2012年2月1日水曜日

The Holy War by John Bunyan

バンヤン作 聖戦 表紙(明治45年3月)
 明治から昭和まで生きた松本雲舟と言う方がいた。バンヤンの多くの作品の明治・大正期に活躍された訳者である。

  二週間ほど前、『聖戦』という本を古本市場で見出した。ほとんど色褪せていてその背表紙の文字は気をつけていないと思わず見過ごすところであった。この作品も実はバンヤンのものである。オースティン・スパークスがメッセージの中でその『聖戦』から引用していたように記憶しており、かねがね一度その本を手にしたいと思っていた。

 バンヤンの作品の『天路歴程』は一般にもよく知られており、古本市場でも時々目にすることはあるが、『聖戦』はそれほど有名でもなく、また捜そうにも手立てがなかった。その本が私が出かけて行った古本市場で、たくさんの本の間にひっそりと潜んでいるではないか。手に取ってみると、松本雲舟訳とあった。全く聞いたことのない訳者の名前であった。それはそのとおり、冒頭でも記したように一時代前の訳者であったからである。訳は文語体で綴られており、一見私には読みにくい文章に映った。しかし『聖戦』そのものを何としても読みたいという思いが私のうちに強く起こされ、その思いが結局勝った。それで思い切って購入することにした。

 家に帰って早速読み始めた。ところが、文体も何のその、全く気にならず、その訳者の筆力はぐいぐい私を魅了してほとんど三日ほどこの本の虜になってしまった。確かに文体は文語だがメリハリの利いた簡潔な訳文は時を越え、私をバンヤンの作品(1682年)へと確実に招き入れてくれたからである。

『聖 戦』とは、私たちの霊が主によって造られているはずなのに、悪魔の攻撃によって奴隷とされ、その悪魔から私たちの霊が再び主のもとに取りかえすために、まことの私たちの霊の主である王が苦心惨憺私たちの霊を取り戻してくださる、その戦いの叙述が延々と続く作品である。恐らく登場人物は何十人であろう。ちなみにどんな人物が登場するか紹介しておこう。

 我意氏、偏見氏、懐疑氏、万屋(よろずや)将軍、負嫌氏、邪思案(よこしましあん)、一文惜しみの百損氏、良知氏、克己将軍、求醒氏、涙眼氏、秘書官長、良心氏、信用将官、好望将官、博愛将官、無垢将官、忍耐将官と、ざっとこんな具合である。

  こういう一人一人が敵陣と味方に別れて戦うのである。戦争とは言え、この戦争は私たちの霊のうちに見られる恐ろしいまでの心中の戦いそのものを風刺した作品であり、それぞれは私たちの分身であることは言うまでもない。しかもその叙述は聖書全巻が偏ることなくベースとなっている。松本雲舟氏は煩を避けるために引用聖句は一切カットしているが、バンヤンの原文には一々聖書個所が根拠としてあげられている。その中で王(父なる神様)が王子イムマヌエル(イエス・キ リスト)を遣わし、霊の解放がいかになされていくかが、一つの頂点である。さらに悪魔の奪回の攻撃は激しく、そのためにこの王子イムマヌエルと魔王の戦いは黙示の戦いを予示した激しいものとなる。

 全部で19章の章立てとなっているが、最終章に近い内 容は17章「魔王なお一度軍を挙ぐ」、18章「悪疑氏疑惑者と共謀す」、19章「『わが来るまで堅く守れ』」という題名をとおしても、ある程度その内容は想像がつくというものである。訳者松本雲舟氏は読売新聞の「身の上相談」欄にかかわり、昭和女子大学の前身の女学校の創設者の一人であったことを付け加えておこう。この項はhttp://www.yomiuri.co.jp/komachi/news/rensai/20090414ok04.htm による。
 
 それにしてもこの表紙はとても100余年前のものとは思えない。また明治期最後の年に近く出版されたこの斬新なデザインは、これまた大正デモクラシーを目前に控えた夜明けの時代がなせるわざであったのであろうか。

悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(新約聖書 エペソ6:11〜12)

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