2012年2月20日月曜日

依怙地になるな

春近し 雀さえずる 桜の木 烏一羽の 孤塁守りて(今日の古利根川)
イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。(新約聖書 マタイ26:23)

 それぞれにパンをつかんだ二本の手が、両方から伸びて来て、それをスープの鉢に同時に浸しました。それはイエスの手と、イスカリオテ・ユダの手です。この事件は、主の死の前夜の食卓で起こりました。

 ふたつの手が出会います。その瞬間、恐るべきことが起こりました。ユダの中で、長いひとつの歴史が終わったのです。イエスとの交わりを絶ち、主への裏切りを最後的に決定しました。そうしてイエスはこの瞬間、ユダを滅びるにまかせたまいました。

 この点をはっきりさせることは重要です。ユダについて問題とされることは、ひとりの神なき人間ではありません。逆です。ユダはクリスチャンだったのです。何年もの間、彼は、彼はイエスと旅をしました。恵まれた輝いた時を、幾たびも経験しました。どこから見ても、彼はまさしくクリスチャンでした。

 その彼を、イエスは滅びるにまかされました。主はついに彼をあきらめました。痛みに満ちて主は仰せになります。「そういう人は生まれなかったほうがよかった」と。ユダには、長い間、罪と戯れる日々があったのでしょう。そしておそらく、イエスはこのたましいのために心を用いられたことでしょう。なぜなら、我らの主、救い主がそんなに簡単に人を見捨てたもうはずがないからです。しかし、ユダの場合には、ついにそのようになってしまいました。救い主をまじめに受け入れようとしないクリスチャンがいるなら、このことをよく心に留めるべきです。

 ここでひとりの人に起こったことが、エルサレムの人々の間で大規模に起こりました。何年もの間、イエスは叫び続け、彼らを得ようとしてこられました。聞こうと思えば、聞くことはできました。避けることも、抵抗することも、もちろんできました。彼らの心には、多くの戦い、ためらいがありました。が、突然、決断の時が訪れました。そうして、イエスを拒んだのです——「十字架につけよ」と叫んで。

 主よ! あなたのみもとに帰らせてください。 
                    アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳1976年刊行2月20日より引用)

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