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2016年1月7日木曜日

勝利の祈り

年賀状3
わたしが・・・・あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。(ヨハネ15・16)

 この譬え話の最初の章で、キリストはご自身がぶどうの木であり、父が農夫であることを明らかにされた。そしてご自身と父のために私たちの心の中に住むべき場所を求められたのであった。今、この最後の章では、ご自身と父とについてのすべての教えをまとめて、主が一つ一つの枝を選ばれた二重の意味を明らかにされるのである。

 まずぶどうの木であるご自身については、枝が実を結ぶことであり、父については、主の名によって枝が求めるものはすべて父によって与えられるということである。実を結ぶことが私たちとキリストとの関係の大いなる証しであるように、祈りは私たちと父との関係の大いなる証しである。子なるキリストにつながって多くの実を結ぶことと、父なる神へ力強い祈りをささげることは、真のクリスチャンの生涯の二つの大きな要素である。

 「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」これはこの譬え話の結びのみことばである。ぶどうの木と枝とのすべての奥義は、さらにもう一つの奥義であるところの「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。」(ヨハネ16・23)という点に展開していくのである。

 さてここで、私たちに祈りが非常に少ない理由、私たちの祈りにほんとうの力が欠けている理由について考えて見ることが必要である。それは私たちがまことの枝として生きることが少なく、またぶどうの木につながることに私たちの熱意を示すことが少ないからである。そのために私たちは常に祈らねばならないと意識することが少なく、私たちの祈りが聞き入れられる自信もなく、したがって、主の御名を神の宝庫への鍵として用いる方法も知らないのである。

 地上に植えられたぶどうの木は成長して天に達したのである。ぶどうの木に熱烈につながら魂だけが、何ものにも打ち勝つ強い力をもって天に達することができるのである。この譬え話の教訓と真理、ぶどうの木の生命と真理を固く信じる私たちは、祈りの力によって信仰を証拠立てねばならない。主につながる生涯、服従の生涯、愛と喜びの生涯、きよめと実りの生涯は、必ず勝利の祈りへの力へと私たちを導くことにまちがいはないのだ。

 「あなたがたが・・・求めるものは何でも」という約束は、まことのぶどうの木と同じように、仲間の人々のためにいつでもいのちを捨てようとした弟子たちにも与えられたのである。この約束は彼らの働きの原動力であったのだ。彼らはこの約束を文字どおりに解釈し、これを信じ、これを用い、そしてこの約束が真実であることを見いだしたのである。私たちもぶどうの木にふさわしい枝として、人々を救い、神の栄光のために実を結ぶ働きに没頭しようではないか。

 そうすれば、私たちは祈り、主に約束の実行を求める新しい力を見いだすであろう。また神の宝庫の鍵が与えたこのような約束の中にある私たちの責任のすばらしさを自覚する。かくて滅びゆく人々のために、パンと祝福を受け取るまで休むことなく祈り続けようではないか。

 愛する弟子たちよ。何はさておいても祈りの人となるように努めようではないか。それはぶどうの木の枝としての私たちの最高の特権を行使することなのだ。それは私たちの存在が神と御子のみこころの中で新しくされた証拠である。それは私たちが自分自身のためではなく、他の人々のために生きていることを示す私たちの力なのだ。それによって私たちは天国に入り、人々のために賜物を受け取ることができるのだ。またそうしてこそ私たちがキリストにつながり、キリストが恵みの手段として私たちを用いることができるのだ。こうして人々のために実を結ぶ力の上に、神に祈りを聞き届けられる力が加わったのである。

 キリストは、私たちを父の御前に伴い、父のみことばが私たちの中に満たされるように私たちの中でお働きになるのだ。「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。 16:27 それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです」(ヨハネ16・26〜27)という主のみことばはそのことを言っている。人々のために父に直接に近づく力、信仰を持つ人々のために祝福を求め、祝福を受ける執り成しをする自由は、私たちとキリストとの結びつきを最高に実現することである。ほんとうにりっぱな枝になりたいと願う者は執り成しのわざにひたすら打ち込むのである。執り成しは天のぶどうの木であるキリストのただ一つの大きなみわざであり、キリストのすべての力の源である。執り成しを枝としての私たちのただ一つの大きな働きとせよ。それは私たちのすべての働きの力となるのである。

祈り

「主よ。ここであなたはご自身に、『まことのぶどうの木』という新しい名をおつけになりました。私は一本の枝として、あなたに一切のものをささげ尽くし、信じ切り、無条件に服従し、朽ちない実を結ぶためにあなたの中にとどまります。私はあなたの中にあって父のもとへまいります。そうすれば父は私の求めるものをお与えになります。どうか私の生涯をいつも絶えることのない、力強い執り成しの生涯としてください。アーメン」。

( 『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー著安部赳夫訳141〜146頁より引用。この本は小冊子ではあるが、貴重な書であり、全部で31章になっていたが、今回が最終回であった。原著書名は『The Mystery of The True Vine By Rev. Andrew Murray』である。http://www.biblebaptistelmont.org/BBC/library/Murray/true-vine-10.html)

2016年1月6日水曜日

朽ちない実

年賀状2
わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり・・・(ヨハネ15・16)

 果実には長持ちしないものがある。梨やりんごなどのように翌年まで保存できるものがあるが、すぐ食べてしまわなければならないものもある。クリスチャンの働きにおいても成果が永続しないものがある。このような働きは、人を喜ばせ人を教化する力はあったとしても、世の権威や教会の立場に永久的な影響を与えることはできない。

 いっぽう、幾世紀もまた永久にその影響を残す働きがあって、その中には神の力がいつでも感じられる。使徒パウロがこの二つの型の教役者について述べたとき、その成果について「私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」(1コリント2・4〜5)と語っている。人が知恵と力とを持てば持つほど安定性を失うものである。それに引き換え、神の御霊に従えば従うほど神の力への信頼が確立されていくのである。

 果実を見るとその木の性質がわかるものである。朽ちない実を結ぶ秘密は何であろうか。もしも私たちのいのちがキリストにつながっているならば、私たちの結ぶ実は朽ちないでいつまでも残るに違いない。私たち人間の意志と努力とに関係のあるすべてが、天の農夫の手によって切り取られれば切り取られるほど、また神が聖霊によって私たちの中でみわざを行なわれるために、私たちが自らの存在を外に現わさないようにすればするほど、私たちはさらに全面的にキリストにつながり、私たちの結ぶ実はいつまでも朽ちることがないであろう。

 キリストが私たちを選ばれたのである。私たちに実を結ぶようにお命じになったのである。そして私たちの実が朽ちないようにと望んでおられるのだ。キリストが恵みによって私たちを選ばれた目的を深く理解すればするほど、永遠からの目的と永遠への成果とのつながりを私たちはさらによく悟ることができる。その目的は主のものである。主が成し遂げられる。成果は主のものである。主がそれをもたらされる。

 キリストの福音のために働いている人は、まず何よりも静かに自らの周囲に永遠の足跡を残しているかどうかを点検してみようではないか。あなたの説教や証し、あなたの意志の力や影響力がこれを成し遂げるのではない。すべてはあなたの生活と神と神の力によって満たされているかどうかにかかっているのである。そしてまた、あなたがほんとうに枝にふさわしい生活、すなわちキリストとの破れることのない交わりをしているかどうかにかかっているのだ。

 聖なる主よ。あなたが、実を結ばせるために私たちをお選びになったことを、どうか私たちにお示しください。あなたの目的が実現されることを確信させてください。あなたが私たちをお選びになりました。これを私たちの力とし、あなたのためにすべてを捨て、私たちをあなたのものとさせてください。あなたのお始めになったことは、あなたはご自身で完成なさいます。私たちを愛と永遠の目的の確かさの中に住まわせ、それによって永遠の力が私たちを支配し、私たちのならせる実がいつまでも残るようにしてください。

祈り
「 『あなたがたが実を結ぶように』とあなたは言われました。天のぶどうの木よ。私の心に、実、しかももっと多くの実、豊かな、朽ちない実が、あなたが私にお与えにならなければならないただ一つのものであり、枝として私があなたに差し上げなければならないただ一つのものであることがようやくわかり始めました。聖なる主よ。私はここにおります。私の中であなたの目的を成し遂げてください。あなたの栄光のため、多くの実を、いつまでも朽ちない実を私に結ばせてください。アーメン」。

(『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー著安部赳夫訳136〜140頁より引用。)

2016年1月5日火曜日

主が選ばれる

年賀状1
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり・・・(ヨハネ15・16)

 枝は自らぶどうの木を選ぶことはしない。ぶどうの木が枝を選ぶのである。それでキリストは、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです」と言われたのである。

 しかし自然の世界と心の世界との間には相違があり、人は自由の意志と選択力とを持ち、キリストを信じ、キリストを主と仰ぐことによって、はじめて枝になるのではなかろうかと言う人があるに違いない。この考えは決してまちがってはいないが、しかしそれは真実のある半面に過ぎない。

 ぶどうの木の戒めと主の教えは、キリストを信じる私たちのより深い他の半面を指し示している。もし主が私たちを選ばれなかったら、私たちはけっして主を選ぶことはない。私たちの選択は主の選択の結果で、主は私たちを支配しておられるのだ。ものの道理から言って、枝を造り選ぶのはぶどうの木の特権である。私たちの存在のすべては「恵みの選び」(ローマ11・5)のおかげである。

 もし私たちが枝のいのちのただ一つの源であり力であるぶどうの木としてのキリストを絶対的に信頼している枝としての私たち自身を知ろうと思ったら、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです」という、この祝福された真理をよく味わうことが必要である。

 それではキリストはどのような考えでこのように言われたのであろうか。どんな目的のためにキリストがお選びになったかが枝によくわかってほしいものだ。主の選びを信じる枝は、枝の天命を達成する確信を見いだしてほしいものだ。

 ところで聖書の至るところに、この主の選びの教えの大きな目的が記されている。「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」(ローマ8・29)これを「ぶどうの木の姿に似た枝にあらかじめ定められた」と言い直してみてもいい。また「父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たち」(1ペテロ1・2)などがその例である。

 一部の人々は「選び」の教義を濫用し、また一部の人々は濫用することを恐れるあまりに拒否してしまった。なぜならば彼らはこの教えの真意を看過したからである。彼らはこの教えを測り知れない奥義とのみ思い過ごし、この教えが啓示する目的や、クリスチャンの生涯にもたらされる祝福を受け入れることができなかったからである。

 主の選びの恵みがどんなに大きいものであるかを考えてみようではないか。ここでキリストは、私たちをその枝として選ぶ二重の目的を明らかにしておられる。その一つは私たちが地上の実を結ぶためであり、もう一つは私たちの父への祈りに力を与えるためである。キリストがこの目的のために選ばれたことを考えると、私たちは大きな確信を持つことができるのだ。

 それはこの目的を実行するために、キリストは私たちにきっと力をお与えになるからである。朽ちない実を結び、聞き入れられる祈りを祈ることは何という大きな確信を私たちに与えることであろうか。深くへりくだって主をほめたたえ、その恵みが必ず与えられることを信じて待てという主のみ声が今も聞こえて来るではないか。主は私たちがその任に耐えないとか、あるいは私たちをその任に耐えるようにすることがおできにならない場合は、私たちを選ぶことをなさらない。主の選びは、主が私たちの中にあって一切をなしてくださるというご自身自らの誓約のもとでなされたのだ。

 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。」と聖なるぶどうの木が私たちひとりひとりに語られるのを魂の静寂の中で聞き取ろうではないか。そして大胆に、「主よ、あなたの言われるとおりです。しかし私があなたを選んだのです。アーメン」とあえて申しあげようではないか。

祈り
「主よ。『わたしがあなたがたを選んだのです』と言われたみことばの意味を私にお教えください。あなたは私の上にあなたのみこころを注がれ、私に朽ちない実を結ばせ、かなえられる祈りを祈るために私をお選びになりました。あなたのこの永遠の目的の中に私の魂は安らぎ、そして申し上げます。主よ、私をお選びになったとおりに、私はきっといたします。また必ずすることができます。アーメン」。

(『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー著安部赳夫訳131〜135頁より引用。)

2014年2月4日火曜日

キリストの友情—その親しい交わり

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ15・15)

まことの友情の最高の証拠と、その喜びの最大の源は、友と心の奥底の秘密を分かち合う親密さにある。キリストのしもべとなることは幸いなことである。キリストによって贖われた人々は喜んで自分を奴隷と呼んでいる。キリストはしばしば弟子をしもべと呼ばれたことがある。しかし主はその大いなる愛によって、「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません」と言われ、聖霊の降臨と共に新しい時代が始まったのである。「しもべは主人のすることを知らない」から、しもべは主人のすべての計画に立ち入ることは許されず、ただ従うだけである。しかしそのしもべが、「わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです」というみことばによってキリストの友となったのである。キリストは友には父からまかされたすべての秘密を打ち明けられる。

このことが何を意味するかを考えてみよう。父の戒めについて語られるとき、キリストの言われた戒めとは、聖書に書いてあることだけでなく、父からの毎日毎時伝えられる父の特別な戒めも含んでいるのである。これについて主は、「それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです」(ヨハネ5・20)と言っておられる。キリストのなされたことはすべて神のみわざである。それはキリストが十分な理解をもって、父の意志と目的を実行されたからである。また神の相談にあずかる者として、キリストは神のご計画をことごとく知っておられたからである。

さて、しもべのように主のみこころの意味と目的の霊的な内容も知らずにみこころを行なうのではなく、今や祝福されたキリストの友であることによって、キリストの身内として神の秘密のお考えをある程度知ることを許されたのである。ペンテコステから後は、聖霊によってキリストは今までの譬ばなしを離れて、神の国の奥義の霊的な理解に弟子たちを導かれることになったのである。

友情は何よりも交わりを楽しむ。友はよく相談し合うものだ。友は友以外の人には知らせたくないことでも互いに信じて話し合うものである。

主とのこの聖なる交わりにクリスチャンを近づかせるものは何であろうか。また父がキリストに示されたことをキリストが私たちにお知らせになるのを、理解するための霊的な能力を私たちに与えるものは何であろうか。それは魂をきよめるところの愛情に満ちた服従である。それはみことばの戒めを理解するだけではなく、私たちの日常生活にみことばを実際に当てはめていくことにも関係がある。しかし、これらのことは信頼とへりくだりがなければとうてい期待することはできない。そして誠実さをもって服従すれば、魂はさらに主との密接な交わりにかなうようになり、日々の生活に、「 わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです」というみことばを絶えず経験するようになるのである。

祈り
「 『わたしはあなたがたを友と呼んだ』とあなたは言われました。何という光栄でしょうか。ことばで言い表わすこともできないほどです。何というすばらしい特権でしょうか。救い主よ、『わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしは友を愛する。わたしは友を信じる。友には父とわたしとの間に起こるすべてのことを知らせる』と、私の魂に力強く語りかけてください。アーメン」。

(『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー著安部赳夫訳127〜130頁より引用。)

2014年2月3日月曜日

キリストの友情—その証拠

Andrew Murray(1828~1917)
わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。(ヨハネ15・14)

主が友情の証拠として与えられたもの、すなわち主のいのちについては、主はすでに語って来られたが、ここでは私たちのがわでなすべきこと、つまり主の命令に従うことについて教えられる。主がいのちを捨てられたのは、私たちの心の中に場所を確保して、私たちを支配するためであった。主の愛が私たちに命じられ、また私たちを励まされるのは、主の命令に従うことである。私たちは主が死によって与えられた愛を知っているからこそ、喜んでその命令に従うのである。私たちが命令に従えば愛がいっそう増し加わることがわかる。

「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです」(10節)と言われた。主はこの真理を再び繰り返して言うことを必要と考えられたのである。主の愛を私たちが信じるただ一つの証拠、愛の中にとどまるただ一つの道、まことの枝であるただ一つのしるしは、主の命令を実行することである。主はご自身のいのちを私たちに無条件でお渡しになられたのである。ゆえに主は、私たちに全く同じことをお求めになることができるのだ。主の命令に従うことのみが、主の友情の中にある生涯である。

服従の絶対的必要性は、キリストのお考えに反して私たちは信仰生涯の中でほとんど重んじることをしなかった。私たちは義務よりも権利に重きをおいていた。私たちは絶対的服従を弟子の資格としての真の条件とは考えては来なかったのである。主のご命令に従うことは不可能であるから、それを私たちに期待するのは無理であるといった考えや、罪を犯すことは避けがたいとする無意識の感情が、しばしば主の戒めと約束から力を奪い去っていたのである。それによってキリストとの関係全体が曇り、低められた。また主の教えを守ることや主の声を聞いて、これに従い、主の愛と友情を受けることが弱められてしまったのである。何という恐ろしい過ちであろうか。今こそ正しい立場に返り、みことばを文字どおり正しく解釈し、「 あなたがたはわたしが命じることに従うならば、あなたがたはわたしの友である」とのみことばを、そのまま私たちの生涯の法則としようではないか。疑いもなく主は、私たちが心から誠実に、「そうです、主よ。あなたの命じることを私は何でもいたします」と言うのを求めておられるのだ。

これらの命令は、友情の証拠として直ちに実行されねばならない。実行する力はすべて主との個人的関係によって与えられるのだ。私たちは友人には他の人にはしないことでもしてあげることができる。主の友情は天的であって、かつすばらしく、神の愛の力として私たちの心に入り、心を支配する。また主との破れることのない交わりは、この友情に欠くことのできない要素であり、服従を楽しみに変える喜びと愛とを与える。主の友情を求める自由、それを享有する力、そのすべての喜びを経験する恵みは、すべて主の命令に従うことによって生じるのである。

主が私たちの友であることを証明する深い愛の中に、ご自身を現わされることを願い、主が「あなたがたはわたしの友である」と私たちに言われるのに耳を傾けることは、私たちがなすべきただ一つのことではないだろうか。私たちの友である主が、私たちを友と呼ばれる大きな喜びを知るとき、主のご命令は、主の愛にある私たちの人生の自然の実りとなるであろう。「主よ。私たちはあなたの友です。そして、あなたが私たちにお命じになることは何でもいたします」と、何ものも恐れず、大胆に申し上げようではないか。

祈り
「『主の命じられることを行なうことによって』、私たちは祝福され、私たちは主の愛にとどまり、私たちは主の友情を楽しむことができます。主よ、あなたの聖なる友情によって、あなたのすべてのご命令を愛することができるようにお導きください。あなたのご命令を行なうことによって、あなたの友情が常に深まっていくようにお導きください。アーメン」。

(『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー著安部赳夫訳122〜126頁より引用。彼の写真は同書裏表紙からお借りした。昨日の礼拝後の福音集会ではエペソ4・3〜4を引用聖句にして「主のみからだの一部となる」という題名でメッセージをお聞きした。語られる方の真情が迫って来て、みことばの真髄を味わわされた。そこにも「キリストの友情」が体現されていたが、それは悪魔の働きかけに抗することにまで及んでいた。話者はこのようにしてキリストに対する友情をみことばをとおして率先してあらわしてくださった。ネヘミヤ4・20。)

2012年2月12日日曜日

キリストの友情ーその起源

「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ15:13)

 ヨハネ15:13〜15の三つの節で、主は主と弟子との関係を友情という新しい面から語られる。まず主のがわでは、友情の起源である愛について(13節)、次に私たちのがわでは、友情を維持するために必要な服従について(14節)、そして終わりに、友情に導いていく聖なる親しい交わりについて(15節)述べられている。

 私たちとキリストとの関係は愛である。前章までにキリストは愛が天の栄光の中でどのようなものであったかを私たちに示されたが、ここでは主が私たちのためにいのちを捨てられたことによって、その愛を地上で現わされたということを私たちに示しておられる。キリストが私たちのためにされるすべての事の根源と力とが愛であるというこの奥義を、キリストは私たちに知らせたいと切に望んでおられる。私たちはこのことを学び、信じるようになると、私たちはただ知るだけでなく、神のいのちを生きる力として、私たちの中に取り入れなければならないと感じるようになる。キリストとキリストの愛とを切り離すことはできない。両者は同一のものである。

 神は愛であり、キリストは愛である。神とキリストと愛とは、実際にそのいのちと力が私たちの中で働くことによってのみ、私たちはこれを知ることができる。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」(ヨハネ17:3)と言われたのはそのためである。もし私たちが愛について知りたいと思うなら、私たちはそのいのちの川の水を飲み、聖霊によってその水が私たちの心の中に注ぎ込まれるようにしなければならない。

 いのちは最も尊いものである。いのちは人の存在のすべてである。いのちは人そのものである。いのちをその友のために捨てるのはまさに愛の限界で、後に残るものは何もないのだ。主がぶどうの木の奥義について明らかにしたいと願われるのはこの点であって、キリストはその持っているすべてのものと共に、ご自身を私たちの自由にするためにゆだねられたのである。ゆえにキリストのすべては私たちのものであり、私たちのすべてもキリストものであることを望まれるのである。

 キリストは死によってそのいのちを私たちにお与えになったが、それは死によって完成された過去の行為ではなくて、キリストを将来にわたり永遠に私たちのものとする行為であったのだ。それは私たちのいのちを主のものとするため、主のいのちを私たちのものとするためであった。理論や想像としてではなくて、それによって私たちは心の奥深く、天のぶどうの木の枝として、私たちの生涯がどのようにあるべきかを知り始めるのである。これがキリストが私たちをお招きになる、あの聖なる友情の始まりであり、その根源である。

 「確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です」(1テモテ3:16)。私たちは無知と不信仰とをまず告白しようではないか。私たちはひとりよがりの理解や努力によって、この奥義を知り尽くそうとすることをやめるべきである。聖霊が私たちの内に住んで、この奥義を現わすのを切に待ち望もうではないか。そして主の限りない愛を心から信じるべきである。

祈り
「『その友のためにいのちを捨てる』、そのいのちを枝のために与えるぶどうの木の教えは何とすばらしい教えでしょうか。そして主はご自身のいのちを友のためにお与えになりました。その愛を友のために、友の心の中にお与えになったのです。私の天のぶどうの木であられる主よ、あなたが私の内に住まわれることを、あなたがどのように強く望んでおられるかを、どうぞ私にお教えになってください。アーメン」。

(『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー著安部赳夫訳118〜121頁より)

2010年12月19日日曜日

わたしがあなたがたを愛したように 

枯葉敷き 山茶花の笑み 寒空へ  
「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)。

主はここで、兄弟に対する私たちの愛のルールについて語られている。兄弟に対する私たちの関係は、主の私たちに対する関係と同じである。主のことば、主の行ないのすべては、そのまま私たちの法則である。一度ならず言ったように、ぶどうの木と枝とは全く同じ性質のものである。

しかし、「主が父の戒めを守り、私たちを愛されたように、私たちも主の戒めを守り、兄弟を愛すること」を、もし私たちの力だけで実行しようとしたり、ぶどうの木と枝との真理を十分に理解することなしに実行しようとしたりするならば、それはまちがいなく失敗するであろう。しかしもし私たちが「わたしがあなたがたを愛したように」というみことばが、譬ばなしの中の最大の教訓であり、ぶどうの木が枝に絶えず話しかけることばであることを理解するならば、それはもはや私たちがやり遂げることができるかどうかの問題ではなく、キリストが私たちの中でみわざをなすことができるかどうかの問題であることがわかるはずである。

これらの高く聖なる戒め、つまり「わたしが従ったように従い、わたしが愛したように愛せよ」との主のことばは、私たちの無力であることを自覚させ、また、それをとおして、ぶどうの木の中で、私たちに与えられるものがいかに大切で、豊かで、また麗しいものであるかを初めて自覚させるのである。

ぶどうの木が枝にひと時も絶えることなく、「わたしのしたように、いいですか、わたしのしたようにしなさい。わたしのいのちはあなたがたのいのちです。あなたがたはわたしの満ち満ちた分け前を持っています。聖霊はあなたがたの中にあり、『あなたから来る実は、わたしの中にある実と同じものです』と言います。だから恐れることなく、あなたがたはわたしのように生きることができるという天の保証を、あなたの信仰によってつかみ取りなさい」と語りかける声が、今確かに聞こえて来るではないか。

しかし、もしこれがほんとうに譬ばなしの意味するところであるならば、もしこれがほんとうに枝が生きるいのちであるならば、どうしてごくわずかな人々しかこれを実現することができないのであろうか。それは私たちがぶどうの木の天の奥義を知らないからである。私たちは譬ばなしとその麗しい教えをよく知っているはずである。にもかかわらずキリストが全能で、しかも私たちに身近な存在であることを示す奥義をよく知っていないということだ。それは聖霊が私たちに啓示するのを私たちが待ち望まなかったからである。

もし私たちがこの奥義を学びたいと思ったら、どのようにすればよいのであろうか。私たちは今までぶどうの木であるキリストの、人を生き返らせて別人のようにする力を全く知らなかったのであるから、私たちはこれから完全に新しい人生に入らなければならないという告白から始めようではないか。自我から生じるすべてのものからきよめられ、この世にあるすべてのものから聖別され、キリストが父の栄光のたまに生きられたように、私たちもただそれにのみ生きることから始めようではないか。そして次には、「わたしがしたように」というみことばを、キリストがいつでも実現され、ぶどうの木を心から信頼している枝のいのちを守り続けてくださるに違いないという信仰をもって、この奥義を学び始めたいものである。

祈り
「『わたしがしたように』というみことばをあなたはお教えになりました。聖なる主よ。ぶどうの木とその枝として、あなたと私とは同じいのち、同じ心、同じ服従、同じ喜び、同じ愛を持っています。主イエスよ。あなたが私のぶどうの木であり、私が枝であるという信仰によって、私はあなたのご命令を約束として受け入れます。そして『わたしと同じように』というみことばを、あなたが私の中で行なわれるみわざの理解しやすい啓示と考えます。そうです、主よ。あなたが愛されたように私は愛します。アーメン」。

(『まことのぶどうの木』安部赳夫訳113~117頁より引用)

2010年11月28日日曜日

互いに愛し合いなさい 

(信越線横川駅碓氷峠付近  2010.11.26 )
「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)

神は愛である。神の全人格は愛である。神はご自身のために生きるのではなく、いのちと祝福を分け与えるために生きておられる。神は愛によってみ子を生み、み子にすべてを分け与えられた。神は愛によって人を造り、人を神の祝福の分担者とせられたのである。

キリストは神の愛のみ子であって、その愛を保ち、現わし、人に伝えられる。キリストの生も死もすべて愛であった。愛はキリストのいのちであり、またキリストが与えられるいのちそのものである。キリストは愛するためにのみ生き、キリストを信じるすべての人の中に、ご自身を与えるためにのみ生きられたのだ。「まことのぶどうの木」という考え方は、まず第一に、キリストのいのちを枝に与えるためにのみ生きる愛を意味している。

聖霊は愛の御霊である。聖霊はキリストの愛を分け与えることなしに、キリストのいのちを分け与えることはできない。救いとは、愛が私たちに打ち勝ち、私たちの中に入って来ることである。私たちは自分たちが持っている愛と全く同じ量の救いを受けることができる。完全な救いは完全な愛である。

キリストが唯一の、しかもすべてを含む新しい戒めとして、「互いに愛し合う」ことを教えられたのはけっして不思議ではない。クリスチャンが互いに愛し合わないとすれば、こんな不自然なことはない。クリスチャンが天のぶどうの木から受けたいのは、愛以外の何ものでもない。ほかの何よりもキリストが望まれるのは愛である。「それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう(ヨハネ13:35)。・・・互いに愛し合いなさい」と主イエスは言っておられるのだ。

私たちがこの戒めに従っているかどうかをまず考えてみようではないか。私たちが主の愛の中にとどまる方法として、まず私たちの兄弟を愛することだ。私たちの服従の誓いをここから始めなければならない。私たち自身の家族の中での信仰の交わりを、聖なるもの、優しいもの、キリストのような愛としようではないか。私たちの周囲のクリスチャンのことは、何はさておいてもキリストの愛の精神をもって考えようではないか。私たちの生涯と行動とを愛の犠牲としようではないか。私たちの周囲の人たちの罪のために執り成しをしようではないか。周囲の人たちが何を必要としているかをよく考えて、その執り成しをしようではないか。私たちの中に住むキリストのいのちは愛であるがゆえに、私たちのいのちもすべて愛なるものとしようではないか。

しかし「あなたはこのようなことはみな当たり前のことで、さも簡単にたやすいことのように言いますが、あなたが言われるように生き、愛することはいったいほんとうにできるのでしょうか」と、読者のだれかが言うかも知れない。この質問に対して私は、「キリストがそれを命令されています。あなたは従わねばなりません。キリストはあなたが従わなければ、キリストの愛の中にとどまることはできないと言われているのです」と答えざるを得ない。「しかし私はそれをやってみましたがだめでした。私はキリストのように生きる望みはありません」と、もしあなたが言うとすれば、それはあなたがこの譬ばなしの最初のことばをよく理解していないということだ。どうか過去の失敗とか、今の弱さを反省して、ただひたすらにぶどうの木に向かって進んで行こうではないか。キリストはことごとく愛である。キリストが自らが愛されたように私たちにも愛することを教えてくださるのである。

祈り
「『互いに愛し合いなさい』とあなたは言われます。愛する主イエスよ。あなたはことごとく愛です。あなたが私にお与えになるいのちは愛です。あなたの新しい戒めは互いに愛し合うことであり、またあなたの弟子であることのしるしは互いに愛し合うことです。私はあなたのご命令を受け入れます。あなたが愛する愛をもって、そして私があなたを愛する愛をもって、私は私の兄弟姉妹を愛します。アーメン。」

(『まことのぶどうの木』安部赳夫訳108~112頁より引用)

2010年10月24日日曜日

喜び 

(リーガルベコニア エジンバラにて)
「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。」(ヨハネ15:11)

もしだれかが、幸福なクリスチャンになる方法はと尋ねたら、主は簡明にこう答えられるであろう。「わたしがぶどうの木と枝について、これまで話して来たのは、わたしの喜びがあなたがたの中にあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。わたしにとどまり、わたしをしてあなたがたにとどまらせることです。それによってあなたがたはわたしの喜びを持つことができます」。すべて健全な生活は喜びに満たされていて美しいものである。枝としてりっぱに生きたいものだ。それによって私たちはキリストの喜びをいっぱいに受けることができるに違いない。

多くのクリスチャンは、キリストに全面的にとどまる生涯は、緊張と苦痛の多い努力の生涯であると考えている。私たちの中にあるキリストのいのちに絶えず服従するならば、そのような緊張と努力をする必要がなくなるということがわからないでいる。このような人には、「わたしはわたしへの完全な服従のほかには枝から何も求めません。わたしは枝のあるべき姿を守り続けることを約束します」という、このたとえ話の最初のことばさえわかっていないのだ。神の愛の中におられるみ子に、絶えず私たちのいのちを支えていただくことを知るのは、絶えざる喜びでなくて何であろうか。

私たちはキリストご自身の喜びを、私たちの喜びとしなければならない。ところでキリストの喜びとは何であろうか。キリストの喜びはただ愛する喜びだけである。愛する喜び以上の喜びはない。それは父の愛を受け、それにとどまる喜びであり、次にこの愛を罪人である私たちの上に注ぐところの喜びである。キリストが私たちと分け合うことを望んでおられるのはこの喜びにほかならない。この喜びはまた私たちが周囲の人々を愛し、その人々のために生きる喜びとなるのである。これはまさにまことの枝になる喜びである。これはつまり、ほかの人のために実を結ぶ目的でキリストの愛の中に私たち自身をゆだねてしまうことである。キリストのいのちを受け入れよ。なぜならキリストの喜びは私たちの喜びであり、キリストのように愛する喜びであり、キリストの愛によって愛する喜びであるからだ。

神だけがすべての喜びの源であることが忘れられがちなのは何と悲しいことではないか。ほんとうに幸福になるただ一つの道は、「わたしの大きな喜びである神」(詩篇43:4)のみこころといつくしみをできるだけ多く自分のものとすることである。

信仰とは、日々の生活の、ことばで言い表すことのできない喜びを意味しているのである。しかし多くの人々がそういう喜びを得ることができないでいると嘆くのはどうしたことであろうか。それはキリストの愛の中にとどまるような喜びがほかにないことを信じないからである。どうかキリストの声がひとりひとりの、特に若いクリスチャンの心を動かし、キリストの喜びがただ一つのまことの喜びであり、その喜びの中に住むただ一つの確かな方法は、キリストの中に枝としてとどまることであると、はっきり信じさせることができますように。私たちが喜びに満たされないのは、私たちが天のぶどうの木をまだ正しく理解しない証拠である。もっと深い喜びを得たいという願いは、私たちにもっと素直に、もっと十分にキリストの愛の中にとどまるようにとしきりに語りかけている。

(ドイツ平原に広がるぶどう畑、バスの中から)
祈り

「『わたしの喜びとあなたの喜び』。ぶどうの木として、また枝として、あなたの喜びは私の中にあり、私の喜びはあなたの中にあります。枝の中にはぶどうの木のすべての喜びがあり、それによって私たちの喜びは満たされます。聖なる主よ。あなたの喜びで私を満たしてください。愛される喜び、愛によって祝福される喜び、愛する喜び、ほかの人々を祝福する喜びで私を満たしてください。アーメン」。

(『まことのぶどうの木』安部赳夫訳103~107頁より引用。一箇所訳を変えたところがある。)

2010年9月28日火曜日

あなたがたはわたしと同じように 


「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである」(ヨハネ15:10)

 ぶどうの木と枝の性質が非常によく似ており、したがって、目的もよく似ていることは前にも一度ならず述べたところである。しかしここでキリストは、もはや譬で語ることをやめ、キリストご自身の生涯が私たちの生涯の的確な模範であることを明快に語られるのである。キリストはただ服従によってのみ私たちがその愛にとどまることができると言われた。キリストのいのちと力と喜びは父の愛の中にあり、ただ服従によってのみ、その中にとどまられたのである。私たちのいのちと力と喜びは常にキリストの愛の中にあり、キリストと同じようにただ服従によってのみ、その中にとどまることができるのである。ぶどうの木であるキリストは服従によって農夫である父に栄光をささげられた。同じように枝であるクリスチャンは、ぶどうの木であるキリストに栄光をささげるべきである。

 戒めを守り愛にとどまることが、キリストの生涯の法則であったのと同じように、私たちの生涯の法則でもある。私たちがあらゆる点でキリストに似るように、神はキリストを私たちと同じ人としてこの世にお遣わしになった。キリストが歩まれたのと同じ道を私たちも歩むために、キリストは道をお開きになったのである。キリストは私たちの人間性について説き、私たちに人間の第一の義務である服従が、神の恩恵にとどまり、神の栄光に入るただ一つの道であることをお教えになった。そして今、キリストが父の戒めを守り、その愛にとどまられたように、私たちにもキリストの戒めを守るように教導され、私たちを力づけられるのだ。

 服従と内住の関係、神の戒めと神の愛との関係は、天の調和であることはだれにでもすぐにわかる。神のみこころこそ神の完全性の中心である。神に似て人が成長するように道が開かれていることが、神の戒めの中に明らかにされている。神のみこころを受け入れ、実行することによって私たちは神と交わりに入れられるのである。み子がこの世に来られた時、「見よ、わたしは御旨を行なうためにまいりました」(ヘブル10:9)と言われたのはそのためである。これが人の地位であったし、また祝福でもあったはずである。しかし人はアダムとエバの堕落によってこの地位と祝福を失い、キリストがこれを回復するために来られたのである。ぶどうの木としてキリストが私たちにこれを分け与え、キリストが父の戒めを守り、その愛にとどまられたように、私たちはキリストの戒めを守り、その愛にとどまるようにと求めておられるのだ。

 枝はぶどうの木と全く同じいのちを持たない限り実を結ぶことはできない。私たちのいのちはキリストのいのちそのものである。これはキリストご自身がそのいのちを分け与えられるからである。「あなたがたがわたしと同じように」とぶどうの木が言うのは、同一の律法(おきて)に従い、同一の実を結ぶことを指しているのである。父なる神にとどまる秘訣としての主の服従の教えを、私たちは主から学び取りたいものだ。この単純ではあるが、絶対的な服従があまりにも小さい地位しか占めていなかったことを、私たちは率直に告白しようではないか。私たちがまだキリストに服従しなかった時、キリストは敵である私たちのために十字架の死を遂げられたのである。キリストは私たちをその愛の中に取り上げ、私たちは今キリストの中にいるのである。私たちが喜びと愛とをもって服従するならば、キリストは私たちをその愛の中にとどまらせてくださるのである。

祈り
「『服従によって愛にとどまりなさい』とあなたは言われます。み恵みに満たされた私のぶどうの木である主よ。あなたは枝にあなたのいのちを分け与え、また枝にあなたの姿を分け与えられます。このために私はあなたに似ることができます。あなたが服従をとおして父の愛の中に、あなたのいのちをとどめられたように、私のいのちをあなたの中にとどめてください。救い主よ。服従があなたと私の間をほんとうに固く結ぶことができるように、私をお助けください。アーメン」。

(文章はすべて『まことのぶどうの木』安部赳夫訳より引用。写真はちょうど一月前、8月末に滋賀県の湖北余呉湖を北陸線車窓から撮影したもの。あの暑苦しい夏が、うそのような今日この頃である。夏ボケに終始したブログもそろそろ再開にこぎつけられそう。でもまだまだエンジンは回転しそうにない・・・)

2010年7月25日日曜日

戒めを守り、愛のうちにいなさい 


「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである」(ヨハネの福音書15:10)

 キリストの愛を深く洞察し、愛とはキリストが人の魂を守られることであると固く信じることによって、平安で、しかも力強い生活に入った人のあることを前に述べた。このような生活の変化と、これを受け入れる信仰に関連して、しばしば聖別ということばが用いられる。完全な服従の生活に入らない限り、このすばらしい愛を受け続けることはできないことを魂は知っている。同時に、キリストが私たちを罪から遠ざけることを信じる信仰が、私たちを服従させる力を持っていることを、立証しなければならないことを魂は知っている。そのことによって、今までの信仰の妨げをしていたものを全く捨て去り、神のみこころにかなう生涯に入ることが約束されるのである。

 今ここで救い主は、そのみ教えの中で、主の愛につながる人生の条件として、主の戒めを守ることを求めておられる。この条件は、今開かれたばかりのキリストの愛につながる住み家の門を閉じるものではけっしてない。また、ある人々が喜んで受け入れようとしているこの条件が、手の届かないような遠い所にあるというものでもない。その条件とは、「わたしの愛のうちにいなさい」という約束そのものである。開かれた門への道しるべは、私たちが到達できないような単なる理想ではないのだ。祝福された住み家へ私たちを招待するために差し伸べられた愛の手は、私たちに戒めを守ることを可能にさせる。だから主のみ力により、父のみもとに昇られた主のみ力により、主に従い、戒めを守ることを恐れなく誓おうではないか。私たちにはキリストのみこころをとおして、キリストの愛への道が貫通しているのだ。

 ただキリストのみこころとは何を意味するかをよく理解することが大切である。それは神のみこころであると私たちが考えていることの一切を、私たちが実行することを指している。しかし私たちによくわからないことも多くあるはず。無知による罪も罪の一種である。肉から生じる抑制することのできない罪もあるだろう。これらの罪については神は時が来るならば必ず処理されるに違いない。そしてもし素直で信仰が深くあるならば、私たちが期待する以上の大きな罪の赦しを与えてくださるのだ。しかしそれは真に従順な心に対してだけである。従順とは、主の戒めを積極的に守り、すべてのことにおいて主のみこころを実行することである。ぶどうの木であるキリストを信じることは、キリストの何事をも可能にし、聖化する力によって、私たちをこの信仰上の服従に導き、私たちのキリストの愛につながる生涯を保証するものである。

 「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである」というみことばは、天のぶどうの木であるキリストが説き明かし、また与えるところの人生の奥義である。キリストはその愛の中に完全にとどまる秘訣をお教えになる。キリストのみこころを行なうために、何事についてもキリストに心から従う者に対して、キリストの愛につながる人生に近づくことが許されるのである。

祈り

「『いましめを守り、愛のうちにいなさい』とあなたは言われました。あわれみ深い主よ。ただあなたのみこころを知ることをとおしてのみ、あなたの愛を知ることができ、またあなたのみこころを行なうことをとおしてのみ、あなたの愛にとどまることができるというこの戒めを私にお教えください。主よ。もし私があなたの愛にとどまりたいと願うならば、私が自分だけの力を頼むことがどんなにむなしいことであり、あなたのみ力を信じることがどんなに大切で、また絶対に欠かすことのできないことであるかを私にお教えください。アーメン」。

(『まことのぶどうの木』安部赳夫訳94~97頁より引用)

2010年5月30日日曜日

わたしの愛のうちにいなさい 


「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい」(ヨハネ15・9)

 私たちの心の家はキリストの愛でなければならない。私たちはキリストの愛の中で一日一日を送らなければならない。私たちの生涯はかくあるべきであり、またそうすることができるとキリストは仰せられている。キリストの愛を家とすることは、絶えずぶどうの木につながっていることである。

 私たちはいつも、より高い、より深い、より豊かな、より充実した生涯ということばを耳にしている。またいつも失敗したり、つまずいてばかりいた人が全く一変して、神に支えられ、力づけられ、喜びにあふれた生活をするようになったというすばらしい証を聞いたこともある。もし私たちがその大きな恵みを受けるようになったわけを尋ねたら、きっと、ただキリストの愛の中につながっただけだという答えが返って来るに違いない。

 神のキリストに対する愛は、感情ではなくて、神のいのちであり、限りないエネルギーであり、とうてい抵抗することのできない力である。この神の愛がキリストが降誕してから十字架につけられて墓に入るまでの生涯を導いたのである。父は子であるキリストを愛し、キリストの中に住み、キリストのためにすべてのことをなさったのである。

 同じように、私たちに対するキリストの愛もまた、キリストが私たちに与えることに喜びを感じられるすべてのものを私たちの中に造り出す限りない生命力である。私たちのクリスチャンの弱点は、キリストの愛が私たちの中でみわざを行っていることを信じようと努力しないところにある。それは私たちが、ぶどうの木が枝をしっかりと支えているのを見ようとしないからである。私たちはキリストだけがなすべきこと、キリストが私たちのために心から喜んでなさることを、私たち自身でしようというむだな努力をするからである。

 さて、キリストの愛を信じることが、前に述べたキリストの愛につながったことにより生じる一大変化の証拠であり、この限りない愛を私たちの内なる魂が知る時に新しい生涯が始まる。「わたしの愛のうちにいなさい」というみことばによって、一瞬一瞬生きていくことができると信じ、すべての困難はキリストが克服されることを信じ、愛は私たちにすべてを与え、けっして私たちを捨てないことを信じ、この信仰によって、私たちはすべてをキリストにゆだね、愛のみわざが私たちの中で行われるようにすることが、ほんとうのクリスチャンの生涯の秘訣である。

 それでは、この信仰に達する方法とは何であろうか。もし私たちが目に見えないものを見つけて、これを手に入れるように願うならば、目に見えるものからまず目を離すべきである。そして、父の愛の中に住み、私たちにもその愛の中に住むことを望んでおられる主をいつも注視し、主といっしょにもっと多くの時間を過ごすべきである。もし私たちの心が主の愛の確かさによって満たされたいと思うならば、私たち自身を、私たちの信念や努力を思い切って捨ててしまうことだ。

 主の中に住むこと以外はすべて捨ててしまって、私たちの心を主とその愛との上に置くべきである。そうすれば主の愛は私たちの信仰を呼び覚まし、強めるであろう。私たちがまず自分自身をキリストの愛で満たし、愛をあがめ、愛の来るのを待ち望もうではないか。そうするならば、愛は私たちのところに来て、その力によって私たちを愛の中に取り入れ、愛を私たちの住まいとすることを、私たちは固く信じることができるようになるのだ。

祈り

「主イエス様。『わたしの愛のうちにいなさい』と言われたあなたのみことばの意味がわかりました。あなたが父の愛の中におられたことが、あなたをぶどうの木としました。そして、そのぶどうの木は私たちのための愛と祝福とで満ち満ちています。私もぶどうの木の枝として、あなたの愛の中につながり、あなたの愛が私を満たし、私の周り一面にあふれ出ますように。 アーメン」。

(『まことのぶどうの木』安部赳夫訳90~93頁引用)

2010年4月18日日曜日

すばらしい愛 


「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい」(新約聖書 ヨハネ15・9)

 ここで主ははじめて譬ばなしを離れて、父なる神について率直に語られている。譬では愛については何も教えることができない。自然のぶどうの木と枝との関係は、すべて自然の法則の束縛のもとにあって、そこには生きた愛はないのである。私たちはキリストを神によって任命された、私たちの必要なものの供給者に過ぎないと考える危険性が多分にある。このような考え方では、キリストご自身の強い愛が私たちを抱擁し、私たちのいのちはこの愛によってだけ真の幸福を見つけ出すことができるという大切な事実が忘れられてしまうのである。

 キリストはこの事実を私たちに教えるために、もう一度キリストの生涯と私たちの人生とが全く同一のものであることをお示しになった。父がキリストを愛されたように、キリストは私たちを愛されるのである。父を信頼しきったキリストの生涯は、父の愛の中にある生涯であったのである。その愛がキリストの力となり喜びとなった。キリストの中にとどまっているこの父の愛の力によって、キリストは生き、そして死なれたのである。私たちがキリストのような生涯を送るためには、私たちもこの愛を分け与えていただかねばならない。私たちはキリストと同じように、神の愛の中で生きていかねばならないのである。もし神の愛がキリストをまことのぶどうの木としたなら、キリストの愛は私たちをまことの枝とすることができるはずである。

 さて、父はキリストをどのように愛されたのだろうか。神が持っておられるすべてのものをみ子に伝え、み子をご自身と完全に等しいものにし、神はみ子の中に住み、み子は神の中に住むという神の限りない願いと喜び―これが神のキリストに対する愛であった。この愛は栄光の奥義であって、私たちはそれがどのようなものであるか、とても考え及ぶことができるものではない。そのような愛、それと全く同じ愛をもって、キリストは私たちをご自身の性質と祝福の分担者として、私たちの中に住み、ご自身の中に私たちを住まわせることを、限りない喜びをもって望んでおられるのだ。

 もしキリストがこのように強い、このように限りない天の愛をもって私たちを愛されるならば、愛はすべての障害に打ち勝ち、私たちを愛の手の中に収めるはずなのに、実際はこれを妨げるものがあるというのはどういう訳であろうか。その答は簡単である。父のキリストに対する愛と同じように、キリストの私たちに対する愛は神の奥義で、私たちの努力で理解するにはあまりにも高大に過ぎるからである。キリストの中にあるこのすばらしい愛の力を啓示することができるのはただ聖霊だけである。枝に実を結ばせるのはぶどうの木であるように、聖霊によって私たちの心の中に住むのはキリストご自身でなければならない。このようにして私たちは愛を知り、愛は私たちの中に住むのである。この愛こそ、愛がどんなものであるかを私たちに伝えるのである。

 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである」※。 私たちは生きておられるキリストに近づき、キリストを信じ、キリストに従い、キリストの愛が私たちの中にとどまるようにしようではないか。父がキリストを愛されたことを、キリストがそれを知りつついつも喜んでおられたように、父がキリストを愛されたように、キリストが私たちを愛されることを、私たちも絶えず意識しつつ生きていこうではないか。

 祈り

『父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである』とあなたは言われました。親しき主よ。私はぶどうの木のいのちと、枝のいのちが全く同じものであることがようやくわかり始めました。あなたはぶどうの木、父があなたを愛され、あなたをとおして父の愛を注がれるからです。だからこそあなたは私を愛してくださるのですし、また枝としての私のいのちは、あなたのいのちと同じように、天の愛を受けたものです。そして私はその愛をほかの人にも分け与えます。アーメン」。

(文章は『まことのぶどうの木』マーレー著安部赳夫訳85~89頁より引用。※安部さんの翻訳では「父が私たちを愛されたように・・・」となっていた、原文を見られないので確かめようがないが、前後関係から見て、ここは「父はわたしを愛されたように・・・」ではないかと勝手に判断して文中のものに変えた。写真は昨日土曜の朝、浅間山麓の長野県御代田町で浅間サンライン道路を眼下に、遠く八ヶ岳を遠望したもの。4月にしては珍しい雪に東日本など各地が見舞われた。信州地方は当然のごとく雪に見舞われた。しかし、一日にして20センチ弱降り積もったかに見えた雪もさすがに陽春だ。たちまちにして溶け失せたようだった。)

2010年3月21日日曜日

まことの弟子たち 


「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」(ヨハネ15・8)

 多くの実を結ばない者はキリストの弟子になれないのだろうか。おそらくそういうことはないとは思うが、そのような人はまだ未熟な段階にあるということだ。多くの実を結ぶ人については、キリストは、「わたしの弟子であり、まことの弟子である」と言っておられる。私たちが男らしい男を見て、「あれがほんとうの男だ」と言うように、主は主のみこころにかなった、弟子の名にふさわしい人を、「多くの実を結ぶ者」と呼んでおられるのである。福音書の中の「弟子」ということばには二つの意味があることがわかる。ある時はキリストの教えを受け入れたすべての人を指している。ある時はキリストに全面的に従い、キリストの訓練を受けたより親しい仲間だけを指している。その相違はどんな時代にもあったということだ。心を全くささげ尽くして神に仕えようとした比較的少数の神の人がいつもいたと同時に、大多数の人々は神の恵みとみこころについて、ごくわずかな知識を得るだけで満足して来たのである。

 この少数のより親しい仲間と、この仲間に加わろうとしない多数の人々との間にどのような相違があるのだろうか。私たちはその違いを「多くの実」ということばの中に見いだすのである。多くのクリスチャンにとって、最初の新生の時には個人的な安全を願うことは正当なことではあったのだが、最後までそれが信仰のただ一つの目的になってしまうことがある。そこには奉仕の観念、つまり「実」は、いつも第二義的な、そしてごく従属的なものであるという考えがあり、多くの実を結びたいという正しい欲求は全然関心の的となっていない。主のためにのみ生きよとの叫び声を聞いた魂は、これではけっして満足できるわけがない。

 「多くの実を結び、わたしの弟子となる」というみことばを最も厳粛に考えてみることを、私は本書の読者の一人一人にお願いしたい。「多くの実を結ぶ」というみことばを、私たちがそうならなければならぬ、そうなることができるという、私たちへの天のぶどうの木の啓示として受け取ろうではないか。そして自分の力だけでこれを試みることが、全く不可能であり、愚かなことであることを十分に悟ることだ。このみことばにより、新しい目でぶどうの木を見て、私たちは天のぶどうの木に満ち満ちた豊かな人生を生き抜く決心をしようではないか。私たちはもう一度、「私はまことのぶどうの木です。私は父の栄光のために多くの実を結ぶことができます」という信仰と告白とをしようではないか。

 私たちは他人をとやかく言うことはない。しかし私たちは至るところに神のみことばの二種類の弟子を見ることができる。私たちがどちらの種類に属すべきかについては今さら言うべきことはない。神にすべてをささげる生活を神がどのように希望しておられるか、私たちが聖霊に満たされることを神がどのように希望しておられるかを、私たちにお示しくださるように神にお願いしようではないか。私たちの望みは、全ききよめ、切れることのない主とのつながり、最も密接な霊の交わり、豊かな実り、つまりまことのぶどうの木のまことの枝となること以外であってはならないのだ。

 世界は滅びに向かいつつある。教会は力を失ってはいないか。キリストの道はより困難であるように見える。キリストは心のすべてをささげ切った、多くの実を結ぶクリスチャンが少ないことを嘆き悲しんでおられる。私たちはそれがどのような意味を持ち、またどのようにして起ったか知ることは難しいことではあるが、ただ私たちはキリストに向かって多くの実を結ぶキリストの枝であることを告げようではないか。私たちは今すぐにでもキリストのみことばが意味するとおりの弟子となろうとしていることを告げようではないか。

 祈り
「『わたしの弟子』とあなたはお呼びになります。聖なる主よ。私が多くの実を結ぶことは、まことのぶどうの木であるあなたが、まことの枝であり、いつもあなたのみこころに従う弟子を持っておられる証拠です。私が多くの実を結べば、あなたがそれを数えてお喜びになることを、幼子のような無心な思いで私が感じ取ることができるようにしてください。アーメン」。

(文章は『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー著安部赳夫訳80~84頁より引用。「道端に 咲き満ちる群れ 水仙の 黄色鮮やか 主の御旨よ」「道端に 十二弟子の 水仙か」 )

2010年3月4日木曜日

父は栄光を受ける 


 旧ブログ「泉あるところ」(http://livingwaterinchrist.cocolog-nifty.com/blog/)の10月4日以来中断していたアンドリュー・マーレーの「まことのぶどうの木」の再開である。通算17回目になる。あと16回ほど続く。

「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」(ヨハネ15・8)

 私たちはどのようにすれば神の栄光を輝かすことができるであろうか。それは神の栄光を増そうとするのでもなく、栄光を新しく加えようというのでもない。ただ神の栄光が、私たちの中に、そして私たちをとおして世に現れることによって、光り輝くようにすればよいのである。多くの実を結んだぶどう畑の農夫は多くの称賛を受ける。というのは、それは農夫の技術と手入れのよいことを物語っているからである。それと同じように、弟子が豊かな実を結べば、父なる神はあがめられる。人と天使との前で神の恵みと力との証拠が示されて、神の栄光はその弟子をとおして輝くからである。

 ペテロが、「奉仕する者は、神から賜る力による者にふさわしく奉仕すべきである。それは、すべてのことにおいてイエス・キリストによって、神があがめられるためである」(1ペテロ4・11)と書いているのはこのことを意味するのである。人が神だけから来る力によって働き、奉仕する時、神はすべての栄光を受けられる。私たちがすべての力が神だけから来たことを告白するとき、その働きをする人も、これを見る人も等しく神の栄光を輝かすことができる。なぜなら、それをされたのは神ご自身だからである。人は畑になっている果実を見て、栽培人の腕前を判断するものだ。そのように、人は神の植えられたぶどうの木に実る果実によって神を判断するのである。わずかな実りはぶどうの木にも農夫にもけっして栄光をもたらさない。

 私たちは時々、実りの少ないことを私たち自身や仲間の損失として嘆き、その原因は私たちの弱さによると訴えてきた。しかし実りの少ないことから生じる罪や恥は、むしろ神が私たちから当然受けるべき栄光を、私たちが神から盗み取ったことにあると考えるべきである。神が与えられる力を役立て、神に栄光をもたらす秘訣を学ぼうではないか。「あなたがたは何一つできない」というみことばを全面的に受け入れること、神がすべてをされるという素直な信仰を持つこと、そしてキリストにとどまること(神はキリストをとおしてみわざを行われるからだ)、これが神に栄光をもたらす人生である。

 神は多くの実を求められ、私たちが神に多くの実を差し出すかどうかを見ておられる。神は少しの実では満足なさらないのだ。私たちも少しの実で満足してはならない。キリストの「実」、「もっと多くの実」、「豊かな実り」というみことばを、キリストが考えられるとおりに私たちも考えることができるようになるまで、そしてキリストが私たちのために結ばれた実を、いつでも受け取ることができるようになるまで、私たちの心にとどめようではないか。そうしてこそ父は栄光を受けられるのだ。ご命令の最高まで実を結ぶことが私たちの義務である。それは私たちの能力をはるかに超えたことであるだけに、キリストの上に私たちのすべてを投げ出さねばならない。主は私たちの中にそれを実現させることができるし、また必ず実現されるに違いないのだ。

 神が多くの実を求められるのは、神がその力を示すためではない。実は人の救いのために必要なのである。それによって神は栄光を受けられるのである。私たちのぶどうの木と農夫に多くの祈りをささげようではないか。父なる神に人の糧である果実を私たちにくださるように一生けんめい願い求めようではないか。キリストがあわれみの心を動かされて重荷を負われたように、私たちも飢えている人や死にかかっている人の重荷を負ってあげようではないか。そうすれば、私たちの祈りの力と、私たちがキリストにつながっていることと、父の栄光のために多くの実を結ぶこととは、私たちが今まで考えることもできなかったほどの現実性と確実性とを持つようになるに違いない。

祈り
「『父は栄光をお受けになる』とあなたは言われます。何という恵まれたお見通しでしょうか。神は私の中でご自身の栄光を現わされます。神は私の中で、そして私をとおしてみわざを行われることによって、慈愛と力との栄光を示されます。神が私の中で多くのみわざを行われるように、私にも多くの実を結べと命じられるのは、何という恵まれた尊いみ教えでしょう。父よ、私の中であなたの栄光を現わしてください。アーメン」。

(文章は『まことのぶどうの木』安部赳夫訳の引用である。「稟として 沈丁花の 薫香よ」 「待ち焦がれ 沈丁花の 来る春」)

2009年11月8日日曜日

父は栄光を受ける 


「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」(ヨハネ15・8)

 私たちはどのようにすれば神の栄光を輝かすことができるであろうか。それは神の栄光を増そうとするのでもなく、栄光を新しく加えようというのでもない。ただ神の栄光が、私たちの中に、そして私たちをとおして世に現われることによって、光り輝くようにすればよいのである。多くの実を結んだぶどう畑の農夫は多くの称賛を受ける。というのは、それは農夫の技術と手入れのよいことを物語っているからである。それと同じように、弟子が豊かな実を結べば、父なる神はあがめられる。人と天使との前で神の恵みと力との証拠が示されて、神の栄光はその弟子をとおして輝くからである。

 ペテロが、「奉仕する者は、神から賜る力による者にふさわしく奉仕すべきである。それは、すべてのことにおいてイエス・キリストによって、神があがめられるためである」(1ペテロ4・11)と書いていることはこのことを意味するのである。人が神だけから来る力によって働き、奉仕する時、神はすべての栄光を受けられる。私たちがすべての力が神だけから来たことを告白するとき、その働きをする人も、これを見る人も等しく神の栄光を輝かすことができる。なぜなら、それをされたのは神ご自身だからである。人は畑になっている果実を見て、栽培人の腕前を判断するものだ。そのように、人は神の植えられたぶどうの木に実る果実によって神を判断するのである。わずかな実りはぶどうの木にも農夫にも決して栄光をもたらさない。

 私たちは時々、実りの少ないことを私たち自身や仲間の損失として嘆き、その原因は私たちの弱さによると訴えてきた。しかし実りの少ないことから生じる罪や恥は、むしろ神が私たちから当然受けるべき栄光を、私たちが神から盗み取ったことにあると考えるべきである。神が与えられる力を役立て、神に栄光をもたらす秘訣を学ぼうではないか。「あなたがたは何一つできない」というみことばを全面的に受け入れること、神がすべてをされるという素直な信仰を持つこと、そしてキリストにとどまること(神はキリストをとおしてみわざを行なわれるからだ)、これが神に栄光をもたらす人生である。

 神は多くの実を求められ、私たちが神に多くの実を差し出すかどうかを見ておられる。神は少しの実では満足なさらないのだ。私たちも少しの実で満足してはならない。キリストの「実」、「もっと多くの実」、「豊かな実り」というみことばを、キリストが考えられるとおりに私たちも考えることができるようになるまで、そしてキリストが私たちのために結ばれた実を、いつでも受け取ることができるようになるまで、私たちの心にとどめようではないか。そうしてこそ父は栄光を受けられるのだ。ご命令の最高まで実を結ぶことが私たちの義務である。それは私たちの能力をはるかに超えたことであるだけに、キリストの上に私たちのすべてを投げ出さねばならない。主は私たちの中にそれを実現させることができるし、また必ず実現されるに違いないのだ。

 神が多くの実を求められるのは、神がその力を示すためではない。実は人の救いのために必要なのである。それによって神は栄光を受けられるのである。私たちのぶどうの木と農夫に多くの祈りをささげようではないか。父なる神に人の糧である果実を私たちにくださるように一生けんめい願い求めようではないか。キリストがあわれみの心を動かされて重荷を負われたように、私たちも飢えている人や死にかかっている人の重荷を負ってあげようではないか。そうすれば、私たちの祈りの力と、私たちがキリストにつながっていることと、父の栄光のために多くの実を結ぶこととは、私たちが今まで考えることもできなかったほどの現実性と確実性とを持つようになるに違いない。

祈り
「『父は栄光をお受けになる』とあなた言われます。何という恵まれたお見通してでしょうか。神は私の中でご自身の栄光を現わせれます。神は私の中で、そして私をみわざを行なわれることによって、慈愛と力との栄光を示されます。神が私の中で多くのみわざを行なわれるように、私にも多くの実を結べと命じられるのは、何という恵まれた尊いみ教えでしょう。父よ、私の中であなたの栄光を現わしてください。アーメン」。

(文章は『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー著安部赳夫訳 にひきのさかな社刊行75~79頁より。写真はたわわに実るゆずの実。)