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2017年5月4日木曜日

神のことばはいのちのパンなり

大洗漁港

 いのちのパンである、天よりの食物、すなわち、神のことばをふりむきもしない人は、自分の魂を、なんとむごく取り扱っていることよ。神は、慈愛にとみたもうおかたであるから、神御自身が、わたしたちのうちに、はいり来たりたもうために、目に見える手段を設けてくださっている。その手段をとおして、神は、わたしたちを呼び、集め、照らし導いてくださる。この手段を正しく用いることによって、わたしたちは、永遠の幸福にあずかるのである。

 しかるに、今日は、なんとしたことであろう。まだ霊的に盲目な、世俗的な人々が、価の高い真珠を、足で踏みにじっている、ということだけでも嘆かわしいことであるのに、さらに悲しむべきことは、「神のすばらしいみことばや、きたるべき世の権威をその身に経験した」人々が、「落伍者」になっているではないか。

 彼らは、この世や、肉にさまたげられて、神のことばの追求を投げ棄ててしまっている。何日も、何週間も、神のことばを考えることなしにすごして、魂は飢えるにまかせている。たとい、まれに、みことばを読んだり、聞いたりすることはあっても、その心や頭には、この世的な事が、雑然といっぱいつまっているので、魂は、天の父の愛の光を受けて、温まることはできないのである。太陽の光線が大きくうねっている海を温め得ないのと同様である。

 人の心が、神のことばによって温められ、生きかえらせられるためには、しずかに、敬虔なおもいで、神のことばを受けとらなければならないのである。

(『あらしと平安』ロセニウス著岸恵以訳聖文社342頁より引用)

 久しぶりにロセニウスの霊想を読んでいる。心に染み入る内容である。この短い霊想の中には明らかに下記のみことばが念頭として描かれているのであろう。読み比べてみて、さらに含蓄が出て来る思いがした。

聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。(マタイ7:7)

一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。(ヘブル6:4〜8)

2013年6月24日月曜日

召された聖徒は恵みと平安につつまれる

浅間山 2013.6.22
ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。(新約聖書 ローマ1・7前半)

こういう特徴ある呼称は美しく、かつ注目に値します。「神に愛され・・・召された聖徒たち」世の人々は、神様が自分たちを罪・咎から引き離し(主のものとして)買い戻すために、ひとり子を犠牲にされたほどに愛されているのです。神様の愛は、罪人を聖徒とするように召しておられる事実と分かちがたく結びついているのです。聖徒として、世の人々は神の契約の民であり、神の愛と関心の的であります。

キリストにある人はどんな人も神の聖徒の資格を持つのです。例外は一切存在しません。中間層は存在しないのです。人間の間に罪がいかにあろうとも、神様との関わりにあっては二つの階級しか存在しないのです。言うならば、キリストを信ずる者とキリストを信じない者、聖徒であるか罪人であるかということです。聖徒であるとはキリストの功(いさおし)と価値を受け取ることです。決して自分のものでない(キリストにある)譲りを分与されるのです。もっとも成熟した聖徒であっても自分自身では無罪ではなく聖くはありえないのですから、このことは神様の恵みの賜物でしかないのです。

神様はあらゆるキリスト者を聖徒として聖くご自身にふさわしい者と見てくださいます。なぜならキリストが聖であり、受け入れられる方であり、あらゆるキリスト者は「キリストを着て」いるからです。キリストの完全な罪滅ぼしの血潮だけが神様の前で有効であります。だから、キリストの血潮によってきよくせられた人はどんな人も「聖徒として召され」た聖いものとみなされるのです。キリスト者は神様の目からみて、聖さにおいて同等です。私たちの主が死なれ、よみがえられた働きをとおしてキリスト者は同等に義とされるのです。

ある信者は聖化において成長しているかも知れません。ある信者はキリストにあって子どものようであったり、青年のようであったり、父や母のようであったりするかもしれません。またある信者はその信仰が強いかも知れません。弱いかも知れません。またある信者は何事にも怠りがないかも知れません。ところが他の信者はとてもそうでないかもしれません。

けれども、(キリスト者はいかにあろうとも)あくまでもキリストによって聖と義を同等に持つのです。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。(ローマ1・7後半)

この使徒のあいさつは、真の祝福の基(もとい)である「恵み」と「平安」に言及しています。神の御霊が信者の心のうちに働くように、あらゆる善行をもたらすのは恵みです。恵みの泉から神のいのちに貢献するすべてのものが注ぎ出されるのです。恵みは神様の召しに形となってあらわれ、新生を与え、信仰を強め、成長させるのです。

ルターはこういうことを次のようにコメントしました。「恵みと平安が全キリスト者生活を大きく包むものである。恵みは罪・咎の赦しに結びつき、平安は不義から解放された良心に結びついている。」 人がそのことを悟るとき、どんな悪も父なる神様の知ることなしには起こりません。悪魔は心の真の平安たりうることよりむしろ信者のための祝福だけを求めるのです(When one has learned that no evil can befall without the Father's knowledge, and that he wills only blessing for the believer, than there can be true peace of mind and heart.)

使徒パウロは私たちのためにこの平安を示しています。それは神的で天的な平安です。主が「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」(ヨハネ14・27)とおっしゃった時、このことを話されたのです。

((Romans a devotional commentary by C.O.Rossenius 5~6頁 私訳。なおこの本の原著はロセニウスの母国スウェーデン語で書かれており、その英訳の訳である。例により英文併記は誤訳の恐れなしとしないところである。 )

2013年6月3日月曜日

あなたのめぐみをあふれさせてください

バージンロードの上に残された「はな」(5月3日西軽井沢国際福音センター
このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。(新約聖書 ローマ1・5)

「恵み」という賜物が与えられることが、使徒のつとめが推進されるに先立って重要なことです。「恵み」なくして使徒のつとめはありえないし、「恵み」の結果として使徒のつとめがあるのです。

さて、「恵み」ということばは、無価値な罪人にむかって神様がお示しになる、罪人には不相応な慈悲、愛、寵愛を定義する言葉です。「恵み」ということばは、しばしば通常の理解で使われがちですが、神様の永遠の光のうちに見られるなら、この小さな言葉は様々な意味を持ちます。「恵み」の教えは大変重要であり、贖罪の教えの大切なもののひとつであり、神様を「恵み」の与え主として知ることが永遠のいのちを持つことであるからです。

神様の赦しの「恵み」は、必ずイエス・キリストをとおして与えられることが想起されねばなりません。 私たちは、イエス・キリストすなわち神の御子との正しい関係があってはじめて、彼の罪滅ぼしの完遂された働きにより用意されている恩恵にあずかれるのです。御子が私たちのためにかちえてくださったことが、まるで私たちがそうしたかのようにして私たちのものとなるのです。こんなふうにして私たちはイエス様の「恵み」の受益者となれるのです。

誰もキリストをとおしての律法の実現をかちとるのでないなら、神の「恵み」を所持できません。キリストなしには「恵み」はありません。キリストなしであれば、神様は信仰のない人をその価値、はたらきにそって扱われるに違いありません。しかし、キリストをとおしてでなければ何の価値も功績もないのです。

けれども、主を信じ、救いの力を受け取る人は自らの罪と無価値に影響され得ないのであります。そのようなものが「恵み」なのです。まさしく「恵み」は働きや功績とはまるっきり反対であります。パウロは書いています。「もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。」(ローマ11・6)

神様の「恵み」は律法の要求を満足します。このことは、たとえ受領者がそれに全然ふさわしくなくとも、聖書によれば本当なのです。「恵み」という神の賜物を獲得する神の聖徒は、かような慈悲の不思議さに感嘆を叫んでいる子どものようであります。

謙遜な、信ずるたましいによって受け入れられる「恵み」が、結果として使徒のつとめにつながるのです。パウロは自らが神の「恵み」のゆえに使徒となったと言いました。だから彼は別のところで「 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました」(1コリント15・10)と言うことができたのです。

「恵み」だけが信者の内側に聖なる目的と証しする力を植えつけるのです。どんな人も「恵み」によって生きないとき、ほんとうの証や使徒のつとめをなすことはできません。このことは誰にとっても真実ですが、心のうちにこの「恵み」を保持している福音の使者にとってはどれほど必要なことでありましょうか。「恵み」が「御名のための信仰の従順」(5節)につながるのです。これがパウロの宣教の責任でした。彼は全ての信者が神の意志に従順であらねばならないと強調しました。ここにおいて彼は福音を信ずるに際しての従順を重視します。

使徒パウロはひとりひとりが永遠のいのちを求めて救われ、永遠の死から救出されるようにキリストにある救いの知識を運ぶ燃えるがごとき目標を持っていました。

この救いに先行するキリストの知識は「あらゆる国の人々の中に」知らされねばならないのです。それは「あらゆる国の人々を弟子とする」ための世界大的な宣教であります。神様の人々に対する究極の目的は人々の救いであります。聖書が強調するのは、私たちの主の中心的なご目的はご自身の名が彼のためにかちとられたたましいにあってほめあげられるということです。これが悔い改めた罪人にとって慰めの根源であります。神様が死ぬしかない人間にひざをかがめて耳をそばだてられるとは理解しがたいことに見えますが、ご自身のために主が耳を傾けなさることを知ることは何と快いことでしょう。それですから、ふさわしい主に対する答えは「主よ、栄光ある御名のゆえにあなたのめぐみをあふれさせて、たとえ私がふさわしくない者であっても私をお救いくださいますように」というものではないでしょうか。

(Romans a devotional commentary by C.O.Rossenius 4~5頁 私訳 )

2012年3月10日土曜日

ただ聞きさえすればよい。

北海道・美瑛駅 by Y.Oku

聖書は、人間の救いを、終始「信仰」という言葉に結びつけている。だから、わたしたちは、いまこの信仰という問題に焦点をおいて、こういう問いをあげてみよう。わたしたちは、どのようにして、信仰を持つようになるのだろうか。信仰とは何か。魂の覚醒を経験した信仰者は、誰でも、この二つの問いに対する正しい解答の上に立って、自分の魂の救いをのぞみみているのである。

では、キリストは何と言っておられるだろうか。「あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている」(ヨハネ15:2)と言っておられる。また、生ける神のみ霊は告げている、「耳を傾け、わたしに聞け。そうすれば、あなたがたは生きることができる。わたしは、あなたがたと、とこしえの契約を立てる」(イザヤ55:3)と。「わたしに聞け」である。ただ聞きさえすればよい。

信仰は聞くことによって生まれる。信仰は、おのずから、自然にわきあがってくるものではない。魂の目ざめを経験した者たちが、神の語りたもうことに耳を傾けないで、ただ考えに考えを重ね、思索し、沈思黙考、推測し、哲学することは、魂を激しくかき乱し、傷だらけにするだけである。信仰は思考することによって生まれるものでもなく、いちずに、聖霊を待ち望むことによって、もたらされるものでもない。また、自分の心を、信仰に引き入れようと努力した結果あらわれるものでもない。信仰は、決して、そのようにして生まれるものではない。

イエスは「わたしのことばによって」と言っておられる。心を静めて、神のことばに耳を傾けなさい。そして、みことばを、すなおに受け入れなさい。神の御約束を信頼しなさい。神は偽りを言ったり、裏切ったりなさるおかたではない。あなたの生活が、たとい、どのように不完全であっても、あなたの心が、どのように罪によごれていても、神のみことばにたよりなさい。あなたが、神のみことばを心に受けて、神がみ子について語りたもうことを信じさえすれば、ただそのゆえ、キリストはあなたの救い主となりたもうて、信仰をとおして、あなたにあらゆる恵みと、幸をさずけてくださるのである。

使徒パウロの、意義ふかい貴い言葉を読んで頂きたい。「しかし、信仰による義は、こう言っている、『あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな』。それは、キリストを引き降ろすことである。また『だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな』。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。では、なんと言っているか。『言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある』。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ローマ10:6〜10)

(『あらしと平安』ロセニウス著岸恵以訳聖文舎1961年刊行409〜410頁より引用)

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(新約聖書 マタイ11:28〜29)

2012年3月4日日曜日

ひと日の終わりに ロセニウス

幼子らをわたしのところに  ウーデ 画
 冬の暗い嵐の夜であった。空には、不気味な黒雲が一面に広がっていた。雨は、すさまじい勢いで、地面をたたいていた。道を歩くこともできな い。旅の途上にある者のことが気がかりになるような夜であった。日もとっぷり暮れて、どの家の炉辺にも、桜のたきぎが、パチパチ音をたてて燃えていた。

 森の中に、一軒の小さな家が立っていた。だが、その軒をくぐって宿を求める旅人は、ほとんど、ひとりもいなかった。ところが、その夜、ひとりの旅人が戸をたたいて、一夜の宿を乞うたのであった。その家の人々は、彼をやさしく迎えいれ、たき火の近く、一番暖かい椅子に座らせて、雨にぬれた服を乾かしてやっ た。そして、質素な食卓をともにかこむようにとすすめた。食事の席で、旅人は、家族の者たちに、急に暗やみが迫ったとき森の中で道に迷ったことや、親切な人の家に導いてくださいと神に祈ったことや、祈りおえたとたんに、嵐とやみの深いとばりをとおして、この家の窓からもれる光を、かすかにとらえることができたことを告げたのだった。

 食事が終わったとき、旅人は、何事かを期待するかのように、あたりを見まわしていた。そこで、主人は、寝床につくように彼をうながして、客のためのこじんまりとした寝室のドアを開いた。子供たちは、それぞれ床につく支度をはじめていた。

 「寝るのですか」客は驚いたように叫んだ。「そのまえに、何かすることを、忘れていらっしゃるのではありませんか」。

 「いえ、別に、何もありません」。主人は、腑に落ちない表情で答えた。「わたしたちは、一日の仕事を終えたのです。夕食もすましたので、もう寝るばかりです」と。

 「では、わたしは今までの皆さんのご厚意を感謝して、またすぐに旅をつづけることにしましょう。道は暗く、嵐もまだおさまってはいないけれど」。客は、いそいで言葉をつづけた。「わたしは、一日の終わりに、すべてを神の御手にゆだねて、神の御加護と御恵みを祈らない家族のかたとは、一つ屋根の下に、どうしても眠ることができないのです。夜半に、屋根が落ちはしまいかと心配になるものですから」。

 「わたしたちは、そんな事は、一度も考えたことはなかったのに」。妻の細い、ふるえる声がきこえた。

 「天の神は、考えておられたでしょう」。客は、荷物を取りあげながら答えて言うのであった。「もし神が忍耐強いおかたでなかったら、この屋根は、ずっと前に落ちていたでしょう。なぜなら、祈りのきこえない家は、いわば、砂の上に立っている家のようなものです。すみませんが、わたしの用意を、手伝ってくださいませんか。もう出かけなければなりません。わたしには、この家にとどまる勇気がありません」。

 「今夜、どうぞ、ここに泊まってください」。貧しいこの家の主人は、客にすがるようにしてたのみはじめた。「そして、わたしたちが、どのようにして一日を終わったらよいのか教えてください。わたしたちと一緒に祈ってください。わたしたちのために祈ってください。わたしたちは、まだ一度も家庭礼拝を守ったことがないので、どうしたらよいか、わからないのです」。

 客は、すぐに急いで小さな聖書をポケットから取り出し、短い聖句を読み、椅子の横にひざまずいて、熱心に祈りをささげた。自分自身のため、また、人里離れた森の中に、神からも遠のいて住んでいる家族のために。彼は、この人々が、いっさいの思い煩いを、天の父に告げる者となるように、また、すべてのよいたまものは、神から授けられていることを悟るように祈った。彼らが、限りなく貴いたまものであるところの、 キリストによるゆるしの恵みを、乞い求める者となるよう、また、彼らの心の中に、聖霊がゆたかにそそがれるようにと祈った。彼は、最後に、家族の者と、自分自身をあわれみ深い神の御腕にゆだね、ひと夜のみまもりを願って、真心のこもった「アーメン」で、祈りを閉じた。嵐の夜、奥深い森の一軒屋で、ささげられた祈りは、決して無駄ではなかった。イエスの名によって祈る祈りはきかれる、とのみことばどおりに、その祈りは、神のみ座にまでとどいて、神に聞きあげ られたのであった。神に対して、何年も閉ざしていた家族の者の心を、神は、祈りのゆえに開きたもうた。その祈りは、心の扉を開く鍵となったのである。昔のルデヤのように、彼らは、「みことばを、喜んで受けた」のだ。

 客が寝室に案内されたときには、すでに夜はふけていた。「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」との聞きあきた陳腐な問いのかわりに、今や、「救われるためには、何をしたらよいだろうか」という、最も大切な問いが、家族の者の心に生まれたのだった。スカルの井戸べで、主が教えたもうたように、旅に疲れたこの客も、「彼をつかわされたかたのわざ」を行なうためには、喜んで、自分の睡眠を犠牲にした。彼にとっては、主のわざを行なうことは、睡眠よりも益になる尊いことであった。

 夜が明けた頃には、雨もやみ、嵐も去って、雲のきれ目から太陽が笑っていた。客は、家族の者と朝の礼拝を守った後、旅をつづけるために、別れを告げた。彼らは、その旅人を再び見ることはできなかった。しかし、その日以来、かの森の家では、新しい生活がはじめられていた。イエスが、その家の主人となり、両親と子供たちは、喜んで主に仕えた。新しい生活にはいった彼らにとっては、祈りは呼吸の役目を果たすものとなった。彼らは自然に祈り、絶えず祈った。祈りのうちに、心 の静けさや、平和や、みちたりた思いを見いだすことができた。新しい人は、天国の清潔な空気を呼吸しなければ、生きることはできない。

 家族の者たちは、あの寒い嵐の夜に訪れた人の名前を、ついに尋ねずに別れたのであるが、日々の祈りには、彼のことを、必ずかかさずに祈った。大いなる主の日、隠されていたことが、すべてあきらかにされるその日には、この家族の者と、無名の旅人とは、再び顔を合わせるであろう。そして、互いにそれと知って、 神のくすしいみわざを賛美するであろう。

 愛する友よ。あなたの家庭は、どのような状況にあるであろうか。まっすぐな支えがなく て、ガラガラと崩れかけはしまいか、と気にかかっているのではあるまいか。そのような家の中で寝起きするのは、危険である。祈りのない家は、喜びのない家である。見はなされた家、キリストのおりたまわない家である。もし家庭礼拝を守っていないなら、今晩、家族の者を集めて、神の前に、あなたの心のうちにあることをそそぎ出し、家族の者のため、また、あなた自身のために祈りなさい。そうすれば、あなたは、神の永遠の愛のみつばさの下に憩うことができるであろう。今が、そのときである。明日を待てば、あなたには、その機会はないかも知れない。

(『あらしと平安』ロセニウス著岸恵以訳聖文舎 1961年刊行524〜528頁より引用。)

そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。(新約聖書 マタイ21:13)