説教者は説教を作る人ではなく、人を造り聖徒を造るものです。しかしまず、自分みずからを人、また聖徒に仕立て上げた人であって、初めてこの働きに対してよく訓練された人であるということができます。神が必要とされるのは、すぐれた才能をもつ人でもなければ、大学者でもなく、また大説教者でもありません。神が求められるのは、聖潔であり、信仰に富み、愛に富み、忠節に富む大いなる神の人、すなわち常に講壇においては聖い説教により、また講壇外にあっては聖い生涯によって説教している人であります。こういう人こそ、この時代の人を神のために形づくることができるのです。
初代のキリスト教徒は、このように形づくられていました。彼らは勇敢で、また剛直であり、兵士らしく、しかも聖徒らしい人々であって、天の型に従って堅実に形づくられておりました。彼らにとっては説教は克己と自己磔殺(たくさつ)の事業を意味し、また容易でない労苦を伴う殉教的事業でありました。彼らはその時代に影響を与えるように全力を注いで説教し、その説教の中に、やがて神のために生まれるべき時代を構成したのです。説教する人とは祈りの人でなければなりません。祈りは実に説教者にとって最大の武器です。祈りはそれ自体が万能の力をもち、またすべての人に生命と力とを与えるものであります。
真の説教は密室で作られます。人――神の人――は密室において造られるものであります。彼らの生涯と最も深遠な罪の自覚とは、彼らがひそかに神と交わった結果として生まれます。霊魂の重荷と苦悩、ならびにその最も力のある、甘美な説教は、彼らがただひとり、神とともにあったときに得たものです。祈りは人を造り、祈りは説教者を造り、また牧師を造るものであります。
現代の伝道者は祈りが非常に薄弱であります。自分は学問があるという誇りは、祈りという依存的なけんそんに逆らうものであります。今日祈りは伝道者にとって、どんなにしばしば事務的なものであり、おきまり的な奉仕に過ぎないことでしょう。パウロの生涯とパウロの働きにおいて偉大な力をもっていた祈りは現代の伝道者にとっては、ほとんど何らの力にもなっていません。およそ祈りをもって、その生涯と奉仕とにおける有力な原動力としない説教者は神の事業の代理者としては虚弱であって、この世に神の計画を進展させるには無力であります。
(先輩の一言をきっかけに読み直してみた『祈りの力』E・M・バウンズの本の冒頭の一章を(上)(中)(下)の三つに分けてご紹介した。ルカの福音書に「イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。」6:12~13と記されているイエス様の祈りの重要性を改めて思わされる。写真は今年の盛夏、田舎の川縁で望見したもの。滋賀県犬上川でのこと。「炎天下 鷺二羽たむろ 魚求め」 「イエス君 漁どる弟子 任命す みこころ求め 徹夜の祈り」 )
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