2013年10月31日木曜日

永遠のいのち(上)

今の読んでもらいました箇所をもう一回読みます。ロマ書5章の18節(です)。

こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。

このいのちとは単なる生命ではない。言うまでもなく、「永遠のいのち」です。21節を見るとわかりますね。

それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。

言うまでもなく、「永遠のいのち」は聖書の中で、もっともたいせつな真理なのではないでしょうか。どうして(でしょうか)。三つの答えがあります。第一番目、「永遠のいのち」を持っていない人は誰でも天国に行くことはできないからです。第二の理由として「永遠のいのち」はイエス様がこの新しいいのちを与えるために、この世に来られなければならなかったから、たいせつです。三番目に「永遠のいのち」は、人間の永遠の運命を決定しますから、聖書の中のもっともたいせつな真理です。この三つの点について簡単に一緒に考えて見たいと思います。

先ず第一番目、「永遠のいのち」を持っていない人は誰も天国に行くことはできません。天国には主なる神のいのちがあるだけです。そのほかのいのちは天国にはありません。この「永遠のいのち」すなわち、「主なる神のいのち」を持っている人だけが天国へ行きます。そうでない人は天国へ入れません。ですから、「永遠のいのち」が聖書の中で一番たいせつにされていることなのではないでしょうか。どんな人間も「永遠のいのち」を持たなければならない。ですから、これは欠くことのできないものです。

聖書によると、すべての人々は、「永遠のいのち」を持っていないから死んでいるのです。すなわち、霊的に死んでいるのです。一ヵ所読むとわかります。エペソ書2章、342頁になります。エペソ人への手紙の2章1節から3節までお読みします。パウロのエペソの兄弟姉妹に書き送った文章です。

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

ロマ書6章の最後の節23節に、皆さん何回もお読みになった箇所ですが

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

「永遠のいのち」とは、勉強した結果、努力した報いではなく、賜物です。最高の宝物です。ここで 「罪から来る報酬は死である」と言っています。死ぬであろう、なのではなく、「死んで、現在(いま)死んでいる」と言っています。この死は将来のことでなくて、今ある死です。この死はわれわれの葬式を意味しているのではなく、罪に死んでいる人間の今の状態を言うのです。

人間は三つの要素から成っています。それは精神と魂と肉体です。創造主が人間をそのようにお造りになったのです。けども、主なる神がエデンの園に人間を置き、その園を耕し守らせられた時、主なる神は、人間に「善悪を知る木」を注意するようになさったのです。主なる神は、人間に、(創世記2章17節を見ると)次のように言われました。

しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。

けども、3章を見るとわかります。人間は主なる神の言うことを聞こうとしなかった。聞く耳がなかったから、取って食べました。その第一の人が罪を犯したとき、その人の何が死んだのでしょうか。「食べると死ぬ」と言われた。彼は取って食べた。けど何が死んだのでしょうか。体でしょうか。もちろん、そうじゃない。アダムの体は以前と全く同じように生きていました。それともその人、アダムの魂が死んだなのでしょうか。アダムの理解力が死んだのでしょうか。感情が死んだのでしょうか。決してそうではない。アダムはまだ考えることができたし、感ずることもできたし、計画することもできたんです。前と全く同じです。そしたら、何が死んだのでしょうか。聖書によると、精神が死んだんです。

アダムは自分の精神によって主なる神との交わりを持っていたんです。罪を犯す日まで主との交わりを持っていました。しかし、罪を犯したその時、主なる神とつながりが消えてしまいました。交わりがなくなったのです。ですから、人間の精神は生き返らなければなりません。生まれながらの人間の体は生きています。魂も生きていますけど、精神は死んでいます。そしてその精神を新しいいのちで新しくされなければなりません。生まれながらの人間は主なる神によって永遠のいのちを精神にもらわなければなりません。さもないと、永遠に死ななければなりません。「永遠のいのち」がなぜ聖書の中でそんなにたいせつな真理であるか、そのわけは、どんな人も「永遠のいのち」を持たなければ、永遠に死んでしまうという点にあります。

(昨日の昼間行なわれた家庭集会の聞き書きである。二年前の10月一人のご高齢の方が病床で息を引き取られた。しかしその二日前やはり家庭集会に来られたベック兄から慰問を受けみことばを聞かれた。もはや会話はできなくなっていたが、意識の朦朧としている中で、奥様からペンをもぎとるようにして手にされ、「これで十分だ」と書かれた。主イエス様を受け入れることによって「主なる神のいのち」をいただかれたからだ。)

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