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2017年2月28日火曜日

『徒手空拳』ということば

版画 谷口幸三郎

 ブログをずっと休んでいた。それなりの理由があった。ブログが中心で過去一年間ほど自らの聖書の学びが疎かになってしまっていたことを示されたからである。三週間、じっくり聖書を読むことができたか?と言うと心もとないが、それでも自らがどのような者であるかは少し静まって考えることができるようになった。でも後述するように果たしてどの程度自分が分かってきたのか、疑問である。

 それよりも前回の記事『三年七ヶ月』の記事を投稿したその週の日曜日にはまさかの家族に再び病気が見舞った。主なる神様は私の好い加減な姿勢を見透かすかのように事を起こされた。幸い、三年九ヶ月前の病院に収容されて元気を回復しつつある。その背後には多くの方の祈りの支えがあったことと感謝している。

 さて、標題の『徒手空拳(としゅくうけん)』ということばだ。人様の前でこのことばを使った。話し終わって早速妻から苦言を呈された。意味がわからない。意味を説明すべきだった、と。聖書中の人物を見ているうちに、その人物には何の頼るものもなかったことを思い、そう表現した。もっとも話す前にネットで意味を確かめて自分なりに確信を持って話していたのだが。

 妻の苦言が気になり、もう一度改めて考えると適切でなかったとしか言えない。徒手空拳には二つの意味がある。1、手に何も持っていず、素手であること 2、資金・地位など頼るものがなく、自分の身一つであること。例文として「徒手空拳で事業を始める」とあった。果たして自分が説明しようとした人物にこの形容がふさわしいか。私はその話の中でこれこそ『徒手空拳』だと詩篇125篇の2節を引用した。

山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。

 しかし、これは全く徒手空拳どころか、主なる神様が何もない者を全面的に支えていてくださる証しのことばでないか。彼自身には何の力もないが、主なる神様があのエルサレムを囲んでいる山々のように、自らを全面的に支えてくださっていると確信を持って言うことができたからである。それが困難な900マイルの荒野にもかかわらず、多くの人を、また多くの金・銀・ささげ物を無事に運ぶことができた理由なのだ。その上、彼を待っていたのはもっと解決不可能なエルサレムの実情だった・・・そこにも主による解決があった。

 全く見当違いのことばを皆さんの前で奇をてらって語ってしまった。ブログ氏の悪い性向は今もって一向に改まっていないのを恥ずる。このようにどうしようもないトンチンカンで自己中心のブログ氏だが、今日語らせていただいたみことばを我が胸に刻み、再びブログを再開することにする。ただし、ほどほどに。

すなわち、彼は第一の月の一日にバビロンを出発して、第五の月の一日にエルサレムに着いた。彼の神の恵みの御手が確かに彼の上にあった。エズラは、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルでおきてと定めを教えようとして、心を定めていたからである。(エズラ7:9〜10)

2017年2月7日火曜日

3年7ヵ月の祝福


ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。(イザヤ書44:21〜22)

 今日は火曜学び会の日であった。都合により休み、ネットで視聴させていただいた。メッセージ、お証し、それぞれ心を揺さぶられる内容であった。メッセンジャーの方は度々家庭集会にお招きする方だが、冒頭の聖句がメッセージの主題聖句であった。そしてそのみことばに基づいて四つのことを指摘してくださった。

 先ず私たちは主なる神様によって愛される者として造られていること。次に、たとえどんな背きの罪もイエス様の贖いの死によって赦されるということ。第三に決して私たちは主にとって忘れられることがない存在だということ。最後に主なる神様は『わたしに帰れ』と絶えず呼びかけてくださる愛なるお方だと語ってくださった。

 ところがそれで終わりかと思いきやこの愛の実践篇であると言ってご自身のお兄さんが78歳でつい最近召された経緯をお証してくださった。救われて後、30年間主に背き続けられたお兄さんが家族、兄弟に自らの罪を詫びて天に凱旋されたという内容であった。

 学びの後、今度は昭和16年生まれのご婦人が自らの信仰を証してくださった。時間の経つのも忘れさせる、主イエス様の数々のお取り計らいに聞いている私はただ目を見開くばかりであったが、これまた私にとっては良き悔い改めの時となった。なぜなら、その方はご主人とともなる事業の浮沈の中で何故か苦難に襲われる時、いつも空を仰いで救われたと言われ、主の御存在を思う次のみことばを紹介されたからである。

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。(詩篇19:1)

 私のような好い加減な信仰でなく、揺るぎない主への感謝がその方の口を通して語られたからでもある。

 そして今日は午後には去る1月19日に42歳で3年7ヵ月の闘病の末、召された若いご婦人のお別れ会もあった。ここでも詩篇103:1〜5、マルコ5:21〜43がメッセンジャーの口を通して忠実に語られ、遺族への大きな希望、慰めの一時となった。終わりに遺族であるご主人から挨拶があった。三ヶ月に及ぶ意識不明の状態から、意識が回復したが、視力は閉ざされたまま、他の五感も言うことを効かなかった。そのうち、やや改善されとうとう会話ができる状態になり、お二人にとってともに祈ることが生きる原動力になったこと。そして天国への確かな希望を持つことができたことなどを語ってくださった。

 考えてみると彼女が倒れる一月前2013年の5月18日にやはり私どもにも同じような病が家族の一人に襲い、パニックになった。その頃から私たちはこのご夫妻には戦友の間柄の感があった。双方の家族のために多くの方々が祈ってくださり今日がある。だから今日のお別れ会は特別の思いもあり、出席したかったが、以下の事情がありネットで視聴せざるを得なかった。それは奇しくも今日、その家族がパリから帰国する日になってしまったからである。98歳になる祖父、親族のご機嫌伺いが目的である。先ほどその家族をふくんで食卓を囲んだ。感慨深いものがあった。

 それにしても今日は一日、「主イエス様の真実な愛は尽きることがない」ということを嫌という程、この者に知らしめてくださる日となった。顧みると今日は我が誕生日の日であった。長女から写真の手作りのお菓子が贈られてきた。家内はそれをきれいにお皿に盛り、さっさと彩りをつけ飾ってくれた。いつもは様々なお祝い品をくれる次女には最初から当方で辞退していた。それなのに何もしないことをしきりと詫びる。そこへ行くと男性陣は三人が三人とも無関心である。寂しくもあるが、そうでもない。当然な気がするからである。やせ我慢を張るわけではないが、かくの如き十分な恵みを主にある兄弟姉妹のお証をとおして十分いただいたからである。これぞ誕生日にふさわしい恵みではないか。上から無償でいただいた最高の贈り物だと思う。

2017年1月17日火曜日

宗教の空しさ(中)

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11:28)

 使徒パウロもまた非常に宗教的な人だったのです。けども、彼も失われていました。 しかし、このパウロは主イエス様との出会いを通して、自分の罪の状態に心の目が開かれ、それと同時に主なる神の偉大さ、救いの素晴らしさも知ることができたのです。パウロは次のように告白しています。ガラテヤ書1章12節に
私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

人間から受けなかったし、教えられもしなかった。イエス・キリストの啓示によって、自分のものにしたのですと彼は証しています。すなわち、彼はイエス・キリストを知ることによって、「失われた者」から「救われた者」に変えられたのです。彼はテモテ第一の手紙1章15節に
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

と、証しています。ここでイエス様は「道徳」や「宗教」を与えるためではなく、「罪人を救う」ためにこの世に来たとおっしゃっています。そのように宗教的だった人は、しかしながら失われていた人は、「罪人」として主イエス様のみもとに来て救われたというような人は何百何千万というような数に上ります。たとえ非常に宗教的なお坊さん、教会の牧師、あるいは哲学者、あるいは博士あるいは技師、法律家、あるいはその他どのような職業であろうとも、あなたは失われた罪人として、救いの恵みを受けるために主なる神の前に行かなければなりません。あなたはそのままの状態で、すなわち乏しく、失われている、そのありのままの状態で主イエス様のみもとに行って下さい。そうすればイエス様はあなたを受け入れ救って下さいます。

ヨハネ伝1章12節に
しかし、この方を(キリスト教の教えとは書いていないのです。「この方」を、すなわちイエス・キリストご自身を)受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

と、あります。イエス様のみもとに来るすべての人をイエス様は確実に救って受け入れてくださいます。わたしのもとに来る者をわたしは決して捨てませんとイエス様は約束してくださったからです。教会、お寺その他あらゆる種類の集会所は宗教的ではあるけど、失われた人々で一杯ではないでしょうか。

 パウロはコリント第二の手紙4章の3節と4節に、悪魔の働きについて次のように書き記したのです。
それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神(すなわち「悪魔」)が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

と、書いてあります。

 何年か前のことですが、臨終の床におかれている若いカトリック信者がいました。彼は自分は失われていること、そして恐ろしい状態に置かれていることを知っていました。「死」は恐ろしい現実であり、今まで一度も味わったことのないような不安を人々に与えます。神父が来るようにと呼ばれました。かけつけてきた神父は一冊の本からいくつかの祈りを朗読し、あわれな死につつある若者に秘蹟をし、また「何も恐れるものはありません」と告げました。その神父が立ち去ると、すぐに一人の友だちが若者に言いました。「あなたは今やしあわせで平安に死んで行けると思いますか」と訊ねたんです。「絶対、そんなことはありません」と若者は答えました。「私は全然しあわせではありません」「私は平安を持っていません」「私は平安がなければ死ねません、どうしたらいいのでしょうか」と叫んだんです。

 あらゆる儀式や形式をともなう宗教と言えども、キリストなしには死の床にたましいに平安を与えることは絶対にできません。しばらくすると別の友だちが彼を見にやって来ました。そして、次のような美しい賛美歌を彼に向かって読み始めました。

主イエスよ、私は今
ありのままの状態で罪人として
あなたのみもとに参ります
私は滅ぶべき者ですが
主の流された血潮によって
私の罪も罰せられたことを感謝します
私は自分の力では何もできませんが
神の小羊であるイエス様が救いの御手を
差し伸べてくださっていることを感謝します
あなたを受け入れ信じます

この最初の一節が読まれるのを聞くやいなや、死につつある若者は心の奥底から、真剣にどうかもう一度読んでくださいと言いました。この賛美歌は何度も繰り返し読まれました。すると、その若者はあたかも彼のいのちがすべてそれにかなっているかのように耳を澄ませ、ことばの一つ一つを噛みしめました。

(引用者註:見出しの赤字のみことばは引用者の判断でつけくわえているもので、そのあとからが昨日のベック兄の『宗教の空しさ』と題するメッセージの聞き書きの続きです。今日の火曜学び会では『死刑囚への手紙』という題名で2サムエル12:1〜7が引用聖句として語られた。証しは「ゆずり」ちゃんのお父さんだった。GH[148])

2016年12月13日火曜日

As the Tree Falls, So It Lies


あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守られます。(詩篇32:7) 
各々みな、風を避ける避け所、あらしを避ける隠れ場のようになる(イザヤ32:2)

 いかなる時も、もはやかなたの救いの可能性の黄昏もなく、恵みあるあなたの日は、失せるでしょう。そして次に木が倒れるように、あなたも葬られます。死があなたに訪れるように、裁きがあなたを訪れるでしょう。あなたが見出されるところ・・・そこで主の日はあなたを見出すでしょう。「その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます(2ペテロ3:10)。」

 天も地もあなたが立てる場所まで与えない時、あなたはどうしますか。しかし、イエス様のところに来なさい。主はその恐ろしい嵐からあなたを守る隠れ場所です。「私はあなたの中に、身を隠します(詩篇143:9)。」「やがて来る御怒りから(1テサロニケ1:10)」「あなたは私の隠れ場です。」

あなたは永遠のいのちのみことばを
持っておられます
あなたは戦いに勝利を下さいます
あなただけが変わることのない友です
私たちはいつまでもあなたにお頼りします
生にあっても死にあっても
私たちは世の救い主から逃れ出て
あなたのもとに急ぎます

Thou hast the words of endless life;
Thou givest victory in the strife;
Thou only art the changeless Friend,
On whom for aye we may depend:
In life, in death, alike we flee,
O Savior of the world, to Thee.

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-13-as-the-tree-falls-so-it-lies/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97512です。本文も詩も思い切って意訳した。間違いを指摘していただければ幸いである。

※Godhold Beck(113)

『聖書とは何か』第二部[2] 

 今まで私たちは神のみことばを宣べ伝える者としての預言者たちについて見て来ましたが、これからは第二番目になりますけれど、神のみことばを宣べ伝えるお方としてのイエス・キリストについて見てみることにしましょう。私たちは旧約聖書においてのみ、預言者を見ることができるのでしょうか。私たちは新約聖書に移って、神が新約時代の預言者を通してお語りになったかどうか訊ねてみたいと思います。新約聖書の比類なき預言者は主イエス様ご自身です。主イエス様は完全な認識を持った神の預言者でした。申命記18章18節に次のように書き記されています。
わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。

と、書いてあります。このみことばはイエス・キリストを通して成就されたのです。主イエス様はこの地上に来られた時、父なる神は自ら主イエス様を公に認めました。いかなる人間も主イエスが偉大なる預言者であることを認めることができなかったので、主なる神は天を開き、聞き取ることの出来る声でおっしゃいました。「これはわたしの愛する子、汝らは聞くべし」と。マタイ伝17章5節に
彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。

と、あります。主イエス様はただ単に時間に制約されて神のことばを聞いたり、啓示を見たりしただけではなく、上から来られすべてをご存知であり、完全な認識を持った預言者だったのです。主イエスの口から出たことばは、いずれも直接神のみことばでした。主イエスは預言者として比類なき地位を占め、他の預言者と同列に置くことができません。主イエス様について次のように言われています。ヨハネ伝1章の18節です。
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と、ありますし、また3章の31節〜34節までに次のように書いてあります。
上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。

と、あります。主イエス様自ら、ご自身について上から、完全な啓示、すなわち父なる神のみことばを伝えなければならないと証なさいました。ご自身についての主の証しは何と力強いことでしょう。ヨハネ伝8章23節
それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。

28節
イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。」

12章49節50節
わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」 

また17章の8節に
それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。

と、あります。このようなみことばを読むとイエス様が比類なき預言者であることが分かります。主なる神は御子をとおして語られましたが、それは動かすことのできない事実です。ヘブル書1章2節に
この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。

と、あります。私たちはイエス・キリストの口を通して言い表わすことの出来ない素晴らしい神の啓示を見ることができます。

引用者註:今日は火曜学び会であった。メッセージは1コリント3・1から「霊的なキリスト者を目ざして」と題して語られた。その終わりの席で、ベック兄のクリスマス・プレゼントがありますとアナウンスがあった。いずれもベック兄が生前使っておられたものがテーブルに並べられた。私も一本ネクタイを頂戴して来た。話は飛躍するがイエス様はそのようなもの、片身になるものは何一つ残されなかった。でも残されたものがある。それは「みことば」である。これぞ、類いなきものであることが、この『聖書とは何か』と題するベック兄の恐らく40年近く前のメッセージの聞き書きで分かることだ。)

2016年11月9日水曜日

主の栄光のためにとこしえに形造られる

カリフラワー畑 御代田町にて

私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。(伝道3:14)

 だから、私たちは「唯一」とか「あなたのためにすべて」ということはもちろんのこと、「永遠に」と喜んで言うことができるのです。なぜなら、主は私たちの守り手であり、主は全能の方であり、永遠の神であるからです。この神には変わりゆくものはなく、移り変わる影もありません。神は決して私たちを守ることについて御心を変えられることはありません。どんな人間も主の御手から私たちを奪うことは出来ないのです。

 キリストもまた私たちをその御手から引き離されません。なぜなら、主は「これから長く、私のところにとどまる(ホセア3:3)」のだとおっしゃるからです。そして、私たちを守られるお方はまどろまれることがないのです。ひとたびぶどう園を引き受けられれば、一日が過ぎるまで、日夜それを見守られるのです。だから、私たちは終りの時にあらわされるように用意されている救いの完全な意味を知ることができます。その終りの時まで私たちは主の御力によって守られているのです。

 今のしばらくの期間、信仰によってやさしく守られていることから、永遠に主のご臨在のうちにある栄光に移行するという、主のためにとこしえに守られるという事実があります。主は私たちを造られ、選ばれた目的を永遠に実現されます。私たちは主の賛美を前面にあらわし、主は私たちに来たるべき時代に私たちに対して主のやさしさのうちにある豊かな恵みを示されるのです。主は私たちのために、私たちは主のために、それはとこしえにであります。おお、私たちはこのことをどれほど少ししかとらえていないことでしょうか。しかし、これこそ「イエス様のために守られる」ことの成就の実なのであります。

主ご自身だけのために分離しなさい
今や私たちは 私たちの召しが栄光のうちに
示されていることを見ています
何らの秘かな恐れもなく
この私たちの聖なる分離を負うて
今や私たちの神である主の献身の冠は
私たちの自らささげる頭上に落ち着くのです

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-9-formed-for-his-glory-forever/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97478です。

※Godhold Beck(79)
 昨日の火曜学び会はイザヤ53:10という2600年前の預言がいかに今に生きる私たちの罪の赦し、かつ「とりなし」となり、それだけでなく、死は終わりでない天国への約束となっているか、それと同時に再臨の主イエス様を待ち望むことのできる喜びについても語られた。ベック兄が病臥し講壇に立てなくなってからこれで何度目の代理の方によるメッセージなのであろうか。ベック兄が灯された信仰の灯はこの日も確実に受け継がれていた。

 そのあと、日頃は同じ集会に出席している知人の証しがなされた。知人は端的にご自身の息子さんに主がいかに働かれたかを話された。息子さんはハンデを持って生まれて来られた。それがご両親の大きな精神的悩み・重荷であった。その中で7、8年前、高校三年生になった息子さんを連れて、遠くドイツの喜びの集いに参加したときのことを話された。息子さんが落ち着きがなく、あっちのテーブル、こっちのテーブルと行くので親として気が気でなく、たくさんのストレスを抱えておられたときのことだ。話は以下のようであった。

 ベックさんに相談しました。ベックさんは私の話を黙って聞いてくださり、最後に私が「どうしたらいいでしょうか、ベックさん」とうかがうと、やさしく諭すように「しげお、あなたに何が出来ますか。健太郎に何がしてやれますか。何が出来ますか。」と話され、「何も出来ないでしょう。放っときなさい。健太郎の好きなようにさせなさい。」そしてさらに「イエス様に祈って、イエス様に任せなさい。イエス様の所為(せい)にしなさい」とおっしゃいました。衝撃的な言葉でした。

 この世的な考えの私は、「エエッ、そうなの、それでいいの」と思考が混乱してしまいました。でも私の心のこの現状を打開するためには、何かしなければなりませんでした。私は祈ってそうしました。私はベックさんから言われた通りにそうしました。放っときました。それからの旅行はうそのように肩の荷は取れ、楽になれ、本当に思い出の残る旅となりました。

 祈ること、そしてすべてを主にゆだねて行動することの大事さを改めて知る大事な旅になりました。みことばを拝読します。「彼らはすぐに網を捨てて従った。」(マタイ4:20)「彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。」(マタイ4:22)

 あれから7、8年経つが、健太郎君は高校を出て生活クラブの中でふさわしい仕事が与えられている。そして集会の大きな宝となっている。彼は何よりもイエス様を愛する青年として、それぞれにふさわしいみことばを手書きで書いてプレゼントしてくれる。それがどのようにして示されるのかは分からない。先日もお母様をなくした方に次のみことばを贈ったということだった。「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません(ヨハネ16:22)。」誰もがなし得ない慰めを健太郎君はなしている。)

2016年9月6日火曜日

聖別され、元気づけられ、力づけられる

朝もやに包まれる天城山一帯 2016.9.4※

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)

 キリストの愛は吸収する愛ではなく、放出する愛です。私たちが主を愛すれば愛するほど、ますます私たちはもっとも確実に他の人を愛するでしょう。ある者は生まれながら愛する力をまるっきり持っていません。ですが、キリストの愛がその愛を強めるのです。ある者はいくつかの恐ろしい人生上の激震によって干上がってしまった愛の泉しか持っていませんでした。ところが、彼らはイエスにある「新鮮な愛の泉」を見つけ、そのやさしい流れは、昔の豪雨がもたらすよりも、もっときよく、もっと深くなるのです。

 ある者は狭い海峡に流れ込むことに満足していましたが、主は多くの他の人にあふれさせ、その祝福の流れを広げさせてくださることでしょう。ある者はその泉を神様が与えられた愛するものに全部使い果たしました。しかし、今やその権利そのものである主が来られるのです。その権利のもっとも完全な回復のうちに。主はあまりにもおやさしいので、いにしえの愛のさらに大きな尺度を、私たちの手に戻し、主ご自身の愛で聖別し、主の祝福で元気づけ、主の新しい命令で力づけられるのです。

しかし 主は彼女を必要とされた
一つの新しい宝石でなく 多くを
主の王冠のためには 一つの美しい束でなく 多くを 
彼女は 持ち運ぶはずだ
そして 彼女は より豊かな より幸せな収穫を 
ついに ふるさとへ 

その時 暗闇と冷たさを貫き 主は送られた
主の愛の熱き光線を 
神秘的な書き物を発展させて
あらゆる彼女の人生を 新しい輝きで 光らせるまで

明け渡された心のしあわせな奉仕
主が決して与えることをやめない満足で
(なぜなら 彼女の必要は決してやむことができないから) 
他の人々の生活の空っぽの杯 そして 時を 満たした

その時以来 それらは費やされた
主の永遠に変わらぬ愛で愛されたお方のために
(The empty chalices of other lives,
And time and the't were thenceforth spent for Him
Who loved her with His everlasting love.)

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/september-6-sanctified-energized-strengthened/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97414です。

※Godhold Beck(15)
 今日は火曜学び会だったが、行こうか行くまいか迷いがあった。結局出かけた。メッセージは黙示1:17〜18の引用聖句で「フィラデルフィアの教会」という題名であった。「互いに愛し合う教会」の根底に、イエス様の十字架の死とよみがえりがあり、そのことを受け入れた新生の人にして、初めて可能な命題であることが強調された。

 たまたま証しをなさった方はメッセージをなさった方の職場で働く人であった。集会に出てそのまま電車に乗り、帰ったが、偶然車内でその職場のもう一人の方が会社を出て池袋に社用で出かけられるところに遭遇した。

 その方はやはり天城山荘に出かけられた方だったが、静かないいキャンプだったと述懐された。そしてベック兄はこんなことを言ったら逃げてしまわれるだろうが、「あんなGreat manな人はいないよ」と言われた。そう言えば今日の司会者は那珂湊から東京に来られたベック兄を通して学生時代に導かれ、もっともベック兄とのつきあいの長かった方の一人であった。その方自身が7月29日に御代田で倒れて救急車で運ばれ、もう駄目だと思って、当時御代田で病臥中であったベック兄に電話された。その時「主のご支配は完全だよ」という意味のことを言われたとか。自分が生き残り、先にベック兄が天国に行かれたのが、今も信じられないと言われた。

 様々な思いを抱きながら家に帰ってきたら、自宅の最寄り駅近くの電車内でこれまた30年ぶりの卒業生に出会い、二言三言言葉を交わしながら別れた。行こうか行くまいか迷った末の今日の行動だったが、行かなければこのどれ一つも体験できなかったことは確かだ!まして、今日のハヴァガルの霊想は何と学び会のテーマであった!) 

2016年8月23日火曜日

主よ私に自分の姿をお示しください


主よ。私たちに、あなたの恵みを示し、あなたの救いを私たちに与えてください。(詩篇85:7) 
主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。(イザヤ55:7)

 人々は彼らが望まないものを求めては来ない。聖霊なる神様が私たちにあわれみの必要性を示し「みじめな罪人である私たちにあわれみをお示しください」と祈りの中の真実を示されるまで、私たちは決してあわれみを獲得するために、恵みの御座には来ないであろう。 

神の王国に入って来る者は
この扉によって入らねばならない

 そのようにして、もしあなたが心から「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。(ルカ18:13)」と言うことさえできたらと感じたこともなく、それゆえ、そのあわれみを獲得するために恵みの御座に来たいという特別な願いを感じなかったら、私はあなたに「主よ私に自分の姿をお示しください」と祈るように切に勧めたい。

 聖霊なる神様がその祈りに答えてくださるとき、あわれみを求めて主のところに来るのに十分な熱意があなたにはあることでしょう。その時、あなたが特に願うことはその一事※であります。

戻って来なさい
おお 私の側から 迷い出た人たち 
すぐに うなだれるのだ それぞれの花は だんだん暗くなる野育ちだから
すぐに 溶ける それぞれの流星は あなたがたの歩みを 喜ばせたが
すぐに あなたがたが  切り開くのを中断した タンクは 乾く
そして あなたがたは 嘆き悲しむことだろう 苦しみのうちに まったくすぐに 

戻って来なさい
ここに 集まって来る夜が 道を覆うだろう
あなたがたの足跡はもう踏みつけることができるだろう 
この受け入れられた日に

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/august-23-lord-show-me-myself/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97400です。詩は意味がわからぬまま訳した。大幅な訂正が必要だと思う。どなたか教えていただきたいものだ。

※Godhold Beck (1)
 文章中の「一事」は「one thing」をそう訳した。訳しながら一つのエピソードを思い出した。それは一人の宣教師が任地の中国で溺れている人を飛び込んで助けることはできたが、自らは犠牲となってしまった事件だ。その宣教師には結婚することにしていた女性もその場にともにいた。彼女自身も水に飛び込んで死に物狂いで泳ぎ救助に向かったが、実らず死体となってしまったその宣教師を彼女は岸に引き上げ、両手で顔をおおい悲しまざるを得なかった。
 しかし、それは一瞬だった。彼女はすばやく立ち上がると、その現場に呆然と立ちすくんでいる数人の中国人のクーリーに向かって、この地面に横たわっているからだは、自分の愛する宣教師の姿ではない。彼は神とともに安全に生きていると証した。こうして彼女はまだ救いを知らない死の恐怖に怯えている人々に福音を伝えた。
 その宣教師の持っていた聖書は幸い彼女の手に残された。そこにはその宣教師の字で「this one thing I do」ピリピ書3:13と記されていた。彼女はそのみことばを頼りに以後の人生を生きたという話しだ。

 今日は定例の学び会であった。学び会とその後の葬儀の合間にご自宅で療養しておられた敬愛するベック兄が救急車で病院に搬送されるという椿事が起きた。そしてベック兄はそのまま天に召された。しかし、多くの人が集まられた学び会も、葬儀も、特に葬儀は召された方の家族を思う友人知人の方が出席され広い二つの会堂は一杯の人であふれかえっていたが、ベック兄をお世話する少人数の方々が奔走されただけで、粛々といつも通り行なわれた。
 50代の若いご婦人の葬儀は、出席したそれぞれが、いわゆる葬儀を越え「天国」を間近に体験する一時となった。お母様の病を通して家庭に訪れた試練はご主人と三人のお子さん方〈大学生、高校生〉それぞれに主が働かれて、完全な救いをもたらした事実が明らかにされたからだ。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」のみことばどおりであった。
 この一事こそベック兄が日本に来て成し遂げられた大きな功績である。恐らく万を越す日本人がベック兄を通して福音に触れ、永遠のいのちをいただいたのではないか。今日のご婦人の葬儀は悲しみに打ち沈みそうになる私たちへの大きな餞の葬儀であった。ベック兄もまたそのご婦人とともに天国に憩うておられる。36年前にドイツで天に召されたベック兄の愛するお嬢さんリンデさん、またウスラさんその他多くの方々とともに再会されている。
 私はベック兄の生涯を思うとき、このピリピ人へのみことばがもっともふさわしいと思う。「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」) 

2016年8月16日火曜日

影でなく主ご自身を

ぶどう棚 手塩にかける 実りかな※

わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。(ヘブル13:5)

 あなたはほんとうに主イエス様の弟子ですか。もしそうなら、主はあなたに、「わたしは、いつも、あなたがたとともにいます(マタイ28:20)」と言われます。 そのことは過去のすべての後悔、そして未来の可能性のすべてを押し流すものです。当然、このことは現在をふくむことでもあります。

 だから、この今の瞬間に、つまりあなたの目がこの書き物に注がれているのと同じ程度に、確かに主イエス様はあなたとともにおられるのですよ。そのやさしい臨在、主イエス・キリスト御自身の今この場の御臨在に背を向けて、信仰を覚えることもなく感謝の囁きもなく「そうかもしれません、でも私は納得できません」と言うのは余りにもひどすぎるのではないでしょうか。

 結局、あなたが求めているのは臨在でなく認識なのです。それは影であって本体ではないのです。実際のところそうなんです。なぜなら、あなたはもっとも単純な約束のことばにまとめられ、神の愛が遺贈することのできる実在の絶対的な確信を持っているので、あえて主をうそつきとはしませんが、「いいえ、主は私とともにはおられません」と言うのです。

 あなたが言うことのできるすべては「私は主の御臨在を意識しません」であります。よろしい、その時あなたの愛する主の誠実さを疑っていることを恥じ入りなさい。そして主の御臨在について「もう口出ししないように(エゼキエル16:63)」しなさい。

 なぜなら、こういう疑い、落胆する言葉は主の御臨在のうちに言われていたのですよ。あなたがそれらのことを言ったり思ったりしている間も、主はあなたとともにおられたのです。主はこういう疑い落胆についてどのようにお考えにならねばならなかったのでしょうか。 

主は私たちを決して裏切られない
主は私たちを決して捨てない
主のとこしえの契約を決して反古にされない
前進せよ 恐れるな 昼の子どもよ※※
なぜなら
主のことばは決して決して廃らないからだ 

 (今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/august-16-not-a-shadow-but-himself/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97393です。

※ご近所の方の「ぶどう棚」である。毎年、丹誠込めてぶどう作りに励まれる。通行人に過ぎないが、許可を得て撮影させていただいた。
 今日の火曜の学び会はメッセージがルカ9:12〜17から「主の祝福のために」であった。また証は明日79歳になる日頃お世話になっている方がなさった。その方のご友人が出席され共に話を聞かれた。会を散じたあとその方を交えてお交わりができたのは幸いであった。あとでご友人が証しをされた方に地の産物を贈られたことを知った。
 帰る時、方面が同じであったが、ちょっとしたハプニングで総勢6人いたお互いがばらばらになりかけた。しかし最後は全員無事に同じ電車に乗ることができた。思わず「奇跡」と口走った。五つのパンと二匹の魚の持ち主である私たちは(これさえも主があずけてくださったものに過ぎないが)、主の祝福なしに何事も成し得ぬことを改めて思わされる。

※※the children of the day〈昼の子ども〉は1テサロニケ5:5のみことばだが、ハヴァガルは聖書を暗唱しているので自由自在にこのようにみことばを本文にさりげなく割り込ませることができるのだ。本文中のエゼキエル16章の引用句などは全く舌を巻かせる内容である。かつ確かなハヴァガルの信仰は時代・民族を超えて普遍であることを改めて知る。どの程度その薫りを伝え得るか、翻訳の力が試されるが、訳者としては訳しがいのあるすばらしい作品であることを感謝する。
 久しく姉マライアの伝記の翻訳を7/31以来中断してしまっているが、秋には再開したい。読者の祈りを切に乞う。) 

2016年6月14日火曜日

稀なる宝があなたに用意されている

わたしは甦りです 生命です わたしを信じる者は死んでも生きるのです※

このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。(コロサイ2:3)

 そして主はこれらの宝をあなたに開かれるのです。善と寛容と忍耐の宝が私たちの罪と怒りと繰り返される強情に比例して無限の恵みとなって与えられるのです。それは今や私たちの貧しさに引き換え恵みのすばらしい宝、そしてあらゆる永遠をつらぬき栄光ある能力のすべての必要を満たして余りある栄光ある宝であります。

 主にあっては「すべてあなたがたのものです。」(1コリント3:22)信仰はこの無限の宝にとって鍵であり、私たちに信仰を与えて、主は私たちに宝に宝を与えてくださいます。主は私たちを「信仰に富む者」(ヤコブ2:5)とし、それから「信仰を増」(ルカ17:5)して「理解をもって豊かな全き確信に達」(コロサイ2:2)するように備えてくださるのです。

 この黄金の鍵を求めなさい。そしてそれから主が錠前に鍵を差し込めるように主の手にその鍵を置きなさい。

鍵は錠前に必要です
急いで間違いなく入るのに

視界から隠されている
複雑な鍵穴の突起のすべてに合い
他のどんなものも見つけたり動かせない
あらゆる秘密のバネを動かします

イエス様は魂にとってそうなのです

主の助ける力を
主は証明されます 


The Autobiography of Maria Vernon Graham Havergall 第4章1846〜1848(9)
1847年11月1日
 娘の一人が尋ねました。「お母さんはよくなりたいですか、それともそうなるように祈っていますか 」
 「いいえ、そのようには祈っていません。私はこれよりももっとひどい痛みに備えられるように祈っています。私には神様が私のために用意されていることはわかりません。でも神様が命令なさることは最善に違いない。全部まったく正しいし、あらゆる苦痛は私の善くなるためにあるのです。私は痛みにひるみません。もし痛みが神様のみこころなら、私はもっと耐えることができ、私に示されたひどいどんな試みも経験できるでしょう。忍耐は絶えず聖書に述べられているが、そのとおりに主の民には必要なことにちがいないからです。」
 その晩母は叫んだ「どんなに美しいことでしょう!」「美しいこのものはいったい何でしょう!」「シオンの丘、ワッツ博士の賛美歌『来たれ友よともにイエスの〈聖歌486番〉https://www.youtube.com/watch?v=TJ_C_tHbHh8』は私をたいへん幸せな思いにしてくれたの。それから私はずっとオークハンプトンの美しい庭のことを考えていたのよ。かわいい小さなミリアムのことを、それから黄金の通りをあの子と一緒に歩くことをどれだけ願ったか。そう、私は痛みの中でも幸せなの、救い主をまるで顔と顔を合わせるかのようにみておられるから。」

※火曜学び会は「霊的認知症にならないために」と題して申命記8:11〜14を引用聖句として、初めの愛を忘れることの危険性はじめ多くの症状が指摘され、そこから脱出する方策が明らかにされた。午後は知人のご主人の葬儀があった。「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行く方がよい。」とは有名な旧約聖書伝道者7:2のみことばだったが、司会者の方は葬儀の締めくくりにこのみことばを引用された。集った者の共通の思いだった。そこには晴れ晴れしいご遺族、残された奥様、二人のお嬢さんからなる喜びに満ちた証しに、心の底からの涙があり笑いがあったからである。妻が救われ、夫が中々救われず悩むというパターンをこのご夫婦も経験された。しかし、ご主人は85歳にして死の間際に救われて天に召されなさった。祈りは聞かれた。家族が一つになって主をほめあげる、そのまたとない感謝なひとときに、私もお相伴にあずかった思いがした。)

2016年6月8日水曜日

私たちはイエス様を見る

谷口幸三郎展より(東京・西荻「数寄和」画廊にて※)
目に見えない方を見るようにして(ヘブル11・27)

 もし私たちがつねに何事も、愛するお方を見たことがないのに、まるで主を見たかのように行動するならどれほど私たちの生活はちがったものとなることでしょうか。またどれだけより幸せであることでしょうか。

 冒頭のみことばはモーセについて言われたものです。そして信仰によってこの主を見ることは三つの効果を持ちました。

(1)「彼はエジプトを立ち去りました。」彼は神と神の民のためにはどんなことも諦める用意ができたのです。そのことが、彼をして神様がお勧めなさることに対して真実にして忠実な態度を取らしめたのです。彼は「目に見えない方」を見ている限り、他の事柄に対してどんな心配をしたと言うのでしょうか。

(2)そのことは彼の恐れをすべて取り去りました。主が彼の側におられる時、彼にとって「王の怒り」はどういうものであったでしょうか。何について恐れる必要があるでしょうか。

(3)そのことにより彼は「忍び通す」ことができ、砂漠の中に40年間耐えに耐えて待ち望み、荒野で40年間働くことができたのです。80年間あらゆることに耐え忍ぶことができたのも、その信仰により見ることがどれほどの力を与えることであるか、そのことしか頭になかったに違いないのです。

 今日、あなたもモーセにとってそのように大きな助けとなった(信仰によってイエス様を見る)ことを自分自身に試して見なさい。
 
「栄光から栄光へ」(2コリント3・18)
たとえ苦難に陥っても
苦難は私たちの宝に触れることはできません
キリストがすべてのすべてであります
私たちの目の前にどんなことが横たわっていようとも
恐れる必要はありません
イエス・キリストが近くにおられる時
痛みや悲しみは何ほどのものでしょうか

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/june-8-we-see-jesus/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97324です。

The Autobiography of Maria Vernon Graham Havergall 第4章1846〜1848(3)
 もっとも小さい子どもであるフランシスの母に対する強い愛や深い悲しみは、フランシスの「四日間の幸せな日々」〈隠された影響をあらわしている〉のうちに力強く語られています。それはのちになって子どもの生活とことばとなって大変豊かな実を結んだのです。そしてまさしく同じ聖書の約束は母と子にとって同様に宝だったのです。その上、まさしく同じ賛美歌が母とフランシスの臨終に選ばれ、小さい時からの祈りが文字どおり答えられたのです。
 私を連れて行ってください
 私をあなたの光ある家に
 そこで私は愛する母と一緒に住まうのです
 そして永遠にあなたのいます輝きを喜ぶのです
 あなたの愛をほめあげさせてください
 あなたはすべてのことを良きにはからってくださるお方です
             フランシス・リドレー・ハヴァガル 詩 

※昨日は、火曜学び会だった。学び会ではイエス様はまことの教会を建てられる。それは決して宗教としてのキリスト教会のかたちではなく、それどころか、逆にイエス様抜きの教会は裁きの対象であり、新生の霊をいただいた者の集まる小さな群れ(Little Flock)をとおしてあらわされるのだと語られた。引用聖句はマルコ4・30〜34であった。
 そのあと二つの個展を訪ねた。いずれも同じ道路線上にある会場であった。今日の写真はその中の最初の展示であるが、明日はもう一つの展示の写真を載せたい。
 最初うかがった個展の作者の作品はここ20数年間鑑賞させていただいているが、いつ見ても心がリラックスさせられることは感謝である。ともにキリストにあっていのちをいただいた者同士、まさしく「小さな群れ」の一員である。オーナーとは初めてお会いしたが私たちと同県人であることに限りない親しみを覚えた。) 

2016年5月18日水曜日

彼は王である! … 王はあなたのもの?

雨の中 名も知れず咲く 花可憐※

 私はそう言明することができるだろうか。義務として私はそう言っているのでないか。私はほんとうにそう言っているだろうか。イエスは行ないにあっても信仰にあっても私の王であるか。その証拠はどこにあるか。私は今、聖霊のうちに義と平和と喜びの王国に住んでいるだろうか。私はその王国のことばを話しているだろうか。私は主の民でない人々のならわしにしたがっているのでないか。それとも主の民の道を熱心に学んでいるか。実際生活にあって主の律法の支配のもとに生活していると言えるか。

 私は彼に尊敬の心を持ったことがあるだろうか。私は彼の運動をまわりの人がそうするからというだけでなく、その運動は彼のものであるからということで勇敢に率直に支持しているだろうか。今日、私の忠誠は私の生活と実際に少しでも相違を生じていないか。

 彼は私の暴君であり彼の敵であるもの(サタン)から私を買いもどすためにご自身来られた。彼は自らの王冠と王服を脇に置いて王宮を去り反抗するものを救うために御位を降りられた。彼は富んでおられたが私のために貧しくなられた。それは私が「キリストの貧しさによって富む者となるため」(2コリント8・9)であった。神は私を呼んで王国と栄光へと導き入れられた。私を愛の御子の王国へと移された。どうして「あなたこそ私の王です」という忠誠を誓うことばが、私の唇で口ごもったり、口閉じることができるであろうか。


おお、救い主
大事な救い主
私たちはあなたを見たことはないが
愛している

おお、力と愛顧のお名前
すべてどんな名にもまさる

私たちはあなたを礼拝する
あなたをほめあげる
あなたにだけ歌う

私たちはあなたを讃美する
私たちの聖なる主であり王であるあなたに
心のうちを言い表わす

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/may-18-he-is-king-is-he-yours/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97303です。

※今日の掲載の花の名前がわからない。読者の方でご存知の方があったらお教え願いたい。わが「植物博士?」の家人は「つげ」の花だと宣うのだが・・・。

 昨日の学び会は生憎雨であった。ベック兄から再び種まきのたとえを聞いた。ただし今日の箇所〈マルコ4・26〜29〉は成長する者への教訓であった。さりながら、成長は決して新生の者ならでは不可能であるからして、結局新生をいただく数多くの聖書のことばの紹介があった。改めて聖書の中に散りばめられている「いのち」の多さに刮目された。
 
 帰りの電車の中で携帯に二回電話が入った。車内ゆえに出られなかった。留守電が入っていた。K先生の御子息からだった。5月13日に父が亡くなったとの連絡であった。K先生から一月程前、ご自身の半生を紹介したDVDが送られてきた。お礼の手紙があれやこれやで出しそびれていて投函したのは結局5月15日になった。ご子息は私の手紙を見て恐縮して電話をかけて来られたのであった。昨年中に3月と6月二回お訪ねして親しくお交わり願った。年賀状にも再訪を待っていますと書いてあった。私は亡くなったのも知らず手紙を書いていたわけである。かつての同僚のA氏に電話したら、私以上にショックを受けたようだった。K先生は今年83歳であり、私たちより10年先輩であった。その上、A氏も以前から闘病中であったが事態は良くないと言う。A氏に早速手紙を認める。「わたしはよみがえりです。いのちです。」「わたしが生きるので、あなたがたも生きる。」いずれもイエス様のことばである。
関連記事①http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2011/10/blog-post_20.html ②http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2014/10/blog-post_16.html ③ http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2015/12/blog-post.html

 「私たち家族にとっても忘れられない出来事から丸三年が経つ。」と5月14日に一旦書いたが、私の勘違いで今日5月18日であったのでこちらに移行する。あの時も車内に電話が入り家族の緊急事態を知らされ、それまでの旅行気分もどこへやら吹っ飛んで、ただひたすら助かるようにと祈りながら長野県の上田から多摩総合医療センターへかけつけた。その後いのち支えられ今日に到っている。「三年の 主の摂理 数えるも 忘恩の罪 余りに多し」K先生のこともA氏のことも私たちの家族のことも王なる方はすべてご存知である。詩篇103・1〜5。) 

2016年4月5日火曜日

強められる心

北の丸公園 田安門の桜※

恵みによって心を強めるのは良いことです。(ヘブル13・9)

 しかし、私たちの中には恵みによって心を強める望みを持つことは良くないことであるかのように言い続ける人もいます。私たちは次のように友に不誠実に接したと言われるなら恥をかくはずです。私たちは再三彼を裏切ってしまった。私たちは何度も何度も、ほんとうに本気でなかったことを言ってしまった。私たちはずーっと実行する計画を何ら持っていなかったのにそのことを明言し約束してしまった。 

 私たちはこの恥ずかしめを静かに受け入れるより、あるいは私たちが恥ずかしめられたのちに再び友と顔を合わせるよりも、むしろ次の船でニュージランド行きの船で出港する用意をするはずなのです。

 しかし、それに比して私たちは(私たちのある者は)いつも主に対して不誠実であると言われても恥じとはしないのです。いやいや、それ以上でさえあるのです。私たちはどれほど私たちの心が気まぐれで信用ならぬものであり絶望的に醜いものであると認めながら、そう言うことがまるで一種の美徳であるかのように名状しがたい自己満足でうまく切り抜けてしまうからです。

 そして私たちは実際に自分が謙遜だと証明できると思っているたやすい告白を鼻にかけるのです。「私は作り話をした」とか「私は約束を破ってしまった」と言わねばならないなら、他の人の目からも自分の目からも、その半分さえ自らを低くしない告白をするのです。いやいや、もっとそれ以上であります。私たちはもっとも根拠の薄い望みも、それゆえに完全に異なる事態を目標にする最も小さな強さも持ってはいないのです。

 もし、私たちがさらに一歩先まで踏み込んで、強められる心を持つことを求め、主が「正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。」(詩篇84・11)と約束し言われたことを信ずる人々を、手に負えない不誠実な名前で呼ばないなら、私たちにとって良いことです。主はそのようにこの良いことを拒まれないでしょう。

心からの者よ。 愛する栄光ある救い主、
あなたの偉大な力を取り、あなたお一人で支配してください
私たちの意欲や勝利ある愛情にまさり
自由に明け渡され、完全にあなたのものとされた

姉妹たちよ、愛する姉妹たちよ、その呼び声が鳴りとどろく
あなたはソフトな旋律でこだまされないで
力と甘美で喜びを豊かに備えて
「真実な心の持主、心からの者」と再度鐘が鳴り渡る

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/april-5-an-established-heart/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97260です。今日の箇所はすこぶるむつかしく誤訳が多数ある。意味のつかめない文章になっている。読者の力でなおしていただきたいところだ。

4章 ただあなたのために(10)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
  もちろん、かなり幅広い人気のある作者はたくさんの人から関連があろうがなかろうが能う限りのあらゆる主題について、特に作家志望の人から、たくさんの手紙を受け取った。彼らは自分たちの作品を読んで批評してもらうように頼んだのだが、そのために費やされる時間と労力については少しの配慮もない、ずうずうしいものもあった。
 次に掲げるものは彼女のもとに届いた多種多様なリクエストの見本である。
「アイルランド教会支援者への寄付金要請。特別新年礼拝にあった賛美歌。会葬者のためにふさわしいカードを書くこと。6つ以上の〈Marching Orders〉のセット。6枚の絵をあしらった詩のリクエスト。二つのシートが交差する祈りと弔意と助言。70代の人からきた思想を求める二枚のシート。ユニテリアンにふさわしい本を書いてもらう要請。彼女の詩句を別の作者の名前を用いて印刷してしまった人からの様々な照会と謝罪。四つの解説的な封入物を持つ作品の再発行の要請。校正を改訂し自分の意見をつけくわえること。たくさんの音楽原稿の改訂。バザーのためにカードを手当てする三つの要請。雑誌の中に挿入する記事の確保の仕方をもとめる助言。生徒たちに推賞すること。新しい雑誌を促進すること。オラトリオに意見をすること。改訂するための原稿にいくつかの長編の詩とそれに関する助言。それに加えて、リーフレットとカードをふくむ小包が求められたこと。」

※火曜学び会は午後の葬儀のための配慮であろう。いつもより短いメッセージであった。みことばは1列王3・1〜3で「主を愛する」であった。ソロモン王が世界一の富と英知を身につけていたとしても、覚えられてしかるべきなのは彼が「主を愛した」ことであったと言われた。まことに「エディデヤ(主に愛される者)」にふさわしい生き方であった。帰りに九段下の田安門の桜を見た。) 

2016年4月1日金曜日

Safe All the Way

絵はBaroness Helga、詩はF.R.Havergal ※

私をささえてください。そうすれば私は救われます。(詩篇119・117)
望みがあるので、あなたは安らぎ(ヨブ11・18)
 
 道は容易でない。もし私たちがたいそう用心深く歩かないのなら、つまずくかもしれないでこぼこ道がある。全く滑らかに見えても、でこぼこ道よりも滑りやすく、はるかに危険なところもある。私たちはそのような道をどのように安全に歩くことができるのだろうか。私たちは私たちを持ち上げ、いつも支える強い親切な手を必要とする。

 私たちを非常にしっかりと愛をこめて支えるので昔のスコットランド婦人が「私がキリストを握るのでなく、キリストが私を握ってくださる」と言ったような手だ。 そうだ、キリストの愛ある手が「 つまずかないように守ることができ」(ユダ24)るのだ。あなたの手をイエスの手にゆだねさえすれば「こうして、あなたは安らかに自分の道を歩み、あなたの足はつまずかない。」(箴言3・23)

 けれども「私をささえてください」と言って、そこに止まったり、あるいは「しかし、どっちみっち私はつまずく」とつけくわえたりしてはいけない。主があなたの口に封印されている信仰の輝けることば「私をささえてください。そうすれば私は救われる」に終止符を打て。もしあなたが求めるとおりのことをイエスに信頼し、主に支えていただくなら、あなたは救われる。

私たちは私たちの前途を見ることはできないが
私たちのすべてを見ておられるまことの友は
つねに私たちを眺めておられ、その行く末をご存知である 
私たちがつまずくように見えても、主は私たちをつまずかせられない
そしてへりくださられることを学ぶことは全く無駄な時ではない

 (今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/april-1-safe-all-the-way/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97256です。標題は何と訳すべきかわからないままやむを得ず、原題を掲げた。「すべての道に救いあり」とは言い過ぎであろうか。なお、青字で表した詩のとおりのことを10代で体験した友の証しを今週火曜日吉祥寺の学び会でお聞きすることができた。感謝であった。

4章 ただあなたのために(6)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 1875年はハヴァガルが重い病にかかり、すでにそれとなく言われていた、打ち続き病がぶり返された年であった。彼女はイギリスを離れなかったが、景色の美しいWhitbyウイットビーで楽しい秋を思わせる滞在を経験したようである。しかし、続く夏には姉のミリアムを連れてアルプスの美しさを満喫した。
 この滞在期間に才能ある絵描きであるChamperyでBaroness Helga von Crammと親しくなった。そして後にはすぐに彼女と協力してアルプス景観と詩句を合わせ持つ一連の美しく上品なカードを発行した(※)。これがスイスの最後の見納めとなったようだ。
 1878年にはサマセットシャー、デボンシャーそしてウエールズの各地を訪ねた。翌年の6月に栄光ある天国へと羽ばたくことになったのは実にキャスウェル、スワンシーのすばらしい「ウェールズの隠れ場所」からであった。) 

2016年2月17日水曜日

律法から愛の拘束へ

振り仰ぐ ミモザたわわに 青に映ゆ N氏聖餐 よみがえる如※

主が彼らを私に渡してくださったら、私はあなたがたのかしらになりましょう。(士師記11・9)
神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。(使徒5・31)

 私たちがどうすることもできない罪の重荷をもって、何をさておいても先ず主のところに来たとき、主のところに行くしか手立てもなく、主は捨てられないというおことばを受け取る以外に救いはなかった。そして、そう信じて私たちは魂の安らぎを見出した。主のことばは真実であり、主が罪を取り去ってくださるのはほんとうだと知った。 

 ある者はその場ですぐに主に自らのいのちをささげ、もはや自分自身のために全然生きず、自分のために死んでくださった主のために生き始める。これがあるべき姿である。なぜなら回心と献身は同時に起こるからである。けれども実際にはそんなふうなことはそれほど度々あることではない。突然暗やみからまばゆいばかりの光のうちに移され、もっとも深い対照をフルに経験した人々に限る。

 その働きはさらには出エジプト記で叙述されているヘブル人の奴隷の場合と似ている。かの奴隷は六年間良い主人のもとで仕えたのち、自発的に永久に身をささげ、「私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。」(出エジプト記21・5)と言う。その結果、主人は奴隷を受け入れ、奴隷が律法から解放され愛の拘束下で終生仕えられるように保証する。これは信者がのちに経験する献身と愛の象徴のようにみえる。

私は愛しています。私は私の主を愛しています。自由の身となって去りたくはありません。
主は私の贖主です。主は私のために犠牲を払ってくださいました。
私は主にいつまでもお仕えしたいのです。ご奉仕はあまりにも楽しく、祝福あるものです。
主はもっとも元気のない時に最大の信頼すべき休息を与えてくださいます。
主はすばらしい口調のことばをもって私の願いを叶えてくださったのです。
それゆえ、私はとこしえにご自身に、ご自身だけにお仕えします。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-17-freed-from-law-bound-by-love/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97212です。

第1章 表面上の明るさと内面の暗さ(10)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 フランシスの明るい魂をしばしば暗くする霊的な飢え渇きと暗黒の様を誰も推し量れなかった。幼い心が大いにして父なる神様との交わりをどれほど恋い焦がれていたか、何人も想像し得なかった。また両親の信仰箇条が主張するお決まりの経験によれば「クリスチャンになる」ことは不可能だと知り、絶えずその感情がどれほど抑圧されていたかも想像できなかっただろう。
 「私の全般的な考え方は」と彼女はこの求道の年月について自伝の中で書いている。「全く神様を愛していなかったこと、そしてかなりひどく、完全に悪であったということである。もし私が熱心に祈り続けようものなら、何かが私の身の上に起こり、突然私を変え、私が読んでいた多くの人や私の出会った少数の人のようになったであろう」

 ※西高東低の気圧配置、寒い中にも青空が広がった。昨日の吉祥寺の住宅街の一角である。ベック兄の学びはエペソ1・20〜23、4・1〜3で「御霊の一致」であった。そのあと89歳のS氏の誕生日記念をともに「心」で祝った。証しはN氏、10年ほど前の石川県の小松で聖餐にあずかった時のことを語られた。感動がよみがえった。その場にS氏も私たちもいた。主にある交友は時空を超えて続く。) 

2016年2月3日水曜日

お金の使い道を神様に導いていただきましょう

「空仰ぐ 紅梅の点 青に染む」※

銀はわたしのもの。金もわたしのもの。――万軍の主の御告げ。――(ハガイ2・8)

 私たちが主に請求して得たお金は、私たちが管理するため主に信頼し続けるなら、買い物は自ずと別のものになることでしょう。私たちは主のお金を用心深く正しく支出できるように主に指示をあおぐからです。それはちょうど主だったらこうなさるだろうというものです。贈り物や衣服は主の目を意識し、主が私たちの主人であることを意識して選ばれます。なぜなら、私たちは主人のために贈り物を与え、主人に仕えるために衣服を身に着けて、主人のお金で支払うのです。そうすることがすべて良いからであります。

たとえ、東方の君主の衣服が

金やオリエントの宝石でそれぞれきらびやかな色に輝き

その輝きが虹の光よりもさらに輝いていても

天の衣は光で織られ、いつまでも新しい

これらのすべては美しい、そして私たちはそれらを愛している

主のすばらしい贈り物だから。 

けれども、ああ、それらは過ぎ去るものだ。

それゆえそれらにしがみついてはならない。それらよりもはるか、はるか上にあるものを求めよ。

ことばに尽くせぬ喜び、衰えることも、腐敗することもない

見て、知り、愛し、とこしえの讃美をするために

私たちが天の御国に生きるために死なれた救い主

そこでは悲しみ、痛み、死が決して入って来ない

そして絶えず新しい目標を学び、新しい讃美の歌をささげるところだ

ああ、何という前途であろうか。

それにくらべれば、どれほど私たちはしがみついていることか

地上の暗い夢に、そのような希望はいつ与えられるのかわからないのに

ああ、私たちはこの時から、信仰の羽毛の翼で

もはや地にしばられることなく、光り輝く天に飛翔したい!

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/february-3-let-god-guide-your-spending/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97198です。

 21歳の時、デュッセルドルフの画廊で「エッケ・ホモ」と題するキリストの頭を描いた油絵に震撼され、彼女は最初の本格的な賛美歌である「わたしはあなたのためにわたしのいのちをささげた」を作曲した。その作品は父が作曲していたものである。1874年に作曲された後年の賛美歌「私のいのちを取ってください」は詩の形ではあるが事実上彼女の自叙伝となっている。それぞれの対句表現を通して彼女の生涯が明確に歌われている。

 ※昨日は中央線から富士山が遠望できた。ゆとりある吉祥寺の住宅街の一角に紅梅を見つけた。ベック兄の学びは1テサロニケ4章をテキストにイエス様の空中再臨と地上再臨を中心とするものだった。証された方は年来の知人であったが、最後に読まれたみことばは心に染みた。「私は昔の日々を思い出し、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています。」詩篇143・5)

2014年8月26日火曜日

創造のはじめ

つばめさんご夫婦は 高いところで なんの ご相談でしょうね 東御市 8/12
今日、久しぶりに学び会に出席し、そのあと四人ばかりで親しい交わりを持たせていただいたが、その時、父がイエス様を信じてはいるんですが、根が科学畑なので一々理屈を言われて困るんですよと言って一つの質問が出された。それはアダムの誕生の年代と、科学的考察に基づく地球上の歴史のちがいをどう説明したらいいんでしょうかという問いであった。すぐその場で答えられなかったが、一冊の本の記述を思い出した。以下に転記しながら考えてみた。

(しかしまた)サタンの堕罪は彼の支配した領域の崩壊とも関係があったに相違ない。霊と自然との有機的な結びつき、それから後に規模はより小さいがそれに似ている「人間の堕罪」が、それを証明する(そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
創世記3・8)。世界と地との破局はこの宇宙的な革命に対抗する神の正義の反撃の働きとして起こった。そして造られた物は虚無に服せしめられてしまった(それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。ロマ書8・20、21)。

詳細なことは一切、われわれの認識から隠されている。ただ人類が現われる以前、考えも及ばないほど永い期間、地上において植物界及び動物界に死と絶滅とが荒れ狂っていたことだけは、たしかである。このことは地質学的な地層と歴史以前の動物界の発達段階とが、極めて明確に立証している。われわれの足の下に横たわっている地層は、まさに「石の畑にとり囲まれている巨大な墓地」にほかならない。全く、歴史以前の時代の多くの猛獣は、実に貪欲で狂暴な破壊力を有する怖るべき怪物であった(1)。

1 チュービンゲン大学の古生物学者フライヘル・フォン・ヒューネもアダム以前の創造世界における死を、神から委命された「この世の君」であるサタンの堕罪と結びつけている。
 
旧約聖書の証言も、よくこれに相応している。なぜなら、旧約聖書に記録されている人間に委託されたことは、楽園を耕すばかりでなく管理することであり、さらに人間が神に逆らう敵対勢力の誘惑に試みられたという事実は、悪は最初に人間のなかに生じたのではなくて、人間以前にほかの被造物のなかに存在していたのであり、従って人間の現われる以前、人が堕罪する以前、人の堕罪と関連して地が詛われた以前、すでに創造のなかに破れ目と不調和とがあったのであることを、すでに旧約聖書において示している。


この点に関して次のような推測を発表している神によって啓発された人々が古代にも近世にもいる。それは、創世記第一章の六日間の御業はもともと再建の事業であって、最初の地球創造ではなかったのであり、人間は元来、主のしもべとし、また造られた物の支配者として、サタンと道徳的に対立しつつ、外形的に再建された地を、この地上に自己の種族をひろめて地を支配することによって、神の御手に取り戻すべき使命をもっていたのである、という推測である。

それで、例えば、ベッテックス教授は、人間はもともと「神の副王として全地をだんだん奪還する」べきであった、と言っている。またヒューネ教授も回復説を支持しているが、「全被造物を神に取り戻すという大事業の手始めは人間であったのである。人間において物質と霊、神の霊とが出逢う。神の子であり、人であるイエス・キリストはサタンとの決戦に勝ちたもうた。そしてこの勝利の結果はあらゆる方面に影響せざるを得ない。それゆえに、十字架が宇宙歴史の中心に立つのである」と言っている。

(『世界の救いの黎明』エーリヒ・ザウアー著長谷川真訳1955年聖書図書刊行会発行同書50頁より引用。)
 

総頁336頁のほんの一部分の引用ではあるが、冒頭の疑問に答える一つの資料ではないかと考える。

「理屈でなく幼子のように…と、わかっているようですが、自分の思いから解放されない自我によって自分を苦しめています」とその方の便りにもあったが、主がどんなに永遠な方か、人間にはわからない。質問は「時間」・歴史の問題であったが、ザウアーは「空間」の問題で宇宙がどんなに限りないものか、天文学的数字を示しながら「創造の偉大さ」(同書33頁)を述べ、それにもかかわらず極めて微小な私たち人間を愛される神の愛に私たちの注意を向けさせている。

主は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを統べ治める。(詩篇103・19)

そしてコペルニクスの1618年のことばを引用している(同書44頁)
「われわれの主は大、その力は大なり、
その智慧には限りなし。
日と月と星と、主を讃えよ、
讃えの歌がいかなる言葉にて響かんとも。
天の諧調よ、主を讃えよ、
御身ら、主の啓示せる真理の証人また容認者も、
また汝、わがたましいよ、汝も、生くる日の限り主の栄誉を歌えよ!
                  アーメン。」

なお、この本の訳者こそかつて紹介した方(http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2014/03/blog-post_5779.html)の戦後の姿であることを知る不思議さよ。

2014年1月29日水曜日

「不思議な邂逅」(刎頸の交わり その2 )

Tさん宅のインコ※
Tさんを知ったのは、二年前の吉祥寺の火曜学び会での席上であった。その時、食事をともにしたお交わりを通して、私たちはすっかり友だちとなった。そして話してみると、お互いに50年間全く相離れたところに住んでいたにもかかわらず、主なる神様を通してしっかりと結び合わせられていたことを知ってびっくりさせられた。結婚する前、婚約者が私に熱心に読むように勧め、毎月送って来た福音を載せた小冊子があった。その小冊子は彼のお兄さんが印刷し、彼もまたせっせと手伝っていて販路開拓につとめたと、その初対面の長い話の中でうかがったからだ。その時、私は福音を拒んでいた。彼は販売に勤しんだわけだから、私と違ってすでに福音を受けいれていたことは言うまでもない。

さらに話してみると、その後福音を受けいれて結婚に導かれ、新婚生活を送った土地、足利でわずかなキリスト者との交流が与えられたのだが、そのうちの一組のご夫妻と、彼が何と彼らの結婚式にまで招かれたという間柄を知っては、ますます驚くばかりであった。そんな彼とはここ二年ばかり三四回ほどお会いし、お交わりする機会が与えられている。ところが昨日も久しぶりに彼と行動を半日ともにする結果になった。そして先ほどいただいたメールには「昨日は夢のようなお交わりをありがとうございます・・・」と始まる一文が書いてあった。

実は昨日は次男が妻の病を通して働かれた主のみわざと恵みを皆さんの前でお証した。その席に彼も別の方とのお交わりのため出ておられた。そのことは彼からのメールで事前に知っていたが、彼は次男が証することは知らなかったようだった。ただ妻の病のために仕事を休職していることは以前話してあり、祈っていただいていた。彼は、夜麻布で開かれる家庭集会に出る計画を立てていたし、私は先週に続いて国会図書館に安田寛さんの論文を探索するために行く予定でいた。昼は昼で次男夫妻と食事をともにする予定でおり、折角の彼とのお交わりもこの日は断念せざるを得ないかなと思っていた。

けれども、私は、私たち家族との食事に彼も同行することをお勧めすることにした。彼はついてきてくれた。そして初対面の次男夫妻と互いに自己紹介を兼ねながらの団らんの一時となった。その時、何かの話の序でに彼が次男に向かって「○○さんを知っていますか」と言ったら、次男がびっくりして「先ほど(証のおり)パリで与えられている交わりをほんの少し話させていただきましたが、その方は○○さんが信頼している方ですよ」と言った。私たちもびっくりした。特に私は食事に彼に同席してもらったことに対して、次男たちにも彼にも失礼に当たったのでないかと内心少し気にしていたからである。するとこの食事の席はそういう意味があったのだとお互いに会得することができ、さらに話が弾んで主の恵みを語り合った。

そして、次男夫妻・家内とはそこで別れ、彼と夜の家庭集会にまで行をともにすることにした。彼は、そこで別の方と会うことになっていたが、私も、もし導かれれば三人の方とお会いできれば出席してもいいと思っていたが、まだ態度は決めていなかった。取りあえず、国会図書館には私の方で強引に彼に同行を願い、私が調べ物をしている間、取り立てて目的のない彼も図書館で時を過ごしていただいた。そして四時半すぎにそこを出たが、結局私も出席することにして麻布十番まで一緒に出かけることにした。この間、彼は話詰めであり、私は珍しく聞き役の方であった。日頃工場労働にいそしみ日曜も働いている彼には、霊の飢え渇きがあり、キリスト者との交わりが貴重な一服の清涼剤のように思われた。

麻布家庭集会には初めて集ったということで、会の終わりに彼も何人かの自己紹介の中で最後に挨拶をした。大変感銘を受ける挨拶であった。内容は再現できないのだが、普段の工場労働での人々の殺伐とした人間関係とちがい、キリスト者同士の兄弟姉妹としての交わりがいかにたいせつで、ありがたいものかを味わわせていただいているという内容であったように思う。私よりも先に救われ、教会に出席していたが、様々な教会内の分裂や人間関係にも疲れ、やっとの思いでたどりついた、このキリストをかしらとする牧師のいない集会の伸び伸びした交わりを喜んでいる彼の姿が、そこにあったように思って聞いていた。

そのあと、麻布集会でも必要な方との交わりを彼も与えられ、また私も別の方とのお交わりが豊かに与えられ、家に帰ったのは11時を過ぎていた。さすがに疲れて、家で待っていた家内には、あまりその後の行動について説明する力がなかった。ところが今朝、冒頭述べたようなメールが入ったのだ。私もその半日の交わりは夢のようだと言う彼の表現はさもありなんと思い、目を通していた。ところがその次に書いてあった言葉にはびっくりさせられた。

「昨日息子さんの話しておられた○○さんのお母さんが本日召されて午後12時より自宅で葬儀があります。妻は出席するはずです。息子さんを通して、○○さんご一家が主イエス様に導かれ神様の不思議な御手が働かれたらとお祈りします」

とあった。こうして、全く、生まれも素性も異なる私たちだが、場所を違えて、また国内国外を問わずキリストにあって一つに結ばれていることを知る。それだけでなく麻布集会で出会った方々との交わりをもし記して行けば、さらにもっと稿を改めて書かねばならないことがらばかりであった。さらに、ここには集会のメインディッシュとも言うべき、この日大切なメッセージをしてくださったお二人のメッセージの内容(昼間はイザヤ6・1〜7『汚れた唇ときよめられた唇』、夜は詩篇119・71『悲しみから喜びへ』)を一切省略させていただいているのだ。みことばととともに、お一人お一人が様々な形で結び合わされている、キリストのからだとしての教会を味わわせていただいた、忘れ難い一日であった。

あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。(ヨハネ4・35)

( ※前回、お宅にお伺いしたときに紹介していただいたインコ。13年経つと言う。ほとんど人間様と同じでご主人と奥様を識別し、食べ物も要求するそうだ。これまた不思議な世界だ。人間には未知の世界がまだまだある。)

2014年1月23日木曜日

十字架の奥義と賛美の本質

鳩は何を考えているのだろう 2014.1.5
日曜日、礼拝の後、一人の方とお交わりした。恋女房であった奥様を亡くされて8年経つと言う。神様は愛である方なのに、どうして自分の最愛の妻を自分から引き離し奪われたのかわからない、と言われた。一方で、そんな彼女に必ず天国で会えると約束してくださっているので今もイエス様を信じているんだともおっしゃり、毎朝少しずつ聖書を読んでお祈りしていますよとおっしゃった。

火曜の学びのおり、ベック兄は「誠の礼拝」という題で話をされた。そして礼拝とは何かと問われ、「主の導きに心から賛意を表する」ことだと言われた。また「すべてのことを主のみこころのままにおゆだねする」ことだとも言われて、イエスの弟子たちの経験や、旧約時代のマナセやモーセ、ダビデ、ヨブの経験を具体的にご紹介くださった。

主は雲の中にあって降りて来られ、彼(=モーセ)とともにそこに立って、主の名によって宣言された。主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」 モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んで、お願いした。「ああ、主よ。もし私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか主が私たちの中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民は、うなじのこわい民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自身のものとしてくださいますように。」(出エジプト34・5〜9)

この場面に登場するモーセは直前に主から厳しいみことばを聞いたが、即座に礼拝した。そして罪を犯したダビデがなぜ「みこころにかなう人」と言われたかは、彼の礼拝にあったと示された。

しかしダビデは、家来たちがひそひそ話し合っているのを見て、子どもが死んだことを悟った。それでダビデは家来たちに言った。「子どもは死んだのか。」彼らは言った。「なくなられました。」するとダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、着物を着替えて、主の宮にはいり、礼拝をし・・・(2サムエル12・19〜20)

罪を犯さなかったヨブは大変な苦難(10人の子どもを失う)の中、主を恐れ真心から主を礼拝した。その思いは生涯変わることがなかったことを指摘してくださった。

私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。 私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ。(ヨブ19・25〜27)

そしてこれらの人々の極致にイエス様はおられる。

それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26・39)

これぞ十字架の奥義であり、真の礼拝がここにあることを知る。

冒頭ご紹介した方だけでなく、私たちは様々な理不尽なことに取り囲まれている。昨日ご紹介した唱歌を日本に導入することに大いに活躍したアメリカ側の人物は実はメーソンという人であるが、彼もまたある面では不遇の人であった。しかし安田さんのご著書『唱歌と十字架』の72頁、239頁には次のような文章が紹介されていた。

「若い頃、メーソンは深い信仰にあふれた性格を育んだ。彼は異教徒の世界の状況に強く心を動かされていた。それで、彼は宣教師になる決心をした。しかし、不幸なことに、言葉に障害をもっていたために実現できなくなった。
 しかし、メーソンの生涯は、神の深い摂理が時には一人の人間が望んだとおりには導かないで、若い魂が望んだ以上のことを実現させたもうことがあるという良い実例なのである。もし、実際に、メーソンが宣教師になり、福音を伝道していったなら、彼が実際なし得たような善行をなすことができたかどうかは分からない。神は彼を導いて、日本への道を開かれたのである。そこで彼は、賛美歌を教え、すぐにそれは日本のいたるところで異教徒たちに歌われたのである」

何気なく歌っている賛美歌のメロディー。そして信者も信者でない者も、一様に童心をもって歌うことの出来る唱歌のルーツが実は賛美歌、主をたたえるために作曲された歌にあることを知ると、遠くボストンで日本人の救いのために熱心に祈られた人々の祈りはこのような形で日本人に一先ず届いたのだと思う。だから、換骨奪胎の唱歌の歌詞でなく正真正銘の主をたたえる賛美歌の歌詞をとおして十字架の奥義を信じ、まことのいのちにあずかる人が生まれるようにと祈る責任が日本人キリスト者には残されている。それは地味ではあるが、私たち信者が日ごとの生活の中で十字架の主イエス・キリストを体験することにかかっているのではないだろうか。明治以来の西洋音楽の受容を真剣に受けとめ、そのルーツを執拗にまで探求されている安田さんの様々な労作をとおして改めて思わされたことである。

2013年10月30日水曜日

「宗教」と「啓示」(最終回)

再び浅間山 2013.10.12
神は第一に自然界の被造物を通して、第二に御子イエス・キリストを通して、第三にみことばを通して、ご自身を「啓示」して下さいました。第三にみことばを通して、ご自身を「啓示」して下さいました。しかしこの神の「啓示」も人間がそれを信じなければ、何の意味も持ちません。信仰がなければ、神を知ることはできません。信じたいと願う人には、神は助け主である聖霊を送って信仰を与えて下さいます。この信仰によって私たちは被造物に現わされた創造主なる神を知ることができます。またこの信仰によって、私たちは御子イエス・キリストに現わされた、神ご自身の本質を知ることができます。またこの信仰によって私たちは聖書に現わされた神のみこころについて知ることができます。これらは、上から、つまり神の側から人間に与えられた三種類の啓示であり、人間はこの啓示を幼子のような素直な心で受け入れるならば、神ご自身を体験的に知ることができるのです。神の力は被造物に現わされており、神の愛は御子イエスに現わされており、神の義はみことばのうちに現わされています。

神を知りたいと思う者は、神に近づく必要があります。そして、神に近づくためには、自分が神の前に罪人であることを認め、その罪を悔い改めることが必要です。しかし、聖霊が働かれなければ、人は自分の罪を認めることも悔い改めることもできません。そして悔い改めには信仰が伴わなければなりません。罪を悔い改め、イエスを救い主として信じた者の心には聖霊が宿り、新しい生まれ変わり「新生」を体験するのです。聖霊は理性に光を与え、魂に喜びを与え、人間に正しい判断力を与えてくれます。こうしてイエスを救い主として受け入れた人は、今までとはまったく違う新しい人生を歩むようになるのです。そして、真理に対して心を開く者は、必ず次のように言うことができるようになります。

私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。(ヨブ40・4)

私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。(ヨブ42・3)

私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。(ヨブ42・5、6)

私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(ガラテヤ1・12)

しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリピ3・7、8)

(「実を結ぶいのち」146〜147頁より引用。先週火曜学び会でKさんたちとお出会いする中で、この「宗教」と「啓示」の文章をもう一度確かめてみたい思いになって五回に分けて載せさせていただいた。ところが昨日の学び会によもやと思われたKさんが再び現われた。今回は前回と違って、集会開始時間11時に間に合い、メッセージも証も聞くことができたと言われた。そして再び、「啓示」のすばらしさ、みことばのすばらしさを賞賛された。ベック兄は人々には未来は不確かである、それゆえ不安・恐れが伴う。しかし主イエス・キリストを信ずる信仰者にとって未来は確かである。どこに根拠があるか、それは主のみことばである。そしてみことばは「このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります」と約束してくださっていると前置きしてテサロニケ第一4章から先週に引き続いて語られた。再びKさんは私は今まで集会の冊子を見る度に学歴の優秀な人ばかりが証をしていて、私には関係ないと思っていた。しかしそれは私が劣等感に囚われていただけで、そんなことは主の前には何の関係もないのだ、悔い改めさせられたと言われた。私は先週ベック兄が語られた主の怒りの日に主を信じないすべての人がその怒りから守られようと岩の間に身を隠すと紹介されたくだりを思い出した。黙示録6・15〜17である。「地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」そして七という完全数が示すように、ここに出てくる7種類の人々はすべての人間を代表する者だと言われた。学歴があろうとなかろうと、善良であろうとなかろうと同じように主の怒りは燃えあがる。あだや啓示のみことばに不忠実でありたくない。)

2013年10月25日金曜日

刎頸の交わり(その1)

交わりに参加し、鳥かごから出て来たインコ Tさん宅で
表題は「ふんけいのまじわり」と読む。国語辞典によると「首を切られても悔いないほどの、生死を共にする親しい交際」とある。このような語彙はかつて田中角栄氏と小佐野賢治氏との交わりなどを表現する場合に使われていたように記憶する。

今週火曜日に定例の集会に出席して、そのあと二人の方とお交わりした。一人の方Kさんとは二回目、もうひとりの方Tさんとは三回目であろうか。KさんとTさんはお互いに初対面であった。私を介してのお交わりになった。ほぼ一時間ほどの昼食をともにするお交わりであった。お互いに主イエス様を若い時に信じ(Tさんは19歳、Kさんは25歳、私は27歳)、教会生活も送ったが、今は教会には集っていない。

あまりお互いの素性は知らない。ただ主イエス・キリストを救い主として信じ、永遠のいのちをいただいている確信のある者同士である。Tさんは1950年生まれ、Kさんは1947年生まれ、私が戦前だから一番年長になる。ここ二三年に集会に来られて知り合った間柄である。ところがいずれも教会を経由して来ているので、「宗教」の恐ろしさを体で体験している面々である。「宗教」にはだまされないゾという覚悟が互いにある。

談たまたま、その日の短いベック兄のメッセージの話になった。当日の題名は「もうちょっと」で第一テサロニケ4章13節から18節が引用聖句であった。「もうちょっと」とは主イエス様が再び来られるのは、もうちょっとという意味である。そのような話になったとき、Kさんが頭を抱え込んで言い出した。「ちょっと、待って。俺は毎日これは自分が正しいと思ってやっているけれど、ほんとうにそうでなかったらどうしよう。主に裁かれ、お前なんか知らないと言われるかも知れない。やはり『主よ、これはどうなんでしょうか、まちがっていないでしょうか、教えて下さい』と祈って行動しなければ」

あとでわかったのだが、Kさんは仕事が忙しく、やっとの思いで集会場に来たのだが、メッセージも証も聞いていない、私に会いに来たのだと言う(私が集会に来ているかどうかも分からないのに・・・)。その彼がすぐそのように反応したことに私は正直驚いた。メッセージをじかに聞いていても私はそうは思わなかったからである。彼の純粋な信仰に目を見張らされた。

Kさんも、Tさんも、今のご時世、年金生活を送るわけに行かず、毎日生活のために日曜日もなく働いている。たまたまご両人の時間が割ける日がこの日だったと言うわけだ。集会出席は年に数回ではないだろうか。そしてそれほど会う機会のある方々ではない。しかし、ひとりひとりその日は示されて集会場に集まって来たのだ。Kさんにいたっては前言したように、集会場をあとにしようとするとき、誰かがあなたのことを捜していましたよ、と言われて大ぜい集まる人々の中でやっとお会いできたのであった。

Kさんとは昼食のあと別れ、示されてTさんのお宅に急遽行くことにした。もちろん前もって決まっていたことではない。家には病気の奥様が伏しておられるとは聞いてはいたが。目的は彼にパソコンとネットを教えるためであった。でも、それだけでなく彼の純真な気持ちと交流をともにすることに喜びを覚えたからである。そして奥様ともお会いできた(普通、そのような訪問はすべきでなく、先方も突然の珍客はいくら何でもお断りしたくなるものだ、しかしそんな気配は感ぜず、そこでさらに一時間ほど豊かなお交わりになった)。

キリスト者とは不思議な民だ。「刎頸の交わり」とは主にある兄姉の交わりにこそふさわしい。

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。(第一ヨハネ3・16)