2013年10月26日土曜日

「宗教」と「啓示」(1)

「風の歌Ⅰ」 吉岡賢一 二紀展より
私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(ガラテヤ1・12)

人々は、いわゆる「宗教」と「イエス・キリストに対する信仰」とは同質のものであると考えていますが、これは大きな誤解です。「宗教」は人間が作り出したものであり、「イエス・キリストに対する信仰」は、上からの啓示によって与えられたものです。そこで、いわゆる「宗教」とイエス・キリストによって与えられた「啓示」がどのように本質的に異なるかということを、この章(註1)を通して明らかにしてみましょう。

ロシア革命の指導者、レーニンの有名なことばに「宗教は人民にとって阿片である」(註2)というものがあります。ここでレーニンは「宗教」ということばを使っていますが、彼はいわゆる宗教信者だけではなく、真の信者をも念頭においてこのことばを用いました。確かにレーニンは、心の支えを持っている人間は、まことの神を礼拝することや真理に従うということに関しては絶対妥協しないということを知っていました。まことの信仰を持っている人は、主イエスに不従順な道を歩むよりは、喜んで殉教の死を選ぶからです。レーニンは、革命を遂行するために、人間をあやつり人形のように自分の思う通りに従わせたかったのです。レーニンの必要としたのは、自分自身で考え、行動する人間ではなく、彼の指図通りに動く人間でした。ですからレーニンは心の支えを持った人間を憎まざるを得なかったのです。

同時にこのレーニンのことばは、いわゆる宗教信者に対しても当てはまることばであるとも言うことができます。仏教、神道、儒教、イスラム教などはもちろんのこと、キリスト教でさえ宗教としての側面を考えるとき、このレーニンのことばは、鋭く一面の真理を指摘していると言わざるを得ません。なぜなら、これらの「宗教」の特徴のひとつは、「阿片」のように、人々の判断を麻痺させたり、霊的に盲目にしたりしていることであり、この結果、人々は真の神から目をそらし、永遠の救いに至る道を見失い、本来神でない神、すなわち、偽りの虚しいものに、根拠のない希望を置くようにされてしまっているからです。

いわゆる「宗教」は、キリスト教、仏教、神道、儒教、イスラム教、その他種々の宗教も含めて、すべて人間が作り上げたものです。これに対して「まことの啓示」は、上から与えられるものです。「宗教」は人間を永遠のいのちに導き入れることはできません。「上からの啓示」だけが私たちを滅びから救い出し、他の何ものによってもゆるがされない「喜び」と「希望」と「平安」を与えることができるのです。聖書も語っているように、すべての人間には、例外なくまことの神を慕い求める思いがあり、(伝道者の書3・11註3)この思いを、多くの人々は、種々の「宗教」を通して満たそうとしています。人間の側から神に近づこうとすること、これが「宗教」の本質です。これに対して、「啓示」とは、まことの神が、ご自分の側から人間に対してご自身を現わしてくださり、人間が体験的に神を知ることができるようにして下さることを言います。このことを具体的な例をもって考えてみましょう。

インドは世界中で、最も貧しい国のひとつであると言われています。六億の人口をかかえ、子どもたちの50パーセントから70パーセントは、慢性的な栄養失調に陥っているのが実状です。インドは世界各地から毎年莫大な小麦を輸入しています。ところがある学者によれば、インドは本来十分な食糧を自給できる国であり、さらに、それを輸出することさえできるはずであるとのことです。それでは、一体何がインドをこのような貧困に陥れているのでしょうか。それはほかならぬ「宗教」なのです。インドには約50億匹のドブネズミがいます。つまり、インド人ひとりに対して8匹のドブネズミがいるという勘定になります。ですから、インドのドブネズミは、すべてのインド人よりもたくさんのものを食べていると言うことが言えるのです。インドの宗教によれば、ドブネズミは神聖なものであり、殺してはならないとされています。ですから、インドのドブネズミは撲滅されずに増える一方です。そしてその代償として多くのインド人の子供たちが餓死してゆくのです。私たちはここに「宗教は人民にとって阿片である」ということの一例を見ることができます。

(『実を結ぶいのち』ゴットホルド・ベック編著136〜137頁から引用。
註1この本は三部に分かれており、上述の文章は最後のⅢ光を見上げて—宗教から救いへ—の第二章からのものである。ちなみに第一章は「みこころに反する祈り」、第三章は「仰げ主を」である。
註2このことばは厳密にはマルクスのことばである。しかし、レーニンもこれに似たことばを用いているようだから大意としては差し支えないであろう。
註3「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」

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