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2022年3月18日金曜日

Days of His Flesh 受肉者耶蘇(上)

待つ人に 枝伸ばしての 蕾なる 
 デービッド・スミス(1866〜1932)というスコットランド人の方がおられる。私はこの方の書かれた本を数年前に「復活書店」という古書バザールを主宰している方の店頭で発見した。邦訳書名は『聖パウロの生涯とその書簡』『受肉者耶蘇』の二著でいずれも日高善一訳であった。

 爾来、何度か手にとっては眺めている。日高善一氏の筆になる名文達意の翻訳ではあるが、ほぼ100年ほど前の文語調の訳文で、しばしば原文はどうなっているのかと思いをめぐらし、やや隔靴掻痒(かっかそうよう)の感に襲われたりするときもある。

 ところが、今回、青木澄十郎氏の『マルコ伝の一日一文マルコ伝霊解』を掲載させていただく機会に、『受肉者耶蘇』を並行して読む機会が多くなった。そしてこのデービッド・スミス氏の本は『聖パウロの生涯とその書簡』に匹敵する大著であると確信するようになった。

 そんなある日、脳裏にかつて読んだオズワルド・チェンバーズの伝記の一文がよみがえってきた。本ブログでもご紹介したエジンバラ訪問https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/10/blog-post_15.htmlの折も、私はブックレット風の『Oswald Chambers』というDavid W. Lambertの本を肌身離さず携行していたのだが、その中に次の一文があった。それはチェンバーズが1907年に日本への初来日する際の船室内での一エピソードを紹介したものである。(同書43頁より引用)

The diaries of the voyage to Japan make fascinating reading. Ghambers gave himself to reading, and we note among the authors on his list at this time were George MacDonald, Walter Scott, and Crockett; also, more serious, Westcott's Gospel of the Resurrection and David Smith's Days of His Flesh.

 この文章の最後に何気なく紹介されている本こそ今から100年前に京都室町の牧師日高善一氏がデービッド・スミス氏から許可を得て翻訳し、江湖(こうこ)に提供した本である。その本がまわりまわって今私の手元にある。『いと高き方のもとに』でお馴染みのオズワルド・チェンバーズが33歳のころこのDays of His Flesh.を船内でもう一冊の本と一緒に瞑想しながら日本にやって来た(この時、中田重治もいっしょだったのだが・・)ことを思うて感一入(ひとしお)の思いがする。

 デービッド・スミスは『受肉者耶蘇』の第22章「湖を渡りて隠退」と称して、私たちが今マルコの福音書とほぼ同一箇所を克明に説明している。そして以下の詩は、その梗概(こうがい)とも称すべき詩である。簡潔なうちにみことばのエキスが伝わってくる。(『受肉者耶蘇』上巻366頁より引用)

風は深淵の上に咆え
 波は重なり覆う山に似たり
救い主は眠りより覚め給いぬ
 聖語(みことば)に風浪共に凪ぎぬ 

墓場の狂者はここを
 絶望の住家となしぬ
何気なく足を運び給いし
 彷徨う旅人に悲痛となりぬ

彼はその打ち震うまで美しき眼差しを受け
 その温かく強き聖音を聴きぬ
かくてメッシヤの足許に崩折れつつ
 乳離れし嬰児の如く泣きぬ

   ヒ イ バ ア
(マタイ8・18〜9・1、マルコ4・35〜5・20、ルカ8・22〜39)

2018年2月26日月曜日

イエス様の知恵 イエス様の力

先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず・・・。(ヨハネ4・11

  私たちは、イエス・キリストのすばらしさに触れる時、こう考える。「主イエスの理想は高く、私に深い印象を与える。しかし、実生活においては、それが実現するはずはない。」これは、謙遜の顔をした傲慢である。このような誤った見解は、私たちが神に自己を明け渡そうとする時の、「おまえはどのようにして生活の保障をしてもらうつもりか」という疑問から起こる。あるいは、私たちの抱えている問題が、イエスの手には負えないと思う気持ちから起こる。「主によりたのめ、というのは結構だ。しかし、人は現実に生きなければならない。しかもイエスは、くむ物を持っておられない。私に必要な物を与えるための、何の手段も持っておられない。」

 私たちは自分にできないことをよく知っている。しかし、イエスについてはよく知らない。私たちに不可能なことが主には可能であるという考えが著しく傷つけられている。私たちの不安は、自分の知恵によって、主のなさることを探ろうとするところから生じる。私たちの疑問は、私たちの弱さの深みからわき上がる。イエスへの誤解の原因が私自身にあるとわかったら、主の前に出て、こう告白しよう。「主よ、私はあなたについて誤解していました。自分の知恵から目を離して、あなたの知恵を信じようとしませんでした。自分の限りある理解力を離れて、あなたの大能の力を信じようとはしませんでした」と。

( 『いと高き方のもとに』オズワルド・チェンバーズ著2月26日の項より引用。毎日胸ふさぐ日が続いている。昨日もその胸の内を友に訴えていたら、あなたはイエス様に頼っているのでしょう。それで十分じゃないですか、と言われてハッとした。そして今朝このチェンバーズの霊想を紐解いた。さらに紹介はできないが、スポルジョンの朝ごとは「救いは主にある」ヨナ2・9を全面的に紹介していた。交わりを通して、みことばと過去の聖徒たちの言葉を通して励ましをいただいた。)

2013年6月11日火曜日

2 The seed of greater things(4)

パリバガテル公園 by Nobuo.Y   2012.6.17
それでもってすべては終わるはずであった。オズワルド・チェンバーズは大戦間で亡くなった英国人の何十万人の一人に過ぎなかった。彼の同世代の人々が何ヵ月にもわたってあるいは何年もの間、時々彼について話すのを期待するだろうが、その言及は時が経つにつれ世代が変わるにつれ色褪せたものとなるはずだった。ところが正確に言うとまさに正反対のことが起こったのだ。今日彼が生きていたときよりたくさんの人が彼の名前や書き物を知っているのだ。

チェンバーズが死んで長年経つが、彼のことばは今なお世界中の人々の心にあり、口の端にのぼるのだ。彼の名前を冠する書物は毎日文字どおり数百万の人々によって様々な言語で読まれている。彼のメッセージは印刷され、テープやカレンダーやしおりや時には冷蔵庫のマグネットにさえ見ることができる。

自動車も電話も電灯でさえなかったときに生まれた一人の男の作品に、なぜ、このような継続的な関心が払われるのだろうか。なぜ、オズワルドが今日の新聞を読んですぐ書いたかのように、彼の言うことが受け入れられるのだろうか。

その答えはメッセージと人となりの双方にある。この二つは切り離しがたい。この本は、世界が忘れることを拒んでいる独特な個性に、その双方がいかに融合されているかを明らかにする物語である。また同時に古カイロの街の墓地に呆然と立ち、これから彼なきあとどのように生きて行ったら良いか思いあぐねていた婦人の物語でもある。

彼女の本来の名前はゲルトルードであったが、オズワルドはいつもビッディーとお気に入りの愛称で呼んでいた。彼女は、オズワルドの死後、その残りの人生を、オズワルドのことばを世の中に伝えるために使い果たした。非常に困難な条件の下で払われた彼女の自己犠牲的な働きの結果、オズワルドの名前は冠するが、決して彼女の名前を出していない約50冊の本となってあらわれた。

「心が、神様が求めるものを見いだすなら、」とオズワルドはよく言ったものだ、「体は喜んで働くことができる、その目的だけで使い尽くされるにちがいない」("When the heart sees what God wants," Oswald used to say, "the body must be willing to spend and be spent for that cause alone.")

オズワルドもビッディーもそれを見いだし、喜んで燃焼し尽くした。以下は彼らのいと高き方への物語である。(Both of them saw, they were willing, and they were spent. What follows is the story of their utmost for God's highest.)

( Oswald Chambers: Abandoned to God by David McCasland19〜20頁の私訳。浅学も顧みないで私訳を載せたが、実はここまでが序文で以下6部形式でこの本の叙述は続く。特に第三部では彼が神学校で知り合った中田重治を訪ね、1907年に日本に立ち寄り、軽井沢などに滞在した時のことが触れられている。折りを見て紹介し続けたい。「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」ヘブル11・4)

2013年6月10日月曜日

2 The seed of greater things(3)

パリバガテル公園 by Nobuo.Y.  2012.6.17
1917年12月5日、祈祷連盟の金曜の夕方のカクストンでの集いはチェンバーズの記念礼拝として特別に行なわれた。連盟の会員や友人の賛辞が述べられたあと、オズワルドの長兄であるアーサーが挨拶した。

彼はオズワルドを「十字架の若き戦士」だったと述べ、彼をバルバナになぞらえた。つまり、「りっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちていた」(使徒11・24)と。

「オズワルドは精力的で人を励ます人格の持ち主だった」とアーサーは言った。「どんな方面に向かっても一度始めるや、たちまちのうちに教師を追い越してしまう。祈り会で初めて祈らせたのは私が説得した結果だったが、すぐに私を追い越して、すぐれた執り成し手となったぐらいだ」

「彼は聖霊に満ちており、そのことが彼の幸いな奉仕の秘訣であった。彼は思い煩いから完全に解放されていて、彼が好んでそう呼んでいた「席を暖めることのない静穏(restlessly restful life)」な生き方を身につけていた」

「オズワルドはお金や個人的な利害に左右されないりっぱな男だった。求められればどんな人にもメッセージを伝えた。彼は、どうしても伝えねばならない「メッセージ」を大切にせず、「彼」を大事にしようとする人々には全く無価値だった。

「彼は信仰に満ちていた。彼が宣教の召命を感じて世界一周の旅行から1907年に戻ってきたことをよく思い出すことができる。彼は半クラウンを投げ出して言った。『ぼくは世界一周をしたんだが、そこで週に一ペンスも使わず、半クラウン残ったよ』バルチック号の洋上での航海の最初の行程について彼が話したところによると、船上で1300人の乗組員、船長からボイラー炊きの少年にいたるまでの全ての人と霊的なことを話したということだった。

「『たくさんの人が主に加えられた』というのが彼の人生の結末を要約することばだ。彼の一つの目的は、主のために『裂かれたパンと注ぎ出されたぶどう酒』となることだった。生涯をとおして、早朝は他の人々のための祈りに割かれ、英国にあっても、終焉の地エジプトにあっても人々の心にふさわしく接するために日ごとに主から油注ぎを受けていた」

礼拝はオズワルドの愛唱賛美歌の一つ『わたしを離さない愛よ(O Love That Will Not Let Me Go.)』を歌って閉じられた。

10日後に、マンチェスターの別の記念礼拝でデービッド・ランベルト牧師は、オズワルド・チェンバーズに賛辞をあらわし、その生涯を「私の知る限りでの山上の説教の最上の例証」だと表した人物の教えを概観した。そこにいた何百人の人すべてが彼について思い出すことをさらに付け加えもし、また、各人の記憶に消え去ることなく刻みつけられているやさしい行為を思い起こすこともできたことであろう。

ランベルトはこの完全に主のために燃え尽きた生涯を要約して言った。「神様がこよなく愛されたしもべであるオズワルド・チェンバーズのメッセージをとおして私たちの多くの者に与えられたもっとも大切なことは偉大な生涯は最も低い者、最も見込みのない者、最も取るに足りない者に可能だということである。もっとも重要なことは、私たちの主であるイエス・キリストにあって、またイエス・キリストをとおして、普通の人間に与えられているということだ(The most precious thing that has come to many of us through the message of God's beloved servant, Oswald Chambers, is that for the lowliest, least promising, and most insignificant person, the Great Life is possible. The mightiest things are made available for ordinary persons in and through Christ Jesus our Lord.)。

「神様はオズワルドがキリストに従ったように、私たちにもキリストに従えるように助けてくださるお方だ」

( Oswald Chambers: Abandoned to God by David McCasland18〜19頁の私訳。「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。2コリント4・6〜7)

2013年6月9日日曜日

2 The seed of greater things(2)

パリバガテル公園 by Nobuo.Y   2012.6.17
チェンバーズの死の知らせはサンダーランドのデーヴィッド・ランベルト牧師には11月17日、日曜日に届いた。「オズワルド・チェンバーズ師がエジプトで死亡したという驚くべき知らせを受け取った」と彼はフランスにいる息子に書き送った手紙を日記に記した。「しかし、私は受け入れることができない。私のこれまで出会った人の中で、私にこれほど大きな影響をもたらした人は誰もいない。私は彼を自分のように愛した。私にとってわが子どもノーミーが1908年に亡くなって以来、これほど大きな打撃を受けたことはなかった。この打撃は希望のない悲しみでも、また怒りでもない。全く心を震撼させることがらである。」

ちょうど9年以上前、ランベルトと妻であるエマは末息子を亡くしてまもなくチェンバーズと出会った。彼らはノーマンを週末の休日に埋葬したのだった。その時、輝いた太陽や、しあわせな人々はまるで夫妻の悲しみをあざわらっているかのように見えた。一月後、チェンバーズが祈祷連盟の大会にサンダーランドに来た時、悲しみにあふれていたこの若い夫婦は神様からのことばと心からのいやしを切に求めていた。

さしたる興味のないまま、ランベルトは午後の大会の一つの集いをちょっと覗いてみたのだが、たちまち「若いスコットランド訛りの宣教師の精力的な物腰と力強いメッセージに魅了された」オズワルドの主題は新生(復活)であり、「当時の宗教の多くが人工的であり、人造の働きであったことに一撃の閃光を加えたかのように感じた」

チェンバーズは夫妻の客として迎えられ、子どもたちの大好きな友だちとなり、長く続くことになる霊的な励ましの泉そのものとなった。

ランベルトは息子への手紙を認めるのに一呼吸おいて、机の引き出しから黄いばんだ封筒を取り出した。その封筒から一通の大急ぎで書かれてはいるが簡潔に記された手紙を引き出してきた。その手紙は1909年にオズワルドから受け取ったものだった。

       親愛なる兄弟ランベルトさま

   悪魔があなたにつきまとって困るという知らせのゆえに
         神様をほめあげます。
   悪魔が私たちを狙撃しつづける限り、
         私たちが悪魔にとって見張るのに
         価値があると
   思っていることによるのかもしれませんからね。
   愛する奥様、お子さんに私の心からのあいさつを送ります。
   (Praise God for your report that the Devil is
          paying attention to you-so long as he keeps
          firing at us you may depend he thinks that we
          are worth watching. My hearty greetings to
          your wife and bairns.)

   「ハエの害 」は何もエジプトにとって
         特別なものではありませんでしたよ。
   あなたはあなたの心の窓を飛び越えて
         あなたの見方をもいらいらさせようとする
   忙しくしている普通の人々の形をとって(悪魔が)
   あらわれるのを見ることでしょうから。
   神様があなたを祝福してくださいますように。
         (The 'plague of flies' was not peculiar to
          Egypt-you will find them in the shape of busy
          little people that try to get over the windows of
          your soul and irritate your outlook. God bless
          you.)


         あなたの友 オズワルド・チェンバーズより

1917年11月18日、オズワルド逝去の知らせを受け取ったあと、ランベルトはさらに日記に次のように続けた。「私にとってもっともたいせつな事柄の一つはオズワルドをなくしたことである。私は彼が初めてウエスレー・ホールに来たときの過去の多くの光景、私たちにしてくれた聖書講読の光景を思い出す。でも今や彼はいない。しかし、彼が今もすぐれた方法で生きていることがわかる。何か意識できるつながりではないが、パウロ、ルター、スポルジョン、ムーデー、リーダー・ハリスや偉大な聖徒が生きているのと同じようにだ。彼らが生きているように、オズワルド・チェンバーズも主の御前で輝いているのだ」

( Oswald Chambers: Abandoned to God by David McCasland16〜17頁の私訳。なお、日記の訳は大いに怪しげである。念のため英文を併記する。「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」箴言27・17)  

2013年6月8日土曜日

2 The seed of greater things(1)

 パリバガテル公園 by Nobuo.Y   2012.6.17
カイロからの電報はリーダー・ハリス夫人のロンドンの大邸宅に届いた。彼女はペンテコステ祈祷連盟の会長であった。ハリス夫人は良い知らせが届いたものと思い、封筒を開きはやる心で中から薄い用紙を取り出した。しかし、その知らせは彼女を呆然とさせたものだった。

 オズワルドは主の御前にいます (OSWALD IN HIS PRESENCE)

彼女の心臓は高鳴り、伝えられたことを何とかことばに置き換えようと懸命であった。オズワルドがこの世にいないの? しかし、いつなの、どうして、いったいどのようにしてなの? 誰しも知りたいことだった。しかし、今は戦時なのだ。誰もがよくわかっていた。エジプトで封書が投函されても、イギリスに着くには三週間はかかるはずだと。ドイツ潜水艦の攻撃を避けるためには船には護衛艦が用意されていた時だ。恐らく、彼女はもっと詳細を知るためにYMCAに電報を送ることもできたはずだ。

けれども、ハリス夫人は窓から外を眺めた。外にはクラップハム・コモンの霧がかった樹木がひろがっていた。チェンバーズは学生たちと連れ立ってその間の草深い野道を歩くのが大好きだった。以前、(彼が設立した)聖書訓練学校は彼女のところから50ヤード(約50メートル)も離れていない所にあったからだ。今となっては彼女はその知らせを連盟中に送るしかしようがなかった。

4マイル離れた東部ダルウィッチではオズワルドの妹、ゲルトルードが、(電報を届けに来た配達夫のために)クレセント・ティンタゲル11番地のチェンバーズ家の扉を開くばかりだった。

 「電報? どうもごくろうさま」

妹はオズワルドの両親、クラレンスとハンナが食卓についている台所へと取って返した。ゲトルードは封筒をあごひげを伸ばし白髪頭の父に手渡した。父は三週間前に80歳の誕生日を迎えたばかりだった。父クラレンスは大きな声で読みあげた。

 「オズワルドは主の御前にいます(OSWALD IN HIS PRESENCE)」

どんな詳細も知る由がなかった。なぜ末息子が死んだのか一切説明がなかった。これが戦争中の知らせのやり方であった。三人はオズワルドの死の事実をよく理解しないまま、家族や友人に次のように手紙を書き始めた。「・・・電報がカイロから来た・・・オズワルドは主とともにいる・・・いずれ詳細は知らされるだろう」もし手紙が投函時間に間に合うなら、翌朝にはイングランドやスコットランドの他の人たちの所にも届くことだろう。

チェンバーズがなくなった時、アメリカ軍はヨーロッパに来てまだ五ヵ月しか経っていなかった。戦争熱は合衆国に依然としてみなぎっていて、「おれはヤンキー・ドゥードル・ダンディーだぞ」とか「わしらは戦争が終わるまでは帰らないぞ」などと歌っていたほどだった。しかし、チャーリー・チャップリン、メリー・ピックフォードやその他の映画スターは自由契約に入り、全家庭は戦争の早期終結のため祈っていた。

1917年も終わる頃、ほとんどあらゆる英国の家庭は戦争で夫や父や息子を失っていた。1916年7月のソンムの戦いでは60万人の同盟軍兵士が戦死した。ドイツは50万人を失った。国際的な規模で悲劇を避けられなかった人々はひとりひとりが何度も何度も深い悲しみの痛みで身を引き裂かれねばならなかったのだ。英国は制限された食事や財政的な困窮、さらに破壊された生活のゆえに疲労こんばいしていた。けれども依然として戦闘を続けることが決議されていたのだ。幾人かの人は「地には平和、人には善意が」というしるしは見られないが、4回目のクリスマスが近づく数ヶ月内には終わるだろうと予測していた。唯一の輝ける戦績はアレンバイ将軍のパレスチナへの進攻であった。チェンバーズは自身の召しが「より高い奉仕」へと導かれた時、その前線に赴く指令を以前から期待していたのであった(Chambers had been expecting orders to that front when his call came to "higher service.")。

( Oswald Chambers: Abandoned to God by David McCasland15〜16頁の私訳。最後の文章はひとつの決め手になる文章のように思うが、適切に訳せていない。例により英文を併記しておく。読者諸氏の適切な訳を教えていただきたい。「私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。」2コリント5・8 )

2013年5月29日水曜日

第一章 一粒の麦(下) D.マッカスランド

今日は曇り空の家庭集会※
それから、聖歌隊の人々はスコットランドの詩篇からとった詩篇百二十一篇を歌った。

私は山に向かって目を上げる。
私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。
主はあなたの足をよろけさせず、
あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、
まどろむこともなく、眠ることもない。
主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、
夜も、月が、あなたを打つことはない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、
あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを、行くにも帰るにも、
今よりとこしえまでも守られる。

感謝の祈りと埋葬のあと、彼らは最後の賛美歌、「労苦から解放されて休むすべての聖徒にささぐ」(For All the Saints Who from Their Labours Rest)を歌った。

YMCAのスタンレー・バーリング、ウイリアム・ジェソップ、ロード・ラドストックが失われた損失を思い、一方ではキリスト者が死に直面して知る望みを歌い上げた。彼らは押し寄せて来る感情と戦いながらも、歌うにつれ、チェンバーズが皆の者に慕われた楽天性と彼の神への抑えがたい確信を思い出していた。最後の数節において彼らの声は他の人々と一緒になり、遠くモカタム丘陵(Mokattam Hills)が薄暮のうちに沈む光景を前にして、あたり一面に響き渡った。

見よ、もっと栄光あふれる日がはじまる。
凱旋の聖徒が輝かしく飾られ上りゆく。
栄光の王が道備えをしてくださる。
ハレルヤ! ハレルヤ !
地の果てから、大海原の遠くから
真珠の門をとおって数えられない群衆のうちに
父、御子、御霊への歌声があふれ流れる
ハレルヤ! ハレルヤ!


ノーサンバーランドのフュージリアからやってきた火焔部隊は夕空に向かって三連発のライフルによる一斉射撃を行なった。ラッパ手が軍葬ラッパを鳴り響かせたとき、その音が遠くまでこだまとなって聞こえた。

 スタンレー・バーリングは墓の隣に立てられた小枝から白菊を引き抜き、ひざをかがめて、キャサリンに微笑みながら白菊を手渡した。彼女は花のかおりをかぎ、その笑顔に答えたとき彼は胸がかきむしられる思いがした。彼は両手で彼女の手をとり、やさしく握り立ち上がった。今更、このあどけない少女に自身が彼女の父を失った喪失感をどのようにしてわからせることができようか。

群衆は話ごちながら、互いに目を交わしては微笑みすら浮かべて各自散会して行った。なかには深い喪失感だけが残ったのだが。けれども、オズワルドと救い主を信じている者にはキリストによる勝利の思いが、最大の苦痛を凌駕していたのだ。ビッディーはやさしくキャサリンの手を握りしめ待ち受けている車に向かって歩き出した。二人はカイロの中心街ツベンマーの家に向かって車を走らせた。その時、目を閉じ、数ヶ月前オズワルドがザイトーンのバンガローで靴を磨いていた姿を思い出していた。彼らはそのとき友だちであるゲトルード・バリンガーが腸チフス熱で苦しみ瀕死の状態で寝ているのを病院へ見舞ったのである。

ビッディーは「神様は何をなさろうとしていらっしゃるのでしょうね」と言った。靴を磨きながら、それに答えてオズワルドは「ぼくは神様がなさることを心配していないよ。ぼくが関心を持つのは神様がどういうお方かということなんだ」

ビッディーはやっとのことで微笑んだ。夫がバリンガーへの愛と気配りから話していることが分かった。彼はバリンガー嬢に起きていることに深い気配りをしていたが、主ご自身がいまさねば、神様の働きはまさしく狼狽させるものだと知っていたからである。

彼女とオズワルドはちょうど結婚して7年が過ぎていた。そして今や人間的に見れば最悪のことが起こってしまったのだ。彼女は小さな娘を抱えて34歳でやもめになった。経済的な収入源もなく、また何らの支えもないのだ。もし十分な支えがなかったら、彼女は戦争中のこともあり、しかも外地の荒れ果てた砂漠地で家庭を愛することもなく生きることになったであろう。

彼女にとって答えようのないことがらを、人々は「あなたはイギリスに戻られますか。キャサリンはどうされますか。オズワルドがいない今あなたはどうやって家計を維持されますか」と問うたのであった。

ビッディーは目を閉じ、キャサリーンを自分の胸元に引き寄せながら、やさしく心にこみあげてくる賛美歌を歌い始めた。「わが魂よ、天国の王を、なんじのささげものを、王の足もとに投げ出してほめたたえよ」

すべてはなくなったように見えたが、彼女がこのように賛美する限り、万事休すではなかった。彼女のただ一つの望みは全能の神の恵みのうちにあったからである。(It would not be the last time she sang those words when all seemed lost and her only hope lay in the grace of Almighty God.)

(Oswald Chambers: Abandoned to God by David McCasland11〜13頁。訳自身は相当な意訳になっているが、何となく文意を受け取っていただきたい。最後の文章がさわりの文章だと思うので、英文を併記しておく。※今日の家庭集会は第一テサロニケ2・4から「主に喜ばれるしもべとは」と題してメッセージがあり、私にとっては「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」が導きのみことばとなった。わがおおいは無数にある。でも主は取り除いて下さるのだ。感謝だ。一人のご婦人の証もいただいた。真実こもった証をお聞きした。主の前に「純真」であろうとする証をお聞きして、慰められた。次回は6月12日(水)14:00からである。)

2013年5月28日火曜日

第一章 一粒の麦(中) D.マッカスランド

つつじの花(小諸懐古園)
婦人やエジプト人からなる一般市民の大派遣団が葬列の行進を待ち受けていた。ザイトーンから現地の使用人たちまでが悲しみの面持ちでやって来ていた。後日、一人の目撃者は思い起こして語った。「カイロでチェンバーズが知っていた人のほぼすべての人が葬列を静かに見送ったと容易に見てわかった」と。

軍隊の中で愛情をこめて「O.C.」(保護官 the Officer in Charge を短縮したもの)として知られていたチェンバーズは盲腸の手術にともなう合併症のために前日に亡くなった。彼の逝去の報がカイロからパレスチナまで電信で伝えられたとき、何百という人々が信じがたく、頭を急に殴られるような思いでその知らせに接した。確かにその中には幾分かまちがい、曲解された知らせ、誤解もあった。なぜ神様はチェンバーズのような人をこれまで見いだせないほどの人だったのに、そのいのちを奪われたのだろうか。それになぜ、43歳なのか、全然意味のわからないことだった。

多くの兵士が、そっと静かなところに抜け出ては、このチェンバーズの死をひとりひとりが受けとめ、この神様にあって精力的に生きてきた若い男性が今や成熟した生涯をいかになしとげたかを思い感謝した。チェンバーズはどれほどしばしば兵士たちに「起こり得るどんな事柄も、神様の存在を否定したり、神様の贖罪が完全であるという真実さをひっくりかえすことはできない」と語っていたことだろうか。ベールシェバ近郊の前線で、ピーター・ケイは胸に砲弾を撃ち込まれたような衝撃を彼の知らせをとおして受けた。彼の思いはザイトーンでの少女キャサリーン・チェンバーズと彼女の父とともに過ごした日々に帰るのだった。彼がチェンバーズからイエス・キリストについて、また贖いについて聞いたとき、ピーターにとって唯一の宗教は酒であり、女であり、歌であった。彼が祈祷小屋(the Devotional Hut)の外に立っていた夜、チェンバーズはキリストを生き生きとあらわし、自らの救い主、主であると言っていたのだ。それなのに、今、チェンバーズは死んでしまったのか。ピーター・ケイはチェンバーズの死の知らせを聞いて、こうべを垂れ、感情を抑えきれず泣きじゃくった。オーストラリアの奥地から来た戦友たちは、誰も、戦闘に耐え抜いた強者の兵士がどうしてそのように涙を流しているのか理解できなかった。

ビッディーは将校たちが夫の棺を、安穏で静謐な共同墓地へと運び込むのを眺めていた。病院で彼のそばにいる間、昼も夜も彼女はオズワルドは必ず主の道を歩み通すと確信していた。その時彼女自身の心には聖書からのみことばが非常に鮮明に浮かび上がったように思われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。」(ヨハネ11・4)

グラディス・イングラムとエヴァ・スピンクは、オズワルドが微笑みながら地上を去って行ったであろうと思っていたので、互いに涙を流さないように二人して手をしっかり握り合っていた。ロンドンの聖書訓練学校(the Bible Training College)で、チェンバーズは、決して間違ったことはなさらない愛である神について確信をもって語っていた。戦争が始まったとき神は彼らすべてを神様に仕えさせるためにエジプトへとお導きになったのではないか。神様は彼らから目を離されることなく、その恩顧のうちに守ろうと約束しておられたのではないか。神はそうなさらなかったのだろうか。

高名なアメリカの宣教師であるサムエル・ツヴェメル師はスコットランドの従軍牧師であるパドレ・ウィリアム・ワトソンと一緒に短く話した。彼らのメッセージはイエス・キリストについてであり、神のしもべオズワルド・チェンバーズをとおしての神の働きについてであった。そして神にあるキリスト者の永遠の希望について話をした。

(Oswald Chambers: Abandoned to God by David McCasland10〜11頁)

2013年5月27日月曜日

第一章 一粒の麦(上) D.マッカスランド

石楠花の花(浅間山・鬼押出し)
ビッディ・チェンバーズは旧カイロのイギリス軍の共同墓地の高い鉄製の門に向かってまっすぐ一列に並んでいる細い木製の十字架群の向こうを一瞥した。彼女は葬列が近づいているにちがいないと知っていたが、今彼女が立っている共同墓地を取り囲むように走る高い石壁は、間近に聞こえはするが、今日の彼女の気持ちとは、普段聞き慣れはしているものの、余りにもそぐわない街路の喧噪から守ってくれていた。

彼女のかたわらには四歳になるキャサリンが静かにしてはいたが、いぶかしげな面差しで立っていた。キャサリンはお父さんがイエス様のところに行ってしまった、それはすばらしいことだと知っていた。しかし、お父さんは以前から色んなところへーアレクサンドリアやファイヨンやイスマリアやスエズにまでもー出かけることがあった、だからもうすぐ家に帰って来ると疑いげもなく信じてもいた。

ビッディーはちらっと、夫のオズワルドと二人で「神様の花」と呼んでいた少女を見やった。お互いに目と目が合い、キャサリンの顔が微笑んだ。ビッディーは娘の思いを知りたいと思った。多分、娘はお父さんが今天国で兵隊さんたちを助けているので、絶対に戻ってきはしないことを完全にわかっていることだろう。娘の神様に対する純真な信仰のゆえに、彼女は自分のまわりにいるどの大人よりもあの恐ろしい結末を受け取ることができたのだろう。キャサリンは何がお母さんを悲しませているかを良く知っていた。前の日、ビッディはあどけない娘を両腕に抱きしめ、泣きながら、「お父さんは天国へ行かれたのよ」とささやいた。それはキャサリンにとってお母さんが泣くのを初めて見た時だった。

街路の馬がちらっと目に入り、ビッディーの目は再び門へともどった。彼女は少し目を細めてみやった。それは彼女が完全に受け入れられない事態に対してよく見せる独特の仕草であった。彼女はオズワルドに対するこの軍隊による葬儀が物々しくなったことが不愉快だったのだ。彼女はオズワルドが仕え愛した人々のゆえにこのような葬儀に同意しただけだった。ところがこれが軍隊がオズワルドをほめたたえ、お別れをしようとするやり方であった。

葬列は、午後四時に、ナイル川の西岸から一マイル離れたギゼー赤十字病院から出発した。棺にはユニオンジャックの旗がかけられ、白菊の小枝におおわれていたが、四頭の黒馬のチームによって引かれた砲車に乗せられていた。六人の将官が棺のそばにつきそい、ささげ銃(ライフル銃)を携えた百人の兵士たちの護衛が続く行進であった。これが軍隊で命を落とした戦友に対する伝統的な尊敬の表し方であった。

雲一つない空の下、行列はナイル川の濃緑色の川にかかる橋を横切り、東方へと移動して行った。ロバに引かれた荷車や野菜を売り歩く行商人が、ほこりにまみれた街路に押し黙るようにして立っていた。その間を兵士たちと砲車はゆっくりと通り過ぎて行った。裸足のこどもたちが驚きの目で眺めていた。

西の方、古代エジプト人によって尊崇された灼熱の太陽はギザのスフィンクスやそびえるピラミッドへ日を落として行った。その向こうには大西部砂漠がきらきら光る地平線に向かって広がっていた。

1917年の11月まで、第一次世界大戦は4年目の殺戮の年月へと思い足取りで歩を進めつつあった。死がエジプトのありとあらゆる病院で日常茶飯事に訪れつつあった。軍による葬儀は当たり前であったが、この葬儀は通常のものではなかった。それは高級将校や政府高官のために準備される要素をふくんでいたからである。そのような栄誉を与えられた男は将校でも高官でもなく、ザイトーン近隣のYMCAの主幹であるオズワルド・チェンバーズ師であったことは異常なことであった。

(本稿はOswald Chambers: Abandoned to God by David McCasland9〜10頁の私訳である。「エジプトには激しい泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである」出エジプト12・30「万軍の主は・・・万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる」イザヤ25・6〜8。)

2010年10月18日月曜日

第4日 I can do without you.

第4日目も晴れていた。しかし家内の足の痛さは相変わらずであった。遠出は諦めて、バスをふんだんに利用してエジンバラ市内へと出かけることに決めた。ところで行き先は再び書店と決めた。前夜、書店主からいただいた証を読んで痛く感動したからである。

(ロイヤルマイル内に位置する書店)
証の文末は「今日も宣教はみことばから離れることなく続けられています。いつまでもこのことは変わることはありません!救いは悔い改めと、主イエス様の忝(かたじけな)くも、流される清い血潮によってきよくせられることを確信することによってのみ可能です。主イエス様こそ唯一の救い主です。主イエス様はすぐに再び来られます」と結ばれていた。日本に帰ってきてこのパンフはネットでも見られることを知った。(くわしくは以下のサイトをご覧いただきたい。)
https://mccallbarbour.co.uk/about/

さらにその本文には昨日お会いした兄と妹がそれぞれ幼い時に救われたことが書いてあった。「兄は5歳、妹はもっと年端も行かない時(直接お聞きしたところによると3歳半とのことであった)」と書いてあった。ますますこの兄妹の方と再び会いたい思いがふつふつと湧き上がり、また昨日、探すことを忘れていた本や、買い残した様々な日めくりのカレンダーのことなどを思い出したからである。

こうして書店の扉を押して二度目の再訪を果たした。今度は本を片っ端から探した。前日見逃していた垂涎の書物が沢山あった。もっと若ければ購入したところだが、諦めた。変わったところでは、三浦綾子の「塩狩峠」の英語版が置かれてあったり、またジェシー・ペン・ルイスやハヴァガルの伝記も見られた。残念ながら、お目当てのAngus I. Kinnearの書いたウオッチマン・ニーの評伝「Against the tide」は見つからなかった。(後日談だが、数日後ドイツ・フィリンゲンでドイツ語訳を見つけた)

再び書店主と会話を楽しみ、日本から「実を結ぶ命」の英語版を送ることを約束して別れた。(のちにドイツで合流したキリスト集会の方々にこの店主との話を紹介したところ、早速一人の姉妹がドイツにまで日本から持参した同書の英語版を譲ってくださった。その姉妹も何のために持って来たか、特別当てはなかったそうだ。お役に立てて嬉しいと言ってくださった。帰国後、早速その本と私が所持していたものを合わせ二冊を航空便でお送りした。今ごろは日本からスコットランド・エジンバラへと向かっているはずだ。)

(右手壇上から語るのはノックス?)
その後、平日はお昼12時を期して行なわれる聖ジャイル教会(St. Giles' Cathedral)のDaily Serviceに出かけた。ジョン・ノックスゆかりの教会である。みことばの朗読が行なわれていたようだ。エペソ書やルカ伝が読まれており、家内も私もルカ10:38~42のように聞いた。その箇所は以下の通りである。

主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:41~42)

(堂内のノックス像)
堂内には観光客がちらほら、聞いていたのは私たち夫婦以外には3、4名のみで、淋しかったが、私たちはみことばを聞けたので満足して外に出た。アダム・スミス像、ヒューム像の間を観光客を交えて人々が闊歩する。道路はひっきりなしに、スコットランド特有の二階建てバスが走り去る。オズワルド・チェンバーズの通った教会もあったが、さすがそこまでは手が回らなかった。昼食をプリンセス通りのマグドナルドで済ませた頃には再び家内はダウン。止むを得ず、夫婦別行動を迫られた。明日はエジンバラを離れる。私にはもう一つどうしても訪れたいところがあった。それはDavid McCaslandの次の文章に関わる場所だった。

ある晩秋の夕べ、オズワルドは心を集中することができなくなり、部屋を出て、ホリールード館の保護区にある王室公園に向かって東の方に歩いていた。祈りに夜を徹して過そうと決心して、エジンバラを一望の下に見渡す市内でもっとも高いところ、「アーサーズ シート」以外に独りになるところはないと考えたからである・・・(『Oswald Chambers: Abandoned To God』56頁)

(アーサーズシート)
私はそこがエジンバラのどこであるかを最初から探していて見当はつけていたが、そこにいたるバス路線は中々見つからなかった。何しろエジンバラ市内には二つの運行バス会社がそれぞれ40数路線にいたるバスを走らせているのだが中々コースをつかめなかったからである。滞在わずか三日ではあるが見学の最終日、やっとあたりをつけて35番バスに乗車、ほぼ近くまで行けた。そこからは徒歩であった。家内が一緒だと足手まどいになるが、幸い私一人であった。夕闇迫る中、目的地を目指して歩行を早めた。その場所はまさに樹木一本生えていない草地におおわれたところであった。頂上を極めたかったが、こういう場合は一人のこともあり、心細くなり遠巻きに見ながら帰らざるを得なかった。しかし、この山「アーサーズシート」での「祈り」を通してチェンバーズが大きな主からの声※を聞かされたことを想起し、改めてチェンバーズにより一歩近づいた思いと、もう一方では近づきがたい畏敬の思いを抱かされた。

(鬼気迫るようにそびえる岩山)
※he heard a voice that actually spoke these words, "I want you in My service-but I can do without you."(彼は「わたしはわたしの召しにあなたをつかせたい、しかしわたしはあなたの力なしでことを行なうことができる」と確かに語りかけるみ声を聞いたのだ。前掲書57頁より)

(日本に帰ってきて慶應義塾大学出版会が編集した米欧回覧実記「イギリス編」を調べたらその238頁に明治4年9月12日すなわちチェンバーズの生まれる二年前に特命全権大使一行がこの岩山に登山したことが書いてあった。途中怖くなって尻尾巻いて下山した私に武士の魂はさておき、キリスト者の魂のひとかけらもないことに恥じ入らされた。)

ほとんど道案内もないまま、子どもたちの愛の贈り物を通してここまで導かれた今回のエジンバラ観光だが、一日、一瞬として無駄がなく、それぞれに深い意味があることを感謝した。宿舎に当てたホテルは日本でネットでさぐり、どこかわからないままで予約したが、その場所もまさしく私たちの行動にふさわしい場所であった。都心とも言うべき大きな駅であるウェイヴァリー駅でなく小さなハイマーケット駅が近くにあり、空港には最も近い場所であったことに気づいた。のちにドイツで人間の「計画」についてはるかに深い思いを教えられたが、エジンバラ観光はかくして私たち夫婦が「計画」の意味を知る緒戦の役割を果たしてくれたのである。マリヤのように、なくてならないもの、みことばにじっと耳を傾けることを教わった日々であった。

2010年10月16日土曜日

第3日 B.McCall Barbour書店

エジンバラに入って三日目。この日は朝から快晴であった。当初の私の思いではチェンバーズの生誕地アバディーンを訪ねるはずだった。ところが生憎、家内は連日の街歩きがこたえたか、これ以上、外には出られない様子で、とても電車でかの地まで出かけるのは無理だった。諦めてエジンバラ市内見学に精を出すことにした。

私は何としてもチェンバーズの足跡をたどりたいと思うし、家内はスコットランドのキリスト教文書を取り扱う書店に行きたいと願っていたようだ。しかし、この場合、主導権はもちろん夫の側にある。いくつかのチェンバーズゆかりの場所を私はすでに頭の中に入れていた。宿はエジンバラの南西にあったので中心街にはバス利用が好ましい。幸いエジンバラは二階建てのバスが何路線も沢山走っていて、四通八達できる。その上一日乗り放題のチケットは三ポンド(日本円にして400円程度か)で購入できた。勢い出かけることにした最初の目的地はエジンバラ大学だった。

エジンバラ大学こそチェンバーズが様々な碩学に出会い、彼が主イエス様からの召しと自己の芸術愛好の狭間の中で葛藤し続けた学の殿堂だ。以前からどうしてもこの大学を一目見たかった。しかし、意外やバスの中から簡単に見つかり、大学近くで下車することができ、やすやすと大学の中の最も古い場所に入れた。しかも構内の中心部は史跡保存のためであろうか柱石などが発掘中で、丁寧に扱われており、このところに学生時代のチェンバーズもいたかと思うと感無量であった。回廊を現在のエジンバラ大学の学生が多数行き交う。若い学徒とともにいることは何となく嬉しい思いがする。厚かましくも、資料館へ行き、ずばり、オズワルド・チェンバーズの資料を持ち出し、説明を求めたら、親切にある場所を教えてくれた。結局辿り着いたのは本部からさらに離れた図書館であったが。

さすがにそれ以上中に入る勇気もなく、チェンバーズの暮らした学生時代の雰囲気を肌身に感ずるだけで良しとした。さらに図書館を離れ、スコットが暮らした場所を見たりしているうちに、家内は歩き疲れて、もうこれ以上歩けない様子であった。疲れた足取りでバス停留所に向かおうとしていた。その時、何気なく通りの店の看板を見上げた。B.McCall Barbour Sound Christian Literatureと読めた。内心飛び上がらんばかりだった。これぞ、昨日路傍伝道していた方が私たちに教えてくれた書店名であった。住所こそ聞いていたが、広いエジンバラで、地図で探せば何とか尋ねあてることは可能と思っていたが、こうして一方的に書店の前に来るとは・・・。私たちにとっては天啓のごときできごとであった。

一階とあったが、一階にはそれらしきものは見当たらない。それもそのはず、一階とは日本で言う二階に当たるのだろう。勇気を出して狭い入り口から階段を上がった。上がり鼻にその書店はあった。足を踏み入れるや、一人の初老の男性が眼鏡越しにこちらを見る。客は私たちだけだった。私たちはすっかり興奮して次から次へと、私は本を、家内はキリスト教グッズ(賛美曲、カードなど)を探しにかかった。私の尊敬する方々の様々な書物を手にすることができた。F.B.マイヤー、スポルジョン、ウオッチマン・ニー、アンドリュー・マーレーなどである。残念ながらチェンバーズの本は「My Utmost for His Highest」しかなかった。余りにも私が様々なことを聞くので初老の男性はさらに別室にいた二人の方を呼んだ。白髪で上品な出でたちのスコットランド紳士であるお兄様とその妹様が現われ応対してくださった。

特に妹さんの方は私たちの訪問を殊のほか喜んでくださり、書店の由来について説明し、帰りがけには書店形成にいたる証のパンフレットまで下さった。お互いに人種を超えて抱きあわんばかりのフレンドリーな交わりを持つことができ、別れ際には「今度は『天国』で会いましょう」とまで言われたほどだった。家内も先ほどまでの足の痛みも忘れたかのように嬉々として姉妹との交わりを喜んだ。私たちは今回の何気なく始まったエジンバラ訪問がこの様な人々との生きた交わりにあったとは旅行前には微塵も想像しなかった。拙い貧しい祈りに主がこんなにも答えてくださることに改めて感謝したことは言うまでもない。

名残惜しい書店を辞し、次にはノックスゆかりの場所も訪れることができ、家内の顔もやっと立てることができた。ところが、その場所からはるか下に港湾が望見できた。私の食指は再び動き出し、港湾行きのバスを見つけ、出かけることにした。ところが、意外や時間はかかり、やっとの思いで港湾に出た。目で見る距離感とは大きな違いであった。それはともかく、そこで見た船舶の一つに、何とアバディーン行きの大型船舶があった。本来、この日に出かける目的地であった「アバディーン」にここで出会うとは。私はこの日アバディーンを訪れることはできなかったが、こうしてこの船舶の特徴ある赤色の胴体を見ることですべてを了解した気分になった。北海に面してエジンバラよりもさらに北東へ200kmほどある漁港の姿をある程度はMcCaslandの第三章A SCOTTISH BOYHOODで読んでいたからである。かくして三日目も主の祝福のうちに終わった。


あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(新約聖書 ガラテヤ3:26、28)

(写真上段はエジンバラ大学の構内、シンボルと思われるドーム型の屋根は画面反対側にあり、中庭を取り囲むような形で各教室が納められている。発掘が進んでいたのはその中庭に当たる部分で、画面の欄干の下の部分である。下段は言うまでもなくフォース湾に停泊中の船。画面を拡大してみていただければアバディーンの文字が読み取れるはずである。この紀行文の最初に掲載した空から見た光景は恐らくこの辺りの上空から見た姿であろう。)

2010年10月15日金曜日

第2日 路傍で出会ったジョージさん

 前回は思わず、フランクフルトからエジンバラへの飛行中のことに話が及んだが、実は成田からフランクフルト間こそ飛行時間12時間近くに及ぶ長時間の機内生活であった。乗客は日本人が圧倒的に多く、フランクフルト・エジンバラ間とは全く客層が異なっていた。その間ずっと私たちの隣に座っておられた方は一人の日本人女性だった。ところがその方と私たちが会話を交わしたのはほとんど終わり近くになってからだった。私たちには珍しいことだった。フランクフルトに降りる際にその方は家内に「お二人は研究者かと思いました」と言われたそうである。

 それには訳があった。スコットランド訪問に対して、事前にほとんど準備らしきものをしなかった私たちは、家内が「ノックスとスコットランド宗教改革」を、私は「Oswald Chambers: Abandoned to God」の一部をコピーして持ち込み、共通本としては図書館で前日借り出した「地球の歩き方 スコットランド&湖水地方」を持ち込んでおり、それらの読書に余念がなかったからである。もともと18切符愛好者にとって12時間弱の飛行時間はそんなに苦にならない。ましてスコットランドについては憧れこそ互いに持ってはいても、無知同然の初訪問であるから、読書にもってこいの時間と考え、隣の人と会話をする時間が惜しかったのである。だから隣席のご婦人がそのように言われても無理からぬことであった。でもキリスト者としては失格であると思った。イエス様のことをその方には伝えなかったからである。

 エジンバラに着いて次男夫妻に伴われるまま、夜間、市内を歩き回った。薄暗い夜間に、大きな石造りの古色蒼然とした建物がたくさんあり、灰色そのままで迫ってくるが、なぜか人の暖かさを感ずるのは私の独りよがりの錯覚であったろうか。次の日は日曜日、再び別の宿を取った次男夫妻と合流してホテルで4人でルツ記を互いに輪読しながら礼拝を持った。その後、本格的なエジンバラ訪問に出かけた。傘をしのばせざるを得ない天気のはっきりしない、しかも風も強い日であった。エジンバラ城に近づき、下ってはアダム・スミス、ヒュームの像の見えるあたりを歩いた。そしてパリへと帰路に着く次男夫妻とはその辺りで昼前に別れざるを得なかった。

 12月23日にやっと紙婚を迎える次男夫妻に別れ、ルビー婚の私たちはいささか心細さを覚えながらも足の向くままプリンセス通りを散策にかかった。ニュータウンとオールドタウンがその通りの両側に広がるが、私たちはまず本屋に入り込んだ。エジンバラのCLC(クリスチャン文書伝道団)の所在を確かめるのが目的であった。ところがこちらの英語力と、店員さんがそんな特殊な本屋さんを知っているはずもないということもあって、結局店頭では、要領を得た答も得られず、空しく外に出た。程ならずしてプリンセス通りのオールドタウン側、ウェイヴァリー駅から人々が上がってくるところに差し掛かる時だった。

 一人のスコットランド人の方が道行く人に何か語りかけては、文書を渡している。何となく惹かれて近づいてみると、様々なトラクト(伝道文書)を渡していたのだ。その上、私たちが日本人であることをすばやく見抜いて、簡単な「日本語聖書」を渡そうとされる。最初は未信者扱いをされていたが、私たちが自分たちの信仰を告白すると、路傍伝道はそっちのけで互いにキリスト者としての交わりになった。

 話してみると、仙台の知人も知っておられ、息子さんが日本人と結婚して北海道におられるという話も聞くことができた。再び家内がCLCの所在をこの方に尋ねる。するとその方はCLCは無いが、キリスト教図書を扱っている本屋が一軒あると言って、本屋の名前(B.McCall Barbour)と住所(28 George Ⅳ Bridge)を教えてくださった。その頃は、午前中の曇り空にも、時折陽が差し込み明るさが出て来るころだった。私たちの心にも、この不思議な、スコットランド人の一キリスト者との出会いを通して希望が湧いて来る思いがした。エジンバラではその後も中国人の観光客こそ見かけたが、日本人にはほとんどお目にかからなかったのに、この人は様々な人々が駅に乗り降りする場所で各国のトラクトを用意していたのだ。ギリシヤ語のものもある、と言う。通りすがりの人々の外見で判断し、とっさに文書を手渡すのだと言う。

 チェンバーズの評伝を書いたDavid McCaslandはその第五章冒頭で次のように書いていた。

ロンドンからの汽車が汽笛を鳴らしながら、プリンセス通りの華やかな庭園を過ぎ、ウェイヴァリー駅に向かって止まった時、オズワルドは「故郷」に戻った気分だった。彼はスコットランドを何よりも愛した。それは彼の生まれた国であった。彼はいつも注意深く自分の国籍はスコットランドであり、決して英国ではないと言い張っていたのであった。エジンバラ!オズワルドはどんなにこの街を愛していたことか。この街は暗く、時折、気分を滅入らせる外見を見せるが、そこには人々と神にとって何よりも偉大な記念建造物があったからである。※

 時移り、チェンバーズの歩いた街を知り、少しでもチェンバーズの歩みを感じたいと思っていた私を招いてくれたのはこの一人のスコットランド人の方であった。そしてその場所がまさしくMcCaslandをとおしてチェンバーズの故郷入りが印象深く描かれたウェイヴァリー駅、プリンセス通りの庭園近くであったことに、この無計画な旅に対する主イエス様による天の配剤を思わざるを得なかった。私たちはお互いに名前を言い合い、祝福を願って別れた。

ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て、刈る者たちに言った。「主があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「主があなたを祝福されますように。」と答えた。(旧約聖書 ルツ記2:4)

(※引用文章は「Oswald Chambers: Abandoned to God」47頁。写真はプリセス通りのluxuriant gardensの一角で見た花園。空は曇っていたのに、この明るさは何なのだろうか。まさしくluxuriantそのものだ。)

2010年10月14日木曜日

第1日 子どもたちの贈り物

子どもたちがそれぞれお金を出してくれ、ヨーロッパの旅に行かせていただいた。結婚40周年を祝してということだった。ちなみに結婚50周年は金婚式として有名であるが、一年目からの紙婚式をはじめとして様々な呼び名があることをこの機会に知った。40年目はルビー婚式と言うそうだ。夫婦の関係が「紙」のようなものから徐々に堅固なものへと変わることを指してつけられている。

ヨーロッパと言えば、いつも「喜びの集い(バイブルキャンプ)」で出かけるドイツや次男のいるパリ・フランスが当然候補に挙げたいところだが、まだ引越ししてリフォーム中とあっては訪ねることも出来ず、果たしてどこがいいかと話し合ったが、夫婦して「スコットランド」に期せずして一致した。

スコットランドは私にとっては経済学の祖であるアダム・スミスの母国としてなじんでおり、最近では日々読んでいる、オズワルド・チェンバーズの母国でもある。家内は「我にスコットランド(の救い)を与えたまえ、しからずば我に死を与えたまえ」と祈ったジョン・ノックスの母国として憧れていたからである。

それ以外何の知識もないまま、先ごろスコットランド・エジンバラ空港に降り立ったが、主なる神様はこのような愚かな私たちの思いにまさるできごとを用意してくださっていた。成田からフランクフルトとを経由してエジンバラへとルフトハンザで飛び立ったが、フランクフルトからエジンバラまでわずか二時間弱の飛行時間の中で一人の女性の方と乗り合わせた。

乗客は多くはなく、空席も目立ち、その上日本人は私たちだけで、多くがヨーロッパ人ばかりであったが、その方は私たちにとって最初から目立った白人女性であった。年の頃は70代であろうか。開放的で私たち新参者にも親しめる雰囲気を持っていた方であった。ところが飛行機に乗ったところ、よりにもよってその方が家内の隣に座られた。ほぼ30分程度はお互いに知らぬ存ぜぬと仏頂面を決め込んでいたが、そのうちにその方が何かとオーラを発してこられた。

あっという間にお互いに身振り手振りで話し込んでしまい、気がついてみたらエジンバラへの着陸態勢に入っていた按配であった。話によると、その方はロシア生まれロシア育ちだが、20年ほど前からスコットランドに来ており、今では大学で英語からロシア語への翻訳の仕事に関わっているということだった。再婚なさり、魅力的なロシア人由来のファーストネームと再婚なさった方の典型的なイギリス人のファミリーネームの組み合わせになるお方であった。私たちがロシア人として尊敬しているドストエフスキーやトルストイ、プーシキンの名を持ち出すと、大いに共感を示され喜ばれる。チャイコスキーの名前を持ち出せば、間髪をいれず「悲愴」を目を閉じながらハミングしてくださる、というご愛嬌ぶりであった。話は進み、ロシアの今の国情を憂え、それに対して、いかにスコットランドが純朴ですばらしいかと比較され、その方がスコットランドを第二の母国としてどんなに愛し親しんでおられるかが伝わってくる内容だった。遠く日本から初めて出かけてゆく私たちに良き道案内をしてくださることになった。(もっとも果たしてこちらが話の内容を正確に理解しているかどうかは心もとないのだが・・・)

着陸寸前、名刺を交換して取るものも取りあえず、その方とは別れ、空港出口へと急いだ。出口には、会社の社員旅行でロンドンに出向き、そのついでにエジンバラに先に着いていた次男夫妻が出迎えてくれた。次男たちの側には私たちの見知らぬお年寄りの女性がいた。すぐ知ったことではあるが、到着を待ち合わせている間にその方とは知り合いになったようだった。ところがその方が迎えに出られたのは私たちの隣席にいた女性であった。こうして私たちは不思議な出会いをあっと言う間にほんの二時間足らずの間に経験させていただいたのだ。

不安だらけの私たちであったが、先立つお方が不思議と何の不安もなく、適切な人をそばに置いてくださったのである。約10日間余りのヨーロッパ滞在の一部始終がこのような主の導きなしには考えられない出来事ばかりであった、このところ休載勝ちであったこのブログもそういうわけでしばらく私の赤ゲットぶりを披瀝するものになりそうだ。ご寛恕をいただきたい。

主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。(詩篇139:1~3)

(空から初めて見るエジンバラ。エジンバラは曇りがちであり、中々いい日和には恵まれないと、旅の道中、ある方からお聞きした。果たしてその通りの初日であった。)