2011年5月27日金曜日

洗礼の証

長年、海外に駐在している方からうれしい便りをいただいた。洗礼を受ける決心をされたというご報告であった。私自身、洗礼を決心したのは今から40年ほど前にさかのぼる。どの程度信じていたのか分からない。むしろ信じようとしていたのではないか。ある聖書の箇所(ローマ6:4)を頭に叩き込みながら、水につかり、水から上げられたことを思い出す。父や継母には一切言わなかった。ほとぼりが覚めた頃を見計らって、何気なく「受けた」と言った。父母が賛成するはずがないと思っていたからである。洗礼の事実はひた隠しに隠していたのである。

こんな私だがその後40年と少しの間、棄教しようと思ったことはない。それほど強い信仰があったわけではないが、振り返ると主イエス様がこのような者を憐れんで守ってくださったとしか言えない。こう言うと人々はそれだけあなたが謙遜だからだと言う。全く逆である。私のうちにある不信仰の思いは誰よりも主がご存知である。だから、「憐れみ」だと言うのである。

パウロは言っている。「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」(ローマ2:28~29)ここで言われている「割礼」はそのまま「洗礼」ということばに置き換えても、主なる神様は怒られないだろう。現在キリスト教会が施している「洗礼」はかつての、ユダヤ教の「割礼」と同じようになっている恐れがなきにしもあらずであるからである。

海外駐在のサラリーマンの方がこの時期に洗礼を決意されたのは様々な心の動きがおありの上でのことだろう。けれどもそれは主が一番ご存知のことだ。かつての私の洗礼の際の無様な思い、行為(ここではとても恥ずかしくって書けないことも)を主は知っておられたように。それよりも主は一人の人間を洗礼、すなわち「新生」にまで導かれるのだ。何と素晴らしいことではないか。手放しで主を賛美したい。今朝、アンドリュー・マーレーの「至聖所」を読んでいたら、ちょうどヘブル1:5~6のところであった。それを読んで次のような感想をノートに認めた。

神の全能をからきしも疑ってはならない。神がイエス・キリストを誕生させられたのと同様に私たちの鈍き、ごうまんな心のうちにも必ず働いて主を信ずるに至らしめてくださる。だから、私たちはただひたすら主の前にへりくだり、この主の御わざを知る者とさせていただこう。あだや神のことばを疎かにしてはならぬ。なぜなら神のことばこそ人を新生させる力を持っているからである。

マーレーは次のように書いている。
Let us bow in deep impotence and ignorance, waiting on God Almighty to reveal the Son to us.... It is by God speaking to us in the First Begotten that we are begotten of God.

折にかなった学び、折にかなったお便りであった。

神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」(新約聖書 ヘブル1:5~6)

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