2013年10月1日火曜日

真夜中すぎ(最終回) ポーロ・B・スミス

そばの収穫、夏  ミレー
神の御霊の働きを拒んでいる限り、その人は自分の心のまわりに反抗の壁を築き上げていることになり、そのうち彼の心は、もはや変えることができないほど、頑固で無神経なものとなるのです。そして、ついに最後の「いいえ」を言い、それっきり「はい」とは言わなくなるのです。

私は神の御霊が、われわれの生涯に境界線をお引きになるとは思いません。しかしわれわれが、主イエス・キリストを常習的に斥けることにより、みずから境界線を引くことができるものと、固く信じています。

あなたは言うかもしれません。「しかし、私が神に向かって最後の『ノー』を言ったことを、どのようにして知ることができるでしょう。あるいは私は、自分の生涯に境界線を引いたため、すでに機会をなくしているかもしれません。また私の心は、神の御霊の訴えに対して余りにもかたくなになり、かつ無神経、無頓着になったため、もはや私の心がやわらかくされて神に立ち帰ることは、あり得ないかもしれません。しかし、境界線が引かれたのはいつであるか、どのようにして知ることができるでしょう。」

あなたの心はかき立てられるでしょうか。少しでもあなたは、関心を持っているでしょうか。認罪をもたらす神の認罪の力が、多少でも存在している証拠があるでしょうか。あなたは魂の救いに関して、少しでも気をつかっているでしょうか。もしそうであったら、あなたはまだ境界線を踏み越えていません。関心があり、気づかいがあり、なんらかの渇望の印があるなら、まだ遅すぎないのです。

聖書はまだ「主の名を呼ぶ者は、みな救われる」(使徒行伝2・21)と読むことができます。もしあなたが今日、救いを求めて主を呼び求めるだけの関心があるなら、あなたは救われるのです。聖書は「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」(ヨハネ6・37)と言っています。もしあなたの側に、主のみもとにくるだけの関心があるなら、あなたは拒まれることはありません。神はあなたを受け入れ、あなたを御自分の子どもにしてくださいます。しかし、あなたが救われるために、今主の御名を呼び求めるように、せつにお勧め致します。神の子どもにしていただくため、今主のみもとにいらっしゃい。そして、このメッセージが語られている時にも、主を救い主として受け入れることを拒み、またもや神に向かって「ノー」を言い、このことによって、あなたの生涯に境界線を引き、夜中の時刻が鳴るのを用いて外に取り残されぬよう、心してください。

いつの日か、あなたが神との正しい関係に入る機会は、打ち切られてしまいます。あなたが祝福の喜びと神の御前における満足をもって永遠の中に案内されるか、それとも泣いたり、叫んだり歯ぎしりしたりしなければならない外の暗黒に投げ入れられるかは、あなたが夜中の前になす決心にかかっているのです。

そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』 と言った。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。(マタイの福音書25・1〜13)

刈り入れの日があります。しかし、刈り入れが終わりを告げる日もあります。機会に恵まれる夏の時があります。しかし、夏が過ぎ去る時もあるのです。あなたが夜中すぎまで外に取り残され、刑罰の宣告を受けて地獄にいる者らとともに、永遠の暗黒の中から、「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、私たちは救われない」(エレミヤ8・20)と絶望の叫びをあげないように、あなたが夜中前に扉の中に入ることを、神が許されるように。

(『真夜中すぎ』15〜17頁より引用。主を受け入れることに関して、自分自身の経験を振り返って見ると、最初から「ノー」と言って、自ら境界線を引く力は強かったように思う。しかしほぼ三年半の抵抗のうちに、いつの間にか主を受け入れていた。もしそれがなかったら、というのは今日それから40数年が経つのだから、主を受け入れることは私にとってより困難になったただろう。かたくなであり、心をセメントにも等しきもので固めていたあの若き時に主を受け入れることができたのは主のあわれみとしか言いようがない。もっとも主にとっては、人が老年に至るまで主に対していかなる境界線を引こうとも、主の愛は変わらないことを、私は自分のまわりにいる、救いを経験したたくさんの高齢者の方々の証を通して今も日々教えられている。「やみと死の陰に座す者、悩みと鉄のかせとに縛られている者、彼らは、神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを侮ったのである。それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。彼らはよろけたが、だれも助けなかった。この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、彼らのかせを打ち砕かれた。彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。まことに主は青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきを粉々に砕かれた」詩篇107・10〜16。)

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