2012年2月26日日曜日

ああ、何たる主の恵み!

「ヨナ、大魚の腹から吐き出される」 ギュスターヴ・ドレ絵
救いは主にある。(旧約聖書 ヨナ2:9)

 救いは神のみわざである。「罪過と罪とによって死んでいた」魂を生かし、その霊のいのちを守られるのは彼のみである。彼は「アルファであり、オメガ」であられる。「救いは主にある。」

 もし私が祈り深いなら、それは神が私を祈り深くされたのである。もし私に徳があるなら、それは神の賜物である。もし私が調和ある生活をしているなら、それは神がその御手で私を支えておられるからである。神が私を守るために先手を打たれるのであって、私はなんの努力もしたのでもない。私が持っているものはすべて、私の善いものはすべて、主からきたものである。私の犯す罪は私のものであるが、私のなす正しい行ないはことごとく主から来たものである。もし私が霊の敵を撃退したなら、主が私の腕を力づけられたからである。私が人々の前で聖い生活をいとなんだとすれば、それは私ではなく、私のうちに住まれるキリストである。

 私はきよめられているか。私をきよめたのは私自身ではなく、神の御霊が私をきよめられたのである。私は世的なものから離れているか。私は私のためにおもんぱかられる神のこらしめによって世から離されている。私は知識において成長したか。それは大教師が私を教えられたからである。

 私の宝石はすべての天の技術によってみがかれたものである。私に欠けているものは、すべて神の中にある。しかし私の中にあるものは罪とわざわいだけである。「彼こそはわが岩、わが救い」である。

 私は神の御言葉を食べて成長しているか。御言葉を私の魂の食物とし、私がそれを食べることができるようにしてくださるのは神である。私は天から降るマナによって生きているか。そのマナは受肉されたイエス・キリストであって、私はそのからだを食べ、その血を飲んでいるではないか。

 私は不断に新しい力を受けているか。その力はどこから来るか。私の助けは天の丘より来るのであり、イエスなしに私は何もすることができない。枝が幹につらなっていなければ実を結ぶことができないように、私も主につながっていなければ何もできないのである。

 ヨナが海底で学んだことを、今朝は私の密室において学びたい。それは「救いは主にある」ということである。

(『朝ごとに夕ごとに』スポルジョン著2月26日より引用)

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