパウロもともに(使徒2:25〜31、13:35)、この個所を、ダビデがメシヤの復活を預言したものと解釈している。この預言は、新約聖書の記者たちがひるまずに宣言しているように主イエスによって成就を見たのである。

 ダビデ王国より後の時代に書かれた他の詩篇も、同じ希望を反映させている。詩篇49篇15節は「神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ」と宣言しており、また、アサフの詩と言われる詩篇73篇24節は、「あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう」と言っている。これらの聖句は、詩篇16篇の言葉のような適確性を欠いてはいるが、詩篇における復活概念を強化する上では、十分な力を持つものである。

 預言者の著作の中にも、この題目に言及しているものが幾つかある。ホセア書6章1、2節は、イスラエルの国が次のように言うと述べている。

さあ、主に立ち返ろう。
主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、
私たちを打ったが、
また、包んでくださるからだ。
主は三日の後、私たちを生き返らせ、
三日目に私たちを立ち上がらせる。
私たちは、御前に生きるのだ。

 この句をあまり強調することは、許されないであろう。第一に、それは第一義的には、個人にではなく、イスラエルの国に適用されているからである。第二に、その適用は、死からの復活と言うよりは、罪からの回復に限られている。第三に、それは新約聖書の中で、復活の預言としては直接引用されていない。他方、ホセア書11章1節は、明らかに国家に適用されているにもかかわらず、マタイによる福音書2章15節では、メシヤに関する預言とみなされている。しかも「三日目」という言葉は、旧約聖書では、復活をまっすぐにさし示すものとしては、前掲のホセア書6章2節だけに用いられている。もし、ホセア書11章1節が、間接的にキリストの預言として与えられているのなら、この個所もそうと考えられるであろう。

2024年5月17日金曜日

復活の予測(上)


今日は変な組み合わせの写真になってしまいました。ご容赦下さい。

左側は、私がこの一月半余り転写しております、メリル・C・テニーの本です。わずか100円の昭和37年(1962年)発行の、見るからにくたびれた本です。今ではメリル・C・テニーという人物を知る人も少ないでしょう。その上に、この『キリストの復活』という本をどなたが翻訳されたのかも「いのちのことば社出版部」と明示されてはいますが、個人名は省かれております。おおよそどなたが翻訳者なのか何となく見当はつくのですが。なのに、私はこの本を今から54年前、昭和45年(1970年)に手に入れていながら、しっかりと読んだ覚えがありませんでした。それで、今年のイースター(復活祭)の日から今日まで、一念発起して、いちいち転写して参りました。四月一日以降のブログはその成果です。

一方、右側は明治年代に、私から見ると「祖父」の代にあたる人物が18歳の時、横浜で丁稚として働いていたのでしょうか、その時彼にはこの本は高嶺の花だったのかもしれません、向上心よろしく『福翁百話』を墨筆で和紙に写し取っていました。いつの頃か、この和綴の冊子を倉の中に見つけた時、私はそのようなものが家にあることに驚くとともに、明治年間の福澤諭吉に対する庶民にまで及ぶ熱意と明治時代の息吹を感じたものです。

それが根底にあるのでしょう。私には転写は苦にはならないのです。今回、『キリストの復活』を転写して、私には大いなる財産になりました。著作は初めから終わりまでしっかり読まないとその本に対する正当な評価はできないと常々思うことにしています。メリル・C・テニーはこの本で、全部で8章に分けて、「復活」という私たちにとって最も大切な事柄を微に入り細に入り多方面から全聖書を縦覧して述べております。残念ながら、私の短慮で第二章の「復活の予測」というテーマの文章を全部割愛してしまいましたので、今日から三日間で転写したいと思います。引き続き忍耐をもってお読みいただければ感謝です。ご存知、最初は、エマオの途上での出来事から始まります(ルカの福音書24章13節以下の記事)。

キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり・・・(新約聖書 ルカ24章46節)

 あの十字架刑の行なわれた次の週の最初の日、ふたりの旅人が、エルサレムからエマオに向かって、いかにも疲れきったような、重々しい歩みを続けていた。昼下がりの太陽がじりじりと照りつけ、ふたりは、ひどく意気阻喪しているように見えた。先週、事態があまりにも唐突に変転し、また現に、彼らの感情があまりにも高ぶっていたので、彼らは、そのときもうひとりの人が加わり、自分たちと歩みをともにしているということにさえ、気づかないありさまであった。ふたりは、その人から、彼らの話題について尋ねられたとき、ぎくりとしたかのように立ち止まった。その人が、エルサレムで起こったばかりのできごとについて、知らないはずはない、と思ったからである。

 その人が同情的に見えたので、ふたりは、胸の中の思いを彼にぶちまけて話した。それは、ナザレのイエスが、彼らの指導者、また友人であったということについてであった。彼はその行ないのゆえに、すべての民に歓呼の声をもって迎えられた預言者であった。それなのに、役人たちは彼を死に定め、十字架につけてしまったのである。彼らの失望の激しさと、やるせない気持ちとは、「私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました」(ルカ24:21)という言葉に、如実に物語られていた。彼らは、この人こそメシヤであり、彼らの国に霊的政治的な解放をもたらす救い手にちがいないと、期待をかけていたのであるが、十字架は、すべての希望を水泡に帰させてしまったのである。十字架につけられてしまっては、預言者といえども、何をなしえようか。そればかりでなく、預言者たちの描いている、鉄のつえをもって諸国を治め、陶器師の器のように彼らを打ち砕くと言われるメシヤ像に、どうしてかなうと言えようか。彼の最後は、どんな点からも、預言の描写と似合わず、彼らは、自分たちの誤解を認めざるを得なかったのである。

 ふたりはもちろん、墓に行った何人かの女たちが、イエスは生きておられると告げた天使たちの幻を見たと言っていることを知っていた。この証言を彼らがどう思ったかは、「イエスさまは見当たらなかった」と言う、きつい言葉で明らかである。この言葉は、このふたりに復活を確信させるには、人づての証拠以上のものが必要であるということを意味している。彼らは、イエスはすでに死に、その最後は、彼が待望されていたメシヤ預言の成就であるという事実を排除するものであると、堅く信じていたのである。

 だが、この見知らぬ人は、彼らの見解には同調せず、かえって、きびしく彼らを戒めた。

ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。(ルカ24:25〜26)

 それから、モーセをはじめ、すべての預言者の、キリストについての聖書の預言を、ふたりに説明した。この説明の中に復活のことも含められていたことは、主イエスが次の機会になさった宣言によってはっきりしている。

「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、・・・」(ルカ24:44〜46)

 このふたりを絶望に陥れていたあやまちは、聖書の預言の不十分な理解にあった。彼らが見ていたのは、メシヤが栄光のうちに来られるという事実だけであった。彼らは完全に、メシヤの受難と復活とに関する預言を見落としていたのである。このとき主イエスが試みられた話は、彼をメシヤとして信じようとした彼らの根拠を破壊するかに見えた一連の騒乱が、実に、預言の言葉の正確な成就である、ということを彼らに悟らせ、彼らの心を再び落ち着かせようとしたものである。

 イエスがそのとき説明された聖書の個所がどこであるかは、知られていない。特に、復活の預言として旧約聖書のどこが使用されたのかは、全く私たちの推測に任されている。だいたい、ユダヤの聖書には、このような現象に直接言及した個所が、ごくわずかしかない。そしてそれを教えている典型的な例で、ここに当てはめられるような個所は、確信をもってこれと言えるものがないのである。しかし、そうは言っても、主イエスは、「キリスト」という用語を用いて、明確に、復活の預言はメシヤ預言に関係あるものであるとされた。私たちは、きたりたもうかたに関する預言の系列の中に、復活の、少なくともある暗示はあるものと思わなければならないのである。更に、「四十日」間になされた主の教えが、後日使徒たちがした教えの中に反映されているであろうということも、十分に考えうることである。そうだとすれば、旧約聖書のメシヤ預言を、新約聖書でメシヤが語られた説教と関連させてゆくことにより、旧約聖書の中で復活に関係のある個所は、しだいに知られてくると思われる。

2024年5月16日木曜日

復活の最終目的(3)最終的満足の完成


今日は30年以上前に教会で親交のあった方から、お手紙をいただきました。たまたま半年ほど前にその方と路上でお会いし、翌日には春日部から他都市に引っ越されると知り、それでは永遠(とわ)のお別れになっては大変だとばかり、急いで私たちの証の載っている冊子を家に取りに帰り、慌しくしていらっしゃるお宅のポストに投函しました。その後、どうされたかとは思っていましたが、それ以上お尋ねすることもありませんでした。

その方が自筆の美しい便りを便箋4枚にびっしりと書いて近況をお知らせ下さったのです。そのお手紙の端々に現れているのは、その方の主への感謝の思いでした。長年、信仰に反対してきたご主人が、病を得て車椅子に頼らざるを得ない日々の中で、「礼拝に出たい」と言われ、結婚後50年にして、初めて夫婦で近くの教会の礼拝に出られるようになったというお証でした。心温まる思いにさせられました。

昨日は昨日で、もっとも近隣にお住まいで毎日のようにお交わりをいただいている方が、定例の家庭集会の場で(多くの皆さんの前で)正直な証をなさいました。ネットで全国の多くの方がそのお証を聞いてくださっていると思うと、これまた嬉しい思いにさせられています。

思いもしない恵みは主から一方的にいただけるものなんでしょうか。今日お載せしました「すみれ群」は一週間ほど前に古利根川の上流の河辺に忽然と私の目の前に現れた感のあるひとり生えの花です。さて、以下は『キリストの復活』の最終稿です。黙示録22章についてメリル・C・テニーによる的確な「神の都」と「復活」の関係が読み取れる論考ではないでしょうか。

 人生のおもな価値の一つは、それによって望みがかなえられるということである。願望の充足ということは、それ自体が悪であることはないが、ただ、神の位置を侵すならば悪となる。しかし、正当な生活欲求は、満足しうる回答を得るなら、快楽を味わわせてくれる。確かに神の都は、回教の言う楽園のように、この世で知られているあらゆる欲望やあこがれを、無制限に満足させてくれるものではない。イエスは、復活において、私たちの構造そのものが全く変わってしまい、ちょうがいも虫の生活を熱望することがないように、私たちは肉的な欲求を持たなくなる、と言っておられる。しかし他方、黙示録22章2節で「 毎月実ができた」と言われている木は、おそらく、永遠の、しかも飽きさせることのない快楽を描写しているものであると思われる。あきあきすることのない満足、けん怠を伴わない享楽こそは、私たちの分け前なのである。

 しかし、満足な願望の充足だけを意味するものではない。それ以上のものである。それは物事を、達成を見るまで建設的に助成する。人は、夢に描いた完全な絵をかき、完全な調べを作曲し、完全な大教会堂を建設しようとする。それに比べて啓示は普通、私たちの夢よりはずっと保守的である。しかもそれは、次のような含蓄ある言葉を言明しているのである、「もはや、のろわれるものは何もない」、また、「しもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る」。

 「もはや、のろわれるものは何もない」。(黙示22:3)。これは、創世記3章17〜19節に直接言及した言葉である。「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない」。

 のろいは、労働しなければならないという点にあるのではない。労働は、人が罪を犯す前にもあった。のろいは、労働の不毛性にあるのである。雑草や害虫、洪水や酷暑に戦いをいどまれ、最後に人間は、自分がしてきたのはただ、単調なほねおり仕事を長びかせただけなのではないかと思いながら、その生涯を閉じるのである。復活が開放してくれる世界では、このすべてが変えられる。のろいは解かれる。それで労働は、障害や失敗を見ることなく、十分な報いをもたらすようになる。農夫が、すべての穀粒があふれるばかりの収穫をもたらし、生産者が、きず物や不できの物を決して造らず、あらゆる努力が、それ相応の結果を確実に望むことができるとしたら、なんとすばらしいことであろう。きたらんとする神の経綸の中では、まさにこのような事が約束されているのである。

 「しもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る」(黙示22:3)。この究極の状態は、無気力な静止状態を物語るものではない。天国を、肉体を離脱した霊が、雲に乗って、ハープの弦をかなでながら、とりとめもない歌を永遠に歌っている場所として描くのは、とんでもないまちがいである。それはまさに戯画であり、また、真理にはほど遠い描写である。ここにあげた聖句は、積極的な活動を呼びかけている。神への礼拝は、天的楽しさの一断面以上のものだからである。確かに、そこでは、地上では知りえなかった敬けんさと献身とを伴う神礼拝と神への賛美とがささげられるであろう。しかし、そこには、他の活動の余地もあるのである。それがなんであるかは、まだわからない。それが、私たちが宣教師になって他の宇宙に行くことなのか、それとも、かつては想像することもできなかった資源や動力を用いて、全く新奇な世界の探検に乗り出すことなのか、などと推測したりすることは、愚かさの限りである。その事はまもなくわかる事なのである。疑いもなく、神は、それが明らかにされるとき、私たちを驚かせ、喜ばせようとして、それを今、秘密としておられるのである。しかし、一つの事だけは確実である。私たちの労働が、積極的、永遠的な価値を持つものとなるということである。そして、すべてがこのようにして最後的な完成を見る生活に到達するためには、復活の門を通らなければならないのである。

 もう一つの事だけを補足しておく。その満足は決して尽きないということである。「彼らは永遠に王である」(黙示22:5)。「よい事にも終わりがある」という格言がある。この世においては、これは真実である。きょうあった式典の感激は、あすの苦労にあえばたちまち忘れ去られてしまう。きょうの勝利で味わった満足も、あす敗北のうきめにあえば、その実を失ってしまう。一人物が勤勉さと好首尾とによって建て上げた事業も、後継者によってたちまち衰微、没落させられてしまうかもしれない。成功と失敗、勝利と敗北、目的達成と挫折は、寄せ来る海の波の連続のようなものである。ある一つの方向に、不断の、尽きることのない進歩を見ることは、この世では不可能なのである。しかし、神の都では、私たちは、栄光から栄光へと進む。「王である」とは、勝利の生活の不断の連続性を意味するものである。

 それは、神の復活の最終目的である。しかし、地上の物語との関係においては最終的なものでも、復活は、あがないが私たちに提供しているものとの関係においては、また第一歩を画するものでしかない。黙示を仰ぎ望んだ預言者は、見たことすべてを言葉に写す力を持っていなかったようである。そして、彼が用いえた、可能なかぎり強烈な色彩の言語で着色した絵画は、事実、現実にそぐわないものであると言われなければならないのである。しかし、その現実は、信じえないものではない。私たちは、もし、イエス・キリストの肉体の復活を信ずることができるなら、同じ原理によると言われているのであるから、世界の復活を信ずることもできるのである。また、もし、自分の新生と、現在における神との交わりの経験を通して、神の力をすでに味わっているのならば、神が個人に対してなさったことを、宇宙的な規模でもなさるにちがいないということを、信ずることができるのである。神は、「ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました」(新約聖書 第一ペテロ1章3節)。

 バンヤンが、歓喜山の頂からはるかに天の都の輝く塔を望み見たとき、彼の旅路が新しい勇気に満たされたように、私たちも、霊的ビジョンを得さえすれば、この悪と戦いとの世界の中で、神の都のきらめき、復活の福音の最終的栄光をそこに見ることによって、百倍もの勇気をいただくことができるのである。

乳と蜜との流るる国
黄金のエルサレムよ
深き御計らい覚えて
ただ黙して 声をのむ
われ知らず われ知らず
そこに待つ喜びを
栄光の輝きを
また たぐいなき祝福を

慕わしき 祝福の国
神の選びたまえる家よ
熱き心もて われらは待つ
慕わしき 祝福の国
父なる神 御霊とともに
あがめられたまえる
わが主イエスよ
あわれみをもて
安きに導きたまえ

2024年5月15日水曜日

復活の最終目的(2)環境の最終的完成


今朝は、「母の日」に長男から贈られてきた花を窓辺に出して写真を撮りました。その日、お礼の電話をかけた家内に対して、長男は、「明るい花々を見て、少しでも晴れ晴れとした気持ちになって欲しいから」という意味のことを言いました。その言葉はいつまでも私の心に残りました。それに対して贈られてきた花々を見ることをうっかり忘れていました。庭には様々な花々が次々と咲き揃っており、いつもそちらの方に心を奪われていたからです。でも今朝は、違いました。外気の色とりどりの爽やかな庭を向こうに追いやり、室内のその花を手に取って眺めてみました。愛の表れである幾種類もの花々がそこにありました。贈り主の愛を改めて一つ一つ実感したことです。

さて、主が私たち罪人に対してご自身の復活を通して最終的にくださる愛はどのようなものでしょうか。メリル・C・テニーは、昨日は、まず第一に礼拝の最終的完成がなることを述べました。今日のところでは私たちの生活環境が最終的完成を見ると語っています。どのようなことでしょうか、お読みくだされば幸いです。なお聖句は引用者の判断で付け加えました。

 環境が人生に作用し、無意識のうちにも態度や思想を条件づけることは、言うまでもない。三人のむすこを持つある母親の話がある。むすこたちは三人とも、家を去り、船乗りになっていた。母親は、その寂しさを、ある訪問客に、悲しそうに訴えた。

「どうしてみんながうちを飛び出したがるのか、わたしにはわかりませんわ。できるだけの事をして、楽しませてあげましたのに。とにかく、わたしは、この年老いたわたしを慰めることも考えてほしいのですが・・・」

 しかし、訪問客は、少しも驚いた様子を見せない。ちょうど暖炉の上には、まっ白い帆をいっぱいに張った船の絵が掛かっている。マストの上に飛びかける空の鳥を背景に、全速力で海をすべって行く絵である。彼はその老母に、「それはあの無言の絵が、お子さんがたの心の中に、それが物語っている生活へのあこがれを植え付けたからなのですよ」と語った。確かにそのむすこたちは、彼らの環境のこの部分が心の中にかきたてたあこがれに抵抗することができなかったのであった。

 いろいろな意味において、私たちはその環境の産物である。もしそれが、卑しくさもしいものであれば、私たちはがさつで不甲斐のない者になるかもしれない。子どもを貧民くつで育てるならば、彼らは貧民くつの道徳を身につける。中には、泥沼のすいれんのように、環境を超越した人も出るであろう。しかし、大多数の人は、水のように低きを求めて、人間性を失ってしまうのである。親ならばだれでも、子どもたちが自分と同様、またはそれ以上に、近所の環境に染まってしまうということを、知っている。

 ここでは罪の環境が私たちを囲んでいる。私たちはすでに内部にあがないをいただき、またキリスト者の社会は、悪しき世の中で義の小島を形成しているかもしれないが、それでも世界は、私たちにとって依然として手ごわい相手である。ジャズのすさまじい調べであるか、劣悪な小説であるか、野蛮窮まりない戦争であるか、風紀を乱す飲酒であるか、他の、私たちを取り囲む無数の何かであるかは問わず、それらは、私たちを、決定的にわなにかけてしまうことはないかもしれないが、いずれも、私たちの霊的生活を鈍らせてしまうものである。文明も、罪への運動作用を果たすことがあり、その最善の産物さえ、悪い動機や偽善性を表わすことがある。

 神の都は、私たちに、新しい環境を約束している。真珠の門や黄金の通りを文字どおりに取るべきか、それとも、預言者が幻で見た目もくらむような美しさを叙述するのに最善と思った手だてとだけ取るべきかは、ここでは問題にしない。それはともかくとして、神は、復活した信者に、神が彼らに植え付けたもうた霊的生命の純潔さを具現させているような環境を与えようとしておられることは、明らかである。新しい生活のためには、こうして、腐敗していないことは言うに及ばず、腐敗することもない環境が与えられるのである。それは、使徒と預言者の活動を土台とするものであり、その社会は、小羊のいのちの書に名を書きしるされた者たちだけのものとされる。復活はこのように、神の子たちを新世界に住みうる者とする、神の準備の、最後の段階を意味するものである。それは、永久に古い罪による環境をかたずけ、清潔ですばらしい世界に私たちを生まれさせるものなのである。

都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。都には大きな高い城壁と十二の門があって・・・十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。・・・すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。(新約聖書 黙示録21章11〜12節、21節、27節)

2024年5月14日火曜日

復活の最終目的(1)礼拝の最終的完成


今日は昨日の雨に比べて、爽やかな一日でした。二日続きの病院通いでしたが、今日のは心臓の動きを調べるための24時間ホルダーを提出するためでした。無事に提出し、帰る時、目にしたのが写真の絵でした。山本容子さんの「沼の花」という作品です。絵はさらに左の方に続いていますのに、一部だけで、作者には申し訳ないです。病院にこのような空間・絵があることはありがたいことだと思い、撮らせていただきました。お許しください。

夕刊には全国の介護保険料が月6225円に上昇したことが報道されていました。高齢化の進展で介護サービスの利用が増加しているのがその要因だそうです。認知症基本法元年の年、介護福祉の充実は国民的課題です。一方、私たち人間の霊的課題は何でしょうか。昨日に引き続いて「復活の最終目的」の「(1)礼拝の最終的完成」の部分を転写しました。お読みください。

 私たちの霊的生活は、すべて、完全な神との交わりを目当てとする闘争である。この意味では、誘惑や悪へのけしかけに満ちた罪の環境は、私たちの神へ向かう渇仰をとどめる、一種のブレーキである。天へ向かう旅路をきびしく貫こうとする気持ちは、しばしば、禁断の野で快楽の草花を摘む手を差し出すことによって、中断されてしまう。あとになって、誘惑に引いて行かれたことを自ら悔やむかもしれないが、それにもかかわらず、私たちの敗北は明らかであり、事実それによって私たちは、神のみそば近くいることができたのに、いられなくなったのである。私たちが、みそば近くに進んで行くとき、しばしば、自分の感じを表現できないこと、また、肉体の必要が思いと祈りの継続を中絶させることに気づく。私たちは幕を通して礼拝する。だから、幕の後ろに神のかたちを識別することはできても、そのおかげで、神からの明らかな光をいただくことはできないのである。復活だけが、その幕を永久に引き払ってくれる。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示21:3〜4)

 歴史のいかなる瞬間にも、神は、人とともに住むことを求めてこられた。それは。罪によって、実現をはばまれている。神は楽園に下って来て、禁断の木の実を食べたために恥を知って神から隠れていたアダムを捜し出された。また神はシナイ山においても、雲と雷鳴のうちに下って来られた。しかし、そのときにも人々は、恐怖にかられ、「神が私たちにお話にならないように、私たちが死ぬといけませんから」(出エジプト20:19)と叫んだ。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)のであるが、そこもやはり、彼が永遠にまくらしうる所ではなかったのである。聖誕の時には客間に彼のための余地がなく、説教の時は会堂に部屋がなく、教えをするときにも、宮は両替人でいっぱいで、彼のための余地もないありさまであった。ついに彼は、バラバの十字架にかかり、ヨセフの墓に葬られた。人間の罪の苦い皮肉は、それが、人間が必要とし、神が求めておられる交わりの道をふさいでいるということである。

 復活は、その事態を終わらせ、罪なき新しい世界を創始し、神が人と永遠の交わりを持ちうるようにするのである。そのとき可能になる礼拝においては、仲介者も儀式も象徴も、何一つ必要ではない。それは、神との直接の結びつきをもたらすのである。

 交わりが深められることを除けば、礼拝においてこれ以上の事を望むことはできない。復活は、最終的礼拝を可能にしてくれるものなのである。

2024年5月13日月曜日

復活の最終目的(序)


昨日は、ミンヘンママのお別れ会の席で、五女にあたるスーシーさんが挨拶された言葉を「母の日」にちなんで、ご紹介させていただきました。その中のポイントの一つは、主イエス様によって天国へと召された愛するお母様にご自分もまた天国で再会できるという主イエス様に対する感謝の表明だったのではないでしょうか。この確信を持つようにしてくださったのが、イエス様の十字架の死による私たちの罪の贖いと復活です。それゆえに、誰でもイエス様を素直に信ずる人はその場で直ちに、間違いなしに天国に行けるのです。それ以外の何の条件もいらないのです。

以前、と言っても8年前のことですが、ミンヘンさんの夫であるベックさんがその年の8月23日に召されるのも知らないで、私はその時、せっせとフランシス・リドレー・ハヴァガルの『霊想』を翻訳しながら、一方でそのお姉さんの「マライア・ハヴァガルの伝記」も併せて翻訳しては、このブログに載せていました。それは8月を遡ること、二ヶ月前の6月のことでした。私にとってその翻訳をとおしてキリスト者の死がいかに希望に満ちたものであるかを教えられた思いでした。そしてそれは私にとって、ベックさんの死に備える心の準備でもあったのです。ご参考のためにそのうちの一部6月15日の文章を紹介しておきます。お読みくだされば幸いです。

https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2016/06/blog-post_15.html

さて、しばらく、中断していた「キリストの復活」というメリル・C・テニーの著作の最終章「復活の最終目的」を引き続いて転写させていただきます。

すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする」(黙示21:5)

 ヨハネの黙示録は、絶えず、多くのキリスト者にとって、神秘的なものとされてきた。それをめぐって、ばかげているとしか思えないような多くの本も著された。しかし一つの点で、すべてのキリスト者は一致している。それは、最後の二章に描かれている神の都こそは、キリスト者の最後の状態だということである。その信仰は、ヘブル人への手紙では、「この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです」と表現されている(13:14)。そこに私たちは、アブラハムが求めた「堅い基礎の上に建てられた都」、またイエスが語られた「父の家」を見いだすことができるのである。

 神の都が、信者の最後に行き着く所であるとすると、それには必然的に、二つの結論が伴う。第一に、それが私たちの期待の目標であり、救いの冠である祝福を意味するものであるならば、それこそは、キリスト者の生涯の偉大な希望、また、動機を鼓舞するものでなければならない、ということである。ペテロは、私たちは「信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです」と言っている(第一ペテロ1:5)。そこは、私たちの市民権が登録されている真の母国であり、私たちはそれを今、外国にとらわれの身をかこつ者のように、仰ぎ望むのである。この地上の旅路を進めば進むほど、私たちは、この永遠の都の影を、熱心に捜す。神はこの国を、その贖罪の目的が完成される所として準備された。私たちはそこに行き着くまでは、完全にはならない。

 第二の必然的結論は、ここに言われている国にはいるには、復活を通して以外に道がない、ということである。文脈を注意深く見るならば、この事実が明らかになる。19章から21章8節までは、一連の不断の幻の進展をしるすものである。まず、神が大淫婦をさばき、小羊の婚姻の時をきたらせたもうという宣言がなされている。大淫婦によって特徴づけられる不敬けんな社会は除去され、ここに小羊の花嫁として表されている敬けんな者の社会が、キリストによって公に承認されるのである。

 征服者なるキリストが、次には、地をさばくために進み行かれる。地上の悪魔の使者たちは、そのとき火の池に送られ、悪魔自身は、「底知れぬ所」(黙示20:1、3)に閉じ込められる。キリストの支配の次には、サタンが解放され、断罪される。それからいよいよ、死せる者の大審判である。大いなる者も小さき者も、御座の前に立ち、開かれた書物にしたがってさばかれる。このさばきの恐ろしさは、「地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった」(黙示20:11)と言われているほどである。この審判に続くものが、新天新地の創始と神の都の下降である。

 この神の都が、祝福のうちに死んだ人々が現在いる所でないということは、次の二点から明らかであろう。第一は、それが大きな白い御座の前での審判の後のものであるということ、第二は、その前に復活が起こらなければならないということである。

 黙示録21章9節から22章5節までにある都の叙述が、全体の明確な一部を構成するものであることは、事実である。文学的構造も、その事を物語っている。この個所は、「最後の七つの・・・」という句で始まっており、思想においても、「また、七つの・・・」で始まっている17章1節と平行性を示している。この二つの部分は、構造において、また内容において(それはある程度までであるが、と言うのは、一方では大淫婦のさばきが語られ、他方では小羊の妻の顕現が述べられているから)、平行関係を持っているようであるが、本文の言葉は、ここでも時間的要素を考えるとすれば、後者(小羊の妻の顕現)が時間的には前者(大淫婦のさばき)のあとに来ることを、明りょうに示している。更に、21章1〜6節の言葉は、新しいエルサレムの到来が、最後の審判のあとであることを指摘している。したがって、21章9節から22章5節までは、この事を更に確認するものである。論理的には、それは17章1節から21章8節までと平行的であり、時間的には、それに続くものである。そうであるとすれば、新しいエルサレムは、祝福のうちに死んだ者たちの現存する場所の描写ではなく、まさにこれこそ、神の地上におけるあがないの働きの完成後における最終状態の描写なのである。

 更に、この最終状態は、復活に続くものでなければならない。20章4〜6節には、キリストのために苦難をなめた者たちの「第一の復活」が言及されている。彼らは、キリストの千年の支配のはじまりにあたってよみがえる。残りの死者は、この支配の終わりと大きい白い御座での審判の時までよみがえらない。とにかく、神の都は、よみがえりを経た人々の住居であり、復活した人だけがそこへの門をくぐることを許されるのである。もし復活が、霊的、肉体的新生、すなわち、罪人の神のかたちへの復元を意味するものであるならば、復活こそは、神の人間に対する最終目的へ向かっての入り口でなければならない。神はこの世を打ち砕き、それを、愛する者たちのために、再生したもうのである。

 したがって、復活は、あらゆる永遠的な決着の実現へのかぎである。それは手段であって、終わりではない。現在のように弱く罪深い血肉が望むことのできない、神の完全な啓示を、受けることができるように、私たちを備えてくれる一つの方法なのである。

2024年4月28日日曜日

復活と不屈の精神(3)

毎年決まってこの白薔薇は、都合百に達するでしょうか、次々と花びらを咲かせてくれます。それも二、三週間にわたって。ところが、今年初めて、私はこの白薔薇が甘くも薄い芳香を振りまいており、多くのミツバチが花から花へと渡り歩いていることに気づいたのです。散歩しては、美を求めて歩き回っている己にとり、灯台下暗しとはこのことを言うのでしょうね。春はいよいよ盛んです。せっせと蜜を求めて集まってくる昆虫の諸君に負けず歩まねばと思わされております。

第7章「復活と不屈の精神」の最終部分です。今日はイースター後4週目に入る聖日です。二千年前を想起するなら、まだまだイエス様が復活後、ご自身の生きている姿を現わしておられる期間に当たります。


 しかしながら、彼が忍ばなければならなかったのは、待つことだけではなかったのである。彼に対して競争意識を持っていたライバルの教師たちが、この間に、しだいにその地歩を占めていた。つまり、彼が監禁のうきめにあっている間に、彼らは、骨惜しみをせずに、パウロの回心者をせっせと自分の組に引き込んでいたのである。これはただ、自分たちの名声を求める手合いであった。

人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。(ピリピ1:15〜17)

 他人が自分の作品を粉々にし、生涯をかけた成果を不純な宣伝文句でだいなしにするのを、黙ってすわらされたまま見ているのは、耐えられないことである。パウロがのちにテモテに書き送った手紙の中には、その苦しみの反響がしるされている。「アジヤにいる人々はみな、私を離れて行きました」(第二テモテ1:15)。彼の入獄中に、ある教会から失われていった人々は、パウロをもってしても、再び連れ戻すことは、ついにできなかったようである。それにもかかわらず、彼の喜びは、決しておおい隠されることがなかった。彼は最後の復活の日に、完全に恥がすすがれることを信じて、待つことができた。しかも、その報いに対する希望のゆえに、彼は、純不純を問わず、キリストが宣べ伝えられることを喜びとすることができたのである。

 復活による不屈の精神は、失望と葛藤に悩む彼を、ささえ続けたのである。この手紙によると、パウロは更に、彼をねたむ兄弟たちが、彼をだしに、しかも彼がローマ帝国の政府によって不当な抑留生活をしいられているのをよいことにして弟子たちを集めていたことに対してと同時に、自分の内的な問題とも戦っていたことを暗示している。彼は、エパフロデトの病とともに彼に臨んだ「悲しみに悲しみ」(ピリピ2:25〜28)や、貧や飢えや乏しさ(4:12)、また、おそらく長びく獄中生活の緊張の結果と思われる内的葛藤についても、苦しさを訴えている。確かに投獄されてからは、以前と同じ強壮さを維持することができなかったであろう。強制された安逸と監禁の生活は、彼に法外な料金を要求したのである。しかも彼は、絶えざる微笑をもってそれに臨み、そのためにこの手紙は、キリスト者の喜びの書簡として知られるに至ったのである。彼は、すべての苦痛を、キリストの苦難にあずからせる特権として受け入れ、そこから、彼の復活の力を知る知識を得るに至ったのである。

 挫折や、見かけの失敗、また懐疑や闘争の渦の中で、この復活の希望は、彼の不屈の精神の源であった。こうして彼は、走者がたいまつを掲げて走り、次の走者に渡すまで走り続けるように、いのちの言葉を保ち続けた。それは、「そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができ」(ピリピ2:16)るためである。彼は悪しき時には特に、永遠を誇る、そそり立つ高嶺に目を留めて動かさずにいた。現在の苦難を、復活の暁がもたらす栄光とは比べるに足りない。彼の使命達成の途上のつまらないできごととみなしていたのである。それゆえ彼は、済んだ事柄は喜んで忘れ、目当てを目ざしてたゆみなく進んだのである。

 直接的な悪性の反対に対するより、一見たいしたことはないと思われる人生の挫折のほうが、普通は、より大いなる不屈の精神を必要とする。計画的な迫害は、当然予期しうることとして、それほど恐れるには足りない。イエスも助けを約束しておられる。助け手と考えられる人々のはりあい、自分が最も必要とされ、最も貢献しうると思えるときに、義務を果たす道を閉ざす、いわれのない投獄、また、ほかの人の必要のために心を集中させなければならないときに、魂を悩ます心痛や葛藤ーーこれらは私たちにとって最も耐えがたい事である。しかし、復活の希望は、このような問題に対しても勇気を与えてくれる。これらによって私たちは「キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかる」(ピリピ3:10)ことができるからである。

2024年4月27日土曜日

復活と不屈の精神(2)

今日は、これと言って良い被写体を見出せませんでした。その代わりと言っては何ですが、スケッチ帳に描かれていた一枚の絵を載せることにしました。絵の具でなく、クレヨンによる彩色の絵です。どう見ても古利根川とその川縁を描いたものと思われます。しかもこれからますます緑が濃くなっていく風景を描いたもののようです。筆致から推すと作者は家内のような気がしますが、本人は覚えがないと言うので、今となっては確かめる術がありません。

以下は、「復活と不屈の精神」の昨日の続きです。

 もちろん、キリストにある死人が、悪しき死人よりもさきによみがえらされるという点に、疑問の余地はない。ヨハネの黙示録20章4、5節は、このことを明らかにしている。

また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。

 この聖句が与えてくれる解釈の可能性に関する興味深いわき道にはいらなくても、私たちは、それが二つの復活を含意していることを知ることができるであろう。第一の復活には、キリストのために苦難を経た人々が加わる。彼らは、以前にどのような不面目な敗北を味わったにせよ、いまやキリストとともに支配者となるのである。そして、彼らのよみがえりは、「第一の復活」と呼ばれる。この第一のという区別は、必ずしも、それがごく少数の選ばれた人々だけの特権であるというように解釈されなければならないものではない。それは、義人の死者の復活は、悪人のそれと非常な間隔をおいており、そのとき復活する人は、キリストの僚友として御国における統治権にあずかる、ということを意味するだけなのかもしれない。このような、不敬けんな人を除外しているという意味で、これは、「死人の中からの復活」なのであり、それはまた、信者の中でもある序列の差を持つものであると考えられるのである。

 それでは、このように遠い未来の事が、どうして現在の必要に適用されうるのであろうか。

 実は、ピリピ人への手紙は、この復活の希望によって意中に創造された不屈の精神を、具体的に実証するものなのである。パウロは今、二十五年またはそれ以上にわたって心身を打ち込んできた労を、突然中断され、獄中の人となっている。彼からわいろを取ろうという下心を持つローマの官吏によって、すでに二年間も留め置かれているばかりか、彼自身カイザルに訴訟を起こすことによって、のっぴきならない立場に追い込まれていた。彼は、ピリピ人への手紙を書いたとき、すでに相当長く、おそらく二年はローマにとどまっており、しかも、釈放される目安は、全く立っていなかったのである。釈放という観点からは、その第1章における彼の言葉は悲観的である。「私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています」(ピリピ1:23)。彼は公判にもかけられていなかったようである。しかも、結果は、全く予断を許さなかったのである。彼は宙ぶらりんの状態であった。今死のことを言ったのかと思うと、次には、ピリピ人のところに「とどまり」、彼らのところへ行く、と宣べている(1:24〜26)。本式の告発も受けず、未来の見通しもなく置かれることは、疑いもなく、彼の神経をすり減らすものであったろう。しかし、彼の活発な生活が突然中断され、未来が暗雲にさえぎられているにもかかわらず、手紙の全体は、喜びの叫びを強く聞かせてくれるのである。復活による不屈の精神は、入獄中のパウロに、絶えざる勝利をもたらしていたのである。

2024年4月26日金曜日

復活と不屈の精神(1)

今日は記念日でした。それで、妻に「何の記念日だと思う」と聞いたところ、「わからない」と素直な答えが返ってきました。まあ、やむを得ないだろうなあーと思いました。その後、二人して妻のかかりつけの病院に出かけるため電車道を駅へと向かいました。久しぶりの駅道でしたが、途中線路際の舗装道路の隙間に花を見つけました。「すみれ(※)」でした。いつもこの数メートルの縁石の間に花を咲かせるので、決して珍しくはありませんが、妻が「すみれの花咲く頃」とハミングしてくれました。嬉しくなった私が、「なぜその歌詞を知っているの?」と聞くと、「宝塚の歌だ」と教えてくれました。記念日は、夜になって子どもたちが「おめでとう」とそれぞれLINEで寄越してくれました。この「記念日」は「すみれの花咲く頃だった」のですね。そんなロマンもなく、私にとってはただ一緒になれた喜びで一杯だった日でした。五十四年前のことです。老いが先行し、様々な不便が互いに生ずる今、そのことだけは忘れたくありません。

※ 「すみれ」について過去にもずいぶん書いていることに気づきました。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/04/blog-post_15.html
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2012/04/blog-post_17.html
まだまだありますので、上のはこ欄に「すみれ」と入力すると出てきますのでご関心のある方は覗いてみて下さい。

さて、新しい項目「復活と不屈の精神」は、全八章の章立ての中の第七章に相当するもので、第二章の「復活の予測」は飛ばしましたが、それを除くとあとは順番に写していますので、章としてはあと一章を残すものとなりました。メリル・C・テニー氏はこの標題で、パウロの例を通して、語ります。三回続きますし、今日の個所は訓詁学的なところもあり、理解するのにややこしいところがありますが、忍耐強くお読みくだされば感謝です。残り二回と合わせて、「ピリピ人への手紙」に表れているパウロの信仰の裏表を思う存分知らされたいものです。

どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。(ピリピ3:11)

 復活の力が個人の生活にどのように現われるかを示すものとしては、新約聖書全体を通しても、このパウロの自伝の寸描を記録しているピリピ人への手紙三章にまさるものはない。その中で彼は、自分の前歴について、かなり多くのことを明らかにしている。彼は好戦的なベニヤミン族出身のユダヤ人であり、手紙を一読すると、戦闘的な血筋を誇りに思っていたことがわかる。彼の幼名は、イスラエル初代の王の名を採って、サウロと言った。サウル王もまた、ベニヤミン族の出である。彼は、すっかりギリシア文明に圧倒された地方に住んでいたにもかかわらず、先祖伝来のアラム語と、古来のヘブル人の習慣とを固守した、厳格なヘブライ主義的ユダヤ人の仲間になっていた。律法の解釈においては、儀式関係の法規の遵守に特別やかましかったパリサイ主義の伝統を擁立した。ユダヤ人の信仰に対する熱狂的な義務感から、彼は、エルサレム外の諸都市においても、教会に対する迫害の規模を拡大していった。最も驚くべき事は、彼が、完全な律法の義を自分に対して主張することができると言っていることである。その事は、「律法による義についてならば非難されるところのない者です」(ピリピ3:6)と言っているところから知られる。ところが、その彼が、ダマスコの途上でキリストに引き止められてからは、それらのすべてを失念してしまったのである。律法に対する情熱は、いまやキリストに対する情熱に置き換えられた。生誕、家系、宗教教育、教団での地位のすべてを、彼は損失と思うに至った。ユダヤ教の中で獲得しえたであろう特権や地位に対する願望を、キリストにおいて彼に与えられた新しい信仰のために、完全に否定してしまったのである。

 ピリピ人への手紙は、パウロが回心してから三十年ほどして書かれたものである。この間に彼は、長期にわたってさまざまの経験をした。シリアのアンテオケを起点として、南部アジア、マケドニア、ギリシアの伝道の開拓に当たった。キリスト教神学とキリスト教文学との基礎を据えた。ローマ帝国の議会や官憲たちの前でも、そのていねいな無関心さや刺すような冷笑をものともせず、キリストのための弁明を試みてきた。石打ち、あざけり、誤解、無視の試練にも耐えてきた。しかも彼は、神が彼の魂の中に植え付けられた不屈の精神によって、前進を停滞させることがなかったのである。その不屈の精神は、攻撃をはね返す耐久力であった。彼はまた、ただ一つの燃えさかる野心のゆえに、ひるみやためらいを感ずることは、決してなかった。その野心は、彼の前進を促す動力であった。「どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです」(ピリピ3:11)。彼は復活への見通しが自分の魂の中に生み出した希望のうちに、尽きぬ勇気の源を持っていたのである。

 この聖句は、ギリシア語では、非常に変わっていると言える。「ただどうにかして、死人の中から復活に達したいのです」。日本語では「中からの」とはっきり表現されているが、それは、ギリシア語の「の」を補強するために付加された訳である。そしてここでは確かに「の」だけでは不十分なのである。それは、たとえば、「わたしはそのケーキをいただきましょう」と言う場合のような、あるあいまいさを残すからである。この例の場合には、それは、そこに出されているケーキの中の一つを取ることか、幾つか出されているものの中からケーキを取ることかのどちらの意味をも持つことができる。ここのギリシア語の「の」も、そのあいまいさを持っているのであるが、パウロは、この例でなら前者の意味で、死人の中からの復活において、彼を他の人とは別な者とする復活を望んでいる、と言っているのである。

 言うまでもなく、この言葉は、彼が自分の救いを働きによって獲得しようとしている、と言うことを含意するものではない。彼はすぐ前で、自分は自分の義によってではなく、キリストの義によって救われることを求めた、と言っているからである。戦いが救いのためでないことは明白である。その点については、彼はすでに確信を持っている。それゆえ、ここでは報いのことを言っているのである。しかし復活は、報いと呼ばれるべきものであろうか。コリント人への第一の手紙15章22、51〜54節と、テサロニケ人への第一の手紙4章16節が教えていると思われるように、キリストにある者は究極においては皆復活するのであるとすれば、復活はどうして、よいわざの報いや不屈の精神をかきたてるものとなりうるのであろうか。もし、ある一つの学級の生徒が皆、あるほうびをもらうのだとすれば、それは成績に対する賞とは言えないであろう。

 聖書はこの問題に、一、二の個所で答えているように思える。ヘブル人への手紙11章35節には、迫害に耐えて忠実さを守り通した昔の聖徒について、こう書いてある、「女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました」。復活における程度の差が、ここには、苦難に対する報いとして設けられているように見える。この報いに対する見通しは、新しい契約の下にいるキリスト者に対してでなく、古い契約の下にいるヘブル人のキリスト者に対して与えられたものであった。しかし、もしこの手紙の読者に対して意味がなければ、このことが特記される理由はなかったであろうということは、言わずと知られるであろう。コリント人への第一の手紙15章23節は、各自が「おのおのにその順番が」あってよみがえると言っている。「順番」とは、どのようなものをさすのであろうか。順番は、ある人たちの席次の高さと優越性とを仮定している。テサロニケ人への第一の手紙4章16節は、「キリストにある死者が、まず初めによみがえり」と、彼らが、生存中の人よりは、少なくとも時間的にさきになると言っている。これらの聖句からすると、復活には、優越性や報いという点で段階があり、また、他の人より早くよみがえらされる人の中には、神への忠誠のゆえにさきに報いを与えられる人々が含まれていると考えることは、妥当なことであると思われる。

2024年4月25日木曜日

復活の熱情(3)大指導者

今日は、ベニカナメの剪定作業に汗を流しました。と言っても、小一時間というところでしょうか(実際は二時間ほど費やしましたが・・・)。長女が剪定ばさみ、脚立を積み込んで都下東大和から駆けつけてくれました。昨日は雨だったか(もはや記憶も定かでないボケ老人の感覚でしかありませんが)、明日はどうなのかわからない天候不順の折、今日しかないと思い定めて来てくれました。

昼食は有り合わせのものを長女自身が作って、「自作自演」っていうところでした。普段中々交われないお互いですから、食べることよりも、どうしても話が弾みますが、遠路ゆえ、それもままならず、二時過ぎには元来た道を急いで帰って行きました。

いつの頃からか、高齢世帯である私たち夫婦を心配して、様々な作業にかこつけてはご機嫌伺いに来てくれます。

今日の写真は庭のブルーベリーの写真です。ただし上の写真は随分昔の写真で自分としては気に入っている写真で、過去のブログにも登場しているはずです。それを見るといつの頃かわかるのですが、多分、今よりはもう少し後の頃だと思います。今日のブルーベリーは、左端の写真です。しかし、この前も雨にも関わらず、大きなヒヨドリがちゃっかりここに潜り込んで、花を食べにやって来ました。猿知恵ならぬ「鳥知恵」はすごいです。仕上がりのベニカナメも載せたかったのですが、まだまだ剪定が不十分で父(とっ)ちゃん刈りなので載せませんでした。

さて、「復活の熱情」は今日で終わりですが、大指導者とは言うまでもなく、イエス・キリストです。この方が、今に至るまでどのように働かれているかを聖書に則って著者は丁寧に説明しています。私は新約聖書二十七巻、特に「使徒の働き」をコンパクトにまとめ上げた叙述だと感心しました。お読みになるみなさんの上に神様の祝福が大いにあらんことを祈ります。


三 大指導者の熱情 

 人々は、指導者に好意を持つ。頭脳においてであろうと体力においてであろうと、他の人に抜きんでた人物は、常に人を引きつける。その人気が続くかぎり、彼が何を事としていようと、人々は、彼のために生き、また死のうとする。それが共産主義とスターリンであれ、大英帝国とチャーチルであれ、または他のどのような結びつきのものであれ、世界の人々は今日においても、平和と繁栄とを約束し、各自の理想を実現させてくれるような指導者を求めてやまない。

 復活のおかげで私たちは、名ざしうるあらゆる人物にまさる指導者を与えられている。時代も、事件も、悪意や失策も、彼を押えつけておくことはできない。このようにして、私たちは、メッセージを伝えるときに彼の権威を保証されているだけでなく、また、その企て自体に、彼の助力を仰ぐことができるのである。

 聖書は彼の指導の方法についてどのように述べているかを見ておこう。彼は弟子たちを、まず、新しい世界に直面させられた。エルサレムの二階座敷をあとに、この小さな群れは、文化的な、しかし冷笑的な世界に、十字架の福音を携えて進んでいったのである。異邦人にとっては、十字架につけられたユダヤ人を信ずればその人は救いを約束される、というような不合理な宗教行為は、愚の骨頂に聞こえた。ユダヤ人にとっては、木にかけられた者をなおメシヤと呼ぶことは、瀆神もはなはだしい主張であった。この群れのだれにとっても、この奇異な福音を、ギリシア哲学やユダヤ的律法宗教に負けない、世界宗教とする伝道計画を立てることは、不可能であった。その彼らを、よみがえりのキリストは、エルサレムに引き止めて、上よりの力を着せられるまでは待つように導かれたのである。彼は弟子たちに、メッセージを、あかし人として語るのであって、演説家、雄弁家として語るのではない、とさとされた。教会を建て上げるのは、主ご自身でなければならなかったのである。「主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた」(マルコ16:20)「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」(使徒2:47)。

 彼は、事をどのように進めるかについても、彼らを導き教えられた。御霊を通して、方針、組織、計画におけるあらゆる主要な変更事項が啓示されるように、取り計らわれたのである。教会の社会事業のための七役員の選任、異邦人伝道の開始、異邦人回心者の立場に関するエルサレム会議の議決、ローマ帝国の伝道のために通る道筋ーーすべては彼によって決定された。彼は必ずしも、そのしもべの死を免れさせてはおられない。そのようなときにさえ、働く人はなくても、働きが停滞するようなことはなかったのである。彼らのために、彼は時にはドアを開き、時にはドアを閉じられた。彼らが反対に直面したときは、大胆さを与えられた。こうして彼は、敗北の中からひねり出すようにして勝利を導き出し、ローマ帝国のすべての植民州で、奴隷のあばら家からカイザルの宮廷に至るまで、人々がよみがえりの主の福音を知り、信じ、愛するようにされたのである。使徒教会に犠牲的忠実さを喚起したもうた主の助力は、今日の私たちが仰ぐべきものでもある。よみがえりのキリストは、依然として前進を試みておられ、私たちがそれに歩調を合わせることを求めておられる。教会において、商店において、田畑において、会社において、更には、貧民くつにおいても、教室においても、アラビアの砂漠においても、チベットの山においても、また南米のジャングルにおいても、彼は、最初の弟子たちに求められたのと同じ無条件の信仰、同じ不動の忠誠を私たちにも期しておられる。また彼は最初の人々に与えられたのと同じ導きと同じ保護の手を差し伸べておられる。彼は死を征服されたかたであるゆえに、私たちを、その勝利の行進にあずからせ、また、熱心に、歓呼の声をあげつつ、彼に従う者とさせて下さるのである。

導きたまえ 永久(とあ)の君よ
進軍の日 今しきたれり
戦いの野の なが幕屋こそ
今よりのちの われらが住み家
なが御恵みに 強くせられて
備えの日は 今こそ成りね
永久の君よ われらが主よ
高く歌わん 戦いの歌を

導きたまえ 永久の君よ
従い行けば 恐れは去りぬ
恵みの御顔 われを守れば
朝日のごとくに 喜びあふる
十字の光に 照りいだされて
われらの旅路は 輝きぬ
勝利の冠 われらにあり
導きたまえ 大能の神よ
    (アーネスト・W・シャートレフ)

2024年4月24日水曜日

復活の熱情(2)最終的な権威


あちらこちらの街路のツツジの植え込みは、今時、赤と白で道行く私たちの心を弾ませてくれているのではないでしょうか。特に白色のツツジは、清楚な少女の出立ちをいつも思わされ、身を清められる思いが致します。

ところで、上記画面に見られるように、これまで堤上の桜の木々の下で、ひっそり出番を待っていた植え込みにも、陽が当たる時季がやってきたようです。赤いツツジが「こんにちは」と次々声をかけてくれるようになったからです。

赤いツツジの点描は、そのすぐ奥で、今を盛りとあたり一面に広がるタンポポの園とともに私たちに爽やかな笑顔を振りまくかのようでもあります。自然界は、一刻の猶予もなく、調和した美を私たちに提供してくれます。その自然の秩序は神様ご自身が私たちにくださっている大きな贈り物です。

今日の『キリストの復活』の「復活の熱情」にまつわるメリル・C・テニー氏の話は短いですが、世の権威にたちまさる主の権威がいかに最終的な権威であるかを語っています。その権威の熱情が如何なるものか少しでも知りたいものです。

二 最終的な権威の熱情

 伝えるに足るメッセージを持つということは、一つの事である。それと、メッセージを伝える権威を持つということとは、別な事である。セールスマンは、どんなによい品物を売り込もうとしているときにも、信用ある商社が自分の後ろだてとなっているということが確信できなければ、売り込みに熱心になることはできないものである。疑いと熱情とは、決して共存することができない。そうだとすれば、私たちがある重大な宣言ーー人は、そのメッセージを信じて救われるか、または、それを拒否することによって失われるか、二つのうちの一つを選択しなければならないという、猶予することを許さない重大な宣言ーーを携えて、海を渡り陸を越えて行くのは、いったいどのような権威に基づいてなのであろうか。

 よみがえりのキリストは、そのメッセージを伝えるにあたっての権威であられる。ペテロとヨハネは、足のなえた男をいやしたあとで、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか」(使徒4:7)と尋問されたとき、こう答えた。

民の指導者たち、ならびに長老の方々。私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。(使徒4:8〜10)

 復活は、イエスを、地のあらゆる権威の上にある神の右手に高く上らせた。それで彼の弟子たちは、自分たちを地上における彼の代表と考えて、彼らを沈黙させようとした彼以下のあらゆる君主たちや議会を、公然と無視する態度に出たのである。

 よみがえりのキリストは、語り手の伝えるメッセージを保護する権威でもあられる。彼が彼らに与えられた言葉、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」(ヨハネ20:21)と、増長したピラトに対する彼の返答、「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたがたはわたしに対して何の権威もありません」(ヨハネ19:11)とを比べていただきたい。御父が御子に対して、その働きが完成するまで、その身の保護を保証されたように、キリストは、彼の事業のために彼に従う者たちが出て行くとき、その安全を見守られるのである。キリストは彼らのために、獄屋のとびらをあけ、官憲らの裁判を導き、刑執行人のおのをそらせたもう(※)。弟子たちは、主がご自身のメッセージを尊重されると信じていたので、彼の名において、不可能事に敢然としていどんだのである。

※引用者註 著者が「キリストは彼らのために、獄屋のとびらをあけ、官憲らの裁判を導き、刑執行人のおのをそらせたもう」と要約している聖書個所はいったいどこの個所であろうかと思って調べたが、差し当たり、次の個所などが考えられるのではなかろうか。使徒5:22を中心とする前後の聖句。そして使徒12章。いずれもペテロが経験していることではある。ペテロはその「熱情」においては弟子中第一番であったが、主の預言(ルカ22:31)どおり、結局は主を裏切らざるを得なかった。その彼が復活の主に出会い、ペンテコステ(聖霊降臨)を経験し、全く別人の人となって、サンヒドリンでの尋問に対した。それは、まさに最終的な権威の熱情、「主イエスの熱情」に支えられてのことだと思わされた。繰り返しになるが、上記の最後の言葉「弟子たちは、主がご自身のメッセージを尊重されると信じていたので、彼の名において、不可能事に敢然としていどんだのである。」とは千金の重みを持つ言葉である。

2024年4月23日火曜日

復活の熱情(1)新しいメッセージ


今朝は、この花が目立ちました。毎年今頃決まって花を咲かせますが、庭に降り立って、この花の写真を撮るのは久しぶりです。名前は家人も知らないと申します。幸いなことに今ではiPhoneがその疑問に見事に答えてくれます。それによると、「オオツルボ」と言うそうです。この複雑な花弁(色の組み合わせといい、形状の様々の姿といい、その上、実に素晴らしいバランスを保ちながら環状に配置されている)が「いのち」の発露としてあらわされていることに深く敬意を表したいです。

復活のメッセージは、私たち一人一人が神を信じないという罪の証拠をイエス様のお体の傷跡として残していることと、それゆえにその方のよみがえりは、私たちに罪からの全き訣別という新しい生活への希望を与えてくれるものとして示されています。この二方面のメッセージは、この「オオツルボ」の開かれた花弁が示すように、すべての人に向かって開かれている、気高くも希望を抱かせるメッセージです。「新しいメッセージの熱情」と題して解き明かす、メリル・C・テニーの論述を引き続いて篤(とく)とご熟読くださいますように・・・。

一 新しいメッセージの熱情

 よみがえりのキリストというメッセージは、伝道における説教の核心をなすものである。イエスを、死人の中から復活したかたとして説いて投獄された、ペテロとヨハネとは、釈放されるやいなや、また同じ説教を試みた。パウロは、復活の福音の非常に有能な弁明を終えると、「この鎖は別として」(使徒26:29)、みんなの人がわたしのようになって下さることを、わたしは切望しているのです、と言って、その議論を結んだ。ただ強大な現実性だけが、彼らに、迫害や窮乏を乗り越えて世界伝道に進む、尽きることのない熱心さを与えることができたのである。

 この現実性において、第一に指摘されなければならない事実は、復活が罪の事実を証明するものだということである。イエスが墓の中にとどまっておられたならば、十字架は、手を焼かせた民衆先導者を法的に除去しただけのこと、あるいはおそらく、たいせつがられていたある教師の悲劇的な最後、あるいは悪くても、正義のひどい失策と見られただけで終わったであろう。このうち、今どの見解が採られるにしても、結局のところ、彼に対する刑の執行は、無知で偏屈な時代のへまとして説明し去られてしまうのである。死人の中からの復活だけが、次の事を決定的な事として立証する。すなわち、ナザレのイエスは、預言者たちがあらかじめ告げていたユダヤのメシヤであったということ、また、彼の神の子であるという主張が、詐欺師の根拠のない大言壮語ではなかったということ、更に、ユダヤ人と異邦人とがともに嘲笑し、退けた人物が、実は栄光の主であられたということである。「(あなたがたは)いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました」(使徒3:15)」と、ペテロは、議会の人々に言った。このひとつの行為を通して、神は、御子を死に追いやった人間の悪巧みと激情を、罪として、永遠に宣告されたのである。復活ののち、イエスは弟子たちに、「イエスは、その手と足をお見せになった」(ルカ24:40欄外)とあるが、それは、人間の罪が生み出したことの、無言の、しかし最も厳然とした証拠を示されたものであった。

 こうして弟子たちは、罪が決して理論上だけのものでなく、事実性を持つものであるということを思い知らされたのである。したがって、彼らの説教が、大づちの一撃のように、聞く者の心と良心に落ちかかり、悔い改めを激しく迫ったのは、少しも驚くにはあたらない。キリストがよみがえられたのなら、彼を死においやった罪は、まっこうから問題とされ、征服されなければならないのである。言いのがれや言い訳は許されない。それは直ちに解決されなければならないのである。

 キリストの復活は、真の救いの保証である。彼の傷跡は、罪のためのあがないが完成していることを物語っている。使徒行伝十三章には、有名な、ピシデヤのアンテオケにおけるパウロの説教が載せられている。それは、彼の伝道説教の典型的なものの一つと考えられている。彼は、長い歴史的な議論の終わりを、キリストの死と復活の叙述で最高潮にまで盛り上げ、次の言葉でその説教を結んでいる。

ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです(義と認められるのです)。 (使徒13:38〜39)

 キリストのよみがえりは、律法の要求が残らず満足させられたことを意味する。キリストのよみがえりは、人類の反逆に対する寛大な神の恵みにあふれる回答なのである。キリストのよみがえりは、「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」(ヘブル7:25)ということを意味しているのである。

 よみがえりのキリストは、不死の証拠である。キリスト抜きの不死は、よく見積もっても夢にしかすぎない。人々はそれを、可能性であると論じ、蓋然(がいぜん)性であると考え、ほんとうなら良いのにと望んだ。しかし、その点に関する、最善の、最も理論的な思想の表出も、ついには実現の可能性のないものと判断されるのが常であった。「プラトンよ、あなたはまことによく推論を重ねた。しかし・・・」というのが、多くの思想家たちの態度であった。それに反して、イエスは、不死について論じようとしてはおられない。ただ、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」(ヨハネ11:25〜26)と言われただけである。彼は墓からよみがえられたとき、ご自分の言葉を確証された。不死は、彼においては、一つの確かな事なのである。

 このようなメッセージに、真の熱情がかきたてられるのは、当然のことである。罪が真であるならば、人は非常な危険の中にいるのであって、それから救出されなければならない。だれかの家が燃えていたなら、私たちはその家の人を起こして、彼が焼け死んでしまうことのないようにするであろう。しかし、その人の霊的危険に対してなら、私たちは、それほどの関心を寄せなくてもよいのであろうか。もし救いが真であるならば、私たちは、人の益になるよい知らせを持っていることになる。そのよい知らせを持って友人を訪ねるのは、うれしいことである。それでも、永遠の現実を宣べ伝える特権に対してならば、あまり感興をわかさなくてもよいのだろうか。不死が真であるならば、私たちは、失意の人たちにも希望があることを教えることができる。それでも私たちは、そんなものを伝えることには熱心にはなれないと言うのであろうか。復活のメッセージの現実は、私たちの生活に、新しい妙味を添えてくれるものなのである。

2024年4月22日月曜日

復活の熱情(序)

庭先のクレマチスが、いつの間にか花を咲かせているのに、気づきました。私は、その余りにも、解放的な開花ぶりにはいつもびっくりさせられます。(もっと、お淑やかに、花を咲かせていけばいいのにと思って・・・)しかし、こんなに美しい花弁をじっと我慢していたとしたら、時満ちてパッとばかりに花を咲かせるのも当然なのでしょうね。

復活を実地に経験した弟子たちは、失意、絶望の中から熱情の使徒に変えられます。彼らなら、「クレマチス」のこの心に共鳴することでしょう。引き続いてメリル・C・テニーの『キリストの復活』の第六章「復活の熱情」からの引用です。

神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。(使徒2:32)

 ある日曜日の午後おそく、いくじなさそうな、落胆しきった十人の男たちが、エルサレムのとある二階の座敷に、ふさぎ込んですわっていた。三日前に、彼らの愛する師、また希望の柱であった指導者のイエスが、ユダヤの最高聖職者たちとローマ総督との決議によって。殺されてしまったのである。この不意のできごとに、彼らはただ、悲嘆にくれるばかりであった。幸いなきのうの記憶も、ただ連想のかなたのものであった。的を射るようなたとえ、不正に対する批判の鋭鋒、また、明察に基づくその教えの持つ威厳ーーすべては過去のものであった。罪のゆるし、永続的な心の平和、御国の到来について、彼が与えられた約束も、今では価値のないものに思えた。「彼の墓は悪者どもとともに設けられた」(イザヤ53:9)者が罪をゆるすということが、どうしてありえようか。恥辱の十字架の上で苦悶の死を遂げた者が心の平和を与えるということが、どうして可能であろうか。自分をさえ救いえなかった者に、どうして御国の到来を説く資格があると言えよう。永遠の義に対する彼らの信仰さえ、今では動揺せざるを得ない。義にして主権者なる神が、彼のように全き生涯を送った者を、あのような死の苦難にあわせられようとは、とても考えることができなかったからである。

 明らかに、彼らの集会は、彼らの熱心さの告別式をしか意味しえないものであった。彼らは、偉大なメッセージを持ち、よい動機に励まされて、事をしてきたように思っていたが、イエスの死とともに、いっさいは、穴のあいた風船のようにしぼんでしまったのである。イエスが民衆の眼前で、あの恥辱の死を遂げられたため、彼らは、彼を弁護するために声をあげることさえ控えた。それに、彼に忠誠を誓った者として身を現わすことは、あの際、危険であった。しかも彼らは、イエスに出会う前の自分たちに戻ることもできずにいた。それにしては彼は、あまりにも深い、打ち消しがたい印象を彼らに与えたのである。絶望の苦々しさと、思い出ーーそれも悲しい思い出ーーしかないであろう未来の殺伐さとのために、彼らは、人生や仕事に対する励みや熱を、すべて奪われてしまったのである。

 そのとき突然、集まりの暗がりの中で、彼らはだれかの存在に気づいた。彼らの耳に、聞きなれたかたの声が響いて来たのである。「平安があなたがたにあるように」ーーそして、まさにイエスが、彼らの前に立っておられるではないか。彼らは、自分たちの五感を信ずることができなかったため、彼に仰天し、自分たちは何か強い幻覚に襲われたのではないかと、互いに驚き合った。しかし、そうではなかった!

 「御手御足には傷を受け
     わきには刺し傷」

 傷跡を認めて、「弟子たちは、主を見て喜んだ」(ヨハネ20:20)。よみがえりのキリストの現実性が、彼らの態度を全く変えたのである。悲しみは喜びに、恐れは信仰に、そして落胆は希望に所を譲った。また、主とともに持った過去の経験も、彼が生きておられたことにより、あるつきまとう記憶というようなものではなく、動的な力として感ぜられるようになった。

 失意の人たちに、よみがえりのキリストが現われたもうことによって、彼らの中には、新しい熱情が生まれた。そしてそれは、ペンテコステの風にあおられて、ついには、教会の樹立を促すものとなったのである。真のキリスト教が存在する所には、どこにでも、真実の熱情のたぎりが見受けられる。キリストの福音は、ディレッタントがたいくつしのぎにもてあそんだり、学識者たちが、その個人に対する呼びかけにもかかわらず、超然として議論しえたりするものではない。それは真であるかないかのいずれかである。しかも、真でなければ、永遠に放棄されてもしかたのないものである。しかし、もし真であるならば、それは、私たちが衷心からそれを信奉し、また、無限の熱意をこめて、地の果てに至るまでそれを宣べ伝えることを、要求するのである。もし人々が、ただの人、しかも限られた期間だけ官位につく人の選挙に対して、熱狂的になりうるとすれば、神によって、救い主またさばき主になることを定められ、その身分を保証された、よみがえりのキリストの現実性に対して、私たちが熱情を示すのは、当然のことではないだろうか。

2024年4月21日日曜日

復活の効力(3)身体の効力


今朝も新しい訪問客がありました。昨日の彼女の美しさに目を見はりましたが、今日の彼はより鮮やかでした。その上、花の間を離れることなく丹念に蜜を吸っていました。飛び石伝いという言葉がありますが、まさしく花園を飛び回る彼の姿はそうでした。

さて、「復活の効力」の最終項目は、からだに及ぶと、最後の復活に働くことは当然として、今生かされている生身のからだにも及ぶのだと、パウロの証を著者は深く読み込んでいます。

 三 身体の効力

 復活の力は、この現存のからだにも適用されうるものである。

もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。(ローマ8:11)

 多くのよい注釈者たちは、この聖句を、最後の復活に対してだけ適用される言葉であるとしている。そうだとすれば、死から立ち上がるのは、「死ぬべきからだ」であるということになる。確かにそのような解釈は可能である。だが他方では、「死にやすい」という意味を持つ「死ぬべき」(ギリシア語thneta)という言葉が、なぜ、すでに死んでいるからだに用いられなければならないかについて、少し困難を感じさせられる。もし、神の御霊が宿っているのなら、なぜそれを、死体と認めなければならないのであろうか。なぜ、神の活動を、私たちの肉体に関するかぎり、未来の復活に限定しなければならないのであろうか。私たちは、ここで用いられている「死ぬべき」と「生かし」という二つの言葉が、コリント人への第一の手紙十五章でも使われており、そこで言及されているのは、明らかに最後の復活のことであるということを、認めるのをよしとする。しかし、この聖句の前後関係から、未来よりは現在に対して適用されるべきであるということは、明らかではないだろうか。「生かしてくださるのです」という語句を、ただ究極における肉体の更新をさすものとするよりは、ここでは、信者の現在の肉体生活における御霊の継続的な働きを描写するものと見るほうが好ましいと思われるのである。

 もちろん、神のみことばは、現在のからだがそのまま不死のものとなることを保証してはいない。私たちの生存中に主が来られるのでなければ、私たちは、他の人々と同様、やはり地のちりに化さなければならない。しかし、この聖句は、明りょうに、内住したもう神の霊が、私たちにキリストの復活の力を適用させることによって、私たちの現在の肉体に新しい生理的な力を分与することができ、また、分与しようとしておられる、という意味を含んでいるように見える。御霊は、私たちが地上における神のためのわざをなし終えるまで、随時必要に応じてそうすることがおできになり、またそうして下さるのである。

 パウロは、コリント人への第二の手紙において、彼がアジアにいた時のある経験に言及している。「私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました」(第二コリント1:8〜9)。その経験がどんなものであったか、私たちは知らない。病気であったか、非常な迫害であったか、ほかの何かであったか、私たちには知らされていない。たいせつな事は、そのとき彼が自分を頼みとせず、「死者をよみがえらせてくださる神により頼んだ」ことである。そのために彼は、更に幾年もの間有益な苦労をすることができるように、救い出されたのである。彼の生涯は、この力によって生き抜かれた。なぜなら彼が、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」(第二コリント12:9)と言われた神を信じたからである。

 言うまでもなく、この力は、私たちに、罰を受けることなく神の生理的法則を無視した生活をすることを許すものではなく、また、むちゃな肉体の使用を保証するものでもない。しかし、私たちが、神の奉仕のため、また神の命令のゆえに、すべてを費やし、なおかつ弱さのゆえに自分にはこれ以上の事ができないと感ずるときに、御霊はその力によって、普通ならとうてい望みえないことをもなしうるように、私たちの肉体を更新し、その有用さを増して下さるのである。クリスチャン・ライフは、魂だけでなく、からだをも新鮮にしてくれるのである。

2024年4月20日土曜日

復活の効力(2)知的な効力


出がけに一羽のアゲハ蝶の来訪を受けました。玄関先の植え込みの花がお目当てのようでした。もちろん、彼女はじっとはしていません。数秒後にはどこかへ飛んで行きました。考えてみると彼らほど姿態を次々変えて行く生き物はいませんね。この一枚の静止画面を見ているだけの感想ですが、改めてその衣装の素晴らしさと花との調和に驚かされます。

さて、今日の個所は、いっそのこと省こうと思った作品でした。しかし、何度も読み返すうちに、自らの無知、無能を思い知りました。第二次世界大戦中に物されたと思われるこれらの著者の論稿は、当時鬼畜米英とばかりに「撃ちてし止まん」と意気盛んだった日本人による戦後の翻訳によって紹介されていることを思うと感無量の思いがします。

二 知的な効力

 私たちが新しい生活の場に向かって行くとき、それに相当する結果が、その思考生活にも見られなければならない。コロサイ人への手紙三章は、このことを明白に表現している。

こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい 。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されてあるからです。(コロサイ3:1〜3)

 ここで「思いなさい」と訳されている言葉は、思考過程のことではなく、思想内容に言及しているものである。だからこれは、今日の平たい言葉で言えば、「この問題をどう思いますか」と言うような場合に私たちの持つ概念を含んでいる。言うまでもなく、これは、「あなたの意見はどうですか」とか、「あなたの考えはどういうことですか」という質問を意味している。復活の力によって、思考は、新しい分野に対して開かれ、新しい内容を盛り込まれるのである。

 こうして、キリスト者は、救われていない人々の心をとらえているような事柄に、その心を煩わされるようなことはなくなる。かんばしくない浮薄な読み物や、肉性を扇動するような芸術、また、低級な激情をあおるような音楽ーーつまり、よみがえりのキリストという基準に調和しないすべてのものを、彼はその思考から遠ざけてしまうのである。

 これは決して、霊妙な、実行不可能な事柄ではない。あらゆる価値ある思想、また、人類の発展に寄与しうるあらゆる知的、美的な努力は、新しい光ーー復活の光ーーの下で、十分に可能であるばかりか、正しい評価もできるのである。欧米の最も偉大な音楽、過去十九世紀の間に生み出された最良の芸術、私たちの最も強力な自由に根ざす政治哲学、最高の文学、など、人生を愉快なものとし、美的、霊的特性の向上に貢献した業績はすべて、直接間接に、よみがえりのキリストに従った人々によってもたらされたものである。

 それだけではなく、思考は更に、復活によって、新しい力を与えられる。数年前、著者は、あるひとりの男を知っていた。彼は教育もなく、回心するまでは、そのような限られた履歴で、完全に満足しきっていた。学問などには、ほとんど関心がないように見えた。また、彼の無関心さは、彼が標準英語につゆほどの考慮も示していないことによって、だれにでも歴然としていた。回心とともに、彼は目ざめた。そして、数年後には、力強い説経者となり、また、将来を期待される神学者となったのである。死が彼の生涯を縮めなかったならば、彼はおそらく、この時代の有数な指導者のひとりになったと思われる。神の復活の力は、いかなる凡庸な人物をも変えて、思想において幅と深さとを兼ね備えた者を生み出すことができるのである。

2024年4月19日金曜日

復活の効力(1)霊的な効力(下)

名残惜し 航跡さやか 鴨夫婦
いつの間にか、川からは鴨たちがいなくなっています。そんな折り、遠目にも鮮やかな二つの波模様が交わることなく、川面に扇形の弧を描きながら、動いているのが見えました。二羽の鴨による航跡でした。数少なくなってきた水鳥のデモンストレーションを久方ぶりに見る思いでした。

今日の引用個所は昨日の「霊的な効力」と題する文章の続きの部分です。冒頭の「死人をその足で立たせようとした」とは、象徴的な言い回しであります。私自身の経験で恐縮ですが、かれこれ50数年以上前、昼飯を春日部駅東口前のラーメン店で食べたことがあります。その時、私は一人でしたが、食べ物のために、主に感謝の祈りをささげて食べました。その時、周りの人たちは、そんな私と違って笑いに興じながら皆楽しげに立派な食事をなさっていました。瞬間、確かに私は一人だし貧しい者だが、神様に祈って食事をしている、一人ではない。周りの方々は仲間がいて楽しげである。彼我(ひが)の違いはどこにあるのだろうかという思いでした。それは、たとえ、その食卓がどんなに立派であろうと、主を心の中に迎えていなければ、その食事は単に肉体が動いているだけであって、すなわち「死人」の動きに過ぎないのではないだろうかという素朴な思いでした。もともと信仰からは縁遠い者であった私が、そのような行動を取ったのもキリストの復活を通して与えられた霊的な効力の一例なのではないだろうかと思い、敢えて、今日の引用の前に「私見」を書かせていただきました。

 死人をその足で立たせようとした、ある昔のローマ人の話が伝えられている。彼は、むだな試みを何度もくり返したが、とうとう愛想をつかして投げ出してしまい、こう言った、”Deest aliquid intus"ーー「ふぬけめが!」。死体に必要なのは、支柱ではなくて、新しいいのちである。新生していない人に必要なものも、目新しい人生観ではなく、内的な動力でなければならない。

 この必要な動力は、キリストにおいて供給されている。神のいのちが死の力を殺し、キリストを墓から復帰させたように、それは、私たちすべての中に働いている罪の力を殺してくれる。イエスの復活後にも、死はこの地上から姿を消してはいない。しかし、いまや私たちは、それが打ちのめされた冥加の尽きた敵であり、その運命をのがれることのできないものであると言うことを、知っている。キリストが死を征服されたので、それはもはや無敵ではなく、最後には完敗を喫しなければならないのである。罪は依然として私たちにまつわりついている。私たちから除去されてはいない。しかし、復活のいのちは、その力を中性化させて、私たちを新しい者とすることができるのである。救いとは、単なる死体の改善ではなく、復活である。

 それだけではない。新生以前に絶やされた一生命の生き返り以上の、全く新しいいのちの創造を意味するものである。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」(第二コリント5:17)。新しい動機、新しい習慣、新しい見方、新しい欲望ーーすべてが彼の内に創造され、彼は、新しい活動に従事し、新しい目標に向かって前進する者となるのである。パウロはしばしば、「新しい人」という言葉を口にする。それは、復活の力が彼の内に作用して、その人格を全く新しい内容のものとする、ということを意味している。

 この力は、ある人たちに対しては、直ちに、目をみはらせるような効果を現わす。だらしのない無知が、旺盛な知識欲に道を譲る。無愛想な自己主義が、犠牲的な愛に変ぼうする。道徳的面での腐敗は、清潔に変身し、不正直は廉潔になる。その人の存在がすっかり別のものになったのであるから、彼の変化をだれもが認める。

 他の人々の場合は、その効果がこれほど目を引くものではないかもしれない。しかし、だからと言って、それが現実的でないというわけではない。常にある体裁を保ってきたために、外的行為に急激な変化が認められることはないであろう。しかし、与えられたいのちに相違はない。過去に犯した罪からであろうと、未来に犯すかもしれない罪からであろうと、救いの力と不思議さと純粋性とに、相違のあるはずはない。復活の効力は、その人の霊性の実りによって明らかである。

 新生によってこのように新しい人が創造されるとすぐに、その人は、自分が生活の新しい場を必要としていることに気がつく。ひよこが、孵化の瞬間、殻を破って、外部の光と空気の世界に出て来るように、キリスト者は、魂にキリストの復活の力を受けるとき、新しい生活の場にその足を踏み出すのである。ローマ人への手紙六章は、この点を、罪に対して死んだ者はもはやその中に生き続けることはできないという表現によって、明らかにしてくれる。なぜなら、

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。(ローマ6:4)

 復活した人は、復活のふんい気を必要としている。わしが、家禽(きん)といっしょに納屋の前庭で遊ぶ生活に満足できず、山の高峰や、空気も希薄な光り輝く大空に舞いかけるように、私たちも、ひとたび罪の死のさまから起こされると、罪深い交際や環境に満足できなくなるのである。私たちは、神に向かうように起こされたのである。