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2015年4月22日水曜日

契約のしるし

  虹は「退去してゆく夜雲の上にかがやき出る太陽の多彩な光」である。(J.P.ランゲ)。天の架橋とでも言ったように、虹は上界と下界とを結び、七色にかがやきつつ(生命の色であるエメラルドの緑色をそのなかに含む。黙示録4・3)創造主と被造物との間の契約を証している(三は神の数であり、四は世界の数である。七は両方の合計であり、結合である)。

 「まだ少し前までは閃光を発しながら放電していた暗い地面の上に、虹はかがやき出でて、以って神の愛が暗い烈しい怒りに勝つことを明らかにする。黒雲に対する太陽の作用から生じた虹は、天的なものが地的なものを浸透する意志をもっていることを明らかにする。天と地との間に張られた虹は、神と人との間の平和を告げる。視野全体を蔽いつつ、虹は恩恵の契約がすべてを包括することを立証する。」

 こうして虹は、総じて救世と贖罪との型となった。そしてそのような型として虹は、救世の指揮者とし完成者としての主の王座に現われる(エゼキエル書1・28、黙示録4・3)そしてわれわれがこの地において雲のなかに虹をいつも半円しか見ないようにーこれは同時に贖罪のわれわれの現在の経験が不完全であることの型でもあるが(コリント前書13・9〜12、ヨハネ第一書3・2)ーいつかはわれわれは完全な円が「王座をとり巻き」、そして完全にかがやきながら、契約の神の忠信をほめたたえるのを、見るであろう。こうして虹は、われわれの永遠の救いの自然象徴となるであろう。

 このように、すべて虹と関連するものは、類型的である。

 出現の時ーそれは太陽の再出現と同時に現われる(エゼキエル書1・28)
 現われ方ー闇が光によって変容されるようにかがやく(創世記9・14)
 七色ー七は契約の数である(例えばレビ記16・14、その他)
 緑色の優勢ー緑色は生命の色である(黙示録4・3)
 弓形(あるいは橋形)ー創造主と被造物との結びつきを示す
                      (創世記9・12〜17)
 視野のひろさー恩恵の契約の総合的・包括的性格を示す
              (創世記9・12、15。「すべての肉」)
 永遠の天の円ー神の完全さの一類型となる
               (エゼキエル書1・28、黙示録4・3)

(『世界の救いの黎明』エーリヒ・ザウアー著 聖書図書刊行会114頁より引用。この本の翻訳は小林儀八郎氏と親交のあった長谷川周治氏の令息長谷川真氏によるものである。一週間前(4月15日)の家庭集会後、皆さんがほぼお帰りになった直後にわかに雨が激しく降った、その一瞬ののち写真の虹が現われた。大急ぎで二階の窓から撮影。)

わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。(創世記9・13〜16)

2014年8月26日火曜日

創造のはじめ

つばめさんご夫婦は 高いところで なんの ご相談でしょうね 東御市 8/12
今日、久しぶりに学び会に出席し、そのあと四人ばかりで親しい交わりを持たせていただいたが、その時、父がイエス様を信じてはいるんですが、根が科学畑なので一々理屈を言われて困るんですよと言って一つの質問が出された。それはアダムの誕生の年代と、科学的考察に基づく地球上の歴史のちがいをどう説明したらいいんでしょうかという問いであった。すぐその場で答えられなかったが、一冊の本の記述を思い出した。以下に転記しながら考えてみた。

(しかしまた)サタンの堕罪は彼の支配した領域の崩壊とも関係があったに相違ない。霊と自然との有機的な結びつき、それから後に規模はより小さいがそれに似ている「人間の堕罪」が、それを証明する(そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
創世記3・8)。世界と地との破局はこの宇宙的な革命に対抗する神の正義の反撃の働きとして起こった。そして造られた物は虚無に服せしめられてしまった(それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。ロマ書8・20、21)。

詳細なことは一切、われわれの認識から隠されている。ただ人類が現われる以前、考えも及ばないほど永い期間、地上において植物界及び動物界に死と絶滅とが荒れ狂っていたことだけは、たしかである。このことは地質学的な地層と歴史以前の動物界の発達段階とが、極めて明確に立証している。われわれの足の下に横たわっている地層は、まさに「石の畑にとり囲まれている巨大な墓地」にほかならない。全く、歴史以前の時代の多くの猛獣は、実に貪欲で狂暴な破壊力を有する怖るべき怪物であった(1)。

1 チュービンゲン大学の古生物学者フライヘル・フォン・ヒューネもアダム以前の創造世界における死を、神から委命された「この世の君」であるサタンの堕罪と結びつけている。
 
旧約聖書の証言も、よくこれに相応している。なぜなら、旧約聖書に記録されている人間に委託されたことは、楽園を耕すばかりでなく管理することであり、さらに人間が神に逆らう敵対勢力の誘惑に試みられたという事実は、悪は最初に人間のなかに生じたのではなくて、人間以前にほかの被造物のなかに存在していたのであり、従って人間の現われる以前、人が堕罪する以前、人の堕罪と関連して地が詛われた以前、すでに創造のなかに破れ目と不調和とがあったのであることを、すでに旧約聖書において示している。


この点に関して次のような推測を発表している神によって啓発された人々が古代にも近世にもいる。それは、創世記第一章の六日間の御業はもともと再建の事業であって、最初の地球創造ではなかったのであり、人間は元来、主のしもべとし、また造られた物の支配者として、サタンと道徳的に対立しつつ、外形的に再建された地を、この地上に自己の種族をひろめて地を支配することによって、神の御手に取り戻すべき使命をもっていたのである、という推測である。

それで、例えば、ベッテックス教授は、人間はもともと「神の副王として全地をだんだん奪還する」べきであった、と言っている。またヒューネ教授も回復説を支持しているが、「全被造物を神に取り戻すという大事業の手始めは人間であったのである。人間において物質と霊、神の霊とが出逢う。神の子であり、人であるイエス・キリストはサタンとの決戦に勝ちたもうた。そしてこの勝利の結果はあらゆる方面に影響せざるを得ない。それゆえに、十字架が宇宙歴史の中心に立つのである」と言っている。

(『世界の救いの黎明』エーリヒ・ザウアー著長谷川真訳1955年聖書図書刊行会発行同書50頁より引用。)
 

総頁336頁のほんの一部分の引用ではあるが、冒頭の疑問に答える一つの資料ではないかと考える。

「理屈でなく幼子のように…と、わかっているようですが、自分の思いから解放されない自我によって自分を苦しめています」とその方の便りにもあったが、主がどんなに永遠な方か、人間にはわからない。質問は「時間」・歴史の問題であったが、ザウアーは「空間」の問題で宇宙がどんなに限りないものか、天文学的数字を示しながら「創造の偉大さ」(同書33頁)を述べ、それにもかかわらず極めて微小な私たち人間を愛される神の愛に私たちの注意を向けさせている。

主は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを統べ治める。(詩篇103・19)

そしてコペルニクスの1618年のことばを引用している(同書44頁)
「われわれの主は大、その力は大なり、
その智慧には限りなし。
日と月と星と、主を讃えよ、
讃えの歌がいかなる言葉にて響かんとも。
天の諧調よ、主を讃えよ、
御身ら、主の啓示せる真理の証人また容認者も、
また汝、わがたましいよ、汝も、生くる日の限り主の栄誉を歌えよ!
                  アーメン。」

なお、この本の訳者こそかつて紹介した方(http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2014/03/blog-post_5779.html)の戦後の姿であることを知る不思議さよ。

2013年12月19日木曜日

クリスマス、そは約束の成就

芦ノ湖畔 2013.12.2 by N.Y
神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」(創世記3・14〜15)

救いの黎明は、蛇に下された宣告のなかに最も明瞭に現われている。この章節で、福音の最初の約束が明示していることは、陰惨な怒りを貫いて流れている恩恵が、蛇に対する呪詛を人間に対する約束に一変せしめているということである。罪人[アダム]が罰の宣告を待ちながら、被告として神の御前に立っていたときに、直接に約束が与えられることはもちろん考えられないことである。にもかかわらず、宣告を待ちながらふるえているアダムにとって、自分を罪におとし入れた者に対する断罪の宣告は、希望の光たらざるを得なかった。従って「最初の福音の表面は審判であったが、裏面は人類に対する約束を意味したもので」あった。

はじめには、その預言の意味がまだ漠然としている。なぜなら、もしもサタンが蛇によって代表されるならば、蛇の「子孫」は神に敵対する「まむしのすえたち」(マタイ伝3・7、12・34、23・33)としてすべての悪魔の側に立つ悪霊的なもの、人間的なものの全体にほかならない—従って一人の個人ではなくて、多くのものを指すのである。しかしその場合には並行的な対句と対句との調和の点から言って、女の子孫もまた単なるひとりの人ではなくて、やはり多くの子孫、すなわち信仰をいだきつつ女に与えられた約束の基盤の上に立つ人々全部のことでなければならない。

女の子孫もまた、いつかは一人の個人において頂点に達するであろうという観念を、原始の人類はただ間接的にしかもつことができなかった。なぜなら、預言の終句には、女の子孫が蛇の多くの子孫を砕くばかりでなく、その頭である蛇そのものを砕く、と書いてあるからである。このことから多分、女の子孫そのものもまた何時かは一つの頭、一人の人において頂点に達するであろうと認められるからである。

今日、ふり返ってみて、それ以後の預言や成就を解釈することによって(ことにイザヤ書7・14、マタイ伝1・21〜23、ミカ書5・2、ガラテヤ書4・4)、はじめてわれわれは、神がここで初めて—絶対的にではないが暗示的に、いな、主として—御子キリストのことを話されたのであることを悟る(ロマ書16・20、ヨハネ第一書3・8)。人類の中心であるキリストは、同時に、女の子孫の中心である。このことからのみわれわれは、神がなぜ男の子孫と言いたまわず、女の子孫と言いたもうたかを、理解できる。

イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。(マタイ伝1・18)

そしてそれと同時に、その頭を踏み砕き、かかとにかみつく、という預言によって、「メシヤの受くべき苦難」(「かかとにかみつく」を参照)及び「その後の栄光」(「頭を踏み砕く」を参照)を予告している、驚くべきほど多くの神の言明が始まったのである(ペテロ前書1・11)。それゆえに、これ以後のすべての預言のもつ二重性格—すなわちキリストの初臨と再臨とを一つの画像において見ること—が、すでにここに現われている。そしてこの意味において、原始福音はメシヤ預言の根源であるばかりでなく、原型でもあるのである。

このようにその最初の約束の言葉がまた最も包括的で最も深い約束の言葉でもあった。この言葉のなかに救拯史全体と、その順序とが秘められている。「一般的で、不定で、その太古のごとく漠然と、神秘的な宮殿の残墟の前に立つ厳かなスフィンクスのように、この最初の約束の言葉は、くすしく聖く失われた楽園の入口に立つ。遠からずしてイスラエルの預言のなかで、この約束の言葉の解決が明らかになり始める。われわれすべてのために蛇の頭を砕くために、われわれすべてに代わって蛇にかかとをかまれた処女マリヤの子、かれがはじめてこのスフィンクスの謎を解いた。それは聖徒にとっても預言者にとってもときがたい謎であったのである(マタイ伝13・17、ペテロ前書1・10〜12)。かれはこの謎を成就して、これを解いたのである。約束の絶頂—インマヌエルかれ自身—のみが、約束の意味の内容を明らかにしたのである。「新約のみが旧約のこの象形文字を解く鍵である。福音のみが原始福音の解答である。」

(『世界の救いの黎明』92〜93頁より引用。引用にあたっては一部ことばを変えたところがある。たとえば「子孫」とあるところは原翻訳では「苗裔(すえ) 」とある。)

2013年12月18日水曜日

永遠者を尋ねて

京都市美術館 2013.11.29 by N.Y
「永遠者について尋ねる人が幸福なのではない、永遠者を尋ねる人が幸福なのである。」

世界の創造・救い・完成、これら三つの問題はさながら三つの際立った崇高な象形文字であるかのように、人類の精神史のなかに示されている。かつてどの民族も、これらの問題の前を不注意に素通りしたことがない。それどころか、あらゆる時代の最も偉大な人々が、これらの問題を解こうと努力して来た。

しかし解答は多種多様であり、矛盾したものでもあり、しばしば全く不可解なものでもあった。あとからあとからと、思想体系が考え出され、あとからあとからと、宇宙創成論は現われた。一人の人の思想や論説が倒れ去った廃墟の上に、他の人が自分の思想構造を建設する。そして今日でも人間はまだ、その精神の全精力を挙げて、解答を得るために苦闘している。

しかも、解答はすでに、あったのである。神御自身がそれを明確に与えられたのである。神の永遠の思いは決して、地上のすべての事柄の成り行きとかけ離れて流れていく単なる「観念」ではなく、創造的な行為であって、それは同時にすべての歴史のうちに直接結合し、歴史にしっかりと深く織り込まれており、すべての歴史の「なかに、と共に、下に」よく現われている。「あらゆる時代の歴史は人類の歴史である、そして人類の進歩は—神の歴史である。」

しかし神の与えたもう解答は、彼自身である。彼の御子のペルソナにおける彼御自身の存在である。永遠の「主」として、御子は、全宇宙におけるすべての神の啓示の中心であり、太陽である。

万物は神に由来する。ここに過去の原始すなわち、世界創造の本質が顕われている(コロサイ1・16、ヨハネ伝1・3)。

万物は神によって完成される。これが現在の問題、すなわち世界の救いの過程を、説明する(ロマ書11・36)。

万物は神に帰ろうとしている。ここにすべての未来の目標、すなわち世界の完成の本質的性格が、顕われている(コリント前書15・28)。

このように、キリストにおいて啓示された主なる神は、あらゆる時代の磐であり、あらゆる存在の人格的な、生ける第一の基礎である。

しかし、永遠の言は語られた言を通して啓示され、語られた言は書かれた言となり、書かれた言は聖書となった。かくて、聖書は世界の出来事を解く鍵であり、人類の書であり、歴史の唯一の書である。

それゆえに、すべてはこの書を理解することに懸かっている。聖書なしでは、全く光のない地下牢のなかで手探りで廻っているのにすぎない。しかし聖書の光の臨む人には太陽が、天とその栄光の輝きをともなって臨むのである。その人の歩む途には光明が射し、その人の生活は光となり、時は変貌して、神のものが勝ち、こうしてその人は「今が永遠である」というあの偉大な言葉をますます理解するようになる。

(『世界の救いの黎明』エーリッヒ・ザウアー著聖書図書刊行会1955年刊行、序より引用。ペテロは言っている。「私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです」2ペテロ1・19。一方ソロモンは「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた」伝道3・11と言った。ザウアーの最後の数節を読みながら、このふたつの聖書のみことばを想起した。)

2013年4月14日日曜日

キリストを仰ぎ見て歩む喜び

※笠ヶ岳   2013.4.8
 わたしたちは、偽善的な「おとなしさ」を捨てて、聖いわざのために、積極的に働かなければならない。わたしたちは、キリスト信者の生活が、「競技」「競争」(第一コリント9・24)、「信仰の競技場」での「試合」であるという考え方を、たえずもつように心がけなければならない(ピリピ3・14、ヘブル12・14)。「ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません」(第一コリント9・26)。

「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」(使徒20・24、第二テモテ4・7)。「そうすれば、私は、自分の走ったことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます」(ピリピ2・16※一部口語訳採用)と聖書の記者も言っている。

「賞品」は、優勝者の手に入るのを待っている(第一コリント9・24)。「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」(ピリピ3・14)。

「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい」(第一コリント9・24)と、パウロは勧めている。

しかし、キリストを仰ぎ見る者だけが、勝利を得るのだ。キリストもまた、闘士であった。かれは、まず先駆者となり、勝利者となられた。それゆえ、かれは、わたしたちの模範、力の源、また賞品の授与者となられたのである。

今、わたしたちに必要なのは、贖罪主の人格をあらたに見、十字架を思い、その道に従い、信仰生活の実践に努め、わたしたちの上に豊かに注がれる神のめぐみを、感謝して受けることである。わたしたちは、神の霊の力によって、全く捕えられ、その力によって満たされ、わたしたちの召された目標にまで、神の力によって、走りぬかなければならない。

さらにこまかくいえば、苦しみや悲しみの試練にも耐え、思い煩いを棄て、すべての霊的倦怠を克服し、つねにあかしをたてる心構えと、積極的な伝道精神とをもたなければならない。兄弟愛と聖化、祈祷と神のことばの黙想が、わたしたちの日々の生活の特徴とならなければならない。これらのことができるようになって、はじめて、天国の栄光を目指して、着実な歩みをなすことができる。

これが、この本を書いた目的であり、また特に「ヘブル人への手紙」第12章の説いていることであるといってもよい。過去に語られた神のことばは、いまも、わたしたちの励まし、また戒めとなる。昔のことは、現在の神を信じる者に必要な、信仰復興への呼びかけとなる。

岐阜県立斐太高校の桜    2013.4.8
実は、この真理の中に、わたしたちと神との親しい交わりの秘訣が隠されている。大切なことは、十字架につけられ、死から甦られたキリストを親しく知り、今、自分が神の救いにあずかっているという確信をもち、贖われた者が天国でもつようになる身分を再確認し、キリストにある聖霊の豊かな祝福を喜び、感謝の心をもって仕えることである。

またそのほか、わたしたちは、自分の不完全さを率直に認めることを忘れてはならない。わたしたちは、「実践的聖化」を追い求める責任があることを、自覚していなければならない。有効な伝道のあかしをするためには、犠牲を惜しまない心構えと、この世のあらゆる試練に、着実に耐えてゆくことが必要なのである。祈りと神のことばをとおして神と交わり、全き献身、清新な信仰 、目標を目指す絶えざる努力、責任の自覚、聖なる熱情、キリストの栄光ある再臨のあることを喜び、それを待ち望む心をもたなければならない。

これらのことはみな、救いの泉であるキリストによって、はじめて実行できるのである。「あなたはわたしから実を得るのだ」(ホセア14・8)。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」(ヘブル13・8)。人間の現実の経験の中に、現実に働かれる神のみが、わたしたちを助けることができる。だから、かれの人格にほんとうに、触れることができるという信仰と、かれが臨在されるということを期待する信仰をもたなければならない。かれはいつも(ピリピ4・5)、また、いたるところで、わたしたちとともにおられる。彼の臨在こそわたしたちの救いなのである。自分のささやかな経験をふりかえって考えてみても、キリストは、どのようなときにも、変わらざる助け手であることを知っている。この常に臨在される、生けるキリストこそ、どのような境遇にあっても、喜んで、助けることのできるおかたなのである。

(『信仰の栄冠をめざして』エーリッヒ・ザウアー著 長谷川真訳 序言より引用。こうして総頁266頁に達するこの本の叙述は始まる。それほど大部な本でもない。かと言って小著では決してなく、良書中の良書であることはまちがいない。だから、追々紹介していきたい、※笠ヶ岳の山頂目指して一歩一歩登るがごとく。) 

2013年4月13日土曜日

神の民は、目覚めなければならない。

高山・平湯から眺望する笠ヶ岳(?)2013.4.8
神の民は、神の招きの言葉を、聞いた人たちである。ただ、神の言葉を聞くことによってのみ、神の民になることができる。「信仰は聞くことから始ま」るからである(ローマ10・17)

この神の招きによって、神を信じる群れに、不思議な神の働きが始まった。その神によって贖(あがな)われた者については、わたしたちには、十分に考えたり、語ったりすることさえも、よくできない。かれらは、救われ、和解され、解放され祝福された者(コロサイ1・13〜14、エペソ1・3)、「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」(コロサイ3・12)、神のめぐみの器、力ある父なる神の子、王の子、天国の民なのだ。

まだ多くの不完全さや、弱さがかれらの中にあったとしても、神に属する者たちのうちには、神の聖霊が働いていることを、わたしたちは信じている。またわたしたちは、キリストに従う者のうちに、キリストの姿を見ることができる。実にキリストご自身を、わたしたちの兄弟たちのうちに見ることができる。お互いのうちに見出されるキリストによって、わたしたちは心の底から喜びをもつことができる。「地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります」(詩篇16・3)。

このほかに、まだ大切なことがある。それは、神に属する者が、新しく目覚めることなのである。近年世界に起こった重大事件のうちに、神の激しい警告があった。それにもかかわらず、真に大きく、永く、広く感化を及ぼすような信仰の復興は、ヨーロッパのどの国にも起こらなかった。このことは、非常に悲しむべき事実である。

神の霊は、たしかに部分的な働きを、多くの町や地方で行なった。大衆には、福音が力強く伝えられた。キリスト信者は励まされ、信者でなかった人も、多数新しい信仰に導かれ、喜ばしい救いと感謝の歌が、教会に、天幕に、集会場に、家庭に響き渡った。これらの町や地方でなされためぐみの働きについては、わたしたちはどんなに神に感謝してもしきれない。

けれども、信者の中には、まだ世俗的な心が非常に強い。余りにも多くの、この世に対する執着と心づかいや、狭い利己的な考えや、自分の小さな群れの者だけをかばおうとする排他的な党派心をもったり、以前に意味を失ってしまったような、しかも、聖書の中にも、たしかな裏づけをもたない古い形式的なものを固執したり、あまり重要でないことを、強調し過ぎたり、また反対に、大切なことのほんとうの価値を、無視したりすることがよくある。

わたしたちは、真剣に、次のように、自問してみる必要がある。わたしたちの耳は、戦場のとどろき、爆撃機のひびき、石垣や壁が崩れ落ちて家屋が破壊される音、数百万の老若男女の死んでゆく呻き声で、すっかりつんぼになり、神の声が聞えなくなったのであろうか。

疑いもなく、そのようなところには、罪の力が働いている。それは、神の力でなく、神から離れて、この世で働く悪魔の力(詩篇2・1〜3)である。しかし、この破滅のとどろきの中にも、神は、悪魔の力を、背後から圧倒し、最後には、強い力をもって、かれらを完全に支配し(エレミヤ51・20、イザヤ45・1〜7参照)、「来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた」(詩篇46・8)と語られる。

それでは、どのようにして、神は、これから続けて語られるのであろうか。世界の指導国家は打ち砕かれ、町々は廃墟と化し、古い、かけがいのない貴重な美術品の多くは破壊され、何百万の人が殺されたのだ。神の審きにより、神を離れた罪人たちは、悲惨な結果を自ら招いた。

このような、悪魔に動かされている人類の歴史の渦巻きの真只中にあっても、神の民は、神の声を、はっきりと聞き分けるべきであった。力に満ちたあかし、熱心な伝道、犠牲的精神、聖化を求める心、兄弟愛の実践、永遠に生きる者であるクリスチャンの行ないとその実、それらのものを、この世の人に示すことが、どれほど必要であったかわからない。

しかし全般的に見るとき、現実は、それとは全くかけはなれて、それらのものは、ほとんど見られなかった。

わたしたちキリスト信者が、ほんとうに目覚めないで、どうして信仰のない者が、目覚めることができよう。わたしたち自身が「燃え」ないで、どうして「火」が燃えあがろう。わたしたち自身が、ほんとうに、「生命(いのち)」によって満たされないで、どうして、生命(いのち)のあるものが生まれよう。

神の民は、どうしても、目覚めなければならない。わたしたちは、生命(いのち)を与える上よりの力を、新たに、身につけなければならない。生きておられるキリストが、わたしたちのうちのたましいのうちに実在し、わたしたちのすべてのものを、捕えなければならない。

(『信仰の完成をめざして』エーリッヒ・ザウアー著長谷川真訳序言より引用。この本は第二次世界大戦終了後1952年ドイツ語で書かれたものである。日本での出版が1958年であり、比較的翻訳は早かったが、どの程度この良書が普及したのだろうか、心もとない。高度成長期前夜の日本人はキリスト者もふくめて見向きもしなかったように思える。この前の家庭集会のとき、一人の方はベックさんのメッセージを聞いて、心が燃やされたと言われた。それは霊の覚醒を指すことばだ。2013年の私たちが半世紀以上のこの一人のドイツ人の訴えの背後にある神の声に耳を傾けることは決して無駄ではない。明日は後半を掲載する。)