2012年2月8日水曜日

「不十分」と「十分」

何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。(新約聖書 2コリント3:5)

 不十分と「十分」——これらの二つの語は互いに補足し合うものであり、いっしょになって有効なクリスチャン生活の鍵を提供している。自分が全く無力であることを見出し、それを十分に確信することは、霊的な供給の不断の条件である。旧約のねらいは、人間の失敗を絶えず繰り返して示すことであり、新約のねらいは、キリストの十分さを示すことである。主は私たちのためにすべてを用意しておられる。しかし私たちは、私たちが何も持っていないことを知るまでは、それを受けることができない。

 それゆえ、クリスチャンの完全ということは、私たちの完全を絶えず否認することであり、キリストの義を絶え間なく受け入れることである。私たちが自分の無力と邪悪についてさらに深い見解を受け入れるようになると、それが、キリストの豊かな恵みをさらに要求するようにという呼びかけになるのである。

 しかし、私たちが、自分の不十分さを十分に知りながら、キリストの「すべて」をしっかり把握していないということもあり得ることである。このこともまた、すべてに達しないものは受け取らないという信仰をもってなされなければならない。

 預言者エリシャは、イスラエルの王が三回しか地面を打たなかったので怒ったのである。王はそれを、五回、六回とすべきであった。そうすれば、彼はすべてを得ていたことであろう。(※)

 それゆえ、キリストの偉大さと恵みを受けるための条件を満たそうではないか。

(『天国の日々』A.B.シンプソン著松代幸太郎訳いのちのことば社1980年版 2月8日の項から引用。※2列王記13:18〜19)

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