「どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように」(ローマ15:13)
希望は人の心に灯をともし、心の盃にうま酒をあわだたせます。希望の光が一度心の暗を破る時、生活のベルトは勇ましく回転し始めます。希望こそは生活の工場のすみずみまでも震動させるふしぎな動力です。
人はその所有する望みにふさわしく生きるもので、その望みが多種多様なように人の生活も多種多様です。天につける望み、地につける望み、霊の望み、肉の望みなどその人が未来に、また将来にもつ希望がその人の現在の生活の原則となってその生活を形づくるという事は確かな事実です。ですから現在の生活を見てその人の将来への希望を知る事ができるもので、もしその人の希望が永遠の栄光につながれている時は、その生活は永遠にふさわしくこの世において星のように輝くのは当然です。
これに反して希望なき人生は何と惨めでしょう。生きるという事が重荷となって迫り、鉛の靴が足を重くします。よし望みをもっているつもりでも、それが確かなものでないなら人生は失望と違算に終わる事でしょう。
信仰の勇者パウロは「キリストに望みをおき、生ける神に望みをおいた」と記しています。不変の望みはただ神にのみあります。神は歴代の優れた聖徒、信仰の勇者達を通しその生活の事実をもって望みの神を示し「希望は失望に終わることはない」と証させたまいました。
アブラハムの偉大さは、無から有を呼び出される神を信じた事です。「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」とあるように、その希望が神におかれていた所に生活の源泉があり、そこから彼の生活も人格も作り上げられ後世を導く明星となったのではありませんか。偉大な預言者は崩壊の近づく羽音を聞きながらもなおそのかなたに約束された回復の恩寵を信じて、望みを失いませんでした。
御言によって望みをいだいた彼らはこの望みを存在の支柱とし、患難をも喜び、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生み出しました。パウロは自らが苦難を味わい、生きる望みさえ失おうとした時にもなお失望に終わらぬ望みを、事実身をもって証したのです。
ある船が大洋の真中で遭難し多くの者が波間に投込まれ、救助の望みさえない長い時間を過ごし、殆どの者は飢えと寒さに死にました。ところがただ一人不思議に生き永らえて遂に救われました。その理由は、事実は他の人々と同じく波にもまれつつ死に瀕した時、ふと思い出した事は「ああ今頃我家では妻が出産した筈だ、その子のために」と強い希望が胸に湧き上がった時、死を征服して希望が勝ったのです。現代の危機に面している私共も、更にまさった希望の故に勇気を出して生ける神に望みをおき「希望は失望に終わることはない」との御言を信じ、望みにあふれさせて下さる神を生活をもって証しようではありませんか!
(文章は『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著10月3日の項より引用しました。「希望は失望に終わることはない」のみことばは、今から26、7年ほど前一人の女子高校生のうちに成就しました。彼女は自ら招いた死に至る損傷の中で奇跡的に助かり、手術台の上でこのみことばを頭の中で大きく描き、かつ瞑想し、痛みに堪えた、と私に語りました。そして6、7年ほどして、今度はまことの救いを体験しました。今では二児の母親です。げに「望みの神」は、今も生きておられます。写真は季節はずれだが、盛夏のおり見た野いちごです。)
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