2012年10月29日月曜日

人にとってもっともたいせつなこと

鳩の降りた日 吉岡賢一画
今日(きょう)わたしたちがどんな気分でいるかということで、神はわたしたちをさばかれるのではありません。さばきは、神との生きた交わりをどのように持っているかによるのです。わたしたちが何を見ているかによってさばかれる、と言ってもいいでしょう。自分の良心の光に従って生きてきたかどうかによってさばかれるのではなく、イエス・キリストという光によってさばかれます。

「わたしは、世の光です」(新約聖書 ヨハネ8・12)

もしイエス・キリストを知らないと言うならば、それはわたしたちの責任です。イエスを知ろうとしなかったということです。ほんとうのところ、イエスが生きてそして死んだのかどうか、あるいは何かをしたのかどうか、そういったことがわたしと関わりがあると、わたしは思っているでしょうか。

多くのペテン師がいることは事実です。けれどもほんものがなければ偽物もありません。イエス・キリストは作り話でしょうか。いいえ、とんでもありません。この方によって人間がさばかれるのです。

「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した・・・からである」(ヨハネ3・19)

わたしたちは、いま持っている光によってさばかれるのではなく、自分が受け入れようとしなかった光によって、さばかれます。そこにあるのに、それを見ようとしないならば、その責任を問われるのです。

一度イエスとお目にかかったならば、その人は以前と同じままではいられません。不滅の瞬間、つまり神の光を見るというその瞬間を、どう受け取るかに、わたしたちのさばきはかかっています。

(『「祈りの時」を変える黙想』オスワルド・チェンバーズ著棚瀬多喜雄訳42〜43頁より引用。東京で行われた二紀展は今日が最終日であった。吉岡さんから招待券をいただいていた。数日前から始まっているのにこれまでうっかりして行けなかった。今日念願が果たせた。ひいき目に見ている所為なのか、一番この作品が良かった。それにしても、もし招待を受けているのに行かないでいたら、どんな顔して吉岡さんと相対すれば良いのだろうか。人間同士でもそうなのに、ましてやイエスさまが招いておられるのにそれを断り続けていたとしたら、またイエスさまの光のうちを歩まないとしたら、私たちはイエスさまにお会いする時何という申し開きができるのだろう?)

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