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2020年8月10日月曜日

エル・ロイ(ごらんになる神)

テムズ川上空から(2010.10.14)※

 昨日の朝日新聞に編集委員の曽我豪氏が「戦後75年の夏・継がれゆく記憶」と題して、高峰秀子、古関裕而の戦争体験を述べ、一方で、今「エール」に出演中の二階堂ふみ(25)にどのように受け継がれていくかに触れながら、最後に「忘れず残したいと思う意思と聞いて継いでゆきたいと思う意思、その二つがあれば戦争の記憶は風化しない」とあった。

 世代を越えて、伝えることの尊さを思わされた。戦争体験ではなく、別の私的な経験で、ほんの少しだが、世代を越えて、伝えることの尊さを経験させていただいた。世がコロナ禍で騒いでいる5月下旬、愛する高校二年生の孫娘が急にコロナウイルスの病とは別の病を得て緊急入院をした。多くの方の祈りに支えられ、幸い7月には退院し、現在リハビリをしながら日常生活へと戻りつつある。そんな苦境にあった孫と最近LINEをとおしてメールの交換をする機会が与えられている。

 今回、私の孫に対する語りかけは25年前のことから、一気に60数年前に遡(さかのぼ)ることになった。25年前のこととは勤務校が思いもかけず夏の甲子園大会に出場した時の様々なエピソードの紹介であった。孫はもちろんそんなことは少しも知らないからびっくりしたことであろう。

 よせば良いのに、私は図に乗って、小学校6年の時の模型飛行機大会のことを話した(もちろんLINEのメールを使っての対話ではあるが・・・)概要は、その模型飛行機大会で、不器用極まりない私の飛行機が滞空時間がわずか50数秒で優勝した時の話だ。その日は風が強く、いつもは一分は優に超えるタイムで勝負が決まるのに、なぜか私の飛行機だけが墜落しないで最後まで飛び続けた。

 それだけでも私には驚きだったが、その時の褒美が何とほんものの飛行機に乗せてもらえるという景品つきだった。後にも先にもそんな話は聞いたことがなかった。私はこのビッグニュースを早速母に知らせようと急いで家に帰ったが、あの時ほど、自分の駆け足の遅さがうらめしかったことはない。とにかく「地に足がつかない」とはまさにその時の私の気持ちだった。

 そうして確か大津の皇子山に彦根から列車で担任の先生と二人して出かけ、プロベラ機に乗ったのだ。琵琶湖上を旋回して数分後に着陸し、あっと言う間に終わった。そのあと、帰ってから全校生徒の前で飛行機に乗った話をするように言われたし、作文を書くようにも言われた。その時、私は「みんなの家がマッチ箱のように見えました」とだけ言って降壇したように覚えている。

 先生方だったか、飛行機に乗ったんだから、乗った人しかわからない、もっとちがう話のしようがあるもんだと言われたように思う。私にしてみれば、本当言えば、飛行機に乗れるという話を聞いた時は先に書いたように、最初はうれしかったが、その日が近づいてくるに従って段々心細くなって来たのだ。大津への車中でもそのことばかり考えていた。「落ちたらどうしよう」と。ましてや、滑走路をガタガタと言わせて走っていくプロペラ機に身を任せている時なんかは、生きた心地がせず、先生が隣にいても恐ろしい思いだった。

 ところが、作文にもやはり自分のそのような内面の気持ちは書かずに、当たり前のことを書いた記憶がある。案の定、先生をふくめてみんなには不評判だった。それ以来「作文」というものは嫌なものだと思うようになった。孫にはこの内面の思いは伝えきれず、模型飛行機大会の事実だけを伝えた。特に自分がいかに模型飛行機をつくるのに竹ひごもうまく曲げられず、紙の貼り方も下手な誰の飛行機よりも稚拙(ちせつ)だったのに、優勝してほんものの飛行機に乗ったことだけを伝えた。

 孫は長いじいじの話を忍耐強く読んでくれたようだ。次のような感想を書いてくれた。「やっぱ見た目じゃなくて結果ってことなんだね」「じゃあ、じいじは一人で貴重な体験したってことだね!!!」ありがたい孫の感想だった。

 ところが昨日、今日とヴィルヘルム・ブッシュさんという方が箴言15:11「よみと滅びの淵とは主の前にある。人の子らの心はなおさらのこと」を引用して書いておられることを読みながら、孫にもう一つの大切な事実〈結果が良ければ、すべて良しではなく、人の心の中の動機こそたいせつなのだ、主なる神さまはそこを見られるということ〉を知ってほしいと思わされた。それは不器用な一人の少年が、苦心しながらつくった模型飛行機に、法外なごほうびをくださったのは主なる神さまだったのでないかということである。強い風に誰よりも稚拙な模型飛行機だけが最後まで飛び続けたこと自身、この歳になっても未だに不思議でならない。ブッシュさんの今日の箇所を拝借して引用させていただこう。

 聖書(創世記16:13)の中に、子供をみごもった体で、荒野に迷い込んだひとりの母親のことが書かれています。渇ききり、絶望して、ついに彼女は死を覚悟します。その時突然、自分の名前が呼ばれます。それは神の御声でした。彼女はこのお方を「エル・ロイ」(ごらんになる神)と呼びました。

 主よ! あなたのあわれみに満ちたご臨在を感謝します。 アーメン

 「エル・ロイ」の神は、まさに冒頭の朝日新聞の曽我氏の言にしたがえば、忘れず残したいと思う意思と聞いて継いでゆきたいと思う意思により、歴史始まって以来、今日まで連綿として伝えられてきた、罪人に対して一方的なイエス・キリストの十字架をとおして示された愛そのものでないかと思わされた。

(※飛行機でエジンバラからロンドン上空を経由してフランクフルトに入った記憶がある。その時、機内から撮影した写真である。考えてみると10年前である!)

2013年3月3日日曜日

縄目を受けられたイエス

カール・ブロック聖画選より
それから、イエスを縛って連れ出し・・・・。(新約聖書 マタイ27・2)

なんという愚かなことでしょう!

イエスを縛ったなわ、それは全くこっけいなしろものというほかありません。

一言で湖上の嵐を静めたお方、一言でラザロを死のなわめから解き放たれたお方、悪霊どもを制する力をお持ちになったお方・・・このイエスを数本のなわで拘束できるというのでしょうか!

このなわは、人々が、こんにちに至るまで、神の御子のお力について大変な思い違いをしていることを、示します。

しかし、なぜ主はかくもおだやかに縛られたもうたのでしょうか? なぜ主はなわめを引きちぎり、反対者の足もとに投げつけてくださらなかったのでしょう? そうなればどんなに格好よかったかしれません。なぜそうなさらなかったのでしょう?

それは、主が十字架に引かれ行こうと心に決めておられたからです。主イエスは、数百年前に預言者イザヤが予告したとおりのお方でした。「彼は・・・ほふり場に引かれて行く小羊のように・・・口を開かない。」「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらした」(53章)

主イエスがこのこっけいななわめを受けられたのは、ご自身、そうされようと心に決めておられたからにすぎません。人々が押しかける一時間前に、主は静かなゲッセマネの園で御父にお告げになりました。「飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりを 」と。こうして主はこの苦しき杯を飲みほされました。

十字架の死が、この世のためにどれほど必要であるかをご存じの主は、自ら両腕を差し出してなわをお受けになりました。

主よ! 私たちの目を開いて、贖いのみわざを悟らせてください。
                          アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳3月3日の項目より引用。確かにブッシュ氏が指摘されるように、イエス様が受けられた縄目は不思議です。縄目と言えば怪力サムソンについての旧約聖書士師記15章16章の記述を思い出しました。何というちがいがあることでしょうか。)

2013年1月24日木曜日

自分の力の限界を知る人

ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた。(新約聖書ルカ7・2)

自分の力の限界を思い知らされた男が、ここにいます。それは実につらい経験でしょう。

彼は強大なるローマ軍の将校です。占領軍将校として、大きな権力を握っておりました。多くの人が彼をうらやんだことでしょう。なぜなら、権力への願望は、人の心に深く根ざしているからです。

おそらく百人隊長も、権力の味を愛していたことでしょう。すぐこのあとのところで、ちらっと、そのことを口にしています。「私にも部下がおりまして、彼らは私のことばに従います」と。けれども同時に「私も権威の下にある者です」ということばのうちに、我々は、権力の限界をそれとなく語る彼の気持ちをうかがい知ります。

さて、しかし、彼は人間の力の及ぶ、恐るべき、本当の限界にたどり着きました。死が彼の家に到来したのです。死! その前には、いかなる力も終止符を打たねばなりません。

聖書を知る人は、他の箇所にも、人間の力の限界に触れている記事を思い浮かべるでしょう。ローマ人への手紙には、こうあります。「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています」(7・19)。

聖書は我々の妄想を徹底的に捕えます。死における我々の限界、また、悪しき心の無力さを暴露します。

この無情な認識を避けて通ることをやめようではありませんか! はっきりした自覚を持って、自分の限界を見つめましょう。そうすれば—この百人隊長のように—我々は「天においても、地においても、いっさいの権威が与えられた」お方、イエスのもとへと導かれます。

主よ! あなたは我らを、その限界を越えて、死を越えていのちへ、罪の奴隷から神の子どもの自由へと、お導きになることがおできになります。 
                           アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳1月24日の項目より引用。私たちは同胞十人をテロ活動の犠牲で失う経験をした。2011年11月28日の当ブログの「大統領の祈り」http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2011/11/blog-post_28.htmlを想い出した。)

2012年11月30日金曜日

あなたは何に支配されていますか

小学校三年の女の子の作品
悪者は自分の悪によって打ち倒され、正しい者は、自分の死の中にものがれ場がある。(旧約聖書 箴言14・32)

「なぜ正しい人は恐れなく死ねるのか、その理由をご存じですか」—青年たちに、そう尋ねたことがあります。

そして、素晴らしい答えを聞くことができました。ひとりがこう言ったのです。「それは、その人が日々の死に慣れているからです。」

主イエスに属する人は、地上にある間、死の修練を積みます。

神が彼らの最愛のものを取り上げてしまわれる—すると、彼らは「どうぞ」と申し上げるのです。神が彼らの願いや計画を、インクで抹消なさる—すると彼らは、つぶやかずに、自分の心を死なせます。

確かに、聖書はイエスの弟子たる者に関して、不気味なほどに大いなることばを語ります。すなわち、「(彼らは)自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまった」と言うのです(ガラテヤ5・24)

我々には、十字架に死なれたひとりの主がおいでです。主に従う者は、「私」を死に渡すことを、日々学びます。彼は死の修練を積みます。

それゆえ、真のクリスチャンにとって、息を引き取ることは、さほどのことではないのです。

さて、しかし、きょうのみことばには、それ以上のことが語られています。ラテン語訳聖書ウルガタには、実に的を得た訳し方がされています。「正しい人は死ぬときにも望みがある。」そうです。主イエスにつく者とは、死よりよみがえった方を主とする人です。それゆえ、彼には生ける望みがあります。そして死に臨んでも、このことを知っています。—「わがふるさとはかしこにあって/そこには御使いの軍団がおり/大いなる主を賛美する・・・」

もうひとつ、付け加えることがあります。泰然と死を迎え得る人は、また泰然と生きる人でもある、ということです。

主よ! あなたの死といのちにあずかり得ることを感謝します。
                         アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳 11月29日の項目から引用。二三日前、小学校1年と3年の女の子がいつも寝る前に祈っていることを知った。姉が言うには妹は随分長いこと祈っている、と言う。聞いてみると「死なないように」と祈っているということであった。このブッシュ氏の記事を読む前は、ほー素晴らしいじゃない、やはり死の恐怖を解決するお方に子どもと言えども祈らざるを得ないのだと得心していた。しかし「死なないように」とは私もふくめて人間すべてがもっている己の欲に支配されている罪そのものであることがわかり、複雑な思いにとらわれた。「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。・・・ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」ヤコブ1・14〜16、21。自分自身をふくめて幼きこどもたちの霊の眼が開かれ、真底イエス様に頼れるように祈り続けるしかないと思わされた。)

2012年11月9日金曜日

私の心の底を探るお方が私にいのちを与えられた

・・・すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと・・・そのようなことに心を留めなさい。(新約聖書 ピリピ4・8)

なんと深くたましいを探ることばでしょう! 聖書は我々の心の底に、我々の空想にまで届きます。

それは人間の最もプライベートな領域です。こんな民謡があります。—「心で考えるのは自由!/だれにもつかまらない。/いつでも逃げられる、/夜の陰のように・・・/永遠に変わらない。/考えるのは勝手!」

しかし、神のことばは語ります。「そうではない。考えるのは勝手ではない。イエスが十字架にかかられたのは、それによってあなたの空想の領域までもが贖われて、聖霊が心を占領なさるためだ」と。

山上の説教中に、イエスは二、三のたとえをお話しになりました。「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません」(マタイ5・22)。「そうだ」と我々は言います。—「私にもひそかに恨んでいる人はいるさ。頭の中でもう何十遍となく、徹底的な手紙を書いてみたものだ。でも、ただ考えてみただけさ。別にそれで人を傷つけたことにはならないよ。」でも聖書は「とんでもない。あなたは自分自身を傷つけているのだよ。心をやみにしているのだ」と言います。

イエスはまた言われました。「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイ5・28)。—「何だって? ちらっと思うだけで、口に出すわけじゃない。行動に移すわけでもなし。いったいそれでだれを害するのか。」聖書は答えます。「あなた自身を汚すのだ。あなたの心に、暗やみが広がるのだ。」「すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと—きよいこと、大いなること—そのようなことに心を留めなさい。」

とすれば、それは可能だろうか? イエスは仰せになります。「人にはできないことが、神にはできるのです」(マタイ19・26参照)。

もう一度言おう。イエスは我々のぶざまな空想を救うために、来て死なれたのです。

主よ! 我らの必要は、あなたがご存じです。  アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳11月8日の項より引用)

2012年10月25日木曜日

御救いをお示しください!

2012.10.19 修善寺から見上げる富士山 by M.Miyashiro
「救い」とは何でしょうか。「救い」とはいったい何をもってあなたは「救い」と考えるのでしょうか。

昨日の家庭集会である方とのお交わりの中で自然と胸に突き刺さって来た自らに対する問いと答えであった。「救い」とは多くの場合、自分の遭遇している状態(ある場合には逆境と言ってもいいかも知れない)が何らかの意味で改善することを意味している。確かに自分の今置かれているそのような有難くない状態が改善されることは本人にとっても周囲の者にとっても救いになることは間違いない。

しかし聖書が指し示す救いとはただそれだけだろうか。あるいはもっと突っ込んで言えば本当にそうなのだろうか。お話している間に全くそのようなことに尽きないことを悟らされた。またその席上での敬愛する兄弟のメッセージでは生まれながら盲目に生まれついた人がその原因を捜す、「犯人探し」が人間のなすすべてであるが、イエスさまは犯人探しより、もっと高次元の盲目であったその人自身の霊の眼を開いて下さる方であることが熱心に語られていた。

それに呼応するかのように、私もまたそのお交わりしている方に熱く、「救い 」は私たちが頭を下げて主のご主権を認めること、主イエスさまの身元に来るだけで「救われている」ことを確信できる性質のもので、それは私たちの待遇改善を必ずしも指すのでなく、それ以前に私たちの罪そのものの解決が主イエスさまの十字架の犠牲の死によって清算されている、それが「救い」ですとお話していた。果たしてこの私の考えは皆さんに納得していただけるものだろうか。

ところが、これからご紹介するヴィルヘルム・ブッシュ氏の霊想の今日の箇所のメッセージはまさしくその間の事情を直裁に示すものと思った。以下、いつものように抜粋させていただく。

人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。(新約聖書 ローマ3・28)

1915年、血気盛んな若者であった私は、軍隊に入れられました。当時は服装の規則が非常にやかましくて、街などで上官に出会うようなことがあると、全くあわててしまうのでした。つまり最初に反射的にすることは、帽子をつかんで、まっすぐにかぶり直し、あごひもをキュッと引っ張り、大急ぎでコートのボタンが全部かかっているかどうかを調べる、ということでした。

人と話をしていて、神の御名が口にされる瞬間、私はいつもこのことを思い出させられます。人は突然に初年兵のようにしゃちこばってしまいます。そして言います。「私の人生はきちんとしています!」と。時々は教会にも行くんだ、と力説します。数々の善行を話してくれます。つまりは、神の御前で身構えて見せるのです。

さて、聖書はそれに対して「なんとこっけいな空騒ぎかね。神には、我々の生涯がありのままに見えているのだから」と言います。そしてまた、「安心して自分自身に絶望しなさい。神の御前には、いずれ立てないのだ。だから神の御前で身構えるのはやめなさい。あなたが失われた者であることを、神はずっと以前からご承知だ」と語ります。

「自分自身に絶望せよ!」これは難しいことです。しかし、もし我々が真理を尊重するなら、神の御子の十字架を顧慮することはなんでもないことです。そして、そうするなら、このお方こそが、我々を神の前に「義とする」のだ、と悟ります。

聖なる、妥協なき神に、我々が何者であるか、また、何をしたか、ということで、取り入ろうとしてもむだです。しかし、もし—聖書の表現によると—我々がイエス・キリストの正義の外套をまとうなら、神に喜ばれるのです(イザヤ61・10)

主よ! この目を開いて、自分自身を見させ、あなたの御救いをお示しください。
                          アーメン

(引用箇所は『365日の主』301頁10月25日より)

2012年10月13日土曜日

わたしは小羊です

2003年 in Germany by T.Katagiri
(イエスは言われた。)「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。」(新約聖書 ヨハネ10・27)

友人から、こんなかわいらしい話を聞きました。彼は小さな息子に、良き羊飼、主イエスのことを話しました。そして最後に、「お前もイエスさまの小羊になれるんだよ」と言ったそうです。

子供は黙って聞いていました。が、夜になってベッドに入ってから、坊やはこう祈ったそうです。「愛する主よ! ぼくをどうしても動物にするのでしたら、どうぞお馬にしてください!」

我々人間にはみな、そういうところがあります。少しでも抜きん出た存在でありたいと願うのです。神の国の、悲惨な十字架、それはあまり人気がありません。あの子供にとっても、「小羊」ははかばかしく思えず、さっそうたる駿馬が望ましかったのです。

さて、我らの主が、我らを羊にたとえられたのには、それなりの理由があったからです。彼はただにご自分の民ばかりか、すべての人を「羊」とお呼びになります。ただ主は、迷い、失われた羊と、救われて主の群れのものとなった羊とを区別なさるだけです。

なぜ主は我々を「羊」とお呼びになるのでしょう。たぶん、我々が全く方向感覚を持たないからでしょう。この世に関することなら、曲がりなりにも進んで行けるのですが、我々の生涯の、永遠の目的ということになると、まるで途方に暮れてしまいます。だから、羊飼が必要なのです。とすれば、イエスが我らの羊飼となられたことは、なんと幸いなことでしょう。子供のようになって、「わたしはイエスの小羊。/この良き羊飼を/絶えず、絶えず、喜びます・・・・」と賛美しない限り、どんなに力を尽しても、本当の人生を歩んで行くことはできません。

この生けるお方、イエスは、今もこの世の道を歩みつつ、羊飼の声を放たれます。多くの人にとって、その御声は、彼ら自身、あるいは、人々の声によってかき消されてしまいます。しかし—「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。」

主よ! 我らを投げ出してしまわれないので、感謝します。
                       アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳 10月13日から引用)

2012年10月3日水曜日

自由になった金持ち

収穫の秋がやっとやってきた!
イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。・・・・」
                   (新約聖書 ルカ19・9)

エリコの町は金持ちザアカイの家、そこでこの事件は起こりました。主イエスの前に立って、彼は宣言します。—「私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」こうして男は、長い人生でこつこつと蓄えた身代を棒に振るのです。

それは間もなく町のうわさになります。さて、そこで大新聞の記者がザアカイのところへインタビューに来たとすれば、こんなことになるでしょう。—まず記者が質問します。「失礼ですが、ザアカイ氏。金庫を空っぽになさったというのは、どういう心境の変化ですか。」

ザアカイは答えます。「イエスのことはご存知ですな。実はあの方がここにお見えになったのです。」

記者—「率直に申し上げて、あなたはかなりあくどい商法でもうけなさったようですが。これはいわゆる償いということですか。」

ザアカイ(とても真剣な顔つきで)—「償い、ですって? 我々には、わずかひとつの罪でも償うことはできませんのだ。それはイエスにお会いした人なら、すぐにわかることなんですがね。しかし、イエスはどんな罪でもおゆるしになることができます。彼は、世の罪を除く神の小羊なのです。」

記者(驚いて)—「はあ。しかし、自分で償うことは何一つできないというのなら、どうしてまた、金庫を空になさったのです?」

ザアカイ(笑いながら)—「イエスが私を金から自由にしてくださったからですよ。私は金の奴隷でしたからね。」

ああ、主イエスよ! あなたは、力強いお恵みにより罪を消し去り、自由にしてくださるお方です。この恵みを我らにも味わわせてください。
                      アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳10月3日より。)

2012年9月19日水曜日

この方は、どういう方なのか。

小海線沿線の畑のデザイン(7月下旬)
こうして、イエスがエルサレムにはいられると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言った。(新約聖書 マタイ21・10)

この方は、どういう方なのか—これは大問題です。

この問いが発せられると、たちまち大混乱が生じます。「彼は俺たちと同じ人間だ」「彼の謙そんの教えは、ヨーロッパの不幸だ」「彼は神の父性愛を見いだした宗教的天才だ」「彼はまことの人間の原型だ」「彼は・・・」「彼は・・・」。

しかし、イエスの実際の生涯に触れる勇気を、人は持っていません。

しかし、ここに注目すべき、ただならぬことばがあり、それが柵のように我々の道をふさぎます。それは「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネ17・3)ということばです。

永遠のいのち! それは神から来るいのちであり、我々のたましいの慕ってやまないいのちです。このいのちは、いかなる死によっても奪われないいのちであり、また、「この方は、どういう方なのか」という問いに答えを見いだすかどうかにかかっているいのちです。

それはまるで、霧の中から突然、目の前にひとりの人が姿を見せ、初めはぼんやりとしか見えない、というようなものです。こっけいなろばにまたがり、それでいながら威厳を保って進むのです。少しずつ姿を現し、彼は今や、処刑された犯罪人のように、青ざめて血を流しているのが見えます。それなのに、彼は神々しい光を放ってさえいます。「この方は、どういう方なのか。」

彼に対する信仰を言い表して、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と申し上げたのは、まことに聖なるひとときであったでしょう。イエスはこれに答えて言われました。—「あなたの理解力ではなく、天にいますわたしの父が、そのことをあなたにお示しになったのです」(マタイ16・17参照)。

 主よ! 我らに光をお与えください。  アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著/岸本綋訳 9月19日より引用 。今日の夕刊には「『イエスに妻』初の文献か」、とニューヨーク発の特電が掲載されていた。一方、連日中国人民の日本企業に対する暴行が報道されている。悪は野放図のごとき感がある。しかし、主なる神であるイエス様はいずれのことがら(自らに対するとんでもない冒瀆、また罪に支配されている暴力)も御存知であり、じっと忍耐しておられる。誰や知る!いのちの与え主、主イエスを。)

2012年8月6日月曜日

あなたは交わりのうちにいます

緑陰、浅間山麓にて
エルサレム、それは、よくまとめられた町として建てられている。(詩篇122・3)

 「よくまとめられている」ことは、生ける神の教会において、常に大きな意味があります。神がお与えになった最初の律法の中に、すでに「最初の日は、あなたがたの聖なる会合とし・・・」(レビ23・7)とあり、また、初代キリスト教会については、「彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし・・・」と記されています(使徒2・42)。

 教会史の中で、「よくまとめられる」ことの価値を立証すると思われる時代があります。

 ローマ皇帝ディオクレティアヌスは、これまでのやり方で迫害するのを断念しました。そうして、それぞれ自分の信仰に生きてもよいと布告します。ただし、クリスチャンが集会を持つことはまかりならぬ、と付け加えます。

 これまで圧迫に圧迫を加えられてきたキリスト教会が、この条件をのまないはずがあるでしょうか。

 ところが、長老たちは一致してこう言います。「我らイエスの弟子にとって、ともに集まることは霊的いのちの一部分なのだ。我々としてはともに集まるほかない。それは、死んでよみがえられた主への信仰を固くし、互いに訓練しあい、共に賛美し、祈るために必要だ。」

 こうして彼らは敢然、ローマ皇帝の勅令に抵抗し、その結果、かつてなき激しい迫害を招くこととなります。

 信仰者がともに集まることは、命令であるばかりか、喜びであるべきです。イスラエルの民が神の祭りのためにエルサレムにやって来たとき、彼らは歓声をあげつつ、「エルサレムよ。私たちの足は、おまえの門のうちに立っている」(二節)と、この詩を歌います。

 こんにち、個人的なキリスト教というようなことがもてはやされる風潮があります。それはうまくいかないでしょう。そんなことをすれば、信仰も愛も死に果てます。

 主よ! 我らに 神にお仕えする喜びをお与えください。 アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著/岸本綋訳8月6日より引用 )

2012年7月10日火曜日

目的地を目指して

テクテク必死で歩くやどかり 波照間島 by Yuriko.O
「恐れて弱気になっている者はいないか。その者は家に帰れ。戦友たちの心が、彼の心のようにくじけるといけないから。」 (旧約聖書 申命記20:8)

 我らの主イエス・キリストの軍隊では、逃亡は許されます。「弱気になっている者は帰れ」です。

 イエスの弟子の、まことの共同体は、確かにひとつの軍隊です。ツィンツェンドルフ伯はこんな詩を作りました。

 「あなたは我らすべてをご命令に従わせたもう。
  あなたがご命令をなされば、それだけ我々の勝利も多くなる。
  ご命令は完全な約束だから。
  その約束は、塞がれた行く手を切り開く。
  我らは、あなたに祝福された兵士となります。
  伝令となり従者となり、突撃兵となりましょう」

 よみがえられた主を知り、心から信頼する人は、この軍隊に喜んで身を投じます。
 
 が、弱気になっている者は帰れ! なぜなら彼は主を知らず、その復活の力を全く知らないからです。

 自分の力でやり抜こうとするクリスチャン生活は、早晩破綻を来すでしょう。内外からの試練に遭い、世のさげすみと敵対にあわてふためき、弱気な心に取り付かれます。

 そのような弱気は、もちろん、悪です。というのは、きょうのみことばを補足する聖句が、聖書の一番最後に出てくるからです。

 「おくびょう者・・・の受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある」(黙示21:8)。恐ろしいことばではありませんか! これはつまり、臆病とは、天においても地においても一切の権威が与えられた主を、否むことだ、というわけです。

 主とともなる者であることを思い定めましょう。

 「おお、キリスト、勝利者よ/御名を輝かしめたもうお方。/我ら、弱き者、惨めな者を助けたまえ/強きみ手をもって」   アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳7月10日より)

2012年7月1日日曜日

神のあわれみの泉が湧き出た!


薔薇展 in Paris by Nobuo

神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。(旧約聖書 出エジプト2:24〜25)

 我々の祈りは、実に信じられないほど大きな働きをします。イスラエルは悲惨な奴隷の境遇に身を置いていました。その苦しみは言語に絶するものがあり、その存亡が危ぶまれていました。そこで民は、神が本当に生きておられ、救い主であることに心を留め始めます。「彼らの労役の叫びは神に届いた」ということです。それから、このことが起こったのです。聖書の記事には、あわてふためくような感じが表れています。

 まるで記者は、神のあわれみを描写することばを充分見いだせなかったかのように「神は聞かれ、契約を思い起こされ、ごらんになり、みこころを留められた」と語ります。これは我々の注目をひきます。なぜなら一般に、聖書はことばを切りつめて用いるので、もっと詳しく聞きたいな、と思うことがしばしばあります。例えば、あの十字架上の盗賊がイエスを信じたときの心境を、知りたいと思います。また、木に登ってでもイエスを見たいと思ったザアカイの場合も同様です。しかし聖書はそれを語ろうとはしません。ほんのわずかなことばで、必要最小限を伝えるのです。

 昔、オエインハウゼンで、治療効果のある温泉を求めて、あちらこちらを試掘しておりました。ある日ついに、ひとつの泉を掘り当てます。しかし、それが突然、猛烈に湧き出したので、設備はすべて飛ばされてしまい、人々は驚いて逃げ出しました。

 困窮した心が、呼ばわり、ため息をつき、叫ぶと、神のあわれみの泉は猛然と湧き出ました。神は聞き、契約を思い起こし、ごらんになり、悲惨に心を留めたもうお方です。この泉は、御子の十字架上で残りなく湧きあふれました。パウロも「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ8:32)と語っています。

主よ! あわれみに富むあなたを無視して、自分で人生をやっていこうとした我らを、どうぞおゆるしください。            アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳7月1日の項目より引用)

2012年5月30日水曜日

いのちに至る悔い改めという「狭い門」

Der breite und der schmale Weg(Matth. 7,13.14)
人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」と言って、神をほめたたえた。(新約聖書 使徒11:18)

 人生において、我々は幾たびも、閉ざされた戸の前に立ちます。そのたびに、腹を立てたり嘆いたりするのです。

 しかし、どんな扉に比べても、神の国の門ほどに広く開かれているものはこの世にないということを、知らねばなりません。

 イエス・キリストの最初の群れは、このことを知りませんでした。ペテロから「異邦人でもこの門を入ることができる」と初めて聞いた時、彼らは神への賛美をほとばしらせたのです。異邦人でも! 無神論者でも! 自分を無価値だと思う人でも! この門を入り得るのです。

 「異邦人にも!」——神の御子が我々のために十字架にかかられて以来、このことばは、神の国の門がいかに広く開かれているかを、示し続けています。

 しかし、同時に、この広い門は「狭いくぐり戸」でもあるということは、注目すべき事実です。この戸は、「悔い改め」ということばの中に立っています。主イエスは仰せになりました。「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。・・・いのちに至る門は小さく、その道は狭い」と。

 狭い門とは「悔い改め」のことです。悔い改めとは、古い生活からの方向転換であり、神なき生活、神のおきてなき生活、この世の霊に従う生活、神の御霊を無視した生活、自己義認と罪の生活——それらからの方向転換です。それは大きな第一歩です。重大な決断です。そしてまことに狭い門なのです。

 あの大いなる門はすべての人に開かれています。が、そこを通って行く人には、それは狭い門であるとわかるのです。

 主よ! 我らを、そこを通り行く者としてください。 アーメン

( 『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著5月30日の項より引用。)

 昨日火曜日一週間前に64歳で召された一人の私たちの愛する奥様の葬儀が吉祥寺集会で行われた。胆嚢がんの宣告のもと三年八ヶ月の闘病生活であったが、その困難な試練を通してその方のご主人お子様がいかにして主イエス様を信じ受け容れなさったかをお聞きし、主の測り知れない恵みを味わわされた。

 「火曜日」は長年ずっと聖書の学びが行われて来た。たとえ葬儀があっても、この時間帯が当てられることはなく、午後行われたものだ。ところが今回は葬儀が学び会そのものとなった。そしてそれは国籍を天に持つ者は、ともに同じ神の家族であるという意味で姉妹とも言うべき奥様が病の中でどんなに忠実に主イエス様に従って行き、まわりのまだ主イエス様を知らない方々への福音伝達をなさったかを端無くも証しする機会となった。

 ご遺族のご挨拶の中で、ご主人は召される二日前の奥様と親しい方との会話を紹介なさった。お見舞いされた方が、天国への道の話をされ、「今日は(貴女は)一段と輝いていますね、他の病室はどこも暗いのに、この部屋だけは明るいですね。(からだはやせ衰えていたが、目だけは輝いていたようだ)」と言われたところ、奥様である姉妹は「私は狭い門から入ります。」と確信に満ちた答えをされた、と言うことだった。

 その時、すぐには(信仰をもって間もない——実は召される21日前に奥様と同じ天国へ行きたいと強く思わされ洗礼を希望し、奇跡的にそれが実現したのだったが)自分には何を言っているか意味が分からなかったが、主イエス様が狭い道から入る道を用意してくださったのだと感謝の気持ちで一杯だった、と述懐された。

 ところが召されて後、つい先日のこと、奥様がドイツ・ミヘルスベルクで購入された絵(それまで長年サイドテーブルに置いてあったのに不覚にも気づかなかった)が目に入り、ああこれが「狭い門」だったのだと実感が湧き、その絵の存在さえも知らなかった奥様に対する無関心への悔い改めをなさり、それにもかかわらず、妻の病を通して自分もともにこの狭い門をくぐって天国に行けることを確信し感謝の気持ちを持ちました。今日はその記念にその絵もこのように額にして持ってきました、と高々と示された。その時、葬儀会場には一瞬微笑みがさざ波のように広がって行くのがマイクを通して伝わって来た。このような席では普通は泣き言、悲しみしか聞かれないのに会場を支配しているこの爽やかさは一体何なのだろうかと思わされた。

 様々なご事情で出席がままならなかったご遺族の関係者は4名だったが、ご主人と二人のお子様、そしてお母様や弟様ご家族に、姉妹の不治の病という代価を払わされた主イエス様は確実に家族・親族全員を「狭い門」をくぐり抜けさせ、天の御国へと招かれた。その真実な主イエス様のみわざが輝き、会場全体を喜びに包んだ証しが、これまたやんごとなき事情で出席できなかった私にも収録を通し伝わって来た。

 ちょうどタイミングよく今日手にしたブッシュ氏の引用聖書箇所はその「狭い門」という意味の一つの説き明かしであった。ご主人が会場で示されたであろう絵は、奥様がまだ病を得る前にドイツでご一緒させていただいた折りに購入したあの絵に違いない。故人の信仰を忍び冒頭にその絵を載せさせていただいた。

2012年5月20日日曜日

飢え渇きを満たすお方


 五旬節の日になって・・・。(新約聖書 使徒2:1)

 これは注目すべき表現です。

 「五旬節の日が来て」ということですが、直訳すれば「・・・の日が満ちて」となります。これは、何を言わんとするのでしょう?

 神がこの日をすでに世界の始まる前から定めておられた、というのです。そして、神のお定めになった待ち時間が済んで、聖霊が世界においでになられたのだ、というのです。

 これは、神がいかにご自分の計画に忠実なお方か、をあらわしています。

 人間的な愚かな言い方をするなら、こんなことになるでしょう。—「もし我々が神であったなら、我々はこの日を延期したであろう。なぜなら、状態としては極めて不都合な時だったからだ。」

 つまり、当時はローマが強大になりつつあり、政治問題が人心を占領していた時期です。いったいだれが聖霊に関心を抱くでしょう!

 では、神には、ご自分とともに働く正しい人々がいたのでしょうか。それは有名人ですか。霊的に秀でた人たちだったでしょうか。いいえ。ほんの一握りの、無学な、臆病な漁師らと取税人—それが主の意のままになる人々だったのです。

 「五旬節の日が満ちて」神は、ご自分の力強い良き御霊をお送りになりました。神はご自分の計画に忠実でありたまい、我々の助言を必要とはなさいません。神はご自分の道を行かれます。そして、たといほとんどの人が聖霊を心に留めようとしなくても、神は義に飢え渇く者たちには聖霊をお与えになります。また、たとい権力者らが世間に騒ぎを巻き起こそうとも、神は、静まって待ち望む者に御霊を注がれます。

 神は、ご自分の計画のままに、事を行いたまいます。 「五旬節の日が満ちる時」、「すべては時間どおりに成就する。/神がひとたび我に定めたもうたことならば。」

 主よ! 
  我らに、あなたのご計画とみわざとを、
   何よりも大切なものとさせてください。       アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳5月20日の項より引用)

2012年5月1日火曜日

真理のためなら、何でもできるのです。

西海国立公園、南九十九島の眺め(by N.Yuguchi)
そこで、祭司たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、こう言った。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスが盗んで行った。』と言うのだ。・・・』そこで、彼らは金をもらって・・・。
(新約聖書 マタイ28:12〜15)

 兵士らが受け取った金は、途方もない額であったでしょう。
「これはぼろいもうけだよ。俺たちにはどっちみち関係ないことを、少しごまかせばよいのだからな。」
 自分らが滅びを買い取ったとは、思いもよらぬことでした。

 弟子たちは、「イエスはよみがえられた」と至る所に告げ知らせました。当局が禁止しても、ニュースは広がる一方です。ついにエルサレムでは迫害が始まりました。が、逃げた人たちが、国中にニュースをばらまきます。そうして、復活の主はパウロの目をも開かれました。そのパウロが、「イエスはよみがえられた」というニュースをローマにまで運んで行きます。イエスはたちまち話題の焦点となりました。

 幾たびとなく兵士らは呼び止められ、「君らが墓の番をしていたんだろう。では本当はどうだったんだ」と尋ねられたことでしょう。そのたびに、彼らは笑って言ったにちがいありません。—「ああ、あのイエスかい? やつはもちろん、死んださ。」だが、その唇はこわばっています。本当のことを知っていたからです。

 自分の認識と良心に反して生きねばならぬ人生、それは地獄です。ある人が私にこう言ったのを、忘れることができません。—「私は聖書に書いてあることをみな信じています。が、社会的地位の都合上、公に告白することはできないのですよ。」

 そうやって生きていくのでしょうか?

 イエスは生きています、と信じるのであれば、我々は主のものとなって、主のうちに見いだしたものを恐れずに語ろうではありませんか。

 この兵士らに比べ、弟子たちの姿は対照的です。彼らは迫害にもめげず、真理を表明しました。

 主よ!
 「真理を我らに告白せしめよ。
    真理は喜びと自由を与えたゆえに。」         アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳5月1日より引用)

2012年4月8日日曜日

ここにはおられません。よみがえられたのです。

使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。(新約聖書 ルカ24:11)

 我々にとって、ここは重要な場面です。最初のイースターの朝早く、弟子たちは戸を閉ざし、息をひそめていました。

 すると荒々しいノックの音がします。みんなは一瞬、息をのみました。—大祭司の捕縛隊ではないか? 主が十字架につけられたうえ、我々も同じ目に遭うというのか?

 ノックは一段と強くなりました。それから女の声が聞こえます。ひとりの弟子がそっと戸を開けます。よく知っている女の顔が、そこに並んでいました。興奮して女たちは叫びます。—「イエスのお墓が空です。御使いが、主は生きておられる、と言いました。」「ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われた。」

 私はこの場面を想像します。ヨハネがばかにしたような笑いを浮かべて、「また女のおしゃべりだ」と言います。マタイは耳をふさいで、「そんなばか話で、我々の苦しみを茶化す気かい?」と言い、ペテロは立ち上がると、女を外へ締め出してしまいます。

 この知らせを耳にすると、知性は必ずそのような反応を示します。—「人がよみがえる! 大ボラもいいところだ。」

 こうして、かわいそうな女たちは戸の外に出されてしまいました。彼女らはうちのめされて、しょんぼりと立ち去ったでしょうか? 正直言って、クリスチャンは時に、人々が知性を根拠にメッセージを拒むと、萎縮し、狼狽することがあります。

 けれども—私は確信するが—女たちは笑ったことでしょう。「イエスさまが生きておられるのを本当に見たら、この人たち、びっくりするでしょうね。」彼女らの笑いは勝利を表しています。そして、イエスの弟子たる者はみな、ベンヤミン・シュモルクの詩のように、「義しき者の住み家には、/もう勝利の歌声が響きわたる・・・」と歌い、信じることができます。

 主よ! 盲目のこの世にあって、我らにいつも確信を与えてください。
                             アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本紘訳4月11日より引用。ヴィルヘルム・ブッシュ氏は4月の全日をとおして復活の主についての聖書よりのメッセージを載せている。ルターは『イースター・ブック』〈新教出版社〉で次のように書いています。「(よみがえられた)主がまずマグダラのマリアに、つまり女性にあらわれたもうたということは深く考えるべき事柄です。・・・福音に耳を傾ける人間の典型が女性であるということは、大いなる慰めです。御言葉を聞いた女性たちのうちには、悪魔のすべての攻撃にびくともしない、御言葉からひきだされた大いなる力があったのです。・・・かの女たち自身は弱くても、かの女たちが聞いた御言葉は死と罪の縄目を断ち切る力をもっていました。」挿絵は同書所収より。)

2012年2月20日月曜日

依怙地になるな

春近し 雀さえずる 桜の木 烏一羽の 孤塁守りて(今日の古利根川)
イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。(新約聖書 マタイ26:23)

 それぞれにパンをつかんだ二本の手が、両方から伸びて来て、それをスープの鉢に同時に浸しました。それはイエスの手と、イスカリオテ・ユダの手です。この事件は、主の死の前夜の食卓で起こりました。

 ふたつの手が出会います。その瞬間、恐るべきことが起こりました。ユダの中で、長いひとつの歴史が終わったのです。イエスとの交わりを絶ち、主への裏切りを最後的に決定しました。そうしてイエスはこの瞬間、ユダを滅びるにまかせたまいました。

 この点をはっきりさせることは重要です。ユダについて問題とされることは、ひとりの神なき人間ではありません。逆です。ユダはクリスチャンだったのです。何年もの間、彼は、彼はイエスと旅をしました。恵まれた輝いた時を、幾たびも経験しました。どこから見ても、彼はまさしくクリスチャンでした。

 その彼を、イエスは滅びるにまかされました。主はついに彼をあきらめました。痛みに満ちて主は仰せになります。「そういう人は生まれなかったほうがよかった」と。ユダには、長い間、罪と戯れる日々があったのでしょう。そしておそらく、イエスはこのたましいのために心を用いられたことでしょう。なぜなら、我らの主、救い主がそんなに簡単に人を見捨てたもうはずがないからです。しかし、ユダの場合には、ついにそのようになってしまいました。救い主をまじめに受け入れようとしないクリスチャンがいるなら、このことをよく心に留めるべきです。

 ここでひとりの人に起こったことが、エルサレムの人々の間で大規模に起こりました。何年もの間、イエスは叫び続け、彼らを得ようとしてこられました。聞こうと思えば、聞くことはできました。避けることも、抵抗することも、もちろんできました。彼らの心には、多くの戦い、ためらいがありました。が、突然、決断の時が訪れました。そうして、イエスを拒んだのです——「十字架につけよ」と叫んで。

 主よ! あなたのみもとに帰らせてください。 
                    アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳1976年刊行2月20日より引用)

2011年12月6日火曜日

主であるキリストを見る幸い、ここにあり!

死を前にして、書かれたことば「これで十分だ」※
(シメオンは)主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。(新約聖書 ルカ2:26)

 このみことばには、全く驚かされます。

 なぜなら、主キリストにお会いしないまま死を迎えるということが、起こり得るからです。神の御怒り、罪、永遠の滅びから救い出す方を知らないで死ぬ—それはなんと恐ろしいことでしょう。

 死は子供だましではありません。人間は幾たびも、死は自然の成り行きだと思い込もうとしてきました。しかし、死の恐怖を追い払うことは成功しませんでした。

 それは無理もないことです。死は生物学的な成り行き以上のことだからです。聖書は、「死は罪から来る報酬だ」と言っています(ローマ6:23)。死は、我々が罪人であり、神の御怒りが罪の世界にのしかかっていることの、動かせないしるしなのです。

 それゆえ、死には恐れが伴います。

 そして、死のあとに何が来るでしょう。一生涯、死の餌食を奪い返すために戦った、ひとりの医者が、こう言いました。「死はすべてのものを終わらせるピリオドであったならどんなによいだろう!しかし、やつは死にゆく人の傍らで不気味に笑い、『これからどうなるのだ』と尋ねる、疑問符なのだ」と。

 しかしながら死は、終止符でも疑問符でもなく、コロン(:)のしるしのように、あとにこう続きます。すなわち、死:「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)。

 そして、救い主、贖(あがな)い主もなく、罪のゆるしも、生ける望みもなく、すべての人がこれに遭遇するとしたなら! それはなんと恐ろしいことでしょう。

 シメオンとともに「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。 私の目があなたの御救いを見たからです」(ルカ2:29、30)と言うことのできる人は、幸いです。

  主よ! 冷たい死の手につかまらないうちに、我らをいのちへ
  導いてください。
                         アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本訳12月6日より。※10月28日、一人のご老人が天に召された。その二日前病院を見舞った宣教師ベックさんから、福音をお聞きになった。しかしその方は生憎、耳がご不自由であった。同行した私は、一枚の紙にベックさんの言われたことば「イエス様、ごめん。それで十分だ」と書いてさしあげた。ご老人はその文句に一々うなずかれ、それだけでなく深々と感謝の意を表するために何度も何度もベッドの上で私たちに礼をされた。そして今度はご自分で、私の筆を取り上げて「これで十分だ」と書かれた。この方の死を前にした生き方はまさしくシメオンそのものであった、と言えよう。)