2019年5月14日火曜日
お登紀さん
若い男よ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。(伝道者の書11・9)
東京新聞夕刊に、加藤登紀子さんが、「この道 あなたに捧げる歌」と題して連載している。私は彼女の存在を知らないでいたわけではないが、これまで知ろうとはしていなかった。遠くの存在、私とは次元の違う世界に生きている人との思いが強かった。
しかし、出発点からしてほぼ同期であり、それゆえ共感を覚える記述も多く、この人は私よりはるかに密度の濃い人生を送ってきたのだなあーという思いにさせられた。と同時に、なぜ自分も彼女のように真剣に生きてこなかったのかな、という悔恨の思いをしばしば抱かされる。
そのような記述の中で、第26回(5月13日)”ひとり寝の子守唄”と題して次のような文章があった。
前年の11月7日から巣鴨の東京拘置所に拘留されていた藤本敏夫に、私は、出来る限り面会に行っていた。拘置所は、一日に一人の面会と差し入れ屋からの弁当や衣服、書籍の差し入れが許された。
暖房のない独房の寒さに耐えられるよう、セーターやマフラー、そして毎回、山ほどの書籍を運んだ。
三月十二日、東京が麻痺するほどの大雪が降った日。
私は藤本から届いたハガキを見ていた。
「朝起きてトイレの蓋を開けると、よくネズミが顔を出す。いうなれば、そのネズミ君が僕の親友だ」
その文面から、ふっと歌が浮かんだ。
「ひとり寝の子守唄』
これこそ自分のための歌、と言ってもいいかな、と嬉しかった。
三月十二日、加藤登紀子さんの三月十二日があった。私にとって忘れられない日がこの日であることはこのブログでも前々回書いたとおりである。こうして彼女の人生と私の人生に大きな接点があることに今更ながら気づかされた。そう言えば、彼女は第24回(5月10日)”悲しき天使”で1968年の8月20日のプラハでソ連軍が侵入した事件の前後の、彼女自身と藤本氏の関係・動向を書いていた。
その時、私は東京の本郷だったと記憶するが、40日間ほど当時受講していた中央大学の通信教育のためのスクリーングのため下宿生活を送っていた。それは自らを律するために法律を学びたいと思っていたからである。しかし、現にすでに大学を卒業して教師稼業を身につけている自分にとってはどうしても単位を取得しなければならないという切羽詰まった思いはなかった。
同宿の通信教育学生には県庁の役人や九州の新聞記者がいた。彼らは大学卒業の肩書きが必要だった。ところが、人は安きにつくと言うか、昼間は一応大教室に行って、様々な科目を履修するが、夜は社会勉強と称しては、4、5人で飲み屋や公園に繰り出したりして勉強そっちのけであったのがその実態であった。
互いに田舎から東京に出て来てその刺激に酔いしいれていた。まさにデカダンスそのものであった。その夏も終わろうとするときのプラハに対するソ連軍戦車の侵攻の出来事であった。「自由は鳴りやまず」と意気軒高のまま職場に戻ったように記憶する。しかし、それは同時に生けるまことの神の存在を知らぬまま、天に唾する生活の日々であったように思う。こんなことを加藤登紀子さんのこの連載ものをとおして思わず振り返らされている。
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