ユングフラウを目前に 2010.10.8 |
昨晩も「日々の歌」の歌詞をもとに賛美していたら、楽譜がないので勝手に節回しをつけてとんでもない歌となっている。聞いている家内は思わず、吹き出した。そして「やっぱり音痴なのね」と宣った。それには訳がある。私の実母は自分は音痴で音楽が駄目だとよく言っており、好きな音楽と言うと広川虎造の浪花節であったし、よくって春日八郎の流行歌であった。そんな音楽環境で育ったため、楽譜は読めないし、ハーモニカひとつひけなかった。でも今から振り返ると父はハーモニカを器用に演奏していた。だから父譲りであるなら少し望みがあると言うところか。
そんな音楽環境の中にある私だがなぜか大学ではグリークラブに二年ほどいた。でもセカンドテナーというパートが面白くなく、それだけの理由ではないが、途中で止めてしまった。だから音楽には絶えず劣等感が附き纏う。でも不思議なことに子どもたちはそれぞれ音楽に強い。これは家内の影響だろう。
肝心のリサイタルに話を戻す。リサイタルはドイツ歌曲である。テーマは「希望に寄す (An die Hoffnung)」であった。二部構成で第一部はヘルダリンの詩による歌曲でH.アイスラー、M.レーガー、H.ロイターという作曲家によるものであった。歌い手の衣装・顔つきを通して、何やらただならぬものを感じた。歌詞を見ると決してそうではないのだが。
ところが第二部に入ると衣装は変わり、歌い手の表情は柔和になり、何となくほっとした。それもそのはず、「聖歌と教会カンタータ・アリア 」というJ.S.バッハとM.レーガーの作曲の数々の作品であった。何曲かはどこかで聞いたことのある旋律で、じっとプログラムに紹介されているドイツ語を追っていった。途中マタイ受難曲のあの懐かしいメロディーの曲かと思ったがそうではなかった。
私はもっぱらプログラムを追うばかりであったが、家内は今回が一番良かったと帰りの車内で盛んに言っていた。それは第二部だというのだ。また一緒に来ていただいた81歳になる遠縁にあたるご婦人は「ドイツが日本に来たみたいですね」とリサイタルの直後、歌われた姉妹のお父様に挨拶された。
アンコール曲はいつも楽しみだが、三曲あった。メンデルスゾーンの「歌の翼に」、そして、聖歌184番 さめよ日は近し フィリップ・ニコライ(1556〜1608)作詞・作曲 バッハ編曲、ヘンデルの「主よ、感謝す Dank sei dir, Herr」であった。何度聞いても彼女のメゾソプラノは深みがあり、その信仰にあふれる賛美はわが心を洗い、癒す。
わずか二時間にも満たない一夜である。伴奏者に人を得ていて、難解な歌曲にそれなりのニュアンスとユーモラスが更に付け加わえられ心地よい。最後に10周年を迎えたことの感謝の思いが演奏者から肉声で語られた。ご一緒したそのご婦人は教養ある方で「日本で外国の文化を外国の文化として紹介するのは最も難しいのですよ」と途中休憩のときおっしゃられた。彼女の来年のリサイタルがまた新たな志を得てスタートしていることだろう。研鑽を祈る者である。それとともに我が音痴の生活にも終止符を打ちたいが・・・果たして、それは・・・
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。(新約聖書 コロサイ3・16)
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