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2024年10月18日金曜日

記憶違い?(記録と記憶)

時ならぬ 桜開花す 今年の秋
 二、三日前、古利根川沿いの桜の木々に、このような花びらを見つけました。10月の下旬にしてこのような花びらを見せるとは自然は正直なのでしょうね。そこへ行くと私はどうなのでしょう。

 前回、同窓会に出席した旨、そしてそこで思ったことを(上)(中)(下)の三部作として載せさせていただきました。折角ですので、当の卒業生の方にも読んでいただくように案内しました。ところが、突然私の中に黒雲のように不安が襲って来ました。それは(中)で紹介した6人の担任の方が拙宅に来られて、科学映画を私どもと共に鑑賞されたという話です。

 その事実は変わらないのですが、この学年でなく、ひょっとして次の8期生の8人の担任集団の時だったのではないかと思うようになったからです。実は私が曲がりなりにも学年主任を勤め上げられたのは、副主任の先生の力が絶大だったのです。そして感謝なことにもう一度この先生とペアーで学年主任をさせていただいたのです。6クラス編成は8クラスに拡大され、その8人の担任も今回の同窓会を開催された学年の6人に劣らない学年だったのです。私どもの家に学年の担任の方々を招待したことは確かですし、副主任の方がそのいずれにも加わっておられたからです。その時、三男はまだ幼く鼻を垂れており、私たちの間にいたのでしょう。この方は家にいた三男の野生的な所作に共感し、郷里の盛岡の田畑を思い、ユーモアたっぷりに、極めて親しみのある言い方「田舎にはこんな子どもが畦道にいたんだよね」と話され、皆の心が和んだことを覚えているからです。それは私の記憶では今回の卒業生諸君の時で、「6人委員会」の結束ぶりを示す象徴だと思ったのですが、記録がないですから確かめようがありません。

 さて、この副主任の先生に関しては、私にとって、もう一つ忘れられない彼の言葉があります。8クラス編成の学年集団の三年生の時、生徒に不測の事態が発生しました。その時、尻込みしたくなる私に対して、その副主任の先生は「あなたの出番です。私たちは何もできませんから」と言われたのです。私はその時、ただ彼女の命が助かるようにと、「希望は失望に終わることはない」というみことばを携えて、日本医科大学に駆け込みました。彼女は死から生還しました。後にイエス様を信じました。そしてご主人との間でクリスチャンホームを建設しています(https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2009/11/blog-post_18.html。ほか)

 4期生の時も、ここでは述べられませんが、一人の孤独な生徒を学年全体6人の担任で愛したのです。そしてその尖兵として私が用いられました。世の中には様々な組織がありますが、互いに愛し合うことがどんなに素晴らしいことかを身をもって体験させられているのです。

 そして不思議なことに「6人委員会」のお一人Kさんが、八潮高校から別の高校に移られてのち、新しい職場内で出会われた方と1986年11月22日に東京・日比谷・松本楼で結婚されました。その時、かつて八潮高校で同僚であった一人一人もまた招待されましたが、その時、その新郎新婦と極めて親しかった、と言うより、転任校で縁結びとして関われた方が、生後七ヶ月の男児を連れて参加されていました。

 この方と私は全く面識がなく、当然出席されていたことも知りませんでした。こうしてそれから32年が経ち、私とは全く無関係な話になるはずであり、すっかり忘れ去られても良いことでした。ところが今から6年前、次女が結婚する時、結婚相手の姑さんご夫妻とKさんのご関係を初めて知り、以前Kさんが作りあげられた素敵な「ご列席者ご芳名」を思い出しました。私はもちろんいろんなものは捨てるのですが、この「しおり」だけは別で大切に保管していました。開いてみるとはっきりと姑さんご夫妻の名前が紹介され、お子さんの名前までが詳しく生後七ヶ月と紹介されているではありませんか。びっくりしました。もちろん、そこには一緒に私の名前と丁寧で過分な紹介文が、Kさんが大学の山岳部でお世話になられた高名な作家の中野孝次さんの名前と紹介文と一緒に載っていました。

 この事実は私の曖昧模糊とした家庭での映写会のお招きの事実に比べ日時などがはっきりしています。しかも、次女から今朝LINEで二枚の写真が送られて来ました。1枚目は七ヶ月のその男児(自分の夫の38年前の披露宴での姿と明記してある写真)と今年2月に生まれ八ヶ月を過ぎたばかりの自分たちの娘との写真でした。いったい次女は何を訴えたかったのでしょうか(影の声:顔のかたちが変わっていないのです!)。そこには私たちの知らないところで神様はご支配なさっているという喜び、発見もあったのではないでしょうか。

 人生の出会いには様々な出会いがあります。そして、記憶は記憶で大切なものだと思います。特に愛された記憶は生涯残るものに違いありません。さらに記録がそれを裏付けるとすれば、これほど大切なことはないのではないでしょうか。写真は明らかにその役割を果たしているのですね。そんな思いで冒頭の写真も見つめたいものです。

主イエスは、私たちのために死にわたされ、私たちが義と認められるために、よみがえられた・・・。ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって神との平和を持っています。・・・希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(新約聖書 ローマ4章25節〜5章5節)

2024年2月8日木曜日

雪は人の心を溶かす


  娘の出産が間近に迫って来たので、こちらも受け入れ態勢を整えねばと部屋の整理に及んだ。たくさんある額の処分もその一つだが、中々踏み切れず、困るなあーとため息を吐(つ)いていた。そのうちこの額が目についた。小村雪岱の「雪兎」と題する版画である。

 1970年代も終わりに差し掛かっていたであろうか。現在の地に引っ越して来たが、斜め向かいの老夫婦が暖かく迎え入れて下さった。その後、行き来もし親しくさせていただいたが、そのうちにこの作品を上げると言われた。江戸っ子だったのか、気風(きっぷ)がよく、面倒見の良い方だった。関東大震災の写真も所蔵しておられ、私が社会科教師であることを知ってだろう、「見にこない」と声をかけてくださったりしたこともあった。

 折角いただいたのに、それ以来、子育てやら何やらと余裕もなく、飾ることもせず、押し入れにしまい込み、いつの間にか埋もれてしまっていた。この版画を下さった方はもう10年近く前にお亡くなりになり、家も壊され、今では新しい方がその方の旧宅跡地にはお住みになっている。日増しにその方からいただいた御愛も忘れてしまっていた。

 しかし、こうしてこの作品が出て来て、いただいた当時のことも微かに思い出すことができた。作品を調べてみると、どうも1943年の制作のようであった。2百7、80枚あったものの一つであった。私と同期であることに親しみを覚えると同時に、二日前に雪が積もったことを思うと、この「雪兎」と題する版画がタイミング良く出現したことを喜び、遅まきながら、作者の心意気を少し味わっている(※)。なお、その向かいの方は雪岱の甥御さんということであった。

※画面をよく見ると、大空からコンコンと雪は止まることなく降ってくるようだ。一方、傘を差して雪見するかのようで、またそうでもないかのように、美しい着物姿の女性が腰を下ろして「雪兎」を掌(たなごころ)に持つ。私には、何とも言えない切ない雰囲気が伝わってくるように思えてならない。これが日本画、日本人魂の特徴かもしれない。そして、同時に、これを機会に、旧作だが、「雪のたから」の文中の一挿話を思い出した。こちらはこちらで、創作とは言え、今も私の心を芯から揺さぶる話である。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/03/blog-post_30.html

あなたは雪の倉にはいったことがあるか。雹の倉を見たことがあるか。(旧約聖書 ヨブ記38章22節)

2023年2月11日土曜日

『花の生涯』(下)

埋木舎前の中堀と櫓のある城門
 写真の左にのぞいている樹木の辺りが、「埋木舎」であり、今も旧跡をとどめている。直弼が埋木舎に住んだのは天保2年(1831年)が初めであるから、およそ今から200年ほど前、直弼はここに長野主膳を迎え、武道に国学にとその修練を全うしながら、青雲を志していたことになる。

 城とはいかなるものであろう。彦根城は元和8年(1622年)築城相成ったから、今日まで都合400年になり、直弼はその折り返し点になる200年目に、この中堀と城門を目にしながら内堀内にある本丸にも参上したのだろう。不思議とこの城は、井伊家が譜代大名であったために江戸幕府誕生とほぼ同時にスタートし、明治維新期や、第二次世界大戦の戦時をくぐりぬけ、今日まで無傷(?)で生き延び、往時の姿を今に伝えている。

 それにしても直弼の最後は哀れである。私は彼の人生とは何だったのだろうかと時々考える。その国学の師長野主膳は結局、文久2(1862年)年8月27日に直弼に遅れること2年して四十九町牢舎内で「井伊家に死と災いをもたらした」と彦根藩内で断罪され、討ち捨てにされた。

 野口武彦氏は『巨人伝説』という作品の中で、この時の惨死を前にした主膳の思いを次のように作中で語らせている。(同書406頁)

「神よ。お願いですから教えて下さい。・・・私は・・・宣長を幽界の巨人、主君直弼候を顕界の巨人と仰ぎ、国の政治を執り行い、悪き業をする族を神遣らいにやらって参りました。しかるに主君は非業の最期を遂げ、私も縲絏(るいせつ)の辱めを受けております。あなたはかかるマガツビの荒らびをお許しになるのでしょうか。私が虫けらのように殺されるのも、人智では測り知られぬ神慮の中にあるのでしょうか」
 国学の神は沈黙したきり答えなかった。
 このままでは死にきれない。主膳は牢舎の荒畳に正座し、眼を血走らせ、脂汗を流して不眠不休で考え抜いた。疲労困憊の極で、暗闇にポッと小さな灯が点じられたように『古事記伝』の一節が記憶の底から浮かんできた。「神に御霊あるごとく、凡人といえども、ほどほどに霊ありて、そは死ぬれば黄泉の国に去るといえども、なおこの世にも留まりて、福をも禍をもなすこと、神に同じ」という語句である。これだ! これぞまさしく主膳がすがりつくべき啓示の一言だった。

 こうして長野主膳が来世は荒魂となって生きると覚悟してその刑を受けたと描写しておられる。私はこの文章を読みながら、キリストの死とそれにあずかるキリストを信ずる者の死生観のちがいを改めて考えざるを得なかった。そして、今たまたま手にした一つの書物『オネシモ物語ーー二度目の解放ーー』に書かれていた次のシーンを思った。(同書207頁)

 オネシモは相手の胸から短剣を引きぬくと、本能のままに心臓めがけてもう一度つきさした。はげしいさけび声はまったく聞かれなかった。彼は死にかけている友人を痛々しくたった一人で見おろしていた。ブリトン人は、その気になればいとも簡単に自分を殺せたはずだ。青い目がもう一度彼をまっすぐに見つめていた。その目は、これまでと同じように忍耐強く、悲しみとやさしさの表情だけをうかべていて、そこには何のいかりもうらみもなかった。
 「ポンポニアさまのあわれみの神に。」
 彼はささやくように言うと、血のしみこんだ砂の上でくずれるようにたおれた。ブリトン人は天の故郷に帰ってしまったのだ。

 この場面はネロ皇帝の円形演技場での剣闘士同士が闘わされ、その様を見て喜ぶ場面で起きた出来事だ。オネシモは短剣、ブリトン人は剣を与えられていた。オネシモは剣闘士仲間の中で唯一親しみを覚えたのがこのブリトン人であった。その親友同士が物見遊山のために駆り出された結果がこのシーンであった。

 すでに昨日も紹介したように、直弼はその登城中の駕籠の中で理不尽な自己の死が迫ってきたことに対して「憎悪、義憤」を感じたことが舟橋聖一により『花の生涯』で語られていた。先ほどは長野主膳の無念な彦根藩内での処刑に臨んだ死を前にした述懐を野口武彦氏は創作であろうが語らせている。そして、今私が紹介したこの円形演技場ではブリトン人は当然オネシモに「いかり」「うらみ」を持つべき場面である。なぜブリトン人はそうしなかったのだろうか。それを明らかに示す記事がブリトン人がオネシモと親しくなり始めた時にオネシモにもらした次のことばがヒントを与えてくれている。(同書200頁)

「ぼくの国では、人々はかみなりと戦争の神々を礼拝している。闘技場でぼくは、その神々に向かってさけぶ。でも女主人のポンポニアさまは、あわれみと平和と愛の神を礼拝しておられた。その神は、ユダヤ人も異邦人も、つながれている者も自由人も、男も女も、大人も子どももことごとく自分のもとに来なさいと呼んでおられる。もしぼくが明日死ぬなら、ポンポニアさまの神に、ぼくの霊をゆだねるよ。」

 いかがでしょうか。「人は石垣、人は城、人は堀」と武田信玄は言いましたが、その人が死に対して持つ考え方はこのようにちがうのです。『花の生涯』を60年ぶりに拝見した感謝と私のそれにまつわる思いをまとめてみました。

イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたのです。(新約聖書 ヘブル人への手紙2章9節)

2023年2月10日金曜日

『花の生涯』(中)

「埋木舎」の前の中堀 2013.3.14

 写真は、10年前、尾末町の叔父宅を訪問した時に撮影したものである。井伊氏は今尾末町に住んでおられ、生前叔父は井伊さんとは町内の隣組同士で今や回覧をまわす間柄だよと笑って言っていた(それは言外に殿様が町人と同じ位置に立っているご時世を思ったのだろう)。叔父については二度ほどこのブログでも書かせていただいたことがある。私にとっては大切な叔父であるが、その2年のちには亡くなった。 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2015/05/blog-post_30.html

 井伊直弼は井伊家の14人目として生まれ、どうみても藩主になるとは考えられぬ身で過ごしたのがこの中堀に面した尾末町屋敷である。屋敷はこの中堀に面しているが、鉤の手になる一角なので残念ながら屋敷正面は写せていない。彼はここで元服の儀式を行ない、のちに彼自らその屋敷を「埋木舎」と称えた。

さつ事も うきも聞しや 埋木の 
        うもれてふかき こころある身は

と、詠んだのがその原義。
(『井伊直弼』母利美和著19〜20頁参照)

 その彼が果てたのは、万延元年(1860年)3月3日、季節はずれの大雪が降っていた時、外桜田の上屋敷から江戸城に登城する時であった。舟橋文学が表現しようとした『花の生涯』は直弼の桜田門外での横死の際の直弼の気持ちを次のように描いている。(新潮文庫版696頁)

 ーー駕籠の中の直弼は、何者かが、駕籠脇に近づいたのを直感した。
 瞬間、投げ出されるように、駕籠が地上へ置かれたのは駕籠かきが斬られたからにちがいない。
 もはや、疑いもなく、暴徒狂士の襲撃であると知った大老は、こうして、駕籠の中にいることの危険を察知した。とは云え、うっかり、飛び出すことは、よけい危ない。

(馬鹿者ーー自分を殺して、どうなると云うのだ)

 心の底から、憎悪がつき上げてきた。知性の薄い、亢奮しやすい頭脳が、この国では熱血漢として珍重されているのも、妙な話である。国粋も尊王も口実で、実際は政治的権力に盲目となっている或る男に煽られて、自分を殺しにやって来た愚かな刺客にすぎない。そういう奴の手にかかるのは、無念千万だと思った。
 彼はたまらなくなって、外へ出ようとし、駕籠の戸に手をかけた瞬間、全身を振り廻すような、激烈な衝撃と共に、あらゆる力を失った。それは大関が、殆ど駕籠脇へ密着するほど近寄って、狙撃した一弾が、不幸にも、直弼の胸に命中したからである。

 人の死は何ともうとましい。しかも横死となれば、より一層だ。先ごろの安倍元総理の死も同じ思いにさせられるし、現在起きているロシア・ウクライナの戦いによる犠牲者、はたまたトルコで起きた大地震による万を越す犠牲者を思うと、ことばに窮す。

 人間の生と死。罪と死と言い換えても良いかもしれぬが、「花の生涯」ならぬ「人の生涯」には変わらざる主の愛があることを忘れてはならない。

「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。『人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。』とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」(新約聖書 1ペテロ1章23節〜25節)

2023年2月9日木曜日

『花の生涯』(上)

彦根城馬屋門前 2010.2.24
 日曜日、テレビで大河ドラマ第一作である『花の生涯』を観た。NHKによると60年ぶりだと言う。しかも白黒だったものをカラーに再現すると言うので、当初から期待をもって観た。見て良かった。尾上松緑の井伊直弼、佐田啓二の長野主馬(しゅめ)、淡島千景の村山タカ、そのほかにも香川京子はじめ様々な往年のスターたちが出て来た。

 60年前というと、私にとって大学受験に失敗していた浪人時代であり、たまたま2/4のブログ『うれしい一本の電話』で記した二人の友人に対して硬軟両用というか、片や表面は柔和そうに装い、内にはどうしようもなく人を貶めてやまない鬼の醜い心で接した友人に対して、一方では弱さを抱えて柔弱さを示して接した友人らとの交友関係があった年であった。

 ただ、この『花の生涯』をその当時見たかどうか自信が持てなかったが、尾上松緑の特徴ある甲高い声とその容姿、あの鷹揚(おうよう)とした振る舞いには覚えがあった。この七日、80歳の誕生日を迎えたばかりの私にとり、振り返れば、あっと言う間に過ぎ去った60年ではあるが、否応なしに二十歳前の自分が知らなかった世界を次々と体験させられた歳月であった。それもあってか第一話のどのシーンにも心のどこかで頷(うなず)けるものがあった。それにしても政治の世界と男女の性(さが)の葛藤をすでに一話にして色濃く描いていることには驚かされた。が、舟橋聖一の作品なら当然で、それだけドラマが原作に忠実な証拠だと思った。

 だが、私が今回心秘かに関心を持っていた事項があった。それは直弼が国学の師として仰いだ長野主馬の出自であった。長野主馬が直弼に抱えられるまで、住んでいたところは志賀谷という伊吹山麓にあり、その領地は遠く紀伊和歌山の家老水野土佐守忠央(とさのかみただなか)の知行地であった(※)。井伊直弼、長野主馬、水野忠央の三者の間に不思議な結びつきがあったのだ。そのこともあってか、将軍の継嗣をめぐる幕閣内で対立があった際、紀伊藩主慶福(よしとみ)を14代将軍に擁立し、成功したのは、彦根藩主になり、大老職も拝命した直弼と水野忠央の協力関係がその一因にあったようだ。

 このようなことはほぼ160年ほど前の過去の出来事であるが、関心を持つことが我が身辺にあった。それは横浜に在住の一人の方が、春日部に越して来られた知人の救いを求めて、たまたま拙宅で行わせていただいていた家庭集会にその方を伴うために出席されたことによるものであった。都合、6、7年間になろうか、結局その方の来訪はその方の知人が2021年に主イエス様を信じて天の御国に召されるまで続いた。その中で私たちとの深い交わりも与えられ、今日に至るもなお深い御親交をいただいている。何を隠そう、この方はまさに前述の水野忠央公の末裔に当たる方であったのだ。

 すると、どういうことになるのか、160年後、彦根者である私が、紀州に出自を持つその方と一緒になって、その方の知人の救いを願い、ともに祈ってきたのだ。しかもその方は前述のとおり、横浜から、わざわざ田舎の春日部の我が茅屋にと足を運ばれたのであった。世が変われば、人も変わると言うが、片や日本政治を動かす大問題、片や尊い一人の人間の救い、神様の御目から見れば、どちらも大切であり覚えられていることだと思う。

 それにしても、もし長野主馬が井伊直弼と組まなければ、ひるがえって長野主馬が江州にある水野忠央の知行地、その代官の家に住まいしていなかったら、桜田門外の変をはじめさまざまなできごとも起こらなかったかもしれない。人の出会いは摩訶不思議である。しかし永遠の主はこのような出来事の中でもご自身を明らかに示そうとしておられるのではないか。

※吉川英治の『井伊大老』によると次のようになる。(文庫版37頁より)
 沢山もない世帯道具をまとめ、長野夫婦が、江州(ごうしゅう)へ越して行ったのは、それから間もないことで、知人たちでも、知らない者が多かった。新居は江州志賀谷だった。伊吹山の麓である。紀州家の家老、水野土佐守の知行所で、土佐守の代官、河原忠之進の家の一部を間借りして、

 国典歌学教授、長野主馬義言

という看板を、裏口の筑土風の土塀門にかけておいた。

神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。(新約聖書 使徒の働き17章26〜28節)

2019年5月26日日曜日

お登紀さん(続)

1967年までの我が学び舎

新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。(詩篇96・1)

 加藤登紀子さんの東京新聞夕刊連載の『この道ーーあなたに捧げる歌ーー』は先週の土曜日で37回を数えた。全く縁遠いとばかり思っていた加藤さんの歩みはやはり同世代ということもあろう。共通点が随分あることに日々驚かされる。

 一番ギクリとしたのは、第27回目の「平戸への旅」の次の文章であった。彼女が生涯をともにする藤本敏夫氏の次のことばであった。「人間は地球の居候だ。地球に土下座して謝らなければならない」という言葉。加藤氏によると、それはそれまで「学生運動のリーダーとして、街頭行動を引っ張って来た彼が、その後の農業を軸にした環境活動家になるまでの新しい道に踏み出す糸口を見つけた。」ことであるらしい。

 この思い切りの良さが1969年の藤本氏の言であることに限りない共鳴を覚える。私もまた、同年当時下宿していた畑の一隅に膝を屈して自らの神様に対する非を衷心から詫びたからである。藤本氏ほど学生運動に身を入れた者ではないが、この時を境に自身の神なしとする自己中心のそれまでの生き方の転機を経験した。

 次に目を見張ったのが、第31回目の「酒は大関」である。確かに彼女がそういうふうに呼ばわっていたのをかすかに記憶している。ところで何が類似しているかと言うと、大学を卒業して田舎の教師として赴任することになった高校の最寄駅はその名も「山前」であったが、その山の頂上近くには「酒は大七」と宣伝よろしく大看板がかかげてあり、どこからでも見通せ、遠くから高校の敷地を否が応でも知ることの大きな目印となっていた。まあ、つまらぬことではあるが・・・

 最後に知らされたのは、第37回目の「花ひらく30歳」であった。これには思わず苦笑せざるを得なかった。冒頭次のように書かれていた。「藤本敏夫との獄中書簡は、全部で141通。1972年5月から74年9月まで約二年半の記録が残った。」もちろん、このご夫妻の必死の往復書簡は決して笑い事で済ませる問題ではない。夫が獄におり、初めての赤ちゃんを抱かせたくても抱かせられない、その苦しみ、悲しみの最中にある書簡であるからである。

 苦笑いと言ってしまったのは、私たちもまた1967年4月から1970年3月まで往復書簡を交さざるを得なかった。事情は異なるが、それだけ互いに書簡に真情をあふれさせずにはおれなかったからである。

 このように37回にわたる彼女の追憶を読ませていただくときに、彼女がいかに泣く人であるかを知り驚いた。彼女の愛がそれだけ強いからであろう。歌手は小手先のことばで生きるのでなく、全身全霊を込めて存在する。遠くの存在であった加藤登紀子という有名人がこうして私たちと同じように悩み苦しむ人であることは当然といえば当然であるが、日々共感しながら読ませていただいている。

 ウオッチマン・ニーのことばを少し記しておく。
「一つの不思議なことがあります。聖書を読むことのできる人はすべて、話を聞くことが非常に速いことです。一度、話すとすぐわかります。あなたがどのように話しても、彼はどのようにでも了解します。主観的でない人は、話を聞くことができ、聖書を読むこともできます。これに反して、多くの人はあなたが一度話しますが、彼には印象がありません。あなたは彼に二度話します。しかし依然として何の印象もありません。これは彼の頭の中のものが非常に多く、思想も多く、意見も多く、主張も多いためです。あなたは彼に一度話し、二度話します。彼は聞いても少しの進歩もありません。わたしたちがもし、自分が主観的な人間であるかどうかを試そうとするのであれば、ただ他の人の話がわかるかどうかを見ればよいのです。人が何気なく言う事を、自分は理解できますか? わたしたちが地上で生きている限られた年数を考えるなら、もし主観的であるとしたら、わたしたちの時間はどれだけの損失を被るかわかりません。客観的な人が聖書を一度読むほうが、主観的な人が十度読むより勝っています。」(『聖書を読む道』ウオッチマン・ニー著42頁の「主観的であってはならない」に関する項目の抜粋引用)

 私の加藤登紀子さんの文章の読み取りは主観的な読み取りで、悪い例でないかと思う。たとえば、加藤氏が獄中書簡で伝えたいものは、私の共鳴ぶりではなく、むしろマタイ11・3や使徒16・25に近づけて読む方がより客観的な読み方と言えるのではなかろうか。そんなことも考えさせられた!

2019年5月14日火曜日

お登紀さん


若い男よ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。(伝道者の書11・9)

 東京新聞夕刊に、加藤登紀子さんが、「この道 あなたに捧げる歌」と題して連載している。私は彼女の存在を知らないでいたわけではないが、これまで知ろうとはしていなかった。遠くの存在、私とは次元の違う世界に生きている人との思いが強かった。

 しかし、出発点からしてほぼ同期であり、それゆえ共感を覚える記述も多く、この人は私よりはるかに密度の濃い人生を送ってきたのだなあーという思いにさせられた。と同時に、なぜ自分も彼女のように真剣に生きてこなかったのかな、という悔恨の思いをしばしば抱かされる。

 そのような記述の中で、第26回(5月13日)”ひとり寝の子守唄”と題して次のような文章があった。

 前年の11月7日から巣鴨の東京拘置所に拘留されていた藤本敏夫に、私は、出来る限り面会に行っていた。拘置所は、一日に一人の面会と差し入れ屋からの弁当や衣服、書籍の差し入れが許された。
 暖房のない独房の寒さに耐えられるよう、セーターやマフラー、そして毎回、山ほどの書籍を運んだ。
 三月十二日、東京が麻痺するほどの大雪が降った日。
 私は藤本から届いたハガキを見ていた。
 「朝起きてトイレの蓋を開けると、よくネズミが顔を出す。いうなれば、そのネズミ君が僕の親友だ」
 その文面から、ふっと歌が浮かんだ。
 「ひとり寝の子守唄』
 これこそ自分のための歌、と言ってもいいかな、と嬉しかった。

 三月十二日、加藤登紀子さんの三月十二日があった。私にとって忘れられない日がこの日であることはこのブログでも前々回書いたとおりである。こうして彼女の人生と私の人生に大きな接点があることに今更ながら気づかされた。そう言えば、彼女は第24回(5月10日)”悲しき天使”で1968年の8月20日のプラハでソ連軍が侵入した事件の前後の、彼女自身と藤本氏の関係・動向を書いていた。

 その時、私は東京の本郷だったと記憶するが、40日間ほど当時受講していた中央大学の通信教育のためのスクリーングのため下宿生活を送っていた。それは自らを律するために法律を学びたいと思っていたからである。しかし、現にすでに大学を卒業して教師稼業を身につけている自分にとってはどうしても単位を取得しなければならないという切羽詰まった思いはなかった。

 同宿の通信教育学生には県庁の役人や九州の新聞記者がいた。彼らは大学卒業の肩書きが必要だった。ところが、人は安きにつくと言うか、昼間は一応大教室に行って、様々な科目を履修するが、夜は社会勉強と称しては、4、5人で飲み屋や公園に繰り出したりして勉強そっちのけであったのがその実態であった。

 互いに田舎から東京に出て来てその刺激に酔いしいれていた。まさにデカダンスそのものであった。その夏も終わろうとするときのプラハに対するソ連軍戦車の侵攻の出来事であった。「自由は鳴りやまず」と意気軒高のまま職場に戻ったように記憶する。しかし、それは同時に生けるまことの神の存在を知らぬまま、天に唾する生活の日々であったように思う。こんなことを加藤登紀子さんのこの連載ものをとおして思わず振り返らされている。

2019年1月27日日曜日

神の徳の充満


天にも地にも、わたしは満ちているではないか。(エレミヤ23・24)
 
 いつも同じような話で恐縮してしまうが、事実だから、今日も書いてみたい。昨日私たちは午後2時の浦和の家庭集会に出席するため、そしてたまたま二人してその場で話をするように要請されていたので、ともに雁首そろえて、そこで話をすることをまとめていた。しかし、時間がどんどん経ち、12時半近くになった。家内は完成したが、私はまだ未完成であった。でも私は残りは電車内で考えることにした、ギリギリの出発である。

 ところが、家の玄関を出て早々、家内が慌てている。「自転車がない!」。あちらこちら探してみたが、「ない!」と。悪い癖で家内は施錠しない日が多いのだ。その日も施錠していなかった。完全な盗難である。家内になぜ施錠しなかったのかと怒鳴ってみたが、今更どうにもならない。二人して自転車はままならぬことと相成った。特に家内は歩くことを嫌う。それで、私が歩き、家内に自転車を使わせた。最寄りの駅も春日部から、一ノ割に変えた。歩く距離が春日部よりは短いからだ。もちろん浦和に向かうには逆に遠回りで時間もかかる。

 一ノ割から春日部まで来て、そこからアーバンパークラインに乗り換え、大宮に向かうことにした。電車の中ではまだ未完成のところを考えるつもりでいた。その時、ふとベンチに中年の男性が座っているのが見えた。彼とはかれこれ2、30年ほど会っていないが、昔の面影は残っていて声をかけたら案の定、彼だった。家内ももちろん彼を知っている。お互いほぼ30年前に教会で一緒だったからである。

 私たちが教会を出る頃、彼は教会に来始めて二、三年というところであったろうか。なかなかイエス様の存在が信じられず、様々な哲学論理を展開されるので困った覚えがある。でもその彼もその後、イエス様を信じられたようである。電車内で三人一緒に話し込んだ。彼は懐かしさもあってだろう、次から次に話しかけてきた。こちらももはやまとまっていない話の推敲は諦め、彼の話に耳を傾け、私の方からも様々なことを聞いたり話したりした。互いに積もる話は尽きなかった。

 ところが、彼は「実は昨日あなたのことを例に挙げ、ある人と話をし、家に帰ってからも家内とどうしていらっしゃるのだろうね」と話ししていたのだと言った。驚いた。もちろん、彼自身が何よりも驚いてそう言ったのだった。しかもその話の内容たるや、実に私が今現在知るのに必要なことばかりであった。委細は省略せざるを得ないが。そして、私は2時から話の中で皆さんにお見せしようと密かにカバンの中に入れていた本があった。このブログでも何度かご紹介したことのある『国籍を天に置いて(父の手紙)』(発行者小早川順子)※である。私は思い切ってその本を彼に進呈することにした。彼が歩もうとしている道(掌中に『ヘーゲルとその時代』を忍ばせていた彼の道)と違うし、彼に通じないかもしれないが、私はこの本に秘められているキリストのいのちを何としても伝えたかったからである。

 昨日の彼との出会いは、もし自転車が盗まれていなかったら、時間が違い、出会うことは叶わなかったであろう。別れ際、「今度話しに行っていいですか?」とまで言われた。それほどの間柄なら、ここ2、30年の互いの音信不通は何だったのかという思いもしないではない。しかし、昨日の30分足らずの小さな一コマの時間ではあったが、天にも地にも満ちていらっしゃる主なる神様は愛をもってご計画なさった出来事だと思い知った。

 さて、私たちそれぞれの出会いの引き金となった自転車を、今日、木枯らし気味の風を背に、二人して、探したが見つからなかった。

※https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2015/02/blog-post_26.html から10回シリーズで書いています。興味のある方はお読みください。なお、今日の題名「神の徳の充満」はスポルジョンの今朝の「朝ごと」から取ってつけました。私のこの小さな経験(実際には浦和家庭集会に行って、そこで経験したもう一つの出来事があるのですが・・)も神の徳の一つのあらわれと信じることができるからです。

2018年12月21日金曜日

不思議なことがあるもんだ!


人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。(ルカ19・10)

 先日12月18日火曜日のこと、一人の方と隣り合わせになってお話ししていた。その方は私より一回り上の1930年生まれの88歳の方であった。たまたま、私はその時、『預言通覧』と『スコフィールドの聖書研究』を持っており、それぞれの本をその方に紹介していた。そして「スコフィールドの聖書研究」の冒頭のヨハネ3章16節の「神の愛」に触れ、互いにその広さ、長さ、深さ、高さを確認し始めたら、その方が「ためぞう(さん)が私にこの話をしてくれたんだ」と言われた。私は思わず、口走った。「その方は、山中為三さんですか」と尋ねると「そうだ」と言われる。私はまさに飛び上がらんばかりにびっくりした。

 山中為三氏が戦後どのように生活し、どのようにして召されたのか、手がかりがなく、辛うじて国会図書館にまで出かけて何とか想像しながら過去5回にわたって書き続けたが、目の前にその山中為三氏と会った方がおられたのだ。しかも私が4年前から知己をいただいていた方がすでに36年前の1982年に出会って、為三さんを通して救いを体験しておられたというのだから、私が驚くのも無理はないだろう。早速その方に山中為三さんの思い出を語っていただいた。以下はその聞き書きである。

 山中為三さんという方は山形県の酒田にお出でになったことがあるんです。で、マツダの自動車に乗ってスピーカーで町内(まちうち)を走ったのね。だからそれは酒田大火の後でした。大火の後でね、それでね、夜、私と妻と子ども(三男)と三人で、夜行ったのね(会場へ)、そしたら、誰かいっぱいいるのかなあと思って行ったのが、私ぐらいだけだった。三人しかいなかった。で、山中為三さんにヨハネ3章16節の言葉から「神の愛」について一時間教えてもらった。それで初めて、今までは何回も聖書の言葉は、説教は聞いていたけど、なかなかこれは、もっと、わかったようでわからないで、いい話だくらいだったけど、この山中為三さんの話を聞いて初めて人間の宗教ではないんだ、神様の方から、上からお出でになった、降られた方なんだ。罪人を救うためにお出でになった方だと、それ聞きました。

 それを聞いた時にね、はじめて、ああ何て神様の愛というものは(すばらしいものだろう)。上から、救うために、罪人を救うために捜してきたと言うんだから、これはありがたい、涙流して、いいはなしだぐらいではないの、感動して涙流した。今でも原点はそこなんだね。山中為三さんはその後アメリカに帰った(※)という話を聞きましたけど、そのみことば聖書のヨハネ3章16節の言葉で私は信仰を決心してすぐバプテスマを受ける心に変えられました。

 福音を伝える方法はみなちがうが、今聞いているのは、簡単なものを難しく教えているからなかなか最近救われる人は少ない。(為三さんは)反対なんだ。むつかしいことを簡単にわかりやすくほんとうのこと、ポイントそこだけ強調して教えてもらってそれから深みに入るようになれば、もっともっと福音は多くの人に結ぶんじゃないでしょうかね。そんなこと感じますよ、わたしは。

 酒田では、町内の神社の、その当時わたしは町内会長をつとめていましたから、神社の代表ですわ。神社の神主さんたちが、宮司さんたちといろんなつきあいありました、ずっと。でも、だれも神様のことはわからない、いざ神様のことになるというとわからない。お神輿一所懸命町中かついで歩いても中に何が入っているかわからない。おふだ一枚はいっているだけ。まあ宮司さんは、「たいよう」さんは、田舎ではたいようさんというが、宮司さんは、祭司だね。でも、先祖から伝わって流れの職業的にやっているだけで、ほんとうのことは何にもわからない。

 「主は生きておられる」44号のわたしの証に(あるでしょう)。(最初)タイトルがわからないと言われたが、私が言ったことが、それはルカの福音書のタイトルですよ、それはなんだかというと「失われた人を捜す」これがルカの福音書のタイトルですよね。だからわたしなんかまったくそういうことがなかったんだけれど。でも神様はわたしを救ってくださった。神様はどんなことでもできるの。できないことはないの。全知全能の方だから。不思議だね。

(※私にとって為三さんの履歴が1905年〜?と書いてあり、なぜ山中氏の最後がわからないのかと疑問に思っていたところ、この方の話を聞いてわかった。為三さんの奥様はアメリカ人でアメリカに帰られたという。だとすればアメリカで召されたのだろうか。わからないのも当然だと思った。

 その上、私が国会図書館デジタルライブラリーで見た、美濃ミッションで講義中の山中氏の若き日の姿は、まさに「神の愛」ヨハネ3・16について「スコフィールド」 を使っての講義そのものであった。それから50年ほど後に、日本海沿岸の酒田で一家三人の方がその山中氏から一時間にわたって熱心に福音を伝えられていたのだ。

 そしてさらにその36年後に何も知らない二人の者で、互いにスコフィールドの解きあかしを分かち合っていたのだ。その時、ご家族と一緒に撮られた写真があると言われるから、今度はとうとう私も山中氏の実像を見られそうだ。77歳晩年の山中為三さんだろうが・・・。それにしてもその方の救いのためにわざわざアメリカから来られたとは、まさに冒頭のみことばのとおりでないか。絵はザアカイである。)

2018年9月8日土曜日

優先席の妙(下)

玄関上部(黒塗りは戦争中に強制的に塗らされた外壁)

神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。(使徒17・26)

 熱海でその方とお別れしての長旅のネット検索で、この女性宣教師は東北のその地では有名人で、1976年に召されたが、2012年に彼女の85年の生涯が本となって公刊されていることを、知った。いずれその本『みちのくの道の先』を読みたいと思っている。

 しかし、関西の家に帰ったのは午後8時ごろになった。暗い中、玄関の惨状と庇が落ちている現場を確認した。昼間のあの不思議な感謝に満ちた出会いにもかかわらず、再び現実に帰って気が重くなった。早速、知り合いの大工さんに電話を入れ、対応をお願いした。

 翌朝(9月6日)テレビでまさかの北海道の震災を知る。早速、札幌の知人にお見舞いの打電をした。段々、様子が明らかになるにつれ、北海道全域が大変な惨状に見舞われていることを知った。そう言えば昨日ご一緒したご婦人のお嬢さんは函館にいらっしゃると聞いたばかりである。さぞかし、その方も不思議な車中の出会いや同窓会の楽しい思い出の中で今では娘さんの安否を思い心を痛めておられるのだろうと想像した。

 その函館は実母が生前、さんざん私にその地名を聞かせた都市である。実母は私の父と再婚する前、関西から函館の近くの森町に嫁いだからであった。そして先夫が戦死したため、北海道から引き上げ、今の私の家を建てたのであった。考えてみると玄関のガラスはそれ以来、無傷で戦時中も問題なく、今回の台風の結果78年ぶりに壊れたことになる。これまた不思議な巡り合わせである。

 テレビはこれまでは関西における台風21号の惨状を報道していたが、6日からは北海道の震災に重点を移さざるを得なくなっており、死者のニュースに全国民が心を痛めている。かつて、2011年の3月11日の東日本の震災の時は「泉あるところⅢ(現在のOpen Windows 私訳)」を展開していたが、さすがにこの時はブログを更新する気になれなかった。そんなことをしている暇があったら現地の苦悩を思えと神様から問われている思いがしたからである。

 今回は東日本大震災ほどの壊滅的な影響をなさそうであるが、夏以来頻発に起こる災害が身辺に例外なく襲ってくることへの教訓は大きなものがある。台風の被害は周辺の家で私の家だけであった。東風をもろに受けて必死になってガラス戸は耐えたことだろう。しかし、詮方なかった。これは運が悪かったからであろうか。

 生けるまことの神様はすべてのことをご存知で事を起こされている。誰もが未来のことはわからない。しかし創造主である神様は私たち一人一人に「わたしを知りなさい」と「雨が降っても、雨が降らなくとも」一人一人に教えておられることを忘れないようにしたい。主なる神様は私たち一人一人に「優先席」を用意なさっているのである。それこそ、弱った者、気落ちした者に対する「優先席」である。いやそれだけでない。素敵な出会いを演出してくださる席でもある。

 最後に冒頭のみことばの次の言葉を写しておく。これはほぼ2000年前パウロがギリシヤのアテネで人々に語った一節である。

これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

2018年9月7日金曜日

優先席の妙(中)

ふるさとの玄関引き戸(左側半分がガラスが台風のため破損)
わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103・1〜2)

 東京から熱海まで快速アクティーの所要時間は1時間半ほどである。そのようにして優先席でたまたま相席になった私たちはとうとうその全時間を一緒に過ごすこととなった。双方とも最初は全くそのようにお話をしてお交わりする意志はなかったと思う。お互いに全く素性も何もわからない同士であり、まして異性同士であるから当然と言えば当然だ。

 ところが、豈図らんや、意外なところから双方の話が噛み合い始めたのである。そもそもそのご婦人は熱海での大学の同窓会出席のため、東北から上京され東京を経由しアクティに乗られた。私は故郷の家が台風で大変な目にあっているので、関西へと帰る旅路であった。家の管理がままならぬことをその理由をふくめて語っていた。それは私たち夫婦が結婚する時、両親に反対されたため、中々故郷に帰る機会が縁遠くなってしまい、とうとう両親も他界し今やこの歳になったのだと話していた。

 そのご婦人はなぜ私たちの両親が結婚に反対したかを聞きたがられた。私は正直にありのままを話した。それは私たちが仏教徒の家に産まれながら、主イエスを信じてしまったことに端を発し、家にキリスト教を持ち込むなと言う反対であった、と説明した。

 ところが、そのご婦人はそのことをきっかけに御自身が日曜学校に通ったことや、幼稚園も、小学校も中学校も宣教師が設立した学校に通ったことを思い出されたようだった。戦後間もなく、アメリカからお見えになったその女性宣教師は学校、医療事業、酪農とキリスト教精神に基づく活動を行ない、母が家は仏教であるが、仏教では精神性が養えない、どうしてもキリスト教が必要と考え、自分だけでなく兄妹四人全員が同じコースを歩まされたと言われた。

 その頃は一日の朝の始まり、また食事のとき、また寝るときと四六時中、神様への「祈りの生活」があり、毎日感謝し、一日の終わりは反省の時であった。あのような生活はもう今ではすっかりなくなってしまっている。あの精神性は母が行かせてくれなかったら不可能であった。そして、そう言えば、自分は三人の子供を全部公立に進ませた。母のようなことは考えなかったのだなと感慨深げに述懐された。

 私はお聞きしながら、その女性宣教師の生き方に瞑目させられ、さぞかし「あなたはその宣教師に愛されたでしょうね」と申し上げると、「そうじゃないのですよ。私はしょっちゅう叱られていたのです。もっとも私は兄たちと違って落ち着きがなかったからです。」と恥じらいながらも話してくださった。その学校は少人数教育で十人足らずだという。私は勝手に『二十四の瞳』を思い出しながら、その方の幼き頃を想像して聞くことに熱中した。

 そう言えば、私は今も余技にお習字をやっていますが、その宣教師の建てられたミッションの学校での教育の賜物なんですねと改めてその宣教師との出会いを感謝された。私は本来はその席でゆっくり昼飯を食べるつもりでいたが、とうとうあきらめ、そのご婦人から聞かされる話に魅了されっぱなしであった。熱海でお別れする時、お互いに氏名を交換しあった。私の名前をいい覚えやすい名前ですねと言ってくださった。私にもそのご婦人の名前はそれに劣らず覚えやすかった。でも私は口に出さず、心にお名前を銘記した。その方は1949年生まれ、私は1943年生まれであった。

 関西へ暗い気持ちで長時間列車を乗り継いでの「青春十八切符」を使用しての帰省は最初気が重かった。でも、こんな素晴らしい出会いがあるのはきっと何か意味があるのだと思った。

2018年9月6日木曜日

優先席の妙(上)

ある結婚式の受付
目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神が備えてくださったものは、みなそうである。(1コリント2・9)

久しぶりに、18切符を使った。ちょうど折悪く、当初予定の日は台風21号の西日本上陸とぶつかってしまい、一日延期した。延期せざるを得なかったその日の夕方、故郷から電話があった。胸騒ぎがした。案の定、家が台風襲撃をもろに受けたようだ。庇(ひさし)は飛ばされ、玄関の引き戸はガラスが割れた、という連絡であった。

 「取るものも取り敢えず帰る」とはこのことだ。もはや18切符などを使っている余裕はない。新幹線ならものの二、三時間で故郷に帰れる。しかし在来線は運転見込みがないという情報だった。散々迷った挙句、結局折角購入した18切符で昼ごろ出発した。東京11時37分発熱海行きアクティがその最初の電車であった。こういう場合、いつも優先席を利用することにしている。ところが生憎その席は外人観光客が座っていた。日本人なら気を利かして譲ってくれるのにと思いながら諦め、別の席に座った。その時、列車を待つ間に私の後ろに一人の年配のご婦人がいたことに気づいていたが、彼女は席がなくつり革につかまっていた。ところが何駅か通過する内に外人が降りるのが見えた。

 私はすかさず、優先席に移動し、つり革にすがっていたご婦人に私のその席を勧め譲った。ところがしばらくして、そのご婦人ものこのこ優先席にやって来て、私の隣に座った。ちなみにこの優先席は座席が二つ切りである。いつもは家内と旅をするので大抵家内とその優先席を利用している。その席に見知らぬとは言え、先ほど席をお譲りしたばかりのそのご婦人が隣に来られたのである。この優先席は車両の隅にあり余り目立たない場所にあるのでこっそり食事をするのに打ってつけの席である。昼時であり、中々食事を取る時間がない時死角とも言える優先席は格好の席なのだ。彼女がどのような算段をして来たのか、今思い出したが手荷物が多く優先席はそれを置くのに便利なようにつくられているので何となく優先席に移って来られたようだった。

 さて、この方と隣り合わせになったのは以上のような次第であるが、そこには主なる神のすぐれたご計画があったのである。その委細は明日に譲る。

2017年2月6日月曜日

ベック兄の原稿

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)

 ベック兄のメッセージ原稿はローマ字で記されている。最近も一人の方からその原稿を漢字仮名まじりに直されたことを教えていただき興味を覚えた。というのは、私は今古い音源をもとに、聞き書きを集中的に行っているからだ。ところが最近『キリスト者の使命』というベック兄の比較的古い時代のものと思われるメッセージの聞き書きをして、気づいたことがあるので今日はそのことを話題にしたい。

 ドイツ人であるベック兄にとって日本語でメッセージするのは大変である。必ず原稿が必要である。ところがベック兄の日本語表現は大変洗練されていてこの日本語はどなたに習われたのかいつも疑問に思う一つだ。一説には今ドイツに行ってしまわれた日本人の方がベック兄からドイツ語を習い、その方が日本語をベック兄に教えられたと言うがそれ以上はわからない。

 しかしベック兄にとって来日当時日本語の聖書は文語訳と口語訳があり、それを軸にメッセージされたのであろうが、1970年に新改訳聖書が発行され、特に新改訳聖書を評価されたベック兄だから来日15、6年で今度は第三の聖書日本語訳を身につけねばならなかったから、その苦労は並大抵ではなかったと思う。今回『キリスト者の使命』の中の「実を結ぶ人生」のメッセージが明らかにその二つの聖書訳が混淆して語られていることに気づいた。大変苦労されたことが窺える箇所がいくつか見られる。多分1970年以前の口語訳でベック兄も最初のメッセージはつくられ、その聖句を覚えておられたのであろう。そのメッセージ中の「 」で示したことばはいずれも口語訳のそれであるからだ。

 日本人にとっても聖書訳が変わることは大変だと思うが、ドイツ人であるベック兄にとってはさらに大変だったことが想像される。でも淡々とメッセージはなされている。そのことを大仰に考えもせず言われもしなかったのであろう。ゆかしいベック兄の態度だ。水鳥はスイスイと川の中を泳いで行く。しかし言うまでもなく、隠れた水中では必死に水かきがなされているのだ。

 メッセージの中でベック兄は「イエス様は何事でも大仰に言われなかった」と語られている。ベック兄愛用のことばのようであるが、何人の日本人が今その表現を用いるであろうか。大仰とは言うまでもなく、「おおぎょう」と読み、大げさに言われなかったと言うことだ。それにくらべてブログ氏はどちらかと言えば大げさに物事を捉えもし言いもする方だ。ベック兄が残された遺産、それは何事も大仰に言われなかったイエス様の真実な生き方だ。それを学びたいと思った。くわしくは「ベックさんのメッセージ」http://2chronicles16-9.blogspot.jp/のサイトをご覧いただきたいが、その一部の文章を写しておく。

 「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」と書いてあります。主から離れては私たちは本当の意味で、信ずることも、祈ることも、愛することもできません。イエス様の判断によると「少しも」できません。イエス様は何事でも大仰に言われなかったのです。

この末尾の二行の言い方、何度読んでも味がある。大仰に言われないイエス様はここではっきり何もすることができませんと言っておられるというのですから。そしてこのメッセージの後半では、その力を体験したパウロのことばが引用されている。それはベック兄が経験したことでもあるのだ。何しろベック兄にとって、日本語は「メトシェラの老齢、ソロモンの英知、ヨブの忍耐」が必要だと教えられたそうですから。逆に言うとベック兄はそれらすべてを備えられていたということが見えて来る。

2016年8月10日水曜日

あなたは祝福が欲しいですか

故事伝え 船板塀の ゆかしさよ※

あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。(1コリント16:2) 

 文字どおりこの使徒の命令を実行する行為そのものが、あらゆる簡潔な服従と同じ祝福をもたらすようです。友よ、私はあなたがそのことを試されるように願います。あなたは自らの献身のこの部分について、主ご自身の日に甘い思いをもって思い起こすことでしょう。あなたは自身が小さな施しをするにあたって、すばらしい助けがあることを知るでしょうから。

 決まった収入は支出を導き、主が起こされる急用に対していつも何らかのものを確実に持っているでしょう。そうできないのでないか心配だとは言わないでください。献身の生活は何を恐れる必要があるでしょうか。

 私たちの中のある者はこの件に関して、私たちの記憶にある愛の黄金の手紙に書かれるような信仰の甘くして非凡な試練について話すことができるでしょう。もちろん他のすべてのことと同様に、このことにおいても私たちの信仰の試みがあることでしょう。しかし、信仰のあらゆる試練は主が忠実なお方かお方でないかの試金石に過ぎず、「火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊い(1ペテロ1:7)」のです。 

私たちの主とともに苦悩を受けるように召されている
主の競争を忍耐強く走るために
祝福を受け継ぐように召されている
聖さと恵みへと召されている
イエスとの交わりに とこしえに誠実なお方によって 召されている
主のとこしえなる栄光へと
御子の王国へと召されている 

 (今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/august-10-do-you-want-the-blessing/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97387です。

※「五社川」とは小学生のころ通い慣れた通学路に沿う小川だ。昨年、初めて「高宮氏」をルーツにする方と面識を得た。その方は遠く出羽の国山形に先祖がお住みだったが、さらにそのルーツは近江中山道の高宮宿の前身高宮城城主の流れを引くというから恐れ入る。何を隠そう、その方は今は長野に御住みだが、先日御代田のコンサートにわざわざ来てくださった。「高宮」が取り持つ縁だ。幼き頃何気なしに眺めていた小川に秘められた歴史を板塀はその高宮氏との関連を今日に伝えているが、果たしてキリスト者はそれに匹敵するものを持っているだろうか。2コリント3:3「あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。」)

2015年5月30日土曜日

「国家と宗教のあいだ」(吉本隆明講演集〈6〉)雑感

彦根城中堀に面する旧彦根高商講堂※

 以前、吉本隆明氏について書いたことがある。http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2012/03/blog-post_16.html その折りの講演記録が、今回出版された本の中に収録されているのを知った。早速、図書館に講読を申し込んで先頃手にすることができた。

 講演の題名は『「ナショナリズム」について』で、1965年11月30日がその講演日であった。あれから今日半世紀が経とうとしている。なし崩し的に進む、今日の暴力的とも言える政権側の安保法制に唯々諾々と従っているとしか見えない私ども日本国民の姿は一体どうしたことか。これが日本のアイデンティティー確立の唯一の正しい道なのだろうか、悲しくなってくる。

 50年前、学園に、「吉本氏現われる」のニュースは燎原の火のごとく広まって行った。弱小の地方の大学にどうして吉本隆明氏が来てくれるのだろうか、半信半疑であった私はそれでも興奮の面持ちでその講演会に臨んだ。再録された記録によると、まぎれもないその時の熱気が伝わってくる。冒頭と末尾のセリフだ。

「ただいま紹介のあった吉本です」

「現在でいえば、新憲法みたいな形で国家の幻想の共同性は法的に守られているのですが、これを越えてなにか知らないけれども世界の最高の段階に上昇せざるをえないという課題で共同性をむすぶのでなく、この上昇したところから再び大衆の原像にもどってくるところに課題を考えるのが僕らの立場です。(略)
 こういう考えは、戦争体験とか、さまざまの思考の径路が錯綜して、自分の中に形成されてきたのですが、しかし僕の考えているナショナリズムの基本的な問題は、そういうところにあるのであって、それが思想の問題であって、たんなる自然過程は思想の問題でないというのは、それは、啓蒙の問題で、カタライザーとしてどう媒介できるかにすぎないということで、本当の思想の問題はそんなところに存在しないということを申しあげれば私としては、皆さんにお伝えすることの具体的なことはすべて終わるわけです。
 これからは質疑とか討論の過程でもっとこまかいこと、もっと別のことについても話しあっていきたいと思います。せっかく来たんですからできるだけおつきあいして帰りたいと思います。これで・・・・。」

 このような吉本隆明氏の言明は、当時私たち左翼学生からは保守派論客としか見えていなかった江藤淳や福田恆存に対する新評価とあいまって新鮮な驚きとなって私は一挙にその思想の虜となっていった。たまたま5/26のブログ(https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2015/05/blog-post_26.html)で紹介したように、出身高校の恩師の卒業生にあててのことばやAFS留学生の外から見た日本のありかたを指摘した文章を読んで感じたのだが、いみじくもこの講演に裏から光を当てている感じがした。

 なぜなら、高校の恩師の言はある意味で知識人が大衆をリードすべき存在であるという視点に貫かれていた。しかし吉本氏はそのようなことはおぞましいと考えたのでないか。各人が生活の中で思想を持つのは極めて自然過程であって各人がそれぞれ自らどのように思想を構築するかその競いあいだと考えたのでないか。 AFS留学生の4名からなる座談会の見出しは「実践力に欠ける日本人 理論づくめでは駄目」とあった。きわめて具体的な提言である。もし吉本氏がこの高校新聞の記事を読むとすれば、どう言ったのだろうか。

 主イエス様に出会うまで、私は熱狂的な吉本シンパであった。その吉本氏の実像は後生の人々を通じて明らかになっていく。講演集の月報に三浦雅士氏が書き連ねていることもその一つかも知れない。

 結局、吉本氏も当然時代の子であって、新しい世代の代弁者であったのだ、と今にして思い知る。

しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。(ヘブル7・24〜26)

(※この講堂を沿って進み右側に位置した階段教室で半世紀前吉本氏は講演した。私の叔父はこの講堂に何度となく出入りしたことであろう。叔父も私もこの学園にお世話になったが、昨日叔父が亡くなったという知らせを聞いた。不覚にも叔父には余りこの学園のことを聞かず仕舞いであった。今となっては、生意気盛りで身の程知らずであった高校3年生の私に諄々と「衣食足りて礼節を知る」と経済学の効用を解き、諌めてくれた叔父がひとえに懐かしい。http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2015/04/blog-post_17.html)

2015年5月28日木曜日

キリスト教とその疑問(私の宗教迷論) 

表門橋に向かう中堀の沿道の松並木、「いろは松」通学路の一つであった

 前回、出身校彦根東高校新聞の64、65合併号(昭和34年〈1959年〉3月7日発行)に載っていた先生方の卒業生に贈ることばを載せさせていただいた。ところがこの合併号は56年後の今日読んでも大変読み応えのある記事が満載されていて驚かされる。同誌にはさらに四人のAFS留学生の紙上座談会なるものが掲載されていて、その中味は結構な日本文化批判になっているからだ。そしてそれに並行するかのように、同じ紙面に書かれている標題の署名記事があった。6段にわたるかなりな分量の記事である。以下、その一部を書き写してみる。

 「宗教」この言葉は我々にとって一種独得な異様なひびきをもっている。そして宗教、信仰には無関心、必要性認めずと頭からこれを否定する人また少なからずといったところか。
 私はここでいわゆる「宗教私論」なるものを述べようとは毛頭思わない。否私にはその資格もない。しかし以前からこの宗教に対しては一応の関心というか、ある未知に対する興味というものを少なからず持っていたところ、ある偶然の機会から更に一歩その関心の度合というものが高まった故をもっていろいろな方面から再確認してみた。
 宣教師として八年前来日され現在滋賀大学講師をしておられるジョン・マッソン氏(スコットランド人)に会見する機会が与えられたことは幸いであった。彼はいう。

「日本人は大変良い国民だ。しかし彼らはいわゆる物質的に成功さえすればそれで満足している。快楽、金というもので満足しているのが大多数の日本国民だ。しかし彼らは迷っている。精神的安定、ゆとりがない。それは信仰していないからだ。不信仰であることは決して救われない。神に立ち返るまでは救われない。私はすべての日本国民がクリスチャンになることを望んでいる」さらに彼の話は続く。
 「キリスト教を信仰してみて『ああよかった。何故もっと早く信仰しなかったのだろう』と誰もがきっと言います」

 「どうすれば信仰することができるのか」

 「聖書だ、聖書さえ読めばよい。聖書は”心のともしび”だ。聖書は”鏡”だ。読めば自分自身がよくわかる。実に力強い書物だ」と。更に彼は「聖書を信じることだ。 Seeing is believing といわれている。(しかし)Believing is seeing 聖書においてはこれだ。まず頭から信じ切って読んでみることだ。そうすれば自分自身がもっとよくわかるだろう」

 マッソン先生との会話の一端を紹介してみた。私は延々四時間余りにわたる彼との会話で大いなる影響を受けたことは事実だ。大いに動かされた。少なくとも今までとは違った目でキリスト教を再確認したとでもいおうか。そして「自分はキリスト教を信仰する必要がある」と思わざるを得なくなる立場におし迫られた。これは単なる”未知へのあこがれ”という言葉ですましてしまいたくない気持ちだ。

 「信仰して何になる。キリスト教を信仰しなくったって精神的安定は得られるではないか。いわゆるモラル道徳というものがある」ある人(あえて無神論者とは言わない)はこう言うだろう。確かにその通りである。

 思うに一つの定義を下すならば宗教を信仰するということは”死”というものがあらゆる根源になっているということである。人間は必ず死ぬ運命にある。我々(宗教を信仰していないもの)が思うことはこの”死”という一つの事実によってすべてが終るということであろう。「死んだらすべておしまいだ」ということだ。それ故我々は大いに死を恐れる。信者と不信者との考えの相違、宗教必要の是非論はこの観点から生ずるのではなかろうか。

 すなわちキリスト教では「死後の世界」を肯定している。この死後の世界がある証拠として、イエス・キリストの復活がある。神の子であるイエスが人間のためにゲッセマネにて、血の汗を流し十字架の上で処刑された。彼がそのまま死んだままだとしたらキリスト教というものが起こり得なかったかも知れない。しかしキリストは死後三日目に復活、すなわち人間の体として生き返った。これは彼が死に打ち勝った事ではないか。ところがこのイエスの復活を信じない人があるだろう。私もそうだった。しかし、彼の死を、そして復活を現に見た人たちによって聖書が書かれたのであるから、この復活は信ずるに値するのではなかろうか。

 こう述べて、論者はさらにパスカル、ルソーを援用しながら最後にある方の著書からの引用だと言って次のように締めくくる。

 神を対象にした「信じる」と言う言葉に反感をおぼえる人があるらしいがしかし、我々の日常生活において最もひんぱんに用いられている言葉の一つは「信じる」である。
A. たとえば我々はアウグストス皇帝が実際に存在したことを信じている。すなわちこういう歴史的実在をこの目で見なくとも信ずるに足る証拠があるからこそ「確実に納得する」のである。これと同様に母の料理には毒が入っていないと信じる。そういうことは想像さえもしない。信じるということには疑いをはさまぬ確実さがある。

B. 信じるという行為の対象は一つの真理であるから従って理性の行為である。すなわち「理性的な納得」である。理性の納得は広義に見れば二つに分けられる。一つは自明性に基づく納得であり、例えば四プラス四が八になるというようなことである。(もう一つは)例えば私のポケットに千円入っていると私が言ってあなたがそうだと思うなら、あなたは私の言葉を信じたことになる。しかしこの場合には理性で納得するより先に話す相手の権威と真実さとを調べることになる。冗談や嘘をつき慣れている人の言葉ならすぐに信じないだろう。結局信じるためには二つの要素がいる。一つの真理を認めることとその真理を言う人の権威にもとづくこと、この二つである。

C. これを宗教的な信仰に応用すれば次のようになる。
(1)啓示された真理
(2)この真理をあやまることもなく人をだますこともない神の権威に基づいて信じる。

 要するに宗教の信仰は神の権威にもとづく確実な納得である。(滝本)

 私は、今回帰省中に反古にしても同然の母校の新聞から、このような記事があるのを知った。署名を手がかりに私はこの方が一年先輩の当時二年生の方であり、その後、新聞記者になられ、最後は大学の外国語学部の学部長を務められた滝本道生さんであることを知った。残念ながらこの方は12年前に召されておりお会いすることがもはや叶わなくなった。高校時代、この記事については読んだ記憶が全然ない。それほど私は福音とは縁遠かった。その私が56年後、この滝本さんの記事に深い感銘を覚えさせら、拝読させていただいている。

あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に。(伝道者12・1〜2)

2015年5月26日火曜日

ヨカ、ヨカ、零点たっちゃ飯は喰わるる

彦根東高校新聞(64、65合併号 71号)

   それは私の中学三年の時のことでした。定期試験で数学の先生からクラス一同、みんなひどい点数をもらって愕然と色を失い、生徒控え所である雨天体操場で、そのことについて皆でワイワイ話し合っていました。丁度日華事変の始まった頃で、雨天体操場の真中からむこう側半分には、近日中に中国の野戦に出かける兵士が沢山泊っていました。彼らは出動するまでのひとときを半ば持て余し気味に、小銃の手入れをしたり、外套を背のうに結びつけてみたり、身の廻りの品を整とんしたりしていましたが、私達はその横で兵士たちには全然無関係なこと、即ち何故あの先生はあんなひどい点をくれたのだろう。あの先生が怒ると数学だけで遠慮なく落第させるそうだなどと心配そうに話し合っていたのでした。

    その時突然、その兵士の中の一人のおっさんが私たち中学生に向かって大きい声でこうさけびました。「ヨカ、ヨカ、零点たっちゃ飯は喰わるる!」その兵士は召集される前におそらく百姓でもしていたのでしょう。陽に焼けた真っ黒な顔をほころばせながら私達にこういう意味のことを叫んだのです。いいじゃないか。学科が零点でも人間は御飯が喰えるんだ。その声が余り大きかったので今までざわついていた広い雨天体操場が一瞬急に静かになりましたが、それはすぐに兵士たちの大きな爆笑にかわりました。私達中学生もその爆笑につりこまれて思わず一緒に笑い出しました。みんな心の中で何かほっとしたような気になって。

    それから十年たちました。敗戦後のその頃、私はソ連の捕虜として将校待遇の特権も取り上げられ、連日激しい肉体労働におわれていました。きびしいノルマにおわれて穴を掘り、石を割り、小麦粉の袋をかつがされました。みるみる身体は衰弱しやがて栄養失調になり、手足はやせ細りましたが顔はうっとうしい位大きくはれました。弱り切った一人の捕虜に毎日の肉体労働は余りにも重荷でした。今日一日仕事ができるだろうか。明日は本当に倒れてしまうのではないだろうか。私はとうとう人生のギリギリの瀬戸際に追い込まれたのでした。

    人間は肉体が衰弱すると頭脳の働きも鈍って意識がもうろうとなってくるものです。こうなりますと一人の捕虜が持っている学歴とか教養とか知性というものは如何にも無力なものでした。一時あれほど流れた汗も今は全く出なくなりました。私は鼻汁をたらしハアハアと荒い呼吸をしながらノロノロと毎日身体を動かしていました。あらゆる虚飾を削りおとされて今、私は一人の単純な肉体労働をする捕虜になりました。そしてこの弱り切った捕虜がそういう混濁した意識の中ではっきり聴いたのはあの「ヨカ、ヨカ、零点たっちゃ飯は喰わるる」という叫びでした。俺はやっとあの叫び声の意味が分かったような気がする。しかし、俺はもう死ぬかも知れん、私はそう思いました。

    それからもう十年たって、卒業していくあなたがたにこの文章を書いています。あなた方の大部分は将来頭脳を使う職業につくだろうと思います。これは大切な職業です。しかしそうであるが故にこれだけの事をあなたがたに言いたいのです。

一、こんな悲惨な体験はしなくても宜しいが、厳密な意味での労働を味わわないで人生の全部は分からないのじゃないか。

二、あなた方は何らかの意味で社会の指導者になってもらう人たちだと思います。そうでなくても中堅分子になってもらう人たちです。その場合「ヨカ、ヨカ、零点たっちゃ飯は喰わるる」と叫ぶ事のできるいわゆる大衆を自分は将来指導する立場にたつかも知れない或いはそういう大衆とつきあってゆくのだという謙虚な気持ちを忘れないでほしいということです。

(帰省中、高校時代の新聞を引き出して眺めていた。その中で、一年の三学期の1959年の3月7日に発行された64、65合併号に掲載されていた21人の教師団が卒業生に贈る言葉の中にあったある先生の文章にまず着目させられた。上記の文章がそれである。恐らくご自身の戦争体験とそれらを突き抜けるかのような一兵士の何気ない言葉に闊達さを発見し、労働する者の強みを通して、何が人間にとって大切かを考えさせようとなさったのでないだろうか。肝心の最後の提言は大変なエリート意識があふれていて辟易させられるが、高校進学率が50%台、大学進学率が10%台という背景があると思う。私はこの先生に「一般社会」という科目を教わった。内容がつかめず苦労した科目でつねに60点そこそこの成績だったように記憶する。後年、私も教師になり「現代社会」という科目を通して高校生諸君とともに社会のあり方を考えるなんて当時は想像もしなかった。

「時宜にかなって語られることばは、銀の彫り物にはめられた金のりんごのようだ。」箴言25・11 

 次に、もう一つ気づかされたことがあった。それは21人の教師団が贈られることばの最初の先生のそれは逆に最も短く「人はパンだけに生きるにあらず」マタイ伝とあったからである。久しく私はこのことばをどのようにして知ったのかがわからなかったのだが、この新聞の先生の言葉を通して知るようになったのでないかと思った。けれども、このことばは確かに聖書のことばにはちがいないが、その半面しかあらわしていない。語られる先生にはその信仰がなかったからであろう。だからその同じ新聞紙面に上のような「キリスト教」と題する生徒の投稿が載せてあるのは大変な編集の妙だと一人感心した。そして、その生徒が展開するのは上記の先生の人生観をも凌駕するかのような論評であるからである。明日はそれを紹介しよう。)

2014年10月16日木曜日

家庭集会前夜の「夢」

昨日の引用聖句 2コリント13・11(文語訳)
夢の話とはもともとたわいない話にちがいない。そんな話につき合っていただくのは誠に申しわけないが、教会とはどんなところかを考えるのにはいい材料になるのではないかと思い、敢えて書いてみることにする。

家庭集会当日(10/15)の朝であるが、明け方、変な夢を見た。何か教会の会議らしいが、私は副議長のような形で参加している。だのに私が発言する。隣には牧師がいるようだ。恐らく彼が議長なのではないだろうか。しかし私の発言は教会を批判する内容だったように思う。それをにこやかに聞いているというのも不思議なのだが、その牧師が私の発言を怒っていなかったのは確かだ。

ところが、その私の発言に勢いを得たのか、会場にいる二人の男性の方がやはり教会を批判する発言をする。会場内にも同調の様子がうかがえる。その瞬間、私は自分は教会員でないのに、厚かましくもその場に連なって発言していることの矛盾に気づき、隠れるようにこそこそ、その場から姿を消す。ところが、私によくぞ言ってくれたとばかり二人の女性が後をついて来た。私はその女性たちに、「実は自分があの場を退席したのは、教会員でないのに発言していたことに気づいたからである」と言った。女性たちは驚くと同時に、それでは私たちとは関係ないと言わんばかりに、私から離れ去って行った。私は一人ぼっちになった。そこで目が覚めた。

余りにも突拍子もない夢に違いないが、牧師は当然のこと二人の男性も二人の女性も私がはっきり名指しできるいずれも、20数年前で一緒に集っていた教会員の方々だった。しかもその内の男性のお一人の方は昨年か一昨年か先に天に召された方である。目ざめた私は床の中で、今しがた見た夢を考えるともなく考えた。教会には信仰12か条というのがあったっけ、その8条、9条にそれぞれ真の教会と地方教会の説明があったなあー。目に見えない教会が真の教会で、目に見える教会が地方教会であるというのがその眼目であったぞ、と。

以下はその夢から目ざめて引き出した私の「教会」に関する結論である。聖書にはイエス様を信ずる者はキリストのからだである教会の一人一人であり、その教会には人間がこしらえた会員制度が入る余地はない。それをいつの間にか牧師制度(すなわち一種の階層制度)が成立してこのような会員制度を土台として教会理論が形成されたのである。私が夢の中で自分は教会員でないからと自覚してその場を離れた行為は、そもそも主イエス様の導かれる教会とは何らの関係ない行動だった。神の前に行動するとはそのような人間の思惑を越えたものであるはずだからである。とすると、制度教会が、主の囲い場である信徒の群れに勝手に縄を張ってイエス様ならぬ、人が支配するために編み出されたのがあの教会理論であったのではなかったのかと合点したのである。

久しぶりに多くの人が来られる、冬瓜も!
でも、そもそもこんな複雑な夢を見たのは何故なのかわからなかった。しかし、その内ハッと思い当たることがあった。実はお世話になったかつての職場の先輩の奥様が77歳で亡くなられた。日曜日その方から受けた電話で知った。先輩とは40年ぶりにお電話で話すことになったが、その話が奥様の逝去であっただけに余計驚かされた。奥様は私に初めて分厚い聖書を貸して下さり、教会に連れて行って下さった方であった。カトリックの信仰を持っておられたが、その当時先輩は信仰を持っておられなかった。ところが何年か前、先輩もとうとう奥様と同じ信仰を持たれたと風の便りに聞いていた。(http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2011/10/blog-post_20.html)

遠いが、お世話になった方なので、思い切って月曜日台風19号接近の悪天候のなか、お通夜に出かけた。会葬者は大変多く、立ったままの参列になった。オルガンの前奏があり何曲か賛美歌が演奏された。その中で故人の略歴が紹介され、スライドを通して奥様の生前の様々なボランテア活動が次々と紹介されて、ご主人である先輩のご挨拶があった。妻の一生は「上を見ては天に恥じず、下を見ては地に恥じず」であり、いつでも家庭は憩いの場であったと言われた。私も独身時代にご自宅への招待を受け、食事をともにさせていただいた思い出がたくさんあり、ご主人の言われる通りに、まことに謙虚な方であり、人に仕える方だと思い、ああこれがキリスト者なのかと思ったことがある。ご挨拶のあと、ご家族親族を先頭に会葬者により延々と焼香があった。お坊さんはいず、もちろん読経もなかった。かといって、カトリックの葬儀でもなかった。

お通夜の後、その方に弔問の意をあらわしながら、その辺の事情を聞くともなく聞いてみたら、「カトリックは階層があるから、脱会したのだ」と言われ、階層があると判断した理由として「司祭、助祭、神父やそれぞれに応じて祈りの言葉があってちがうのだ、(けしからん)」という意味のことを言われ、私を意識してか、プロテスタントの方がいいと言われた。私は「いや、私はカトリックでもありません、プロテスタントでもありません、無宗教です」と申し上げたところ、その方も「俺も無宗教だ(だから、坊さんにも頼まなかった、神父にも頼まなかった )」と言われた(ただ、そう言いながら焼香の場は残された、皆さんの弔意を受けるスタイルに気を遣われたのであろう、私自身は理由を言って焼香は遠慮させていただいたが・・・)。随分お世話になった方でこの方の方に足を向けては寝られない間柄だったが、いつの間にか40数年の年月を経て言葉上の一致を見た。

私が見た夢はひょっとするとこのような経験が深層心理にしまいこまれていて、一気に家庭集会を前に奔出したものではないかと思う。夢とはまか不思議なものである。それはともかく、今後一人になられた先輩に主イエス様を信ずる者はそれだけで無条件にキリストのからだとしての教会に加えられているのだという聖書の示す真理をともに味わい、心ゆくまで語り合いたいと、今思わされている。

あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。(エペソ2・20〜22)

2013年1月28日月曜日

100年のロマンに想う

2007.1.18 撮影
今朝の東京新聞朝刊に「JR日光駅 100年のロマン」と題する記事が一面に載った。記事によると、この建物は1912年(大正元年)にそれ以前の駅舎を大改造して木造二階建ての洋風の駅舎として生まれ変わり100年後の今日に至るということだが、これまでその設計者は不明だったそうだ。ところが昨年の11月にひょんな機会に郷土史家の手によりその建築家が明らかになったという記事だった。

6年前の1月、親戚の葬儀に出席するため、日光駅に降り立ち、記念に撮っておいた写真を早速引っ張り出してみた。人っ子ひとりいない殺風景な写真は私にとってお蔵入りになるはずであったのだが・・・。けれども振り返って見ると、この駅は決して馴染みのない駅ではない。5、60年前中学校の修学旅行で日光に初めて降りたのは多分この駅だ。改札口には関東では唯一の親戚に当たるおじさんおばさんが出迎えに来てくださっていた。同級生の手前、晴れがましくもあり、恥ずかしくもあったが、一行と別れ、そのおじさんおばさんに家まで連れられて行った道中の何とも言えないぬくもりを昨日のことのように覚えている。

それだけではない。これと言って何の取り柄もなかった私が糊口を教職に求めたのも元はと言えば、この親戚の家のご養子さんの口聞きがあったからである。しかも当時は今日ほど教師に対する世間の目は厳しくなかった。ましてや退職金の減額騒ぎだの、体罰云々、いじめの横行とか何やかやと問題になる現行の世相とは隔世の感があった。日々厳しくなって行く世相の中で、古から続く建築物の謎の設計者が明らかになったと新聞が報ずるのも故なしとはしない。現在を断ずるに、過去を懐かしみ、未来に希望を見出すのはどうすることもできない人間の性(さが)であろう。

ところで謎の設計者とは明石虎雄氏で鉄道院に所属し、設計に携わったのは20代で、「完成から数年後、工務店を営む父親を助けるため退職して故郷の愛媛県へ戻った。その後、病に倒れ、30代で他界した」とあった。歴史の中に埋もれてしまいかねない人物を見出したというロマンである。もともと大正時代の雰囲気を今に伝える遺産で、私がもう一つの駅である東武の駅からわざわざJRのこの駅にまで足を伸ばして撮影しようとしたのもその記憶があったからである。知らずして撮影していた年(2007年)に近代化産業遺産の認定を受けたとも書いてあった。

話は変わるが、いのちとは何だろうか。「神は魚と鳥を創造されました(創世記1章21節)。水そのものが魚を生み出すことは不可能です。同じように地が鳥を生み出すことも不可能です。魚と鳥は神によって創造されて、水と地上に置かれました。両方ともいのちを持っています(21節)。それらはいのちの形において異なるだけです。・・・魚や鳥の外側の形はそれぞれ異なっていますが、内側のいのちの原則は同じです。水に住む魚は水の「中に」いのちがあることを示します。地の鳥は「地上に」いのちがあることを示します。もともと水も地も死んでおり、そこにはいのちはありませんでした。しかし、形こそ異なっていますが、神は多くの生き物を創造して、そこに置かれました。これは非常にはっきりしています。」(『創世記を黙想する』ウオッチマン・ニー著99〜100頁)

私たちは人がいのちあるものとして、しかも神の似姿として創造されているがゆえに、このような駅舎というひとりの人による造型物にも心をひかれるのであろう。明石さんの1912年の設計意思が形あるものとして今も実在するところに100年のロマンを感ずるゆえんがある。

しかし、そもそも人は創造主自身の作品である。この作品である人のいのちは、神さまという創造主ご自身に心が向いていて始めて生ける神様との交流ができ、いのちの喜びを味わうことができる。しかし、罪がそれを不可能にしている。その私たちを救うために主イエス・キリストは地上に人となり、十字架にかかられた。人類誕生以来、この神さまの愛の呼びかけは変わることがない。100年のロマンを凌駕する圧倒的な真実がここにある。主イエス様を信ずる生活こそ過去の克服、未来への真の希望を与える建設的でかつ現実的な今の生き方でないだろうか。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(新約聖書 ヨハネ3・16)

2012年10月1日月曜日

鑑三の日記

今日の浅間山 御代田・追分間 車窓より
9月1日(土) 雨
正午少し前に強震を感じた。浅間山噴火の前兆にあらずやと思うて驚いた。しかるに少しもその様子なく、あるいは東京方面の激震にあらずやと思い心配した。夜半にいたり予想どおりなることを知らされて驚いた。東南の空遥かに火焔の揚がるを見た。東京に在る妻子家族の身の上を思い、心配に堪えなかった。夜中幾回となく祈った。そして祈った後に大いなる平安を感じ、黎明まで安眠した。

  2日(日) 晴
危険を冒しても東京に帰ることに決心した。羽仁元吉、石原兵永の二君とともに午前10時10分の汽車にて軽井沢を発し、午後4時荒川鉄橋近き川口町駅に下車した。それより病める足を引きづりながら夜10時柏木の家に達した。家屋に比較的軽少の損害ありし外に、家族、同居人、召使いの者の髪一本も害われざるを見て感謝の涙を禁じ得なかった。強震来襲の恐れ未だ絶えず、家族とともに露営した。離れて彼らの身の上を案ずるよりも、彼らとともに危険の地に在るの、いかばかり幸いなるかを覚えた。

  3日(月) 雨
震動やまず。食物わずかに三日分を残すのみ、その供給に苦心した。近隣相助けて相互の慰安と安全とを計った。放火のおそれありとて各家警衛の任にあたった。

  4日(火) 晴
震動昨夜来三四回感じたのみであった。比較的に静かなる日であった。大手町衛生会講堂の焼失を確かめて悲しかった。我が愛する大ピヤノと大オルガンとは同時に灰に化したのである。我が満四年間の霊的戦闘の行われしアリーナ(闘技場)であった。今は過去の歴史として残るのみである。鳴呼(ああ)我が懐かしき衛生会講堂よ。

  5日(水) 晴
呆然としている。恐ろしき話をたくさんに聞かせらる。東京は一日にして、日本国の首府たるの栄誉を奪われたのである。天使が剣を提げて裁判(さばき)を全市の上に行うたように感ずる。しかしこれは恵みの裁判(さばき)であると信ずる。東京は今より宗教道徳の中心となって全国を支配するであろう。東京が潰れたのではない。「芸術と恋愛と」の東京が潰れたのである。我らの説教をもってしては到底行うこと能わざる大改造を、神は地震と火とをもって行ない給うたのである。「その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」とあるその日が来たのである(2ペテロ3・12、13)。玄関の入り口に次のごとく張り出した。

今は悲惨を語るべき時ではありません。希望を語るべき時であります。夜はすでに過ぎて光が臨んだのであります。皆様光に向かってお進みなさい。殺さんための打撃ではありません、救わんための名医の施した手術であります。感謝してこれを受けて、健康にお進みなさい。

我が民の罪悪を責むるの時は既に過ぎた。今より後はイザヤ書40章以下の預言者となり、彼らを慰め、彼らの蒙りし傷を癒さねばならない。「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」と。

(『聖書の研究』第279号1923年10月10日発行より引用。この当時、内村はかつての愛弟子有島武郎の情死を体験している。本文中の「芸術と恋愛と」の東京と彼が書いているのはそのことが背景になっている。震災の時、川口から上野までは列車また不通であったのだろう。徒歩で実に6時間かけて柏木に帰っていることが分かる)