2012年10月30日火曜日

あなたは主の全能の力を心ゆくまで体験しているか

ボーデン湖畔をミュンヘンへ向け走る 2010.10.12
今から18年前の10月のことであるが、私にとって印象深い「祈り」がある。それは日本人が大挙してドイツに出かけ、ミュンヘンからドイツ南西部の宿舎まで長時間のバスに揺られやっと到着した時のことである。長旅ののち全員は旅装を解くのももどかしく、興奮冷めやらぬ中で歓迎してくださった多くのドイツ人の方々とともに食事の席についた。その歓迎晩餐会の冒頭に祈られた短い祈りの言葉である。

「愛する主イエスさま。私たちはこの集いの期間を通して、あなたをよりよく知ることができますように、御名によって祈ります。 アーメン」

であったように記憶する。もちろんその他の言葉もあったであろう。しかし今となってはそれらはすっかり忘れてしまい、この祈りの言葉が今も私の耳朶に残るすべてとなっている。それは、私にとって、その方の祈りの眼目が主をよりよく知ることであったことに内心驚かされたからである。そこには人間的な矜持が一切なかったのである。ましてやそのように祈った当のドイツ人宣教師には、自分の手柄が功を奏して大挙せる日本人を連れてきたと言うような、自己満足的な思い、自己を誇る思い、故郷に錦を飾るという思いはいささかもなかったのである。

こんなことを思い出したのは、昨日に引き続いて引用するオズワルド・チェンバーズの本の中に酷似した文章が記されていたからである。題して

「祈ったことの結果として、今週わたしは神について何を学んだか。」

である。以下オズワルド・チェンバーズは次のように言っている。

祈り求めることについての重要な点は何かといえば、神をよりよく知ることができるようになるということに尽きます。

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(旧約聖書 詩篇37・4)

神ご自身を完全に知ることができるようになることを求めて、祈りつづけなさい。

倫理的な貧しさのどん底で、祈り求めたことがありますか。

「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら・・・神に願いなさい」(新約聖書 ヤコブ1・5)

しかし、確かに知恵に欠けていることを、あなたは認めなければなりません。自己満足に陥っているときは、現実に直面することができないものです。

わたしたちがほかの人のために祈るとき、神の御霊はその人たちの無意識の領域に働きかけてくださいます。わたしたちのまったく知らない領域、わたしたちの祈っているその本人自身も、まったく知らない領域です。しかし時が経つにつれて、その人の意識した生活に、不安と心の乱れのしるしが見えはじめてきます。これまでは、自分が疲れ切ってしまうまで、その人に話しかけてきたのに、なかなか思うようにいきませんでした。失望してあきらめていたのです。しかし、もし祈りつづけているならば、ある日、その人と出会って、その人の心がやわらかくなっているのに気がつきます。質問をしたり、なにかを知りたいという願いを持っているのがわかります。そのようなとりなしこそ、悪魔の国に最も大きなダメージを与えるものです。最初の段階では、それはあまりにも目立たない、弱いものかもしれません。

もし理性が聖霊の光に照らされなかったならば、わたしたちはそのような祈りをしなかったことでしょう。しかし新約聖書が最も強調するのは、このような種類のとりなしです・・・あまり大げさに取り上げてはいけませんけれど。わたしたちは祈ることができるし、祈るといろいろなことが起こると考えるのは、愚かに見えるかもしれません。だが、どなたに向かって祈っているのか、思ってもみてください。わたしたちが何一つ知らないような、人格の最も深い所にある無意識の世界を理解してくださる神に、祈っているのです。その方がわたしたちに、祈るようにと命じられるのです。

(引用文は昨日に引き続いて『「祈りの時」を変える黙想』オズワルド・チェンバーズ著棚瀬多喜雄訳65〜66頁より)

そして、このオズワルド・チェンバーズの本を読むにつけ、冒頭ご紹介した祈りは、18年後の今日、主との交わりのうちにすべてを披瀝する、全能の神様に心から感謝する何よりも信頼の祈りであったことに気づかされたのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿