1967年までの我が学び舎 |
新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。(詩篇96・1)
加藤登紀子さんの東京新聞夕刊連載の『この道ーーあなたに捧げる歌ーー』は先週の土曜日で37回を数えた。全く縁遠いとばかり思っていた加藤さんの歩みはやはり同世代ということもあろう。共通点が随分あることに日々驚かされる。
一番ギクリとしたのは、第27回目の「平戸への旅」の次の文章であった。彼女が生涯をともにする藤本敏夫氏の次のことばであった。「人間は地球の居候だ。地球に土下座して謝らなければならない」という言葉。加藤氏によると、それはそれまで「学生運動のリーダーとして、街頭行動を引っ張って来た彼が、その後の農業を軸にした環境活動家になるまでの新しい道に踏み出す糸口を見つけた。」ことであるらしい。
この思い切りの良さが1969年の藤本氏の言であることに限りない共鳴を覚える。私もまた、同年当時下宿していた畑の一隅に膝を屈して自らの神様に対する非を衷心から詫びたからである。藤本氏ほど学生運動に身を入れた者ではないが、この時を境に自身の神なしとする自己中心のそれまでの生き方の転機を経験した。
次に目を見張ったのが、第31回目の「酒は大関」である。確かに彼女がそういうふうに呼ばわっていたのをかすかに記憶している。ところで何が類似しているかと言うと、大学を卒業して田舎の教師として赴任することになった高校の最寄駅はその名も「山前」であったが、その山の頂上近くには「酒は大七」と宣伝よろしく大看板がかかげてあり、どこからでも見通せ、遠くから高校の敷地を否が応でも知ることの大きな目印となっていた。まあ、つまらぬことではあるが・・・
最後に知らされたのは、第37回目の「花ひらく30歳」であった。これには思わず苦笑せざるを得なかった。冒頭次のように書かれていた。「藤本敏夫との獄中書簡は、全部で141通。1972年5月から74年9月まで約二年半の記録が残った。」もちろん、このご夫妻の必死の往復書簡は決して笑い事で済ませる問題ではない。夫が獄におり、初めての赤ちゃんを抱かせたくても抱かせられない、その苦しみ、悲しみの最中にある書簡であるからである。
苦笑いと言ってしまったのは、私たちもまた1967年4月から1970年3月まで往復書簡を交さざるを得なかった。事情は異なるが、それだけ互いに書簡に真情をあふれさせずにはおれなかったからである。
このように37回にわたる彼女の追憶を読ませていただくときに、彼女がいかに泣く人であるかを知り驚いた。彼女の愛がそれだけ強いからであろう。歌手は小手先のことばで生きるのでなく、全身全霊を込めて存在する。遠くの存在であった加藤登紀子という有名人がこうして私たちと同じように悩み苦しむ人であることは当然といえば当然であるが、日々共感しながら読ませていただいている。
ウオッチマン・ニーのことばを少し記しておく。
「一つの不思議なことがあります。聖書を読むことのできる人はすべて、話を聞くことが非常に速いことです。一度、話すとすぐわかります。あなたがどのように話しても、彼はどのようにでも了解します。主観的でない人は、話を聞くことができ、聖書を読むこともできます。これに反して、多くの人はあなたが一度話しますが、彼には印象がありません。あなたは彼に二度話します。しかし依然として何の印象もありません。これは彼の頭の中のものが非常に多く、思想も多く、意見も多く、主張も多いためです。あなたは彼に一度話し、二度話します。彼は聞いても少しの進歩もありません。わたしたちがもし、自分が主観的な人間であるかどうかを試そうとするのであれば、ただ他の人の話がわかるかどうかを見ればよいのです。人が何気なく言う事を、自分は理解できますか? わたしたちが地上で生きている限られた年数を考えるなら、もし主観的であるとしたら、わたしたちの時間はどれだけの損失を被るかわかりません。客観的な人が聖書を一度読むほうが、主観的な人が十度読むより勝っています。」(『聖書を読む道』ウオッチマン・ニー著42頁の「主観的であってはならない」に関する項目の抜粋引用)
私の加藤登紀子さんの文章の読み取りは主観的な読み取りで、悪い例でないかと思う。たとえば、加藤氏が獄中書簡で伝えたいものは、私の共鳴ぶりではなく、むしろマタイ11・3や使徒16・25に近づけて読む方がより客観的な読み方と言えるのではなかろうか。そんなことも考えさせられた!
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