暗黒! 真夜中! 最後の別れが告げられ、最後の握手がかわされました。そして、あなたがいのちをかけて愛していたいとしい者が、あなたから去っていき、あなたはやるせない心細さの中に残されます。痛む心をいだき、呆然として、埋葬式という胸の張り裂けるような、恐ろしい経験をします。自分がこの地上ですべての愛情を傾けた者をその中に収め、冷たく黙している墓に背を向け、家路につく時、あなたは苦悩のあまり声をあげて泣き、これから先どうして生きていけばよいだろうかと途方にくれるのです。
日はきたり、そして過ぎ去っていきます。長い暗い夜、あたりが静まり返っている時、いとしい者のおもかげが数かぎりなく、あなたの疲れきった頭を去来します。けれども、それはただ苦しみを増すだけで、慰めにはなりません。友人たちも、あなたを助けることはできません。宗教にさえ、あなたは失望してしまいます。教会は慰めを与えることができず、神は自分から遠く離れておられるように思えます。「ああ、消え去った手の感触よ、黙してしまった声の響きよ!」—これが、あなたの苦悩の叫びです。
しかし、ついにある日—ああ、それはなんという日だったことでしょう—、あなたは助け主について聞きます。この助け主は、あなたのような経験をしている者のためにこそ、つかわされたのです。最初あなたは、どのように助け主を受け入れてよいかわからないで、暗やみの中で手探りしています。あなたはイエスのみことば—特に、イエスがつかわそうとしておられるもうひとりの方についての約束—を読みます。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです」(ヨハネ14:16)。ただちに、このみことばはあなたの注意を引きます。「これが、私に必要なものではないだろうか。ああ、どうしてこれを手に入れるかを知ることさえできたら!」どうしてそれを手に入れるか! あなたはもう一度読みます。やがて、光がもたらされます。それをではなくて、その方をなのです。
突然、神はあなたの霊的理解力に活力をお与えになります。そして間もなく、あなたは助け主である方にある喜びを味わうようになるのです。驚いたことには、あなたの悲しみは去り、心痛はやみます。あなたの思いは、もうひとりの方にだけ集中されます。ただちに、あなたは自分の失ったものを思い起こします。しかし、流れ出ている涙は、今では感謝と賛美の涙であり、聖霊にある喜びの涙なのです。あなたのいとしい者は帰ってはきません。しかし、もうひとりの方、助け主が、あなたの心を満たしておられ、あなたにとって何ものにも代えがたいものとなっておられるのです。放心状態はまだ存在しています。しかし、それは不思議に満たされており、すべては最善なのです。ああ、なんという助け主でしょう。
初代教会ではこのようでした。「聖霊に励まされて前進し続けた」(使徒9:31)。聖霊はその当時に助け主であられました。そして、今でもそうであられるのです。聖霊がおられないでは、任務を果たすことはなんと困難であることでしょう。しかし、聖霊がともにおられるならば、なんと容易であることでしょう。愛するみなさん。あなたはこの方を必要としています。実際、この方なしには、あなたはやっていけないのです。なぜ、あなたは神の最上の賜物—御霊—なしに、この人生を過ごすのですか。※
(『聖霊の満たし』オズワルド・スミス著松代幸太郎訳119頁〜121頁より引用※引用者註:ルカ11:9〜13参照のこと。)
2017年4月1日土曜日
2013年10月1日火曜日
真夜中すぎ(最終回) ポーロ・B・スミス
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| そばの収穫、夏 ミレー |
私は神の御霊が、われわれの生涯に境界線をお引きになるとは思いません。しかしわれわれが、主イエス・キリストを常習的に斥けることにより、みずから境界線を引くことができるものと、固く信じています。
あなたは言うかもしれません。「しかし、私が神に向かって最後の『ノー』を言ったことを、どのようにして知ることができるでしょう。あるいは私は、自分の生涯に境界線を引いたため、すでに機会をなくしているかもしれません。また私の心は、神の御霊の訴えに対して余りにもかたくなになり、かつ無神経、無頓着になったため、もはや私の心がやわらかくされて神に立ち帰ることは、あり得ないかもしれません。しかし、境界線が引かれたのはいつであるか、どのようにして知ることができるでしょう。」
あなたの心はかき立てられるでしょうか。少しでもあなたは、関心を持っているでしょうか。認罪をもたらす神の認罪の力が、多少でも存在している証拠があるでしょうか。あなたは魂の救いに関して、少しでも気をつかっているでしょうか。もしそうであったら、あなたはまだ境界線を踏み越えていません。関心があり、気づかいがあり、なんらかの渇望の印があるなら、まだ遅すぎないのです。
聖書はまだ「主の名を呼ぶ者は、みな救われる」(使徒行伝2・21)と読むことができます。もしあなたが今日、救いを求めて主を呼び求めるだけの関心があるなら、あなたは救われるのです。聖書は「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」(ヨハネ6・37)と言っています。もしあなたの側に、主のみもとにくるだけの関心があるなら、あなたは拒まれることはありません。神はあなたを受け入れ、あなたを御自分の子どもにしてくださいます。しかし、あなたが救われるために、今主の御名を呼び求めるように、せつにお勧め致します。神の子どもにしていただくため、今主のみもとにいらっしゃい。そして、このメッセージが語られている時にも、主を救い主として受け入れることを拒み、またもや神に向かって「ノー」を言い、このことによって、あなたの生涯に境界線を引き、夜中の時刻が鳴るのを用いて外に取り残されぬよう、心してください。
いつの日か、あなたが神との正しい関係に入る機会は、打ち切られてしまいます。あなたが祝福の喜びと神の御前における満足をもって永遠の中に案内されるか、それとも泣いたり、叫んだり歯ぎしりしたりしなければならない外の暗黒に投げ入れられるかは、あなたが夜中の前になす決心にかかっているのです。
そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』 と言った。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。(マタイの福音書25・1〜13)
刈り入れの日があります。しかし、刈り入れが終わりを告げる日もあります。機会に恵まれる夏の時があります。しかし、夏が過ぎ去る時もあるのです。あなたが夜中すぎまで外に取り残され、刑罰の宣告を受けて地獄にいる者らとともに、永遠の暗黒の中から、「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、私たちは救われない」(エレミヤ8・20)と絶望の叫びをあげないように、あなたが夜中前に扉の中に入ることを、神が許されるように。
(『真夜中すぎ』15〜17頁より引用。主を受け入れることに関して、自分自身の経験を振り返って見ると、最初から「ノー」と言って、自ら境界線を引く力は強かったように思う。しかしほぼ三年半の抵抗のうちに、いつの間にか主を受け入れていた。もしそれがなかったら、というのは今日それから40数年が経つのだから、主を受け入れることは私にとってより困難になったただろう。かたくなであり、心をセメントにも等しきもので固めていたあの若き時に主を受け入れることができたのは主のあわれみとしか言いようがない。もっとも主にとっては、人が老年に至るまで主に対していかなる境界線を引こうとも、主の愛は変わらないことを、私は自分のまわりにいる、救いを経験したたくさんの高齢者の方々の証を通して今も日々教えられている。「やみと死の陰に座す者、悩みと鉄のかせとに縛られている者、彼らは、神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを侮ったのである。それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。彼らはよろけたが、だれも助けなかった。この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、彼らのかせを打ち砕かれた。彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。まことに主は青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきを粉々に砕かれた」詩篇107・10〜16。)
2013年9月30日月曜日
真夜中すぎ(4) ポーロ・B・スミス
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| いえの ひとは かなしんで ないていました(絵本聖書より) |
ある人々は、すでに人生のうち「七十年」(詩篇90・10)の域を出ているのです。これらの人々は、すでに人生の峠を越え、墓が見える所に来ています。これらの人々は、ほかの人はいざ知らず、余す時が短いことを認めています。またある人々は、命取りの病にとりつかれており、自分も医者も、ぜんぶおしまいになるのは、ただ時間の問題であることを知っています。
あなたは、年をとっていようが若かろうが、健康であろうが病にとりつかれていようが、「死の陰の谷」(詩篇23・4)に住んでいるのです。あなたは、神が永遠の時より切り離された、有限な時の谷間を旅しているのです。この谷間では、死が管理者です。いついかなる時でも、あなたを犠牲者にすることができるのです。
いつかあなたは死なねばなりません。それはいつであるかわかりません。あるいは、今日であるかもわかりません。本当の意味であなたに属している時は、今この現在だけです。来年は神に属しています。来月は神に属しています。明日は神に属しています。あなたの次の時間は神に属しています。あなたのものである唯一の時間は今です。決心をすることのできる唯一の時は今です。キリストを受け入れることのできる唯一の時は今です。あなたは、あなたの人生における「今」を支配するのです。そして神が将来を支配なさるのです。
そのために、聖書は「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」(第二コリント6・2)と言っているのです。そのために神は、われわれの一人一人に「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるのか、あなたは知らないからだ」(箴言27・1)と警告しておられるのです。戦争と事故と突然の死がいつ襲って来るかわからないこの時代にあって、われわれは、この章句を次のように解釈することができるでしょう。「次の時間を誇ってはならない。一刻のうちに何がおこるかを知ることができないからだ」。
もしあなたが、今イエス・キリストを救い主として受け入れないなら、明日という日はこないかもわかりません。ひとたび死があなたを犠牲者としてしまうなら、あなたが神との正しい関係に入る機会は、過ぎ去ってしまうのです。夜中の時刻が打ち、そしてあなたは外に取り残されるのです。
夜中の時刻を打つ原因となる、もう一つのものがあります。キリストの再臨はこの世代にはおこらず、したがって、この世代に影響を及ぼさないかもしれません。またわれわれは、この地上において長い間生き延びることができるかもしれません。しかしながら、余りにもしばしばキリストを斥けることによって、みずから夜中の境界線を踏み越えることがあり得るのです。
ほとんどすべてのキリスト者の働き人は、主イエス・キリストを受け入れる多くの機会があったにもかかわらず、彼を拒み続けたため、ついに反応を示すことのできない点に到達したと思われる、幾人かの人々を思い起こすことができます。
それは、このようにしておこるのです。まず最初に福音を聞いた時、その人の心は、ふしぎにかき立てられます。その人を神のほうへと引き寄せる、強い罪の自覚の霊が働きます。また神の御霊は、彼が主イエス・キリストのほうへ足を向けるように、強く言い伏せられます。彼の内にあるすべてのものは、彼を促して、神の招きを受けさすかのように思えます。そして彼が招きを受けることは、この地上で最も簡単なことのように思われます。ところが、なんらかの理由のために、この最初の場合、彼は認罪をもたらす神の御霊の力を拒み、心中の争いを経験しながらも、イエス・キリストに向かって最初の「ノー」を発するのです。この場合、斥けることが困難で、受け入れるほうが簡単なのです。
福音を次の機会に聞いた時、彼の上に再び大きな認罪の霊が臨みます。神の御霊は、再び彼の生涯にお働きになります。彼の内にあるものは皆、再び彼を押し出すように促します。この時もまた、神に近づくことは簡単に思えます。しかし、こんども彼は、彼の生涯の中に働くサタンのさしずに耳をかし、「ノー」と言うのです。この場合、斥けることは、前にくらべて少しばかり簡単になり、一方受け入れることは、少し困難になって来ます。
それからも、彼は幾度も幾度も福音を耳にします。そのたびに、魂はあがきます。神の御霊は、罪の自覚をもたらします。そしてサタンは、反対のほうへとひっぱるのです。ところが、幾年もの間決心を変えないでいると、「いいえ」と斥けることは実にたやすくなり、反対に「はい」と受け入れることは、いっそう困難の度を増して来るのです。そうなれば、御霊の働きを斥けることは、日常の茶飯事となり、御霊の働きに身をゆだねることは困難になるのです。
(『真夜中すぎ』11〜15頁より引用。)
2013年9月29日日曜日
真夜中すぎ(3) ポーロ・B・スミス
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| キリストの昇天(使徒1・9) 絵:ギュスターヴ・ドレ |
この問題に対する質問は、最も大切なものであります。それは、われわれの生涯において、夜中の時刻を打つものは何であろうか、ということです。
もしわれわれが、キリストの再臨の時まで生きているとすれば、われわれの生涯において夜中の時刻を打つものは、この再臨であります。イエス・キリストが再び帰ってこられる時に、われわれ人類のうち、どの世代が生きているでしょう。これは次の世代であるかもしれません。あるいは、この世代であるかもしれません。この出来事を見逃しにしようとすることはできません。なぜなら、聖書は絶対に誤りのない言葉をもって、いつの日か主イエスが、この古い世界のもやを破り、御自分の教会をみもとに携えるため再びこられると宣言しているからです。
神の言葉である聖書は、この思想で満ち満ちています。三十の節があれば、一つの節はそのことに関連性を持っています。第一降臨が一度記されると、第二降臨は八度の割で記されています。主イエス・キリストの再臨を説明するのに、ぜんぶの章、もしくはぜんぶの書が用いられている場合があります。それは旧約聖書の中に予告されており、新約聖書の中に、くりかえしくりかえし強調されています。
あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。(ヨハネ14・2、3)
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。(1テサロニケ4・16、17)
「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1・11)
その日は近づいています。たぶん、ずいぶん近い所まで来ているかもわかりません。その日が来たら、それは、その時まで生きている人にとって夜中となるでしょう。そうすれば、神との正しい関係に入る機会は去ってしまい、永遠に帰ってこないのです。イエス・キリストを救い主として受け入れた人々は、彼と一緒になるため取り去られます。一方、継続的にイエス・キリストを斥けて来た人々、すなわち、夜中がすぎるまで、安全を意味する箱舟の外にいる人々は、取り残されてしまいます。それから神の裁きがこの地上に降されるのですが、その時、あとに取り残された人々は、山やほら穴へ逃げて行き、小羊の怒りからかくまわれるため、岩が彼らの上に落ちて来るようにと、絶望の中から叫び声をあげるのです。
イエスは今日にでも帰ることがおできになります。もしそのようになったら、今日全世界に夜中の時刻が打ち鳴らされることになります。そうすれば、あなたが神との正しい関係に入る機会は、なくなってしまうのです。
(『真夜中すぎ』9〜11頁より引用。引用者註:「再臨」は聖書信仰の根幹です。しかしその日がいつかわかりません。だから古来不信仰な人々は未だ主イエスが来られないことを指して、その約束はどうなったか、実現していないではないかとあざ笑います。しかしそれは主の忍耐のあらわれであると聖書ははっきり語っています。2ペテロ3・3〜15参照のこと。)
2013年9月28日土曜日
真夜中すぎ(2) ポーロ・B・スミス
| 婚宴の席 2013.8.3 |
さて、この問題に関する二番目の質問に入りましょう。神の夜中の時刻が打ったあとまで残っている人々の上に、どのようなことが起こるでしょうか。もしあなたが賢い娘と愚かな娘の物語を注意して読むなら、あなたはこの質問に対する解答を、聖書の中に見出されるでしょう。愚かな五人の娘たちは、夜中すぎに婚宴のへやに入ろうとしましたが、聖書は「戸がしめられた」と書いています。そして、戸が再びあけられたと信じて良い理由は、どこにもありません。
私は少年時代トロントにいましたが、私たちの家庭では、特別の許可があって外出した場合、必ずその日のうちに帰ってこなければならないという規則がありました。夜中になる前に帰宅すれば、ドアはあいています。しかし夜中がすぎると、ドアはしめられ、かぎがかけられるのです。夜中前であれば、ドアをあけて家の中へ入りさえすれば良いのです。この場合、なんら説明をする必要はありません。しかし夜中すぎに帰ると、ドアをノックするか、それともベルを鳴らして、誰かを起こさなければなりません。それから、遅くなった理由を話さなければなりません。私の少年時代、記憶に残っていることは、どんなに遅く帰って来ても、結局誰かを起こすことができ、したがってドアがあけられたということです。しかし聖書を読む時に、神の夜中の場合はそうでないことがわかります。聖書は、誰かの人生において神の時計が夜中を打った場合、機会の扉はしめられ、しかも永遠に開かれないと明らかに告げているのです。
愚かな五人の娘たちは、招待されていなかったから閉め出されたのではありません。彼らは、賢い五人の娘同様、招かれていました。彼らは婚宴について一部始終を知っていました。しかし聖書は、彼らが招かれていたにもかかわらず閉め出されたと、言明しているのです。
愚かな五人の娘は、中に入った者と同じ招きを受けていただけでなく、中に入った者と同じ望みを持っていました。この世界で最大の驚きを経験した人々は、夜中がすぎて閉め出された、愚かなこれらの娘でありました。彼らは婚宴の席につらなることを期待していました。またそこに行くつもりでした。彼らは首を長くして、婚宴を待ち望んでいたのです。しかも彼らは、中に入るつもりであったのが、閉め出されてしまったのです。
理由はただ一つ、来るのが遅すぎたからです。彼らは婚宴のために時間をかけて必要な準備をしなかったので、夜中の時刻が打った時に、準備されていない自分たちを見出したのです。彼らはあとになってやって来ました。しかし、すでにあとの祭りでした。
幾度も幾度も、主イエス・キリストを救い主として受け入れるようにとの招きを受けた多くの人々が、いつの日か、一度も招きを受けたことのない異教の人々と一緒に、天から閉め出されることは、なんという悲劇でしょうか。いつかは神との正しい関係に入ろうと思って生活している多くの人々が、救いについて振り向きもしなかった大多数の人々と共に、天国から閉め出されるとは、まさに肌に粟を生じる思いではありませんか。
もしかりに、永遠にわたって、あなたが神の御臨在より別たれる日が来るとすれば、それはあなたが招きを受けなかったからではなく、またあなたがいつか救われようと思わなかったからでもないということを、思い出してください。そのような日が来るのは、あなたが夜中すぎまで外に戦っていた(※)からです。
(『真夜中すぎ』6〜8頁より引用※引用者註:少し、わかりにくい表現です。多分、この戦いとは主イエス・キリストを受け入れるか受け入れないかの心の戦いのためにいつまでも逡巡していて、折角の花婿の招待による婚宴の宴に結局間に合わず、外に残されてしまったことを指しているのではないかと思います。)
2013年9月27日金曜日
真夜中すぎ(1) ポーロ・B・スミス
そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。(新約聖書 マタイ25・1〜6)
「夜中」という言葉は、聖書全巻のうち、わずか14回しか出て来ません。この言葉は、いつでも、救いとか審判とか、顕著な神の力の顕現に関して用いられています。しかし、この言葉が、これらの思想に関係なく出て来る例外が、ただ一度だけあります。
「夜中」という言葉が、最初に聖書に出て来るのは、イスラエルの民が、過越の祭をはじめて取り行なった、あの旧約聖書の物語の中であります。エジプト人の間にいるういごを滅ぼすため、神が死の御使いを送られたのは、夜中でありました。イスラエル人の家の柱には、血がつけてあったので、死の御使いは、イスラエル人を殺さずに彼らの家々を過ぎ越しましたが、それはやはり夜中でありました(このあと、士師16・3、使徒16・25、使徒12・29の言及があるが略す)。
このように「夜中」という言葉は、聖書全巻を通して、ひじょうに重要な意味を持っています。この言葉が、前後に関係なくひょっこり出て来るのは、ただ一度だけです。(略)この言葉は、マタイによる福音書25章に記録されている、10人のおとめの物語の、いわばてこの支点となっています。
この物語に出て来る「夜中」について、私は三つの質問に答えてみたいと思います。ここでこの言葉は、どのような意味を持っているでしょうか。夜中すぎまで残っている人々のうえには、どのようなことが起こるのでしょうか。われわれの生涯において、夜中の時刻を打つものは、何でしょうか。
もちろん、ふつうの意味において、夜中という言葉は、一日の最後と次の日の始まりとを区切る一点を指します。(略)世間一般に言っても、この夜中という言葉は、たいてい終りと始めとを意味しています。
極めて現実的な意味において、夜中の時刻と考えることのできる、ひじょうに多くの出来事があります。(略)年寄りの人は、隠居の時が来ると、夜中を迎えることになります。その人は、余儀なく、若かりし日々を振り返ってみるでしょう。多分、青年時代の夢と抱負、生涯において達成しようと思っていた事柄を、思い浮かべることでしょう。しかし今や、峠を越して下り坂を降りるようになり、自分の夢が実現されたか、それともついに実現されなかったかの、どちらかであることを知るのです。(略)夜中の時刻が打ったのです。働く時はすでに終わり、隠居の時が始まりました。
しかしながら、私は今、人々の生涯に起こる、これらの夜中について考えているのではありません。私が今重大な関心を払っている夜中とは、マタイによる福音書25章に記されている時刻のことです。今まで述べた、ほかの意味での夜中も重要な意味を持っています。しかし神の夜中は、人生において起こり得る、最も厳粛で、最も真剣な、また最も重要な夜中であります。それは、神との正しい関係を持ち得る人間の機会に終止符を打ち、神と共に、あるいは神なくして送る、永遠の始まりを告げるのです。
これは、絶対に避くことのできない、また逃れることのできない、人生における夜中であります。あなたの心臓が動き、また血液が血管の中を流れているのと同じほど確実に、いつの日かあなたの生涯に、この夜中の時刻が打つのです。そして、あなたが神と正しい関係を持ち得る機会は終わりを告げ、あなたは、救われているのか、それとも失われているかの状態で、永遠を迎えなければならないのです。
(『真夜中すぎ』いのちのことば社1957年刊行1〜6頁まで抜粋引用。著者はオズワルド・J・スミス氏の令息である。)
「夜中」という言葉は、聖書全巻のうち、わずか14回しか出て来ません。この言葉は、いつでも、救いとか審判とか、顕著な神の力の顕現に関して用いられています。しかし、この言葉が、これらの思想に関係なく出て来る例外が、ただ一度だけあります。
「夜中」という言葉が、最初に聖書に出て来るのは、イスラエルの民が、過越の祭をはじめて取り行なった、あの旧約聖書の物語の中であります。エジプト人の間にいるういごを滅ぼすため、神が死の御使いを送られたのは、夜中でありました。イスラエル人の家の柱には、血がつけてあったので、死の御使いは、イスラエル人を殺さずに彼らの家々を過ぎ越しましたが、それはやはり夜中でありました(このあと、士師16・3、使徒16・25、使徒12・29の言及があるが略す)。
このように「夜中」という言葉は、聖書全巻を通して、ひじょうに重要な意味を持っています。この言葉が、前後に関係なくひょっこり出て来るのは、ただ一度だけです。(略)この言葉は、マタイによる福音書25章に記録されている、10人のおとめの物語の、いわばてこの支点となっています。
この物語に出て来る「夜中」について、私は三つの質問に答えてみたいと思います。ここでこの言葉は、どのような意味を持っているでしょうか。夜中すぎまで残っている人々のうえには、どのようなことが起こるのでしょうか。われわれの生涯において、夜中の時刻を打つものは、何でしょうか。
もちろん、ふつうの意味において、夜中という言葉は、一日の最後と次の日の始まりとを区切る一点を指します。(略)世間一般に言っても、この夜中という言葉は、たいてい終りと始めとを意味しています。
極めて現実的な意味において、夜中の時刻と考えることのできる、ひじょうに多くの出来事があります。(略)年寄りの人は、隠居の時が来ると、夜中を迎えることになります。その人は、余儀なく、若かりし日々を振り返ってみるでしょう。多分、青年時代の夢と抱負、生涯において達成しようと思っていた事柄を、思い浮かべることでしょう。しかし今や、峠を越して下り坂を降りるようになり、自分の夢が実現されたか、それともついに実現されなかったかの、どちらかであることを知るのです。(略)夜中の時刻が打ったのです。働く時はすでに終わり、隠居の時が始まりました。
しかしながら、私は今、人々の生涯に起こる、これらの夜中について考えているのではありません。私が今重大な関心を払っている夜中とは、マタイによる福音書25章に記されている時刻のことです。今まで述べた、ほかの意味での夜中も重要な意味を持っています。しかし神の夜中は、人生において起こり得る、最も厳粛で、最も真剣な、また最も重要な夜中であります。それは、神との正しい関係を持ち得る人間の機会に終止符を打ち、神と共に、あるいは神なくして送る、永遠の始まりを告げるのです。
これは、絶対に避くことのできない、また逃れることのできない、人生における夜中であります。あなたの心臓が動き、また血液が血管の中を流れているのと同じほど確実に、いつの日かあなたの生涯に、この夜中の時刻が打つのです。そして、あなたが神と正しい関係を持ち得る機会は終わりを告げ、あなたは、救われているのか、それとも失われているかの状態で、永遠を迎えなければならないのです。
(『真夜中すぎ』いのちのことば社1957年刊行1〜6頁まで抜粋引用。著者はオズワルド・J・スミス氏の令息である。)
2013年4月27日土曜日
限られた人生、何を残すか(下)
| K氏の棺の前に飾られた花々 |
今回、召された方の葬儀をどのようにしようか、ご遺族と話し合う機会があった。ところが、お母様も、上のお姉様家族も、下のお妹様家族も、またそのご子息の奥様も、隣の部屋に控えておられ、すべてはこのご子息一人にゆだねておられた。もちろん長女であるお姉様も必要に応じて顔を出され、意見を言われた。相談役となった私たちは(実は私ともうひとりの方がその相談に応じたのであったが)話し終えて辞去する時、帰りの車中、どちらからともなく、ご家庭に凛(りん)とした秩序があることを話題にした。すでに、お父様の亡骸は私たちが葬儀社の方を交えて話し合っているまさしくその傍に横たえられていたのだが・・・。この秩序こそ、召されたお父様がご家族に残された尊い遺産だと思ったのだ。
葬儀が終わり、火葬を待つ間、しばらく休憩室にいる時、長女の方が弟であるご子息に「今日の挨拶良かったよ」と話された。すかさず、「おねえちゃん、ありがとう。おねえちゃんのおかげだよ、おねえちゃんが良くしてくれたから」と答えが帰っていた。私はこの姉弟のさりげない会話を小耳に挟み、ますます、このご家庭を支配している主なる神さまのうるわしい秩序を見た思いがして、目が潤んだ。家族とは困難、喜び、楽しみ、悲しみを共にし、歩む共同体だ。そんな家の建設は家長の責任にゆだねられている。ここにも召された方と内助の功としてお支えになってきた奥様の祈りを主がお聞きになり祝福しておられるのだと思った。
「限られた人生、何を残すか 」と大上段に構えて自らに問うてみたが、結局出てきた答えは、自らが主なる神さまに従順であれば、自ずと答えは出てくるのだと思った。そしてむしろ、私たちには何も残すものは無い。また必要もない。それよりも、「限られた人生、何を受け継ぐべきか」と問い自身を変えた方が良いということに思い至った。葬儀に出席したすべての人に少なからざる感動を与えたに違いない、ご子息のご遺族を代表してなされたご挨拶の冒頭部分と終わりの部分を以下簡単に紹介したい。
「本日は私どもの想像を越える本当に大ぜいの方に、お足下の悪い中、ご参列いただき心から感謝申し上げます。私ども、私、信仰が無い、と言うことを申しました。キリスト教式、キリスト教じゃないとベックさん(さきほど)言いましたね、イエス様を信じる者のあるべき葬式はどうやったらいいのか、全く想像もつかないのですけれど、・・・こんな立派なお葬式をあげていただいて、本当に父は喜んでいると思うのです。」
「イエス様のもとに帰ったお祝い、喜びの集いなんだ、ということを言うようですね。なので、用意したお花も、両脇三つあるお花は白い、いかにも葬式らしい、これは贈っていただいた三つの花かご。 真ん中へんにあるのが非常に華やかなお葬式らしくない結婚式用の花(笑い)を用意している、そういうお祝いの花なんです。ですから、これは悲しみの雨じゃなくて、・・・喜びの雨が降っているんだな、という気がいたします。」
「父は○○看護士と天国で会いましょうと言ったんですけど、父の望みは、ここに一堂に会していただきました全員の方と同じ天国で再会したいと思っている、ということなんだろうと思います。それが父の望みでもあり、またこの葬儀の目的であるということが色々の方の祈り、ベックさんのメッセージを聞いて思いました。82歳の高齢でしたからね、葬式でこんなに集まっていただけるとは、本当に想像以上です。これも本当に父は多くの方に祈られ、そして多くの方の愛に支えられ生きてきたことがわかって確信しました。本当に感謝します。本日は本当にどうもありがとうございました。」
かくして葬儀は終わった。紙上でこのご挨拶をお読みになる皆様はどのようなことを感じられるだろうか。それこそ、冒頭述べた、かつての私の経験のように、このような挨拶を述べることのできた人が属する家庭とはどんな家庭か、外国人だったらどんな国の人なんだろうときっと思うに違いない。オズワルド・スミスは「The country I love best(私のいちばん好きな国)」と題して天国のことを語っている。
以上が、私があなたにお話しようとしてきた国です。あなたは行きたいと思いませんか。あなたはほかにこのような天国に匹敵するものを知っていますか。なぜ天国への旅の準備を今すぐ始めないのですか。それは困難なことではありません。あなたの心を、天国の主であられるイエス・キリストに向かって開きなさい。そして、イエス・キリストに、あなたの心の中に来て、あなたを救ってくださるようにお願いしなさい。そうすれば、あなたも私と同じように天国を愛する者となるのです。そして近いうちにこの人生の旅路が終わった時、あなたはこのすばらしい国へ行き、いつまでもいつまでもそこに住むのです。(同書9〜10頁)
K氏は82歳という限られた人生の中で、祝福された葬儀を通して、私たち後進の者に天国を指し示しながら、一足先に天に上られたのだ。かくして、お父様の天国行きは、ご子息をはじめとして遺されたご遺族に受け継がれるだけでなく、集われた方々全員への天国の招きの言葉となった。これぞK氏が求めてやまなかった子への愛の成就、主がなしてくださった大きなみわざだと言えないだろうか。
主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。(詩篇2・7〜8)
2013年3月21日木曜日
救いの道(完)神の食卓は無代価
| どれもこれも手作りのおもてなしに招かれて※ 2012.5.21 |
神に対する誤った考え
わたしたちは、町でトラクトを配布したことがあります。その時、もしだれかがわたしたちのうしろにひざまずいて、ぜひ一枚下さいと頼んだとします。その際、わたしたちがそれを無視したとすれば、人々はどう思うでしょうか。きっと、こう言うに違いありません。「あの意地の悪い人たちをごらんなさい。ひざまずいてトラクトを頼んでいるのに、知らん顔をしているのです」と。しかし、それは決して、わたしたちの態度ではありませんでした。トラクトを渡すことは、わたしたちの心からの喜びであったのです。彼はひざまずく必要はなく、立ったまま一枚受け取ればよかったのです。
神は、人類に対して背を向けておられるのではありません。ぜひこのことを、知っていただきたいのです。救われるために人々は、神に嘆願したり請うたりする必要はありません。神は初めから、人を救おうとして待っておられるのです。神はそのためにひとり子を下さいました。神は堕落した人類に対して、愛とあわれみをもって「きたれ、取れ、信頼せよ、受け入れよ!」と言っておられます。したがって、人は祈願したりする代わりに受け入れ、賛美しなければなりません。そうでなければ、あたかも神が祈願を受けなければ救いを与えて下さらないかたであるかのように思い込まれてしまいます。しかし実際は、人間のほうが救いを受けることを不本意とし、神の与えたもう救いを拒否しているのです。
神は、永遠のいのちという賜物を差し出して、人々に受け入れるようにすすめておられます。クリスマス・プレゼントを差し出す時、それを受け取るように懇願する必要はありません。プレゼントの贈り主がわからない場合は別です。しかし、贈り主がわかっていながら前に出されているものを受け取って下さいと懇願しなければならないとすれば、贈り主の誠意を無視し、はずかしめることになります。その差し出されたプレゼントを受け取って、感謝すればよいのです。それと同じように、わたしたちも神に対する態度を改め、その贈り物を受け取って感謝をささげようではありませんか。
イエス・キリストのいのちを受け取る
それ以外に何もできず
聖霊がわたしを造り変えられるから
わたしは新たに生まれ変わる
これだけのことです。あなたが信仰によってキリストを受け入れられるなら、必要ないっさいのことは聖霊がなして下さいます。キリストのあがないの死が救いの基礎であり、根拠であります。信仰は、キリストと罪人との間をつなぎます。したがって、「主イエスを信じなさい(あなたの信頼を主イエスに置きなさい—新英訳聖書)。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16・31)。
あなたは、聖なる神のみまえにおいて罪人であり、有罪なのです。そうして、そこには「何の差別もありません」のです。しかし神は、あなたが罪から救われる方法を備えて下さいました。だからわたしは喜びをもって、きょうあなたに、「キリストは・・・わたしたちの罪のために死なれた」という神の声明を宣べ伝えたいのです。なんという栄光に満ちたすばらしいメッセージでしょうか。この喜ばしいおとずれを、受け入れられないでしょうか。人間の罪に対する神の救治策を受け入れなさいますか。おお、それならば失われた有罪の罪人であることを認めなさい。”有罪”であることを承認して、自分自身を神のあわれみにゆだねなさい。あなたは、それをなさいますか。それをして下さい。今、それをしていただきたいのです。
(『道は二つしかない』オズワルド・J・スミス著斉藤一訳24〜26頁引用。※昨年某氏宅に招かれて豊かな食卓の幸に七人で舌鼓を打った。すべて、ご招待くださった方に勧められるままであった。)
2013年3月20日水曜日
救いの道(7)救われることはかんたん
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| 二人展より(麻布十番・フェイス10画廊 3/15~3/20) |
「神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになる」ためでありました(ローマ3・26)。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです」(ローマ3・25)。「この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです」(第一ヨハネ2・2)。これらの聖句にも示されているように、イエスが罪の刑罰を受けられることによって、すなわちイエスの死によって、神は恵みをもって人と交わることができるようにして下さったのです。
悔い改めに関する一般的な考え
神のみことばをそのまま受け入れ、そのとおりに信ずることは、普通の人にとってはむずかしいことです。彼らは、神の恩恵を受けるためには、必ず何かを「行なう」ことが必要だと主張します。たとえば、悔い改めについて、普通どのように考えられているでしょうか。普通の人は、長時間のざんげと悲しみ、心からの後悔、苦悩、苦行修行を重ねて、自分の罪を告白したり、ゆるしと救いを祈ったりしてはじめて神のあわれみを得ることができると思っています。そのようにして、「彼は罪を悔い改めた」と信ずるのです。
その人は、罪を自覚するかもしれません。しかし、罪の自覚は悔い改めではなく、回心を意味するものではありません。みことばによってわかるように、この経験は救いの根拠ではありません。神は、人が救われるためには、長時間の悔い改めを要するとは、どこにもおっしゃっていません。しかし人は、十分長い時間をかけて悔い改めるならば、それによって神がついにゆるして下さると思うのです。
魂のあがないは
悔い改めや祈りの涙によらず
ただ主の血によるなり
たとえあなたが、自分の罪を悔いて神に告白し、ゆるしと救いのために祈られても、あるいは神のあわれみとゆるしを絶えず懇願されても、それによって救われることができるでしょうか。このような行為によって、神の恩恵を受けることができるでしょうか。あなたは、それが不可能であることを知っておられると思います。
このようなあなたのなす行為のすべて、すなわち、涙、祈り、告白、悔い改めから離れなければなりません。そしてキリストを受け入れ、キリストの血潮により頼み、カルバリの上で完成されたみわざに自分の信仰を置き、キリストが罪の価を全部払われたことを信じて信頼する時が来なければなりません。
(『道は二つしかない』オズワルド・J・スミス著斉藤一訳22〜24頁より引用。「希望にあふれて」と題するゴットホルド・ベックさんが書かれた実見談が「光よあれ8集」に載っている。『及川廣太郎先生は、竹田清先生の後輩でした。数学者として東大の名誉教授になり、日本だけでなく、ドイツでも著作が出版されている有名な方です。自分は無宗教だと言っておられましたが、がんになり、その病は彼にとって大きな重荷になったのです。廣太郎さんはイエス様の招きのことば、「重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい、わたしがあなたがたを休ませてあげます」を聞いたとき、すぐに従いました。彼は祈りました。「主イエス様、私のわがままのために死んでくださったことを感謝いたします」別れる時、彼は言ったのです。「救われることはかんたんなことですね」。』)
2013年3月19日火曜日
救いの道(6)価なく私は義しくされた
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| The Crucifixion,1870 by Carl Bloch |
いかなるわざによっても救いは獲得できない
あなたは、教会でも最も活動的な人であるかもしれませんが、救われておられないかもしれません。というのは、教会の諸活動は決して人を救うことができないからです。教義や教理、あるいは祈祷、禁欲、十一献金、悔い改めの涙は、皆必要なものですが、決してあなたを救うことはできません。また、牧師でも司祭でもたとえどんな人であっても、人を救うことはできないのです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」(新約聖書 使徒4・12)。ただキリストだけが、人を救うことがおできになるのです。
神の救いを受けるにふさわしい道徳的な、また宗教的な行為はありません。人間に可能な最善の生涯を送っても、また教会の役員として最高度に熱心に働いても、その正しい行為によって神に近づくことはできません。道徳、正しい行為、愛に満ちたわざ、あるいは犠牲的な奉仕によっても救いを得ることはできません。またそれらによって神の恩恵を受けることはできないのです。救いは、わざによって得られるものではありません。救いは、「行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(エペソ2・9)。したがって、もしあなたが現在の状態で、自分の行ないによって救いを獲得しようとされるならば、あなたは滅亡の途上におられるのです。人は決して、自分で自分を救うことはできません。
神の救いの計画
人間の救いの計画は、いつも自分の功績や行ないによりますが、神のご計画は恵みによるのです。聖書には、こうしるされています。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」(エペソ2・8)。恵みは、行ないや功績とは全く別のものであり、救いがもし恵みによるものであれば、行ないは救いとはなんの関係もありません。また、もし救いが行ないとか功績によるものとすれば、恵みによって得ることはできません。全き恵みか全き行ないかのいずれかなのです。
恵みということばは、聖書中でも最も偉大なことばです。「神の恵みの福音」は 、人々に宣べ伝えるためにわたしたちにゆだねられた最も喜ばしいおとずれです。神の救いに関するすばらしい声明を、わたしたちはローマ人への手紙三章二十四節に見ることができます。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」と。この、どのことばにも深い意味があります。たとえば、「贖(あがな)い」ということばには「買いもどす」という意味があります。人類は、最初のアダムによってサタンと罪と死に売られました。イエス・キリストは、その罪をにない、罪の刑罰を受けて代価を払われ、あがないをなして下さいました。キリストは、わたしたちをサタンの奴隷市場から買いもどして下さったのです。
主イエスはわれらの罪のため
恐ろしい刑罰を受けられた。
カルバリの上で小羊となって血を流し
あがないを成し遂げられた。
その代価は、主ご自身のとうとい血潮でした。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました(1ペテロ1・18〜20 )。このように、身のしろ金が完全に払われたので、神は「価なしで」人間を義とされました。
ヨハネによる福音書十五章二十五節に、「理由なしに」ということばがありますが、これはギリシャ語では「価なしで」と訳されています。「彼らは理由なしに わたしを憎んだ」。すなわち、なんの根拠もなく憎んだのです。神はこのように、なんの根拠もなく、罪人を義とされます。それは、「何の理由もなしに」、または「価なしで」です。神の恩恵に値する功績や行ないは、わたしたちの中には何一つありません。神は、イエス・キリストのあがないのわざによって、わたしたちを義とされました。この恵みは「価なしに賜わった恩恵」であり、価なしに与えられたのです。それは全く神によるものです。人はそれを、何かのよいわざによって、あるいはそれに値する行為をもって獲得することはできません。
(『道は二つしかない』オズワルド・J・スミス著斉藤一訳19〜21頁より引用)
神の救いを受けるにふさわしい道徳的な、また宗教的な行為はありません。人間に可能な最善の生涯を送っても、また教会の役員として最高度に熱心に働いても、その正しい行為によって神に近づくことはできません。道徳、正しい行為、愛に満ちたわざ、あるいは犠牲的な奉仕によっても救いを得ることはできません。またそれらによって神の恩恵を受けることはできないのです。救いは、わざによって得られるものではありません。救いは、「行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(エペソ2・9)。したがって、もしあなたが現在の状態で、自分の行ないによって救いを獲得しようとされるならば、あなたは滅亡の途上におられるのです。人は決して、自分で自分を救うことはできません。
神の救いの計画
人間の救いの計画は、いつも自分の功績や行ないによりますが、神のご計画は恵みによるのです。聖書には、こうしるされています。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」(エペソ2・8)。恵みは、行ないや功績とは全く別のものであり、救いがもし恵みによるものであれば、行ないは救いとはなんの関係もありません。また、もし救いが行ないとか功績によるものとすれば、恵みによって得ることはできません。全き恵みか全き行ないかのいずれかなのです。
恵みということばは、聖書中でも最も偉大なことばです。「神の恵みの福音」は 、人々に宣べ伝えるためにわたしたちにゆだねられた最も喜ばしいおとずれです。神の救いに関するすばらしい声明を、わたしたちはローマ人への手紙三章二十四節に見ることができます。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」と。この、どのことばにも深い意味があります。たとえば、「贖(あがな)い」ということばには「買いもどす」という意味があります。人類は、最初のアダムによってサタンと罪と死に売られました。イエス・キリストは、その罪をにない、罪の刑罰を受けて代価を払われ、あがないをなして下さいました。キリストは、わたしたちをサタンの奴隷市場から買いもどして下さったのです。
主イエスはわれらの罪のため
恐ろしい刑罰を受けられた。
カルバリの上で小羊となって血を流し
あがないを成し遂げられた。
その代価は、主ご自身のとうとい血潮でした。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました(1ペテロ1・18〜20 )。このように、身のしろ金が完全に払われたので、神は「価なしで」人間を義とされました。
ヨハネによる福音書十五章二十五節に、「理由なしに」ということばがありますが、これはギリシャ語では「価なしで」と訳されています。「彼らは理由なしに わたしを憎んだ」。すなわち、なんの根拠もなく憎んだのです。神はこのように、なんの根拠もなく、罪人を義とされます。それは、「何の理由もなしに」、または「価なしで」です。神の恩恵に値する功績や行ないは、わたしたちの中には何一つありません。神は、イエス・キリストのあがないのわざによって、わたしたちを義とされました。この恵みは「価なしに賜わった恩恵」であり、価なしに与えられたのです。それは全く神によるものです。人はそれを、何かのよいわざによって、あるいはそれに値する行為をもって獲得することはできません。
(『道は二つしかない』オズワルド・J・スミス著斉藤一訳19〜21頁より引用)
2013年3月18日月曜日
救いの道(5)私の債務は全部支払れた!
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| イエスさまは おもい じゅうじかを せおって カルバリの おかを のぼって いきます。(絵本聖書) |
人は何もすることができない
人は自分を救うために、何もすることができません。世のさまざまな宗教を見ると、人間は神に向かって進もうとしています。すなわち、自分のいさおしによって救いを得ようとしています。しかし聖書が示す真実は、神のほうから人間に近寄って下さったという事実しかありません。これは、神の恩寵です。羊を装ったおおかみが、わたしたちの兵士に戦場で死ぬならば永遠の命を得ることができると言いました。また、もし人が自分の命を国のためにささげるならば、天国へはいることができると言いました。しかし感謝すべきことに、兵士たちは自分たちが神に会う資格のないことを知っていました。
歴史上の戦いで流された血は、どんな小さな罪をもきよめることができません。しかし二千年前、神でありながら人の形をとられたイエス・キリストがカルバリの丘で流されたとうとい血は、すべての時代のすべての罪をきよめるのに十分なものでした。人は、永遠のいのちを得るために何もすることができません。主イエスはカルバリの丘で「完了した」(ヨハネ19・30)と叫ばれました。人間の救いのために「すべてが終わった」のです。その完成されたわざに、人がいまさら何を加えられましょうか。
もし道徳や人間の義が完全であるならば、キリストが死なれる必要はありませんでした。「もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」(ガラテヤ2・21)。もし人間に自分を救う力があるとするならば、キリストの死は世界史上最も残虐なものと言えるでしょう。しかし、神は人間の無力や救い主を要していることをご存じでした。だからこそご自分のひとり子を下さったのです。人は救い主を必要としています。道徳は人を救うことのできないものです。
パリサイ人と取税人
自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18・9〜14)
パリサイ人は終始、「私は、私は」でありました。 「私は・・・断食し・・・私は・・・ささげています。私は・・・他の人たちのような・・・でない」と。それは宗教であり、極端な自己主義です。今日、多くの人たちにあなたの救いの根拠はどこにありますかと尋ねるならば、たいていの人は「私は教会へ行っています。私は十一献金をしています。日曜学校の先生をしています。私は受洗しています。私は教会の役員です」などと答えられるでしょう。どれもこれも皆、「私、私、私」です。そこには「キリスト」は全然ありません。「キリスト」がなさったのではなく、「私」が何をしているからというのです。罪人のかしらであると言ったパウロは、どうだったでしょうか。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」と言っています。わたしたちは、罪人としての自分自身を認めようではありませんか。罪人、それがわたしたちの永遠の性質なのです。そして、キリストが何をして下さったかを誇ろうではありませんか。わたしたちの義は、汚いぼろ布であり、「イエスがすべてを払われた(※)」ことを忘れてはなりません。
罪人よ。
大いなるわざも小さなわざも
神のみまえにては力なし
主イエスが救いのために
すべてをなされたゆえに
(『道は二つしかない』オズワルド・J・スミス著斉藤一訳17〜19頁をもとに引用者が構成しました。※オズワルドは「 」書きで聖書の引用句であることを示しているようです。このすばらしいことば「イエスがすべてを払われた」の含意するところは、1コリント6・20やコロサイ2・14やマタイ18・24以下などがありますが、残念ながら私にはこれにあたる聖句を直接思い出すことができませんでした。読者諸兄姉の中で思い当たる方がおられたら是非コメント欄で投稿してみて下さい。)
2013年3月17日日曜日
救いの道(4)欺かれないでください
どこへ行っても、ほんとうは救われていないのに救われていると信じ込み、誤った土台の上に立ち、まちがった経験に安んじている人々を見ます。幾千という教会員、何百という自称クリスチャンは、自分たちの天国に対する望みを説明することができません。彼らは、自分たちは正しいと思い、また神に会う用意が十分にできていると信じています。彼らに、二、三の簡単な質問をしてみれば、彼らが異邦人と同様に、神の救いに関して無知であることがわかります。サタンは彼らの目と耳を閉ざして、理解を鈍くしています。それは、彼らが欺かれた状態におり、回心していないためです。彼らの魂は暗黒の中に閉じ込められ、サタンは彼らを暗黒の中に置こうと懸命になっています。その人たちはたいてい、教会でも活発に働き、委員会やその他の会合にも忠実に出席し、いつでも善良で道徳的な人たちですが、救われていないのです。
このように、これでいいのだという誤った信念の中に死んでいく魂が多いという事実を知るだけに、わたしははっきりと救いの道を示して、多くの人々を永遠の滅亡から救いたいのです。考えてみて下さい。教会員がクリスチャンでありながら、自分たちに対して天国のとびらが閉ざされていることを知った時の絶望的状態を、一生、まじめに熱心に働いただけに、その失望も非常に大きいのです。
ですから皆さん、わたしがその救いの道を示すことを許していただきたいのです。また、あなたが救われていてもいなくても、わたしのことばにしばらく耳を傾けていただきたいのです。それは、あなたが欺かれないためです。
救いについての人間の考え
人は、いつも救われるためには何かをしなければならないと心に思っています。遠いインドには、恵みや永遠のいのちは神からの賜物であることを知らない人々が多く、彼らは自分の功績や努力をもって救いの達成に全力を尽くしています。ある人は炎天にさらされながらくぎの床に横たわり、またある人は火の上に自分をつるしています。ある人は沈黙の誓いを立てており、また動かなくなるまで手を上に上げています。多くの人は巡礼の旅に出て、何百キロもはったり歩いたりします。その時、二メートルごとに全身を延ばすのです。何千人もの人々が救いを得ようとして、ガンジス川で自分のからだを洗います。
また、ギリシャ正教も、ユダヤ教、カトリック教もすべて、自分の行ないによって救いを得ようとして、くり返し何かのわざに励みます。なんという恐ろしい束縛でしょうか。また、なんと恐ろしい人為的宗教の奴隷下にいることでしょう。人は救われようとして、なんという困難なわざに励むことでしょう。しかし、神は明確に、またくり返し語っておられます。永遠のいのちは賜物であって、決してわざによって得られるものではないと、あなたが賜物としてそれを受け入れなければ、永遠のいのちを所有することはできないのです。
救いのために働くのではない
聖書には明らかに、「自分の救いを達成してください」としるされていますが、「救いのために働きなさい」とはどこにもありません。神がまず働いて下さるまでは、あなたが救いのために働くことはできません。また聖書の中には、「あなたがたのあがないのために働きなさい」とも書かれていません。二千年前、すでにキリストは救いのみわざを成し遂げて下さいました。もしわたしたちが、自分自身のあがないのために働かねばならないとすれば、なんという絶望的なことでしょうか。神であって人の形をとられたかたではなくては、それはできないことであるからです。
ここに、ひとりの大学にはいった青年がいるとしましょう。彼は試験に合格し、授業料を払ってはじめて学生になります。教務主任は彼に、「大学の課程を修めなさい」と言いますが、まず学生として認められなければ大学の課程を修めることはできません。学生として認められてから、彼は四年間勉学を続けるのです。友よ、あなたの救いもこれと同じです。働く前に、まずその救いにあずからねばなりません。神があなたに対して働かれた時、あなたも働きだすのです。あなたは決して、神の賜物を得るために働きだすことはできません。
(『道は二つしかない』オズワルド・J・スミス著斉藤一訳14〜16頁より引用。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。」新約聖書エペソ2・8〜9有名な日本の言い回しに「分け上る麓の道は異なれど、同じ高嶺の月を見るかな」とあり、仏教であろうとキリスト教であろうとゴールは同じだとする考え方があります。しかし、聖書は明確に行ないによる道と神の賜物を受けて歩む道を峻別しています。さしずめ今日拝借したこの本の表紙の挿絵はそのことを示しているのでないでしょうか。)
2013年3月16日土曜日
救いの道(3)天国はきよいところ
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| ああ、何とうるわしい家族の姿であることか、ゴッホの心 |
あなたは、有罪ではないとおっしゃるかもしれません。あなたは、決して罪を犯したことはないと言われるかもしれません。しかしあなたは、人間の犯し得る最大の罪を犯されたと申し上げたいのです。主イエス・キリストを拒むことほど、大きな犯罪はありません。あなたは神の愛を拒み、神の心を無視し、また神の備えられたとうとい血潮を踏みにじられたのです。あなたは神のあわれみを拒否されたため、不信仰の罪を犯されました。聖書の中で、これほど大きな罪はありません。これは、忘恩の罪でもあるのです。
神は、ご自分のひとり子をあなたに下さったのですが、あなたは、この神のとうとい贈り物を拒まれました。イエスは、「彼(聖霊)が来たら、罪・・・をさばく」と言われました。なんの罪でしょうか。殺人でしょうか。姦淫でしょうか。それとも盗みでしょうか。いいえ、それらではありません。「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです」(ヨハネ16・9)。不信仰! これこそ許されない罪です。あなたは友人から贈られたものを拒絶して、人の好意を無視するようなことは決してなさらないでしょう。ところが、永遠の救いという神の贈り物を拒絶することはなんとも思われないのです。
あなたがもし救われておられないならば、この瞬間不信仰の罪を犯しておられるのであり、それは最大の罪を犯すことになるのです。
罪の深さが問題ではない
罪の深さが問題なのではありません。イエス・キリストに対するあなたの態度が問題なのです。あなたは、イエス・キリストを救い主として受け入れられたでしょうか。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」(マタイ27・22)というピラトのことばほど重大な意味を持っているものはありません。あなたとイエス・キリストとの関係が、あなたの永遠の運命を決定するのです。
あなたは今、神のみまえで自分が有罪であることを認めておられますか。一つの罪が、あなたを永遠に天国から締め出すことを知っておられますか。それは不公平だとおっしゃるかもしれませんが、天国は備えのできた民のための場所であることを忘れてはなりません。もしあなたが、罪を犯したまま天国にはいることを許されたとするならば、それこそ神の不公平を意味し、そこにおいてあなたは、最も不幸な者となるでしょう。聖徒の仲間として入れられる時、あなたはどんな気持ちがするでしょうか。それを心から喜ばれるのでしょうか。あなたはむしろ、罪の仲間とともにいるほうが気楽だとお感じになるのではないでしょうか。あなたはまず備えられなければなりません。新しい性質を持ち、神に関することを心から喜ぶことのできる新生の経験をされなければなりません。汚れた者は、決して天国にはいることができないということを覚えていただきたいのです。
心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。(新約聖書 マタイ5・8)
神のきよさ
神のきよさを知り得た時に、はじめてわたしたちは、罪の極悪を知ります。人は、神の聖なる性質をあまり知らないので罪を軽んずるのです。
ペテロはイエスを見るまでは、自らの価値なきことを知りませんでした。しかしそれを自覚した時「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」(ルカ5・8)と叫びました。預言者イザヤに神のきよさがわかった時、彼は「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから」(イザヤ6・5)と叫びました。神が、「全く、かつ正しい」と言われたヨブでさえも、彼の性格に何かの欠点を見つけようとしたサタンのむなしい試みのあとで、神のきよさに触れた時、自分の罪深さを告白して言いました。「それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます」と。
神の前に罪人である皆さん、あなたはこのようなきよい神の前に立たれた時、どうなさいますか。太陽の光線の中でほこりが見えるように、あなたが神の聖と全き義の前に立たれる時、今まで気づかなかったような罪がはっきりと表れてくるのです。
(『道は二つしかない』オズワルド・J・スミス著斉藤一訳11〜14頁引用)
ペテロはイエスを見るまでは、自らの価値なきことを知りませんでした。しかしそれを自覚した時「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」(ルカ5・8)と叫びました。預言者イザヤに神のきよさがわかった時、彼は「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから」(イザヤ6・5)と叫びました。神が、「全く、かつ正しい」と言われたヨブでさえも、彼の性格に何かの欠点を見つけようとしたサタンのむなしい試みのあとで、神のきよさに触れた時、自分の罪深さを告白して言いました。「それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます」と。
神の前に罪人である皆さん、あなたはこのようなきよい神の前に立たれた時、どうなさいますか。太陽の光線の中でほこりが見えるように、あなたが神の聖と全き義の前に立たれる時、今まで気づかなかったような罪がはっきりと表れてくるのです。
(『道は二つしかない』オズワルド・J・スミス著斉藤一訳11〜14頁引用)
2013年3月15日金曜日
救いの道(2)神の審判の前に引き出され
低地の町々
エジプトの長子
エジプトの長子が全部、同じように堕落していたとは考えられません。多くの者は、おそらくその国の最もすぐれた政治家であり、また詩人や哲学者、祭司であったに違いありません。しかし神は、「わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう」(出エジプト12・13)と言われました。そこで、小羊の血を塗った家は過ぎ越され、塗っていなかった家の長男は滅ぼされたのです。それは、極悪罪の問題ではなく、服従の問題でした。問題は、血が塗られていたかどうかでした。この場合にも、二つのグループしかなかったのです。その血によって守られた人々と、滅ぼされた人々です。
友よ、あなたはイエス・キリストの血によって守られていますか。「肉のいのちは血の中にある・・・・いのちとして贖いをするのは血である」(レビ17・11)というみことばを忘れてはなりません。また、「わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう」(出エジプト12・13)という神のことばを変えることのできる人はひとりもいないのです。神はまた、ヘブル人への手紙9章22節で、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」と言われました。あなたは血によっておおわれていますか。もしそうでなければ、あなたは滅びなければならないのです。あの大洪水のような神の審判が、必ずあなたをおおいます。あなたの前には、死か永遠のいのちかのどちらかが待っていて、そこからのがれることはできないのです。
万人有罪
世界の大刑務所において、あなたはあらゆる種類の犯罪を見ることができます。大罪を犯した者から、良心的参戦拒否者に至るまでさまざまです。一方は多くの人を奪った殺人犯であり、他方は人の命を奪うことを拒否して投獄された者です。
彼らは全部国の法律を守らなかったので有罪の宣告を受けねばなりませんでした。人がおぼれるには、水が1.8キロの深さもなくてはならないというのではありません。30センチほどの深さで十分なのです。馬の周囲を囲んでいる塀が一ヵ所くずれれば、その塀が全部がない場合と同じように馬は自由になります。一つの罪を犯しただけで、あなたは百万の罪を犯した仲間に加えられます。なぜなら、「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです」と神が言われたからです。
あなたは、みことばを信じますか。あなたにぜひ覚えていただきたいことがあります。それは、一つの点において失敗し、ただ一つの戒めを破り、ただ一つの罪を犯しただけで、すべての点において有罪と同じことになるということです。
十の輪の鎖
わたしが、十の輪の鎖でつるされているとします。ところが、突然鎖が切れて、わたしは落ちてしまいました。よく見ると切れたのはただ一つで、他の九つの輪はそのままでした。罪についても同じことが言えます。わたしたちは、十戒という律法によって保たれています。しかしその中の一つでも破れば、わたしたちは失われた者となるのです。なぜなら、律法を犯したからです。あなたは律法全体をお守りになりましたか。その中のただ一つの戒めでも、破ったことはないでしょうか。一つでも破れば、あなたは有罪となるのです。それがどの戒めであるかは問題外です。それが殺人であろうと、あるいは偽証、姦淫、盗みであろうと、もしあなたが一つの戒めでも破ったならば、律法を犯したことになり、「有罪」とされるのです。そして、その時、世の大罪人の仲間にはいるのです。全能者の怒りは、あなたの上をおおっています。それは、あなたが神の宣告を受けておられるからです。
(『道は二つしかない』オズワルド・J・スミス著斉藤一訳1963年刊行。同書9〜11頁より引用。本稿は「救いの道」の第二回目であるが、第一回目は2/19の項目をご参照ください。)
2013年2月19日火曜日
救いの道(1)二つのグループ
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| はこぶねが できました すると あめが ふりはじめました あめは どんどん ふります おおみずに なりました |
道は二つしかありません。滅亡と死に導く「広い道」と、天国と永遠の命に導く「狭い道」です。第三の道である中間の道はありません。わたしたちは、天国か地獄かのどちらかへ通ずる道を歩んでいるのです。また、わたしたちの主人もふたりしかありません。すなわち神かサタンかのどちらかに、わたしたちは仕えています。というのは、人は「ふたりの主人に兼ね仕えることはできない」からです。あなたは、どのグループに属しておられるでしょうか。あなたは、どこへ行かれるのでしょうか。また、あなたはどの主人に仕えておられるのでしょうか。
一つのグループは「有罪」であり、もう一つは「無罪」です。あなたが、善人であるか悪人であるかは問題ではありません。あなたが、大罪人であるかないかは問題ではないのです。とにかく、あなたは有罪か無罪かのどちらかです。あなたの名前が数百の教会の名簿に載っていても、教会で最も熱心な働き人であっても、大罪を犯して数年間刑務所にいたとしても、そういうことは全く問題にはなりません。あなたは救われていなければ有罪です。そして、滅びに至る「広い道」を歩くグループに属しているのです。あなたは、教養と品位を身につけ、多くの人々から尊敬されているかもしれませんが、世の中で最も堕落した罪人の仲間のひとりです。ですから、神のみまえに「有罪」となるのです。そのグループのすべての者が平等に堕落していなくても、彼らは平等に有罪なのです。
「何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3・22〜23)
ノアの大洪水
この大洪水のことを思うだけでも、恐ろしい気がします。それは、なんとすさまじい絵でしょうか。ノアとともにいた者のほかは、全部滅んでしまいました。善良な人生を送った者も、最も堕落した罪人とともに、永遠の滅亡の中でおぼれ死んだのです。ここにも、二つの群れしかありません。彼らの罪の大小や、普通に言う善悪とはなんの関係もありません。彼らは、神に服従しなかったのです。彼らは、神の警告を無視し、安全なノアの箱舟の中へはいることを拒みました。ノアの箱舟にはいるか、それとも死ぬかのどちらかであって、ほかに道はありませんでした。
大洪水をのがれるために高い山に登っても、水はどんどん増してきてどうすることもできず、最後に懸命に祈っても、涙を流してもすでにおそく、彼らはひとり残らずおぼれて死ななければなりませんでした。それは、箱舟にはいることを拒んだためでした。彼らが、殺人罪を犯したからではなく、またその他の大罪のためでもなく、ただ神が備えられた唯一ののがれ道を無視したためでした。
「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう」(ヘブル2・3)。
神のみことばに耳を傾けましょう。
「悪者どもは、よみに帰って行く。神を忘れたあらゆる国々も」(詩篇9・17)。
あなたは外面的に非常に善良な生活を送っておられるかもしれません。また、大きな罪は一度も犯したことがないとおっしゃるかもしれません。
しかし、あなたは神の救いを無視されました。あなたは、イエス・キリストという「安全な船」に乗ることを拒否されたので有罪となり、滅びなければならないのです。
(『道は二つしかない』オズワルド・J・スミス著斉藤一訳1963年版7〜9頁引用。絵は『絵本聖書 ノアのはこぶね』1977年版より。この記事は「救いの道」と題する話の第一回目である。全部で八回にわけて分載する。)
大洪水をのがれるために高い山に登っても、水はどんどん増してきてどうすることもできず、最後に懸命に祈っても、涙を流してもすでにおそく、彼らはひとり残らずおぼれて死ななければなりませんでした。それは、箱舟にはいることを拒んだためでした。彼らが、殺人罪を犯したからではなく、またその他の大罪のためでもなく、ただ神が備えられた唯一ののがれ道を無視したためでした。
「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう」(ヘブル2・3)。
神のみことばに耳を傾けましょう。
「悪者どもは、よみに帰って行く。神を忘れたあらゆる国々も」(詩篇9・17)。
あなたは外面的に非常に善良な生活を送っておられるかもしれません。また、大きな罪は一度も犯したことがないとおっしゃるかもしれません。
しかし、あなたは神の救いを無視されました。あなたは、イエス・キリストという「安全な船」に乗ることを拒否されたので有罪となり、滅びなければならないのです。
(『道は二つしかない』オズワルド・J・スミス著斉藤一訳1963年版7〜9頁引用。絵は『絵本聖書 ノアのはこぶね』1977年版より。この記事は「救いの道」と題する話の第一回目である。全部で八回にわけて分載する。)
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