2012年2月28日火曜日

勝利ある生活

 当時、私はアジアに出かけるばかりになっている真剣な若い宣教師の新参者だった。二人の他の友達と一緒にウォッチマンと宣教団財政から黙示録にいたるまでのすべてのことについての長時間にわたる貴重な会話を楽しんだ。彼はいかなる時も確立された宣教事業から離れるべきだとか参加するべきでないとかはほのめかしさえしなかった(Never at any time did he so much as hint that I should leave, or not join, an established missionary enterprise.)。彼が外国文化に入る主の仕え人としての私にしてくれた最上の助言は、たとえて言うなら、宣教地の最初の10年間はイギリス人の仮免許者のL字プレートの一つを身につけるということだった。(実は最初使用中のL字プレートを見た時それらは大層彼を喜ばせたのだった)やがてキリスト者にとって彼が示唆した10年間はいつまでも伝えられるべきことだと感じるようになった。
 
 ちょうどそのころはヨーロッパではミュンヘン危機を経験している頃だった。イギリスの外国人賓客としてウオッチマンは私たちがシェルターを掘り進めたり、ガスマスクを分配することに躍起になっている様をよく見ていた。当時はネヴイル・チェンバレンの「宥和政策」に対する感情的な信頼が高潮している時だった。彼は直接には巻き込まれていないので、 彼に言わせると、正しい種類の分離、別の面ではキリスト者がまさしくこの世では異邦人や寄留者のように感ずるようなことを経験していた。
 
  しかし私的なことでは彼には悲しみがあった。ほぼこの頃、香港から子どもの出産が今かと待ち望んでいたチャリティーが流産したという知らせが彼の所に届いた。妻からの手紙が来た時、手紙にはしっかりしたものがあった。けれども彼は妻が地球の反対側にいる自分にどんなに深い打撃を与えているかを感じたに違いないと知った。彼は彼女を励ますためにあらん限りの最善を尽くして手紙を書いた。実際、彼女が旅行しても良い条件が整うや否や、彼の母は彼女を連れて、ハノイを経由して昆明(クンミン)に至り、雲南省の避難している信者を訪問する大旅行を敢行した。チャリティーは実のところ二度と子どもをみごもることがなかった。したがってニー夫妻には子どもがいなかった。
 
 10月にはコペンハーゲンのフジョード・クリステンセン牧師の招待でウオッチマンはヘルシンゲン(『ハムレット』の舞台であるエルシノア)の国際学校での集会のためにデンマークに行った。そこで彼は『キリスト者の標準』と銘打ってローマ人への手紙5章から8章までの一連の10の説教をした。これらはのちに同じテーマで他のものを補足してその名前の本となった。ウオッチマンにとっては『勝利ある生活』は敗北している人によって本当のキリスト者の生き方を求める余りにもよく使い慣れた希望を意味する用語だった。「勝利※」している人々は、彼が論じたように、神の目から見る標準的なキリスト者であり、それ以外は標準以下である。オーデンスに移動するや、ウオッチマンはエペソ人への手紙の「座す、歩む、立つ」の鍵になることばで注目する話をした。彼がデンマーク人の間でかなりたくさんの人が持っているように、大変な霊の解放を発見したことは明白なようである。(It seems clear that he found, as have so many, much release of his spirit while among the Danes.)

(『Against the tide』by Angus Kinnear151〜152頁より。英文を併記したところは特に誤訳の恐れのあるところ。)

なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。(新約聖書 1ヨハネ5:4)

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