芦ノ湖畔 2013.12.2 by N.Y |
救いの黎明は、蛇に下された宣告のなかに最も明瞭に現われている。この章節で、福音の最初の約束が明示していることは、陰惨な怒りを貫いて流れている恩恵が、蛇に対する呪詛を人間に対する約束に一変せしめているということである。罪人[アダム]が罰の宣告を待ちながら、被告として神の御前に立っていたときに、直接に約束が与えられることはもちろん考えられないことである。にもかかわらず、宣告を待ちながらふるえているアダムにとって、自分を罪におとし入れた者に対する断罪の宣告は、希望の光たらざるを得なかった。従って「最初の福音の表面は審判であったが、裏面は人類に対する約束を意味したもので」あった。
はじめには、その預言の意味がまだ漠然としている。なぜなら、もしもサタンが蛇によって代表されるならば、蛇の「子孫」は神に敵対する「まむしのすえたち」(マタイ伝3・7、12・34、23・33)としてすべての悪魔の側に立つ悪霊的なもの、人間的なものの全体にほかならない—従って一人の個人ではなくて、多くのものを指すのである。しかしその場合には並行的な対句と対句との調和の点から言って、女の子孫もまた単なるひとりの人ではなくて、やはり多くの子孫、すなわち信仰をいだきつつ女に与えられた約束の基盤の上に立つ人々全部のことでなければならない。
女の子孫もまた、いつかは一人の個人において頂点に達するであろうという観念を、原始の人類はただ間接的にしかもつことができなかった。なぜなら、預言の終句には、女の子孫が蛇の多くの子孫を砕くばかりでなく、その頭である蛇そのものを砕く、と書いてあるからである。このことから多分、女の子孫そのものもまた何時かは一つの頭、一人の人において頂点に達するであろうと認められるからである。
今日、ふり返ってみて、それ以後の預言や成就を解釈することによって(ことにイザヤ書7・14、マタイ伝1・21〜23、ミカ書5・2、ガラテヤ書4・4)、はじめてわれわれは、神がここで初めて—絶対的にではないが暗示的に、いな、主として—御子キリストのことを話されたのであることを悟る(ロマ書16・20、ヨハネ第一書3・8)。人類の中心であるキリストは、同時に、女の子孫の中心である。このことからのみわれわれは、神がなぜ男の子孫と言いたまわず、女の子孫と言いたもうたかを、理解できる。
イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。(マタイ伝1・18)
そしてそれと同時に、その頭を踏み砕き、かかとにかみつく、という預言によって、「メシヤの受くべき苦難」(「かかとにかみつく」を参照)及び「その後の栄光」(「頭を踏み砕く」を参照)を予告している、驚くべきほど多くの神の言明が始まったのである(ペテロ前書1・11)。それゆえに、これ以後のすべての預言のもつ二重性格—すなわちキリストの初臨と再臨とを一つの画像において見ること—が、すでにここに現われている。そしてこの意味において、原始福音はメシヤ預言の根源であるばかりでなく、原型でもあるのである。
このようにその最初の約束の言葉がまた最も包括的で最も深い約束の言葉でもあった。この言葉のなかに救拯史全体と、その順序とが秘められている。「一般的で、不定で、その太古のごとく漠然と、神秘的な宮殿の残墟の前に立つ厳かなスフィンクスのように、この最初の約束の言葉は、くすしく聖く失われた楽園の入口に立つ。遠からずしてイスラエルの預言のなかで、この約束の言葉の解決が明らかになり始める。われわれすべてのために蛇の頭を砕くために、われわれすべてに代わって蛇にかかとをかまれた処女マリヤの子、かれがはじめてこのスフィンクスの謎を解いた。それは聖徒にとっても預言者にとってもときがたい謎であったのである(マタイ伝13・17、ペテロ前書1・10〜12)。かれはこの謎を成就して、これを解いたのである。約束の絶頂—インマヌエルかれ自身—のみが、約束の意味の内容を明らかにしたのである。「新約のみが旧約のこの象形文字を解く鍵である。福音のみが原始福音の解答である。」
(『世界の救いの黎明』92〜93頁より引用。引用にあたっては一部ことばを変えたところがある。たとえば「子孫」とあるところは原翻訳では「苗裔(すえ) 」とある。)
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