(アイドリンゲン・ムッターハウスの賛美:photo by K.Aotani) |
私はあなたの御前から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕えます。(詩篇139:7~10)
日曜日は礼拝の日である。イエス・キリストを信ずる前に、私にとって信仰を持つ上で障害の一つになったのは、この日曜の存在であった。それまで日曜は午前中は一週間の労働の疲れを癒すためのくつろぎの時間であり、自由に過ごすことのできる天下御免の日だった。その余暇を音楽を聞いたり、映画を見たり、時には東京まで出かけ美術館などに行く時間にあてていた(その当時は足利に住んでいたが)。ところが日曜午後になるとそろそろ授業のことが心配になり、来るべき週の備えのためにあわてて準備に専念するのが落ちだった。その私の生活パターンは、もし「日曜礼拝」というものを受け入れるなら完全に崩されてしまう。
そんな私に結婚前の家内が熱心に教会への出席を勧めた。愛は強しである。愛はそんな私の思いを打ち壊したからである。逆に教会に行ってみると、そこでは人々が暖かく迎えてくれた。また何よりも礼拝に参加することを通して「いのち」の洗濯ができるような清々しい思いになった。いつの間にか勧めらて行くといういやいやながらの状態から、自ら進んで出かけるように変えられていた。
こうして40年前に結婚してからは二人して日曜日に教会で礼拝を守るということは当たり前になった。もちろん折角の日曜日が礼拝に出席するために、初めの頃は授業の準備が十分できないということも生じた。
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。(出エジプト20:8)
これが、主イエスを信じようと信じまいと、すべての人間に、生けるまことの神様が私たち一人一人に求めておられるご命令である。そのことに触れてベック兄は『神の聖なる戒め』130頁で次のように書いている。
一生涯における日曜日というものは、その人にとって大変大きな財産であり、そしてまた同時に大きな責任を伴ったものであると言えましょう。たとえば70歳になった人は、それまでの人生において10年間に等しい日曜日を持ったことになるわけです。あなたはおいくつですか。あなたはすでに何年間分の日曜日を持ったことになるのでしょうか。そしてあなたはそれをどのように用いたのでしょうか。誰一人として主の御座の前で言い訳をすることはできません。「私たちはそのための時間がありませんでした。」と言うのが、神のみことばを避けたい現代人の言い訳ですが、それは主の御前に何の言い訳にもなりません。
私たちが海外に出てすでに9日目にあたる日(現地10/10)は私たちがドイツで多くの方々と礼拝を持つ日になった。礼拝の中でイエス・キリストの贖罪を象徴するパンとぶどう液にあずかり、その後の福音集会ではドイツ人の方から「主イエス様の心構えとは」と題して適切なみことばをいただいた。
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。(ピリピ2:3~7)
そして100人余りの日本人はさらに午後二時からフィリンゲンから7、80km離れたアイドリンゲンというベックさんを生み出したムッターハウスの地での集会へと参加するためバスで長躯二時間かけて出かけた。
そのバスの中、私は隣席の方とともに、その方が練習のときに録音された音を頼りに今日ご披露する賛美のテナー部分を繰り返し練習した。周りの女性たちもいつの間にかその私たちの熱意に動かされてソプラノやアルトの部分を歌って協力してくれた。調子に乗った私たちはさらに熱心になり、バスの後部座席に陣取った私たちの賛美はにわかにバス全体を支配するまでに至った。その内にいつも合唱をしている女性たちの間から「本番になったら声が出なくなるといけませんから、この辺でやめたほうが良いですよ」と助言をいただく程だった。
(tea time: photo by k.Aotani) |
最後が日本人による賛美二曲だった。ピアノ伴奏による混声四部合唱に青谷友香里さんのヴァイオリンの演奏が加わる。「再び主が来られる時迫る。その日、空は輝き、主を告げる。待ち望むその時よ、われらは空に上げられ、雲の中主とともに御国に上る喜び。」と賛美した。あんなに練習したのに肝心のテナーである自分は全く音が取れずに苦労する。しかし、ヴァイオリンの音色がいやが上にも天を憧れて上るようだった。すべてが終わった後、ムッターハウスの責任者の方から「今、私たちは天国にいるようだ」と最大の賛辞をいただいた。
その後は交わりのためのコーヒータイムだった。それぞれ数テーブルに分かれての、ドイツ人の方を交えての、身振り手振りよろしくカタコト英語で話しかけるお交わりとなった。何度か来ているので顔見知りの方もおられるのだが、ドイツ語が話せず、英語も自由に話せないのはもどかしい。別れがたい交わりもお開きになり、次男夫妻もパリへと帰ってゆく。
宿舎に帰っても、日曜日ともに主を礼拝、賛美できた喜びに満たされていた。そして私たちの間にはより一層の親密感、「天国」の住人とせられている一体感が増し加わった。夕食の交わりはその証で満ちていた。夜、部屋に退いて床に着くときも、賛美で歌った「天国」のメロディーがいつまでも体中をめぐっている。昼間、ドイツ人の方とは中々コミュニケーションが取れず苦労したことを思い起こす。それでも天国では「天国語」で話すと言う。その時、今度は「天国語」がものを言うのだろう。そう言えばあのスコットランドの主にある姉妹も「今度は天国で会いましょう」だった。
日曜日は天の御国を何よりも思う時だと合点する。かくしてわが「ルビー婚」の旅もそろそろフィナーレに近づく。残すは後二日になった。
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