「わが魂はもだしてただ神をまつ。民よいかなる時にも神に信頼せよ!」(詩篇62:1、8)
ある高徳な師が弟子である青年の問いに対して「昼でもない夜でもない時があったら、あなたはそのような本をお読みなさい」と言ったということですが、これは興味ある答です。この言葉は当時まだ年若かった私の心を強く捕えました。なぜなら結局時を大切にする人にとっては、そんな本を読む必要がない、理想を高く持つ者は時の浪費をさけなければ実を結べないと言う事です。
われわれが聖書に帰ります時、更に積極的な生活戦線の指導を発見することです。人々はこの世の凶暴な力に捕えられ、不安につつまれているような環境の下に在りながらも「神により頼む者は失望に終わる事はありません」「神に頼りたのむ者はさいわいです」等と多くの聖徒達が自らの信仰経験を証しているのを見ます。
更に聖書は「いかなる時にも神に信頼せよ」と命じていますが、いかなる時にも、という言葉のうちに含まれていない時がありましょうか。すべての時は神の聖手のうちにあります。悲しみの時も苦難の時も、喜びの日も憂いの日もすべてのものを統べ治めたもう神に信頼せよとは、何と偉大な勧告でしょう。これこそ最高の生活であり、あやまたぬ勝利のコースです。
われわれは世のならわしに頭を下げては失敗します。神への信頼だけがもたらす強力な能力をもって勇者の如く前進しましょう。高い目標は人を安逸の椅子に坐せしめてはおきません。もし絵筆をとるならばミケランゼロを夢み、楽器に向かえばバッハを仰ぎ、ありし日の彼らを努力の目標とし、神の友アブラハムの試練を思い、祈りの人サムエルの深さを理想とし、信仰より信仰へ、恵みより恵みへ、力より力へと、神の賞与を得ようと走りましょう。
世の安価な「やすっぽい」快楽に心をひかれて、ローレライの魔の淵に己が生涯の小舟を沈没させる愚者にならないように、いかなる時もさめて神に信頼する事です。一体人間の能力は限度があり、思いがけぬ逆風に遭遇して漕ぎなやみます時も信仰をもって神に頼りたのみますなら、希望は失望に終わる事がない。これは真実な神の約束です。もしわれわれが天のかなたに思いを馳せる事を怠って、永遠を思う思慮を放棄しますなら必ず見えるものに心をうばわれ、かくされた見えない宝の発見に力を失い、愚かにも悔いて帰らぬ空しい時を過します。
義人は信仰によって生きるとは不変の真理です。もし神を見失いますなら永遠をも見失い、永遠を放棄する時希望は失望に終わります。
主イエスは試練の極度の十字架においてさえも「彼は神に信頼している」との堅固な姿を破られなかったのです。これこそ信仰の極地であり沈黙は光を放ったのです。この混乱のただ中にあって、わが岩、わが避けどころなる主を仰ぎ、ひたすらなる信頼をもってただ神をまちのぞみ、その深き恵みを味わい知りたいと祈るものです!
(文章は『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著10月17日の項より引用。写真の花はエジンバラのluxuriant gardensの一角より撮影。)
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