2012年9月29日土曜日

再考、高崎・横川間

碓井川(松井田近辺、信越線車窓から)
先週に続いて再び信越線の乗客となった。実は、先週列車の右側に座席を占めるか、左側に座席を占めるかでは大いに景色が違うと、極めて独断的に書いた。その際、線路の上から見たら、どっちもどっち、要するに列車は平野部を気持ちよく縫うように走っているのに過ぎないのに、敢えて右側と左側では景色が違うと言うのは強弁でないかという思いが心の片隅にないわけではなかった。

果たせるかな、今回の乗車は内心ヒヤヒヤであった。何しろ、自説は事実をもって検証されるからである。出来の悪い生徒が答え合わせをさせられるような気分であった。高崎を過ぎて群馬八幡を通り過ぎ、安中に差し掛かるあたりはまさしく自説が独断と謬見に満ちていることは明らかであった。

しかし、今回は別のことに気づいた。それはどの駅も高崎から横川に向かう方向で言うと駅舎は明らかに右側(方角的には北側)にあり、しかも、そちらのホームが一番ホームで上りであるということであった。

そして信越線は複線であり、横川方面に走行する列車、つまり下りの電車はいずれも2番ホームに入るということに気づいた。そして、安中をすぎる頃からやや自説を支持する局面が展開し始めた。町は明らかに線路の駅舎を北に見ながらその南側に展開しているのだ。逆に言うと恐らく高崎から安中方面は駅舎の南側だけでなく、線路を越えてさらに街が拡がって行ったのではないだろうかと推察できたからである。もっとも安中は亜鉛鉱山がそもそも市街部とは反対側に位置しているからもともと駅の向こう側にまで発展する要素があったんだろう。

それにしても全国各地で東京に合わせ上り下りを決めて、その上り方面に駅舎を設け、そこがその土地の玄関口になっているのだ。何と言う中央集権ぶりであろうか。恐らく線路をどのように引くかは利便性と弊害性を斟酌しながら当時の「政治」が絡んだ大事業だったのだと思う。そういう意味では私の仮説もあながち無鉄砲ではなかったのでないだろうか。

もともと私がこのような妄想を逞しくしたのは、かつて内村鑑三が関東大震災のおり、たまたま軽井沢におり、急遽この信越線で高崎、大宮を経由して大苦労の末、東京に戻れたことをかつて読んだことがあり、そのことに思いを馳せながら車窓を眺めていたこともある。

けれども果たして私の仮説はどの程度信頼性を持つのだろうか。一方聖書は独断と謬見を何よりも嫌うものである。ペテロは次のように言って事実の検証を主張している。

私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。(新約聖書 1ペテロ1・16)

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