ラベル ルビー婚の旅の日々 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ルビー婚の旅の日々 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年4月26日土曜日

斯くて「この日」は去れり

 これはまた何と素晴らしい花であろうことよ。昨日、病院の玄関先で家内が指し示した花だ。調べてみると「ヒトツバタゴ」とあり、モクセイ科とあった。改めて今朝写真を取り出して眺めてみた。今日の日にふさわしいと思った。

 毎朝、食事のたびに私は「今日は何日、何曜日」と言うことにしている。そして『日々の光』という聖書のみことばを朗読し、お祈りする。今日はその言で行くと「4月26日」である。そう言った途端、家内が「26日?結婚記念日じゃない!」と言った。

 ここ数年家内の方からこの日に気づくことが少なくなっていた。ところが今朝はなぜかこのような会話になった。感謝なことだ。改めてこの花を見つめてみると、純白のウエディングドレスに身を包んでいた家内を思い出す。よくぞ55年の結婚生活に耐えて今日にまで至ったか感謝に堪えない。

 昨日は主にある友から『山路こえて』と題する歌集を贈っていただいた。千数百首から構成されていた。その歌を家内に読み聞かせた。四季折々の花々が巧みに詠み込まれている。その友とは10年近く親交があった。様々な事情があり、ここ数年交わりを閉ざしてしまった。

 そんな私に友は屈せず便りを寄越してくださっていた。この数日その友に一言私の気持ちをお伝えしたいと思っていた。以心伝心と言うべきか、昨日この400頁近い歌集が送られて来た。急いで読み出した。そのうちに、読み方が分からず、声に出して読まずにおれなくなった。不思議なことに声に出して読んでみるとリズミカルに文意をとらえることができた。何より友の肉声に接する思いがした。

 さらに驚いたのは家内が作者が詠み込んでおられる様々な花々に大変な関心を示して耳を傾けたことだった。いや、花に疎い私の方で家内にそれぞれの花の名前を挙げ、説明してもらう、そして再び歌に戻り、さらにその歌をしみじみと味わう余徳に預かることができた。

 まだ全部読んだわけでないので、その作歌の感想を述べられないが、折角だから、この日の記念に二、三彼の歌を紹介する。

卯月の晦日(つごもり)にして奥美濃は青葉に絡む藤の花房

竹叢(たかむら)の葉陰に咲ける山吹の花ひそやかに季(とき)は移らふ

「行く春の」芭蕉の句など思ひつつ美濃の山路を過ぎ行きにけり

 最後の歌は端なくも、前回の我がブログにそっと書き加えた芭蕉の句が引用の形で詠まれていた。不思議なことだ。

 一方、ここ2、3年お会いすることのなかった家内の50年来の親しい方が久しぶりに訪ねて来られた。85歳になられると言う。その方との屈託のない会話に終始している家内の自然な姿に接し、友の作歌を私の朗読に合わせてともに味わった姿と重ね合わせ、静かな喜びを味わうことができた。

 最後に今朝の『日々の光』の冒頭にあった聖句を紹介しておこう。これこそ主が気づかせてくださった、主が仲立ちとなって私たち夫婦を常に導いてくださる大きな愛の表出だ!

あの方(=主イエス・キリストのこと)の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださる。(旧約聖書 雅歌2章6節)

2024年2月1日木曜日

協力者・継承者であるJ.Danson Smith

茶梅に 如月の日は 射し出ずる
 昨日に続き、McCall Barbourの書店について記されたパンフレットの訳であるが、誤訳もあると思う。読者諸氏の賢明なご指摘をお願いしたい。明日にはなぜこれを載せたか詳細を報告したい。

The Ministry(宣教活動)

 マッコール・バーバー氏が、1943年(※1)召された時、同氏の親友で協力者であったJ.ダンソン・スミス氏は宣教に変化が生じていることに気づいた。年を経ることはるか以前に、彼は、主に従い、その後についていくために、工学分野の世界で高い地位につくことを諦めた。彼はマッコール・バーバー氏と緊密に働いて、宣教活動の出版面を伸ばした。マッコール・バーバー氏は出版面から離れ、説教や著述が自由にできた。何百という小冊子やリーフレット、みことばカードが発行され、毎年、千人のうちの十分の一、つまり百人に達するまでになった。主はダンソン・スミス氏に特別な賜物を与えられた。それは美しい詩を書くという賜物(※2)で、これらの何百というたくさんの詩がカードの形で出版された。今日彼の聖句は企業によって発行されるグリーティング・カードのほとんどに使用されている。その神が与えられた賜物は引き続いて数千の人々を魅了し楽しませている。

 第二次大戦や神のしもべが召されたことにより集会が中断された。紙はほとんどなく、制限され、多くの問題があるにもかかわらず、主はダンソン・スミス氏が宣教活動を続け、さらにいっそう発展できるようにとされた。年月の経過とともに、結果的には、ダンソン・スミス氏の息子と娘がその働きに召された。五歳で救われ、主によってみことばを取り継ぐように召された息子は文字通り主によって宣教へと「押し出された」。そして彼の妹もかなり幼い歳で主を信じたが、後に続いた。ダンソン・スミス氏が天国に凱旋したあとは、未亡人となった夫人も後に、仕事に参加し、彼らは宣教団の完全なリーダーシップを取った。

 高い郵便料金の出現とともにたくさんの小売商は消滅した。しかし、この時までに多くの聖書販売店から健全な文学に対する需要が増え始めてきた。今ではさらに若い人のリーダーシップがこれを伸ばし始めている。彼らはまた箴言や著名なアメリカの出版業の創設者であった故F・J・ゾンダーバンの助言によって勇気づけられた。今日宣教団は大きく成長し、B.・マッコール バーバー商会は6つのイギリス商会に対する卸売商として活動する以外に、17のアメリカの商会の代理店である。もちろん、自社の本や、グリーティング・カードや贈り物そのほかのものも発行し続けている。最上の販売品はキング・ジェームズ版の聖書だ。そしてこの本に対する需要は(唯一の正確な信用できる翻訳とともに)絶えず伸びている(※3)。

 宣教活動の増大する分野は、直接的には店内にしろ電話越しにしろ人々に対することである。少なからざる人々は救い主を信頼し、今も救いを喜んでいる。主の愛する人々の多くはこれまで励まされてきた。ところが、今日、多くの人は、かなり多くの礼拝場所において、背信とdeclensionのゆえに、交わりが小さいかほとんどない状態である。こういう人々に対する宣教は喜びであり、特権である。

 T・C・ダンソン・スミス博士は、週末には福音を宣べ伝えるために全英各地に出かけている。彼とG・A・ダンソン・スミス嬢および同労者は主にある人々の祈りを大切にしている。日毎にチームとして、私たちは主のあらゆる真実さのゆえに、主に対する感謝と賛美をささげている。同時に、私たちは宣教団を覚えて祈りにおいて支えてくださっているすべての人のために主に感謝している。神に栄光あれ!

 今日、宣教は決して妥協することなく主のメッセージをし続けている。そのことはいつまでも同じだ。救いは悔い改めと主イエス・キリストの血潮による尊いきよめに対する信仰だけである。主イエスだけが唯一の救い主である。主はまもなく再び来られる!

※1 全く、個人的なことだが、1943年は私が生まれた年である。この年にマッコール・バーバー氏は召されたのだ。
※2 この賜物こそ、今回私が明らかにしようとしていることだ。明日、詳述する。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/10/blog-post_16.html
※3 ベック兄は聖書は売るべきでないと考え、それを実践した。

御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。(新約聖書 黙示録22章17節)

2024年1月31日水曜日

McCall Barbour氏の生涯

 14年前にスコットランド・エジンバラの書店で一組のパンフレットを手渡された(※1)。必要あって今回翻訳してみた。タイムリーな文章であると思う。詳細は、のちに説明する。とりあえずそのパンフレットを今日と明日に分けて掲載する。先ずは前半部分の書店主McCall Barbour氏について述べた文章である。(原文はhttps://mccallbarbour.co.uk/about/ を参照されたし)

人となり

 ベンジャミン・マッコール・バーバーは1865年エジンバラの貧しい家庭に生まれた。今日、若い頃の彼の生活はほとんど知られていない。けれども1890年までにエジンバラの目抜通りの一つに、成功せる高級な文房具店を経営していた。

 その当時は電話はなかった。だからコミュニケーションは主に手紙や電報であった。仕事の上でも人々は急を要する答えが欲しかったので、何百人もの電報配達夫が雇われていた。彼らは街中を自転車で配達しまわった。当時は1日に六回郵便配達があった。それでコミュニケーションは取れ、十分だった。非常に熱心なクリスチャンだったマッコール・バーバーは電報配達夫である少年たちに大変な重荷を覚えていて、彼らが仕事の空いた時間にやって来ては、ゲームで遊ぶことが出来るように、地下に遊技場兼ミッションホールを開いた。彼は遊戯や遊びの外では直裁な福音メッセージを話した。それでたくさんの若者たちが主に導かれた。彼の宣教活動は電報配達夫に限られていなかった。彼はすぐに若者たちのすぐれた指導者となった。彼の信仰に満ちた説教は常に最も有効であった。

 その頃、宣教活動にとって、中国における主の働きにとっての恐ろしい事柄が起こり始めていた(※2)。そうした時、マッコール・バーバー氏はこの件についての一組のスライドを獲得して、礼拝の行われるいろんなところで語り始め、人々が神の召しを受けて宣教地に出て行くように祈ることを促すようになった。1895年主は彼に仰った。「あなたが行きなさい」それで彼は仕事を手放し、ささげたお金でもって献身し、七名の青年とともに訓練を受けにアメリカにある聖書カレッジに出かけた。半年経って、マッコール・バーバーに行くように召された主はエジンバラに戻るように話された。彼は答えた。「主よ、今私には仕事がありません、お金もありません」しかし、主は彼に先のことは主に信頼しなさいと話された。彼は従った。そして、残りの48年間の生涯、目に見える支援は受けなかったが、主が彼の必要を満たしてくださった。七人の青年は、アメリカに留まり、訓練を終え、福音という栄光あるメッセージを表すために世界の各地へと出て行った。

 マッコール・バーバー氏はエジンバラ市の中心にホールを確保し、その48年間、福音を伝え、みことばを教えた。約四百人の青年、数人の子女たちが彼の集会からフルタイムで主に仕えるために世界各地へと出て行った。彼が書簡として用いていたどの手紙の上部にも、彼の生涯の経験となった、ゼパニヤ書の三つの単語があった。

He faileth not.(※3)

そのメッセージ

 1900年、マッコール・バーバー氏は最初の小冊子を書き、出版した。その小冊子は彼が大変な重荷を抱いていた青少年向きにデザインされていた。その小さな始めから、その文書伝道は成長し、今日では大変広範囲に広がっている。

 この偉大な神の人の生活指針は箴言3章5〜6節であった。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」彼は歳をとった人にも若い人にも、どんなすぐれた忠告を与えることが出来たのだろうか。彼のメッセージは生き生きしており、救われる必要こそ重要であった。救いは罪の悔い改めとキリストの尊い血潮による洗いを求めることを通してのみであった。そして一度救われたら、神の子は日々死ぬことを学ぶ必要があった。自己に死に、古き性質に死ぬことが勝利の道であったし、常にそうである。この教えが彼の力強い宣教の要素となっており、ガラテヤ書2章20節の素晴らしいみことばを喜んだ。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」主イエス・キリストが生活の中に生きており、その生活を完全に支配している時、どんな祝福が続くのだろうか。勝利あるキリスト者は、主の働きを喜び、豊かにされることを学ぶのだ。パウロが1コリント15章58節で言っている通りだ。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。」

 彼のメッセージのもう一つの幸せな面はテトス書2章13節に見出される。「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むように」そう、マッコール・バーバー氏は救い主が再び来られるというニュースをしっかり握りしめていた。彼は長年にわたって一月に一回Prophetic Rallyを開催していた。第一次大戦中、彼は「今日かも知れない(Perhaps Today)」のタイトルで小さなカレンダーを発行し始めた。そして毎月違うメッセージを持つこのカレンダーは今も毎年発行されている。

 主イエス・キリストのそのしもべたちに対する最後の命令は「行きなさい」であった。そして長年にわたって毎月、マッコール・バーバー氏はMissiponary Rallyを開催した。たくさんの人や数人の子女が神の召しに従って、失われた人々を捜し求め、その人たちに救い主を指し示すために出て行った。母国における福音伝道と海外に対する宣教の働きが「イエス様が救い主だ!(Jesus Saves)」という栄光あるメッセージを運んでいるのだ。

 マッコール・バーバー氏は天国へ召される前の最後の数時間の間に、彼のそばにいた人々に言ったのは次の言葉だ。「福音を獲得せよ」それこそ確かなメッセージだ。そしてそれは依然として今日も真のメッセージなのだ。すべての人は罪人である。しかし、主イエス様は救うことができる!(※4)

※1 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/10/blog-post_15.html
※2 義和団事件に象徴されるように中国社会の反キリスト教の動きを指しているのでないかと想像する。
※3 ゼパニヤ書と言えば、「救いの勇士だ」が有名で、それに当たるかと思ったが、英文聖書で言葉を探したところ、欽定訳聖書のゼパニヤ書3章5節にあった。日本語訳で「主は不正を行わない。」がそれに該当する。そう、思って読み進めると、マッコール・バーバー氏の確信ある信仰がわかる気がする。

※4 この言葉が、昨日赤字で示した英語を翻訳したものである。

すべての人は罪人である。しかし、主イエス様は救うことができる!
All have sinned, but the Lord Jesus can save!

2023年4月27日木曜日

迂闊なり、忘れし、結婚記念日

薔薇の花 一輪善かれ 夫婦見つ
 「これまで、もっぱら外回りというか、散歩先の花々ばかり見とれては文章を綴ってきたが、いつの間にか、我が足元である庭先には、それこそ様々な花が次々に開花しては目を楽しませてくれている。このような中で、どうしても赤いバラが目立つが、これとても別のところでは真紅のビロード状の花を咲かせているし、それこそ白いナニワイバラは一週間ほど前に玄関先に一斉に花を咲かせ、壮観でさえあった。」と、10日前に、ここまで書きながら、ブログはずっとお休みにしてきた。

 書き込む内容がなかったわけではないが、自分自身の生き方を真剣に考えさせられる日々が続いているからである。そんな折、昨日夜になってから、長女が寄越したLINEで「おめでとう」と書いてあるスマホの文字に気付いて、一瞬何のことなのだろうと思ったが、その前に次女がすでに打電していて、「結婚記念日おめでとう」と書いてあった。ああ、今日は結婚記念日だったんだと初めて自覚した。家内に聞くと、家内は覚えていて、「いつ言い出すのだろうか」と待っていたと言う。次女の打電には「お父さんは、お母さんに何かしてあげたのかな?」とも書いてあった。

 昨日は朝から連日体の不調を訴える家内を病院にまで連れて行ったので、うっかりして忘れてしまった(のだろう)。それにしても結婚記念日をすっかり忘れているということは全く初めての経験であった。我ながら不覚だった。コロナに罹患こそしなかったが、コロナ禍以来、家内の体調はすぐれず、「男子厨房に入らず」と決め込んでいた私も、家内と一緒に台所に立つ機会がめっきり多くなった。それでも家事労働はほとんど家内に負わせっぱなしである。五十三年間、こうして長年連れ添ったきた家内に何の感謝の言葉も発せず、昨晩もそのまま休む始末だ。

 一日中お互いに顔を突き合わせての生活も20年が経つ。つい最近になって朝昼晩と三度の聖書の輪読と讃美、それに一日一回の散歩の日課、お互いに申し分ない充実した生活を送るように変えられつつある。それでも忍び寄る老いのしからしめる互いの心身の兆候には我慢し切れないでぶつぶつ文句を言ってばかりの私がいてどうしようもない。そのためもあって、下向きの生活がずっと続いているのだ。そんな私にもやっと春が巡ってきた感がする。それは過去を振り返る生活でなく、未来を待ち望む生活へと舵(かじ)を切り替える生活を聖書が約束しているということだった。こんなことは信仰者にとってはイロハのイで、当たり前のことではあるが、そこから外れた生活を日々歩んでいたからである。

 夜の家内との聖書の輪読個所はマルコ11章であったが、その22節の個所に対するF.B.マイヤーの註解でそのことを改めて知らされた。以下、マイヤーのことばを転記する。

イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。」(マルコ11・22)

 かつて私はある日曜日の朝、中国奥地伝道の父ハドソン・テーラーからこのテキストを学びました。彼は、神に対する私たちの信義ではなく、私たちに対する神の信義と解釈し、”神の信義を思え”と説いてくれました!
 この誠実な神のご計画を確信しましょう。私たちひとりびとりには、実に入念に備えられた道が与えられているのです。また道中に援助も準備されているのです。決して途中で倒れ伏してしまわないようにと。
 次に、この誠実な神の時を待ちましょう。申すまでもなく、全知なる神が私たち以上に必要を知っておられるのに、なお祈れと言われるのは、主に頼ることを私たちに憶えしめるためです。そして時として、答えを遅らせることがあるのも、ほかならぬご自身に対する私たちの信頼をたしかめさせるためなのです。
 そして、神に対して正しく歩むことです。古き生き方を脱ぎ捨てて、心を新たに、神に喜ばれるように歩みましょう。ご自身に対して全きものには、神の力も全面的に発揮されるのですから。(『きょうの力』F.B.マイヤー原著小畑進編著635頁より引用)

 さて、それではその神の信義とは何であろうか。その最たるものは言うまでもなく、主イエス様が再び来られるという約束である。昨晩、結婚記念日云々も忘れていた私は家内にその希望を縷々(るる)述べていた。53年目にして共に確認し得たみことばである。その極め付きのみことばを書く。

祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むように(新約聖書 テトスへの手紙2章13節)

 ちょうど、昨日は日本の総人口が2070年には8700万人になり、少子高齢化はますます進み、外国人の占める割合も一割を超えるという未来予測が推計値として発表された。50年ほど先の予測値であり、そのための備えが今から論議されている。当然であろう。主の御再臨に備えるように希望を持つように示された私にとり、今後どのように歩んでいけばいいのか祈りつつこのことを受けとめて行きたい。

2020年5月5日火曜日

私と「エール」(下)

昭和45年(1970年)4月26日の新聞※

 「エール」という朝ドラはつくづく良くできていると思う。家族であるがゆえに持つ愛憎が余す所なく描かれているからだ。子どもの立場になって見ても、また親の立場で見ても、さらには夫婦の間柄どれ一つとっても、真実なものを感ずる。昨今能弁ではあるが、自分のことばで決して語ろうとされない首相の会見を何度も聞かされて辟易さえしている当方にとって、ドラマの会話の中ににじみ出るその真実さに改めて刮目させられる。

 その上、その人たちを取り巻く市井の人たちのあたたかさも伝わってくる。それは、ある意味で「昭和」という時代の絵模様ではないかと思う。それを平成生まれの役者の方が演じているのだからすごい。逆に言うと、真剣に音楽一筋に生きた古関裕而夫妻の生き様が時を超えて人の胸を打つからだろう。同時に脚本がしっかりしていて、それを具体化するために一種の総合芸術とも言うべきものが電波に乗せられて、すべての人の心に届く。大変な数の人々の共同作業からなるこの作品の今後に心から「エール」を送りたい。

 今回、私がこのドラマに関心を持ったのは、本当のことを言えば、実は単に時間ができたからではない。5000曲も作曲した古関裕而さんの曲が母校の滋賀県立彦根東高校の校歌作曲者であったからである。しかもその作詞者吉田精一氏が家の縁戚にあたる方であったからである。私はそのことをずっと知らなかった。私たちの世代では「吉田精一」と言えば、国文学者としての氏の存在が余りにも有名で、どうして東京のその方が校歌作詞者なのかと不思議にさえ思っていたくらいである。

 ところが、ある時、母校が1996年に発刊した『彦根東高120年史』を通して、その作詞者の吉田精一氏は同姓同名の全く別人で、私が小学生時代、町の公民館でその方からアインシュタインの話をお聞きした方であった。我が家は中山道に面しているが、道路を挟んで斜め前に精一さんの家があった。そして、私の家の路地を挟んだ左隣が精一さんと私の家が本家とする家があった。着物姿の精一さんは、よくその中山道を対角線上に横切っては、その本家の玄関へとよく駆け込まれたものだ。それは、俗塵にまみれてはなるものかとばかりの勢いを子ども心に感じさせるものがあった。町内の神社の祭典費を集めに行っても頑として断られた人であった。

 最近私はその彼について母が65年前の1955年の1月の日記に次のように書いている記事を見つけた。「度を過ごした潔癖が寿命を短くした、人生を寂しい物にしたとしみじみと語られた精一さんの言葉は自己への反省とも聞き取れ感銘を深くした。」精一さんの母親おなおさんの死に立ち会った母が通夜の席で精一さんとご一緒して聞いた話のようである。(おなおさんは本家の方々が東京に出られ留守宅になったので、ずっとその本家を守られた人であった。)

 その精一さんは明治45年に、私と同じ高宮小学校を卒業し、その後彦中、四高を経て東京帝大農学部に進まれ、戦前は東京農大で教鞭をとられた。戦後旧制から新制へと教育体制の変革期に郷里に帰り、私の母校の先生をなさった。そのような有為転変ののち町の教育長もなさった方であるが、戦前の農大時代に同校の応援歌を作詞され、古関裕而さんが作曲者であった。その精一さんが戦後自らの母校でもあり、教師でもあった高校の校歌を作詞し、またしても古関裕而さんに作曲をお願いされたのだった。だから精一さんは古関さんと二度のコンビを組んでおられることになる。(この項は『120年史』762〜763頁による)

 いずれも旧聞に属することではあるが、人と人との出会いとはまことにまか不思議である。今朝の「エール」27回目では、裕一が音楽を取るか、愛する人「おと」との結婚を取るか、再び二者択一の選択を迫られ、音楽を取り、「おと」との結婚を断念する。それは重い決断であった。しかし、そのような決断にもかかわらず音楽を目的としたイギリス留学の道が閉ざされるということで終わった。私たちの場合はキリストを取るか、恋人を取るか選択を迫られ、結婚前の三年間に次々と様々な事件が起きた。他人事ではない思いがひとしおする。金婚記念を機にまさにタイムリーなNHKによる「エール」であると思えなくもない。

 しかし、最後にやはりコロナウイルスに悩む私たちへの神のみことばの「エール」を記しておきたい。

見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。(ヤコブ5:11)

(※写真はこどもたちがエールとしてプレゼントしてくれた第三弾目であった。それは八枚からなる生誕、結婚、五人のこどもの誕生の日の新聞のマイクロフィルムであり「50年というふたりの長い長い道のりをゆっくり振り返ってみてください。そして、今度たっぷり思い出を聞かせてね。51年目も変わらず主の守りと平安がありますように」と添え書きがあった。なお、吉田精一作詞古関裕而作曲の彦根東高の校歌は以下で聞くことができる。https://www.youtube.com/watch?v=CbZZ5zZBaYY)

2020年5月4日月曜日

私と「エール」(中)


 このところ朝のNHKドラマの「エール」に夢中である。前回の「スカーレット」は夫婦とも滋賀県出身者である私たちにとってはそれだけ身近で、しかも家内は創作好きとあって、陶器づくりに励む主人公に大いに肩入れして、毎回欠かさず観ようとしていた。そこへ行くと私は十回に一回程度の視聴でそんなに熱心でなかった。

 ところが今回の作品は、二人して欠かさず見ている。50年の結婚生活にあって初めての経験である。大体仕事をしている時は時間帯が無理であった。「おはなはん」※は学生時代のころであったせいだろう、何となく観たような記憶がある。それ以来、仕事、結婚、子育てと二人ともそのようなゆとりはなかった。

 ところで本題の「エール」だが、作曲家古関裕而をモデルにした作品とあって前評判の高かった作品である。ましてや今年はオリンピック開催の年であった。彼の「栄冠は君に輝く」「長崎の鐘』はじめ様々な曲が披露されると思うと、それだけで何か胸あこがれる思いがしていた。私のようにテレビ離れの人間まで引きつけるとは、まことにこの上もないNHK企画だと思っていた。ところが、このコロナ騒ぎである。とうとう先週はコロナ犠牲となった志村けんさんも登場される場面がほんの少しだったが、最後に出てきて哀愁を覚えた。

 現在6週間目に入ったところだが、主人公裕一が幼い時から、成人し、「仕事」、「結婚」とどれ一つとっても、若者には一寸先何が待っているかわからない中を、ひたむきに進んでいく姿が活写されていく。しかも、そこに全く別世界に生きていた男女が結ばれていく過程が彼らの音楽に賭けていく苦闘と並行して描かれるのだ。コロナ騒ぎで多くの音楽家が生活の糧を失って苦しんでおられる。しかし、「エール」はまさにその「音楽」が人間の生きる上の一つの活力であることを証明して憚らない。

 主人公の男女二人の出会いと交際、そしてそれを取り巻く家族を見ていると、私たちの50年前の七転八倒の一つ一つが同時にダブってくる。先日も、福島在住の主人公裕一が手紙の文通三ヶ月間でこの人(おと・音)しかないと決心し、彼女のいる豊橋まで駆け出して行った姿を大写しで見た時、二人とも思わず顔を見合わせざるを得なかった。私たちの場合も関西と関東と離れていたので互いの意思疎通には手紙しかなく、その文通が二人の中を取り持ったからだ。三ヶ月でなく、三年であった。だから、単純に計算しても、彼らの12倍を要する書簡の往復ではあったが・・・。

 そのようにして、互いの家庭から飛び出て、一組の新しい家族が誕生するまでには人間はすさまじいエネルギーを発揮するのだと改めて思った。このエネルギーは、春先に雌雄の魚が産卵期に見せる水の中で飛び跳ねる姿を思わせる。これは生ける神が生きとし生けるものに与えた天与の力だと思う。今私たちはコロナウイルスという見えない敵を相手に、国家としても地域社会としても、また個人としても、各人がそれぞれのレベルで戦いを強いられているように思える。しかし、いつの時代にも難問はあったのでないだろうか。

 たまたま、最近私は『歴史人口学事始めー記録と記憶の90年』(速水融著)という本を読んだ。速水さんは100年前のスペインインフルエンザを史書としてすでに2006年にまとめておられるが、そのような歴史考察をもとに、これからの時代は「我慢の時代」(同書293頁)だとそこで語っておられた。一見、何の変哲もない主張のように見えるが、速水さんは「産業革命」に対して江戸期から始まる日本社会の変動を分析し「勤勉革命」(281頁)という独自の歴史概念を提唱され、現在の日本社会の高齢人口の増大、人口減少の時代に見合う主張をなさっている。残念なことに速水さんは昨年12月にこの本の執筆を最後に90歳で急逝されたが、その時、もちろんコロナウイルスの存在は知られなかった。しかし、その直後コロナウイルスはあっという間に世界を席巻し、昨今は政府が「行動変容」を盛んに求めるようになった。こんなことを考えると、速水さんの歴史研究は先見の明があったと言わざるを得ない。

 最後に神から私たちに送られている「エール」のことばを記す。

昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。・・・結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。(伝道者1:9、12:13)

(言うまでもなく今日の写真は前回に続く子どもたちのエール第二弾である。
なお速水さんの本の紹介は東京新聞の書評がある。一読されたし。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2020041202000176.html 
ついでに「おはなはん」は
https://www.youtube.com/watch?v=yizg55xEik4)

2020年5月2日土曜日

私と「エール」(上)

金婚式の祝  2020.4.26※
舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。(ヤコブ3:8)

 私は今年2月に喜寿を迎えた。ところが、私の肉体には、この頃体の欠陥が次々現れてきている。先ず、「唇」である。昨年末高校の同窓の集まりの後、家内にもこの会で一人の方との交わりが大変良かったので、いっときも早くそのことを報せようと、喜んで帰ってきたのはいいが、心が急いていたのか、暗い夜、思わぬところでつまずいてしまった。その打った場所がいけなかった。再び車止めだった(2017年11月だったか、信越線横川でバスを降りる際、足を踏み外し、倒れ、顎の骨を折る大怪我をしたことがあった)。相方の唇は擦過傷を負い、出血が激しかった。救急車のご厄介になった。その時、縫ってもらわなかった。そのせいか、未だに唇がだめになっている。

 次に「鼻」である。昨年だったか、ある集まりで突然鼻血が出た。それからことあるごとに鼻血が出るようになった。医者は興奮するから出るのだとおっしゃった。思い当たる節はある。すぐ一つのことに熱中する。だからのんびりと生活しようと思っている。でも、この一年間鼻血は収まらない。

 ところで、今一生懸命に打っているこの「指」もまた問題をかかえている。「指」の折り曲げが困難で傷んで仕方がないのである。こんなふうに体の部位を書きつらねながら、一番肝心の「頭」が抜けていることに読者も気づかれることと思う。

 ところが、聖書はもっと素晴らしい指摘を私にくださっている。 

 昨日の聖書通読箇所の一つにヤコブ3章、4章があったが、その中で3章の「舌」に目が釘付けになった。リビングバイブル訳は3章全体に「舌をコントロールする」と見出しをつけている。そして出だしを次のように訳していた。 

「愛する皆さん。みなが教師のようになって、人の欠点をあげつらってはいけません。自分も欠点だらけではありませんか。人よりもすぐれた判断力を持つべき私たち教師がもし悪を行うなら、ほかの人よりはるかにきびしいさばきを受けるのです。」(ヤコブ3:1) 

 毎朝、NHKの「エール」を見ているが、自分にはこどもを心から愛し育てて来なかったという後悔がある。その一つの性質がここに出て来る、「教師」としての自分の存在だ。こどもをほめてこなかった、いつもきびしい視線しか持たなかったという思いがある。 

「賛美とのろいが同じ人の口から出るのです。愛する皆さん。こんなことがあってはなりません。同じ泉の水が甘くなったり、苦くなったりするでしょうか。いちじくの木にオリーブの実がなったり、ぶどうの木にいちじくの実がなったりするでしょうか。塩水の池から、真水を汲むこともできません。」(ヤコブ3:10〜12) 

とあった。ああ、自分はこのような救いようのない人間なのだ、だからイエス様のいのちをいただいているのだ(という思いがする。 )

(※五人の子ども家族がすばらしい贈り物をしてくれた。その中の一つである。こどもたちのエールである!)

2013年4月28日日曜日

記念日の哲学

薔薇(アルバ・セミプレナ)が一斉に咲き揃った。花のいのちは短かし。
去る4月26日は結婚記念日であった。そのことに気づいたのは家内の方で、夕方に近かった。「今日は何の日か、知っている?」と問うてきた。そう言われて気づかないほどこちらも鈍感ではない。しかし、そこはすっとぼけて「何の日?」としらけるようなことを言う。家内も心得たもので、「結婚記念日には薔薇の花をプレゼントする人もいるのに」と言う。もう三、四年前ころか、前の家の老主人が、薔薇の花を記念の数ほどプレゼントすると聞いた。とっくに金婚式を過ぎているお方だから、50本以上になるが、本当なのだろうか、耳を疑いたくなる。10年を一本にしても五本になるが、当方としてみれば、一本だってする意志が無いのに。

しかし、これではまずいと思い、「卵焼きを作ろうか」と言ってみる。それとも、どこかへ食べに行こうかと話を持ちかける。いやいや、そんな贅沢はしておられないと、かみさんは宣(のたま)う。結局、一緒に台所に立つことにした。まずは皿洗いから。久しぶりの感がする。それでも、かみさんは機嫌が良い。分に過ぎた女房だ。メニューは家内の頭の中にある。タマネギの皮をむき出した。当方は横で、家内の指導を受けつつ包丁を一本手に取り、切りにかかる。次はジャガイモだった。そのうちタマネギを炒めてくれと言われる。「ハイ、ハイ」と、おとなしくその言に従う。ニンニクが刻まれ、かき混ぜる鍋に横合いから放り込まれる。次には人参。さらには何と言う名前か分からない野菜も刻まれ放り込まれる。最後は豚肉だった。

今晩のメニューは言わずと知れたカレーライスだ。煮加減の指導を受けながらも最終的には師範の手ほどきよろしく、二三十分もするかしないうちに夕食の用意ができた。 娘はまだ仕事から帰って来ない。二人で祈って食事する。43年間、こうして例外無く私が声に出して祈り、家内は私の心に合わせているが、最後には二人してアーメンと仲良く唱和するのだ。短いときがほとんどだが、たまに長いときもある。今晩のカレーライスはことさら美味しかった。普段より具は少ないが、私も台所に立つことができたからである。

43年前のこの日のことをともに思い出す。新婚旅行は名古屋で一泊し、翌日は上高地に出かけ、さらに美ヶ原など二泊三日だったように記憶する。出掛けにカメラを持参するのを忘れたので、負け惜しみで、心のカメラにキャッチしてあるから印象は鮮烈なんだと当時はうそぶいていたが、当方の心は、もはや、ぼろぼろでガタが来ていて、記憶しているところが断片的になっている。二日目に旅先でけんかをしたことを思い出すが、けんかの中味は双方で一致しない。一事が万事、このようであり、時の経過とともに記憶は当てにならない。ただ信州が二人の憧れの地であり、今日から連休にかけてその信州へ出かけようとしているのも不思議な巡り合わせだ。

やや時間あって、家内が、ところで、さっきの祈りの時、結婚記念日の感謝したっけと、真顔で問う。そう言えば、全然しなかったなと、互いに顔を見合わせる。三年前、子どもたちのお祝いでスコットランド、ドイツに出かけた。その時、ドイツではキリスト集会の方と一緒だったが、先週火曜日の葬儀をなさったご夫妻とはその時ご一緒だった。召されたのはご主人の方だった。奥様が葬儀の前、そのことを思い出し、「あなたがたは結婚して40年で、私たちは50年だったのよね」と言われた。そのことを家内にも話していたので、お互いにもう少し自覚があっても良かったが、つい忙しさにかまけて、双方とも、26日になっても結婚記念日であることをすっかり忘れていたのだ。まあー、お互いに、似た者夫婦であることは間違いない。でも、これからは、この日を大切にしたいと思う。
 
「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」この奥義は偉大です。(エペソ5・31〜32)

一方、今日28日は1952年に、沖縄の方々の犠牲のもとに日本の主権が回復した日である(歴史年表を見ると、安倍首相の祖父岸信介氏は、この日、公職追放解除を受けたことが分かる)。 沖縄に米軍基地が存在する限り、主権は回復したとは言えない。しかし、国家意志は過去61年間、この日を祝わなかったが、今年から祝おうということだ。そこには何らかの強烈な国家意志があるはずだ。中国、韓国、北朝鮮、ロシアと周辺諸国と未だに戦後処理が終わっていない。主権の回復と言う限りアジア各国、ましてや沖縄の問題を放置したままで祝うのは何らかの政治意図があるのであろう。そしてにわかに浮上しつつある改憲への下ごしらえの動向と無関係ではないだろう。

43年間、結婚記念日を放置してきた私は来年からはその日を忘れないようにしようとしている。政府は、今年から主権回復の日としてこの日を記念日として国民に覚えさせようとしている。難しい外交関係を抱えながら、国民に愛国の心を植えつけたいのであろうが、やや唐突で性急すぎる思いがしてならない。私たちは、地上にある限り、罪の支配を受け、様々な矛盾する現実に直面せざるを得ない。永遠のいのちのことばである聖書に励まされ、個人としても、国民としてもまことの平和を求める者でありたい。

正義は国を高め、罪は国民をはずかしめる。(箴言14・34)

2010年10月27日水曜日

第11日 栄光の主を仰ぎ見る喜び

(ナナカマド スコットランド・エジンバラにて)
いよいよ、最終日第11日目(現地10/12Tue)について述べる時が来た。この日は集会も何もなく朝早くから二コースに別れ、チューリッヒ空港、ミュンヘン空港へ向かい帰国への旅路を急ぐことになっていた。現地にはなお30名の方が残られ、引き続いて日本から来られる後半のグループの方と更に一週間「喜びの集い」を持たれることになっている。朝8時の出発を控えたあわただしく、気ぜわしい早朝、去る者、留まる者を問わず集まり、祈り会がこの日も持たれた。ただ6時15分から始まる早朝の祈り会に果たして人々は集まって来れるのかと思ったが、ほとんどの方が集まられた。30分間、それぞれが賛美し、聖書のみことばを味わい、出席者が輪になって心を合わせ祈った。一人でできないことも、友と励ましあいながらできることがある。期間中途中からではあったが実施され、良き習慣となったこの祈り会は、私たちにとって大きな財産となった。

去り難いフィリンゲンの宿舎であったが、台所などで奉仕されたシュベスター(英語でシスターに当たる)や現地に残る人々の暖かい見送りを受けて私たちは一路日本へとそれぞれの空港へ出かけた。私たちの帰りのコースはミュンヘン空港に向かうものであった。宿舎からは4時間ほどかかった。最初はボーデン湖畔を走り、その後南ドイツの平原を横断する旅であった。車窓の両側には黄葉した樹木や延々とぶどう畑やりんご畑が展開し、黒いぶどうの実、赤いりんごがその緑野に彩を添えて点在する。私のこの感覚は、ドイツ人が日本の水田風景を見て感嘆することがあるとしたら、その感覚と好一対をなすものではないだろうか。

空港に着き、およそ12時間ほどの飛行時間、考えることはこの12日間の旅のすべてであった。一つ一つの事象は風の如く飛び去って今や記憶のかなたにある。しかし主なる神様が生きて働かれるお方であることは旅の前と後とでは大いに異なって、私にとってよりリアルな実在感を持って迫ってくるのであった。長い長いと思う空の旅はどなたも経験されることと思うが、帰りは、「帰心矢の如し」のことばのとおり早いものだ。成田空港に無事到着した折には再び日本の雑然とした風景の中に放り込まれた思いがしたが、これこそ現実だと思い歩足を強める。

到着ロビーを歩く時、「喜びの集い」でお声をかけたかったお一人で中々お交わりする機会のなかったその方から、思いもかけないことばをいただいた。「○○さんは真珠婚だったのですね。おめでとうございます。実は私たちもそうなんですよ。夫は13年前に亡くなりましたが、1970年の10月に結婚したのですよ」という言葉だった。確かに家内は自らの証の際に少しだけこのことに触れた。それを聞き知られたのであろう。しかし、ご自身の悲しみ、寂しさを越えてこのように祝福してくださることを嬉しく聞くことができた。出発する前にはただ結婚40周年(1970.4.26)だと周りの者に言われ互いに出てきたが40周年に呼名があること、しかもそれが「真珠」という素晴らしい名前を冠していることをこの時初めて知った。その後、ネットで調べてみたら、実際はその方の勘違いで真珠婚は30周年で、40周年はルビー婚だと知った。

今回の旅は私たちは口で言うほど特別自分たちの結婚40周年を意識していたわけではない。しかし、このお方の何気ない言葉を通して、旅の間ずっと気になっていた、ご主人を亡くしたり、様々な事情でご主人と別れたりして一人淋しく参加されているが、ともに主イエス様に愛され愛する方々が多くおられることを思った。また体のご不自由なご主人がいかに手厚い奥様の介護のもとで行動されているか、また同じように体のご不自由なご婦人がまわりの方の助けをいただきながら行動されるかをつぶさに見させていただいた。たとえどんなに夫婦が健在であってもいずれの日にかその関係は解消される。その時私たちはそれらの方々の寂しさを本当に自分のものとすることができるのだろう。

病を押して参加され、先週木曜日後半の「ドイツ喜びの集い」を終えてお帰りになったベックさんは今日入院されることになった。そのベックさんが、「大変ですけれど嬉しい」と題して、昨日、次のみことばをもとに新築なった吉祥寺の会堂でメッセージされた。

あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。すなわち非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも、また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだますように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。(2コリント6:4~10)

そしてメッセージを閉じるにあたり、一つのバッハのエピソードを紹介され、次のような意味のことを語られた。それは召される直前バッハは目が見えなくなったが、ある時目が見えたそうだ。その時奥さんが一輪の美しい薔薇を示し、「あなた、この薔薇が見えますか」と言われたら、「見えるよ」と言い、続いて「お前と私がもうじき見るであろう薔薇に比べたら、この薔薇は言うに足りない。もうじきお前と私が聞くであろう音楽に比べればこの世の音楽は言うに足りない。そして私はこの目で主、イエス・キリストご自身を見る。」と答えたそうです。これこそ信仰の確信に満ちたことばでないでしょうか、と。

お聞きしていて目頭が熱くなった。これは病の中、何よりも主イエス様の再臨に備え、天国を仰ぎ見るベックさんの信仰のすべてを物語っているからである。このことを事、私たちの結婚というものに当てはめて考えるなら、たとえ、地上での結婚の恵みがどんなに素晴らしくても、どちらかが先に召されれば、その喜びはいずれは崩れ去る。しかし永遠の天の御国に住まう確信を夫婦がともに備えているなら、その喜びは永遠に続くことを証している。そのようなご夫婦にとって目に見える現実(地上での一時的な別れ)は取るに足りないと言えるのだ。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。(ローマ8:18)


もし年数だけで私たちがルビー婚を自負しており、堅固な主イエスキリストの十字架に信頼する信仰の上に立っていないなら、それらは砂上の楼閣に過ぎない。これが、愚かな私たち夫婦にベックさんを通して与えられたみことばの真理であることを証してこの稿を閉じる。長い間愚考につきあってくださった目に見えない読者の方々に同じ神様の祝福がありますようにと祈るばかりである。

2010年10月26日火曜日

第10日 二人して40キロ以上

(フィリンゲンの城壁の塔に描かれた騎士)
子どもたち五人の祈りと愛のささげものによって、はるばるヨーロッパまで来ることのできた、今回のヨーロッパ訪問も、いよいよこの日の「喜びの集い」が最後になった。午前中と夜と二度の集会があったが(後述)、昼間は宿舎から出てフィリンゲンへ繰り出し、それぞれ最後の観光と買い物に時間を費やした。

ところが「ルビー婚」を自他共に認める私にとっては中々この時は苦い時となってしまった。午後の出発時点で私が家内とは別行動を取ってしまったからである。私自身は家内の足が痛んでいるから一緒に行動することを最初から諦めていた。だから、多くの人々の一人として家内がバスで乗り込んだのに、数人の方とフィリンゲンへの徒歩行をともにしたからである。何年か前、家内と家内の高校時代の同級生3人とともに5人でフィリンゲンまで小川を見ながら散策した思い出が忘れられなかったからである。

結局5、6人の方との楽しい散策の後、辿り着いた午後の数時間はフィリンゲン特有の城壁に囲まれた囲域(決して広くない)を歩いているに過ぎず、他の方々とは何回もお会いするのに、なぜかその間家内と一度も会うことがなかった。会うことができたのは観光も終わり近くなって、バス停に人々が集まって来た時であった。家内は別のご婦人と一緒で楽しそうに、それぞれ大きな買い物袋を提げての姿で現われた。その時、家内にすべて買い物を押し付け、その上、重い物をずっと持たせ続けてしまったことを知り、私に初めて悔恨の思いが湧き上がってきた。せめてもの穴埋めとばかり、すぐ走り寄って早速買い物袋を持ち、帰りは一緒にバスに乗って帰ってきた。

(家内と再会した場所に咲いていたバラ)
私たち夫婦は、100人の方々とそれぞれ親しくなりたいと、思っていた。もちろん、それらの方々の多くの人々とは日頃からお交わりをいただき親しくしていただいているが、全く初対面の方も数えてみれば20数名いらっしゃった。だから、夫婦別行動になるのはお互いの間で最初から暗黙の了解であった。そのこと自身には悔いは残らないが、夫として配慮が欠けていたと思わざるを得なかった。

振り返ってみれば、午前中は二人の方がメッセージしてくださったが、その中でイエス様の次のみことばが語られていた。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。(ヨハネ13:34~35)

その方は、私たちの互いの間にその愛が流れてくるように、私たちは十字架の主イエス様に従い、祈り求めるべきだ。そしてそれが御霊の一致であり、それは決して夢物語でなく、同じ御霊から流れ出てくる主イエス様の具体的な愛の表われであると語られた。そして、そのような愛の体験をさせられる者とは、もう一人の方が引用してくださった次のみことばのように自らの心の貧しさを心底自覚している者ではないだろうか、と思わされた。

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(マタイ5:3)

集会、観光、食事と様々な場面で、私たち100名の者は互いに、このように自分のありのままの姿をさらけ出しながら、一方で日毎にささげる祈りと日々与えられるみことばを通して一人一人が確実に変えられて行くのがわかったのでないだろうか。最後の夕食となったメニューは今となっては忘れてしまったが、繰り返し訪れてくる食事のたびに各自が皿を持ち、自分の好きなものを乗せ、テーブルに戻っては、口にパンや肉をほおばりながら、食事のたびに組み合わせの変わる方々と交歓を楽しみながら、日々語り合う至福の時であった。

この日、夜に持たれた最後の集会では、この集会に10人余の人が参加された一家族の方々によるメッセージと証が行なわれた。一家の家長である兄弟が引用されたみことばは「主の祈り」のところであった。

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6:10)

家長の方のこの祈りは、ご自分の姉君夫妻やもう一人の姉君の参加になり、一方二人の子どもをかかえる働き盛りの若夫婦の参加となった。それだけでなく、お嬢さんの姑さん、またご友人も参加されたのである。それらの人々を前に正直に、それぞれ両親夫婦、娘夫婦の家族建設に至る蹉跌と主にあるあわれみ祝福がある時は涙を交えて語られた。

長かった私たちの海外旅行第10日目(現地10/11)もこうして終わり、この後、部屋に戻り明日の出発のためにパッキングに入った。。くれぐれも20キロは越えないようにと言われたが、私の方がややオーバーして、何とか2人合わせて40キロに納めた。しかし私たちが受けた祝福は40キロ以上であった。

2010年10月25日月曜日

第9日 聖なる日、日曜日

(アイドリンゲン・ムッターハウスの賛美:photo by K.Aotani)
昨日の日曜日(10/24)は家の近くの幼稚園の体育館で110数名の方たちとともに主イエス様を礼拝する恵みにあずかった。その前の週の日曜日(10/17)は家内の亡父、亡祖母の年忌に出席するため滋賀の生家に帰っていた。さらにその一週間前(10/10)はドイツ、その二週間前(10/3)はスコットランドと、この4週間の間に、私たち夫婦は数千キロを移動したことになる。

私はあなたの御前から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕えます。(詩篇139:7~10)

日曜日は礼拝の日である。イエス・キリストを信ずる前に、私にとって信仰を持つ上で障害の一つになったのは、この日曜の存在であった。それまで日曜は午前中は一週間の労働の疲れを癒すためのくつろぎの時間であり、自由に過ごすことのできる天下御免の日だった。その余暇を音楽を聞いたり、映画を見たり、時には東京まで出かけ美術館などに行く時間にあてていた(その当時は足利に住んでいたが)。ところが日曜午後になるとそろそろ授業のことが心配になり、来るべき週の備えのためにあわてて準備に専念するのが落ちだった。その私の生活パターンは、もし「日曜礼拝」というものを受け入れるなら完全に崩されてしまう。

そんな私に結婚前の家内が熱心に教会への出席を勧めた。愛は強しである。愛はそんな私の思いを打ち壊したからである。逆に教会に行ってみると、そこでは人々が暖かく迎えてくれた。また何よりも礼拝に参加することを通して「いのち」の洗濯ができるような清々しい思いになった。いつの間にか勧めらて行くといういやいやながらの状態から、自ら進んで出かけるように変えられていた。

こうして40年前に結婚してからは二人して日曜日に教会で礼拝を守るということは当たり前になった。もちろん折角の日曜日が礼拝に出席するために、初めの頃は授業の準備が十分できないということも生じた。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。(出エジプト20:8)

これが、主イエスを信じようと信じまいと、すべての人間に、生けるまことの神様が私たち一人一人に求めておられるご命令である。そのことに触れてベック兄は『神の聖なる戒め』130頁で次のように書いている。

一生涯における日曜日というものは、その人にとって大変大きな財産であり、そしてまた同時に大きな責任を伴ったものであると言えましょう。たとえば70歳になった人は、それまでの人生において10年間に等しい日曜日を持ったことになるわけです。あなたはおいくつですか。あなたはすでに何年間分の日曜日を持ったことになるのでしょうか。そしてあなたはそれをどのように用いたのでしょうか。誰一人として主の御座の前で言い訳をすることはできません。「私たちはそのための時間がありませんでした。」と言うのが、神のみことばを避けたい現代人の言い訳ですが、それは主の御前に何の言い訳にもなりません。

私たちが海外に出てすでに9日目にあたる日(現地10/10)は私たちがドイツで多くの方々と礼拝を持つ日になった。礼拝の中でイエス・キリストの贖罪を象徴するパンとぶどう液にあずかり、その後の福音集会ではドイツ人の方から「主イエス様の心構えとは」と題して適切なみことばをいただいた。

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。(ピリピ2:3~7)

そして100人余りの日本人はさらに午後二時からフィリンゲンから7、80km離れたアイドリンゲンというベックさんを生み出したムッターハウスの地での集会へと参加するためバスで長躯二時間かけて出かけた。

そのバスの中、私は隣席の方とともに、その方が練習のときに録音された音を頼りに今日ご披露する賛美のテナー部分を繰り返し練習した。周りの女性たちもいつの間にかその私たちの熱意に動かされてソプラノやアルトの部分を歌って協力してくれた。調子に乗った私たちはさらに熱心になり、バスの後部座席に陣取った私たちの賛美はにわかにバス全体を支配するまでに至った。その内にいつも合唱をしている女性たちの間から「本番になったら声が出なくなるといけませんから、この辺でやめたほうが良いですよ」と助言をいただく程だった。

(tea time: photo by k.Aotani)
こうして和やかなバスの交わりののち目的地に着いた。早速ベックさんのドイツ語によるメッセージ、そして二人の日本人の方々の通訳つきの証と続く。初めの方は、長年、主に従って来られたが今はみことばのみに頼り、みことばがすべてのすべてだと「みことば」を証された。一方ドバイに駐在している商社マンの方はご自身がどのようにして信仰を持つに至ったかを証し、「ここにいらっしゃるすべての方が主イエス様を信じて、一緒に天国へ行きましょう」と結ばれた。

最後が日本人による賛美二曲だった。ピアノ伴奏による混声四部合唱に青谷友香里さんのヴァイオリンの演奏が加わる。「再び主が来られる時迫る。その日、空は輝き、主を告げる。待ち望むその時よ、われらは空に上げられ、雲の中主とともに御国に上る喜び。」と賛美した。あんなに練習したのに肝心のテナーである自分は全く音が取れずに苦労する。しかし、ヴァイオリンの音色がいやが上にも天を憧れて上るようだった。すべてが終わった後、ムッターハウスの責任者の方から「今、私たちは天国にいるようだ」と最大の賛辞をいただいた。

その後は交わりのためのコーヒータイムだった。それぞれ数テーブルに分かれての、ドイツ人の方を交えての、身振り手振りよろしくカタコト英語で話しかけるお交わりとなった。何度か来ているので顔見知りの方もおられるのだが、ドイツ語が話せず、英語も自由に話せないのはもどかしい。別れがたい交わりもお開きになり、次男夫妻もパリへと帰ってゆく。

宿舎に帰っても、日曜日ともに主を礼拝、賛美できた喜びに満たされていた。そして私たちの間にはより一層の親密感、「天国」の住人とせられている一体感が増し加わった。夕食の交わりはその証で満ちていた。夜、部屋に退いて床に着くときも、賛美で歌った「天国」のメロディーがいつまでも体中をめぐっている。昼間、ドイツ人の方とは中々コミュニケーションが取れず苦労したことを思い起こす。それでも天国では「天国語」で話すと言う。その時、今度は「天国語」がものを言うのだろう。そう言えばあのスコットランドの主にある姉妹も「今度は天国で会いましょう」だった。

日曜日は天の御国を何よりも思う時だと合点する。かくしてわが「ルビー婚」の旅もそろそろフィナーレに近づく。残すは後二日になった。

2010年10月23日土曜日

第8日 キリストをかしらとする神の家族

(集会の合間、談笑する人々 photo by Keiko Aotani)
日が経つにつれ人間の記憶は薄れてゆく。しかし、この日のことは忘れることはないだろう。理由は後で書く。すでに海外旅行に出て第8日目(現地時間10/9Sat)になっていた。この日は一旦パリに帰った次男夫妻が集会に参加するためドイツに来る日だった。すでに前夜にはポーランドで仕事をしている次男と同世代のご夫妻もお子さんを連れてフィリンゲンの宿舎に入り、先に参加されているご両親、弟さん家族と合流しておられた。

ところがこの日は期せずしてその両家族が午前、夜の集会でそれぞれメッセージや証をすることになった。午前中は前夜合流されたご家族がそれぞれ4名で話され、司会はご長男がされた。仕事の関係でドイツにも数年おり、ドイツ喜びの集いの常連の方である。このご家族は全員がキリスト者として導かれている。一家の長であるご主人は昨日のアルプス観光に触れ「山々をも造られた偉大な創造主である主と人間の関係」について語られた。御巣高山の飛行機事故は有名だが同社の客室乗務員として自らもその飛行機の何時間か前に乗っており、死に対する備えのないことを、ベックさんとの交わりを通して悟り、素直に主イエス様に救いを求め、救われたと証される。

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(1テモテ2:4)

そのようにして作り上げられたクリスチャン家庭であったが、成長期にあった二人の男の子のしつけ・教育をめぐって母親と息子たちの間にどのようなバトルがあったか親の立場、子どもの立場から語られた。今だから語れる話も多いし、苦しかった当時と違い、今は客観視できる余裕がある。だからお聞きしていて、ほほえましくもあり、家庭の暖かさを思わされた。そして親子関係の葛藤も、聖書がなければ決して解決できなかったことが証される。そして、今や人の親となっているご子息たちは、まずそれぞれ夫婦の関係を築き上げるのに、どのようにして主イエス様に対してへりくだり、整えられつつあるかを証された。

(談話室 photo by Keiko Aotani)
集会のあと明日に控えたアイドリンゲンでの賛美のために特に男性陣は特訓を受ける。けれども何度練習しても音が取れない。練習したという時間が積み重ねられるだけで中味が追いつかない。一案を講じた方が練習の模様をそのまま録音された。その後追い込みにこれがどれだけ武器になったことか。

昼食を終え、午後3時からコーヒータイムがあり、自由な交わりがなされたが、男性陣はまとまってドイツ人の方を囲んでの集いとなった。次男夫妻はまだ姿を現わさない。パリから電車で来るから時間がかかるのはやむをえない。ところが彼らは夜の集会のことは何も知らされていない。やきもきする。それだけでなく、私自身のメッセージが全然まとまらないのだ。これには困った。引用聖句は与えられたのだが、読めば読むほど自分の聖書理解が不十分であることが露呈してきたのだ。とうとうコーヒータイムも出ずして、祈る思いで聖書を繰り返し読む。その内、次男夫妻が到着する。彼らも事の次第を知らされてあわてただろうが、こちらはそれどころでないというパニック状態だった。
(集会場  photo by Keiko Aotani)
とうとう夕食も取らず、部屋にこもる。次男たちも同様だったようだ。そしてあっと言う間に集会の時間になった。次男自身は司会だと思っていたが土壇場で「証」と知らされ、再びギクッとする。司会は会社から褒賞休暇をいただいて来られた方がしてくださった。

トップバッターの私は、しどろもどろそのまま、以下のみことばを中心に語る。

あなたがたは、ある程度は、私たちを理解しているのですから、私たちの主イエスの日には、あなたがたが私たちの誇りであるように、私たちもあなたがたの誇りであるということを、さらに十分に理解してくださるよう望むのです。(2コリント1:14)

これはパウロという使徒がコリントの教会の人々との間に持とうとした信頼関係を象徴する大切なみことばだ。集会に参加している私たちひとりひとりもまたこのパウロの言の如く神様の子ども、キリストのからだとして互いに愛し愛される関係でありたいという思いで語った。

話し終えてほっとして席に着くと今度は妻が証をした。子どもたちの子育て(主への悔い改めと主からいただいた祝福)について証をした。次に紙婚を二ヵ月後に迎えるお嫁さんが証した。結婚までのいきさつ、二人の夫婦関係への樹立に対する主のあわれみなどを述べ、みことばを紹介するものだった。最後は夫である次男だった。用意のない彼が何を言うか案じたが、日曜日のエジンバラで私たち四人(ルビー婚の私たちと紙婚の次男たち)で持った礼拝の時に与えられたみことばルツ記2・4、2・12を開き、さらに次のみことばを読んだ。

主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない(箴言10:22)

そして最後に夫婦に関するみことばエペソ5:20~33を朗読した。

妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも自分の妻を愛しなさい。(エペソ5:22,25)

案じていた集会もこうして主が祝福して下さり終わった。終わって司会者の方と次男夫妻はほとんど初対面であったが、互いに仕事の上での共通の知り合いがいることが判明した。その上、今回の休暇は勤めておられる会社のパリ支店開業何十周年かのお祝いが関連していると知らされ、ここにも見えないところで働いている主の導きを思わされた。

私にとっては何よりも長い長い一日だったが、苦労した甲斐のある一日であった。そして両家の証は期せずして主を愛する家族に対する主の大きなあわれみを考えさせられる内容だった。何よりもルビー婚の私たちに対する主からのメッセージでもあった。

2010年10月22日金曜日

第7日 山々も主の御前に喜び歌え

(登山列車の中から。牛は右の方にも一二頭いる)
すでに日本を離れて7日目(現地時間10/8Fri)になる。エジンバラにいた時には、一日も早く日本食が欲しいと思っていたのに、ドイツのフィリンゲンの食事に少しずつ順応し、肉類やたくさんの乳製品、それに豊富な野菜と、バランスに飛んだ食事で、英気を養うように変えられている。不思議なものだ。この日はアルプス行きとなって、早朝まだ明けやらぬうちからそわそわ準備にかかる。

何度経験してもバスに乗って出かけるのは心がはしゃぐものだ。ましてアルプス行きだ。隣の人と会話を楽しみながら窓外の景色を眺めていると夢のような思いがする。ところがそんな思いに反してどうも空の雲行きは怪しかった。雨さえぱらつく気配だ。途中、このままでは今日はアルプス行きは中止で「ベルン観光」に切り替わるかもしれないと内心心配した。ところが国境を越え山国であるスイスに入りアルプス山に近づくと平地のドイツでの天候と打って変わり、嘘のように晴れ渡っていた。万歳!皆の気分も一気に高揚する。

二時間超バスに乗った上、目的地のふもとの登山列車の駅ヴィルダースヴィル(Wilderswill 標高600m)に着きフィリンゲンの宿舎のシュベスターさん達が用意してくださった食事をにわかスタンドをつくり各自昼食になった。10月上旬とは言え、日本を出る時は寒いことを予想して、防寒用のジャンパーを用意してきたのでそれを着こんでのアルプス行きだったが、脱ぎ捨てねばならないほど暖かで戸外の食事も苦にならない。そう言えばエジンバラでも暖かかった。気候異変はヨーロッパでも現われている。地球は一体として病んでいるのだ。

その後、登山列車二両に分散して100名の者が頂上駅のシーニゲプラッテ(Schynige Platte)まで更におよそ50分ほどの行程を満喫した。右に左に曲がりながら眼前に迫るユングフラウはじめアルプスの名峰にそれぞれ息を呑む。自然界の創造のみわざの頂点だ。しかし、今朝読んだ詩篇には次のようにあった。

(アイガー・ミュンヒなど主峰)
新しい歌を主に歌え。
主は、奇しいわざをなさった。
主は御救いを知らしめ、
その義を国々の前に現わされた。
全地よ。主に喜び叫べ。
海と、それに満ちているもの。
世界と、その中に住むものよ。鳴りとどろけ。
もろもろの川よ。手を打ち鳴らせ。
山々も、こぞって主の御前で喜び歌え。
確かに、主は地をさばくために来られる。
主は義をもって世界をさばき、
公正をもって国々の民を、さばかれる。(詩篇98)

「山々も、こぞって主の御前で喜び歌え。」とある。名峰の前に無にも等しい私たち。しかし創造主はこの罪人をご自身の御子イエスの血潮を通して救い、ご自身の義を現わされる。その前に山々も主の御前で喜ぶとあるのだ。

山上で散策しながら、それぞれのところで、各自が好むままに写真に納まる。どの顔も晴れやかである。こんな時には言葉は要らないようだ。互いが大きな自然の中に抱かれているからだろうか。下山の時刻が来て再び登山列車でもと来た道を下る。今度は今まで気づくことの少なかった、ふもとの青い水をたたえたブリエンツ湖(Brienzersee)が山の木立から見え隠れするのや、移牧の牛が草を食む斜面を見ては、歓声を上げる。同じような登山列車が赤色などの車体を鮮やかに見せながら後ろ前と上り下りするのも見える。下山は早い。


再び長時間のバスで帰り道を急ぎながら、宿舎へと戻ったのは6時を過ぎていただろうか。しかし、到着早々間髪をいれず夕食の合図がなる。着替えもそこそこに皆食堂に集まる。今晩はどの人と一緒に食事をしようかな、となるべく今まで触れたことのない人と隣席につくように場所を選ぶ。そうかと思うと逆にいつもじっと離れない人もいる。何もかも自由である。快い疲れで食事もはかどり、互いに打ち解けあい会話も弾む。そういう中で集った人々の間に朝、祈り会をもってはどうかという話が自然と盛り上がってきた。もちろん参加は自由である。かくしていよいよ集いも佳境に入る気配を見せる。第8日目はこうして終わった。

2010年10月21日木曜日

第6日 主はまず夫を救われた

(ドイツ Titisee チチ湖を望み見る)
 いよいよ第6日目(現地10月7日Thu.)である。午前、夜と二つの集会が持たれた。開会に当たる集会ではご夫妻が語られ、それぞれ夫である兄弟がメッセージ、妻である姉妹が証をなさった。夫である兄弟がご友人を通して主イエス様に出会われ救われなさった。妻である姉妹は戸惑いをしばらく覚え苦しまれたが間もなく救われた。しばらくしてその後大きな試練に会われた。思いもかけない方法でお嬢様をなくされたからである。主を信ずる者に、なぜそのような試練が与えられるのか、と普通の人なら考えるところだが、逆に救われていたからこそ、その試練に立ち向かうことができたと兄姉はいつも証してくださっている。

何度、お聞きしてもその件(くだり)に来ると涙なしには語られないことだし、聞く私たちの側でも同じ思いにされる。それだけにそのおり、兄姉が聖書が伝える「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」(ヨハネ12:7)というイエス様のおことばにゆだね、いかにお嬢様との天の御国での再会を待ち望んでおられるかを改めて知り、襟を正される思いだった。開会の集会を通して「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)と静かなフィリンゲンの過す一日一日への備えがなされる。

参加者はほぼ百名であった。ご夫婦単位の方もいらっしゃれば、そうでない方もいらっしゃる。それぞれ様々な事情と背景を持つ者が主イエス様をよりよく知り、体験したいという思いで全国から集まられ、遠くドイツまでやって来られたのだ。司会に当たられた方はこの「ドイツ喜びの集い」参加を願いながらもこれまで中々仕事の都合上できなかったが、今回やっと職場の方々の同意も得てここまで来れたかを話してくださった。旅は送り出す方々の暖かい愛と配慮なしには不可能であることを思い、ここで過す一瞬一瞬も無駄にはすまいという覚悟が一同に及ぶ。

集会の終わりには日曜日アイドリンゲンの地でご披露する賛美の練習が行なわれた。もともと男性は20名程度で女性より参加者が少ない。自ずとパートを受け持つ者の責任は重くなる。私はテナーであるが、全く楽譜が読めない、音が取れない、心もとないことと言ったら、これにまさるものはない。しかしドン・キホーテよろしく、とにかく指揮をしてくださる方やピアノ伴奏をしてくださる方に励まされながらの練習となった。そんな覚束ない練習だが、互いに一つのものを作り上げてゆく喜びだけが支えであった。

午後は天候も良いとなって、急遽バス二台を仕立てて、チチ湖へ出かけた。私にとっては初めてではなく、過去、二、三回ほど訪れた湖である。前回などは家内と湖畔を一周した懐かしい思い出の地だ。しかし、すでに足を痛めている家内ゆえ、家内とは離れて行動する。このような観光地をあてどもなく散策しながらお互いを知り合って行けるのがこの「喜びの集い」の魅力であろう。ところが今回私は欲張って少しでもいい景色を撮りたいという思いに捉われてしまっており、上のような事情もあって一人になることが多かった。後で振り返り惜しいことをしてしまったと思った。

宿舎に戻り夕食の後、夜の集会が持たれた。夜の集会は別のご夫妻が当番でそれぞれ午前と同じようにメッセージと証がなされた。夫である兄弟も旅の中でメッセージを依頼されたのであろう。ノートパソコンを覗きながらのユニークなメッセージとなった。引用聖句は「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」(ヘブル9:28)であった。奥様である姉妹の証は、救われる前のご主人が若いとき哲学青年であったこと、人の目を直視することができなかったなど内省的な姿が披露され会場に暖かい笑いを誘いながら始まり、その夫より後に救われることになる自らの救い、親族への救いに話が及んだ。夜の司会を受け持たれた方は二人のお姉様をはじめお婿さんやお孫さんもご一緒で総勢10名程度が参加できたことを喜びをもって語られた。一人でも多くの親族友人が救われて欲しいという願いがこの集いを支えている。一日目にしてすでにこの集いのすべての特徴が網羅されていたと今にして思う。

2010年10月19日火曜日

第5日 主のご計画

(エジンバラよさようなら、中央尖塔はエジンバラのシンボル)
いよいよ日本を後にしての海外での第5日目を迎えた。この日は早朝エジンバラを離れ、チューリッヒへと向かう日になった。日の出の遅いエジンバラであるが、空模様を心配した。7時の朝食を済ませ、あわただしく空港へ向かう準備を整えた。ところが外は生憎雨が降り出し、これが本来のエジンバラ天気なのだろうかと思わされた。ほぼ晴天に恵まれたエジンバラ観光だったのに、このため空港へはバスでは行けず、タクシーを呼んでもらった。

雨中、気さくなスコットランド気質の運転手さんにエジンバラを「queen's city」と勝手に造語し誉め、名残惜しそうに郊外の景色を眺めながらタクシーに身を任せた。2、30分で空港に着いた。料金は15.15ポンドであった。日本円にして2200円程度であろうか。大きなタクシーにゆったりと乗ることができ(後で自分たちの体が小さいのだと気づいたが)、重いスーツケースも気軽に運んでもらい、すべて快い思いを抱いてエジンバラを後にすることができたのは感謝であった。

チューリッヒ空港は久しぶりである。エジンバラからは途中ロンドン空港で乗り換えたが飛行会社はBA(イギリス航空)であり、当然日本人乗客は少なく果たして無事に行けるか不安だったが、スムーズに乗り継ぎもでき、空港にはすでに現地に一日早く来ておられたWご夫妻に迎え入れられてほっとした。その上、成田からチューリッヒに飛んだキリスト集会の方々よりは一足早く到着して、逆に一行をお迎えする立場に立った。

(ドイツ上空、アルプス山脈が姿を)
3、40分程度待ったか、お馴染みの方々が三々五々到着ロビーから出て来られて、いよいよ一週間にわたるドイツ・フィリンゲンでの喜びの集いに参加する者が一堂に会し、新たな緊張と喜びに包まれた。(厳密には別便でもっと遅くミュンヘン着でさらにフィリンゲンに急行される方々もおられたのだが)到着客の最後尾にベックさんご夫妻の姿が見えた。いつもよりは心なし足取りが重そうであった。発熱を押してのご旅行になったと後で知った。

一瞬、心に不安がよぎった。一軍の将が病気なのだ。しかし、その後の日々を通して、様々な困難のうちにあった「喜びの集い」が「主の計画」であることを確信せざるを得なかった。その後、日本に帰って、「祈りのハイド」(フランシス・A・マッゴー著 瀬尾要造訳)という作品を読んでいたら、次の箇所に行き当たった。

しかし、ハイド氏の病状は悪化していました。そのうえ、彼のミッションの年会は彼を招いていました。心配なので、私は彼を医者に連れて行きました。翌朝、医者は言いました。『心臓がひどい状態です。これまで、こんな悪い症状を見たことがない。左側にあるはずのものが右側に移動してしまっています。過労と緊張のため、こんなに悪化したのですから、普通の状態に回復するまでには、長期の厳重な安静が必要です。いったいあなたは、何をしてこられたのですか。』親愛なるハイド氏はひとことも語らず、にっこり笑っただけでした。けれども彼を知っている私たちは、その原因が、彼が導いている回心者のため、同労者のため、その友人のため、そしてインドの教会のために多くの涙をもって熱い祈りをささげた、日夜の絶え間ない祈りの生活のゆえであることを知っていました!」(同書63~64頁)

ハイド氏とベックさんを重ね合わさざるを得なかった。かつて、もう10数年以上前、初めてベックさんとともに400名ほどの日本人がドイツに行った時、ベックさんのささげた最初の祈りの言葉を思い出す。それは「主よ。こんなに大挙して日本人が来てくれました」という誇りに満ちたことばでなく、「主イエス様、(私は罪人の一人に過ぎません)あなたをより深く知りとう存じます。この集いでもどうぞよろしくお願いします。」という主へのくだりの祈りであった。

そのベックさんが今回病を押して喜びの集いを計画された。もちろんベックさん一人の計画ではない。日本・ドイツをはじめとする主にある多くの人の祈りが背後にある。何よりも次の主のことばの励ましがあることを、私はそれまでの夫婦だけの旅では決して知りえなかった、「計画」に対する、もっと深い主の導きを体験的に知った。

この確信をもって、私は次のような計画を立てました。・・・この計画を立てた私が、どうして軽率でありえたでしょう。それとも、私の計画は人間の計画であって、私にとっては、「しかり、しかり。」は同時に、「否、否。」なのでしょうか。・・・私たちが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり。」と同時に「否。」であるような方ではありません。この方には「しかり。」だけがあるのです。神の約束はことごとく、この方において「しかり。」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン。」と言い、神に栄光を帰するのです。(2コリント1:15、17、19、20)

かくて我々がフィリンゲンの宿舎の用意された暖かい部屋に退く頃、成田からミュンヘンまでの長時間飛行を経験し、その上5時間のバスを乗り継いで疲れきった後発グループも到着し、後は明日から始まる喜びの集いを待つのみになった。

2010年10月18日月曜日

第4日 I can do without you.

第4日目も晴れていた。しかし家内の足の痛さは相変わらずであった。遠出は諦めて、バスをふんだんに利用してエジンバラ市内へと出かけることに決めた。ところで行き先は再び書店と決めた。前夜、書店主からいただいた証を読んで痛く感動したからである。

(ロイヤルマイル内に位置する書店)
証の文末は「今日も宣教はみことばから離れることなく続けられています。いつまでもこのことは変わることはありません!救いは悔い改めと、主イエス様の忝(かたじけな)くも、流される清い血潮によってきよくせられることを確信することによってのみ可能です。主イエス様こそ唯一の救い主です。主イエス様はすぐに再び来られます」と結ばれていた。日本に帰ってきてこのパンフはネットでも見られることを知った。(くわしくは以下のサイトをご覧いただきたい。)
https://mccallbarbour.co.uk/about/

さらにその本文には昨日お会いした兄と妹がそれぞれ幼い時に救われたことが書いてあった。「兄は5歳、妹はもっと年端も行かない時(直接お聞きしたところによると3歳半とのことであった)」と書いてあった。ますますこの兄妹の方と再び会いたい思いがふつふつと湧き上がり、また昨日、探すことを忘れていた本や、買い残した様々な日めくりのカレンダーのことなどを思い出したからである。

こうして書店の扉を押して二度目の再訪を果たした。今度は本を片っ端から探した。前日見逃していた垂涎の書物が沢山あった。もっと若ければ購入したところだが、諦めた。変わったところでは、三浦綾子の「塩狩峠」の英語版が置かれてあったり、またジェシー・ペン・ルイスやハヴァガルの伝記も見られた。残念ながら、お目当てのAngus I. Kinnearの書いたウオッチマン・ニーの評伝「Against the tide」は見つからなかった。(後日談だが、数日後ドイツ・フィリンゲンでドイツ語訳を見つけた)

再び書店主と会話を楽しみ、日本から「実を結ぶ命」の英語版を送ることを約束して別れた。(のちにドイツで合流したキリスト集会の方々にこの店主との話を紹介したところ、早速一人の姉妹がドイツにまで日本から持参した同書の英語版を譲ってくださった。その姉妹も何のために持って来たか、特別当てはなかったそうだ。お役に立てて嬉しいと言ってくださった。帰国後、早速その本と私が所持していたものを合わせ二冊を航空便でお送りした。今ごろは日本からスコットランド・エジンバラへと向かっているはずだ。)

(右手壇上から語るのはノックス?)
その後、平日はお昼12時を期して行なわれる聖ジャイル教会(St. Giles' Cathedral)のDaily Serviceに出かけた。ジョン・ノックスゆかりの教会である。みことばの朗読が行なわれていたようだ。エペソ書やルカ伝が読まれており、家内も私もルカ10:38~42のように聞いた。その箇所は以下の通りである。

主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:41~42)

(堂内のノックス像)
堂内には観光客がちらほら、聞いていたのは私たち夫婦以外には3、4名のみで、淋しかったが、私たちはみことばを聞けたので満足して外に出た。アダム・スミス像、ヒューム像の間を観光客を交えて人々が闊歩する。道路はひっきりなしに、スコットランド特有の二階建てバスが走り去る。オズワルド・チェンバーズの通った教会もあったが、さすがそこまでは手が回らなかった。昼食をプリンセス通りのマグドナルドで済ませた頃には再び家内はダウン。止むを得ず、夫婦別行動を迫られた。明日はエジンバラを離れる。私にはもう一つどうしても訪れたいところがあった。それはDavid McCaslandの次の文章に関わる場所だった。

ある晩秋の夕べ、オズワルドは心を集中することができなくなり、部屋を出て、ホリールード館の保護区にある王室公園に向かって東の方に歩いていた。祈りに夜を徹して過そうと決心して、エジンバラを一望の下に見渡す市内でもっとも高いところ、「アーサーズ シート」以外に独りになるところはないと考えたからである・・・(『Oswald Chambers: Abandoned To God』56頁)

(アーサーズシート)
私はそこがエジンバラのどこであるかを最初から探していて見当はつけていたが、そこにいたるバス路線は中々見つからなかった。何しろエジンバラ市内には二つの運行バス会社がそれぞれ40数路線にいたるバスを走らせているのだが中々コースをつかめなかったからである。滞在わずか三日ではあるが見学の最終日、やっとあたりをつけて35番バスに乗車、ほぼ近くまで行けた。そこからは徒歩であった。家内が一緒だと足手まどいになるが、幸い私一人であった。夕闇迫る中、目的地を目指して歩行を早めた。その場所はまさに樹木一本生えていない草地におおわれたところであった。頂上を極めたかったが、こういう場合は一人のこともあり、心細くなり遠巻きに見ながら帰らざるを得なかった。しかし、この山「アーサーズシート」での「祈り」を通してチェンバーズが大きな主からの声※を聞かされたことを想起し、改めてチェンバーズにより一歩近づいた思いと、もう一方では近づきがたい畏敬の思いを抱かされた。

(鬼気迫るようにそびえる岩山)
※he heard a voice that actually spoke these words, "I want you in My service-but I can do without you."(彼は「わたしはわたしの召しにあなたをつかせたい、しかしわたしはあなたの力なしでことを行なうことができる」と確かに語りかけるみ声を聞いたのだ。前掲書57頁より)

(日本に帰ってきて慶應義塾大学出版会が編集した米欧回覧実記「イギリス編」を調べたらその238頁に明治4年9月12日すなわちチェンバーズの生まれる二年前に特命全権大使一行がこの岩山に登山したことが書いてあった。途中怖くなって尻尾巻いて下山した私に武士の魂はさておき、キリスト者の魂のひとかけらもないことに恥じ入らされた。)

ほとんど道案内もないまま、子どもたちの愛の贈り物を通してここまで導かれた今回のエジンバラ観光だが、一日、一瞬として無駄がなく、それぞれに深い意味があることを感謝した。宿舎に当てたホテルは日本でネットでさぐり、どこかわからないままで予約したが、その場所もまさしく私たちの行動にふさわしい場所であった。都心とも言うべき大きな駅であるウェイヴァリー駅でなく小さなハイマーケット駅が近くにあり、空港には最も近い場所であったことに気づいた。のちにドイツで人間の「計画」についてはるかに深い思いを教えられたが、エジンバラ観光はかくして私たち夫婦が「計画」の意味を知る緒戦の役割を果たしてくれたのである。マリヤのように、なくてならないもの、みことばにじっと耳を傾けることを教わった日々であった。

2010年10月16日土曜日

第3日 B.McCall Barbour書店

エジンバラに入って三日目。この日は朝から快晴であった。当初の私の思いではチェンバーズの生誕地アバディーンを訪ねるはずだった。ところが生憎、家内は連日の街歩きがこたえたか、これ以上、外には出られない様子で、とても電車でかの地まで出かけるのは無理だった。諦めてエジンバラ市内見学に精を出すことにした。

私は何としてもチェンバーズの足跡をたどりたいと思うし、家内はスコットランドのキリスト教文書を取り扱う書店に行きたいと願っていたようだ。しかし、この場合、主導権はもちろん夫の側にある。いくつかのチェンバーズゆかりの場所を私はすでに頭の中に入れていた。宿はエジンバラの南西にあったので中心街にはバス利用が好ましい。幸いエジンバラは二階建てのバスが何路線も沢山走っていて、四通八達できる。その上一日乗り放題のチケットは三ポンド(日本円にして400円程度か)で購入できた。勢い出かけることにした最初の目的地はエジンバラ大学だった。

エジンバラ大学こそチェンバーズが様々な碩学に出会い、彼が主イエス様からの召しと自己の芸術愛好の狭間の中で葛藤し続けた学の殿堂だ。以前からどうしてもこの大学を一目見たかった。しかし、意外やバスの中から簡単に見つかり、大学近くで下車することができ、やすやすと大学の中の最も古い場所に入れた。しかも構内の中心部は史跡保存のためであろうか柱石などが発掘中で、丁寧に扱われており、このところに学生時代のチェンバーズもいたかと思うと感無量であった。回廊を現在のエジンバラ大学の学生が多数行き交う。若い学徒とともにいることは何となく嬉しい思いがする。厚かましくも、資料館へ行き、ずばり、オズワルド・チェンバーズの資料を持ち出し、説明を求めたら、親切にある場所を教えてくれた。結局辿り着いたのは本部からさらに離れた図書館であったが。

さすがにそれ以上中に入る勇気もなく、チェンバーズの暮らした学生時代の雰囲気を肌身に感ずるだけで良しとした。さらに図書館を離れ、スコットが暮らした場所を見たりしているうちに、家内は歩き疲れて、もうこれ以上歩けない様子であった。疲れた足取りでバス停留所に向かおうとしていた。その時、何気なく通りの店の看板を見上げた。B.McCall Barbour Sound Christian Literatureと読めた。内心飛び上がらんばかりだった。これぞ、昨日路傍伝道していた方が私たちに教えてくれた書店名であった。住所こそ聞いていたが、広いエジンバラで、地図で探せば何とか尋ねあてることは可能と思っていたが、こうして一方的に書店の前に来るとは・・・。私たちにとっては天啓のごときできごとであった。

一階とあったが、一階にはそれらしきものは見当たらない。それもそのはず、一階とは日本で言う二階に当たるのだろう。勇気を出して狭い入り口から階段を上がった。上がり鼻にその書店はあった。足を踏み入れるや、一人の初老の男性が眼鏡越しにこちらを見る。客は私たちだけだった。私たちはすっかり興奮して次から次へと、私は本を、家内はキリスト教グッズ(賛美曲、カードなど)を探しにかかった。私の尊敬する方々の様々な書物を手にすることができた。F.B.マイヤー、スポルジョン、ウオッチマン・ニー、アンドリュー・マーレーなどである。残念ながらチェンバーズの本は「My Utmost for His Highest」しかなかった。余りにも私が様々なことを聞くので初老の男性はさらに別室にいた二人の方を呼んだ。白髪で上品な出でたちのスコットランド紳士であるお兄様とその妹様が現われ応対してくださった。

特に妹さんの方は私たちの訪問を殊のほか喜んでくださり、書店の由来について説明し、帰りがけには書店形成にいたる証のパンフレットまで下さった。お互いに人種を超えて抱きあわんばかりのフレンドリーな交わりを持つことができ、別れ際には「今度は『天国』で会いましょう」とまで言われたほどだった。家内も先ほどまでの足の痛みも忘れたかのように嬉々として姉妹との交わりを喜んだ。私たちは今回の何気なく始まったエジンバラ訪問がこの様な人々との生きた交わりにあったとは旅行前には微塵も想像しなかった。拙い貧しい祈りに主がこんなにも答えてくださることに改めて感謝したことは言うまでもない。

名残惜しい書店を辞し、次にはノックスゆかりの場所も訪れることができ、家内の顔もやっと立てることができた。ところが、その場所からはるか下に港湾が望見できた。私の食指は再び動き出し、港湾行きのバスを見つけ、出かけることにした。ところが、意外や時間はかかり、やっとの思いで港湾に出た。目で見る距離感とは大きな違いであった。それはともかく、そこで見た船舶の一つに、何とアバディーン行きの大型船舶があった。本来、この日に出かける目的地であった「アバディーン」にここで出会うとは。私はこの日アバディーンを訪れることはできなかったが、こうしてこの船舶の特徴ある赤色の胴体を見ることですべてを了解した気分になった。北海に面してエジンバラよりもさらに北東へ200kmほどある漁港の姿をある程度はMcCaslandの第三章A SCOTTISH BOYHOODで読んでいたからである。かくして三日目も主の祝福のうちに終わった。


あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(新約聖書 ガラテヤ3:26、28)

(写真上段はエジンバラ大学の構内、シンボルと思われるドーム型の屋根は画面反対側にあり、中庭を取り囲むような形で各教室が納められている。発掘が進んでいたのはその中庭に当たる部分で、画面の欄干の下の部分である。下段は言うまでもなくフォース湾に停泊中の船。画面を拡大してみていただければアバディーンの文字が読み取れるはずである。この紀行文の最初に掲載した空から見た光景は恐らくこの辺りの上空から見た姿であろう。)

2010年10月15日金曜日

第2日 路傍で出会ったジョージさん

 前回は思わず、フランクフルトからエジンバラへの飛行中のことに話が及んだが、実は成田からフランクフルト間こそ飛行時間12時間近くに及ぶ長時間の機内生活であった。乗客は日本人が圧倒的に多く、フランクフルト・エジンバラ間とは全く客層が異なっていた。その間ずっと私たちの隣に座っておられた方は一人の日本人女性だった。ところがその方と私たちが会話を交わしたのはほとんど終わり近くになってからだった。私たちには珍しいことだった。フランクフルトに降りる際にその方は家内に「お二人は研究者かと思いました」と言われたそうである。

 それには訳があった。スコットランド訪問に対して、事前にほとんど準備らしきものをしなかった私たちは、家内が「ノックスとスコットランド宗教改革」を、私は「Oswald Chambers: Abandoned to God」の一部をコピーして持ち込み、共通本としては図書館で前日借り出した「地球の歩き方 スコットランド&湖水地方」を持ち込んでおり、それらの読書に余念がなかったからである。もともと18切符愛好者にとって12時間弱の飛行時間はそんなに苦にならない。ましてスコットランドについては憧れこそ互いに持ってはいても、無知同然の初訪問であるから、読書にもってこいの時間と考え、隣の人と会話をする時間が惜しかったのである。だから隣席のご婦人がそのように言われても無理からぬことであった。でもキリスト者としては失格であると思った。イエス様のことをその方には伝えなかったからである。

 エジンバラに着いて次男夫妻に伴われるまま、夜間、市内を歩き回った。薄暗い夜間に、大きな石造りの古色蒼然とした建物がたくさんあり、灰色そのままで迫ってくるが、なぜか人の暖かさを感ずるのは私の独りよがりの錯覚であったろうか。次の日は日曜日、再び別の宿を取った次男夫妻と合流してホテルで4人でルツ記を互いに輪読しながら礼拝を持った。その後、本格的なエジンバラ訪問に出かけた。傘をしのばせざるを得ない天気のはっきりしない、しかも風も強い日であった。エジンバラ城に近づき、下ってはアダム・スミス、ヒュームの像の見えるあたりを歩いた。そしてパリへと帰路に着く次男夫妻とはその辺りで昼前に別れざるを得なかった。

 12月23日にやっと紙婚を迎える次男夫妻に別れ、ルビー婚の私たちはいささか心細さを覚えながらも足の向くままプリンセス通りを散策にかかった。ニュータウンとオールドタウンがその通りの両側に広がるが、私たちはまず本屋に入り込んだ。エジンバラのCLC(クリスチャン文書伝道団)の所在を確かめるのが目的であった。ところがこちらの英語力と、店員さんがそんな特殊な本屋さんを知っているはずもないということもあって、結局店頭では、要領を得た答も得られず、空しく外に出た。程ならずしてプリンセス通りのオールドタウン側、ウェイヴァリー駅から人々が上がってくるところに差し掛かる時だった。

 一人のスコットランド人の方が道行く人に何か語りかけては、文書を渡している。何となく惹かれて近づいてみると、様々なトラクト(伝道文書)を渡していたのだ。その上、私たちが日本人であることをすばやく見抜いて、簡単な「日本語聖書」を渡そうとされる。最初は未信者扱いをされていたが、私たちが自分たちの信仰を告白すると、路傍伝道はそっちのけで互いにキリスト者としての交わりになった。

 話してみると、仙台の知人も知っておられ、息子さんが日本人と結婚して北海道におられるという話も聞くことができた。再び家内がCLCの所在をこの方に尋ねる。するとその方はCLCは無いが、キリスト教図書を扱っている本屋が一軒あると言って、本屋の名前(B.McCall Barbour)と住所(28 George Ⅳ Bridge)を教えてくださった。その頃は、午前中の曇り空にも、時折陽が差し込み明るさが出て来るころだった。私たちの心にも、この不思議な、スコットランド人の一キリスト者との出会いを通して希望が湧いて来る思いがした。エジンバラではその後も中国人の観光客こそ見かけたが、日本人にはほとんどお目にかからなかったのに、この人は様々な人々が駅に乗り降りする場所で各国のトラクトを用意していたのだ。ギリシヤ語のものもある、と言う。通りすがりの人々の外見で判断し、とっさに文書を手渡すのだと言う。

 チェンバーズの評伝を書いたDavid McCaslandはその第五章冒頭で次のように書いていた。

ロンドンからの汽車が汽笛を鳴らしながら、プリンセス通りの華やかな庭園を過ぎ、ウェイヴァリー駅に向かって止まった時、オズワルドは「故郷」に戻った気分だった。彼はスコットランドを何よりも愛した。それは彼の生まれた国であった。彼はいつも注意深く自分の国籍はスコットランドであり、決して英国ではないと言い張っていたのであった。エジンバラ!オズワルドはどんなにこの街を愛していたことか。この街は暗く、時折、気分を滅入らせる外見を見せるが、そこには人々と神にとって何よりも偉大な記念建造物があったからである。※

 時移り、チェンバーズの歩いた街を知り、少しでもチェンバーズの歩みを感じたいと思っていた私を招いてくれたのはこの一人のスコットランド人の方であった。そしてその場所がまさしくMcCaslandをとおしてチェンバーズの故郷入りが印象深く描かれたウェイヴァリー駅、プリンセス通りの庭園近くであったことに、この無計画な旅に対する主イエス様による天の配剤を思わざるを得なかった。私たちはお互いに名前を言い合い、祝福を願って別れた。

ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て、刈る者たちに言った。「主があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「主があなたを祝福されますように。」と答えた。(旧約聖書 ルツ記2:4)

(※引用文章は「Oswald Chambers: Abandoned to God」47頁。写真はプリセス通りのluxuriant gardensの一角で見た花園。空は曇っていたのに、この明るさは何なのだろうか。まさしくluxuriantそのものだ。)

2010年10月14日木曜日

第1日 子どもたちの贈り物

子どもたちがそれぞれお金を出してくれ、ヨーロッパの旅に行かせていただいた。結婚40周年を祝してということだった。ちなみに結婚50周年は金婚式として有名であるが、一年目からの紙婚式をはじめとして様々な呼び名があることをこの機会に知った。40年目はルビー婚式と言うそうだ。夫婦の関係が「紙」のようなものから徐々に堅固なものへと変わることを指してつけられている。

ヨーロッパと言えば、いつも「喜びの集い(バイブルキャンプ)」で出かけるドイツや次男のいるパリ・フランスが当然候補に挙げたいところだが、まだ引越ししてリフォーム中とあっては訪ねることも出来ず、果たしてどこがいいかと話し合ったが、夫婦して「スコットランド」に期せずして一致した。

スコットランドは私にとっては経済学の祖であるアダム・スミスの母国としてなじんでおり、最近では日々読んでいる、オズワルド・チェンバーズの母国でもある。家内は「我にスコットランド(の救い)を与えたまえ、しからずば我に死を与えたまえ」と祈ったジョン・ノックスの母国として憧れていたからである。

それ以外何の知識もないまま、先ごろスコットランド・エジンバラ空港に降り立ったが、主なる神様はこのような愚かな私たちの思いにまさるできごとを用意してくださっていた。成田からフランクフルトとを経由してエジンバラへとルフトハンザで飛び立ったが、フランクフルトからエジンバラまでわずか二時間弱の飛行時間の中で一人の女性の方と乗り合わせた。

乗客は多くはなく、空席も目立ち、その上日本人は私たちだけで、多くがヨーロッパ人ばかりであったが、その方は私たちにとって最初から目立った白人女性であった。年の頃は70代であろうか。開放的で私たち新参者にも親しめる雰囲気を持っていた方であった。ところが飛行機に乗ったところ、よりにもよってその方が家内の隣に座られた。ほぼ30分程度はお互いに知らぬ存ぜぬと仏頂面を決め込んでいたが、そのうちにその方が何かとオーラを発してこられた。

あっという間にお互いに身振り手振りで話し込んでしまい、気がついてみたらエジンバラへの着陸態勢に入っていた按配であった。話によると、その方はロシア生まれロシア育ちだが、20年ほど前からスコットランドに来ており、今では大学で英語からロシア語への翻訳の仕事に関わっているということだった。再婚なさり、魅力的なロシア人由来のファーストネームと再婚なさった方の典型的なイギリス人のファミリーネームの組み合わせになるお方であった。私たちがロシア人として尊敬しているドストエフスキーやトルストイ、プーシキンの名を持ち出すと、大いに共感を示され喜ばれる。チャイコスキーの名前を持ち出せば、間髪をいれず「悲愴」を目を閉じながらハミングしてくださる、というご愛嬌ぶりであった。話は進み、ロシアの今の国情を憂え、それに対して、いかにスコットランドが純朴ですばらしいかと比較され、その方がスコットランドを第二の母国としてどんなに愛し親しんでおられるかが伝わってくる内容だった。遠く日本から初めて出かけてゆく私たちに良き道案内をしてくださることになった。(もっとも果たしてこちらが話の内容を正確に理解しているかどうかは心もとないのだが・・・)

着陸寸前、名刺を交換して取るものも取りあえず、その方とは別れ、空港出口へと急いだ。出口には、会社の社員旅行でロンドンに出向き、そのついでにエジンバラに先に着いていた次男夫妻が出迎えてくれた。次男たちの側には私たちの見知らぬお年寄りの女性がいた。すぐ知ったことではあるが、到着を待ち合わせている間にその方とは知り合いになったようだった。ところがその方が迎えに出られたのは私たちの隣席にいた女性であった。こうして私たちは不思議な出会いをあっと言う間にほんの二時間足らずの間に経験させていただいたのだ。

不安だらけの私たちであったが、先立つお方が不思議と何の不安もなく、適切な人をそばに置いてくださったのである。約10日間余りのヨーロッパ滞在の一部始終がこのような主の導きなしには考えられない出来事ばかりであった、このところ休載勝ちであったこのブログもそういうわけでしばらく私の赤ゲットぶりを披瀝するものになりそうだ。ご寛恕をいただきたい。

主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。(詩篇139:1~3)

(空から初めて見るエジンバラ。エジンバラは曇りがちであり、中々いい日和には恵まれないと、旅の道中、ある方からお聞きした。果たしてその通りの初日であった。)