2012年2月4日土曜日

『聖戦』読者へより、その2

人霊きよきものを踏みにじり、
豚のごとく汚穢(けがれ)に臥(ふ)しまろび、
武器を手にしてイムマヌエルと
戦ってその魅力を軽んぜる
時にもわれはそこにあり、
見て悲しめり(※1)、魔王と人霊のその和合。

われを戯作者と見なすなかれ、
わが名と信用とをして
彼らの嘲笑を配(わか)たしむるなかれ、
わが見たるところはわれ自ら知る、真実(まこと)なりと。

われは王子の武人が人霊を囲まんとて、
隊伍堂々として来るを見たり。
われは諸将を見ぬ、喇叭(らっぱ)の鳴るを聴きぬ。
その軍勢の全地をおおい、
いかに勇ましく陣列を引けるかは、
わが生涯忘るあたわざるところ。

われは旗の風に翻るを見たり。
内に禍(わざわい)をなす者ともどもに
人霊を滅ぼさんとて、遠慮なく、
その源泉を枯らさんとするを見たり。

山は市に向かって突起しぬ。
投石器(いしなげ)はそこに据えられぬ。
石はわが耳をかすめて飛びぬ。
(心は怖れに捕えられぬ)
石は落ちていかに大いなる働きをなせるよ、
老いたる黒奴はその蔭もていかに人霊の
顔を覆いしよ、われは人霊の泣くを聴きぬ。
「わが死するその日は禍いなるかな」と。

われは破城槌(はじょうつい※2)を見ぬ、いかにその
耳門を砕くかを見ぬ。われは怖れぬ。
ただに耳門のみならず、人霊の市もまた、
破城槌もて砕かれんとするを。

われは戦いを見ぬ、諸将のさけぶを聴きぬ。
戦いごとに敵に向かう勇者(つわもの)を見ぬ。
傷つけられし者、殺されし者を見ぬ。
死して甦(よみがえ)らんとする者を見ぬ。

われは傷つきし者どもの叫ぶを聴きぬ。
(他の者どもは怖れを知らぬ人のごとく戦えり)
「殺せ!殺せ!」の叫び声はわが耳にあり
溝には血と涙と流れぬ。

諸将は常に戦えるにあらず、
日夜われを悩まさんとて、
「起ちて襲えよ、市(まち)を占領せしめよ」と叫びては、
われらを睡(ねむ)らしめず、臥(ふ)せざらしむ。

諸門の破れ開けし時われそこにあり。
人霊のいかに希望(のぞみ)を奪われしかを見ぬ。
諸将の市に進み来たるを見ぬ。
彼らはそこに戦っていかに敵を倒せしよ。

(※ 1原文はThen I was there, and did rejoice to see Diabolus and Mansoul so agree. とあり雲舟氏は当然「見て悦びぬ」と訳している。しかし前後関係から意味不明である。現代の編纂者は次の一文を加えている。In 1752, and even in Burder's edition, the line is strangely altered to-'Then I was there, and grieved for to see.そのため引用に当たっては「見て悲しめり」と訳し直した。※2ここは注釈者が注として'The battering rams' are the books of Holy Scriptureすなわち破城槌は「聖書」を指していると付け加えている。まさしく旧約聖書のエレミヤ23:29「わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。」に書かれていることばそのものである。)

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