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2026年3月4日水曜日

83歳の誕生日


 長女も妻も五人の子宝に恵まれた。当方はいつの間にか83歳になった。先月のことだ。その長女が忙しい合間を縫って、私どものところに遠路出かけてきて誕生ケーキを(子どもたちを代表して)つくり祝ってくれた。全てケーキ材料は持ち込みだ。その上、80歳になって、すっかり衰えてしまった妻にも、ケーキ制作の作業を手伝わせて一体感の醸成につとめてくれた。かつて彼らの子ども時代、私たちはこんなふうにして誕生日を祝ったことがあっただろうか。何らかのお祝いをしたことは確かだと思うが、二人ともすっかりそのことは忘れてしまった。

 ローソク3本は言うまでもなく、83の3だが、ローソクの灯を消して、ハッピーバースデイを歌われた。そうされても素直に感謝することを心から表さなかった気がする(そこには照れ隠しもあるが)。そう言えば、私の誕生日は2月7日だが、翌日に次女の一人娘が2歳の誕生日を迎えた。この2歳の彼女にとって、両親に命ぜられるまま、ローソクの灯を消すことは一大イベントの感がした。なぜなら、送られてきた動画を見ると、家族の祝福に包まれた孫娘の新鮮な驚きと家族の表現しようのない喜びが伝わってきたからである。83歳の私と2歳の孫娘とでは誕生日の意味合いは異なり、2歳の孫娘には未来の希望が託されているような感がした。

 ところで妻は80歳、私は83歳。このコンビで五十六年間一つの家庭を築かせていただいてきたが、もうかれこれ、過去二十余年のうちにそれぞれ子どもたちは巣立ち、それぞれの家庭を建設している。そして私は「もうすっかり歳を取って、何も出来ませんわ」と思うだけだったが、聖書記事を読んでいて、そんなことはないよ、と励ましをいただいた想いがした。それは出エジプト記の次の記述だ。

主はモーセに仰られた。「見よ。わたしはあなたをパロに対して神とし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。あなたはわたしの命じることを、みな、告げなければならない。・・・」そこでモーセとアロンはそうした。主が彼らに命じられたとおりにした。彼らがパロに語ったとき、モーセは80歳、アロンは83歳であった。(旧約聖書 出エジプト記7章1〜2、6〜7節)

 パロとは当時絶頂を極めるエジプトの王だ。その王の支配下にいたのが奴隷として酷使されていたイスラエル人であった。その解放者として神様の命(めい)を受けて立ったのがモーセその人である。それは「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた」(すなわち、それはとりも直さず「私」のことだが・・・)人々を解放するために、人となってきてくださったイエス・キリストの型としてのモーセの姿であったのでないか。

 同じ83歳と80歳のコンビと言えど、この先、神様に用いられたアロンとモーセの如く生きていけるとは間違っても思わないけれど、そうして現に神様のために労したアロンとモーセがいたことだけでも心の片隅に覚えていたいと思わされた。

そこで、子たち(人のこと)はみな血と肉とを持っているので、主(イエス・キリスト)もまた同じように、これらのものをお持ちになりました(人として誕生された)。これは、その死(人の神様に背く罪の罰である十字架の死を身代わりに受けること)によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。(新約聖書 ヘブル2章14〜15節)

2025年12月23日火曜日

一大ハプニングとその顛末

リュクサンブール公園で 2006.11.28※1
  12月になって最初の土曜日に、近江八幡からわざわざ東京まで同期会に出席するために上京した方と偶然ホテルに同時に着いたことはすでに”2025年の「東京36会」(上)”で触れておいた。その時、私は自分自身がすでに次週には近江八幡のキリスト集会の礼拝に出席すると決めていたので、その同期生の方には「来週、私は(逆に)近江八幡に行くんですよ」と言ったが、果たして、その方がどの程度心に留められたか。

 私の場合、その近江八幡に行くには、毎回郷里の彦根市高宮町の家に泊まってから翌日出かけることにしている。そのためには、先ず東京まで出て、そこから新幹線で米原に行き、あとは在来線で行くのが常である。ところで、不思議なことに、その一週間前には私の家から新橋に行くには電車所要時間が一時間とキリのいい時間であったが、今度、東京へ行く時間を調べたら、何と最寄駅を9:17分に出れば、10:17分に東京に着ける、これまた一時間きっちりなのだ。幸先良い前触れだと思わずにはいられなかった。

 ところが豈(あに)図(はか)らんや、前日の金曜日に、翌日の近江八幡行きを断念せざるを得ないと覚悟した一大ハプニングが起こってしまった。妻が午後4時ごろ近くのお店に自転車で買い物に出たが、中々帰って来なかった。道がわからなくなって帰るに帰れなくなったのだ。やむを得ず、警察に電話して大変お世話になり、最後は妻が午後7時ごろ道中のとある営業所に入り、道に迷ったことを告げ、自分の住所と電話番号を知らせた。そのことをきっかけにして一挙に居場所がわかり、警察の車で急行し妻と再会できた。

 当日日没が何時だったか、4時半ごろだと思う。暗い夜道で、元々方向音痴の妻に取り、大変だったに違いない。短期記憶ができない妻にとって瞬間瞬間の判断力だけが頼りだった。都合三時間あまり、どこをどう自転車を走らせたのか、その距離は直線距離にしておよそ12キロメートルの西方へと自転車を走らせてしまったが、今となってはわからない。とにかく無事だったのでホッと胸を撫で下ろし、翌日の近江八幡行きも妻を同道させて実行できた。

 その後徐々にわかってきたことは、妻がペダルを一足一足踏むごとに、「イエス様、助けてください!」と祈りながらの自転車走行であったということだった。当時、私は気も動転するばかりで、祈るどころか、(妻は携帯電話を所持していなかったため)唯一の手掛かりとなった財布内に忍ばせてあった「紛失物防止タッグ」(※2)のGPSが刻々と知らせてくれる、その情報を恨めしげに眺めては、止まらず走り続ける妻をどうすることもできず、地団駄を踏むばかりであった。

 妻が認知症を患っているため、ここ一、二年健康時に妥当することは一切通じなくなった。でも段々その行動に慣れてきた。認知症は徐々に進行するが治らない病気だと言うのが今日の常識のようだ(※3)。いかにそれを受け入れて周りの者が接するのかが大切であると自分に言い聞かせている。

 今回の騒動を通して慰められたのは、先ず、春日部から浦和方面に向かって三時間あまりの彷徨の中で、交通事故に会うことがなかったこと。次に当時、一切の記憶がない妻だったが、二、三日するうちに少しずつ自分の行動を語り出したことである。浦和方面に行くには、元荒川を越え、関越高速道路の下を潜らなければならないが、「高速道路の下をくぐった、まわりは田んぼだらけだった」と語ることができたこと。最後に長女から電話で「お母さん、不安でなかった?」と聞かれて、「イエス様、助けてください!」と祈り続けたと答えたことである。

 この最後のことばほど私にとって最大の慰めになったことばはない。そしてその背後に家族全員の取りなしの祈りがあったことも後に知る。私は小心者である。心配事は万と抱え込む。これからもどんな目に遭うかもしれない。しかし、下記のみことばはいつまでも忘れられない。これが一大ハプニングの顛末である。

※1 前回のイチョウの枯葉をリュクサンブール公園と記したが、本当はどこかわからない。念のためパリ在住の次男に問うたが、「枯葉」だけではわからない(笑)と返事を寄越した。今日のこの写真はとりあえずリュクサンブール公園としたが、「枯葉」と同じ公園である。その公園をサイクリングで颯爽と走っている人がいるのが印象的だった。ほぼ二十年前のフランス・パリで見聞きしたことだ。その方の肩越しに元気だった妻が少し顔を覗かせているのも面白い。

※2 何週間か前に三男が購入して妻に持たせておいたもの

※3 妻がお世話になっている先生の本に『認知症そのままでいい』(上田諭著ちくま新書2021年刊行)がある。同じく『「認知症」九人の名医』(東田勉著ブックマン社2024年刊行)という本には上田先生も九人の一人として紹介されている。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(新約聖書 1ペテロ5章7節)

2025年9月4日木曜日

カルガモさん、お子さん大切にね

カルガモの 子引き連れるは 微笑まし
 久しぶりにカルガモ親子に出会った(※)。雨が降り、自転車で買い物をするわけにも行かず、傘を差して徒歩で出かけた。途中、まだ目的地の生協店までは20分近くはかかると思い、急遽すぐ近くのスーパーへと行き先を変え、会之堀川沿いに後戻りした。途端に川中に生き物が動くのが見えた。ゾロゾロと子どもを連れてのカルガモ一行だった。五羽とは良くぞ連れ立ったものだと思う。どうしても我が身に照らし合わせて感じてしまう。

 職場で五人誕生のたびに同僚からお祝い金をその都度いただいた。すでに始まっていた(?)少子化の時勢の中、「また、吉田さんか」と言われながらも皆さんに祝福していただいたのを思い出す。ところで買い物は長女が来るというので、妻がどうしても昼食のご馳走にと言っていたので代わりに出かけた。どんなになっても、母親の子どもを思う気持ちがあるのは嬉しい。

 実は長女も五人の子宝に恵まれている。日曜日の次女に続いて、今日は長女が大学生の息子・娘を連れて家の掃除に来てくれた、掃除機持参で。何の打ち合わせもなしに、今の私たちの求めている状態を察して来てくれるので、これまた助かる。台所・食卓をふくめて、居間、廊下など拭き掃除を三人がかりで綺麗にしてくれた。二時間ほどの滞在で昼食も共にしたが、長女の長男が「明日はお母さんの誕生日だよね」と突然言い出した。「51歳だよ」と私たち夫婦と子どもたちを前に、長女は、「照れ笑い」と言うべきか、何とも言えない嬉しい表情を浮かべた。

 五羽の子連れのカルガモ一行は、こうして神様の生きとし生けるものに対する変わりなき愛と摂理をも示してくれた。
※ straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/05/blog-post_25.html

さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」(新約聖書 マルコの福音書10章13〜14節)

2025年9月1日月曜日

秋一番、ぶどうの成る季節

ぶどうの実 我が子孫の数 示せり(※)
 「長い、長い夏が過ぎた!」と言いたいところだが、未だ未だ夏は続きそうだ。いい加減に涼しくなってくれと誰しも思うところだろう。おかげで、8月の投稿はわずか一回にとどまった。でも、投稿が一回しかないのは暑さのせいではない。昨日は今出席している集会でお話しすることになっていて、そのために全神経は集中しているので、書けなかったと言うのが真相だ。9月の第二週の日曜日には近江八幡でのご奉仕が待っているので、これまた難物だが、不完全でも昨日の話で一段落着いたので、これからは自由にこの場でお出会いできると思いますので、よろしくお願いします。

 さて、昨日は礼拝の後、次女が子どもを連れて、私たちの面倒を見に来てくれた。ありがたいことだ。家は散らかり放題。どこからも手がつけられない始末。次女にすれば何とも我慢のならない惨状だが、そこは我慢し、車で郊外にあるイオンでの買い物に連れて行ってくれた。自転車でしか移動手段のない私たちにとり大型店舗での買い物は難しい。おかげで念願のズボンが二着買えた。妻のスカートも買いたかったが、老妻向きの品物を用意している店舗はなかったのでこちらは諦めた。

 その間、ひさしぶりに一歳半になる孫娘と行動をともにした。昔、湯川秀樹が孫の存在について、理性では説明しようもない、新たな感じを抱くと、素粒子論を展開した彼が述懐していたのを思い出す。孫娘はいつの間にか成長し、面白いほどによく歩き回る。こちらは座るのが使命みたいな生き方をしているのに彼女はそうではない。おまけに、「じいじ」「ばあば」と言っては適宜に擦り寄って来る。人の一生で幼年期の姿は独特のものがあるとの思いを我も抱く。

 孫と言えば、昔ベック兄(1930〜2016)はよく神様には孫はいないよと言っておられた。これまた湯川秀樹とはまた違った述懐だ。私たち夫婦は孫娘が成人するまではとても生き延びているとは思えない。三食のたびに子どもたち孫たちのうちに主イエス様の平和が支配してくださるようにと祈る日々である。不思議と暑さを退散させてくださいとは祈ったことがない。

※ 昨日、次女がくれたぶどうの一部。ブログ用に食卓に載せ写真に撮ってみたら、五人の子ども、十一人の孫に思えた。

あなたがたは、・・・『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。わたしは誓って言う。・・・見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。(旧約聖書 エゼキエル書18章2〜4節)

2025年4月30日水曜日

『沢ぐるみ』という発語

沢ぐるみ 春の勢い 川に満つ
 いつもこの木に何故か、心惹かれる。初めてこの木が『さわグルミ』だと教えてくれたのは何年か前の妻の言葉である。どうして、そんな名前を知っているのか、私には不思議でならない。察するところ、妻の父から幼い時に、教えられたようだ。

 昨日も散歩のおり、しつこくこの木の名前をどうして知ったのか、聞いてみたが、あまり覚えていないらしい。しかし、「ひょっとして『さわ胡桃』でなく『鬼胡桃』かも知れない」とも言った。図鑑で調べてみると、どうも『鬼胡桃』が正解のようだ。

 義父は大正6(1917)年生まれの師範出身の教師だった。実地体験よろしく、子どもたちに教えたのだろう。その親子関係が羨ましくなる。私の父は明治44(1911)年生まれで師範は落ちたが、教員養成所上りの教師だった。義父は旧制中学、父は農学校を経由しての教師生活であった。義父は教師一本で晩年は郷土史に集中した。一方、私の父は同時に教練の先生として配属将校でもあった。戦後教師を辞め、食糧事務所に勤め、検査官として定年まで勤め上げた。

 父は戦争未亡人となった母が嫁いだ家に養子として入った。お家断絶の恐れを抱いていた母は凛々しい軍服姿の父を信頼しての再婚だったのだろう。一粒種の私は昭和18(1943)年に生まれた。父は後年私に一度も「戦争」の話はしなかった。ただ小学校低学年の時に、私の目の前で見せられたのはちゃぶ台をひっくり返しての夫婦喧嘩であった。その原因がどこにあったのかわからないが、大体において私の子育てをめぐっての意見の違いがあったようだ。しかし不如意な戦中、戦後の生活がもたらした互いの生活上の苦しみ悩みがあったのではないかと想像している。

 私が妻の「さわぐるみ」発語で羨ましく思うのは、父からそのように教わる機会を持たなかったことにある。残念ながら、家族三人で撮った写真は一枚もない。父はカメラ愛好家でドイツ製のカメラ「ライカ」を持っていたと聞いている。それなのになぜ?とも思う。詳しいことは語れないが、そこにはやはり戦争というものがもたらした傷跡がある。

 父は昭和56(1981)年痴呆症を患って、69歳で亡くなった。その父の無念を思うと一人息子として父を心から尊敬し愛さなかった己が無知を申し訳なく思う。できれば、母と一緒に伊吹山の麓で育った父の豊かな農学校上がりの知恵でもって、山々や野花の詳しい手解きを受けながら「さわぐるみ」の名前も覚えたかったと思う。

 しかし、今は妻の案内で豊かな植物の花々や自然界の春の息吹を味わうことができるのは望外の喜びである。その上、妻と私の結びつきは、義父が教師として歩む中で、私でなく、私のいとこが二人も義父に教わった偶然性から発展したことにあり、より一層義父の存在が私には眩しく見える。また我が父もそれに劣らない含蓄の持ち主であったことを今は思いたい。6歳違いの父と義父の年齢差は戦争に対する加担の思いは自ずと違うことだろう。義父の最初の子である昭和20(1945)年生まれの我が妻の名前はそれこそ平和への希求そのものである「和子」であることに改めて思い至る。

平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。(新約聖書 マタイ5章9節)

2025年4月23日水曜日

二三人我が名により集まる所、我も在り


 毎週月曜日は長男と私たち夫婦とで祈り会を持っている。もちろん長男は現役の働き人である。様々な用事がある中で、時間を工面するのは中々大変だと思う。案の定、今週は会社の会食があり、昨日22日(火曜日)に延期してくれと、21日(月曜日)に連絡があった。

 ところが昨日九時過ぎに待機していたが、電話はかかって来なかった。多分疲れて眠ってしまったのだろうと思っていた。ところが二、三十分経って携帯でなく、家の電話にかけてきた。どうしたのだと聞くと、いつも通り携帯に電話するが通じなかったのだと言う。

 このような携帯電話を通して三人で祈り会を持つのはいつからか覚えていないが、10年くらいは続いているのじゃないだろうか。その中で通じないという経験は今回初めてだった。原因は私のiphone設定にあることがわかった。

 普段、子どもたちから、5年前に『金婚記念』にといただいたApple Watchに励まされて散歩を欠かさず行っているが、1日の終わりにはその充電量が残り10%を切り、毎日困っていた。それを改善すべく操作をしたが、その際、外部からかかって来る電話が繋がらないようにしてしまった(ようだ)。『集中モード』と言うシステムだ。

 結局昨日はこのためあたふたとし、祈り会は行なえなかった。予定通りであれば、昨日は『ローマ人への手紙』2章の輪読と互いの祈りで終わるはずだった。何となく、泡の抜けたビールのような感じがしないでもなかったが、そのまま二人とも休んだ(普段、ビールは全然飲まないので、この表現は間違っているかもしれないが・・・)。

 さて、2000年前のキリスト者の書翰を通しての交わりについて、今せっせとパソコンに打ち込むという書写に勤しんでいる。『聖パウロの生涯とその書翰』がその本の題名だが、その本に次のような記載があった。以下にコピペする。

書翰の提携者テモテ
 当時にあって書翰の送達は容易の業ではなかった。ペルシヤのangariaを見本としてローマ皇帝が創設した帝国郵便があったけれども、それは国家の施設で、個人の急信は個人の使者が運搬した。普通に富豪は飛脚の人数を具えていたが、それほど余裕のない者は臨時に使者を雇傭した。さらに貧困なるものは友人かまたはその方へ向かう旅人に託した。これがこの使徒の手紙の送られた方法であった。今日の例をもって見ればテモテが逓送夫となった訳である。これは重大な職分であった。蓋しパウロの逓送夫は単純な郵便夫でなかったからである。彼らは人間による音信の書状として信頼せられたのみならず、記された書信を布衍(ふえん)し、また補助する責任を負うていた(ローマ15:12、エペソ6:21〜22)。

 この文章は1926年に日高善一さんが1907年イギリスのスコットランドの片田舎で牧会していたDavid Smithが表題の作品を物すべく13年かかって発表したものを日本人向けに翻訳して総ページ700ページを越える大冊にまとめ出版にこぎつけられたもので、私は今、無謀にもその大冊を書写している。「ちりも積もれば山となる」のたとえ通り、やっと今日の個所はその187ページにあたるところにまで到達した。テサロニケのキリスト者に宛てた第一の書翰について述べている個所である。2000年後、100年後、iphoneを通して家族・友人の救いのために祈る私たちの祈り会は敢えなくも中止された。しかし、そこには彼我の通信手段(2000年前の書翰とiphone)、また日本語表現の違いはある(100年前の日高氏の漢字表現の豊かさ!)ものの、2000年、100年をものともしない主なる神様の御憐れみ、ご支配があることを思わずにはおれない。

 それにしても引用文の最後の文章は中々味わい深い文章である。著者・訳者の真意を表わすための聖句は何だろうと考え喘いで、思い至った聖句を今日の聖句として記しておく。

私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心にしるされていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。(新約聖書 2コリント3章2〜3節)

2024年12月4日水曜日

思い新たなり、師走のひととき

 12月に入って、のどかな日が続いています。ありがたいことです。これがいつまで続くのやら、いずれ寒い日々が来るかと思うと、今のうちにこの暖に浸っていたいという思いにさせられるのは果たして私だけでしょうか。午前中のわずかな時間の散歩ですが、梢から聞こえてくるたくさんの小鳥の囀りに耳を澄ませることができます。河岸を見れば、日向ぼっこをする鴨の群れ(彼らは時折思い思いに泳ぎ遊ぶかにも見えるのですが、後掲の亀もその仲間です)、また抜かりなく餌を求めて河岸を歩き回る白鷺も眺められます。確か、漱石の言葉だったと思うのですが、「午前中の創作は、午後の愉悦をもたらす」とありましたが、こちらは凡人で、かつ老残の身、散歩のひとときは、身をしていかに体力を維持するかだけに腐心している有様です。

 そんな今朝の散歩中、またしても躓きそうになりました。10日ほど前、躓き、しこたま足を強打し医者にもかかったほどにもかかわらず、性懲りもなく、同じ過ちを繰り返しています。まったく我ながら情けないです。先日の同窓会の席でも、皆さんに「躓かれませんように」とご注進申し上げたばかりなのですが、この様(ざま)で、話になりません。そこへ行くと、同行の家内は幸いそのようなことがないのは年齢差三歳の違いですかね(※)。

 今や短期記憶のできない家内と、補聴器なしには耳の不自由な私とでは、二人で一人前だと、これまで、やや自嘲気味に今の夫婦関係をなぞってきましたが、最近、肝心の私自身の記憶も怪しくなって来ました。それだけでなく思い込み、思い違いが激しく、この歳になって、自らの自己像も大いに修正されるべきだと思うようになりました。その上、昨日の閣議で、認知症施策の指針となる基本計画が決定され、新聞報道によれば、「急速な高齢化で認知症は『いまや誰もがなり得る』とし、みんなが支え合う共生社会の実現に向け取り組みを推進すると明記した」とありました。そこまで認知症は喫緊の全国民的課題になっていると思わざるを得ませんでした。

のんびりと 親がめ子がめ 日向ぼこ
 省みますれば、43年前の11月29日に、父は六十九歳で今でいう認知症を患って召されました。当時は原因もわからず、治療法と言うより、対応の仕方もわからず、家族としての認知症患者の父を抱え、混乱するばかりの悩みと苦悶の八ヶ月でしたが、ただひたすら主なる神様の救いと助けを祈る日々でした。その時の気持ちは、裸一貫荒野を行く心境でしたが、不思議と主のご支配は完全で、振り返れば「恵み」ばかりでした。

 今、認知症について、国民的理解が進む中で、我がこととして新たな決意のもと、どのように向き合っていけば良いのか、主イエス様の知恵と助けを叫び求めながら歩みたいと思わされています。
 
主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(旧約聖書 詩篇107篇1節)

2024年11月26日火曜日

紺碧の空よ

伏しし母 紺碧の空 眺め居り
 昨日は全国的にすごい快晴に恵まれたのではないでしょうか。私は二泊三日の予定で郷里に戻っていました。前の週には次男が車で帰っていましたが、生憎天候が悪く、庭の葉刈りをやってもらえませんでした。次の週にあたる24日(日)近江八幡での礼拝出席のため、帰るので今度こそ是非葉刈りをしていただきたいと望んでいました。危ぶまれた天候でしたが、結果は昨日の月曜日、見違えるばかりの青空でした。

 小さな庭であり、主要な樹木(もちの木、金木犀、山茶花)も三本ですから、三時間半ほど、二人の方で葉刈りをしてくださり、綺麗さっぱりとした庭になりました。庭の中身を紹介するでなく、あくまでも空の青さを味わいたく、このような構図の写真になってしまいました。以前には、と言っても何十年も前には、正面の屋根の向こうに、元の庭の一部であったのか、松の木が形よく枝振りを見せていたのですが・・・。いつの間にか、歳取ると、そんなこともすっかり忘れてしまっています。

 建築を生業としている次男は何とか、この家屋が生かされないかと考えていてくれます。奥に覗いている倉がいつの建造物なのかは知らないのですが、少なくとも本屋は私の年齢に先行すること3、4年ですので、人間に例えれば今80歳半ばを越えています。そもそもその庭にしたって私の小さい頃には梅の木が手水鉢に接して植えられていました。その木が枯れてダメになった時の母の落胆ぶりを思い出します。ツツジは石組みのまさる庭にあって可憐で綺麗な花を今も咲かせてくれていますが・・・

 若くして不治の病にかかり44歳で亡くなっていった母は、最晩年寝室から庭に面する座敷に移り伏し、この庭を眺めながら、世間から女だてらにと嫌味を言われても、お家再興のためにと建造を決意した自らの家を思い、何を考えていたのでしょうか。庭を取り巻く壁は、まさに空の青をベースにして、それも塗り壁は平面でなくやや凹凸のある塗り壁でした。それは座敷の襖(山並みと空をモチーフにした)と相まって綺麗なものでした。先ごろも一足早く故郷入りを果たした次男が、口を注ぐごとに、その美観と造作の丁寧さを語ってくれました。母は、80数年を隔てて、今その孫がその良さを味わい、何とかこの家を残したいと考えていることを知ったら何と思うでしょうか。

 私もこの家を出立してから、いろんな住生活を経験して来ました。浪人時代にはミゼットハウスという1960年代に流行ったプレハブ住宅に住んだこともあります(大徳寺の一塔頭に下宿した時です)。かと思えば教員になって下宿したのは山裾に位置した農家の2階でした。五右衛門風呂でした。私にとっては全く初体験で驚くことばかりでした。その後、同僚に誘われて演劇活動に加わった時、舞台で、大道具よろしく、簡単にセットされる家屋の姿を身直に体験するたびに、それまでの私の住生活の考えは根底から覆されました。それは、家はどんな家でもいいんだ、住めればいいんだ、問題はそこでどんな生活を歩むのかということだ、と。このことは少なからず、私が主の救いを求めていたことと並行した心の動きとなっていたのかも知れません。

 気がついてみたら、故郷のこの家を出てからは、先ほどの農家の二階生活に端を発し、その後由緒ある旅荘(栃木県足利市の巌華園)の一隅の洋間を使わせていただいた生活、県営住宅、校長官舎、2DKの団地生活、3LDKの団地生活、一軒家の中古住宅、そして新築して現在住んでいる積水ハウスによる家屋と8回とその住生活を経験させていただいて来ました。

 振り返れば振り返るほど、我が身がこうして生かされて来たのは、住生活を振り返るだけでもすべて我が力によるのでないという思いです。母は若くして、お家再興のために家を新築しました。しかし、自らその生涯を全うできずに、一人息子を残し、自ら建て上げた家を残し、去っていかざるを得ませんでした。これらのことは、母にとって人間的に見れば無念だったと思います。

 紺碧の空は、彦根地方ではそう度々経験できる空でないように記憶しています。しかし、私にとってこの紺碧の空は、それだけにとどまるものでなく、一身を投げ打って誠意を尽くして生き続けた母も「救い」に加えられて住んでいるに違いない天の御国を思わせるものでした。主なる神様は、この紺碧の空をも造り、今も私たちが主イエス様による罪からの救いを体験して、ともに主とあい見(まみ)えることを願っておられると思うからであります。母には、その生前に、その福音を私の口から伝えられませんでした。しかし、病をとおして必死にその罪と死からの「救い」を求めていた彼女を、全知全能の主が放って置かれるはずがなかったと思うのであります(※)。

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(新約聖書 1テサロニケ4章16〜17節)

2024年11月13日水曜日

余生は天の御国への道備へ

ウラギンシジミ(※)
 次男は今朝遠くへ(信州、関西方面)と車で出かけて行きました。朝起きてきたその次男の様子を見るなり、家内が発した言葉は「元気ね。」でした。すかさず帰って来た彼の言葉は「50だもの、ね。」でした。その言葉をそばで漏れ聞きながら、高校時代、絶えず念頭にあった「漱石の修善寺の大患」を思い出していました。それは漱石が50歳の時だったと思いますが、それが死因につながりました。だからその50歳で人生は終わるものだと漠然と考えていたのです。

 一足早く9日に52歳の誕生日を迎えた次男と昨日12日に誕生日を迎えた家内とのさりげない会話でしたが、そこに母子の間に交わされた老い行く者とそうでない者との間の、歳をとることに対する暗黙の了解のようなものを感じさせられました。昨日の家内の子どもたちへの誕生祝いのお礼の挨拶には冒頭で「ありがとう、79歳だとは!あっというまに80だよねー」と繰り言が記されていました。私たち夫婦は、まったく歳をとる自覚もないまま、あたら余生を生きている感じです。

 こんな日々ですが、日曜日の福音集会でお話しくださったかたが次のみことばを語ってくださいました。

主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。(新約聖書 1テサロニケ5章11〜12節)

そして今の信仰生活はこのまま天の御国につながっていると語って下さいました。老いも若きも天の御国を目指している自覚を持つ時、年輪を越えて主への感謝を持つことができるんだなとこの文章を書きながら改めて思わされております。

 一方、礼拝では、私が土曜日に投稿しようと思っていたルターの「神は高きやぐら」(讃美歌267番)を一語で示す御言葉が朗読されたのです。

まことに、あなたは私の避け所、敵に対して強いやぐらです。(旧約聖書 詩篇61篇3節)

朗読された方は、私がそのような文章(ルター作詞作曲の讃美歌についての紹介文)を書いているなんて全くお知りでなかったでしょうし、逆に私自身はこの御言葉を知りませんでした。福音集会でのメッセージといい、礼拝のおりの朗読箇所といい、主なる神様はまったく無駄なことはなさらない方なのだと思わされました。

※先日玄関先の植え込みに黄色と白の紋白蝶が舞っていました。バックの花といい、ちょうど良いタイミングでしたが、中々撮れませんでした。そんな矢先、家内が別のこの蝶を見つけ、教えてくれました。初めて見た蝶の姿でした。しかも撮影した時には気づきませんでしたが、この写真を見る限り、羽根が一部欠けているのですね。何となく我が身に照らし合わせ、哀れさを感じさせられました。 

2024年11月12日火曜日

お母さんのジャム


 今日は家内の誕生日でした。五人の子どもを産み、育ててきた苦労にはいつも頭が下がります。子どもたちは私以上にその労苦に感謝しています。先日も次女が誕生ケーキを買って祝ってくれましたし、今日は今日で次男がパリから帰国中のこともあり、やはり誕生ケーキで祝ってくれました。私はそのお相伴にあずかるばかりで、何もしませんでしたが、唯一試みたのは厨房に入ったことだけでした。結婚して54年が経ちますが、ここ2、3年にして漸く厨房に入るようになりました。ならざるを得なくなりました。

 言わずと知れた高齢化のためです。毎日、家内と一緒に献立を考え、買い物をし、厨房に立つことを心がげています。しかし、いまだに後始末だけは家内に任せることが多いです。そんな日々ですが、今日は長野の友人から「リンゴ」がどっさり送って来ました。健康なときの家内ならすぐ飛びついてジャム作りに取り掛かるところですが、今日は最初そうではありませんでした。全く無関心なのです。ジャムと言えば家内の専売特許だと相場が決まっていた時期が数年前までは10数年以上続いていたのが今では嘘のようです。それではあまりにも寂しすぎるので、家内を促してジャム作りに私も共に取り掛かるようにしました。

 始めてみれば、水を得た魚の如く、家内の所作もいつも通り元気をとりもどしたようでした。そのうちに、私にも手伝えるところがあることに気づきました。リンゴを包丁さばきよろしく細かく切り刻む作業です。振り返ってみれば極めて単純な作業ですが、一緒に一つのものを作り上げる喜びは格別ですね。思わず数を数えるのを忘れてしまったのですが、数十個あったリンゴも二時間ほどの間にすっかりジャムに変わってしまいました。

 五人の子どもたちの感謝の言葉に答えて、家内は「最近ボケてばっかりでねぇ、お父さんを困らせて、申し訳ないんだけど仕方ないよねー。まあこれからどうか毎日無事で守られますようにとお願いするばかりです。お祈りしてくださいね、よろしくね。」と書きましたが、「仕方ない、仕方ない。これからもよろしくね。」とやさしい言葉を三男からいただきました。最後に次男が「(自分の送った誕生ケーキの素晴らしさより)お母さんのジャム、またリンゴがおいしかったよ、みんなとりに来てください」と書きました。

涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。(旧約聖書 詩篇126篇5〜6節)

2024年11月4日月曜日

ルーテルの恃み(5)

福音は 継母にいのち 継がせたり(※)
 しかしながら、遂に煩悶の暗き夜の明ける時が来た。救いの朝がやって来た、彼の上役たるジョン・スタウビッツがある時彼に教えて、聖書には神の方から罪人の側へ来てくださると書いてあるというた。この一言は実に鋭い矢のようにルーテルの胸を貫いたのである。それから彼は熱心に聖書を研究した、ことにそのロマ書を研究した、而して驚くべし、彼の今日まで予想だにできなかったえらい福音が、彼の胸の隅から隅までを照らし渡ったのである。その昔使徒パウロの舐(な)めたる経験が、そのまま彼の胸に飛び火したのである。時は千五百年を隔て、ところはギリシヤとドイツとに離れながら、パウロの心臓を打ったと同じ鼓動が、今このエルフルト修道院内の一青年の心臓にも響いたのである。

「今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(新約聖書 ローマ3章21〜24節)

 人みな既に罪を犯したれば神より栄を受くるに足らず、人はみなかかる浅ましき者であれば自ら進んで神に近づくことはできないのである。たといいかなる善行をつみ苦行を重ぬるとも自分を清く義しき者として神の前に出ることは絶対に不可能である。そこまではルーテルが痛切にこれを経験して知ったのである。しかし、事はそれでおしまいではなかった。人は神に近づくことができない、しかしながら、神はそれでほっとき給わないのである。神はご自身進み出て下さるのである。神は我々の近づくを待たずして、自ら我々に近づいて下さるのである。神ご自身がその姿を我々の前に現わして下さるのである。見よ、イエス・キリストを、十字架の上のイエス・キリストを、あの愛は、あれは何であるか。

 神ご自身が我々のために苦しんで下さるのではないか。我々がどんな心をもって神に対しても、神は遥かにそれに勝るところの限りなき愛をもって、我々を抱いて下さるではないか。キリストを見る時に神の愛がどんな性質のものであるかということが紛う方なくはっきりとわかるのである。従って、また我々が何をなすべきかということがはっきりと分かるのである。我々は何にもしなくても宜しい、断食も要らない、修養も要らない。ただこのキリストにすべてをお委せすればいいのである。この身このまま、汚れたるこのまま、弱きこのまま、彼の足許にひれ伏して、この私をあなたに献げますといえば、それで足りるのである。その時に神は我々の心の中に住み給うのである。その時に我々はまったく生まれ代わるのである。その時に今まで知らなかった自由と平和との新たなる生命が我々に与えられるのである。ただそれだけ、お委せするだけである、それがすなわち信仰である。

「義人は信仰によって生きる」(新約聖書 ローマ1章17節)

 然り、ただ信仰のみによりて生くべし、信仰以外には絶対に何物も要らないと、これすなわちルーテルの救いであった。彼はこの大発見を為して躍り上がって喜んだ。彼は赤革の大きな聖書を両手で自分の胸に押しあてて、ああこれ我が書なりと叫んだ。後に至っていうておる、「余はその時たちまち新たに生まれたように感じた、ちょうどパラダイスの戸が目の前に開いておるのを発見したようであった、ロマ書は実に余にとってはパラダイスの門であった」と。

(『藤井武全集第8巻』611〜612頁より引用)

※ 継母が召されて三十年経ちました。今日の写真は、その継母の甥であるK兄がアメリカ出張のついでに、プレゼントとして持ち帰って来たものの一部、見開き2頁分のものです。私の書棚に大切なものとして仕舞い込んでいたにもかかわらず、これまで過去2、3回手にとり眺めたに過ぎませんでした。
 一昨晩私はダニエル書10章を家内と一緒に輪読していましたが、その12節を読むうちに、この本の存在をありありと思い出したのであります。浄土真宗の門徒であった継母は最晩年末期のスキルス性の胃癌で苦しみました。1994年の1月のことでした。急遽、故郷彦根から継母を引き寄せ、そのいのちの永らえんことを家族はもちろんのこと集会の皆さんにも祈っていただきました。
 その前年のクリスマスの日、甥であるK兄は救われ、洗礼を受ける恵みに預かっていました。そして、苦しんでいる継母の枕元にこのイギリスRandom House社発行(?)の『The GOSPELS BOOK of DAYS』をプレゼントしたのです。この冊子の日付頁に私は幾つかのみことばを書き加えていました。そのトップバッターがダニエル書10章12節でした。いうまでもなく、継母がイエス・キリストの前に頭を下げたことを喜んでのみことばでした。それだけでなく、その続きに今日の写真内のみことばも書かせていただいていたのです。これまたルーテルと同じ新生の喜びの帰結であります。
 三十年来真剣に見向きもして来なかったこの日付日記を兼ねた本は、四福音書からなる主の十字架にちなんだ聖句と絵を五十組載せていました。私は三十年前にはこのような構成に無感覚であった不明を恥じ、今よみがえってきた感謝(ピリピ4:10)の思いを、K兄にお伝えしたいと思わされております。

2024年10月24日木曜日

ああ、花盛り!花盛り!

 昨日は、天気がすぐれませんでした。そのような中、長女がLINEをとおして盛んに「みかん狩りに来たら」と勧めて来ました。それは娘としての私たちを思う気遣い(普段、人と接する機会が少なく、刺激のない生活を送っているんじゃないかという心配)からでした。私は去就に迷いましたが、結局出かけることにしました。

 出がけに、何を持っていこうかと思いましたが、用意をしていたのはジャムだけでした。ところが都合良いことに、家を出た途端、近所のお家に里芋がたくさん袋詰めして置いてありました。早速、それを買い求め、一方でバインダーを携えていくことにしました。そのバインダーには1973年から1981年ごろまでの私のメモ書きがB5サイズですがルーズリーフの形で収められているのですが、その中に一片だけ娘に見せたいものがあったからです。

 その一片には娘が誕生した前後のことが記されているので、いいかなと思ったからでした。それにしても、すでに里芋やジャムを持っているのに、わざわざバインダーを持っていって何になるかと思い、少し荷物になるが、まあいいやと思いながら携えていきました。途中、電車の中でも自由に眺めながら、とうとう娘の迎えに来た駅で下車し、一挙に家へと案内されました。屋上に位置する庭には、このようにたわわなみかんが「花盛り」でした。家内が喜んだのは当然です。同じ時期に買ったみかんの木は娘の家ではこのようにたわわに実っているのに、私たちの庭はさっぱりなのです。

 ひとしきり、みかん狩りに精を出しましたが、あとは昼食のご馳走になり、取り留めない座談のひとときとなりました。その時、意外や意外、それまで厄介者と思われていたバインダーが活躍し始めたのです。50年ほど前のことが書かれているものを読み上げては話に花が咲いたのです。

 もともと、このバインダーは先日の八潮高同窓会出席がきっかけとなったのです。そこで私は盛んに自らの記憶が何とか記録で確かめられないかと思っていたからです。家にはルーズリーフで500枚(1000頁)に近い断片が無造作に積み重ねられ、廃棄処分の対象としながら、何となく部屋の片隅に放置されて今日まで不思議と生き残っていたのです。問題はこの断片は無秩序だったのです。

 それを並べ替えねばなりません。年月日が書いてあるものは比較的簡単なのですが、三割くらいは未記入です。それを再現するのはとてもしんどい作業でした。そのうち井波さんが召されました。その際に先ず思い出したのは写真でしたが、今回この作業をとおしてそれぞれの事実に直面させられたのです。何しろ、この500枚余りのピースはまさに私が葬り去ろうとしていた教会時代20年のことが細大漏らさず書かれていたからです。まさにこれぞ生き証人です。

 この500枚のピースには娘が3歳の時に、のちに高校でお世話になる先生が、教会にフルート演奏で来られる人としてすでに名前が記されていたのには、娘もふくめ私たち三人は痛く感動させられました。そして余談ではありますが、私が井波さんと同じ時期に日曜日の聖日に初めて教会でメッセージしたのは1974年7月28日であったことも記されており、その原稿も出てきたのです。

 まだこの作業は半分終わったばかりで、後半の1981年から1990年までのピースは未整理です。教会の中で行を共にしてきた井波さんに関する記事は満載しており、私たちがお世話になった牧師さんはすでに引退されており、今回の葬儀の司式をなさったのはその二代後の牧師さんでしたので、この私のピースが伝える事実は知られないと思います。それはそれで素晴らしいことだと思います。なぜなら、主なる神様がすべてのピースを支配してご存知なのですから。

 ただ、私は500枚近い断片を前にして、主の前にはすべての事実がこのように明らかにされると思い、かえって今厳粛な思いにさせられているのです。昨日の何気ない娘と私たち夫婦との交わりも大きな主なる神様のご計画のうちにあったことを思い、主を畏れます。

主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしを立てられた。・・・わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。(旧約聖書 箴言8章22〜23節、30〜31節)

2024年5月18日土曜日

復活の予測(中)

水田に カルガモ夫婦 見つけたり

昨夕は泥田に首を突っ込んで、脇目も振らず、一心に獲物を探索している二匹の鴨を、古利根川の下の水田で見かけました。一口に「かも」と言っても、渡り鳥の雁もいれば、留鳥であるカルガモもいるんですね。鴨群の生態、識別も知らず、一喜一憂しすぎておりました。

さて、今日5月18日は私どもにとっては忘れられない日です。11年前、次男の妻が日本への帰国の際、武蔵小金井駅で倒れ、人事不省のまま多摩総合医療センターに救急入院し一命を取り留めることができた日です。研究者として将来を嘱望されていた彼女にとり、今もその病との戦いは続いていますが、幸い主イエス様にあって守られているようです。

カルガモ夫婦の進む泥田を見ながら、私は11年前に襲った次男夫婦の悲哀、またその折り信州の平原付近の車窓から撮った水田を思い出しました。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2013/05/blog-post_25.html 「復活」の日を待ち望んで、今も孤独な研究を続けている彼女のために、祈っていてくださる僚友に感謝します。

さて、本日の本命である『キリストの復活』の「復活の予測」は昨日に引き続いてお送りする(中)篇です。最初の数行の出だしこそ意味がよくわからない文章ですが、それ以外はよく意味が通る文章で、旧約聖書において、「復活」がどのように預言されているかを、新約聖書と関連付けして丁寧に教えてくれます。

 このような先験的な推理は、必ずしも常に正しいとは言えない。経験は、理論的には正しくなければならない多くの事が、実際においては正しくない、ということを教えているからである。他方で私たちは、イエスがその生前に、復活の必要を説いておられたことを知っている。サドカイ人が、律法の推論的解釈を根拠に、復活の教えに反対したとき、イエスは、「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです」と言われた(新約聖書 マタイ22:29)。今、彼が聖書に基づいて復活を教えておられたとすれば、その教えは、みことばの中に含まれていなければならない。したがって、私たちは、その預言を、新約聖書のそれに対応する教えに照らして捜し出すとしても、不当な事をしているとは言えないのである。

 それでは、この個所とは、どのようなものであろうか。

 記録によると、最初のメシヤ預言は、創世記3章15節の原始福音である。

わたしは、おまえと女との間に
また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
敵意を置く。
彼は、おまえの頭を踏み砕き、
おまえは、彼のかかとにかみつく。

 ここに描写されている人物は、一庭師である。彼は有毒のヘビを行く手に見て、その頭を砕いた。しかし、そのかかとに、毒牙を受けてしまったのである。この本文には、いくらか復活に関連性のある内容が含まれている。

 第一に、この約束は、罪を犯して死に定められた者にとって利益となることに言及している。アダムは、「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」と言われていた。しかし、ヘビの頭が砕かれたのなら、救いは約束されたのである。そして、救いの手が伸ばされるためには、あがない主は、死を克服することのできるかたでなければならない。

 第二に、その人物は、へびの毒牙にかかった。しかも生き延びて、それを押さえてしまったのである。キリストは、へびの一撃を受けてどのようにして、なお生き続けることがおできになったのであろうか。復活は、その回答である。

 創世記22章に見られる、モリヤの山でのイサクとアブラハムの例話も、世継ぎの子(すえ)の死とそれに次ぐ生還を描いたものである。もちろんイサクは、実際には死んでいない。死ぬ者と見なされたにすぎない。それにもかかわらず、彼がメシヤ、すなわち選びのすえを代表する者であって、ヘブル人への手紙の記者によれば、神が彼を「死者の中からよみがえらせる・・・イサクを取り戻した」(ヘブル11:19)と言われているのは、注目に値することである。この個所は、このように、非常に明白な平行関係があるにもかかわらず、新約聖書の記者のだれによっても、特にキリストに適用されるべきものとされてはいない。

 メシヤ預言の流れの中で、次に、明白な言明にぶつかるのは、モーセの五書の終わりのほうに記録されている、ユダヤの儀式の象徴においてである。レビ記23章には、「主の定めの祭(例祭)」として、三つの祭がしるされている。第一の過越の祭は、身代わりの犠牲と罪からの分離とについて語っている。第三の揺祭(ようさい)、パンをささげる祭は、五旬節すなわちペンテコステの祭である。この二つの間に、初穂の祭がある。この祭は、過越の祭から数えて三日目にとり行われる。それは五旬節から数えると、五十日前になる。この穀物の収穫の初穂は、種を埋めたあとで、生命が帰って来たことを示す最初のしるしとしてささげられたもので、祭りにおいては、犠牲の燔祭もささげられた(レビ23:9〜14)。

 この記録を、復活と比較していただきたい。復活は、過越の犠牲が死に渡されてから三日目のできごとである。また、五十日後には五旬節が待っていた。それこそ、死の中から出て来る新生命の先ぶれ、また象徴であった。主イエスは、この光景をご自分に当てはめて言われた。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(ヨハネ12:24)。パウロも、「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」と宣言したとき、同じたとえを用いていた(第一コリント15:20)。おそらくこの象徴は、彼が、旧約聖書のこの個所に対するイエスの解釈を知っていて、使用したものであろう。自然界の収穫が、土壌の水気や特性をもってしてはついには押さえきれない不屈の生命力を物語っているように、キリストの復活は、あらゆる墓の拘束力を打破しうる、神の生命の力を実証したものなのである。メシヤは、そのメシヤ性を証拠だてるために、そのような力を示威することを必要とされたのである。

 神政政治の時代が過ぎて、王国の創設を見るようになると、預言は、イスラエルの生活において、いっそう重要性を増してきた。そして、その先見者たちのうちで、最初の人々のひとりと目された預言者は、ダビデ王であった。詩篇16篇は、このダビデの霊的な渇仰を記録したものである。彼は「ゆずりの地」と「好む所」を慕うが、それにもまして、来世に生き続けることを願っている。そしてその言葉は、彼が大胆に次のように主張するとき、その渇仰を素通りして、先に進むのである。

まことに、あなたは、私のたましいを
よみに捨ておかず、
あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
あなたは私に、いのちの道を
知らせてくださいます。
あなたの御前には喜びが満ち、
あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。
              (詩篇16篇10〜11節)

 ユダヤ人は「よみ(隠府)」を、第一義的に刑罰の場所と言うよりは、善悪を問わず、単なる死者の霊のいこう場所と考えていた。たとえば、ヤコブは、自分のことを、「よみ」に行く者と考えている(創世記37:35)ユダヤ人が、「よみ」とはすべての魂が等しく行くべく定められた所と考えていたことからすると、この預言は、驚くべき響きをかなでているものとなる。それは、死からの救いと、死後の高揚とを歌っているからである。魂を、暗い陰の国にとどめておかなくてもよいばかりか、肉体を墓の腐敗のままにする必要もないのである。

 しかしながら、新約聖書は、この詩篇16篇の言葉を、キリストの復活だけに限定している。ペテロもパウロもともに(使徒2:25〜31、13:35)、この個所を、ダビデがメシヤの復活を預言したものと解釈している。この預言は、新約聖書の記者たちがひるまずに宣言しているように主イエスによって成就を見たのである。

 ダビデ王国より後の時代に書かれた他の詩篇も、同じ希望を反映させている。詩篇49篇15節は「神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ」と宣言しており、また、アサフの詩と言われる詩篇73篇24節は、「あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう」と言っている。これらの聖句は、詩篇16篇の言葉のような適確性を欠いてはいるが、詩篇における復活概念を強化する上では、十分な力を持つものである。

 預言者の著作の中にも、この題目に言及しているものが幾つかある。ホセア書6章1、2節は、イスラエルの国が次のように言うと述べている。

さあ、主に立ち返ろう。
主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、
私たちを打ったが、
また、包んでくださるからだ。
主は三日の後、私たちを生き返らせ、
三日目に私たちを立ち上がらせる。
私たちは、御前に生きるのだ。

 この句をあまり強調することは、許されないであろう。第一に、それは第一義的には、個人にではなく、イスラエルの国に適用されているからである。第二に、その適用は、死からの復活と言うよりは、罪からの回復に限られている。第三に、それは新約聖書の中で、復活の預言としては直接引用されていない。他方、ホセア書11章1節は、明らかに国家に適用されているにもかかわらず、マタイによる福音書2章15節では、メシヤに関する預言とみなされている。しかも「三日目」という言葉は、旧約聖書では、復活をまっすぐにさし示すものとしては、前掲のホセア書6章2節だけに用いられている。もし、ホセア書11章1節が、間接的にキリストの預言として与えられているのなら、この個所もそうと考えられるであろう。

2024年5月17日金曜日

復活の予測(上)


今日は変な組み合わせの写真になってしまいました。ご容赦下さい。

左側は、私がこの一月半余り転写しております、メリル・C・テニーの本です。わずか100円の昭和37年(1962年)発行の、見るからにくたびれた本です。今ではメリル・C・テニーという人物を知る人も少ないでしょう。その上に、この『キリストの復活』という本をどなたが翻訳されたのかも「いのちのことば社出版部」と明示されてはいますが、個人名は省かれております。おおよそどなたが翻訳者なのか何となく見当はつくのですが。なのに、私はこの本を今から54年前、昭和45年(1970年)に手に入れていながら、しっかりと読んだ覚えがありませんでした。それで、今年のイースター(復活祭)の日から今日まで、一念発起して、いちいち転写して参りました。四月一日以降のブログはその成果です。

一方、右側は明治年代に、私から見ると「祖父」の代にあたる人物が18歳の時、横浜で丁稚として働いていたのでしょうか、その時彼にはこの本は高嶺の花だったのかもしれません、向上心よろしく『福翁百話』を墨筆で和紙に写し取っていました。いつの頃か、この和綴の冊子を倉の中に見つけた時、私はそのようなものが家にあることに驚くとともに、明治年間の福澤諭吉に対する庶民にまで及ぶ熱意と明治時代の息吹を感じたものです。

それが根底にあるのでしょう。私には転写は苦にはならないのです。今回、『キリストの復活』を転写して、私には大いなる財産になりました。著作は初めから終わりまでしっかり読まないとその本に対する正当な評価はできないと常々思うことにしています。メリル・C・テニーはこの本で、全部で8章に分けて、「復活」という私たちにとって最も大切な事柄を微に入り細に入り多方面から全聖書を縦覧して述べております。残念ながら、私の短慮で第二章の「復活の予測」というテーマの文章を全部割愛してしまいましたので、今日から三日間で転写したいと思います。引き続き忍耐をもってお読みいただければ感謝です。ご存知、最初は、エマオの途上での出来事から始まります(ルカの福音書24章13節以下の記事)。

キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり・・・(新約聖書 ルカ24章46節)

 あの十字架刑の行なわれた次の週の最初の日、ふたりの旅人が、エルサレムからエマオに向かって、いかにも疲れきったような、重々しい歩みを続けていた。昼下がりの太陽がじりじりと照りつけ、ふたりは、ひどく意気阻喪しているように見えた。先週、事態があまりにも唐突に変転し、また現に、彼らの感情があまりにも高ぶっていたので、彼らは、そのときもうひとりの人が加わり、自分たちと歩みをともにしているということにさえ、気づかないありさまであった。ふたりは、その人から、彼らの話題について尋ねられたとき、ぎくりとしたかのように立ち止まった。その人が、エルサレムで起こったばかりのできごとについて、知らないはずはない、と思ったからである。

 その人が同情的に見えたので、ふたりは、胸の中の思いを彼にぶちまけて話した。それは、ナザレのイエスが、彼らの指導者、また友人であったということについてであった。彼はその行ないのゆえに、すべての民に歓呼の声をもって迎えられた預言者であった。それなのに、役人たちは彼を死に定め、十字架につけてしまったのである。彼らの失望の激しさと、やるせない気持ちとは、「私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました」(ルカ24:21)という言葉に、如実に物語られていた。彼らは、この人こそメシヤであり、彼らの国に霊的政治的な解放をもたらす救い手にちがいないと、期待をかけていたのであるが、十字架は、すべての希望を水泡に帰させてしまったのである。十字架につけられてしまっては、預言者といえども、何をなしえようか。そればかりでなく、預言者たちの描いている、鉄のつえをもって諸国を治め、陶器師の器のように彼らを打ち砕くと言われるメシヤ像に、どうしてかなうと言えようか。彼の最後は、どんな点からも、預言の描写と似合わず、彼らは、自分たちの誤解を認めざるを得なかったのである。

 ふたりはもちろん、墓に行った何人かの女たちが、イエスは生きておられると告げた天使たちの幻を見たと言っていることを知っていた。この証言を彼らがどう思ったかは、「イエスさまは見当たらなかった」と言う、きつい言葉で明らかである。この言葉は、このふたりに復活を確信させるには、人づての証拠以上のものが必要であるということを意味している。彼らは、イエスはすでに死に、その最後は、彼が待望されていたメシヤ預言の成就であるという事実を排除するものであると、堅く信じていたのである。

 だが、この見知らぬ人は、彼らの見解には同調せず、かえって、きびしく彼らを戒めた。

ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。(ルカ24:25〜26)

 それから、モーセをはじめ、すべての預言者の、キリストについての聖書の預言を、ふたりに説明した。この説明の中に復活のことも含められていたことは、主イエスが次の機会になさった宣言によってはっきりしている。

「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、・・・」(ルカ24:44〜46)

 このふたりを絶望に陥れていたあやまちは、聖書の預言の不十分な理解にあった。彼らが見ていたのは、メシヤが栄光のうちに来られるという事実だけであった。彼らは完全に、メシヤの受難と復活とに関する預言を見落としていたのである。このとき主イエスが試みられた話は、彼をメシヤとして信じようとした彼らの根拠を破壊するかに見えた一連の騒乱が、実に、預言の言葉の正確な成就である、ということを彼らに悟らせ、彼らの心を再び落ち着かせようとしたものである。

 イエスがそのとき説明された聖書の個所がどこであるかは、知られていない。特に、復活の預言として旧約聖書のどこが使用されたのかは、全く私たちの推測に任されている。だいたい、ユダヤの聖書には、このような現象に直接言及した個所が、ごくわずかしかない。そしてそれを教えている典型的な例で、ここに当てはめられるような個所は、確信をもってこれと言えるものがないのである。しかし、そうは言っても、主イエスは、「キリスト」という用語を用いて、明確に、復活の預言はメシヤ預言に関係あるものであるとされた。私たちは、きたりたもうかたに関する預言の系列の中に、復活の、少なくともある暗示はあるものと思わなければならないのである。更に、「四十日」間になされた主の教えが、後日使徒たちがした教えの中に反映されているであろうということも、十分に考えうることである。そうだとすれば、旧約聖書のメシヤ預言を、新約聖書でメシヤが語られた説教と関連させてゆくことにより、旧約聖書の中で復活に関係のある個所は、しだいに知られてくると思われる。

2024年3月12日火曜日

古利根川にナイル川

雲浮かべ 流れる河川 春の音 (2024.3.7)
 今朝は朝から空がどんよりしている。昨日は快晴であった。三、四日前には雪が降った。暖冬気味だった二月もいつの間にか終わり、三月に入ったが、一転して寒くなった。その上、天気は定まらず、一進一退を繰り返しているが、それでも確実に春へと向かっていることを感ずる。庭先の山茶花の花びらをヒヨドリがやってきては喰っていく。それも、私の姿が見えるや、すぐさま飛び去っていく、その身の処しかたは見事である。私の友である鳥諸君のこのような慌ただしい動きが何よりもそれを物語っている。

 ほぼ、一月テレビを見なかった。二月八日に誕生した赤ちゃんが我が家に先週の土曜日(三月九日)まで滞在していたからである。ともすると新聞でさえ読む気にならなかった。それだけ家族が赤ちゃんの一挙手一投足に全神経を奪われていたのであろう。この間の母親の労苦は実に大変なものだと思った。オッパイをあげること、オムツの手当て、洗濯と一日中休む間もない。一、二時間ごとに泣く赤ちゃんのお世話は並大抵ではない。しかし、その愛を受けて赤ちゃんはスクスク育っていく。我が家を出る時、体重が3.6キロになっていた。生まれた時は、3キロ前後だった。

 この間、私はテレビ・新聞からは遠ざかってしまったが、その代わり旧約聖書の出エジプト記の1章から3章までを繰り返し、繰り返し読んだ。それは言うまでもなく次の記述などに惹かれたからである。

 レビの家のひとりの人がレビ人の娘をめとった。女はみごもって、男の子を産んだが、そのかわいいのを見て、三ヶ月の間その子を隠しておいた。(旧約聖書 出エジプト記2:2)

 これは当時このイスラエル人であるレビ人夫妻が住んでいた地、それはエジプト王国であったが、その第19王朝のラメセス二世が、在留異国人であるイスラエル人が多産で強かったので、その対策に苦慮して、人減らし政策を実施した。その最後の方法がイスラエル人の赤ちゃんが男の子であったら、ナイル川に投げ込め、要するに「殺せ」という命令であった。その結果、多くのイスラエル人の家族が犠牲になった。

 ところが、レビ人夫妻はこの非人道的な命令に従わず、隠した。少なくとも三ヶ月は隠したということだった。さて、我が家に赤ちゃんは誕生して三、四日後にやってきたが、覚悟していたとは言え、「赤ちゃんとは『泣く者』と見たり」であった。四六時中泣いている。これでは周りの人に勘付かれないようにしても、とても無理だなと思った。出エジプト記の文章は続く。

 さて、しかしもう隠しきれなくなったので、パピルス製のかごを手に入れ、それに瀝青と樹脂とを塗って、その子を中に入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に置いた。(出エジプト記2:3)

 結局、この赤ちゃんは、ナイル川に水浴びに来た、王女に、かごの中の泣き声を知られ、惻隠の情を覚えた彼女によってナイル川から引き上げられる。彼女はこの赤ちゃんに、モーセと名づける。それは「水の中から、私がこの子を引き出したのです」という自負の念に満ちた命名であった。しかし、その背後には歴史を動かす神のご配慮、ご計画があったことを私たちは知らねばなるまい。

 果たせるかな、不思議な流れで、産みの母親である女は、王女から乳母として雇われる。どのくらいの年数になったのだろうか、大きくなった時、女は王女に子どもを返す。これ以後子どもは王室の中で暮らす。愛するわが子と別れねばならなくなった女はどんな思いでいたのだろうか。泣いては乳を求める赤ちゃんに、乳房を差し出しては、口にふくませ、平安のうちに静かになる我が家の授乳の姿を見るにつけ、この子どもの母親の気持ちはどんなであったろうかと考えざるを得なかった。いや、我が家だけでなく、すべての人がその母から同じ愛を抱いていることに気づき、敬虔な思いにさせられることしばしであった。

 そんなおり、タイミングよく、20年ほど前に購入していて、これまで読んでいなかった酒枝義旗さんの本をひっぱり出し、紐解いたら次のような文章があった。煩を厭わず、写してみる。

 葦のしげみの中から拾い上げられた赤ん坊は、パロの娘の子として、生みの母親に預けられることになりました。母親は、もはやエジプト人の探索の眼をおそれてびくびくしなくてもよいのです。彼女は赤ん坊に乳をふくませるごとに、あどけないその顔を見入りながら、この子が救われて今こうして乳を飲んでいることの不思議さを心深く思い返したことでしょう。そうした不思議さの奥に、生ける神様の計り知れぬ顧みの働いていることを思うて、こみ上げる感謝とともに身のひきしまる感に打たれたことと想像されます。それはそのはずです。自分の子供は奇しくも助かったのですが、同じようにヘブル人の家庭に生まれた他の赤ん坊たちは、ナイル川の濁流の中にのまれていったのです。そのことを思うと、自分の赤ん坊の助かったことの喜びと感謝とともに、いたましく死んで行った子供たちとその母親たちへの同情が、切々として胸を覆うたことでしょう。いな、単なる同情ではなく、この赤ん坊だけが助かっていることを、ただ喜んでいるのでは申し訳ない、どうか、この赤ん坊が育って大人になった後は、同胞イスラエルのために、何かしら意義深い奉仕のできる者となるようにとの切なる願いと祈りがささげられたことと思われます。赤ん坊が、母親の乳房から吸う母乳の中には、そうした切々たる思いと祈りがこめられていたのです。

 母親や姉の愛護のもとに、幼な子は健やかに育ってゆきました。パロの娘との間に定められた日が、一日一日と近づいて来ます。しがないヘブル人の家庭から、きらびやかなパロの娘の子として育てられることは、たしかに幼な子の将来にとって幸福を意味するにちがいありません。しかし、それは同胞イスラエルを酷使するばかりか、鬼畜のような非道な命令によって、生くるに甲斐なき奴隷の民としているエジプト王の宮廷であります。やむを得なかった事情によるとはいえ、いやしくもレビの家の血筋をひくこの子供が、イスラエルの民の敵であるエジプトの宮廷の人となるのです。幼な子の母の胸は、このことに思い至るごとに、刃をもって切り割かれるような痛みを覚えずにはいられなかったことでしょう。それは、折角わが乳を吸わせて育てたわが子を手離してしまう母親としての悲しみを超えて、彼女の心をしめつけたにちがいありません。

”幼な子よ。お前の生涯は、おまえのものであってはならないぞよ。遠き先祖たちを導きたまいし神よ、今日からパロの宮廷で育てられるこの幼な子の生涯を、イスラエルをかえりみたもう聖なる御旨のあかし人の生涯として導きたまえ”

との祈りこそ、幼な子の母親の心の底からの祈りではなかったでしょうか。「その子が大きくなったとき、女はその子をパロの娘のもとに連れて行った。」(出エジプト2:10)という簡単な文字の奥に、モーセの母のこうした切々たる思いと祈りを読みとるのは、聖句の勝手な読み過ぎでしょうか。(『酒枝義旗著作集4 出エジプト記講義』111頁以下より引用)

 酒枝さんは、お会いしたこともないが、知人が親しく教えを受けた方であり、ベック兄とも大変深い交流のあった方だと存じ上げていたが、全13巻もある、この著作集も私の書架に眠ったままであった。私が生意気にも、購入しておきながら、紐解かなかったのは私の一方的な偏見によるものであった。この酒枝さんの文章には以前別の単行本『今に至るこそ』所載の「念仏と福音」で読んだことのある酒枝さんのお母さんに対する大変な尊敬の思いが、同時に表れているのではないかと思って読んだ。

 モーセが実際どのように歩んで行くか、今後はそのことを聖書から教えられたいと思っている。また、映画『十戒』は一度映画館で観たことがある気がするが、信仰を持つはるか以前、多分、高校時代かに、観たものであり、その内容も覚えていないが、酒枝さんのこの講義ではその点も配慮しながら、しかも実際のエジプト史を背景にし、信仰者としての見識を示され、また時の問題(早稲田における学園紛争、いわゆる全共闘運動)に「教授」として対峙されたであろう所感のようなものが出エジプトの記載を追いながら述べておられるので、大変読み応えがある本である。出エジプト記自体が40章にも達するので、ご著書を読み終わるまでには、まだまだ数日かかると思うが読み終わりたい。

 今回、娘夫妻が赤ちゃんを連れて帰ってくるには、正直言って多くの不安があった。恐らく娘夫妻にも不安があったと思う。しかし、今回の挑戦は始まった。始まってみれば、すべて杞憂であり、子どもたちの支援もあり、背後で祈ってくださった方々の祈りがあり、無事に乗り越えられた。何よりも主の顧みがあってのことだと思う。

 顧みれば、人生、この先にはどんなことが待ち受けているかはわからない。しかし、決して無駄なことはない。何度も繰り返し、このブログで紹介してきたように、55年前のこの日に交通事故(むち打ち症)に遭ったことは私にとって決定的な福音を受け入れる大きな主のご計画の一つだったと思っている(※)。最後に、忘れないために、二つの聖句(みことば)を書かせていただく。

※ https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2019/03/1969312.html

子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる。(旧約聖書 箴言23:13〜14)

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(新約聖書 ローマ8:28)

2024年2月26日月曜日

春の音づれと亀家族に幸あれ

水温(ぬる)み 甲羅干しする 亀家族
 亀の家族であろうか。三匹が石の上で甲羅干しをしていた。彼らは用心深く、近寄るとすぐ水中に飛び込む。手前の亀はシャッターを下ろした途端、水中にザブンとばかり、落差を物ともせず、滑り降りるかのようにして、姿を消した。

 にわか仕込みの子育て(孫育て)もかれこれ三週間目に入った。連日連夜、お母さん、お父さんは大変である。私たちはその恩恵にあずかる毎日である。赤ん坊をこんなに身近に覚えるのは私にとっては初めてのような気がしてならない。いったい、5人の子育てや、8人の孫育てにかかわっていたのだろうか。私はともかく、家内も同じ思いでいる。

 すっかり、引きこもっていた家内も、赤ちゃんのペースに合わせ、生活できるようになっている。最初は私たちの家庭で十分受け入れられるだろうかという思いもあったが、新しい命の成長ぶりを見るのは、老いゆく私たちにとって起死回生の妙薬である(※)。

 そんなことを考えていたら、2022年に一年間連載した青木澄十郎さんに次の文章があるのに気づいた。(国会図書館デジタルライブラリー『信仰群像』ヘブル書第11章講解 63〜64頁より)

 モーセの偉大さは喧々(けんけん)する必要がない。ユダヤ人は私たちは「モーセの弟子だ。私たちは、神がモーセにお話になったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ」(ヨハネ9:28)と公言したほどで、イエスを認めぬユダヤ人もモーセと言えば建国の偉人として彼らの誇りとするところであった。このモーセについてヘブル書は如何なる点を信仰の模範としたのであろうか。先ずその言うところを聞こう。 

「信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって三ヶ月の間隠されていました。彼らはその子の美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした」(ヘブル書11:23)

 これがモーセの信仰から学ぶ第一の点である。現行訳の『信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって・・・』とあるのは読者を誤らせる。それはヘブル書が『両親』の信仰を紹介せんとしているかのように見えるからである。決してそうではない。これはモーセという人物は出生の時からすでに『信仰によって』包囲されていたことを示すためである。如何に彼が信仰の中に懐胎され、信仰の中に分娩され、信仰の中にうぶの声をあげたかを示さんとしているのである。信仰は神の与え給うところであって、人が自分で造り出すものではない。

 ある人は年老いて始めて信仰に入り、ある人は青年の時すでに信仰に入る。早く信仰に入った人ほど幸福である。神が偉人を起こし給う時はその胎内にある時から準備し給うのであって、エレミヤを召し給うた時にも「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた」(エレミヤ書1:4)と言っておられる。

 モーセの場合においても胎内にあるときから、神は彼のために信仰を用意し給うたと云うのである。だがこれを逆に観察するならば両親の信仰は胎児にも作用することを示すことになる。モーセによってヘブル書が我々に教えんとすることは第一に、信仰は神の賜物であること、第二に信仰によって孕まれ信仰によって生み出された子は幸いであることである。

※この2月8日に、私どもの9人目の孫として誕生した赤ちゃんは、両親により、2列王記2章19節以降を出典として「しおり」と名づけられた。上の青木さんの講解は私たちの「しおり」ちゃんへのお祝いのことばだ。

エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう仰せられる。『わたしはこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」こうして、水は良くなり、今日に至っている。エリシャが言ったことばのとおりである。(旧約聖書 2列王記2章19〜22節)

2024年2月25日日曜日

『涙の谷を過ぎるとも』(下)

北海道・駒ヶ岳(1131m)※1
 今回、『涙の谷を過ぎるとも』を再読して、気づかされたことは多くある。もともと著者坂本幸四郎さんは旧制函館中学生のとき、アメリカ人宣教師の主宰する小さな集会に出席していたが、ある時、集会は閉鎖され、宣教師も帰国した。それは日米の間に戦争が始まったからである。それに呼応するかのように、著者坂本さんは教会を離れた。

 そして戦後まもなく、卒業後選んだ国鉄職員の道(青函連絡船通信士)の中で労働運動に邁進し、共産党の党員となるも、党の実態は戦前の日本社会が抱えていた病理そのものである家父長制でしかないことに失望、脱党し一線から退く。キリスト教への接近から、唯物思想への接近と、振り子は大いに揺れたが、そこにも安住する場はなかったのだ。果たして戦後自分はいかに生きていくべきか考えていた時期、その問いに真正面に取り組んでいたのが、全16巻からなる『戦後思想大系』であった。

 そして端なくも見出したのが、自分の住んでいる函館で起こった戦前の「小山宗祐牧師補の自殺」という衝撃的な事件であった。しかし、その事実は同じ教派であるホーリネス教会でもしっかりととらえられておらず、徒手空拳とも言うべき、しかも未信者である坂本さんが一切を知るべく奔走したことにより事態が徐々に明らかになっていくという構成であった(※2)。その主舞台は函館であった。そしてふと気づくと、小山宗祐さんは大正5年(1916年)1月生まれだった。

昭和7年6月27日 柏野 北海道号来る
 同じ大正5年1月生まれの人物に母の先夫吉田文次郎がいる。しかも、吉田文次郎は、森から旧制函館商業に汽車で通っており生活圏の一角を占めていた(※3)。小山宗祐さんと吉田文次郎は全く一面識もない別人だが、函館生まれの坂本さんが関西から牧師補として函館にやってきた小山宗祐さんの行動を一々紹介された文章を読むたびに、私の心の中では、いつしかこの両者は自然に重ね合わされていった。そうして小山宗祐さんは私にとってより身近な人ともなった。こんな本の読み方もできるんだなと思った(今までそんな読み方をしたことはなかった)。

 戸籍によると吉田文次郎は昭和13年(1938年)10月11日午後零時五分中華民国江西省瑞昌県瑞昌野戦病院に於いて死亡。小山宗祐は昭和17年(1942年)3月26日午前5時40分函館市新川町28番地に於いて死亡。片や吉田文次郎は22歳で野戦病院で死亡、片や小山宗祐は26歳で新川拘置所内で死亡している。

 小山宗祐が函館に来たのは、昭和16年(1941年)ごろであり、その時には吉田文次郎はすでに戦病死している。もし「戦争」がなかったら、ひょっとして両者は函館で会うことになっていたかも知れない。私の母は先夫を大変尊敬しており、その戦病死さえ、「文次郎さんは〔思想〕でやられた」とも私に言ったことがある。それは私の中学生時代に耳にした言葉で、それは「アカ」を指していたのではないか(と、思う)。本当のことはわからない。

 私の母美壽枝は北海道森町の吉田文次郎のもとに、滋賀から昭和11年(1936年)に嫁いでおり、二人の間にはまだ子どももいなかったが、「戦争」がなかったら、未亡人になることもなく、森町に住み続け、跡継ぎも与えられ、家族で函館や札幌に出かけ、一年に一度は留守宅である滋賀の地に帰ったのでないかと思う。一方、小山さんには将来を約束していた方がいたようなので、こちらは結婚し、良き助け手とともに、牧師として集会を持ち続けたのでないかと想像される。

 けれども「戦争」は昭和13年(文次郎死亡の年)、昭和17年(宗祐死亡の年)を足蹴にするかのように大突進をし、最後は大雪崩のすえ、昭和20年の敗戦となった。ために母美壽枝は昭和15年(1940年)には内地に引き上げ、昭和17年(1942年)には家を絶やさないためと、父膽吹清を婿養子として迎え、その間に私が誕生した。私は吉田家の一人息子として生を受け、吉田文次郎の後を継ぐ者となった(※4)。

 方や、小山宗祐氏は跡取りも残さず、この地上の生を終えた。遺されたものが彼遺愛の聖書であり、その聖書は坂本さんの手に渡ったのは、前回触れた通りである。その坂本さんもネット情報によると、1999年(平成11年)に亡くなっている。果たして今その聖書はどこにあるのだろうか。いやそれより、坂本さんのキリスト教への接近は果たして最後どうなったのだろうか。

 坂本さんは、イエス・キリストの教えには心惹かれるものがあっても、聖書の非科学的なところが受け入れられず、また現実のキリスト者のありかたにも飽き足らず、かと言って社会改革の道を歩む運動体にも希望が持てず、一人のキリスト者の死の道を辿ることを通して、求道の道を続けられたのであろうか。その成果がこの一冊の『涙の谷を過ぎるとも』(1985年刊行)の本であった。その書物が出版されるころ、すなわち1984年(昭和59年)、職場の同僚とともに、函館の地を歩いたときは、私は胸底に吉田文次郎・美壽枝夫妻の故地を訪ねる思いを秘めており、思いは森に集中しており、函館遊歩の時は残念ながら上(うわ)の空であった。

 81年の歩みを許され、こうして様々な人々の歩みを知るにつけ、いついかなる時も懸命に生きるべきことを教えられた。函館は生涯一度しか訪ねたことがない。その函館を通してこんなにも多くのことを考えさせられるとは。「あだや人生無駄に過ごすべからず」である。それが私のこの本を読んでの率直な感想である。

※1 母のアルバムにあった写真であるが、亡夫吉田文次郎の撮影によるものと思われる。今まで何となく、この写真を見ていたが、今回、よく撮られている写真だと思った。私の撮った写真(『涙の谷を過ぎるとも』上、所載)は駒ヶ岳を背後にして駅頭から湾に向かってのものだった。以前、この森町にOMFが初めて入ったことを記した。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2020/05/blog-post_22.html
この湾奥から森町に彼らは上陸したことを追体験し、これまた感慨を新たにさせられた。

※2 この事実は一人のキリスト者であり、同志社で教鞭を取られていた和田洋一氏たちによって初めて明らかにされた。

※3 今回、吉田文次郎の遺したアルバムを点検してこの写真に注目せざるを得なかった。
キャプションは吉田文次郎の筆跡であり、昭和7年は彼が15、6歳のころである。このような小型飛行機は国民の拠金として軍に献上されたものである。彼はこの勇姿を収めている。この時、彼は、アカどころか、一端(いっぱし)の軍国少年であった!

※4 この辺の事情については本ブログに既に投稿してあった。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2011/08/blog-post_15.html

 唐突だが、今朝の春日部の福音集会で話された方が引用されたみことばを記して置く。私にとってこの本を二度まで読んだ(いや、二十数年前をふくめると、三度と言うべき?)感想と無関係ではない、聖書のみことば、イエス様のおっしゃったことばであった。

もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。(新約聖書 マタイの福音書17章20節)

「からし種」と「山」、何と対照的なものをさして、イエス様は私たちの迷蒙を打ち砕いてくださるのだろうか。所詮、私たちの信仰はもとより、私たちの存在は、からし種に過ぎない。それが「不動」にして「大いなる」山を動かすことができるとおっしゃっている。そんな馬鹿なことが、と誰しも思う。極めて良心的で真摯であった坂本さんが「聖書の非科学的なところが受け入れられず」と言われたのは、このようなイエス様のことばもふくんでいるのではないかと思う。しかし、神の上に人がいるのでなく、人が創造主である神の前に頭を下げなければ、信仰は生まれない。恐らく、その一点が坂本さんをして、福音から遠ざからしめたのではないかと思う。

2024年2月23日金曜日

『涙の谷を過ぎるとも』(上)


 1984年(昭和59年)3月 、職場の同僚11人で函館に旅したことがある。こんな写真があることを思い出したのは、最近『涙の谷を過ぎるとも』(坂本幸四郎著、河出書房新社、1985年刊行)をこれまた数十年ぶりに手にとっての読書中のことであった。

 同書の冒頭近くにこれとほぼ同じ建物(教会建築群)の写真があったからである。私たちの旅は八人のクラス担任と副担任三人からなる、解散旅行であった。当時私は学年主任の立場にあったが、主任とは名ばかりで、実際はそれぞれの先生方が個性あふれるクラス経営をなさっていて、私も主任であると同時に担任でもあったので教られることばかりであった。この函館行きも副主任である先生のリーダーシップよろしく、三学年を卒業させたあと学校側からも暖かい支援をいただいて旅立ったものであった。

 ところが、肝心の私は当初それほど乗り気ではなかった。他の先生方の熱意に押されての旅路であった。しかし、その実、私には一つの隠された目的があった。それは亡母が戦前1936年(昭和11年)に函館とは目と鼻の間とも言っていい、森町に嫁いで夫が亡くなるまでそこで過ごし、滋賀の家の出先の地であったことが常に念頭にあり、一度是非この目で森町の旧跡を訪れたいと思っていたからである。それは若くして逝ってしまった母の思い出の地をどうしても追体験したかったからである。

 函館に着いてもその思いが強く、一行の皆さんとは単独で別行動を取った。そして念願の森駅、旧跡を駆け足ながら、見歩くことができた。三月とは言え、北海道は寒く、森駅から太平洋(実は湾であったが)を望見し、その余りにも寂しい姿に亡母の思い(20代そこそこでここで過ごし、戦争で夫を亡くした)を重ね合わせ、私の思いは複雑で泣きたい思いであった。それは再び他の皆さんと合流しても消え去らぬ思いであった。しかし、自分はこうして亡母の地、先祖が生活をした現地をこの身で体験したという確かな思いが残った。

 そういう意味で、1984年の学年解散旅行は私にとって忘れられない旅路ではあったが、その後、ブログで時々その亡母のことを触れることはあってもそれ以上出ることはなかった(※)。ところが今回、『涙の谷を過ぎるとも』というほぼ同時期に出版された本の再読をきっかけにさらに深いことを考えさせられたのである。

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている・・(旧約聖書 エレミヤ書29章11節)

2024年2月15日木曜日

幸いな人

如月(きさらぎ)の ダブル祝意 寄すケーキ(※)
 先週木曜日2/8に赤ちゃんが誕生して、一週間が経つ。月曜日には、産院を退院して、産後しばらく過ごすために、私どものところに母娘がやって来た。身近に赤ちゃんを覚えるのは久しぶりだ。五人も子どもを産み育てた家内もまったく忘れてしまっている。ましてや夫である私には、断片的な記憶こそあれ、ほとんど覚えていない。昔、湯川秀樹がどこかで孫に接する発見・喜びを淡々と綴っていたが、それは人間に対する驚きであったように思う。

 娘が誕生した年、1981年に、湯川秀樹は亡くなった。あれから43年経ち、81歳のこの歳で孫の誕生に立ち会うとは随分な果報者だと思う。一日一日を大切に過ごしたい。さて、女親が死ぬ思いで出産の苦しみをさせられるのに対して、男親にはいよいよ「我も親か」と一段とすべてのことに積極的になるのでなかろうか。その初仕事は名づけであろうか。

 娘の旦那さんも名前をつけるのにどのような知恵をしぼっているか楽しみであった。月曜日、初めて赤ちゃんに対面した時に、「赤ちゃんの名前は聞かないの?」という娘の言葉で(それまでも聞きたかったが、まだ考え中だと悪いと思って聞いていなかっただけなのだが)聞いてみた。サラサラと名前が出て来た。正直言って少し拍子抜けした思いであった。家内は単純に喜んでいた。

 その後、話するともなく家内と娘が話し合っている会話の中でその赤ちゃんの名前の由来が語られていた。そしてびっくりした。その旦那さんの妻を愛おしむ思いが、その名前に込められていたからである。その話というのは以下の聖書の故事だという。

この町の人々がエリシャに言った。「あなたさまもご覧のとおり、この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産が多いのです。」すると、エリシャは言った。「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」人々は彼のところにそれを持って来た。エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう仰せられる。『わたしはこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」こうして、水は良くなり、今日に至っている。エリシャが言ったことばのとおりである。(旧約聖書 2列王記2章19〜22節)

 苦難も、喜びも共にする旦那さんの優しい心を感じて私は嬉しくなり、最初、拍子抜けした我が思いを恥じるばかりであった。

※長女が五人の子育てで、手慣れたとは言え、今週火曜日に遠路届けてくれた。2/7の私、2/8の赤ちゃんの誕生の祝いだった。私たちもこれに答えて、次女夫妻と二日がかりで舌鼓を打った。

主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。(新約聖書 ルカの福音書1章45節)

2024年2月9日金曜日

可愛いゆりかもめ


 「果報は寝て待て」とは昔からあることわざだが、1月27日に予約しておいた図書が入ったと今朝、図書館から連絡があった。予約したのは、山崎鷲夫さんに関する1978年刊行の岩波新書であった。他館からの借り入れだから、すぐは入らないとは思っていたが、一週間経てども連絡がないので、最初イライラしていた。その後、半ば諦めもし、ここ二、三日は忘れてもしまっていた。その本が入って来たと知り、改めて我が身の「忍耐心」のなさを、知らされた思いであった。

 図書館までは一キロほどかかるが、やはり古利根川に面している。この近辺を流れる古利根川には、鴨群に対抗するかのように、もう一方の覇者である「ゆりかもめ」が棲みついている。ひょっとして今日もいて何らかの写真が撮れるのでないかと期待して出かけた。案の定、ゆりかもめは、川中に固まっていた。それだけでなく、時折り飛翔しては橋の欄干や高い照明灯を止まり木にして、まるで私に写真を撮っていいですよと言わんばかりだった。鴨ほどは警戒心がないのはありがたかった。

 さて、そんな忍耐心のない私だが、その娘である次女は昨日無事に女の子を産むことができた。高齢出産で気が気でなかったが、こうして無事に生まれてみると、主なる神様の御守りと皆さんのとりなしの祈りの賜物と思い感謝に堪えない。

 元々結婚も願えど、中々、導かれず、ほとんど諦めかかっていた時に、不思議なるかな、職場の同僚の方と一緒になれた。そうして結び合わされた二人であったが、こどもが与えられず、これまた半ば諦めていたが、友人に励まされて、今回の初産となった。

 それにしても十月十日とはよく言ったもので、長い長い忍耐の月日でなかったかと思う。でも過ぎ去ってみれば、短かかったなあーと思ったりする。私にとっては「果報は寝て待て」であったが、当の本人はこれまた「案ずるよりは産むが易し」と、ことわざ通りであることを体験したことであろう。コロナ禍の病院で、昔のようにすぐ駆けつけて、ねぎらいの言葉をかけたり、赤ちゃんの姿を見て感動するような場面はないが、いずれ退院してじっくり赤ちゃんと対面したいと願っている。 

女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。(新約聖書 ヨハネの福音書16章21〜22節)