2013年10月2日水曜日

『なんだベア』おのぐちひとし著 日本文学館 

表紙絵も著者
錦秋の候、到来である。先週著者より、表題の本の進呈を受けた。ここ数年お会いしていない。年賀のやりとりだけは欠かさずしている間柄である。

著者とは20数年前私が障害者のための自動車教習所を訪れた時初めてお会いした。そこには自らの行為により障害を負った教え子が入所していて、確かクリスマスをともに祝おうとして出かけたときだったように記憶するが、私と教え子の様子を遠巻きに眺めていた若い青年がいた。それが著者であった。そののち4年ほどしてこのふたりは結婚に導かれた。

その時、著者が書いた結婚への決意を披瀝した文章を私は今も大事に保管している。原稿用紙にして6枚の文章である。彼は脳性小児まひのために手足、言語が不自由である。しかし、その原稿用紙は香り高い文章とともに筆者の力強い健筆ぶりを今も示していて、私には容易に捨て難くなっている。その末尾で彼は次のように書き記している。

「今、結婚を前にして、4年の月日を思うとき、決してどちらか一方が先導し続けて来た道程でなかったように思う。全く、助け合いそのものの道程であり、だからこそお互いをよく知り合えたのだと思う。これからの結婚生活においても、私たちは、そうでありたいと思っている。結婚生活というものは、二人で築き上げていくものであって、どちらかが、つくろったのでは、砂上の楼閣の如しだと思うのである。だから私達は、いつでも話し合っていたいと願っている。そして歳をとって、お爺ちゃん、お婆ちゃんになった時、のんびりと縁側に座って、昔話をしてみたい。そんなことを思っている私に、また、神が言われた。『あなたがたは、もはや二人ではない、一人である』と。」

2003年から、著者は語り部としての学びを続けられたと言う。ちょうど今年で10年経つから、その成果が一冊の本になったのだろうか、著者の長年の願いが実を結んだのだと思う。

話は、山の食べ物がなくなった熊たちが、人間を相手に一致団結して、里山の栗林からの採集に成功し、ゴンドラで栗を運搬するという奇想天外の物語である。登場人物として五郎熊、サン太熊、長老熊はじめ様々な熊が登場するがそれぞれ人様顔負けの所業の持ち主ばかりで里山の人間の裏をかき、追いつ抜かれつの所業の末、20年来の宿願を果たすという筋立てである。

すべて親しみやすい方言に満ちており、声に出しても調子いい内容である。その中には戸隠あり、甲賀あり、土浦あり、猿飛佐助や「なりこまや」の呼びかけあり、著者の日頃の芸事たしなみが文章の端々にあらわれて楽しい。さしずめ、圧巻の一つは次の箇所であろう。

五郎とサン太はわざわざ鉄砲たちに気付かれる様に、見通しの良いところを、ジグザグに走った。

ズドン、ズドーン。ズド、ズドーン。ドン。ヒュー〜。

鉄砲たちが、一斉に火を噴いた。

ズドズドズッドーン。ドン。パラパラパラパラララララ。
ズッドーン。ドン。パラパラパラパラ・・・・。
ズーズドン。パラパラパラパラ。
ヒュー〜、ズドー〜ン、ドン。パラパラパラパラパラパラパラパラ

夜空に、見事な花火が! 花火が浮かび上がった。

「たまや——————————————————」
「さるとびや—————————————————————」
山の中腹辺りから、まず声が掛かって、間髪入れずして、栗林辺りから声が掛かった。何とも絶妙のタイミング。もし、歌舞伎で、これだけの大向こうからの声が掛かったら、さぞや役者はものすごく気持ちいいことだろう。現に花火も気持ちよさそうに、次から次へと上がっている。

「うわ〜花火だあ、綺麗だな—それにまるで昼間の様に明るくなって栗が良く見える。あっははは、採り放題だ、こら」
なるほど、栗林は、まるで夜間照明が有るかのごとく照らし出されている。

(同書 壱拾五 けがのこうみょう 冒頭の文より)

こんなに楽しい作品ではあるが、私には一点物足りないところがあった。それは「福音」の欠如である。今後著者がそのような作品をものされることを期待している。

狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。(イザヤ書11・6〜9) 

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