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2020年12月31日木曜日

新しい年もよろしくお願いします

白鷺を 追いつつ歩む 楽しさよ 古利根川を 妻と語らう

兄弟クワルトもよろしくと言っています。(ロマ書16・23)

 あっと言う間に大晦日を迎えてしまった。今年は「自己嫌悪」の思いが強くなり、このブログは8月以来、投稿しなくなった。ブログを始めたのは、泉あるところ1(2008年 6月開始)からなのだが、この12年間でもっとも投稿数の少ない年になってしまった。

 その原因としては「自己嫌悪」の他に、カーライルのクロムエルの紹介について確たるものが自身の内に持てなくなったことがある。そんなおり、二日ほど前に、内村鑑三の「ロマ書の研究(下)」を読んでいたら、たまたま次の文章に出会った。(同書第58講パウロの友人録より引用)

 カーライルのクロンウエル伝は、世にある伝記中の最も優秀なものであろう。彼はクロンウエルの書簡と演説をできるだけ多く蒐集(しゅうしゅう)し、それに説明を加えて、読者の了解に便ならしめて、これを世に提供したのである。ゆえに、題して『クロンウエル伝』といわず、『クロンウエルの書簡および演説』という。けだし彼もし自己の筆をもってクロンウエルの生涯をえがきださんか、読者はカーライルを通してクロンウエルを知ることとなりて、その知識は間接なるをまぬかれないであろう。

 しかし、もしクロンウエルの書簡と演説とをそのまま読者に提出するときは、人々は直ちにクロンウエルの姿に接するを得て、その知識は直接かつ純粋なるを得るであろう。カーライルはかく考えしゆえ、わざと自己を隠して、もっぱらクロンウエルだけを人の前に提出したのである。これ彼のクロンウエル伝の特に貴き理由である。まことに人の手紙ほどその人をよく表わすものはない。

 ロマ書のごときは一つの系統ある思想の大なる発表であるが、最後にこれら人名録を見て、これが一つの書簡としてこれらの人々に送られしものなることを知りて、この書が単なる論文にあらずして、生ける人より生ける人に送られし一つの生ける消息であることを知るのである。実にこの人名録はロマ書の価値と性質とを示すものである。

 もとより、以上の内村の文章は、ロマ書の本質を示すにありて、カーライルの「クロンウエル伝」への言及は単なる傍証として用いたに過ぎない。が、近頃、読んだ文章の中では私にとり、一服の清涼剤の役目を果たしてくれた。それはクロムエルに注目したことは間違いでなかったと思ったからである。また、ロマ書は毎日でも読むべきだとはかつてベック兄の書かれた書物(『神の愛』)で読んだことがある。その時、こんなむつかしい文章をと思っていたが、パウロのローマ人に宛てた手紙は(他の手紙もそうだし、聖書全体がすでにそうなのだが・・・)内村も言うごとく、生ける人の生ける人に送られた生ける消息であったことをこの年末ほんの少しだが、聖書通読の際に体験することができたからである。

 コロナ禍で始まり、大変なコロナ禍で年を越し、ますます人と人との接触が難しくなる中、パウロが「兄弟クワルトもよろしくと言っています」と一切の肩書き抜きのクワルトを、わが「兄弟」として(しかし、これこそ最大の賛辞である)ローマの愛する人々に紹介して書簡を閉じていることに大きな励ましをいただいた。新しい年、愛する方々を今まで以上に覚え、ともに心から主を賛美したい。

2014年5月31日土曜日

われもまた天国の門前で哀哭歯切することなかりしか

昨夕、一人の方を訪ね、共に語らった。その方は私に「自分はあなたのように入信することはむつかしい」と言われた。「入信」と言われて、その真意をはかりかねたので、内村の『宗教座談』の中の天国談を思い出し、その話の大要を紹介させていただいた。まわらぬ舌はどの程度その話を正確にその方に伝え得たか心もとない。しかし、その方は大いにこの話に関心を示された。再度確認するためにその文章を写させていただく。内村はその宗教座談の最後で天国について二回に分けて語るが、それを閉じるにあたって次のように言うのだ。

しかし、この談話を終わります前に、天国についてなお一つ述べ置きたいことがございます。それは私どもが天国に行きました時に、その市民の中に思いがけない人の必ず多いことについてであります。多分かような人は決して天国にはいるまいと思う人がたくさんにおりましょうし、この人は必ずいるであろうと思うていた人がおりますまいと思います。

そしてそのような例として自信満々の宣教師、さては慈善家、牧師などがイエス様ご自身に頼ることなしに、この世でその地位・名誉をいただきながら天国の前で、門前払いされることに抗議するさまを描写しさらに次のように語る。

そうして彼らは一同に声を上げて天国の門衛に迫って申しましょう。「彼の人(天国の市民の一人を指して)は世にあってはかつて安息日に彼の職業に従事して神の聖日を汚した者であります。彼が天国にある理由はありません。」と。

また彼らは他の天国の民を指して申しましょう。「この婦人は在世の間はろくろく教会に出席したこともなく、かつその行状には我々どものゆるしがたきこともたくさんありました。彼女は実は洗礼もいまだ受けざるくらいの者でありまして、彼女が天国にあらんなどとはもってのほかのことであります。」と。

その他天国在住者に対しては彼らの批評が区々でありまして「彼はかつて姦淫を犯したことがある」といい、「この者は酒と煙草とを用いし者である」といい、「彼は洗礼の必要を否みしことがあり」といい、「これはかつて外国宣教師に無礼を加えしことがある」などと申します。

そうして彼らが失望落胆のうちに逡巡しておりますときに、門内より大喝一声して彼らに告ぐる者があります。

働きによるにあらず、その署名せし教義のいかんによるにあらず、その属せし教会のいかんまたは有無によるにあらず、また必ずしもその行状の完全無欠なるによるにあらず、すべて神を信じ、キリストにおいて現われたる神の救済を信じ、その罪を悔い神により頼みし者はすべてここにあり。しからざる者はその神学博士たると、牧師たると、宣教師たると、キリスト教文学者たるとを問わず、彼らは皆この国に入るの一つの資格をも有せざる者なれば彼らは速やかにここを立ち去るべし

と、時に私どもは彼ら一同の人々が哀哭歯切(かなしみはがみ)するのを見ることでございましょう。(内村鑑三全集第8巻197〜199頁より引用)

以上、内村のおよそ今から114年前、すなわち1900年(明治33年)の文章を紹介させていただいたが、もちろんこのような「天国」に対する洞察は内村独自のものではない。イエス様のおことばそのものが源流であり、救いの原点であるからである。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2・8〜9)

わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(マタイ7・21〜23)

信仰から出ていないことは、みな罪です。(ローマ14・23)

2012年9月29日土曜日

再考、高崎・横川間

碓井川(松井田近辺、信越線車窓から)
先週に続いて再び信越線の乗客となった。実は、先週列車の右側に座席を占めるか、左側に座席を占めるかでは大いに景色が違うと、極めて独断的に書いた。その際、線路の上から見たら、どっちもどっち、要するに列車は平野部を気持ちよく縫うように走っているのに過ぎないのに、敢えて右側と左側では景色が違うと言うのは強弁でないかという思いが心の片隅にないわけではなかった。

果たせるかな、今回の乗車は内心ヒヤヒヤであった。何しろ、自説は事実をもって検証されるからである。出来の悪い生徒が答え合わせをさせられるような気分であった。高崎を過ぎて群馬八幡を通り過ぎ、安中に差し掛かるあたりはまさしく自説が独断と謬見に満ちていることは明らかであった。

しかし、今回は別のことに気づいた。それはどの駅も高崎から横川に向かう方向で言うと駅舎は明らかに右側(方角的には北側)にあり、しかも、そちらのホームが一番ホームで上りであるということであった。

そして信越線は複線であり、横川方面に走行する列車、つまり下りの電車はいずれも2番ホームに入るということに気づいた。そして、安中をすぎる頃からやや自説を支持する局面が展開し始めた。町は明らかに線路の駅舎を北に見ながらその南側に展開しているのだ。逆に言うと恐らく高崎から安中方面は駅舎の南側だけでなく、線路を越えてさらに街が拡がって行ったのではないだろうかと推察できたからである。もっとも安中は亜鉛鉱山がそもそも市街部とは反対側に位置しているからもともと駅の向こう側にまで発展する要素があったんだろう。

それにしても全国各地で東京に合わせ上り下りを決めて、その上り方面に駅舎を設け、そこがその土地の玄関口になっているのだ。何と言う中央集権ぶりであろうか。恐らく線路をどのように引くかは利便性と弊害性を斟酌しながら当時の「政治」が絡んだ大事業だったのだと思う。そういう意味では私の仮説もあながち無鉄砲ではなかったのでないだろうか。

もともと私がこのような妄想を逞しくしたのは、かつて内村鑑三が関東大震災のおり、たまたま軽井沢におり、急遽この信越線で高崎、大宮を経由して大苦労の末、東京に戻れたことをかつて読んだことがあり、そのことに思いを馳せながら車窓を眺めていたこともある。

けれども果たして私の仮説はどの程度信頼性を持つのだろうか。一方聖書は独断と謬見を何よりも嫌うものである。ペテロは次のように言って事実の検証を主張している。

私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。(新約聖書 1ペテロ1・16)

2011年5月8日日曜日

地震について 内村鑑三

「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」(新約聖書 ヘブル12:26)

The earthquake is a physical phenomenon attending the ever contacting earth; and as such, it will come regardless of goodness or badness of mankind that dwells upon the earth. It is therefore scientifically true that "we have not here an abiding city." The earth is shaking, and with it every thing that stands or lives upon it.

But there is "a kingdom that cannot be shaked," a kingdom that is not of the shaking earth. We can be the citizens of the unshaking kingdom, while living upon the shaking earth, and can remain even after the earth itself will be wiped out of existence.

May we so live that we are not afraid earthquakes, ever singing,
     " In the cross of Christ I glory,
      Towering o'er the wrecks of Time."

地震はつねに収縮しつつある地球にともなう天然的現象である。ゆえに地上に棲息する人類の善悪いかんにかかわらず臨むものである。聖書に「われらここにありてつねに保つべき都城(みやこ)なし」とあるは科学の立場より見て真理である。(ヘブライ書12章14節※)
地は震いつつある、そして地とともに地上万物は震いつつある。

しかれどもここにまた震われざる国がある、震いつつある地に属せざる国がある。そして我らは震いつつあるこの地に住みながら、この震われざる国の市民たることができる。地そのものが拭い去らるるそのあとといえどもなお生命を継続することができる。

願う我らは地震を恐るることなくして生活し得んことを、つねに口に賛美を唱えつつ

荒れはつる世に 高く聳ゆる
主の十字架にこそ 我は誇らめ

と(賛美歌第81番)

(今朝、後藤さんのブログで斎藤茂吉歌集のともしびを読んでいたら、無性に内村のこの件が読みたくなり写してみた。この出所は「聖書の研究」第279号の巻頭にある文章である。日付は大正12年10月10日とある。なお文中のアンダーライン部はこの書の元の持ち主小林儀八郎さんが戦前にひかれたものである。私はこの本を小林さんのお嬢さんにあたる方から先年譲っていただいた。※内村の示すこの箇所は不明である。聖書にはヘブル12:26~28、11:10~16などがある。)

2010年12月3日金曜日

内村の小文二つ

(初冬の琵琶湖、奥に見える島は沖島?09.12.6)
昨今の政治の世界を見ると混乱極まりなく、一体どこへこの国が行こうとしているか定かでない。昨日のヴォーリズ氏の話は今からおよそ100年ほど前である。日本は日露戦争に勝利して、西園寺公望内閣の時のようだ。ざっと年表を見てみると1907年には日仏協約、日露協約、さらに第三次日韓協約と小さな国日本が諸列強を前に外交交渉を繰り返していることがわかる。もちろん隣国を足蹴にしてではあるが・・・。

大状況である国家が新生国家よろしく帝国主義国家形成を目指しているとき、ようやく個人と家制度の相克が明らかになり、自然主義文学が澎湃と姿を現わしてきているようだ。田山花袋の『布団』がこの年の作品である。一方夏目漱石は大学を辞し、朝日新聞に入社、新聞小説として『虞美人草』の連載が始まっている。ヴォーリズさんは田舎の近江の地で苦戦中である。当時のキリスト者が生きる上での風当たりはどんなであったろうか、と想像を逞しうするのだが、わからない。

手元の内村鑑三全集の15巻はちょうどその年に当たる。紐解くと、彼の父が4月に亡くなっていることがわかる。内村の二つの文を抜粋引用する。(引用は同全集59~61頁より)

父死して感あり

肉の父は逝けり、されども霊の父は残れり、地上の父は去れり、されども天に在す父は存せり、小なる父は我を離れたり、されども大なる父は我に近し、我は我が父を失いてこの世にありてなお孤児(みなしご)ならず、天に在す我らの父よと、しかり、我は父を失いて父を失わず、天に在(いま)す我が父は存す、而して我が失いし地に在りし父もまた天に在す父に在りて存す、天に在すわが父を失わざる我は地に在りし我が父を永久に失わず、我は我が父を失いて泣く、然れども我は希望なき他の人の如くに嘆かず、そは我らイエスの死にてよみがえりしことを信ずるが故にイエスによれるところのすでに眠れる者を神、彼とともに携え来たらんことを信ずればなり。テサロニケ前書四章十三、十四節

悲痛の極

人の死するは悲し、されども品性の堕落するが如くに悲しからず、品性の堕落は霊魂の死なり、これに復活の希望あるなし、これ永遠の死なり、嘆じてもなお余りあるは実にこのことなり。
預言者エレミヤ曰く

死者のために泣くことなかれ、これがために嘆くことなかれ、むしろ捕え移されし者のためにいたく 嘆くべし、彼は再び帰りてその故里を見ざるべければなり(エレミヤ二十二章十節)

と、悪魔にとらえられ、その社会に移されて再び帰りて父の故里を見る能わざる者の如くに悲しむべくして痛むべき者はあらず、我は我が首を水となし、我が目を涙の泉としてかかる者のために泣かんと欲す。同九章一節

国家いかにあろうともキリスト者の闘いが100年前も100年後の今も変わらざることを思う。

2010年4月12日月曜日

十二、爆発(下)


 『クラスの秘密がわからんか、君は、赤猿が酒をのんだ事、俺が煙草を吹かすことをヴォーリズにいっただろう』
 『それはクラスの秘密ではありません。僕はT君やK君のためにヴォーリズさんと相談して、禁酒禁煙のYMCAに入会してもらう計画をしたんです』
 Iの答は小さい声でも皆に聞こえたらしかった。
 『議論せんと、なぐれ』
 『おいたれ、おいたれ、可哀想に』
 『同級生をなぐるのは名誉やないぞ』
 『なぐれなぐれ』
 Iは鉄拳を覚悟した、そして黙って祈った。

 『神様救うて下さい、私をなぐる人達もこんな事をせぬ人にして下さい』

 しばらくして。ドヤドヤと大勢の足音に目を開くと、同級生は、ストライキを中止して向こうにいった。
 感謝感謝、神に感謝して、Iはその下宿ヴォーリズさんの借家にもどった。
 その翌日だ。

 暴行が決行された。年少の学生を一人一人雨天体操場にオビキ出してきては、三年級生一同で、毆打の限りをつくした。寄宿舎の病室に寝ていた一生徒を引出して、竹刀と、皮のスリッパーと、拳骨をもって瀕死の状態までになぐりつけた。なぐった青年たちの拳は血ににじんでいた。
そしてその学生は、淡路の者で親がきて連れて帰ったが後に、死んでしまったという事であった。雨天体操場は中から錠をかけてしまって、数人の下級生をストライキしていた最中、教師の一人N先生が入口の戸の節穴からなかを覗いたのを、内側にいた、暴動の首謀者、Oが拳骨をかためて、その眼の上を、イヤという程なぐりつけた、その同じ節穴より外を見た学生は、
『オイオイ、N先生が、額に手をあてて逃げていったぞ』といった。
 ストライキの現場を教師に見つけられたから、その暴行も自然中止となって、真青にふるえている下級生達を、その場に取残して、一同、バラバラに校門を出た。

 そして六日して後、近江新聞に以下の記事が出ておった。

       商業学生の大挙暴行 明治39年1月26日
『去る二十日本県立商業学校内において、本科三年級生徒嵯峨瀬民次大谷豊太郎の両名主謀者となり、同級生徒の過半数(別報によれば同級全生徒なりともいう)これに雷同して下級生徒四名を毆打し負傷せしめたるために同級全生徒はあるいは退学あるいは停学あるいは訓戒などの処分を受くるに至りたり、今その詳細を聞くに初め嵯峨瀬らが暴行を加えんと目指し密かに牒し合したるは本科一二年および予科の生徒中十数名にして同日先ずその内最も敵視したる某某四名を雨中体操場内に誘い行き矢庭に包囲して鉄拳を飛ばし散々に毆打の蛮行を逞しうし中には器物をもって頭部を乱打し出血淋漓(りんり)たらしむるに至れるものすらありしがこの不穏の騒動を聞きたる生徒主任その他の職員等現場に駆け付け一方既に負傷したる四名の生徒を救い出して丁寧に手当てを施し、一方次いで暴行を加えられんとする生徒を保護し直ちに主謀者および下手人の取調べをなしなおかかる重大事件なれば軽率に処置すべからずとその後引続き綿密に調査の歩を進めたるがその原因は別段深き意趣遺恨などありての事にはあらず要するに彼らは下級生の身にも顧みず平素上級生に対して敬意を欠きたりとかいわゆる生意気なりというほどの憎しみと自己の威勢を張らんと欲したるに過ぎざる由なれどもいやしくも名を忠告に借りて右のごとき乱暴の行為をなすが如きは許すべからざることなるのみならず将来実業界に身を投ぜんとするもののためには一層厳戒せざるべからざる所今これら不穏の挙動をなしたるものの処分を寛大にせんか他の生徒のためあるいは悪影響を及ぼさんも知れざるをもって心情多少忍び難き点なきにあらざるも断然厳重の措置を執るべしと二十三日それぞれ副保証人を学校に呼び出し安場校長より一々将来の理由を懇話し同級生全生徒に対し以下の処分を行いたりという実に当然の処断というべし。
  退学 二名 無期停学 三名 一ヶ月停学 一名 三日間停学 十六名 訓戒 二十三名
 中学教育時代にあるもの往々客気に乗じ蛮勇を誇り不穏粗暴の行いをなし却って得たりとする事をあるを聞く苦々しき挙動にて沙汰の限りというべし。』

 以上、『近江の兄弟』(吉田悦蔵著45~48頁より)の引用である。飛んだ事件が起こったものである。明治39年は西暦1906年に当たるから、すでに100年以上前の一地方の出来事である。しかし事はこれで終わらなかった。思わぬ展開でこの事件はヴォーリズ氏に火の粉が舞いかかることになる。すでにこれよりも10数年以前のこと1891年(明治24年)11月には井上哲次郎氏の論文〔宗教と教育について〕が発表されている。同年初の内村鑑三の不敬事件に端を発するキリスト教攻撃が激しくなってのことであった。

ゆえなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多く、私を滅ぼそうとする者、偽り者の私の敵は強いのです。(旧約聖書 詩篇69・4)

(写真は朝陽を受ける花大根)

2009年10月30日金曜日

Kさんのお父様の遺品


 もうかれこれ二年経つのだろうか。記憶が定かでなくなっているのだが、ある日上荻のKさん宅へMさんご夫妻、それに別のMさんと私の四人でお訪ねしたことがあった。その時はすでに戦死されたお父様の遺されたお手紙をお引き受けして転写し始めていたように思う。

  Kさんは私たちにお父様の遺品(主に書籍類)をお見せくださり、「父の遺品です。記念に持ち帰ってください」と言われた。私は余りにももったいない思いがしてその時、一冊の古色蒼然とした本を譲っていただいた。それがこの9月初めに紹介(※)させていただいた『聖書之研究』(1923年270-281)という内村鑑三主筆の合本であった。

 1923年と言うと1911年(明治44年)生まれのお父様がまだ12,3歳の時である。従って長ずるに及んでこの合本を古本として手にされたように思う。合本に記されていた赤のサイドラインをお父様の引かれたものと9月初めの「関東大震災と内村鑑三」の項目では言ってしまったが、最初の持ち主が引かれたのかもしれない。それが時を隔てて今私の手許にある。

 これらの合本には畔上賢造氏はじめ内村とともに無教会の形成に加わった方々の貴重な論考が並んでいる。(ルターの卓上小話も畔上氏の訳で掲載されており、内村のマダガスカルの宣教の歴史を述べる記事もあり以前ブログで述べたことに補充が必要なことも知った。)三谷隆正氏のデビュー作「カントの有神論」も載っている記念すべき号だ。

 ところが9月中旬にお父様が先生と仰いでおられた藤本正高氏の著作集を古本で見つけ思い切って購入することにした。その本を通して藤本正高氏が最初教会の牧師であったがその後、無教会の群れに移られた方であることを知った。それとともに藤本正高氏の転機になった一つにこの1923年の『聖書之研究』があったことを知った。

 それは、どういうことであったか。9月初めの「関東大震災と内村鑑三」の記事紹介の折、震災より有島事件がどれほど人間の霊性を駄目にした事件かわからない旨のことを内村が吐露している文章を紹介したが、この内村の指摘が若き藤本正高氏の曖昧なキリスト信仰を叩きのめしたものであったのだ。

 藤本氏は当時旧制中学の5年生であった。すでに主イエス・キリストを信じていたが、一方有島武郎の作品の愛読者でもあり、当時の新聞や雑誌が有島氏が情死したことに同情的であった中で、内村の『聖書之研究』277号の記事および前回引用させていただいた279号を通して大いに悔い改めさせられたということであった。

 この藤本正高氏がKさんのお父様お母様の結婚式の司式を行なわれた方である。私はお父様がお母様に宛てられたものを中心とする57通の手紙(1938年~1944年まで)を転写する中で、しばしばこの人のきよい信仰はどこから流れてくるのだろうかと思わされていた。それは言うまでもなく師であり兄弟である藤本氏たちの主イエス・キリストを愛する人々の交わりの中から生まれてきたものであった。

 二年がかりになってしまったこのお父様のお手紙の転写も先頃やっと終わった。これからその内容をよく理解して読み直そうとしていた。その矢先にこの著作集に出会った。不思議な導きを覚えた。

※詳細は「泉あるところ」http://livingwaterinchrist.cocolog-nifty.com/blog/

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は何と測り知りがたいことでしょう。・・・すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る・・・(新約聖書ローマ11・33、36)

(写真は拙宅玄関前の野菊。正確には「野紺菊」。「主愛す 野菊のごとき 生遺し」 。)