2011年5月22日日曜日

50年前の真実

(北海道森町の母、二ヶ月後には戦争未亡人になる)
 今日は常陸多賀まで出かけた。朝は蒸し暑かった。思いは50年前のあの日に飛ぶ。母が病院で息を引き取った日である。高校を卒業し、大学受験に失敗し、その動揺から立ち直れぬままに空しく日々を過ごした二三ヶ月後にやってきた椿事であった。爾来、結婚式の日にちは忘れることがあっても、この日のことは忘れたことがない。

 あの日も初夏というか、もはや春ではなく、一日中、今日とは違って太陽がじりじり照り続ける日であった。母を亡くした思いを、今亡くなったばかりの市立病院から自宅までの自転車での帰り道、上空に照り輝く日輪に向かって、「お母さん!お母さんの遺志を継いで家を守るよ!」と咆哮していた。それ以外に方法がなかった。その母の面影は年々薄くなっていく、妻は母を知らない。説明すると美化になってしまう。年長のいとこたちもいかに母が教育熱心であったかを強調するために様々なエピソードを教えてくれる。

 田舎からわざわざ京都の知恩院に連れて行って、床を踏み行かせ「鶯張り」を実地に体験させ、教えたとか、その手の話を聞かされる。その通りだろうが、今の私をどう評価するかわからない。母が亡くなって数十年経って発見した母の闘病中のメモ書きだけが唯一当時母が何を考えていたかを示すよすがになっている。それは以前にも別のブログで紹介していることだと思うが、次の文面である。

昭和35年(1960年)4月10日
私が宿命的な病気・癌、わけても最も恐るべき胃癌であった(手術によって一層確認された)事実が受験期の高校生にどんなショックを与えただろうか。でもそこから何かを学びとる(プラスになるものを得)人生に対する覚悟と云うか心構えをしっかりと身につけて呉れた事と思う。自分の方向にまっしぐらに進む勇気が出来たとしたら何十万円のお金で購えない尊い報酬(と云わねばならない)となろう。この度の私の病気に依って浩が何を体得してくれたか。涙を拭い拭い時々こんな甘い事を考えてみるこの頃である(尊い何かを体得して呉れただろうと)

 当時43歳の母が記した言葉である。私はこの母を失っておよそ10年ほどして、魂の彷徨を重ねながらこの母の書いている、「何十万円のお金で購えない尊い報酬」、 実は「主イエス・キリストという贖い主に出会い、報酬でなく、賜物」を一方的にいただいた。母は意図しなかったことかも知らないが、母の願った通りになったのである。

 50年というと仏教では50回忌とか言ってお坊さんを呼んで来て法事をするのであろう。しかし私にはそういう思いはない。ただ今日、常陸多賀を出る頃は朝と打って変わって、雨が降りしきり、あの日とは打って変わり、一転寒くなったのには驚いた。寒くなる電車内でiphoneを利用してベックさんが麻布の家庭集会で先日なさった「永遠のいのち」のメッセージを聞くとはなしに聞いていた。その中で神様の目から見ると人間は生きている者か、死んでいる者かに二分されて見られている、と言われていることに耳をそばだてずにはおられなかった。

 元気な商売人が事務所で一生懸命働いている。確かにその人は誰の目から見ても生きていると見えるだろうし、そのことは疑いないであろう。しかし、その人の生きているのは魂、体であって、その人の精神は死んでいる場合があり、というのはその人がもし主イエス様を否定しているのであったら、神様の目から見たら死んでいるのだ。ところで別のお葬式に行くとしましょう。そこに亡骸があります。確かにその人の魂、体は死んでいます。しかし精神はどうでしょうか。その人は主イエス様を信じて召されたのです。神様の目から見るならばその人の精神は生きているのですよ。あなたはどうですか。生きていますか、死んでいますか、と最後は私たちに問うような内容であった。

 私はそれをお聞きしながら、ああ、50年前に母は亡くなったとばかり思っていたのだが、神様の目から見たらそうと決めつけることはできないのだ。わからないと言うのが正解だと思った。逆に、私自身も本当に神様の前で永遠のいのちを確信して生きていきたいと思わされた。 そのことこそ母が最も自分の命に代えて息子に望んでいたことなのだ、と思うのである。

 後年、家の倉から一冊の本が出て来た。それは母が20代で北海道に渡り住んでいた時に先夫が手にしていた本であった。その本の中には聖書のことばがいくつも文語訳で記してあった。今となってはその本に対して母がどんな態度を取ったのかは分からない。しかしこの本があることは事実である。そして二週間前にその本の訳者の甥御さん(と言っても歳は私と同じで、ある大学の学長さんをなさっている著名な方なのだが)とひょんな機会で面識を得て、東京で会うことが出来たのである。50年も経つと50年前に分からなかったことも明らかになる。まして天の御国に行けばもっとすべてのことがわかるであろう。

それ罪の払う価は死なり、されど神の賜物は我らの主キリスト・イエスにありて受くる永遠(とこしえ)の生命(いのち)なり(新約聖書 ローマ6:23)

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