2012年2月6日月曜日

『聖戦』読者へより、その4

人霊は喇叭(らっぱ)の鳴るを聴けるのみならず、
その豪奢(おごり)の地に委するのを見ぬ。
さればいと大いなる熱心も戯談(たわむれ)に過ぎざる者や、
大いなる戦いの猛烈なる威嚇(おどし)も、
談判か言葉争いに終わる者と
人霊とを同視するなかれ。

人霊よ、その大いなる戦いは、
幸不幸の分かれ目にして世の終わりに至る。
さればその怖れの同一日に終始する者や、
いかに戦うも生命と手足を失うほか、
他の害を受けぬ者よりも、
人霊の懸念は一層大なり。(※1)
宇宙に住める者誰かは
これを告白し、この物語を語らざるべき。

人々をして星を凝視(みつめ)しめ、
あれ見よ、星には大胆なる
生き物住めりと、おもむろに、
彼らを説きつけ驚かす、
輩(やから)とわれを同視するなかれ。
物の道理を弁え、指の長さを知る人に、
星にはそれぞれの世界ありと、
首肯(うなづ)かしむるは斯かる輩の能ならじ。

あまりに長く門口に読者を留めぬ。
日光を離れて炬火(たいまつ)の下に留めぬ。
いざや進みて戸のうちに歩めよ。
珍しき物さまざま内にあり、
心の欲するまま幾度にてもそれを見よ。
卿(おんみ)が基督者にてあるならば、
それにて眼をば養えよ、
その見るところは小さからず、いとも大なり。

わが鍵なしに往くなかれ。
迷宮の中に忽ち途を失わん。
わが謎を解かんとせば、
わが牝牛の子をもて耕さんせば、真っ直ぐに向けよ。
そは窓の内にぞ横たわる、いざさらば。
われは次に卿(おんみ)らの葬(とむらい)の鐘を鳴らさんかな。

ジョン、バンヤン

(※ 1 ここの文章はこの物語の要諦と言える。イギリス人の編者は以下の文を補っている。The death of the body, or loss of a limb, is as nothing compared with the eternal loss of a neverーdying soul.時代も異なり全く別の著者の本に以下の一節があった。「この世に国民の死よりもいっそう悪いものがある。肉体の死よりもいっそう悪いものがある。それは罪と咎との中に沈んでいる人々の霊的な死である。人間の霊魂の状態は、エゼキエル書の幻の谷における骨のようなものであって、それは甚だ多く、 甚だ枯れている。そこには回復と生命に対する人間的な希望は絶無である。しかし神およびその甦りの生命の中に希望がある。」〈A.B.シンプソン『旧約における聖霊』281頁より〉ほぼ共通する考えでないか。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」〈新約聖書 ローマ8:1〜2〉誰かまことに霊の死せる己が姿に泣き、主イエスのもとに来らんか。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」〈マタイ11:28〉)

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