結婚式場コーナーの飾り花 2013.10.5 |
競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
とコリント第一の手紙9章24節にあります。ヘブル書の著者も同じようなことを思ったにちがいない。
こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
ヘブル書12章1節ですね。そして使徒行伝の中でパウロは告白することができました。使徒行伝20章の24節。
けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。
パウロは人を喜ばせよう、と思わなかった。心からそう思って告白しました。こういうことばを読んで参りますと、信仰の競争を走り抜くには、まつわりつく色々なものを捨てなければならないことがわかります。それは思い煩いである場合もありましょう。憂鬱な気持ち、不信仰、人を恐れる恐れであるかもしれません。また十字架を負うことを拒むことであるかもしれません。
パウロの目指した「目標」「報い」とは、もちろん普通の考えられる救いではなかったのです。なぜなら、パウロはその時すでに救われ永遠のいのちを持っていると確信したからです。パウロは自分のわがままは赦され、忘れられていることも確信し、喜びの声をあげることができたのです。パウロの目ざした目的とは、今話したように、普通の考えられる救いではなかった、それから、言うまでもなくパウロは地上における名声のために目標を目ざして走りませんでした、とはっきり言えます。パウロは生きている間に、もうすでにイエス様のものになっただけではなく、すぐれた人として動かすことのできない名声を獲得していました。そして異邦人に対する使徒としてすべての人に認められていました。しかし、パウロは一度も他の人々に認められたいなどと思ったことはありませんでした。
パウロの時代には自分の栄誉のために働く人々がおりました。これらの兄弟姉妹はねたみや闘争心に、また党派心や虚栄からイエス様を宣べ伝える人々だったと聖書は言っています。パウロの時代にはそうでしたが、この末の世ではなおさらそうではないでしょうか。
信ずる者の中にも、「認められたい」という願いが働き、何とかして信用を得よう、名声を博し、大いなる者と称えられたくて働く人々ももちろんいます。イエス様に出会った者は、はじめイエス様によって救われた時、喜びのあまり自分の持っている物はみなすべてイエス様にささげ、イエス様に仕えたい、この世の名声とは問題ではないと思ったことがあるはずですけれど、そのうちに名誉心が頭をもたげて、自分は何かになりたい、認められる者になりたいと思うようになります。口では、主にすべてをささげて、主に仕えていると言いますが、実際は人の誉れを求める人々がいるなのではないでしょうか。もし人の誉れを求めているなら、肉においては己を喜ばせ、当たり障りのない楽な生活をすることができるでしょうけれど、パウロのようなただ神の誉れを求め、上のものを目ざして走ろうとする者はいろいろな困難が降り掛かってきます。
パウロの証をちょっと見てみましょうか。294頁になります。コリント第一の手紙4章9節から13節までをお読み致します。
私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。
パウロの目ざした目標はもちろん罪の赦しではなかった。もうすでに赦された、自分の罪はもう永久的に忘れられていることを彼は確信していました。またパウロの目ざした目標は地上における名声でもなかった。パウロの目ざした、走っていたものは、自分のものではありませんでした。自分の持ち物を少しでも多く持とうという願いは、若いころのパウロの願いだったのではないでしょうか。彼は知的にも人よりすぐれようとし、非常な努力を致しました。ピリピ書、353頁。ピリピへの手紙の3章5節6節をお読み致します。
私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
間違った自信に満ちたものでした。彼は若いころ持っていたこのような霊は天からのものではありませんでした。したがって天の報いとは少しの関係もありません。
(昨日午前の吉祥寺の福音集会で語られたベック兄のメッセージの録音を夜インターネットで拝聴させていただき、聞き書きしたものである。時ならず、私は昨日年少の友から9つのみことばをプレゼントとしていただいた。そのみことばは全くこのメッセージの結論と同じであった。日本人の宣教のために60年に渡って尽くしておられるベック兄とこの年少の友が指し示したみことばとの不思議な一致に私は深い霊的感動を覚えさせられている。)
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