2012.10.19 修善寺から見上げる富士山 by M.Miyashiro |
昨日の家庭集会である方とのお交わりの中で自然と胸に突き刺さって来た自らに対する問いと答えであった。「救い」とは多くの場合、自分の遭遇している状態(ある場合には逆境と言ってもいいかも知れない)が何らかの意味で改善することを意味している。確かに自分の今置かれているそのような有難くない状態が改善されることは本人にとっても周囲の者にとっても救いになることは間違いない。
しかし聖書が指し示す救いとはただそれだけだろうか。あるいはもっと突っ込んで言えば本当にそうなのだろうか。お話している間に全くそのようなことに尽きないことを悟らされた。またその席上での敬愛する兄弟のメッセージでは生まれながら盲目に生まれついた人がその原因を捜す、「犯人探し」が人間のなすすべてであるが、イエスさまは犯人探しより、もっと高次元の盲目であったその人自身の霊の眼を開いて下さる方であることが熱心に語られていた。
それに呼応するかのように、私もまたそのお交わりしている方に熱く、「救い 」は私たちが頭を下げて主のご主権を認めること、主イエスさまの身元に来るだけで「救われている」ことを確信できる性質のもので、それは私たちの待遇改善を必ずしも指すのでなく、それ以前に私たちの罪そのものの解決が主イエスさまの十字架の犠牲の死によって清算されている、それが「救い」ですとお話していた。果たしてこの私の考えは皆さんに納得していただけるものだろうか。
ところが、これからご紹介するヴィルヘルム・ブッシュ氏の霊想の今日の箇所のメッセージはまさしくその間の事情を直裁に示すものと思った。以下、いつものように抜粋させていただく。
人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。(新約聖書 ローマ3・28)
1915年、血気盛んな若者であった私は、軍隊に入れられました。当時は服装の規則が非常にやかましくて、街などで上官に出会うようなことがあると、全くあわててしまうのでした。つまり最初に反射的にすることは、帽子をつかんで、まっすぐにかぶり直し、あごひもをキュッと引っ張り、大急ぎでコートのボタンが全部かかっているかどうかを調べる、ということでした。
人と話をしていて、神の御名が口にされる瞬間、私はいつもこのことを思い出させられます。人は突然に初年兵のようにしゃちこばってしまいます。そして言います。「私の人生はきちんとしています!」と。時々は教会にも行くんだ、と力説します。数々の善行を話してくれます。つまりは、神の御前で身構えて見せるのです。
さて、聖書はそれに対して「なんとこっけいな空騒ぎかね。神には、我々の生涯がありのままに見えているのだから」と言います。そしてまた、「安心して自分自身に絶望しなさい。神の御前には、いずれ立てないのだ。だから神の御前で身構えるのはやめなさい。あなたが失われた者であることを、神はずっと以前からご承知だ」と語ります。
「自分自身に絶望せよ!」これは難しいことです。しかし、もし我々が真理を尊重するなら、神の御子の十字架を顧慮することはなんでもないことです。そして、そうするなら、このお方こそが、我々を神の前に「義とする」のだ、と悟ります。
聖なる、妥協なき神に、我々が何者であるか、また、何をしたか、ということで、取り入ろうとしてもむだです。しかし、もし—聖書の表現によると—我々がイエス・キリストの正義の外套をまとうなら、神に喜ばれるのです(イザヤ61・10)
主よ! この目を開いて、自分自身を見させ、あなたの御救いをお示しください。
アーメン
(引用箇所は『365日の主』301頁10月25日より)
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