「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ15:13)
ヨハネ15:13〜15の三つの節で、主は主と弟子との関係を友情という新しい面から語られる。まず主のがわでは、友情の起源である愛について(13節)、次に私たちのがわでは、友情を維持するために必要な服従について(14節)、そして終わりに、友情に導いていく聖なる親しい交わりについて(15節)述べられている。
私たちとキリストとの関係は愛である。前章までにキリストは愛が天の栄光の中でどのようなものであったかを私たちに示されたが、ここでは主が私たちのためにいのちを捨てられたことによって、その愛を地上で現わされたということを私たちに示しておられる。キリストが私たちのためにされるすべての事の根源と力とが愛であるというこの奥義を、キリストは私たちに知らせたいと切に望んでおられる。私たちはこのことを学び、信じるようになると、私たちはただ知るだけでなく、神のいのちを生きる力として、私たちの中に取り入れなければならないと感じるようになる。キリストとキリストの愛とを切り離すことはできない。両者は同一のものである。
神は愛であり、キリストは愛である。神とキリストと愛とは、実際にそのいのちと力が私たちの中で働くことによってのみ、私たちはこれを知ることができる。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」(ヨハネ17:3)と言われたのはそのためである。もし私たちが愛について知りたいと思うなら、私たちはそのいのちの川の水を飲み、聖霊によってその水が私たちの心の中に注ぎ込まれるようにしなければならない。
いのちは最も尊いものである。いのちは人の存在のすべてである。いのちは人そのものである。いのちをその友のために捨てるのはまさに愛の限界で、後に残るものは何もないのだ。主がぶどうの木の奥義について明らかにしたいと願われるのはこの点であって、キリストはその持っているすべてのものと共に、ご自身を私たちの自由にするためにゆだねられたのである。ゆえにキリストのすべては私たちのものであり、私たちのすべてもキリストものであることを望まれるのである。
キリストは死によってそのいのちを私たちにお与えになったが、それは死によって完成された過去の行為ではなくて、キリストを将来にわたり永遠に私たちのものとする行為であったのだ。それは私たちのいのちを主のものとするため、主のいのちを私たちのものとするためであった。理論や想像としてではなくて、それによって私たちは心の奥深く、天のぶどうの木の枝として、私たちの生涯がどのようにあるべきかを知り始めるのである。これがキリストが私たちをお招きになる、あの聖なる友情の始まりであり、その根源である。
「確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です」(1テモテ3:16)。私たちは無知と不信仰とをまず告白しようではないか。私たちはひとりよがりの理解や努力によって、この奥義を知り尽くそうとすることをやめるべきである。聖霊が私たちの内に住んで、この奥義を現わすのを切に待ち望もうではないか。そして主の限りない愛を心から信じるべきである。
祈り
「『その友のためにいのちを捨てる』、そのいのちを枝のために与えるぶどうの木の教えは何とすばらしい教えでしょうか。そして主はご自身のいのちを友のためにお与えになりました。その愛を友のために、友の心の中にお与えになったのです。私の天のぶどうの木であられる主よ、あなたが私の内に住まわれることを、あなたがどのように強く望んでおられるかを、どうぞ私にお教えになってください。アーメン」。
(『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー著安部赳夫訳118〜121頁より)
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